青空文庫アーカイブ
小熊秀雄全集-7
詩集(6)長篇詩集
小熊秀雄
-----------------------------------------------------------------
[表記について]
●ルビは「《ルビ》」の形式で処理した。
●ルビのない熟語(漢字)にルビのある熟語(漢字)が続く場合は、「|」の区切り線を入れた。
●二倍の踊り字(くの字形の繰り返し記号)は「/\」「/゛\」で代用した。
●[#]は、入力者注を示す。
-----------------------------------------------------------------
●目次
紙幣
シャリアピン
長長秋夜
魔女
きのふは嵐けふは晴天(抒情詩劇)
託児所をつくれ
諷刺大学生
紙幣
紙幣よ、
貴様のためにこの私の詩人が
歌ふのを光栄と思へ、
だが貴様はいふだらう、
――何を生意気な貧乏詩人め、
イノシシとは一体
十円札か百円札か知つてゐるか
さういはれてみると一寸胴忘れした
然しそんなことが何の恥辱だらう、
紙幣の図柄をゆつくり
見て居る暇もない程に
貴様はいつも私の右から入つて左へ抜ける
まるで駈足だ。
もし私がブルジョアならば、
お前にもつと親切だらう、
図柄もとつくり見ようし、
一枚一枚アイロンをかけて皺をのばさう、
お前は時代の寵児
お前は向ふところ敵なしだ、
札束で頬ぺたを殴られると
いかに謹厳なる将軍も
莞爾と笑ふ
そして将軍らしく胸を張つて
おもむろに鬚をひねつて
札に向つて言ふ
――うむ、うむ、御苦労じやつたのう、
何が御苦労だ、
凱旋兵か、帰還兵か、斥候かを
迎へるやうに気嫌がよい、
出て行つたものは帰つてくるのが、
当然だといふ態度だ、
あゝ、だが私の詩人のところから
とびだした紙幣の斥候兵は
ただの一度だつて帰つてきたためしがない、
将軍が札束を前にして
やにさがつてゐる間に
戦況は刻々と変化し逆転してゐる、
夫人はデパートの電話をかける
すると自動車が玄関に現はれ
中から飛び出したものは
価格一千円の銀狐だ
夫人は狐を首に巻いて
姿見に立つてみると
狐の顔はにこやかに笑つてゐるやうに見える、
だが事実は反対なのだ、
狐の表情は笑つてゐるのではない、
夫人は狐の硝子製の一見生きたやうに
見える死んでゐる眼を怖れなかつた、
だが狐は夫人の胸元を
爪をもつて蹴りあげながら
――うらめしい
うらめしい
鉄砲がうらめしい、
猟師[#「漁師」に「旧帝制時代の廷臣。官僚」の注釈つき]は妻の毛皮の襟巻のために
イノシシの図案のついた札を数へて渡した、
一匹の生きた豚が
紙のイノシシを払つて
一匹の死んだ狐を買つた
紙幣は獣類の世界では
このやうに有効に使はれ
真実の貧しい人間の世界には
てんで廻つてこないのだ、
生きた人間よ、貧しい友よ、
紙幣が紙だといふことを
もつととつくり考へて見る必要があらう、
一枚の紙へはノミノスクネやイノシシが刷られ
一枚の紙は彼女が売娼窟で
貞操を売つた後を*[#「*」は伏せ字]ふのだ――、
一枚のイノシシは優に十人の
娘の貞操を買ふことができる、
一枚のイノシシは優に一人の
人間を醜悪化したり罪人化したり、
君が若し無智で貪慾な夫婦の家の
天窓から一枚の百円札を投りこみ
ぢつと物影から観察してみ給へ、
老婆は一枚の札を手にして
部屋中を駈け廻るだらう、
枕の下に紙幣を敷いて寝たかと思ふと
むつくりと飛び起きる、
――首と一緒に札を盗まれる、
彼[#「彼」に「ママ」の注記]は強盗が怖いのだ、
天井裏へ入れてみたり出してみたり、
茶筒に入れれば聟にみつかり、
針箱に入れれば嫁にみつかる、
チャブ台の裏側へ
糊で貼りつければはがれなくなり
水張りすれば乾いてをちる、
いつそ天井に張つて
その下へ寝床を敷いて仰向いて寝ずの番
十二時を廻ればうとうと
三時をすぎれば眠くなく
目をつぶればねむつた証拠、
目をひらいてゐて
心が眠る工夫はないか、
どこの小穴から泥棒が
覗いてゐぬともかぎらない、
二日三晩婆さんはカッと大きな眼を
みひらいて天井をみたきり眠らない
嫁が不思議に思つて婆さんの顔をのぞいた、
――まあ、まあ、どうしたのです
上まぶたと、下まぶたとに
マッチの棒で
突つかい棒をしたりしてお婆さん、
――いや、何、構はんで下され
としをとると
眼にも杖がいりますぢや
と婆さんはごまかした、
この紙幣をかくす工夫もばれたから次の工夫
進退極まつた窮余の一策
まずこれならば大丈夫、
札を細くくるくる巻いて肛門へ!
札も身のうちになれば眠るだらう、
夜中にお婆さんは夢うつつに
カワヤに入つてハッと思つた、
――さあ、大変じや、
皆んなきてくれや札を落した、
夜があけたら
早う、おわい屋を呼んでこい
金銭に就いての醜悪さは
まあ、ざつとかいてもこんなもの
突つこんで描写してゐたら、
謹厳な読者に顔をそむかせよう、
手押車に紙幣束を
うづ高く積んだのを
ゴロゴロと銀行の窓口から
大金庫の中へはこぶ
運ぶ男はよぼよぼの老人で
この男は五十年来この単調な
仕事を繰り返してきた、
五十年来依然として小使で、
五十年来依然として忠実だ
お爺さんは銀行に勤めてゐるといふことに
なんの優越感ももつてゐないのに
近所合壁の住人共がうらやましがつてゐる
――とんでもないこと、
銀行に勤めてゐても
何ひとつ良いことはないだ、
まあ、良いことと言つたら
月々貰ふ給料の札を
折目のつかない新しいのを
貰ふ位のものでさあ、――
近所のものが紙幣の中に
埋もつて生活してゐる老小使の幸福を
うらやむと彼は決つて斯う答へるのだ、
爺にとつては銀行の中は
五十年来不思議な世界に見えてきた、
――明日は旦那さまが
銀行に御座らつしやるのだ、
爺はかう呟やきながら
みあげるやうに高い銀行の大円柱の下を
くるくる舞ひをしながら
床や大理石の汚れを汗みどろで拭いてゐる、
旦那さまとは老小使爺の旦那さまであり、
銀行員全部の旦那さまであり、
私の詩人の旦那さまであり、
あるひは読者諸君の旦那さまでもあるらしい、
すべての労働の与へ手であり、
数万人の売娼婦の養ひ手であり、
紙幣の図案の中から
ぬけだしてきたやうな恰幅のよい、
つまりイノシシの進化した形の
人であるらしい
将軍や政治家も
一目をいてゐるこの人のために
大衆の旦那さまと呼ぶことは
決して誤つてゐないだらう、
爺が明日銀行にやつてくる
重役よりももつと偉いこの人のために
如何に熱誠をもつて汚れた
石の階段を力をこめて
拭いたかを読者は想像してほしい、
退けの時間がきた
銀行の玄関の蛇腹はいつたん降りた、
だが今日は銀行員は帰られない、
再び鉄の蛇腹はガラガラ
音たてて巻き上つた、
夕暮の街には一斉に灯はともり
ネオンサインの五彩の色も輝きを増すころ、
時ならぬ銀行のどよめきと
シャンデリアの明るさに
通行人は何事が起つたかと
銀行の前に集つてくる、
――また五・一五の二の舞でも始まつたんですか、
――共産党の銀行ギャングでも
どうもさうでもないらしい
――全員集まれ、
カン高い声がすると銀行員達は
ぞろぞろと列をつくつて奥から出てくる、
大玄関に学生のやうに
ずらりと整列する、
――今日は彼女と活動の約束をしてゐたのに
――勤務以外のこんなことは嫌だね
とぶつぶつ銀行員達は不平をいつてゐる
重役が現れてきて
自動車運転手に向つていふ
――つまり、
旦那さまは
かういふ風な形に
此処で車を
おつけになることを
お好みになつてゐます
諸君、それから運転手
ぼんやりしてゐるな判つたかッ、
そこで予行演習が始まる、
自動車は重役をのせて半町程走り、
銀行の前に引返してくる、
重役は旦那さまのつもり
その車は、旦那の自家用の車のつもり、
運転手は重役の引いた舗石の上の
白いチョークの処にピタリ車を停める、
重役は車を悠然と降りて胸を張る、
階段を上りきつたところで
左右をじろりと見まはす、
育ちが良いから実に鷹揚たるものだ
銀行員は一斉に
ペコリとおじぎをする、
――よろしい、
明日は、その要領で
手ぬかりなく
予行演習をはり
銀行員はぞろぞろと奥に入る、
爺はボンヤリと不思議な
出来事のやうにみてゐる
重役はひとりつぶやく
――万事が手順よく行つてゐる、と
彼のいふやうに手順よいだらう、
いつもこの予行演習のやうに運べば
だが手順は幾つもあるだらう、
ひとつの予行演習は銀行の玄関で――、
ひとつの予行演習は満洲の野で――、
ひとつの予行演習は工場の前で――、
さうだ、全くすべてが手順よく行つてゐるだらう。
紙幣は積み重ねられ
片つ端からポンポンと
鉄の機械をもつて丸く打ち抜かれ
爺は汗みどろで、
この札束を車に積んで
銀行の裏庭に運びだす
一陣の風がドッとふいてきて
その一枚をひらひらと舞ひあげ
遠くの舗道に落ちたのを
拾つたものがあつたとしても
丸く打ち抜かれたこれらの札は
何の使ひものにもならないだらう、
古札焼却の儀式が始まる
重役、課長もその場にたち合ふ
山のやうに積まれた札へ
火をつける役は爺の役
節くれだつた爺の指がマッチを擦るとき
何時ものことながら人々の目はきまつて
最初の小さな焔に目をやる、
火は拡大され札は音をたて
果てはタンバリンのやうに
乱調子に歌ひ出す
黒いけむりは何か得態の知れない
格好をしながら物の形をして高く立ちあがる、
私の詩人がその場に居合はせながら
私はハムレットのやうに
ひとさし指をもつて空に流れてゆく
紙幣のけむりを指さしながら
芝居がかりで大見得をきる
――あの煙はラクダのやうに見えるだらう、
鯨のやうに見えるだらう、
おゝ、ななめに銃を背負つた
血まみれの兵士はよろめいてゆく、
煙は去つて一抹もない、
後にのこつたものは灰だけだ、
爺は灰を掻いて裏庭にある
大きなゴミ箱の中へ灰をザアとあけて
パタンと蓋をしめて去る、
灰はまつ白い人間となつて
ゴミ箱から躍りだし
――なんといふひどい事をしやがるんだ
とぶつぶつ不平をいふ
いや、をそらく灰が人間になるなどといふことは順序ではない、
人間が灰だらけになつて
ゴミ箱の中から現れただけの話だ、
彼は灰だらけの顔で周囲をみ廻し
底光りの眼をぎよろつかせ
男はげらげらと何時迄も時間を無視して、
停めどなく笑ひ出す、
残飯用のヅダ袋へこの灰を
せつせと詰めこみ始めた、
ふらふらとした足つきで
夜の街を何処かへ向つて歩るきだした、
彼は札の灰を
提灯と小格子と、三味線との色街へ
着流しの旦那さん達の待合の勝手口へ――、
ゴミ箱の中のルンペン大将は現れた、
彼はのつそりと無遠慮に
灰の入つた首にかけた袋を突出す、
美しい女が五十銭玉を彼に渡すと
彼は灰をひとつまみ女に包んで渡す
彼は次ぎから次ぎへと
家なみに灰を売りあるき
灰を売つてしまつたころは
新しい伴天を着て
新しいガマ口をもつてゐた、
待合の女は灰と塩とをまぜあはしたものを、
玄関の敷石の上に三角形に積みあげて、
神棚から火うち石をもつてきて、
――カチン、カチン
今日こそ、妾の旦ツク現れよ
と許りに火うち石を情熱をもつてうつ、
線香花火のやうな火を出しながら
札を焼いた縁起灰の
千客万来に信頼し
敬虔な態度で祈り
彼女は招き猫のやうな奇怪な手つきをする、
灰を売つた男は間もなく
新しい伴天をどこかにやつてしまふ、
もとの木阿弥となつて
材料を仕入れに再び銀行の
ゴミ箱の中にやつてきたが、
ついに頭から灰は降つてこなかつた
重役はその頃おごそかに爺に言つた、
――灰は銀行の外に出してはいかん
どうも近頃灰を売るものがあるんぢや、
一切は旦那さまのものであり、
紙幣を灰にしてさへも
彼等は乞食の所有になることを拒む。
シャリアピン
1
わたしはシャリアピンさまに
永年仕へてゐる蚤
ともに韃靼の古都カザンに生れ
ともに暮して当年六十四歳、
夏はシャリアピンのカラーの下の涼しいところに
冬は暖い頭髪の中に
平素は主として鳩尾《みづおち》のあたりに住んでゐる、
早耳、早足は小生の特長
御主人シャリアピンが御承知なくとも
わたしはすべてを知つてゐる、
ソビヱットのこと、
旦那の若い頃からの友達ゴリキイ旦那の最近の便りも
せつせと走り廻つたり、聴き廻つたりして、
世の中のだんだん変つてゆくのを
知ることは私の楽しみだ。
2
旦那の歌はもう聴きあきた、
汚らはしい金持の拍手と
無理をし算段をして入場料を払ひ
旦那の芸術を聴きにくる人々の
割れるやうな拍手が、ホールに響くのも毎度のことだ
だが大きな働いてゐる手の持主
労働者の拍手をついぞ聞いたこともない、
なにせ入場料が、二円、四円、六円ではね、
3
