青空文庫アーカイブ
小熊秀雄全集-10
詩集(9)流民詩集2
小熊秀雄
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漂泊詩集
月は地上を見てゐる
月よ悪い犬奴
お前は光りで咆えよ
地上の喰べ物を欲しがつてゐる
でもお前には地上の愛は喰はせない
水蜜桃の汁は
おれたちが吸ふのだ
月よ
お前は地上の一切の出来事を
なにもかにも
光りのセロファン紙で
包まうとする
貧乏も、失恋も、饑餓も
たたかひも
すべてを美化しようとする
お前はだまつて
人間のすることを見てゐたらいゝ
勝負なしの土俵が
どこかにつくられてゐるかどうか
八百長の相撲などは
どこにもない
骨を砕いたり
血をながしたりする勝ち敗けを
お前の性急な日月の
軍配であげてはならない
ながい光りの眼で
冷静にじつと地上の戦ひをみてゐたらいゝ
若い薔薇へ
僕は歌ふのだ
心の中はメタンガスでいつぱいになつた
立派な発火点でふるへてゐる。
僕は歌ふのだ、あくまで、
日本的な貧困――
そんな伝統なんか守れない
僕はヨーロッパ化された貧困の底から
よつぴて河鹿のやうに
歌ひつゞけよう、
太陽は鞭のやうに。
光つて廻つてゐる、
高いところから僕の良心を射る。
夜は真黒い南京豆袋のやうだ
人々はその中へ疲労と倦怠とを
もちこんで前後不覚だ、
君は突然寝床の上に起きあがれ
そして何事かを考へてみよ。
君の見えないところに僕が坐つてゐるだらう。
地球が始まつてからながい
だが僕が見た地球は全く新しい、
青年が老いてゆく――
そんな馬鹿なことがあるものか
若い人よ、わが友よ、薔薇よ
石臼のやうな歯をもつた人よ、
ばりばりと歯を鳴らせ。
時よ・早く去れ
雑然とした音響の中で
弱い人々の心を
鉄の輪で引き緊めるやうな
硬い、遁れることの不可能な
人々の群れたざわめきと
合唱とを今日もきいた、
朝もなく、日没もなく、
時もなく、処もなく、
そして年齢もなく、子供達もなく、財産もなく、
どよめき高鳴る声は
鋼鉄の箱からひきだされた白い蒸気の帯
無反省な者達が
一人の人間を囲んで列をつくり
愛情のあるものは
人々の眼立たぬところでそつと見送つてゐる
古い幻影は我々のところから去つてゆく
濃厚な猟と火山の新しい幻影が
新しい世紀の実在として
いま出発するものを待つてゐる
子供達や、妻や、両親が
馳けだしても到底追ひつくこともできない遠いところに
親指ほどの鉄の管が
ヒューヒューと口笛をふき十文字に走りまはる
悪魔も窒息するほどの
動揺する空気の中で生活するために
男達は続々と出かけてゆく
地面の中に智恵は埋没され
理性は空にむかつて射ち出され
すべての樹は葉を閉ぢて毒を避け
家畜は野の一隅に身を避けてゐる
都市の建物の壁はもたれる者の
重い体を支へることができない
河水は水の色を変へ
一切の自然は人間の競技場として
適当な掩護物を除くほか
見透しの利くやうにしてしまつた
そこで何が行はれ
如何に楽しい食事が始まつたか
ナイフを加へると新しい血を滲ませるほど
高給なコックに依つて巧みな調理で
豊富な肉は処理されてゐる
そこには食卓の上に争ひもなく
平和以上の静けさで骨肉の軋轢もなく
食ふものと、喰はれるものとの
計画された配分通りに行はれる
ただ次ぎ次ぎと血と肉とナイフとは
運ばれてくる
魂をとろかす快感を求め
倦まず撓まず饗宴に向ふ列
招待者の発する招待状には
鋭利な石器を打ちちがへたマークが刷られて
その招待を拒むものは鈍器をもつて
撃たれるさうした悲しい運命をもつてゐる
時よ、早く去れ
時よ、前へ
ただ私はそれのみ夢の中に描く
すぎさつた時間は、呪ふ値打はあるが
すでにそれもない
後の時ではなく、前の時が
叫喚もなく、苦悩の声と、絶望の歌とを
美しい娘のやうな手をもつて拭ひ去るだらう
腐爛した土地を新しい時は
新しく抱きかゝへるだらう
本能的な醜い饗宴に向ふ列の
通り去つた後に
新しい母親は地球を抱くだらう
雌鶏が蛇を孵すためにではなく
平和を孵すために
たゞ信ぜよ、新しい時を
後の時ではなく
前の時を――
昔の闘士、今の泥酔漢
気持よく酔つぱらへ私の友よ、
酔つてそれほど楽しくなれるなら――、
匍《は》ひまわれ――苦しさうに
君がどんなに嘔吐《へど》を吐いて
夜のネオンサインの下を歩かうとも
百米とはアスファルトを汚せまいから、
思想が君にとりついてゐた時
君は巨人のやうに歩き
巨人のやうに議論したものであつた、
いまはまるで雑巾《ざうきん》のやうに
レインコートの裾で銀座裏を掃いてあるく
友達の顔に酒をぶつかけたらいゝ――、
げらげら笑ひ給へ、鼻水を吸ひあげろ、
鮨《すし》を頬ばつてカラミで泣け
あゝ、そしてガードの下を酔つぱらつて
曾つてのコンミニストが匍つてゆく、
私は君を悲しまない、
スペインの子供達が
看護卒遊びをやつてゐるとき