かう見えても、わしは蚤の仲間のコンミニストなのだよ、
だから御主人シャリアピンの批判もできるのさ、
まあ笑はないで下さい。
蚤のコンミニスト
さらば、我が蚤に
心ゆくまで
悪態を言はしてみよ、
蚤の悪態、ハハハハハ
蚤―、ハハハハハ
ハハハハハ、蚤のコンミニスト
いかがで御座る、
見やう聴き真似で御主人の
メフィストの蚤の歌に
そのまゝそつくりの巧みさがあるでせう。
日本でもこれを歌ひました
桟敷から誰かゞロシア語で吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴つた、
「メフィストの蚤の歌を謳つて下さい」
するとシャリアピンは舞台から
「いま、音楽会が始まつたばかり
そんなにあわてなさいますな――」
と愛嬌を振りまいて又々拍手拍手であつた。
4
御主人はちと認識不足だよ、
あわてなさいますなと言つたところで
日本人といふ国民性は
世界の中でも最も
あわてる人種だといふことを御存知ないのだ、
ヤポンスキイ(日本人)は感情的な人間が多いが、
深い感情ではない、
いつも「追ひつめられた決意」で動く国民だ、
そしておそろしく単純だ、
――ソビヱット即スターリン
――文学即ゴーリキイ
――プーシキン即オネーギン
――シャリアピン即蚤の歌さ、
物事を端し折つて
理解することにかけては天才さ、
「其他の条件」といふことを
無視する才能に恵まれてゐる。
5
わしの旦那シャリアピンは
なるほど声楽王にちがひない
第一に声量の大きな点
だが声量に驚ろくこともない
驚ろくものは「井戸の蛙」だ
外国にはあの程度の声量は珍らしくない、
シャリアピン的声量は
日本のそこらにもザラに転がつてゐる、
閲兵式へ、練兵場へ行つてごらん、
戸山ケ原へ行つてごらん、
「気をつけ―」「頭を右ィ」
なんて響き渡る、帝国主義の号令の声だ、
その声はホールの中ではなく
野天で高いのだ、老いたる伍長の職業的に高い声だらう、
6
可哀さうに旦那も歌ひましたよ、
クロチキンの詩ダルゴミジスキーの曲
劇詩「老いたる伍長」を旦那は感慨ぶかさうに歌つた、
旦那のいつもの癖、ピアノの蓋を手でさすつたり、
撫でたり、指で拍子をとつたりして
大きな胴体の中の風の袋を
全く良い音にしぼりあげて出した。
足を揃へ、オイ銃を下すな
俺はパイプをもつてゐる
最後の別れだ、
送つてくれ
俺は君等の親父だよ、
頭も此の通り白髪だよ、
これが軍隊の生活だ、
足を揃へて―オイチ、ニ、
気をつけ、右へならヘ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、
(劇詩「老いたる伍長」の歌詞から)
破れるやうな拍手の中に
老いたる伍長シャリアピン
「芸術のために」オイチ、ニ、オイチ、ニ、
と労働者の聴衆ではなく
所謂|上流の席上《ヲプシチエストヴオ》の歌ひ手として、
オイチニ、オイチニ、と歌うたふ、
「ロシアに偉大なる芸術あり」
といふ宣伝旅行の役割を
旦那が果してゐるだらうか、残念ながら、
「ロシアに頑固なる芸術家あり」
といふことを吹聴してあるくやうなものだ
7
頑固な見本がも一つある
それはソビヱットの生理学者六十余歳の
バブロフ教授だ、
一九一五年の或る朝
助手が二十分程遅刻して研究室にやつてきた、
彼の顔はまつ青で、心も落着いてゐない、
「なぜ遅れてきたのか」
すると若い研究生は答へた。
「先生、街は、革命の市街戦でした、
やつとこゝまで弾丸の下をくぐつて―」
すると教授は不機嫌な顔をした
「革命は革命だ、研究は、研究だ、
なんの関係もない、遅刻することはよろしくない、
さあすぐ研究にかゝり給へ―」
8
多くの学者達が、革命勃発といつしよに、国外に走つた
バブロフ教授は
「ロシアはわしの永遠の祖国じや
政体はなんに変らうが、
わしは一歩もロシアを去らんわい」
と頑固に饑餓の中で研究をつづけてゐた
間もなく「バブロフを救へ」の声が起こつた
これは愛すべき頑固の一種だ、
シャリアピンも新しいロシアに一時踏み止まつて
新共和国のために貢献したが、
欧米巡業に出たきり
その儘亡命芸術家の群に投じて
どうしても帰国しない、
これはいかなる頑固の性質に、加へていゝだらうか、
バブロフ教授は、その貴重な研究の成果を
新しいコンミニスト、科学者へ伝へてゐる、
9
シャリアピンは世界のブルジョア芸術家や聴衆を
その声量の大きさで驚ろかすばかり
各国の中流上流の生活者の
客間に話題をのこして
転々として歌ひ去つてゆく、
シャリアピンはしきりに叫ぶ、
声は私の芸術そのものではない―、
魂の奥にあるものを表現する手段です―、
私の芸術は声ではない―、声ではない―と、
シャリアピンの声は
演奏室の中の声といふよりも、
これは吹きさらしの共同農場の
穀物置場で
若いロシアの青年を前にして歌つたら
どんなに彼にぴつたりするだらう。
10
ストラウィンスキイは
演奏室を最悪の敵とした
これは聴衆の想像力の働きを
制限する憎むべきものだ、
演奏室は音楽を、或る種の鎮静剤として
一般民衆の間に虚偽を創造する
と彼ははげしく演奏室に反逆してゐる。
資本主義国の演奏室では
曲目選定の自由は制限されてゐる、
歌ふことの出来るものは
自己階級に忠実な歌ばかり、反逆的なものはゆるさない、
入場料金に依る聴衆の階級層は制限される、
あゝ、なんて料金の高さで
無産者を木戸口から
追ひ帰へしてゐるだらう、
11
人間の意志を行動化し
それに拍車を加へるのが
新しい芸術の目的であるのに
あゝ、なんて資本主義国の音楽演奏室では
音楽はアヘンの役目を果すのだらう、
シャリアピンは各国の阿片室から、阿片室を巡業する
自然の声に到達した、人間の声の所有者
シャリアピンは、その歌ふ所と時とを失つてゐる、
少女が舞台の上に花を置いて去る
するとわが偉大なる芸術家シャリアピンは
舞台に犬のやうに腹這いになつて花に接吻する、
ゴリキイに就いて話をすることは
政治のことを語らなければならなくなるからと
ゴリキイのことをシャリアピンは語らない、
「私は一生をたゞ、ミューズの神に捧げてゐるのですから―」
シャリアピンは、人間を語ることは
政治を語ることだといふことを知つてゐるのだ、
ゴリキイを語ることはソビヱットを語ることになる、
さてシャリアピンを語ることは、何を語ることになるだらう。
ゴリキイは明瞭だ、
シャリアピンはどんな政治的
背景をもつてゐるだらう。
12
彼、彼は、亡命者だ、
祖国がない、純「スラブ」的な声
これこそ唯一の彼にとつて愛《いと》しいものだ、
老いが、愛しい声をすりへらしてゆく、
ブルジョア国の政治的庇護も
彼の肉体の衰へは支へることができない、
音声の力学的効果を
とらへることに就いての天才だ、
あゝ、だが歌ふ彼の肉体の
生理的な組織は頽廃期に這入つてゐるのだ、
このことだけは、この歌ひ手の肉体の
個々の細胞に関すること柄だ、
彼の肉体ではいま
生きる細胞と―
死する細胞と―の激しい葛藤に速度を加へてゐる
13
シャリアピンは己れの滅びる細胞を
意志に還元して
それを伝へる対象をもつてゐない、
ゴルキーの滅びる細胞は、
バブロフの滅びる細胞は
ソビヱットの若い世代の
若い人々へ伝達される
そこでは不滅の細胞と化す、
14
カスタルスキイは
農民のための新しい音楽の創設に一生を捧げて
七十歳の高齢で、若いコンソモールの群に、
とりかこまれて死んでゐる、
ショスタコーウィッチ(一九〇六年生)は
十五歳で作曲を発表し批評家を驚ろかした、
十八の時シインホニイを書き
二五歳を出でずに新しい祖国のイデオロギーを立派に作曲した
「静かなるドン」の編曲者
ゲオルギイ・リムスキイ、コルサコフはどうしてゐるだらう、
コーヴリは、ロバチェーフは、クラアセフは、
兵士のための合唱曲やマーチの作り手は
都会の労働者と農民のための
これらの作曲者はどうしてゐるだらう、
作曲者は、歌ひ手は、ロシアには
雲のやうに沢山ゐるのだ、
これらの人々は現実的な愛国者だ、
だが祖国を失つたシャリアピンは
追想的な愛国者だ。
15
芸術の純潔性を
守らなければならないために
ソビヱットを去つたシャリアピンの、人間的弱さを、
それは言ひかへれば彼の芸術は脆かつたことだ、
芸術の純潔といひ、強さといふのは、
新しい試練に堪へ得るものだ、
大きな孤独よ、
祖国を去つた瞬間、シャリアピンは
集団的な政治的な協力者を失つた、
彼はブルジョア国の中で
全く個人主義的な力で
自己の芸術を固守していかなければならない立場になつた、
大きな寂寥よ、
16
東京駅頭で、ウラーの声に彼は迎へられた、
帝政時代の三色旗を手にした
白系露人の群に、
この三色旗はいまでは玩具に属してゐて
現実にはそんな旗の国は
とつくに滅びてしまつてゐるのに、
こゝにも馬鹿気きつた頑固の夢を
抱いてゐる人々がそれをしきりに振つてゐる
17
表面的な日本人の顔色の黄色さと
カラコロと鳴る下駄の音と
ホールの中の一色の拍手と
これらの日本の現象的な拍手の中に
わがシャリアピンは見事に歌ひあげたのだ、
日本の音楽理論家たちは
シャリアピンは最も正しい発声上の、
横隔膜側腹呼吸に拠つて歌つてゐるとか、
「発声学的零点の保持」
つまり音域の高低にも
喉頭の位置を上下させないといふ
理想的な型を示してゐるとか、
さまざまな批評で賑やかだ、
技術ではない、声の高さではない
わたしの心を、心を―
と一方ではシャリアピンは叫んでゐる
18
富士山の山姿の
現象的ななだらかさのやうに―、
日本の楽壇も現象的にはなごやかなものだ、
だがこゝのジャンルでも
詩や、劇や、小説のジャンルと等しく
底では、地軸では、海底では
はげしく争ひ鳴つてゐるのだ、
日本の楽壇でもショスタコーウィッチの
音楽理論を排撃する一派と
支持する一派とが喧嘩をして
支持派は団体を脱退して
新しいグループを作つたり
進歩的な争ひは展開してゐる
舞台裏でシャリアピンと握手した松田文相は
それからものの一週間も
経たない間に頓死してゐる、
日本の現実も相当忙がしい、
ホールの上から眺めた日本
自動車で通りすぎた日本とは
またちがつた激しい日本があることを知らない、
シャリアピンは拍手の中に歌ひすぎてゆく
19
わたしは少しばかり
御主人シャリアピンの
悪態を言ひすぎたやうだ、
蚤の立場を忘れてあまりに
人間的になつたやうだ、
だがわたしは真実を語ることに
臆病でないことは
血を吸ふことに遠慮しないことと
同じだから仕方がない
まもなくわが主人シャリアピンの肉体が、
しだいに冷えてくるだらう、
その日、私は新しい肉体の所有主に移転するだらう、
だがもう亡命者と道連れになることは懲々だ。
長長秋夜《ぢやんぢやんちゆうや》
――ぢやん、ぢやん、ちゆう、やは朝鮮語で長い長い秋の夜といふ意味。
朝鮮よ、泣くな、
老婆《ロツパ》よ泣くな、
処女《チヨニヨ》よ泣くな、
洗濯台《パンチヂリ》に笑はれるぞ、
トクタラ、トクタラ、トクタラ、
それ、あの物音はなんの音か、
お前が手にした木の棒から
その音がするのだ、
あつちでも、こつちでも村中で
夜になるとトクタラ、トクタラトクタラ、
朝鮮の山に木がない
おや、それはお気の毒さま、
家には食ひ物がない
おや、それもお気の毒さま、
『あゝ、良い子だ、良い子だ、
みんなそのことを神様が
知つてござらつしやる。』
老婆《ロツパ》は体を左右にふりながら
馴れた調子で木の台の上の
白い洗濯物を棒《パンチ》で打つてゐる。
トクタラ、トクタラ、
『あゝ、えゝとも、えゝとも、
良い音がするぢや――。』
わしの娘や息子のことは判らぬぢや
だが、わしの親父や先祖のことは
ふるい朝鮮のことは
この年寄の汚ない耳垢が
いつも耳の中でぶつぶつ語つてくれるぢや、
青い月の光のもとの村の屋根の下の
女達が
長長秋夜《ぢやんぢやんちゆうや》
トクタラ、トクタラ
幾千年の昔から
木や石の台の上で白衣をうつて
糊をおとしてシワをのばして
男達にさつぱりとしたものを、
着せて楽しく、
朝鮮カラスも温和しく
洛東江の水も騒がなかつたし
今のやうに面《めん》事務所の
面長がなにかと
書きつけをもつてうるさく
人々の住居《すまゐ》を訪ねてこなければ
息子や娘も村にをちついてゐて
老人たちの良い話相手であつたのに
近頃はなんと、そはそはしい風が
村の人々の白衣の裾を吹きまくり
峠を越しさへすれば
峠のむかふに幸福があると云ひながら
村を離れて峠をこしたがり
追ひ立てられるやうに
若い者は峠をこえてゆく
お前の可愛い許嫁《いひなづけ》は
貧乏な村を去つて行つた