どんなに君が酒臭い呼吸を
私の顔に吹つかけようとも――、
君は自分の思想を、夜の暗黒に手渡した
昨夜も、今晩も、都会の舗道にぶつ倒れ
滅びてゆく地球を
いたはるやうに体で温めてゐる、
しかし君の体が全く冷えきつたとしても
地球が滅びるやうなことはないだらう。
星の光りのやうに
信じがたい程
暗い、暗い、空のもとに
我等は生活してゐる、
暗黒と名づけようか、
この夜の連続的なふかさを――、
だがこの空の星の
光りやうを君は見落してはいけない、
空が暗ければ
星は光るんだ、
われらの意志のやうな
微妙な強さで
この空のものと
地上のわれらと交驩しよう、
星と人との
よろこびあひに
立会ふものは誰もゐない、
だが星や人間は
そのことを知つてゐる、
人間の皮膚の色に
艶がでたり、色がさしたり
若さから老に移つてゆくやうに、
星もまた若さから
老いてゆくであらうことを、
ただ星はそのために
一瞬間でも
光るのを停めただらうか、
ああ、我々の若さから
闘ひの移りゆく一瞬間にも
われらはたたかひの
意志の光を停めていゝだらうか、
ゆるしがたいことは――
あらゆる地上のものを
汚辱することだ
行為の光芒を
さへぎるものはないだらう
若い自由な
意志の伝達を
地上にをいて
星の光りのやうにすばやく行はう。
腐つた葡萄
腸の腐つた男の
垂れながしのやうに長い小説は
こんこんと眠る病人の読者のために書かれ
雑誌に掲載される
そしてこの読者に与へる読物は
口からでなく眼から
この汚れた文章は注ぎこまれる
石炭酸をぶちかけても
到底死滅しさうもない菌だらけの
空想の充満された頭で
でつちあげた嘘だらけの物語
民衆へ過度の痙攣を与へるために
存在するところの、お前芸術家よ
お前の嘔吐をもつて糊づけされた著作物
不遜にも表紙には金の星をちりばめ刷られたりして
この罰当りの真理とはおよそ
縁のないところの不摂生な
気取つた淫蕩男の体験を
富豪との情事に置きかへて
ながながと書かれた物語
貧困の者たちの喧騒の中へ
いかにもこれらの貧しきものの味方づらして
のこのことでかけてゆく偽良心家
他人を圧殺することで
そのものの屍体の上に
自分の棺を乗りつけて勝利を叫ぶ
赤ん坊の快楽を表現した鬚だらけの大人
文壇の駈け廻り者
政治家が好きでソファーを賞める心情を
そつとかくしてテーブルスピーチをやる輩
他人の死ぬのを見にでかける
図々しい果の知らない無神経野郎
委嘱されて材料をとりに
嬉しがつて農村まで飛んでゆく
もつとも政策にかなつた使ひ走り文士
いまこそ諷刺と称する
雑巾でせつせとこ奴等のツラを
拭つてやる番がやつてきたのだ
古い腐つた脊髄をもつて
辛うじて作品の五体を突立てゝゐる
執念ぶかい命根性の汚ない奴に
いちばん太い針で注射をしてやれ
彼等を蘇生させるためでなく
不真実をすみやかに溶かすために刺すのだ
若い吾が友、青年たちよ
鉄の羊として育てられたものよ
君等の世界には青草がある
陽と月と二つの目は君等のものだ
しづかに回転する時の瞳孔
何ものをも見透す強い視線は君のものだ
悪霊よりも魔女よりも
もつと神通力を発揮して
腐つた葡萄が汚ならしい鈴のやうになつてゐる
古い文学の樹を枯らさう
心の城崩れるとき
けふ城壁は祭壇となつて
一夜にして鮮かな赤い絨毯は壁にかけられ
白い新しい造花は供へられた
重い鎖が強く空中に引かれたとき
こゝの容子が一度に変つたのだ、
叫びは去つた、平安な夜の歌が城壁の上からきこえてくる、
みおろせば涯《ママ》かに病める庭
点々として煙のたちあがる穴、
私はこゝから哀悼する
火星が救ひに来る日まで
かくしていたるところの城壁は崩れ
自由の路は荒廃した、
たゞ読経者の職業的な
声が遠くから聞えてきた、
こゝで悔なく人々は戦つた
戦ふことに依つてすべてが終るかのやうに
狂気と酩酊とで
太陽が乱視の光線を放ち
地を掃きまはつた
黒い影が壁に殺到し
一方の影が一方の影を壁の後につき落した
瞬間に行はれた遊びは
沈痛な歌をもつて始まり
鈍重な叫びをもつて終りをつげた、
さらに歌は始まり、
叫びはつづく、
次の壁にむかつて鉄は祈りの声をあげ
火と呪ひの眼をしばたたく
心の城崩れるとき
一時に天は明るくなり
地の明るさの中に引きこまれる。
夜の床の歌
われらの希望は微塵に打砕かれた
太陽、もうお前も信じられない、
月、お前は雲の間を軽忽に走り去る。
すべてのものは狂犬の唾液に
ひたされたパンを喰ふ、
胸騒ぎは静まらない、
強い酒のためにも酔はない、
あゝ、彼等は立派な歴史をつくるために
白い紙の上に朱をもつて乱暴に書きなぐる、
数千年後の物語りの中の
一人物として私は棺に押し込められる
私はしかしそこで眼をつぶることを拒む、
生きてゐても安眠ができない、
死んでも溶けることを欲しない、
人々は古い棺ではなく
新しい棺を選んで
はじめて安眠することができるだらう。
太陽と月は、煙にとりかこまれ
火が地平線で
赤い木の実のやうに跳ねた。
あゝ、夢は去らない、
びつしよりと汗ばみながら
いらいらとした眼で
前方を凝視する。
日本の夢と枕の詩
誰もお前を愛さないとは言はない
「日本よ」寝起きの悪い子供であるお前を
誰が突然ゆり起したのか、
父でもなく、母でもなく
お前自身の中の夢がお前の枕を蹴つた
そのためにお前は一日中不機嫌であつた
語れ、幼児よ、心の中の秘密を――、
卑屈でもなく、臆病でもなく、深い掘割や
流れを危なげもなく、進む、自信に満ちた、
小さな旅立ちの行手に、お前は何を発見したか、
それを語れ、何を失ひ、何を得たか、
何を得て、何を失つたか、
はじける声と、すゝり泣きと、重いうめきを
出発するお前の、背後に聞きはしなかつたか、
生長するものが犯す冒険や
未知の世界を探る冒険を
お前の両親はおそれはしないだらう、
たゞ旅立つことが突然で
お前の追ふものの正体が不明であることだ
その上、お前は少しも後を振返ることをしない
停まらぬローラースケートか、
火の靴を履かされたやうに駈け去つた、
がら/\と音をたてゝ道路の上を――、
シュッ、シュッと音をたてゝ川の中を――
父親は悔いてゐる
寝てゐる床にお前の心の中の黒い夢が
大きくなつてゐたことに気がつかなかつたことを
母親も悔いてゐる
どうしてもつとあの子の枕を
しつかりと押へておかなかつたかを――、
誰もお前を愛さないとは言はない
お前はとつぜん抱擁の時を
ふりきつて遠く旅立つたゞけだ。
雲は星を掩ひかくして
夜の街を真暗にしてしまつた
悪い夢に加担して月まで忠実に欠けた
たくさんの褐[#右下の部分は「蝎」の右下部と同形]色の梟が降りて街角に立つた
彼等は精一杯羽をひろげた、
息子よ、お前が旅立つた後の街の様子は
曾つての日の美しさを全く失つた、
風は季節、季節にやつてこなかつた、
そして警笛が花を散らした
あるゆる自然なことや
不自然なことが灰のやうに降つた
人間が荒廃するかのやうであつた
間もなく不安は去つていつた
だが息子は戻つて来ない、
すぐ明日にも元気で帰つてくる、
或はお前のかはりに「永遠」が帰つてくる
前のものはお前の生きた肉体で
後のものであつたら父親のものでも
母親のものでもない「自然」のものだ、
愛は過度の悲しみの中では溺れるばかりだから、
人々はいつまでも悲しむことをしないだらう、
苦い運命が国民に見守られてゐる
生命が人々の前を素早く横切ると
つゞいて黒い猫が電気より早く駈けぬける
時が生命の影を捉へようと
追ひかけてゐるかのやうに――、
歴史もなく、自由もなく
たゞ眠りと食事と
前へ歩るきだすことゝ
急に駈け出すことゝ
にぶく反響する音と、人間の叫びのみ、
破廉恥な叫喚によつて
暁の花は目ざめ
無気味な沈黙によつて
山は眠りに陥る
獣は爪の長いことゝ
牙の鋭いことを競ひ合ふために
夜となく昼となくこの辺りを彷徨する
息子をのせた黒い夢も彷徨する
人にむかつても、自然にむかつても、
また政治にむかつても等しくその黒い祈り、
灰色の歌によつて行手は満たされてゐる、
不用意に朝は明け放された
こゝに父親は坐つてゐる
そのとき息子は遠くを歩るいてゐる
母親は意味もききとれないことを呟いてゐる
やがて息子が元気に
帰つてくる日を想像してゐるのだらう、
歴史の附添人が
黒いマントを着た息子と一緒に
親達の戸口にやつてきた
そして附添人は去つてしまつた、
「あゝ、待つてゐた息子が帰つて来た――」
両親はさう叫んで抱擁した
だがマントの中には息子の体がなかつた
息子でなく、夢の枕も捨てゝきた、
しよんぼりと立つてゐるのは
黒いマントであつた、
平安と喜悦の一瞬間は風が運び去り
不安と悲哀とがいり《ママ》替りにやつてきた、
遠い運命を、あまりにまざまざと
人々の近くにそれを見た。
暗い恥知らずな運命
いつから泣くことを忘れたのか
恥知らずな運命が
いつも私の生活の巡りを
うろうろしてゐて
時折悪い犬のやうに
現はれては
私に噛みついて逃げていつてしまふ、
そのとき心から悲しみ泣いた、
だんだんと悪い運命と
こいつの廻しものを
憎むやうになつてから
私は悲しまなくなつてしまつた
いまでは素晴らしく
豪侈に憤ることを
楽しみにし始めた、
天井から飾燈《シヤンデリヤ》が音響たかく
硝子の破片を散らして
落るときのやうに
私は怒りたい、
それは美しい瞬間で
眼をうばふほどのものだ
暗い恥知らずの運命よ、
もうお前は私に
勝つことが出来ない
私は思想に
落下する重みを
加へることを知りだしたから
貧しいものの思想は
いつも長い悲しみを
短い瞬間の憤りで表現する
そしてそれを幾度も
根気よく繰り返す
馬車の出発の歌
仮りに暗黒が
永遠に地球をとらへてゐようとも
権利はいつも
目覚めてゐるだらう、
薔薇は暗の中で