いまは壮健《たつしや》で東京で
働いてゐるさうな
そしてゴミの山やドブを掘つくりかへして
金の玉を探してゐるさうな
一つ探しあてたら
すぐ処女《ちよによ》よ、お前を迎へにくる
あゝ、だがそれはいつたい
何時のことやら
去つてゆくものはあるが
帰つてくるものがない、
夜つぴて歌をうたつた
声自慢、働き自慢の
わしの連れ合ひも死んでしまつた、
わしの糸切歯ももう
糸を切る力がなくなつた、
洗濯台《ぱんちぢり》をうつ棒《ぱんち》も重い
いくら追つても朝鮮烏奴は逃げない
虫は泣きやまない
なにもかにもみんなして
この老婆《ロツパ》を馬鹿にしくさる
たのしい朝鮮は何処へ行つた、
古い朝鮮はどこへ行つた、
神さまや、天が、
朝鮮を押へつけて御座らつしやるのか。
そして老[#「老」に「ママ」の注記]寄も若いものも
夜つぴて苦しさうに寝返りをうつ、
トクタラ、トクタラトクタラ、
パンチヂリの音も
昔のやうに楽しさうでない
丘の上に月がでても
昔のやうに若者たちは
月の下をさまよひ歩かない、
哀号――、悪魔に喰はれてゐるのだ、
老婆は聴いた
ボリボリと音をたてて悪魔が
山の樹を喰つてしまつたのを、
娘は河へ水を汲みに行つて溺れ死ぬ
若い者は飲んだくれたり
博打《ばくち》をうつたり
地主さまに楯突いたり、
農民組合とやらをつくつたり
村をとびだしたり
若い者は何かと言へば
すぐ村の半鐘をうちたがる、
トクタラ、トクタラ、トクタラ、
老婆《ロツパ》が精魂こめて
パンチヂリで白く新しく
晒した朝鮮服も
若いものは着たがらない
麦藁帽子をかぶつたり
洋服をきたり、ポマードをつけたり
そして老婆達にまで
昨日、面長さまから呼び出しがあつた
面事務所にぞくぞくと村の衆は
集つてきた、
高いところから
面長は村の衆に吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴る、
――世の中は、日進月歩ぢや、
文明文化の今日《こんにち》は
第一に規則をまもるべし
納税の義務
つまりは年貢はかならず収むべし
それから、特に
婆共は、よつく聞け
糞たれ頑固どもは
夜つぴて
トクタラトクタラ
パンチヂリをやつてゐる
やかましうてたまらん、
第一にあのトクタラは
牛のために良くない、
牛の神経にさはるから
乳の出が悪うなるわい、
第二に服装改善の
主旨の下からして
白い朝鮮服は明日から
一切着ることならん、
黒い服にしろ
黒い服はよごれがつかぬ、
したがつて洗濯をする必要がない
トクタラトクタラの
洗濯婆あどもは
パンチヂリをやめて
明日から縄をなへ
トクタラ、トクタラと
けしからん奴ぢあ――、
面長はぶるると体をふるはせて吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴る、
若いものは去つてゆく
ただ老人たちは何時までもその場を去らない、
老人たちは鷺のやうに体を折りまげ
なべ鶴のやうに地面にへたばり
声をかぎりに
哀号をさけぶ、
――哀号、面長さま、この老い先
短かい年寄に
難題といふものだ
いまさら白い朝鮮服を
哀号
よして色服を着ろとおつしやるが
そんなら婆を殺して下されや
哀号――、
神さまからのお授り物の白衣を
どうして脱がれませう、
哀号――、天帝よ、先祖よ、
面長奴が、わしから白服をうばつて
カラスのやうな黒い服
着ろとぬかす、面長の罰あたり奴、
わしは嫌ぢや、
白い服は死んでも殺されても脱がぬわ
哀号――、哀号――、哀号――、
老婆《ロツパ》は消えいらんばかりのかなしみと
驚愕とにわなわなしてゐる
規則は怖ろしい力をもつて
ゐることを知つてゐるから
今にも服をはぎとらられさうな恐怖に
とらはれて頭を低く
大地にこすりつけて哀号する、
――騒ぐな婆ども、
うぬ等は、ついこないだも
泣いたり、咆へたりした許りだ
なにかにと………[#「………」に傍点]の改正には
出しやばつて反対しくさる、
白服を色服に変へぬ輩《やから》は
………………[#「………」に傍点]の主旨に
…………ロクでなしぢや、
さかさハリツケものぢやぞ、
面長はなだめたり、すかしたり
朝鮮の伝統的な白服を
新しい服装に改めさせようとする、
だが深いところから
水が流れてゐるやうに
老婆たちの悲しみも
深いところからやつてきてゐる
老婆は憤りと悲哀の列をつくり
夜の幕は年寄たちにとつて
重い袋のやうに心によりかゝる
足どりも力なく帰つてゆく
朝鮮よ、
お前はよし老婆達に
白衣永遠の伝統を死守させたとしても
自然の大地と、人間の心とは
その伝統をうけつがない
やつれきつた朝鮮よ、
若者たちだけが
お前の本質を知つてゐる
若いものは鉄のやうに堅い靴をはいて
鉄のやうな足音をたてる
としより達は虚ろな木履を鳴らし
精一杯不平をいひながら
面事務所から連れだつてかへつて行く、
夕靄の中に老婆の一団がかへつてゆくと
靄の中から突然老婆の
鶏の叫び声に似たさけびがきこえてくる、
数人の男と老婆の群はもみあつて
山路から崖へ逃げをりようとする、
男の一団はその行手をさへぎる
――くそ婆奴
貴様の着物を
これこの通り汚してやらう、
――ろくでなしの
トクタラ婆奴
どうしてもウヌ等が
その服を脱がうといはぬなら、
わしらは染屋の
役をかつて出るわい、
逃げまどふ老婆は男達の
足で蹴られたり
手でうたれたり、
男たちは大はしやぎで
犬が老いた鶏を追つかけ廻すやうに、
手に手に墨汁をたつぷりつけた
筆をふりあげて
肩から斜めに
墨をもつて老婆の白衣にきりかゝる
――誰ぢや、
そんな無道なことをするのは
としよりを虐めて
ろくなことは無いぞえ
老婆は金切声をあげて逃げ廻つたが
男達は熱心に飛びかゝつて
老婆達の白衣をさんざんに汚すことをやめない、
老婆のたかい悲しみの声はながかつた
朝鮮の夜のしづかな周囲に
ひとときの騒音がたち、
まもなくひつそりと元の静けさにかへる、
面事務所の男達の計画的な
墨の襲撃にまつ黒に汚れた
老婆のみじめな白衣、みだれた髪、
顔を歪ませて立ちあがり、立ち去る。
夜が明けると
村の老婆たちは何事もなかつたやうに
近所誘ひあつて
洛東江の河岸に打揃つて出かけてゆく、
汚された白衣を
ざぶりと水にひたすと
河は瞬間くろい流れとなる
そしてやがて黒い一條の流れは
しだいに薄れて
河下に去つてゆく
老婆の憤りの表情も
しだいになごやかになつてゆく
トクタラ、トクタラ、トクタラと
洗濯台《パンチヂリ》を陽気にうちだす
たがひに顔見合はせて
強くすべての出来事を肯定しようとして
いたいたしい微笑の顔にかはつてゆく
かよわい手をふりあげて
強く石をうつ
強く朝鮮の歌をうたひだす
黒くよごれた白衣を棒《パンチ》でうつ
うつパンチも泣いてゐる
打たれる白衣も泣いてゐる、
うつ老婆《ロツパ》も泣いてゐる
打たれる石も泣いてゐる
すべての朝鮮が泣いてゐる
長篇叙事詩 魔女
叙事詩「魔女」の人物
海羅義丘( )
千敬太郎(青年)
天羅多吉(独立画家)
富士光雄(渕[#「渕」に「ママ」の注記])
マリア ( )
悪魔 ( )
魔女 ( )
姉 ( )
序詩
すべての女の読者諸君よ
いまは時代の過渡期です、
若しあなたに
恋愛に就いての
真[#「真」に「ママ」の注記]ねんがなかつたら、
恋することはお控へなさい
でなければ貴女の
教養と財産にとつて
この上もなく危険がやつてきます
若い女よ
あなたに若し時代的に恋する若い
勇敢さがあつたなら
私のこの物語りを参考にしてください
日本の悪魔と魔女と
聖母がどのやうに
三つ巴で血に塗れたかといふ
経験に耳を傾けて下さい、
○
第一章 悪魔の散歩、
一
『泣けるか、お前はこの世の
ささいな出来事に就いても、』
『喜べるか、お前は退屈な人生にも、』
『笑へるか、お前の運命に、虚無的でなく』
悪魔の散歩は籐のステッキで
こつこつコンクリートの
東京の三月の夜の街をあるいてゐる、
呟きは、泣けるか、喜べるか、笑へるかの
三つの呪文の自問自答、
なんといふ怖ろしい奴を
街に放してをくのか、
月にむかつて背をむけて
おのれの影にものをいふ悪魔奴が、
呪文の答がでると
彼は衝動的に地上に一米もとびあがり
おのれの答への正しいか誤りであるか
実験しにとりかゝるために
どのやうなところにでも嵐のやうにとんでゆく、
その激しさと乱暴さと不気味さのために
なぜ街中の商店といふ商店は
板戸や鎧戸をガラガラ下ろしてしまはないのだらう、
二
街はネオンサインが
美しくともり
ネオン管の青と赤との
接ぞく点が一層美しく
異様に光りかゞやく
ぶるぶるつとふるいて
街の夕方の空間や時間を
水底をあるいてゆくしづけさであるいてゐる、
悪魔は若い美貌をもつてゐる、
そして彼はたちどまり突然、
舗道の一個所に小さな黒い穴
をみつけると
穴にステッキをさしこんで
グイとステッキをこねあげる
すると忽ちそこにポカリと
ガイコツが口をあけたやうな
深い黒い穴があいて、下水用の
丸いコンクリト製の蓋が
空中たかく舞ひあがり、
舗道に落下したときは
ガランガランガラン怖ろしい
不吉な音響をたてゝこの蓋は
街中を転げまはる
悪魔はそれを見ると
げらげらと笑ひが停まらない、
そして
下水の穴の暗い丸いふかさをしげしげとのぞきこみ
そこへ白い痰をべつとしてから
再びステッキをふつて歩きだす、
そして良い声で陽気に歌ひだす
それはロシアの詩人マヤコフスキイの
露西亜語の散歩の詩である
ポース、ゼール、フセイチ
シャアグ、ブルゴル
グロハイチ
タアク、ザ、クバイ
スメッフ、ヒトブ
カーメン
ロパールシチャ
フ、ホッホチヱ[#「ヱ」は小文字]
(すべての仕事の後で
散歩の歩をとゞろかせ、
笑ひをそゝげ
石がハッハと
爆笑するやうに)
日本のマリアよ、
悪魔の愛する妻よ、
お前は愛情の天女だ、
お前はいま病ひの床にねてゐる、
そしてお前の夫の悪魔はぶらぶら歩るき
ながい憂鬱な、病の日常の、
堪へがたい、お前の肉体に
お前の心臓は鳩時計
こぼれるやうな音立てて、
時をきざむきざむ、
そして死んでゆく悲しみ
夫の愛情の濃さ薄さの
こゝろづかいははてもない、
お前の肉体と精神を
悪魔がりやくだつしたのは
十年の昔であつた、
その時、二人の愛のはげしさに
火と氷も位置をかへたやうにでんぐりかへつて
雪の中を二人でさまよつたとき
雪のつめたさもまた火のやうに
二人にとつて熱かつた。
吹雪奴は
驃騎兵のやうに
鉛の弾を二人の頬ぺたや
黒い若々しい髪を撃つたが、
なんてまあ、痛いことも悲しいことも
苦しいことも、
恋はすべてを楽しく考へさせたらう、
ふきつける吹雪の中の
一つのマントの中から
四本の足が突きでゝゐた、
二本の足はゴムの長靴
いまひとつの二本の足は赤い鼻緒の下駄
一方の足がしつかり地に立つてゐるときは
かならず一方の足は宙に浮いてゐたし、
男と女とは
どつちかをマントの中でささへてゐなければ、
二人がその場にぺたりと
雪の中に座りこんでしまつたであらう、
恋の法悦の精神の動揺の、ランデブー
聖母の海の甘さと、
悪魔の地の辛さとが、
二つのこつぜんとした自然としての人間の
調和をもとめてマントの中の抱擁、
あゝそれは本能的な最初の接吻の音、
だがその時悪魔が
不可解な微笑をもらしたことを
聖母は少しも気づかなかつた、
永遠よ、女よ、
地の荒くれた精神を
掻きいだくお前海の慈愛よ、
そして地と海とは
しばらくの間はなだらかに
愛の接触のをだやかなさゞなみをたててゐた、
家庭はたのしく平穏で
はげしいものといへば
台所で火の上のフライパンの
ジャアといふもの音くらい、
『まあ、大変な音をたてるね、
油がはねて危ないぢやないか、
お前の美しい顔を
火傷をしたらどうしよう、
まあお前は女学校で
家事の時間に教らなかつたかい
フライパンに火が入つたときや
油がはねるときには
どうしていゝかを』
男は笑ひながら
手際よく傍のネギを鍋に投ずる
すると油のはねる高い
もの音は温和しくなつてしまふ、
『肉の切り方はあぶないよ
お前の可愛い指を
きつたらどうしよう、
肉のきり方はかういふ風に』
男は牛肉のせんいの説明をして
庖刀をあやつつて
肉の正しい切り方を示してやる、
女はなんといふ該博な智識をもつた
若い夫だらう、
その親切さよ
長い運命の道づれのたのもしさ
未来の生活の豊富な男の愛情
を想像してこゝろを[#底本「お」を訂正]どらす
『いゝえ、私は学校では家事と
おさい縫は大嫌ひであつたの
でもそれはいけないことであつたわ、』
さういつて台所の調理の
技術のまずさをほこらしげに
それは女中のやうではなく、
娘のやうに我儘で愛らしかつたことを
言外にほのめかして男に甘える、
そしてうまい具合に
鍋の中の牛肉とねぎとは煮える
そして女と男とは向ひあつて、
子供のない食卓に差向ひで食べ始める、
『なんていふかたい葱でせう、
貴方ゆるして下さらない、
わたし、満足にすき焼もできないの』
さういつて女は箸を投げだして
袂で顔をおほつてしまふ、
なんといふことだ――、
なんていふ不思議なことだ、
男はおどろいて、女の顔にあてた
袂をのぞくと女は真個《ほんと》うに泣いてゐるのだ、
そして女はさめざめと尽きない泉のやうに
頬をぬらしていつまでも
泣いてゐるといふ気配をみせてゐる
美しい泣き方は、
眼から流れる涙はそのまゝに
頬にながれるにまかせ
紅潮した女の頬を美しく光らせ、
そして鼻水は上手に
袂でぬぐつてゐる
肉の柔らかさかたさ、
ねぎの柔らかさ堅さに就いて
たゞそのことだけで新婚のしばらくは
二人は泣いたり笑つたりして時をすごした、
フライパンに落したバターは
いつの間にか安いラードにかはり
それから時間が経つと
女は肉屋にせびつて
肉の脂肪をねだるほど
しだいに貧乏生活的になつてしまふ、
あの時の二人の生活は楽しかつた
二人の宿命の幕が開かれた許りであつたから、
いまはどうだ、ただかんたんに
言つてのけよう、
『それから十年の月目が経つた』と、
十年前台所で彼女がうたつた
ジョセランの子守歌は夫に封じられた、
彼女が巧みであつたサンタルチイヤの歌
“月は高く
空にてり
風もたえ、
波もなし
…………
こよや友よ、船はまてり
サンタルチヤ、
サンタールチーヤ”
『よせ、愚劣な歌を、風もたえ、波もなしか、
そんな、穏やかな現実に住んでゐないんだから
時代は一九三五年だ
無神論者の台所で
サンタルチーヤでもあるまいて、』
男は罵る、女はピタリと歌をやめてしまふ、
風もたえ、波もなしの女の歌にかはつて
男はシェークスピアの
リヤ王のセリフを
机の上に片足をかけて大見得をきつて叫ぶ、
――吹けい、風よ汝《おのれ》が頬を破れ、
荒れ廻れ、
吹きをれやい
汝《なんじ》、瀧津瀬《たきつせ》よ龍巻よ、
吹け水を、
風見車を溺らし、
尖り塔の頂《いただ》きを水浸しにしてしまふまでも
汝、思想の如く疾《と》く走る硫黄の火よ
※[#「※」は「木へん+解」209-11]《かしは》を突裂《つんざく》雷火《いかづち》の前駆《さきばし》の電光《いなづま》よ、
わが白頭を焼き焦《こが》せ。
――ねいお母さん
バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチ
て知つてる、
彼女の傍にはいまでは十歳の少年がたつてゐる
母親の知らないこと柄を
日毎に新しくもちだしては母親を当惑させる、
――ねい、親父
僕お酒ちよつぴりのんでみたいんだよ、
――よからう
――だつてロシアのお伽話にでゝくる
バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチて
七つの子供なんだが
のんだくれで
いつも酒屋で寝てるんだよ、
するとキヱフの王さまが
トルコ王サルタンを攻めるのに
バルダクを大将に頼みにくるんだよ、
そしてバルダクは攻めていつて
――あゝ、あゝその次は判つたよ
敵のサルタンの七つの娘と
天幕《テント》の中で寝るんだらう
――さうだよ、さうだよ、
そして僕お酒をのんで
強くなりたいんだよ、
――そして天幕の中で寝るか
アハハハ
母親はオロオロとして
父親と息子の話の進行をきいてゐる
――まあなんていやらしい
お伽話があるんでせうね、
性の世界では嫌らしい、
男のたたかひの世界ではどうか、
七歳の大将バルダクは
七歳のトルコ王の娘が女の性と愛情で
天幕の中で男の闘ひの
意志を溶解しようとして抱擁し
なまくらなものにしようと計画する
だが毅然として少年バルダクの
たたかひの意志は固い、
女が添寝しながら、
ひそかにバルダクの脛に
目印に金泥を塗つてかへる、
夜が明け放れ、陽があがると
娘はトルコ王の城へかへる
敵王の呼び出しで首領がどれか、
ひとめで脛の金泥がバルダクと
判らうといふ性的政策
男の智慧は無限にはてなし、
やめよ、はかない性のやさしい陰ぼうよ、
夜寝てゐる間だけ、とう酔があり、
陽があがると男の酔ひは醒めるから、
いつも精神に陽のあがらない
男だけが、昼でも夜でも、女に負ける、
もし女よ、
男を捉へてをかうといふ
男の愛情を永遠に絶対的に
しようとするならば
すべての窓をとぢよ、昼でも暗く、
部屋へ、精神へ、カーテンををろせ、
あゝ、だが部屋は閉ざす
ことができようが
宇宙の明りは消すことができない、
天地をすぎてゆく巨大な太陽は、
雀さへ、太陽がのぼると、
チチと鳴いてのきばで
ひとときの別れを
嘴を軽くつつきあつて
男の雀は女の羽を離れて
男は生活のためにとんでゆくではないか、
山寺の鐘がゴーンーンと鳴れば
明け方の障子紙に砂の微粒をうちかけてすぎたやうな
サーッといふ音がする
それは松の木をゆする[#底本「ゆる」を訂正]
爽快な風の音、
そして『離れ難たき肌と肌』と
東洋の古来の俗謡そのまゝ
歴史を超えて夜から暁まで
情痴の姿はくりかへされる、
『情愛の進歩性はないか、
愛は絶望で愛は反覆であるか』
悪魔は長い生活の間
そのことを思索してきた、
悪魔の精神の逍遙は、ながくつゞいた
曾て可憐な若者の
なだらかな感情へは
いまは無数のヒビ割れができた、
結婚といふものは、思ひがけない、
プログラムをひろげるものであつた、
未婚の男女が
予期しないやうな筋書が開かれる
夫婦の生活の泡立ちは
若さに痛々しい、
離れ合はうとしなかつたのか、
逢ふ時間より、逢はない時間を
たのしむ、
たがひの生活に空間をつくり
空間を楽しむ術を知りだす、
空間のみがたがひの
自由の世界、哀しい、あはれな充実の世界、
サラリーマンの勤めの外出に
いそいそと三指を玄関につく妻
亭主の送り出しではなく
亭主の放逐であつた、――〈未完〉
きのふは嵐けふは晴天(抒情詩劇)
舞台 周囲が岩石ばかりの大谿谷の底を想像させる所、極度に晴れ渡つた早春の朝、遠くから太鼓のにぶい音と、タンバリンの低い音が断続的に聞えてくる、舞台ボンヤリとして何か間のぬけた感。
○いざり一、(空虚な舞台へ這ひ出てくる、舞台の中央でものうく、哀調を帯びて、間ののびた声で)右や左の旦那さま、(急速に)世界の果ての、(真に迫つて)果ての果ての、果てにいたるまでの旦那さま方
○いざり二、(ものうく、哀調を帯びて)右や左の奥様がた(急速に)世界の奥の、(真に迫つて)奥の、奥の、奥にいたるまでの奥さま方、
○いざり一、(天を仰いで)この晴れ渡つた空、心もはればれする日に、わたしの足腰が立たないとは(同情を乞ふ調子で)どうぞ皆様、御同情下さい(米搗バッタのやうに頭を下げる)
(青年合唱隊の太鼓の音、次第に高く、きこえてくる)(元気に、軽快に、隊を組んで行進)
(婦人合唱隊の、タンバリンの音きこえてくる)(女達は柔和で、リズミカルな動作、女性的に快活に、隊を組んで行進)
○合唱青年、(力強く)我々は足にまかせて、都会、山野あらゆるところを(間)行進する(急速に)人生の早足隊だ。
○合唱婦人、(優しく)私達は、静かに、(間)男達の仕事を見守る(急速に)人生の監視隊だ。
○合唱青年、(笑ひの合唱)ワ、ハ、ハ、ハ、(皮肉に)婦人達が我々の監視隊、それは良いことだ。
○青年一、(皮肉に)そして(徐ろに間ををいて)主として縫ひもの、つくろひものを、家庭にあつては、分担してをりますか(笑)
○青年二、それも必要だ、(高く)人生のほころびの縫ひ手は、(確信的に)彼女達だ。
○青年一、(激しく皮肉に)男が破つて、女が繕ふのか。
○合唱青年、(急速に叫ぶ)我々は力の象徴だ、打て、打て、打て、打て、太鼓を(太鼓乱打)音響をもつて空を引き破れ、あらゆるものを、ほころばせ、冬の雲を春の光りが、(歓喜をもつて)強く引裂くやうに。
○合唱婦人、(優しく)ダイナモのやうに、いつも元気の良い、青年達よ、(愛撫的に)よく磨いた鎌のやうな、聡明な若者たちよ。
○婦人一、あなたたちは女性の緩慢な愛にも堪へてゐる、忍耐強い友(激情的に)打て、打て(タンバリン乱打)情緒の金の針で、あなた達の心のほころびを私達が縫つてあげませう。
○いざり一、(大声に、そしてゆつくりと)右や左の旦那さま、奥様方、御騒々しいことでござります。(感動的に)皆さま方はお親しい、仲の良いことでございます。(青年に向つて)旦那さまがた。(急速に)すべてを裂け、(自問自答的にうなづきながら)ウム、すべてを破れ、だがお前さん達はこれまで、(間)女達の手に余るほどの、(間)大きな、ほころびをつくりだした、ためしがありますまい、口幅つたいことは、慎んでもらひませう、全世界の御婦人の、名誉の下に――
婦人四、(歓喜して)ほんとうに、いざりさん貴方の言ふとほりね、男らしい男は少ないのよ、ヒステリカルに、女性的に物を破る男達が、また頗[#「頗」に「ママ」の注記]分多いの、
○婦人一、古い思想を引きさくことも遠慮勝。
○婦人二、古い愛情から、別れることにも、おつかな吃驚。
○婦人三、古い科学を叩きこはすことも、臆病で。
○婦人四、古い芸術を、追つ払ふことも消極的。
○合唱婦人、(高く笑を含んで)まだ、まだ、わたしたち女性の大きな愛の手で男達はつぐのひ切れないほど、大きな破れをつくつてはくれない。
○合唱男子(怒りを帯びて)男は、力のシンボルだ、憤怒の、怒りの象徴だ、(イザリに向つて)黙れ、イザリ、お前はさつきから其処で誰を待つてゐるのか。
○いざり一、(冷笑的に)あなたがたこそ、さつきから其処で、何を叫んでゐるのか、何処から来て、何処へ、おいでになるんです。
○青年一、(激しく)東から来て、北へ行くのだ。
○青年二、(更に激しく)前進だ、行かう、我々にとつて無目的な朝などは、たゞの一日もないのだから、
○青年三、(激しく)我々は太鼓をうち、このやうに、街をすぎ野を走る。
○青年四、(激しく)谷をわけいり、海をわたる、
○合唱青年、(高く)我々は集団的遊戯、行動を、訓練しなければならない。
○いざり一、(神妙に)敬意を払ひませう、若い時代に、刃向ふ古いものは、犬に喰はれますから、(突拍子もない高い声)諸君、緊急動議を提出します。勿論、御婦人方も参加して、すべての人々は討議に加はつて下さい、(低い、間をのばして)提案といふのはかうです。諸君、ワタシはなぜ腰が立たないんでせう。
(婦人合唱隊、タンバリン急打、男達之に和す、賑やかに、朗らかに、心が踊るやうな音)
(イザリ、二、三、四登場、米搗バッタのやうにお低頭をしながら)
○合唱婦人、(歌)
おゝ、可哀いさうな、
イザリサン
一里の路も遠うござる、
途中の小川で
ものおもひ
おゝ、可哀いさうな
イザリさん
あなたの住居は
橋の下
雨が、
ポッツリと鼻に
ポッツリと頬に
ポッツリと額に
雨のしづくが
三つ四つをちる。
○青年一、(群の中から飛び出して絶叫する)やめてくれ、新しい時代は、情緒の性質を変へたのだ、女達の同情心の対照は何んていつまでも変らないのだ、病人か、子供へか。さあ、センチメンタルな道徳をうちやぶつてくれ、ロマンチシズムさ、行動だ、こいつに首つたけになるんだ、恍惚になるんだどこまでも追求するんだ、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、最後のところまで。
○合唱いざり、(歌)
御同情、ありがたう
御軽蔑、感謝
打擲、多謝
足蹠[#「蹠」に「ママ」の注記]、結構
手かせ、足かせ
お引づり廻し、大歓迎。
○青年二、(憤つて群からとび出し)なんて此奴等の存在は、空気の性質を悪るくするんだらう、(憎々しさうに)糞沈着におちつき払つて、僅かな道程を、われ/\の十倍も時間をかけて通りやがるんだ、やい百姓め、たがひに何か親しさうに話しながら、(憎々しく)世間の秘密をすべて知つてゐるやうな意味ありげに笑ひ合ふ、さあいざり立て、立つてみろ、女共の加護と同情の下に、見事突立ちあがれ、さあ立て、立て、青年達、こやつの剛[#「剛」に「ママ」の注記]慢の腰をのばしてやるんだ(いざりに襲ひかゝつて無理に立てようとする、婦人合唱隊は青年達の行為を押しとどめて、男女たがひに揉み合ふ)
○合唱いざり、(陽気に、体を左右にふり、左右の手を物乞ひらしく動かしながら、合唱)仰せのとほり、君等の十里は、われらの千里さ、
○いざり一、お気の長いが、われらが取柄、
○いざり二、でも、みなさん結局は!