まつくろに見えるだけだ、
もし陽がいつぺんに射したら
薔薇色であつたことを証明するだらう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといへるだらう、
私は暗黒を知つてゐるから
その向ふに明るみの
あることも信じてゐる
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるやうな努力にさへも
大きな意義をかんじてくれ
幾千の声は
くらがりの中で叫んでゐる
空気はふるへ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光りと勝利をひきだすことができる
徒らに薔薇の傍にあつて
沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎へるために
馬車を仕度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しさうに
わだちの歌を高く鳴らせ。
速度
常識的な柱時計の
歌のくりかへしに
唾をひつかけよう
いまも鳴つてゐる
十二の時が
あいつは何の反逆もない
ゼンマイをほどいてゐる許りだ、
心の時計は三千時を打つた
心の時計は巻いてゐるときに
ほどけてゐる
ほどけてゐる時に
巻けてゐる
眼にもとまらぬほど
早く時をうつてゐる
砂がつぶやいてゐるとき
水が咆えてゐるとき
人間はなにをしてゐるのか、
愛と憎しみのために
たたかつてゐる
現実の時間を
あるがままに流してをくな、
引綱をかけて君は引くのだ
新しい時間は君のものになるだらう
貧しいものの思想はこはれない
速度を早めよう
速度を早めよう
残つてゐる仕事は
それだけだ
女のすすり泣きの歌
日本の最後の女達、
最後の――、
おそらく、すべての最後の女達――、
古い道徳と、古い習慣とに、さやうなら、
古い夢からは何も引き出されない
新しい愛の敷物の上に
お眠りなさい
新しい夢をみるやうに――、
日本の女よ、
料理の芸術家よ、
台所のミケランゼロよ、
あなたは今日も
お勝手で玉葱を切つて
眼から涙を流したり
生活のことで、
愛のことで、子供のことで、
男達のことで、泣いてゐたり
ほんとうに貴女は忙がしい、
瞳はこんこんと湧く涙の泉
いつ停めるともしれない、すすり泣き、
日本の女の底しれぬ、優しさのために
すべての男は茫然としてしまひます。
夕闇の中でいつまでも
悲しんでゐるな、
お化粧と、家庭欄はもう沢山です、
一億打のハンカチを
ぬらすのをおよしなさい、
男にむかつて
男の生活を煽り馳り立て
愛情を牽制し、
ただそのことだけで
一日を無駄にすごすことはつまらない、
私はあなたに新しいハンカチを贈りませう、
それで生活の苦しみと
愛の不安と、焦燥と
運命への犠牲とを拭つて下さい、
最後の一打のハンカチをもつて
最後のすすり泣きを奨めます、
もう新しい時代は
化粧崩れを極度に怖れることが美しくない、
生活のたたかひに加はつて下さい、
優しい生活の女拳闘家になつて下さい、
そして時には
男の鼻柱へグワンと
喰はしてみるものです、
口が裂けてしまつた
トンボは羽を押へられれば
動けないし
人間は口をふさがれれば
くるしいのだ、
わたしはさうして苦しんでゐる
サーチライトの
光りの中で
私の心も肉体も
あいつらの弾を存分に浴びた
私の口は裂けてしまつた
私の口はもう人間の口の
大きさを越えた。
天と地とを併呑する
自然の大きさに裂けてしまつた
悪魔の口をふさぐ神はゐない
歌ふ口をふさぐほど
大きな手は何処にもない
私が歌つてゐるのではない
自然が歌つてゐるのだ、
私が歌つてゐるのではない
君等が私に歌はしてゐるのだ
そして地球の上を歩るいてゐるのではない
わたしが玉乗りのやうに
地球をまはしてゐる
危険な曲芸団に
身を投じてゐる
あゝ、ぐでんぐでんに酔つぱらへ
私の言葉よ
鶏卵遊び
詩人は公然と語る喜びをもつ
その喜びをわかつために歌ふ、
青褪めた顔を
布切れにくるんで
様子ぶつた日本人が歩いてゐるのは
私にとつては滑稽に見えるだけだ、
市民は忙がしいので
スタイリストになるひまがない
文士ばかりがシャラしやらと
平凡なことを難しさうに
言ふためにどこかに向つて歩いてゆく、
長々しい小説そんなものを読む義務を
押しつけるのはファシストのやることだ、
真理は君の小説の何処にあるのだ、
手探りで書いた小説を
眼あきに読ませようとしてゐる
なんと愚劣な形式の長さよ、
私は小説を読む位なら
鶏卵を転がして遊んでゐたほうが
はるかに楽しく真理を教へられる。
風の中へ歌をおくる
君にして私のやうに
御用詩人となる
用意ありやなしや、
明日バラの花が
パッと咲いたら
バラの精となつて歌ひ得るや否や
今日私は太陽の御用詩人として、