○いざり三、着くべきところへ、着いたら、何の文句もないでせう。
○合唱いざり、さあ、タワリシチ
深刻ぶつた
夜中の思想の幕を引きあげろ
五体揃つた人間様ぢや
とかく物事に尻込なさる
そこで腰の蝶ツガヒの
はずれた我々が
人生を陽気にするやう
前座を勤めませう。
○いざり一、然も君等より朗らかに
○いざり二、然も君等より勇敢に
○いざり三、然も君等より人間的に
○いざり四、然も君等より大胆に
然も君等より目的に向つて
○合唱いざり、朗らかに、勇敢に、人間的に、大胆に、目的に向つて、――さあ始めよう、
○いざり一、(元気よく)さあ頼むよ、鳴物を、太鼓を
○いざり二、(皮肉に)お願ひしますよ、タンバリンを
○いざり三、いざりの生ひ立ちを過去の物語りを、御披露しませう。
(いざりの群賑やかに踊り出す、膝頭をコツ/\と音させながら)
ラッパの音加はる。カスタネットの音加はる、合唱隊は直立して歌ふ、四人のいざりが身振面白く跳ねながら踊る。
○合唱婦人、こゝに四人の
いざりの兄弟がゐた(タンバリン)
○合唱男、彼等は生れつきの
いざりではなかつたらう(太鼓)
○合唱婦人、あるとき四人が
仲良く揃つて山へ
獣をとりに出かけた
谷底をふとみをろすと(タンバリン)
(照明、幻想的な青)
○合唱男、獲物がみつかつたか、(太鼓)
○合唱婦人、ゐた、ゐた、ゐたよ、
大きな奴がさ
虎かとみれば、さに非ず
熊かとみれば、さに非ず、(タンバリン)
○合唱男、たとへてみれば
どういふ格好のものだ、
○合唱婦人、それは牙がニューと斯ういふ格好で突きでた、豚に似て非なるもの(タンバリン)
○合唱男、さては猪だな、(太鼓)
○合唱婦人、(歌)(女、タンバリンを叩きながら、男太鼓もこれに和す)
やれ、やれ、やれ、やれ、
嬉しやな、
やれ、やれ、やれ、やれ、
心が踊る
やれ、やれ、やれ、やれ、
敵を迎へて、
心が踊る
肩の鉄砲
ダテには持たぬ
ソッとをろして
トンと大地を
台尻でついた、
○いざり一、(極端に道化て)するとさすがに、猪奴は自然の子だ、わずかな土のふるへにも、ピタリと耳をふるはしたね。
○合唱男子、おゝ猪大王どの
心おしづめ下さい、
それなる岩の安楽椅子に
おかけ下さい。
○合唱婦人、岩の椅子には
紫の花
紅のツタ、カヅラ
金銀のキノコをもつて
美々しく飾られ、
口を伸ばすところに、
真清水あり、
手をのばすところに
果実あり、
何の不自由もない暮しな筈、
○合唱男子、(勿体ぶつて)然し畜生の悲しさに、鉄の玉だけは防ぎきれぬ、(高い声で大げさな表情で)美事な金の皮、皮を撃つては値が下る、さて何処をうたう、やれ頭をうつては値が下がる、足をうつても値が下がる、耳をうつては倒れまいさてどこを、どこを覗はう
○いざり一、そこでわしらは協議した、
二つの眼玉に四つの玉を撃ち込まう
鉄砲うちの名人は
そんなことなどわけがない。
○いざり二、何時かも、こんなことがあつた、
高い木の、いちばん上の枝の
木の葉をうち落し、その葉が地面までつかない間に、
四人で替り、替りうちあてた、そしたら木の葉が無くなつた。
○いざり三、(威猛高な声)平素の腕の冴えをみせるは今と、猪大王目がけて
○いざり一、引金を引かうとしたとき
○いざり三、我等の背後にあたつて、物凄く、小石をとばし、石を投げ、
○いざり四、四匹の猪が、我々にむかつて、まつしぐら、
○合唱男子、そこで腰の蝶つがひを、鋭い牙で突きあげられた。
○合唱いざり、傷つきながらもおれ等の胆つ玉はすわつてゐた。逃げる猪の背後から(間)筒口揃へてぶつ放した。
○合唱婦人、(哄笑)そこで今度は猪奴の腰の蝶つがひを撃つたといふ寸法でせう(笑)
○合唱いざり、いかにも、いかにも、
○合唱男子、そこで即座に人間が四人、けだものが四匹、(間)都合八つのいざり、それ以来この世に現はれたといふわけか
○合唱いざり、まあ、聞いて下さい旦那さま方、奥様がた、それ以来の、わしらの生活が(激しくススリ泣き)どのやうに惨めで惨めであつたかを。
○いざり一、猪獲りの名人が山を下りても、こんな惨めな腰格好じや、だれも迎へてくれない。
○いざり三、子供達にはマラソン競争を申込まれるし
○いざり二、物乞ひもしねえのに、帽子を脱いだら、チャリンと金を放りこみやがるし、
○いざり四、大[#「大」に「ママ」の注記]の野郎まで、(泣きながら)馬鹿にしくさつて、背くらべにやつてくる
○いざり一、そこでたまらなくなつて、村に引こんで百姓だ。
○男子一、(激しく)百姓になる、そいつは思ひつきだ。
○いざり二、(ふてぶてしく)我々片輪者は、人間に見放されたんだ(哀れ深く)だが自然にしがみついてゐる分ぢや、邪魔になるまいと思ふのさ、
○男子二、そこで馬にひつぱられて、膝頭で畑の土を掻きまはしたのか、
○いざり三、さうだ、おれたちはシャベルを使ふことは第一流になつた。鎌をうちこむことを熟練した。
○いざり四、足腰の満足な百姓のやうに、畑打ちに、ひよいひよいといち/\腰を曲げる世話もいらねい、
○いざり一、彼等より短かい鍬を使つて、彼等よりずつと先の方まで鍬がのびたよ、
○男子二、(覗きこむやうに出て)自然は、きみたちを心から愛しただらうね。
○男子二、大地は君達百姓にとつて、偉大な楯だからね、
○男子四、あらゆる百姓の不幸が、自然の影にかくれてしまふから。
○男子一、(叫ぶ)百姓にとつて大地は隠れミノだ。
○婦人一、(叫ぶ)自然は親切すぎる悪い女。
○婦人四、(叫ぶ)また厳めしい父でもある、
○婦人三、(叫ぶ)自然の奴は人間の智識を小さく見よう、見ようとするヤキモチ焼よ、
○婦人二、(叫ぶ)あるときは自然は人間を激しく折檻する、
○いざり一、(泣き声で)そ、そ、その通りでさ、わしら折檻されましたよ、嵐で、雨で、風で、雪で、雹をもつて、
○いざり二、(泣き声で)そのくせ後から激しく可愛がるムラ気なママ母の愛のやうでもありました、
○いざり三、(泣き声で)一握の土を、手の上にのつけてごらん、おお、そしたら百姓の苦しみが判らあ、なんて土は重いんだ手の上のこいつの重さといつたら、まるで大地の重さだ、
○男子一、(絶叫的に)悲惨だ、百姓の智恵は悲惨だ、道徳は、悲惨だ。
○男子二、(耳をそばたてゝ)ゴーといふ風鳴りだ、
○男子三、(平然と落ついて)風の前には、かなはない。
○婦人一、でもすばらしい、百姓の小さな知恵が、大地の大きな苦しみを、大きな重みを知つてゐるんだから。
○婦人二、それは決して小さな智恵とはいへないでせう。
○男子一、学問のあるものはどうだ。
○男子三、労働に依つてではなく、思策によつて、
○男子二、大地の秘密を知らうとする、学者はどうだ。
○男子四、学生は、大地の重みを知つてゐるか、
○男子五、職工はどうだ、
○男子六、会社員は、大地の苦しみを知つてゐるか、
○合唱男子、あらゆる人々は、どうだ、
○婦人二、百姓は大地を、第一頁から読んでゆく、ものゝ三頁も読まないうちに、彼等は自然を理解してしまふ。
○男子四、学者は、非常な速度で読んでゐる、今一千頁目だ、だが大地の秘密はなか/\判らない。
〇合唱婦人、(強く)大地の重圧から人間を救へ、
○合唱いざり、(哀れに)大地の重圧からはぬけきれぬ。
○いざり一、(叫び)ぬけきれぬ、
○いざり二、(叫び)ぬけきれぬ、
○合唱男子、(希望に満ちた声で)大地に勝て勝て(太鼓乱打)
○婦人、いざり、男子合唱、人間の集団の力をもつて!
○婦人一、(恐怖の眼で空の一角を指さし)おゝ恐ろしい、恐ろしい、ごらん、あの自然の一角を、
○婦人二、(恐怖をもつて)自然が騒ぎ出したごらん、ミルク色の雲が、みる/\不機嫌な灰色になつてしまつた。
〇男子二、(感動的に)自然が美しい痙攣を始めたのだ
○男子三、(恐怖の声)襲つて来る。
○婦人一、徐々に
○男子一、いや急速にだ―
○婦人三、徐々に
○男子一、いや急速に―
◇ ◇
○いざり一、(身ぶるひして)自然、狡猾な奴、力よ、
○いざり二、(恐怖して)おゝ、お前は、鋼鉄の鞭をもつて、おれたちの処へ、打ちにやつてくる、(風の音、舞台急に暗くなる)
○男子の声、風だ、逃げろ、
○男子の声、岩蔭に、
○男子の声、暴風襲来(暴風来る、電光乱れる男子婦人の合唱隊四散、いざり、凝然と座つたまゝ天の一角をみつめつゝ風に堪えてゐる)落雷!
○いざり達、ウーム(気絶して、硬直して仰向けに倒れる(間)いざり達突然立ちあがり叫ぶ)
○いざり二、(高く絶叫して)おれたちは、立つた。
○いざり四、おれたちは自然に負けないぞ、今度こそは、貴様を、百姓の鞭でひつぱたいてやる
○いざり一、さあ、尻を出せ、眼に見えない天の馬め、
○いざり三、打ちこめ、打ちこめ、打ちこめ、自然の風の中へ鞭を、打ちこめ、
○いざり一、風の運行を速やかに
○いざり二、すべてはたつた今、始まつた許りだ、
○いざり四、すべては新しいんだ、
○いざり二、おゝ、新しいもの、新しいものよ、来れ、男子[#「男子」に「ママ」の注記]
○婦人合唱隊、嵐の中をよろめきながら、四人のいざりの傍へ集団的にやつてくる、そして四人のいざりは一つの記念碑のやうな位置にをかれ、合唱隊は高くいざりの群を支へる。
○合唱(婦人、いざり、男子)おゝ、新しいもの、新しいものよ来れ、奇蹟と名つけられるものを強く肯定せよ。 ―幕―
託児所をつくれ
一
この長詩を書くための材料に
本棚を熱心にかきまはしたが
探す本は発見らない
黒表紙で五十頁余りの
吉田りん子といふ詩人の
『酒場の窓』といふ詩集だ、
捨て難いものがあつて
時々本棚の整理で本を売り飛ばす時も
傍に除けてをくのだから
何処かにまぎれ込んでゐるに相違ない
私は彼女を『奇蹟の女王』と名づけてゐる。
二
彼女が突然詩人のグループに現はれると
詩人達が彼女の周囲に集つた。
布切れの真中をつまみあげると
布の周囲が寄つてくるやうに――、
詩人は女好きだとは頭から決められない
詩人は女に対しては相当選り好みがやかましいのだ、
一個所欠点があると
その一個所を蛇蝎のやうに憎む詩人やら、
他人が欠点と見るところも
勝手に美化し合理化し拝み奉る詩人もある。
三
――何てすばらしい縮れ毛だ
彼女の髪をみてゐると
荒れ果てた庭を見るやうだ、
何となく寂寥と哀愁が湧いてくる。
さういふ理由で縮れ毛の女も愛される、
――僕は、彼女を直感的に好きになつたよ、
皮膚の色が普通の状態ぢやないね、
あくまで白く、透明だ、
陶器の白さではない、
玻璃器の白さだね
つまり肺の悪い女の美しさが
僕の心を一番捉へるよ、
こゝでは肺の悪い女性も歓迎される、
四
――私の異常な美を発見する女といふのは
妊娠三四ケ月目の女だ
彼女の細胞が新しく変つてゆく感じだ、
皮膚の色の美しさ、
喘いでゐる呼吸が
女を感情的に見せる。
詩人は電車の中で
異常な美しさの女をみつけた
女の顔に注いだ視線を
胸元から腹部に落す
彼女の帯は蕗のトウを抱へてゐるやうに
ふつくらとふくれてゐた
妊娠も詩人にとつては美しい。
五
ところで女詩人吉田りん子は
どの種類の美しさの所有者であつたか
特別これといつて変哲もない
小柄な体、脚を活発にはこぶ女
小さな頭、黒い顔、二十二歳にしては
落着いたもの言ひ、
小説家の林芙美子を近代的にして
彼女から卑俗さをぬきとつた、
脱脂乳のやうな淡白な甘みをもつた女、
適宜に男に向つて性慾的な
容子をすることも知つてゐる。
六
すぱりと男のやうな決定的なもの言ひ
それで何の悪意も感じられない、
男に対してはいつも批判的態度を失はぬ
彼女はこれが唯一の武器だ
女に負けることを
楽しみにしてゐる男にとつては
彼女は女将軍で
男達はしきりに彼女の従卒になりたがる、
なんて気の利いた断髪の刈りやうだらう
断崖のやうでなく
柔らかな草の丘の斜面のやうに、
彼女はなだらかに刈りこんでゐる。
七
実は私も彼女が嫌ひではない
もつと正確に言へば、
嫌ひな部類に属する女性ではない
しかし私は少しばかり時間が遅れたやうだ、
切符売場にはずらりと
男達の列がならぶとき
列の後で私は待つてゐる根気がない、
彼女を中心にして
座席争ひで男達は戦はねばなるまい、
憂鬱な話だ
私は男達の女争ひの
観戦武官に如くものはなからう。
八
薄つぺらな詩集を出版した位で
特別に美しくもない彼女が
何故こんなに詩人達に騒がれるのだらう、
彼女が奇蹟を行ふ女のやうに
特別な雰囲気を身につけて
突然に現はれたからだ、
そこには時代的な理由も大いにある、
彼女は現はれ、彼女を中心にして
展開された恋の闘ひの
勝負けのタイプが
恋愛合戦に加つた詩人の運命を
急速に変化させてしまつた、
彼女は詩人達の運命を
決めるため忽然と現はれた不思議な女であつた、
九
恋の観戦武官である私は
当時手に負へない象徴派の詩人であつた、
彼女の出現頃から急激に思想的転廻をして
コンミニスト詩人の陣営に入つたのだ、
思想の三角洲の真中に吉田りん子が立つてゐる
――あなたは、あちら
――君は、そちら。
彼女が男の詩人達にそれぞれ階級的所属を指図し、
片つ端から整理したやうなものだ、
詩人の大西三津三彼もまたコンミニスト入りの
契機を彼女に与へられた。
十
悪意の無い男を
誰かに求められたら
私は躊躇なく大西三津三を挙げる、
現実は狡猾で詐欺的なところだ
そこねられない人間が
狡猾な世界に一人でもゐるといふ事が既に奇蹟だ
彼は二十五歳だ、
少年のやうな可愛い眼をしてゐる、
女に対しては謙遜で
女の命令は絶対的にまもる
彼に言はせると
女は真実で真理そのものだ――、といふ
『女を欺すのもよからう、
僕は女に欺されよう、女に最後まで欺されよう』
その結果はどうなるだらう、
男はほんとうに心から
女に欺されたものなどは一人だつてゐない
多くは欺されさうになると
切りあげてしまふ――と彼はいふ。
十一
大西の欺され方は徹底してゐる、
女は最初彼を欺むく
女が欺す手段がつきたときは
彼女は純情になるさ――、
根気のよい男だ、
トコトンまで女の感情に
追従してゆく強さをもつてゐる。
彼が予見したやうに
女が純情を捧げだしたとき
彼は逆に優位者の立場に立つ、
彼は勇者のやうに
今度は一歩も退却しない、
彼は幾人かの女に欺され
最後には女に感謝された。
十二
彼は水が引くやうに
あつさりと女から手をひく
女には勝利の想出が永遠にのこるのだ、
りん子の詩集出版記念会が
新宿の小さな喫茶店で開かれた、
大西は詩集を彼女から贈られ、
彼女の噂もきいてゐたので
多分に興味も手伝つて会に出掛かけてゆく、
三十人程の詩人が集つた、
彼女は少女のやうに
自分の席から眺めまはす
個々の男との交際は多からう、
しかし斯う沢山の男が自分を中心に集つたといふ
始めての経験が彼女にとつては珍らしく
顔を栗色に輝やかす。
十三
彼女は来会者をながめ
知人や好意のもてる人には
強く意味ふかい視線を送る。
会は楽しくない、白けきつてゐた、
彼女を褒めることは彼女に惚れ
批評することは悪くいふことになつた、
詩人達は早く会が
終ることを望んでゐた、
温和で陰鬱で飛躍的な動作をとる詩人達の性格が
焦々とその飛躍の時を待つ
誰か素晴しいテーブルスピーチで
その場を弾力的なものにしなければ
無言劇に終りさうだ。
十四
六人の詩人が卓上演説をやつた、
大西三津三も何やら自分にも他人にも判らないことを
口の中で言つてのけた、
『エロテック』『エロテック』
といふ言葉が
彼がしやべつた沢山の言葉の中で
特にはつきりと人々にきこえた
人々は始めて声を揃へて哄笑し
幾分会はなめらかになつた
だがその頃は会を閉ぢなければならない。
十五
人々は会が閉ぢても未練がましく
会場を去らないのが
文学者の会のしきたりだ、
先輩にあいさつしたり後輩を手なづけたり
帰りに何処かで一杯飲まうといふ
暗黙の間の相談など
会場を去り際の時間に行はれる
りん子の会は珍らしく
人々は潮が引くやうに会場を出てしまふ
りん子を中心に十人の詩人達が
ぞろぞろ喫茶店に繰り込んだ、
其処を出て次には酒場に入つた頃は
十人は六人に整理され減つてゐた。
十六
りん子や男達は酔つ払つて
バーの女給達のサービスを
必要としないほど
隅にをけない余興がとびだした、
酒場を出た、全く夜になつてゐた、
――りん子さん、今夜は貴女は何処へかへるつもり
――わたしだつて帰る家位あつてよ、
――いや、いや、これは失礼しました。
帰るところを尋ねるなんて
対手をたいへん軽蔑したことになる、
美しい彼女が泊るところがないなんて
想像するさへ愚劣なことだ
男の住んでゐる世界であれば
彼女の泊るところはある筈だのに
十七
――いや、実は、りん子さん
誤解しないで下さい――。
どうです諸君、今夜は『酒場の窓』の
著者を中心にして夜を徹して語りたいと思ふが
諸君、賛成してくれ給へ――
何といふ素晴らしい提案だ、
女を中心に徹夜で語る
話題が尽きたら男達は
殴り合ひをしたら退屈は救はれる、
どうやら、さういふ危険な座談会になりさうだ、
怖気づいて二人の詩人は去つた。
そこで六人は四人に整理された、
残つた者は何れも勇敢にして選ばれた者だ。
十八
――誰かこのうちで独身者が居ないかね
そこの室を借りよう、
みんな四人共独身者だよ、
親がゝりや、間借人は駄目だよ、
夜通ししやべるんだから
周囲に気兼ねをするやうぢやね
誰か、一軒家を借りてるものがゐないのか
尾山清之助、君のところがいゝ
さうだ賛成だ
尾山は最近独身者になつたのだから、
衆議一決した、
尾山は一ケ年程前に妻を喪ひ
六つのサクラ子といふ
遺児と暮らしてゐた
四人の勇者達は
たがひにりん子をいたはりながら
東中野の尾山の家へ繰り込んだ。
十九
尾山の家は男住ひの寒々とした感じであつた、
尾山は隣家にあづけてをいた
わが児のサクラ子を連れて来た
サクラ子は不意の沢山のお客に
眼をみはつてをどろいた、
間もなくはしやぎ出した
りん子も妙に落着いた気持になつて
勇敢に安坐を組んでよくしやべつた、
『動物詩集』を出した草刈真太は
りん子の傍を離れまい/\と
おそろしく努力を払つてゐた。
尾山は妻を喪つた後の寂寥さに
ときならぬ女客を迎へて
部屋の空気の和やかさを
楽しんでゐる風であつた、
アナアキスト詩人の古谷典吉は
彼女を半分だけ愛し
残りの半分は彼女の態度を眼に余つた
苦々しいものゝやうに沈黙してゐた
大西三津三は、たゞもう無邪気に
女の若さと語ることの嬉しさで一杯であつた。
次第に夜は更けてきた
反対に人々の眼は益々冴えて
沈黙勝になつていつた。
二十
夜は悪戯者で意地悪だ、
夜の計画は、夜は遂行できないが
昼の計画したことは夜できる
四人の中幾人かの詩人は
明るい間に計画してをいたこと
彼女を独占的に愛したいといふこと、
夜が来た、計画を遂行しなければ――、
選ばれた勇者は四である
それを一に帰さなければならない
りん子に対する四人の男の
心の探り合ひは一通りすんでゐた
だが、まだ/゛\勝負は決められない
飛躍といふこともあるからだ
二十一
一番りん子を愛してゐない男の
勝に帰するといふこともあるから
愛してゐないものが勝つなんて
さういふことは真理にそむく
真理を守るには戦はねばなるまい
戦ひ尽して負けてゆくことは本望だ
勇者の消極性は一番滑稽だ
弱者の精一杯の積極性が
時には勇者に勝つことがある
女を愛するには遠慮がいらない
戦へ、戦へ、今宵一夜の戦場であるぞ――。
と何処かで戦の神が叫んでゐるやうだ。
尾山の家は六畳、四畳半、廊下つきの家、
瓦斯も電燈も四ケ月前に切られてゐる、
ローソクを立てゝ詩に関して一同は熱弁をふるひ
果てはアナアキスト詩人古谷典吉と
大西三津三との激論になつた、
二十二
――ぢや何だな、大西君
君はしきりにアナアキズムを攻撃するが、
君は一体思想的には何主義を奉じてゐる詩人なんだ。
――僕は何主義も奉じてはゐない
たゞ僕はアナアキズムの自由は
真の自由ではないと思ふ
僕は真の自由といふものは
精神の規律化、精神の典型化を生活上に
当てはめたものだと思ふ
そのやうな思想を信じたい
――そんな馬鹿なことがあるものか
規律、典型、秩序、道徳、そんなものは必要でない、
一切のものゝ破壊だ
それが自由さ。
――僕はあくまでその種の自由を
自由とは認めない
アナアキズムは観念の世界の自由だ
手綱なしで乗る馬さ
君等は人間の本能を
制御する力もないんだから
秩序ある自由の下に
真の闘ひを展開させることなどはできない
――いや、よく解つたよ、
大西三津三君はどうやら
怪しげな思想体系をもち始めたよ、
然し思想体系をもつものは
集団行動をしなければ意味がないんだ、
我々アナアキスト詩人は
いゝ友情の下に組織的行動をとつてゐるんだ、
ところで君は何主義でもないといふ
なんの集団行動もやつてをらん
つまり君のは個人的法螺だな。
二十三
――僕は、真の自由主義者だよ
君が是非共僕に主義を
声明しろと言ふんなら言ふさ、
僕は、アナアキズム反対主義さ
――何をッ、大西、もういつぺん言つてみろ
君はアナアキスト詩人壺川茂吉が
我々の陣営を裏切つて
コンミニストの方へ走つた
そして我々に足を折られたことを覚えてゐるだらう。
大西はアグラの膝を立てた
――それで君も僕の足を
折らうといふのかね
君達に他人の足を折る自由と
権利があつたら、さうし給へ
壺川の場合だつて彼は豪いさ、
信ずる方向へ進むためには、
足を折られても妥協のない行動をとつたのだ。
何時果てるとも判らぬ議論の間に
りん子の甘つたれた声が仲裁に入つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
彼女の声で二人の論敵たちは
夢から醒めたやうに
たがひに顔を見合せてにやりと笑つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
二人はもう一度口の中で
彼女の言葉を繰り返してみた。
二十四
蝋燭が尽きさうになつた、
パチパチと爪を切るやうな音をたてた、
理由ははつきりとしてゐるのだが
一同はそれを口に言ひ表はすことができない
――誰が彼女にもつとも接近したところに寝るか
由来恋は地理的である、
地の利を占めることが最も必要だ
尾山は年輩者らしく
早くも其の場の人々の関心事を見てとつた、
一切を彼女の自由意志にまかすことだ
彼女がどこにどのやうな塹壕をつくつて
男達を防ぐか
それとも彼女が全く城門を開放してしまふか
二十五
戦術家としての彼女の意志を知る必要がある
――りん子さん、あなたは何処へお寝みになる
彼女の答は活溌だ
――私に、六畳の部屋をくださいな
わたし一人の部屋よ
みなさんは四畳半に寝たらいゝわ
おゝ、なんといふ公平な処置だらう、
彼女は聡明である、
りん子は押入から夜具を引き出さうとした
押入れには掛布団が一枚入つてゐるばかり
――寒かつたら何でも
引ずりだして掛けて下さい
毛布が一枚あるよ
我々はみんなゴロ寝だ、
一人の女王のために
四人の兵士は野営の状態だ
それもよからう、心から王者に仕へるといふ
馬鹿者の心理は幸福だから、
二十六
りん子は六畳の真中に夜具を敷き
火鉢の火に手をかざしながら
何やら雑誌を読みだした、
男達とサクラ子は四畳半に鮨詰めになつて
穏やかならぬ興奮状態で低い声で話合ふ
――君は吉田りん子といふ女を
どう思ふかね
悪党でもないやうだね、
草刈真太は低い吃り声で
古谷典吉に向つて語りだす、
――おれは、あの女が好きなんだ、
――ところで大西君も
あの女に満更でもないだらう、白状しろ
二十七
草刈の質問で大西三津三は悲しさうな顔をした
――まあ、待つてくれよ、
おれといふ男はね
女を好きになるまでには
とても時間がかかるんだ
それは悲しいことだよ
りん子だつて好きとも嫌ひとも
まだ判断がつかないんだ
漠然たる不安の間に
時に怖ろしく勇気が出ることもあるが
あゝいふ、颯爽とした女と
つきあつた経験がないんだよ
――さうかね、尾山清之助先生の感想は
尾山は答へない
愛児のサクラ子を寝せつけながら
ただくす/\と笑つてゐる
サクラ子は次第に眠気を催ほして
可愛い黒い瞼毛のまぶたを
とぢたり、あけたりして間もなく寝入つてしまつた
二十八
――ところで俺だ、
俺はあの女好きだよ
彼女はいつも濡[#底本の「漏」を訂正]れてゐるカハウソといつた情味と
精悍さを兼ね備へてゐる
『動物詩集』の作者、草刈真太は
絶讃する言葉に苦しんでゐるやうな
真に迫つた表情をする
草刈の形容は当つてゐる
彼女の小さな体は
いつも充実した感情で
水を出入りするカハウソによく似てゐる、
そして小さな体が怖ろしく強いはげしい
抱擁力を隠してゐるかのやうだ、
アナアキスト古谷はしだいに
憂鬱な表情に変つていつた、
彼はいかにも行動者らしい沈黙の中に
何か確信的な太い呼吸を
そつとときどき洩らしてゐる。
二十九
男達の部屋の蝋燭は消され
いくらか遅れてりん子の部屋の蝋燭も消えた
長い時間男達の眼は
闇の中で開らかれたまゝであつた
男達の瞼を『おやすみなさい――』と
柔かい指で睡魔が撫で廻してあるいたが
男達の眼は反抗的であつた。
しかし男達の瞼も夜に征服され
鎧戸が下りたやうに閉ざされた、
小犬のやうにクンクン鳴いたり
馬のやうに低く嘶いたり
猫のやうにゴロゴロ言つたり、
さまざまな動物的な音をたてながら
詩人たちは寝入つてゐる。
三十
大西三津三は不意に体の何処かにショックをうけ
痙攣的に飛び起きた
時刻はわからないが真夜中にちがひない
こはれた笛のやうな寝息をきいた
ぐずぐずと呟くやうな
鼻の鳴る音がきこえた、
――誰だらう、蓄膿症奴が、
彼はひとりごとを言ひながら
廊下伝ひに便所に行つた
彼女の部屋では火鉢の上で鉄瓶が
チンチンと可憐な音をたてゝゐた
すると彼女の元気のよい声で
――誰、まだ起きていらつしたのは、
寒いでせう、お入んなさい
大西三津三は『は』と軍隊式簡単明瞭に答へて
襖をあけて女の部屋に入つていつた
大西の主義はいつも
『女に対して従順であるから――』
三十一
何といふ四畳半の馬鹿者共の高い寝息だらう
飛躍と奇蹟がいつぺんに訪れて
武装解除した敵地に入城する快感のために
大西の両の膝頭がかすかに
カスタネットのやうに鳴るのだ、
彼女がカハウソであらうが
鵞鳥であらうがかまはない
寂寥な独身者である自分の傍に
生きものが寝てくれるといふことは
なんといふ最大なる幸福だらう、
あゝ、すばらしい
明日からおれの運命は方向転換するだらう
懶惰と憂鬱との無味乾燥は去り
俺の美しい一生はひらけるだらう
大西は彼女の寝床に従順であつた
三十二
ところでどうやら寝床の中の
状勢は怪しいのだ
彼が彼女の傍に入つてゆくと
彼女の肉体が衝撃をうけた尺取虫のやうに
硬直してしまつた
大西はラヂオ技師のやうに
しきりに彼女の肉体にノックしたが
あゝ、世界の何処からも応答がない
我が北極探険船は
氷の寂寥に閉されて進むことも退くことも
出来ない破目に陥つた
彼の兼々主張する女に対する『漠然たる不安』
そんなものはとつくにけし飛んでしまつた
これ以上明瞭な不安はない
――およしなさいよ。お帰へりなさい
彼女は美しい声で
邪剣な退去命令を大西に下した。
三十三
――はッ、失礼致しました
兵卒が上官に面責されたやうに
大西三津三はガバと彼女の寝床から離れ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、の軍隊式の足取りで
四畳半に引きあげた
不思議な時間といふものもあるものだ
最大の幸福と最大の不幸との
継ぎ目といふものは
こんなに見分けがつかないものか
たしかに彼女が
『お寒いでせう、お入んなさい――』
といつたのに、そして従順であつたのに、
勇士が馬に乗つて
見事に障碍物をとんだと思つたのに
馬は見事にとんだが
乗手は鞍から離れて
いやといふほど痛い障碍物の上に
乗つかつてしまふとは
真夜中の乗馬遊びでよいやうなものの
白昼の観客注視の只中であつたら
帽子で顔を隠して
競馬場を逃げ出さなければならなかつたのだ
曾つて愚かにきこえた四畳半のわが友の寝息よ
いまは平安な男達の
賢明な寝息にきこえるばかり。
三十四
春の朝の明るい部屋の中へ
濶達な女王さまは起きてゐる
男達はのろのろと
陰気な動物のやうに四畳半から出てくる
みると彼女の傍には夜着などをきこんで
意外や草刈真太が
特別製の威厳と幸福とを顔中にみなぎらして
彼女に寄添ふやうに坐つてゐる
常態でない
一夜にして草刈真太は亭主然としてゐる
太陽の光りの屈折が位置を変へたのだ
なぜといつて草刈奴の顔へばかり、
なごやかな平和な淡虹色の
光りが集注してゐたから
草刈は輝やいた顔で彼女と喋々喃々する。
三十五
りん子は一同を見渡して
女には珍らしく威厳のある声で
――わたし達の共同生活は、といふ
――よろしく組織的でなければ、ならないわね、とつゞける
――古谷さん、貴方は掃除係り、
――尾山さんは炊事当番、
――大西さん、貴方は育児係りをして下さいな、
アナアキスト古谷典吉は情けない顔をして
――おれは、つまり便所掃除もするわけだな
――勿論、それから庭もね、玄関の前のドブ板のこはれたのも修理して下さい、
――よろしい
――大西さんは育児係りだから
サクラ子ちやんを連れて
一日中遊びあるいて頂戴、
大西は彼女の命令を快諾した
――しかしりん子さん。子供のお守りには
オヤツがいるから経費がかゝりますよ。
りん子は財布の中から出した
五十銭玉を一つポンと投げだした
――今日一日中の育児料を差し上げますわ
――ありがたい。大西三津三はニヤリと笑つた
炊事係尾山は市場に買出しにでかける。
三十六
ところで掃除係りの古谷から苦情がでた
――りん子さん。仕事の割り当ての済まない男が一人残つてをりますよ
草刈真太君は何役ですか?