主として黒点に就いて歌つてゐる、
太陽の黒点で
地球は冷えきつた厳寒《マロオズ》よ、
そこで私は防寒外套を着こんで立つ
声かぎり熱い声で歌をうたふ、
私は革命の御用詩人だ、
詩の一兵卒だ、
わたしは凍えた精神への
ささげ銃をしてゐない、
燃える精神の挙手をしてゐる、
司令官よ、
私の歌を閲兵しろ、
野の風の中に
私のソプラノは高く、
とほくに去つてゆく、
よし運命の追風が
私の歌をちりぢりに
うちけしてしまつたとしても
自然の風の中へ
歌をおくつた喜びがある、
私がいま机の角を指で
トンとうつたことが
君の心臓の一角をトンとうつたやうに、
私の歌は流れ流れていつかは
味方と敵との鼓膜を
うつことを私は確信する
暁の牝鶏
なんといふ素晴らしい
沈鬱な暗い夜明けだらう、
これでいゝのだ
暁はかならず
あかく美しいとはかぎらない
馬鹿な奴等は、まだ寝てゐるだらう、
りかうな奴等も寝てゐるだらう、
どつちもよく寝てゐるだらう、
ただ我々だけが、
誰にも頼まれもしないのに
夜つぴて眼をあけて
くるしんでゐるのだ、
可哀さうだとは思はないか、
歴史の発展の途上に、
眠れない男たちを。
――可哀さうだと思はない、
それは御随意だ、
おお、鶏どもよ、
お前ももう起きたのか、
羽虫を羽からほふり落して、
早く歩きまはり
コツコツと足を鳴らして
暁から活動し給へ、
塔を守る鐘楼守のやうに
牝鶏をかばふ雄鶏のやうに
愛するもののためには
献身と、奉仕が美しい
わたしの鐘楼守よ、
塔をとりかへておくれ
塔よ、塔よ、塔よ、
わたしの愛する牝鶏よ、
巣をとりかへておくれ、
セトモノの卵を、いつまでも温めてゐるのか、
セトの卵は永遠に孵らない、
めんどりよ、
君は自分の腹を
新しく痛めるのだ。
私と風との道づれの歌
強い風は山へ真正面にぶつかつた
風は数千万の草笛をふいた、
騒いだ、草むらの
草笛たち草たち
そして風は谷間を迂廻していつた
依然として花をふるはせ
草笛を鳴らしながら、
無数の谷間をとほり
いま風とたたかつてゐる、
そしてそれらのさまざまの
谿谷をとほつて
その谷の放射状に集る海のところで
風は高く激しく再び鳴りだすだらう、
やさしい一羽の小鳥のために
私は精根を傾けつくして
小さな微妙な胸毛の
ふるへにも耳傾けよう、
可憐な一片の花弁のみぶるひにも
私は眼を大きく見張らう、
一枚の葉の失望的なふるへにも
私はともに苦しむのだ、
立て、野のものぐさの牛よ、
意志的な額を突んだして
前足で、石をガリガリ掻き始めよ、
雲雀は空に歌ひあがれ、
蛇よ、とぐろをほどいて攻勢にでろ、
蝶よ、海を渡たれ
あゝ、私はお前が、海に落ちたら
葬つてあげよう、
野から谷から人間の住むところまで
やつてきた風を、私は迎へる、
私の熱した頭は
お前の風のくちづけで一層熱くなる、
凍えてしまつた頭をもつた人々を
熱した風よ、
お前の愛でとかしてくれ、
人々は高い声をだし始めるだらう
非常にはげしい声をだし始めよ、
とほくからきた風よ、
お前が谷を駈けぬけるとき
パイプオルガンのやうに壮厳に
真実の歌をうたつた
人間の意志の強さを合奏した、
私はどのやうに屈折の
ある谷であらうとも
最後の海へ出るところまで
はげしいお前の風の
道連れになるだらう。
窓と犬のために歌ふ
精神の硬化から
開放されよ、
わが友達は
良き朝夕のために
窓をひらいて
歌をうたへ
悲しいことは沢山ある、
あんなに人生の闘ひに
勇敢であつた友が
剽盗に成り下つたり、
泡盛をのんで
壁に頭をぶつつけてゐたり、
アクロバチックダンスのやうに
身をもだえて
苦しさうな小説を書いてゐたり、
でも人生とは
そんなリアリズムではない筈だ、
愛とは野火のやうに
どこまで延焼的なものではなかつたか
たよりない、暗黒な悲哀の
日常に
私にはどこにも
もたれかゝるものがないのに
しきりに人々は
もたれかゝらうとしてゐるのだ、
もう立つてゐることが
できないのか
可哀さうだよ、
休息をしたいのか、
地面に倒れるだけが
お前にとつて休息だと
いふことを知らないのか、
私は私の窓と
お前の犬とのために
かうして歌をうたつてゐるのだ、
私の窓はひらかれた
痲痺剤の容器のやうに、
お前の頭はだんだんと
うなだれてゆくのを
私は見るに堪へないから
私は歌ふのだ。
銀座
夜の街よ、
ネオンサインよ、
淫猥なばかりで
さつぱりお前は美しくない
都会の共同便所よ、
立派な建て方だ
掘割の水の上を油が辷つて流れてゆく
他人様の妻君の美しさよ、
眼にうつるもの
ひとつとして私を感心させない
銀座一丁目から新橋まで――、
銀座は地獄に筒抜けで
華かさの尽きたところが真暗だ、
哀れな市民よ、
なんべん此処を往復しようとするのか。
日本の憂愁《トスカ》
友よ、出かけよう
何処へか、街にさまよひに
勉強づらをして図書館へ
あるひは林へ