りん子はコケッティッシュにうそぶいて
――草刈さんは、わたしの亭主。
古谷典吉はをどろいた
――りん子さん、それは酷い
我々を雑役に追ひやつて
草刈の奴だけ丹前を着て収まるなんて、
草刈があなたの亭主、なるほど、
彼はゴクリと唾をのみこんだ
――亭主なんて穏やかでない
しかも我々の共同生活には
亭主などゝいふ封建的な動物はゐなかつた筈だ、
りん子さん、我々は不平です
もつと穏やかな言ひ方をして下さい
りん子はそこで斯う言ひ方を訂正した、
――私たちの共同生活会社では
わたしが女社長だから
草刈さんを、わたしの秘書といふことにしてをきませうね、
――ところで貴女の草刈秘書は
あなたに対してどんな仕事をするのですか
――いえ、それは当会杜の機密に
属してをりますから公開できませんの。
三十七
詩人達の朝飯が始まつた、
炊事係りの尾山清之助は
ハンペンの味噌汁をつくつた
喰ふとき草刈秘書から抗議がでた
――いつたい、ハンペンなどが人間の喰ひ物かい、
いつたいハンペンが人類の食ひ物として
歴史に現はれ始めたのはいつのことかは知らない、
しかしかゝる変てこなものを
平気で喰ふ人間の神経のにぶさが問題だよ、
尾山炊事係りは憤然として
――それは[#底本の「それに」を訂正]大いに違ふ、ハンペンを攻撃する
君の神経の方がどうかしてゐる
食物とは、決して歯や舌に負担を
かけるやうな固いものを選むべきではない
つまりハンペンは舌より柔らかい食物だ、
文明人ほど柔らかいものを喰ふ
みたまへ、西洋人の喰べ物を
ジャム、マヨネーヅソース、ミルク、
バタ、チーズ、シュークリーム、
――なんだい、その最後のシュークリームといふのは
――いや、僕が大好きだからさ、
さういふ具合に文明人ほど
食物に流動体を選むやうになる
ハンペンとは現段階に於ける
固形食物としては最も柔らかい方の存在だよ、
尾山炊事係りと草刈秘書とは論争する
――草刈君、それでは僕は炊事係りをやめる
明日から君が炊事係りになり給へ
僕はりん子さんの秘書になるから
尾山がかういふと『それには及ばぬ』と
草刈秘書は議論を打切つてしまつた。
夜が来た、
大西三津三がサクラ子のお守りで
綿のやうに疲れて帰つてくる、
夜になつたのだ、秘密を手なづけ
運命をおもちやにし、
薄弱な意志を深刻さうに持ち廻るには
都合のよい夜がやつてきた
りん子社長は六畳の間で芳香を放ち
四畳半の男たちは匂ひのする方向に
鼻づらをならべて寝た。
三十八
第二夜は明けて朝となり、運命は逆転してゐた、
きのふの秘書草刈真太はしよんぼりとして
新らたに古谷典吉が丹前を着込んで
りん子の傍に亭主然と坐つてゐる
草刈秘書は失脚して掃除係りにまはされた
草刈は便所のキンカクシに
タハシをかけて洗ひながら呟いた、
――女は深い淵のやうで
その心、はかり知れないなどゝは嘘の骨頂
女の心なんて皿よりも浅い
男は女を操縦しようとして
あまりにも長い竿をもちすぎて失敗する
浅い川には、小さな船、短かい竿がいちばんいゝ、
きのふの秘書は、今日の雑役夫、
愛は一日にして、古谷奴に横取りされたが
あすはまた取り返してやる
よろしい、愛が刹那によつて最高だとすれば、
まずもつて俺の愛は完全であつた、
これからは女といふものを
あまり深刻には考へまい
千切れ雲を追ふやうな寂寥の心で
たゞ熱心に追つかけたらいゝ
三十九
古谷秘書はりん子の傍でやにさがり
尾山清之助は台所でぶつくさ言ひながら
大根オロシで大根を擦つてゐる
大西三津三は縁側で
サクラ子を相手にオハジキをやつてゐる
食事がすむと育児係大西は
サクラ子を連れてぷいと家を飛び出す
郊外の土手伝ひに
二人は足にまかせて歩るきだす
とつぜん立ちどまつて蟻の戦争を見物する
――サクラ子ちやん、どつちの蟻が勝つと思ふ
――あたい、わからないわ
――そりや、おぢさんだつてわからないさ
しかし結局。強い方が勝つにきまつてる、
それが真理だ、
――ぢや、おぢちやん
どつちの蟻も弱かつたらどうなるの、
――うむ、さういふことも確かにあるな
そこで大西は考へこんだが
適当な答へを引きだすことができなかつた。
四十
そのとき路を横切らうとする一匹のガマをみつけた、
――おぢちやん、大きな蛙ね、
――蟇といふんだよ、
僕はこ奴のためにかう歌つてやらう
『ガマよ、お前は動物ではない
うごきまはる古い靴だ
死の怖れを知らない、強い奴』とね
全くだ古靴は死なうとか生きようとか
面倒臭いことは考へないからな
――おぢちやん、何をしやべつてゐるのよ
おぢちやんとガマとどつちが強い
――勿論、人間の方が強い
――ぢや、戦争をしてごらんよ
――よし戦つてやる、サクラ子ちやん見てゐてごらん、
――あたい、おぢちやんの味方になるわね
――いや一人でたくさんだ
大西三津三はたちまち洋服の上着を脱いで
蟇の前方にまはつて
強い視線をもつて
凝然と蟇を睨めつけた。
四十一
まず第一に奇襲を試みる必要がある
大西は蟇の頭の上へ、しやあしやあと小便を始めた
蟇は落下するものを、脂つこい皮膚ではじきとばし
ときどき手をもつて
うるささうに顔を拭つた
そのとき大西は小さな太鼓を
打つてゐるやうな快感を肉体に感じた
蟇は半眼をひらきじつと
大西の股間にぶら下つてゐる異様なものを
睨めつけてゐた
大西がふと気がつくとサクラ子もまた
不思議さうに大西の股間のものを珍しさうに
首をかしげて眺めてゐたのに気がついて
育児係りの任務を思ひだし
あわてゝ水責めの奇襲を打切つて
こんどはどこからか大石を運んできた
投げをろさうとして蟇の頭上にもつていつた
蟇は全く死を怖れざる古靴であつた
悠々として歩るきまはる
『生命の中には死はなし
死とは生命の外より来るものなり』
と哲人めいた達観ヅラで
ちよいちよい横眼で石をみあげながら進む
大西は石をもちあげたが
心の疲れでそれを蟇の上に落す力を失つた
――サクラ子ちやん、おぢさんは蟇に負けたよ。
四十二
蟇が死を怖れない永遠の強者なら
詩人はよろしくそのやうに強くならねばならない
こ奴の厚い無神経な皮膚はどうだ
鉄仮面をかぶつたやうに
陥没した奥のところに光つた眼がある
西洋の歴史物語にでてくる
暴れる囚人に着せる皮の外套、狭搾衣、
蟇も詩人も生れながらにして
運命の狭搾衣を着せられたやうなものだ
そのとき蟇はかう言つてゐるやうだ
――肉体のあるかぎり、行為はあるさ、と
ところで詩人は運命に対しても行為に対しても
あゝ、蟇よりも、蛙よりも、オタマジャクシよりも劣弱だ
大西三津三は別れる蟇に敬意を表し
サクラ子の手をひいて歩るきだした。
四十三
周囲は暮れかゝつてきた
思ひがけないさびしい郊外の原つぱに来てゐた、
遠くには瓦斯タンクが黒くそそりたち
家々も離れ点在してゐた
蟇と戦つて思はぬ時間を費したのだ、
街の灯がはるかに空に映つてゐる
――サクラ子ちやん、遅くなつてしまつたよ
いそいで帰らう
大西がサクラ子を引きたてた
サクラ子はお河童の髪を横にふつて
――あたい、お家に帰らないの、と言ひだした、
大西はおどろいてあわてゝ手をひつぱると
サクラ子は草の上にぺたりと坐つてしまつた
――どうしてお家に帰らないのサクラ子ちやん
――あたいお家が嫌になつたのよ
ママちやん死んじまつたし
パパはもうあたいを可愛がつてくれないし
よそのおばちやんが
あたいの毛布をとつてしまつたの
だからおぢちやんとこゝに寝るの
――仕方がない、彼女が野宿をしようとするなら、止むを得まい。
四十四
大西は枯草を集めてきて敷いた
その上にサクラ子を寝せ
大西の片腕を枕にさせて
一枚のレインコートを二人でかけた
それでどうやら夜冷えは避けられさうだが
心と眼とは益々冴えるばかり
――ねえ、おぢちやん何かお話をして頂戴
――おぢさんはお話をさつぱり知らないんだよ
――どんなでもいゝから話してよ
――何か無いかな、短かくてもいゝかい
――どんなんでもいゝの
――それぢや話さう、昔々あるところに
お爺さんとお婆さんとがをりました
お爺さんが歳をとつて死にました
それからお婆さんが歳をとつて死にました
――まあ、おもしろいわね――。
四十五
仰向いて寝ながらみる夜空の美くしさを
サクラ子は早くも発見した
大西は子供の美に対する感受性の早さに
大人の詩人は到底敵はないと心に思つた
地上に寝ながら満天の星をみてゐると
物理的な錯覚にとらへられる
地球もまた空間に浮んでゐるものとすれば
自分は地球の外側に浮彫りにされて動きがとれず
寝て眺めてゐるのに、空は星をちりばめた
一枚の直立した壁で
それに真向ひに立つてゐるやうな気がする
――おぢちやん、あのお星さまは奇麗だわね
指さすサクラ子の指の先には
たがひに手をひきあつて労はりあつてゐるやうに
七つの星がふらふらとゆれてゐた
――あれを北斗七星といふんだよ
ほら、あそこに光つた親星があるだらう
そのそばに小さな星が光つてゐるだらう
小さな方を支那では『輔星』といふんだよ
ひとつ星占ひをやつてやらうかな
親星の方を支那では
支那の天子さまと呼んでゐて
傍の輔星は『宰相』つまり内閣総理大臣
といふわけだ
ところでどつちが光つてゐるか
昔の支那人はそれをためして占つた
かう言つたんだよ
「輔星明かにして斗明かならざれば
則ち臣強く君弱し」
「斗明かにして輔明かならざれば
則ち君強く臣弱し」
「輔星若し明かに大にして
斗と会ふ時に、則ち国兵暴かに起る」
星を仰ぎながら天下の社会状勢を
占つた支那人はロマンチックな人種だな
四十六
――ひとつサクラ子ちやんの純真無垢の眼をもつて
どつちのお星さんが光つてゐるか当てゝごらん
しかしよさう、
かういふ幼児に真実を言はせるといふ
大人の押しつけは憎まれるべきだ
我々大人が真実を言はなければならん
――おぢちやん、何をひとりでしやべつてゐるのよ、
サクラ子眠くなつたの、おぢちやん何か歌つてよ、
ママちやんはいつもおやすみのとき
サクラ子に歌をうたつてくれたの
かうやつてね、布団をたたいてくれたの
――サクラ子ちやん、
それではおぢ[#底本の「じ」を訂正]ちやんが、朝鮮のお友達から
教はつたアリランの歌といふのを歌つてあげよう
そこで大西三津三は
星を仰ぎながら小声で歌ひだした
「アリラン
アリラン
アラリヨ
アリラン峠を越えてゆく
かくも蒼空に、星はあれど
われらが胸は
斯くもむなし」
歌ひ終ると大西は寝ながらチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと
空にむかつて唾をとばし
「斯くも蒼空に星はあれど
我等が胸は斯くもむなし」かと
口の中で繰り返した、
サクラ子の肩を手で軽くたたきながら
もう眠つたらうと顔をのぞきこむと
サクラ子は冴えた眼をしてゐて
つづけて歌へとせがむ
四十七
――ぢや、もう一つだけアリランの歌のつゞきを
歌つてあげるから今度は温和しく眠るんだよ
大西は眺めるともなく空を視線で撫でまはしてゐると
視線は空の一角で一つの星が地上にむかつて
青白い光りの線と化して
流れ墜ちるのとぶつかつた
眼に強い刺戟をうけた
すると倦怠と脅えと疲労とが
彼を眠りの中に一気に引きこんだ
大西は睡魔と闘ひ、非常に努力しながら
とぎれとぎれにアリランの歌をうたひだした、
「アリラン
アリラン
アラリヨ
アリラン峠をこえてゆく
富と貧しさは
まはりかはるものなれば
汝等、なげくなかれ
いつかは君等にも来るものを」
歌ひ終つたとき全く眠りが彼をとらへてしまひ
どこか遠くの方でサクラ子の声をきいた、
サクラ子はじつと大西の歌をきいてゐたが
「おぢちやん、こんどはあたいが歌ふ番だわ
おぢちやん、おぢちやん、
―坊やはよい子だ、ねんねしな
坊やの、お守はどこへ行つた
おぢちやん、おぢちやん、おや、ねんねしてしまつたの
―あの山こえて、里行つた、
里のみやげに、何もらうた」
サクラ子は小さな手で大西の胸を
歌ひながら夢うつつで軽くたたきながら
サクラ子が育児係大西を寝せつけた
やがて大西は雷のやうな、いびきをかき始め
つづいてサクラ子も小鼻をピクピク動かしてゐたが、
まもなく二人とも深く寝入つてしまつた、
すると周囲の草が、吹き過ぎる風の
衝撃をうけて生きもののやうに動き始めた、
人々がこんこんと寝入るときに
自然が怒る時を得たかのやうに、
四十八
翌る朝、原つぱの上に陽が
高くあがつてしまつても
二人は死んだやうに寝入つてゐた、
まもなくサクラ子が眼をさまし
寝入つてゐる大西の枕元に
行儀よく、きちんと坐つたまゝで
大西が起きるのを何時までも待つてゐた、
大西があわてゝとびをきて
面目なささうにあたりを見まはし、
それから二人は沈黙がちに歩るきだした、
とつぜん理由のわからぬ怒りがこみあげてきた、
「おれたちは野宿をしたのだ、
誰がそんなことをさしたのだ
母親をなくしてしまつた可哀さうなサクラ子、
ぐうたら詩人尾山を父親にもつた可哀さうなサクラ子
最初の人生を野原に寝て味はつた可愛[#[愛」に「ママ」の注記]さうなサクラ子
この子をこれから誰が育てるのか、
託児所をつくれ」
大西はカッと眼をみひらいて空を睨んだ
そのとき朝の太陽は
「そいつは俺の知つたことぢゃない、
お門違ひだ、託児所のことは政府に頼め」
と太陽はゲラゲラ笑つたやうに思はれた、
「おぢちやん、何をそんな怖い顔をしてゐるのよ、
サクラ子、お家に帰りたくなつたの」
「お家へ帰らう、そして厳重に抗議してやる
第一にサクラ子ちやんの毛布を
あの助平女流詩人から取りかへしてやる、
それから育児係りの辞表を叩きつけてやる、
尾山に父親の正統なる義務を果せと要求してやる」
四十九
尾山の共同生活の家にたどりついた頃は
大西はすつかり元気を失つてゐた、
「あんた達はゆふべ何処へ泊つたのよ」
りん子が六畳間からかう声をかけた
「野宿をしたんだ」
「まあ」といふりん子の声につゞいて
尾山の声で「大西君それだけはしないでくれ給へ」
大西は答へた「教育上よくないかね」
部屋に上つてみると、また運命が変つてゐた、
昨日の古谷は失脚して尾山清之助が
りん子の傍に丹前を着て坐つてゐた、
「すると今度は俺が丹前を着る番だな」
大西は心にさう思ふと穏やかならぬものが
胸から背骨の間を馳けまはるものがあるやうに
思はずぶるると身ぶるひした、
五十
その翌る朝がやつてきたが
大西は丹前を着る機会を失つてゐた、
しかも形勢は異状に展開し
依然として尾山清之助であつた、
その翌る朝もまたその次の日の朝も尾山は連勝し
古谷典吉、草刈真太は共同生活を去つてしまつた、
しかし大西三津三は育児係りの辞表を叩きつけ
りん子から毛布をとりかへす勇気もなく
サクラ子にせがまれると毎日散歩にでかけた、
きのふは新宿、けふは銀座、
銀座尾張町の時計店の前までやつてくると
サクラ子はとつぜん大西に向つて
「あたい踊りたくなつたわ」と
可憐な顔で訴へだした、
「踊つたらいゝさ」
「あたい踊るわ、おぢちやん何か歌つてね」
「よし来た、何がいゝだらうな
青い眼をしたお人形が、でゆくか」
銀座の昼の雑踏の真中で
大西は大きな声で「青い眼」を歌ひだした、
通行人はおどろいてその男の顔を眺めると
その男の足元に小さな女の児が
首を傾げたり、袂を口にくはひたり
手を上にかざしたりして踊つてゐるのを発見した。
五十一
たちまち物見高い都会では
通行人が退屈を救ふいゝ見世物が
こつぜんと鋪道の上に出現したといはぬばかりに
大西とサクラ子を取り巻いて人垣をつくる
その円陣の真中に大西は最大の熱情と
深刻さを顔に出現しながら歌ひ
サクラ子は無心な喜びで
手足ものびのびと可愛らしく踊りつゞける
大西はそのとき突然何を思つたのか
かぶつてゐた帽子をぬいで手にもつて
「諸君」と群集にむかつて叫びかけた
「諸君」僕は母親をなくしたこの子供の育児係りであります、
この子の父親は助平女流詩人に惚れてゐて
この子を構はんのであります
しかもその女はこの子の毛布をうばひました
われわれは野宿をいたしました
諸君。母親の働いてゐる家庭のために
母親をなくした家庭のために
託児所をつくれ!