樹の下で呪ひに
病苦のためには鶏卵を買ひに
思想のためには本を買ひに
さあ出歩るかう
さあ出歩るかう
感謝すべきものが
どこかの街の片隅に
落つこちてゐるかも知れないよ
足で蹴つたチャリンといふ
金属の音で
君の神経を目覚めさせよ
よし下駄の金具を
蹴つとばしたとしても
パンを買ふかコオヒイを
のむ金をその音で想ひ出せよ
拾へよ、何でも
奪へよ、なんでも
吐けよ、血痰を
呑みこめ、苦汁を
あゝ、我等の日本は
いまエメラルドグリーンの
憂鬱な色の中にひたつてゐる
立てよ
私の膝小僧
お前の膝小僧
イザリに活を入れるために
我等の背後に
現実が廻つた
トンと腰のあたりを
そいつが蹴つてくれたのに
をどろくばかりで
立ちあがらない
さあ出歩るかう
さあ出歩るかう
日本の憂愁のために
想ひ、悩み、苦しむ
友はうぢやうぢやと
街を歩いてゐる
忙しさうにしてゐて
それは何事のためにか
悲しさうにしてゐて
それは何事のためにか
生活とは
民衆とは
いつたい何なのだ
もつとも日本人位
つまらなさうな顔を
してゐる人種がないのに
一層トスカは
日本人の額をつまらなくしてゐる
誰が我等の
性格、表情を噛み殺したか
前世紀の龍のために
すべての民衆は
ホールドアップだ
そして恐怖は
生活をまつ蒼にする
深い溜息のために
長い行列のために
民衆が覚えたものは
泣くことの技術である
たゞ労働するものゝ
胴の中の太いベルトが
笑ふ力を失つてゐないだけだ
ほつゝけ歩るけ
運命の靴を減らしに
街の中を
哀れな小市民は郊外にゆけ
思ひ出したやうに
突然桜は咲いて
春を告げるだらう
そして痩せ我慢のこの花は
ものゝ三日も美しくない
運命
あゝ、運命といふものがお可笑しな
歌うたひと一緒に
こゝまで連れだつてきた、
運命よ、お前に感謝しよう
私はお前を色々の立場から歌つてきた
色々の角度から可愛がつたり
憎んだりしてきた
甘やかされた生活に
呪はしい火の粉をふりかけられたとき
私はどんなにお前を憎んだらう
でも、今はお前のことを恨んではゐない
祈祷[*「祷」はしめすへんに壽]することをすつかり忘れた僧侶のやうに
私は最大にグウタラになつて
悪魔を味方につけて
運命よ、お前を私の墓の中にまで
引きづりこんでやらうと思ふ、
死ぬことを決して怖れはしないが
自殺をするために
体をうごかす努力を払ふなら
生きるために動かす方が努力が少いのだ
ものうい、にくらしい一日よ、
まるで頭に鉄の鉢巻をしてゐるやうに
階級のことを忘れることができなくて頭が痛む
なんてヤクザな運命を
どこまで持ち運んでゆかうとするのか
茜色のソファーのやうな雲が
空を走つてゆくのをぼんやりと眺め
私もあの雲にゆつくりと腰を下ろして
愛する国への飛行を夢みたり
とりとめもない歌うたひにかゝつては
私の運命はさまざまに
可愛がられたり憎まれたりするばかりだ。
政治は私の恋人であつた
あんなに政治を可愛がつたのに
みんなはこんなに邪剣にしてゐる
私はいまもそのことで夜更けまで考へてゐる
私はたつた一言でも
人生を肯くことができるのは
みな政治の訓練が私をさうした、
すべての友は政治に損はれ
捨てた女を憎むやうに
彼女を憎んでゐるだけで
現実の上には何んの愛も語らない
さうだ、彼女は私達を
どんなに宇《ママ》頂天に嬉しがらせ
どんなに絶望に叩きこんだらう
そのことゝ現実とはかゝはりがあらう
いまとなつては私にとつて永遠の恋人よ
あの時我々はそつとさゝやくことをしなかつた、
公然と自由を叫び地団駄した
いまはさうした恋の打開け方を
する相手もゐない悲しみのために
心の中は苦しい砂でいつぱいで
苦い汁を毎朝口から
流しこんで生きてゐる、
だが感謝すべきものを私だけは忘れない
弱虫であつた私を
こんなに鍛へてくれたのは
政治よ、私はお前だと思つてゐる
お前と激しく恋をしたのだ、
いまでは私はお前にとつても
永遠に忘れることのできない
現実のものとして私はお前に失恋して
こんなに積極的に人生を
肯定するやうになつてきたのだ。
白い夜
妹よ、まだお前は知つてゐるかい
樺太の冬の夜のことを
青白い光が街を照してゐた夜のことを、
お前は、とつぜんむつくりと起きあがつた、
そして寝床の上に坐つた、
私や父や母の顔を
暫らくは凝然とみつめてゐた
母は私に言つた
――あゝまた始まつたよ、
寝呆気てゐるのだよ、
お前、どこまで歩いてゆくか
後を尾けて行つてごらん
その時私は電燈の明るい光りの下で
少年世界を熱心に読んでゐた、
私は雑誌を畳の上に伏せた、
それから母に言ひつけられたやうに
妹よ、お前の夢遊病を尾けて行つた、
戸外は昼のやうに明るかつた、
どこにも月がでてゐなかつた
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のやうな光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしてゐた
路は凍り、妹は下駄の音を
カラコロと陽気に立てながら
私の知らない
幸福なところへでも案内するやうに
私の先に立つて歩いて行つた、
街はひつそりと静まつてゐた、
ぽかんと開かれた妹の眼は
虚洞《うつろ》のやうに
何処かの一点を凝視し
足は全く反射的に交互に運びだされ
すこしも後をふりかへるといふことをしない
郵便局のある街角まできたとき
私はかなしみがこみあげてきた
私はもうたまらなくなつて
――どうしたの
眼を覚まさないの、
とはげしく妹の肩をどやしつけてやると
妹は、ハッと我にかへつて
――まあ、いやだわ
と私の体にひしとしがみついた
妹は自分の周囲を見まはし
一度にそこに立つてゐる
自分と羞恥とを感じたのだらう
――おゝ寒い、寒い、
二人はかう言ひながら
たがひに手をとりあつて
どんどん韋駄天走りに家にかへつた
母親は不気嫌であつた、
そして父親は笑つてゐた、
妹よ、
あの白い夜のことを覚えてゐるかい、
あの時、少女であつたお前は
今はもう三人の子の母親になつた、
きのふ私が金を借りにいつたら、
お前は瞬間しぶい顔をしたが、
金を借してしまふと
もとのなつかしい顔にかへつた
私が玄関で靴を履いてゐると
お前は傍に坐つて
いかにも改まつたやうな口調でかういつた
――兄さん
どうして貴方は
社会主義者になどなつたのよ、
わたし、何にも訳がわからないから
廃せとは言はないけれど――
あんまり、警察なんかにいつて
体をこはさないやうにしてね、
私はフッと笑ひながら
――どうしてなつたのかな
と空うそぶいた、
弟は戸棚から菓子を出してきて
紙に包んで手渡した、
弟よ、お前は私の歳が
いくつだか知つてゐるかい
妹よ、お前はまだ
白い夜にたがひに手をとつて
駈けだして帰つたころの
小さな兄妹のやうに思つてゐるのだらう
心配するな妹よ、
お前は社会主義の
『社』の字も知らなくても
お前はしあはせに
亭主に仕へて子供を育てゝゐたらいゝ
お前は何時までも
寒い白い夜のことを忘れてくれるな。
悲しみの袋
わたしは一人で
歌つてゐるのではない
合唱してゐるのだ
そして私は、君の眼からは
勇敢に見えるのだ、
君はたんと誤解したまへ
私は誤解されるために
詩を書いてゐる
君が現実を誤解するのは
合理的だし上手なんだから
私が歌ふと
木霊がかへつてくるよ
だから私は淋しがらない
君の悲鳴は
自分のところへ
もどつてきた例しがない
君は悲しみの入つた
立派な袋だよ
悲しみのある間はいいさ
だしきつたら
袋は強い足に踏みつけられるだらう
私の口はたたかつてゐる
帆が風にたたかつてゐるやうに
波と風との速度の早さに
窒息しさうだ
船は音高くきしる
それが私の悲鳴なのだ
高い――悲鳴、それこそ君の耳に
勇敢に聞えるところの私の歌だ、
私の眼からは戦ふことも知らないで
流れ去つてゆく
君の方がはるかに勇敢に見える。
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愛情詩集
痲痺から醒めよう
私を可哀さうだと
思つてくれるのか、
そして抱擁してくれるのか、
いゝ理解と、かわいゝ愛よ、
政治をうしなつた青年の
血みどろの焦燥を
慰さめてくれる貴女たちの愛よ、
女達は男の苦しみを
愛で埋めようとしてゐる、
文学の政治性に酔つてゐた日が去つた
文学のモルヒネ患者は
そろそろ薬が切れかけて
し《ママ》つきりなしに、号泣と、倦怠と
空白と、痲痺と、あくびの連続、
わたしは知つてゐる、
適宜に対手の棍棒が
痲痺を与へる程度の打撃を
我々の後頭部に
加へられてゐるといふことを、
さあ、早く醒めなければならない、
早く政治がなくても
淋しがらない文学の子となつたらいゝ、
非戦闘部員は政治から放逐された、
そして女の愛を激しく求めてゆく、
愛はまた新しい痲痺状態を与へ始める、
思ひあがつた文学者の
政治の愛の毒よりも、
女の真実の愛ははるかに楽しい、
しかしこゝにもまた怖ろしい
よろめきがある。
汽車と踏切番
動揺と苦しみの
愛の路ははてもない。
漂泊《さまよ》ひだした貴女と私、
どうぞ、寂寥のために
物怖ぢのために――、
私に寄り添はず
胸の中にも抱かれずに
茫然としたくるしみの中で
はつきりと愛の行路を
発見して行かう。
さあ、疲れたら塩気のあるものを
また糖分をなめたり喰べたりして
獣のやうにではなく
人間のやうに
愛の路をすゝんでゆかう、
あなたの行く路は幸福に通ずる鉄の路です、
あなたが汽車になってゆくとき
わたしは踏切番になり、
あなたが今度は踏切番になつたとき
わたしが汽車になつてゆく、
ふたりが愛の乗客になつて
酔つてしまつたら、激しい生活の流れを
さへぎることをしなかつたら
きつと二人の生活は転覆するでせう。
愛はとかく通りすぎるものです、
時間も無視して酔ふものです、
一方が、一方をかならず守るものが必要です
怪我のないやうに目的地に着くやう
汽車になつたり踏切番になつたりしてゆかう。
昂[*底本は下左の部分が「工」の俗字を使用]然たる愛にしよう
心がうなだれたとき
わたしはあなたを抱へ起した
わたしの心がうなだれたとき
あなたはわたしの顔を支へた、
なんて愛とは
うなだれ勝になるものか、
支へがたいものは貴女の可憐な
肉体のなかにある女の純情だ、
跳ねかへる弾機《ばね》は
わたしの四肢の中にある男の意志だ、
冷静にならう、
愛は大きな事業だから、
笑つて語らう、
愛がうなだれて個人的な酔ひとして
芝生の上に眠つてしまつたとき
社会的な隷属の蜘蛛のあみが
するすると二人の上にをりてくる
本能とたたかふ
理智の剣で
パッと網を跳ねあげたらいゝ、
決して教養は
愛に冷酷なものでない、
それは愛を暖めるものだ、
うなだれ勝な愛を
昂然たるものにしよう、
貧乏人の理智と教養とをもつて、
かつて築かなかつた幸福
浄化された慾望は
どんなに若者たちの愛を清潔にするだらう、
人間としてほゝゑましい微笑を
投げかけあつて生活したらいゝ
新しいあなたの愛情に
古い報い方をしないやうに
新しい精神をささげよう。
女を見飽きたり、知り飽きたりしたと
臆面もなく言ふ男が多いのに
私は驚いた、
うつくしさの再吟味を
理論でやつてから
改めて女の美しさを発見しようとする
気の長い男達が少くないのだ。
そのうちに老齢がやつてくる
若いものの逢引に
シッシッと唾をかけたり
水をさしたりする可哀さうな
ひがみ屋になるだらう。
私は若さに答へよう――、
愛に速度を加へつつ
肉体的にもつれる暇を
生活のたたかひにもつて行きたい、
人々が曾つて築かなかつた
精神の濃度な
精神の物質化――の世界に
あなたと愛の生活を昂めようとする、
愛の冒険のさなかにあつて、
二つの性の冒険をなしとげつつ、
生活の伴侶として
ひとつの結合にむかふ。
弱い愛に負けてゐる
強いものと闘ふ私は
ただ専心に熱中すればいゝ、
なんの技術を用ゐる余地があらう、
弱いものに
真実を語ることが
いかに苦しいことであるか、
君はそれを知つてゐるか、
説きがたい愛を説かうとするとき、
私はどんな態度に出なければならぬか、
私は相手の弱さを
強くひきあげなければならないから
私はほんとうに汗みどろになるのだ、
私は弱い相手には
時間――といふ唯一の救済者の
力を借りるより方法がない
時間がすべてを解決し
すべてを正しい位置につかせてくれる、
不自然も、矛盾も、技巧も、嘘も、
泥酔、歌、儀礼、謙譲も、
愛に不用なこれらのものも
いまは一切入用な時だ
強いものには技術がいらない、
弱いものには説かなければならない、
無事に夜よ、去つてゆけ、
愛の説明の時間よ、
苦痛の時間よ、
私の強い愛が、
あなたの弱い愛に負けてゐる。
さういふ自然さは美しい
健康な胸でしつかりと
生活をまもつてゐる貴女
働いてゐる女の鼓動の整調さがきこえる、
どんなに本能的に私の胸の中で
身ぶるひしてゐるときでも
動物的な心臓の鼓動の昂まりから
人間的な静まりにかへつてゆく、
顔見合せて吐息をつく
あゝ、無事で何の過失も起きなかつた――、
なにが無事で、
どんな過失をのがれたのか
ふたりの前を流れてゐる河は
逆流しなかつたことだ、
太陽は自然の正しい位置に
冷静にほゝゑんでゐる、
たがひに冷静であつたことを感謝した、
私は肉体的に貴女を愛することで
あなたから生活をうばふ権利を
誰からも与へられてゐない、
肉体的であるといふことを
私は少しも怖れてはゐない、
ただ求めないものを
与へないだけだ、
さういう自然さは美しい。
愛と訓練
貴女達の強い性格を
私は好ましくながめる、
あなたは生活を愛し、職業を軽蔑しない、
生産者だから
私は大きな感情で
あなた達を愛することができる、
愛はすべてを単純化したがる
復《ママ》雑のまゝでをかなければ
ならないものまでも――、
だから愛することは
辛く、怖ろしく、
たがひに社会意識を失ふことが
ないかどうかを吟味し、吟味しながら
手がたく愛し合はうとする、
それも又新しい型の階級の本能だらう、
愛の恍惚は生活を忘却してしまふ、
それをぐんと堪へ得るもののみが、
新しい恋愛のできる資格者だ、
はたらく女達よ、
美しい惨忍性をもつてゐる、
それは訓練された主観だらう。
底本:「新版・小熊秀雄全集第4巻」創樹社
1991(平成3)年4月10日第1刷
入力:浜野智
校正:八巻美恵
1998年9月8日公開
1999年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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