託児所をつくれ!」
かう怒鳴つて群集の輪を大スピードで
大西は帽子をまはし始めると
チャリン、チャリン、と金属の音が帽子の中にとびこんだ
大西は敏捷な動作で帽子を二三回まはし
集まつた金を数へもせず鷲掴みで
ズボンのポケットの中へ落しこみ
「サクラ子ちやん大成功だ、もう踊らなくてもいゝよ」
とさつさと群集の輪を突切つてその場を去つた、
五十二
それからガードの入口にもたれてゆつくりと
金を数へてみると、銀貨銅貨とりまぜ一円七十五銭
カフェーのマッチが一個に、キャラメル三粒、
意気揚々と省線電車に乗りこんだが
乗客が多くて電車は押すな押すな
見ると一個所大きく席があいてゐる
そこには酔つぱらひが吐いたヘドが
一間四方の放射状に散つてゐて
誰もその前に坐るものがゐない
エビフライの断片とウドンのまじつた嘔吐で
おそらくビールと泡盛と日本酒を
ちゃんぽんにのんだ悪酔がさせたわざであらう、
大西はサクラ子をつれて
そのヘドの前に十人分の坐席を
二人で占領してしやあしやあと
のびのびと悠々と済ました顔で乗つて帰る
五十三
大西とサクラ子が家にたどりつくと
まだ明るいといふのに
不思議にも家中の雨戸がしまつてゐる
尾山とりん子が外出して留守かと思ふと
雨戸のすき間からチラホラと灯がもれ
人のゐる気配がする
怪しいぞと大西が足音を忍ばせ
雨戸のすき間から中を覗くと不思議な光景だ、
昼だといふのに雨戸をしめきつて
部屋の真中の瀬戸の大火鉢を
尾山とりん子が挾んで坐つてゐる
尾山が火箸を一本
りん子が火箸を一本
それぞれ一本づゝの火箸を手にして
無言劇のやうにだまりこくつてうなだれて
火鉢の中の灰をそれでひつかきまはしてゐる
かたはらのチャブ台の上には蝋燭の灯、
たがひに語ることも尽きてたゞ運命の倦怠、
尾山が灰の上に火箸でAと書けば
りん子が灰の上にBと書く
尾山が灰の上にZと書けば
りん子が灰の上に○を書いてしくしくと啜り泣く
大西は雨戸のすきまからじつとそれを覗く、
五十四
大西はすべてのカタストロフ「終局」がやつてきたと思つた
あの女を叩きだしてしまふか、
サクラ子の毛布をうばひかへすか、
あの女と尾山と結婚させてしまふか、
育児係りの辞表を叩きつけてしまふか、
最後の勇気がいるときがやつてきたと考へた、
「君たちも変だよ、昼日中、雨戸をしめて
睨めつくらをしてゐるなんて」
かういつてガラガラピシャンと雨戸をあけてしまひ、
ズボンのポケットから金をだして
ざらざらと畳の上に出す、
「サクラ子ちやんが、とつぜん踊るといひだしたんだ、
所は銀座の真中で、
そこで僕が歌ひサクラ子ちやんは踊つたよ、
帽子をまはしたところが
群集は僕の「託児所をつくれ」の
名演説に感動してこんなに金を投りこんだよ」
すると尾山の顔にさつと暗い影が走つた、
「大西君、それだけはやめてくれ給へ!」
「教育上、よくないかね」
「さうはいはない、たゞ困るのだ」
五十五
大西は興奮を始めた
「尾山君は、父親として自分の子供サクラ子ちやんと
君の友人としての、この大西三津三を軽蔑してはいけない
我々の行為が乞食の行為ででもあつたといふのか、
サクラ子ちやんは踊りたいといふ純真の発露さ、
僕は託児所の必要を痛感し
帽子をまはして広く浄財を集めたゞけだ、
働く母親をもつた労働者農民の家庭のためにも、
君のやうなグータラ詩人の母親をなくした
家庭のためにも
託児所の建設は是非必要なんだ、
僕は君の子供の育児係りとしてそれを痛感した
僕は明日も銀座にでかけるよ、
それが悪かつたら育児係りを辞職する」
「君の気持はわかつてゐる、
僕もサクラ子の父親として恥じるものがある
だが銀座にでかけることだけは勘弁してくれ」
「それでは僕は辞職する
尾山君、サクラ子ちやんは
至急母親が必要なんだよ
君達の恋愛は結婚にすゝむべきだな、
そしてりん子君は母親としての任務を果すべきだ」
そのとき女流詩人吉田りん子は不意に立ち上つた、
そして玄関の方に歩きながら
「大西さん、わたしは恋愛の自由は認めるけれどもね、
女が母性の義務を負はなければならない
そんな感情はもちあはさないの!」
すると大西三津三は瀬戸の火鉢を
平手ではげしく叩きながら
彼女の背後から「出て行け」と吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴りつけた、
「すべての女はみんな母親になれるんだ、この中性女の、子宮後屈奴」
吉田りん子は「さよなら」と
静かな声でいつて出て行つた
それから十分も経つて辞職した大西三津三も
玄関口で見送るサクラ子に
投げキッスをして何処となく去つて行つた、
五十六
読者諸君、この詩はこゝで打切ることができるが、
詩が終つてもまだ十行程現実が残つてゐるから
しやべらしてくれ給へ
其後尾山と吉田りん子とは結婚して
都を落ちて田舎に帰つた
不運な詩をやめて尾山は家業をついだ、
医者の診断では彼女の内臓は完全無欠で
尾山との間に三人の子供を分娩して
サクラ子を加へて四人の立派な母親となつた
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と叫んだ大西三津三は
依然として独り者で詩をつくりながら
都会を転々としてアナキストにも
コンミニストにもファシストにもリベラリストにも
なりきれないでゐる
ときどき夜の都会の盛り場に姿を現はし
十銭スタンドの安ウヰスキーで酔つ払ひ
突[#底本の「空」を訂正]然、女給をとらへて
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と怒号すると女給たちは何ともいへない嫌な顔をする
ふらふらとバーの扉をあけて戸外にでゝ
夜のネオンサインの上に
ちらばり光る星をみると
「託児所をつくれ!」と絶叫し
かたはらの電信柱にもたれかゝつてゲーといふ。
諷刺大学生
ある夜一人の見も知らぬ学生が訪ねて来た、
洋服の袖口のところが破れてゐて
小さな穴から下着の縞模様をのぞかせてゐた、
学生は――諷刺文学万歳!と叫んで
そして私に握手を求めた
――曙ですよ、
あなたのお仕事の性質は、
日本に諷刺文学が
とにかく真実に起つたといふことは
決定的に我々の勝です、
彼はかう言つて沈黙した、
ところで我々はそれから、
ぺちやくちやしやべつた揚句は
――諷刺作家は
芸術上の暗殺者で
真に洗練された文学的技術者でなければならぬ、
といふ結論に二人は達した、
――ナロードニキ達は、
とまたしても学生は
破れた洋服の袖口をふりまはす、
何故この学生が古臭いナロードニキに
惚れこんでゐるか
それには理由がある
彼は来年大学を卒業する
彼の卒業論文は
『ナロードニキ主義の杜会史的研究』といふのだ、
あまり香ばしい論文の題材ではなかつた
あんな国に材料を求めるのは
教授会議では喜ばない筈だ。
×
こゝで読者諸君と無駄話をしよう、
――人生は永遠なり、といふ世間的な
解釈を僕は信じてゐるものだ、
僕の詩は、閑日月ありだ、
詩は短かいほど純粋なり――といふ
見解をもつた読者は、他の詩人の読者であつても、
僕のための読者ではない、
この種の読者は、日本の長つたらしい
糠味噌臭い小説は読む根気はもつてゐても、
詩人の詩の長さは否定する、
小説には気が永く、詩に対してはセッカチな読者、
この種の読者は、僕の詩をこの辺で放りなげて欲しいものだ、
僕は驢馬のやうに路草を喰ひたいし、
愚かなことを、ながながと語りたいだけだ、
詩の結論――勿論そんなものはない、
結論とは繩のことだ、
僕は諸君をしばる繩をつくりたくない、
僕は詩のリズムを考へない詩人のやうにも
考へちがひをしないでほしい、
ただ世の詩人のやうに
今時七五調のリズムで歌ふ勇気がないだけだ、
『月は糞尿色の雲に取りかこまれ
地へむかつてしたたり落ちる月の光りは
黄金色に稲穂をそめる、
風がやつてきて月の光りを払ひのけると
稲穂は色あせて、
百姓の子供のやうに白く痩せて立つてゐる』
この程度のリズムなら認めるし
かういふ美文が読者が嬉しいのならいくらでも書く、
僕は毛脛をぼりばり掻きながら詩を書いてゐる、
作者が緊張してゐないのに
読者が緊張して読んでゐてはおかしい、
しかも僕はうとうとと
居眠りさへもしてゐるのだ、
省線電車の中で
疲れた子供が体をぐにやぐにやに
柔らかにして眠つてしまふやうにだ、
そこで母親はあわてゝ『これ、これ』と揺りうごかす、
もし読者諸君に作者に対する愛があつたら、
――おい、君、どうした、起き給へ、
そして詩のつづきを語り給へと
僕をゆり起してくれるだらう、
そこで僕は慌てゝ飛び起きる
突拍子もない高い声で話の続きをしやべりだす
ところで民衆の意志派達は
丘の上に立つて農民達に向つて
『われらの農民よ、
自由のために立て――』
と叫んだとき、
燕麦の刈入れに忙がしい百姓達は
ちよつと手を休めて演説者を見上げた
『わしらの為めの旦那衆、
立て、立て、言つても、立つて居られねいだ、
かういふ中腰の恰好でなくちや
燕麦ちゆものは刈れねいだから――』
ときよとんとして辻褄の合はない挨拶をした、
そのとき演説者は
なんて百姓とは判らず屋だらうと
すつかり感傷的になつて
天を仰いで大げさな身振でかういつた
――おゝ、メランコリイよ
おれのロシヤよ、憂鬱な存在だ、
お前の何処の隅に行つても
牛の尻に糞がくつついてゐるやうに
憂愁《トスカ》がくつついてゐるのだ
そこで彼はぶつぶつ呟やいた
解放された農民が
燕麦のことばつかりで
頭の中をいつぱいにしてゐるといふことがあるか、
立て、立て――と焦々と
インテリゲンチャ達は悲しげに喚きたてた、
当時のロシヤでは世の有様は
絶えいるやうな絶望が
地上の空気の一切を色濃くとぢこめてゐた、
ナロードニキ達はヒステリイ化した
彼等の理論家ミハイロフスキイの書く物は
理論のくせにお伽話よりも面白かつた
読者をゲラゲラ笑はせながら
啓蒙的であつたのだ、
ところで曾つての日本のナロードニキ達の
評諭はどうであつたか、
現在残存するところのナロードニキ達はどうか、
ユーモアなものを股の間に
ぶら下げてゐる人間とは思へないほど
ユーモアといふものを解しない奴ばつかりだつた
木の皮だつて、この連中の書く
理論や小説よりも気の利いた味がする
啓蒙とは――つまり笑はせることだといふことを知らない、
真理を嗅ぎ出すトガリ鼻が
たくさん集まつて始めて
この国も文化的な国の資格がある
殿様、若様、坊ちやま、男妾に類した
ノッペリとした面付をした文学
もちまはつた肌ざはりの悪い散文精神、
その種の文学が幅を利かす、
そして我国には諷刺文学が生れる必然性がない――
などと合理化したり逃げを張つたり、
アゴのしやくれた文学、トガリ鼻の文学の
若い芽を摘むことばかり、強いヤキモチが、
それは文学上のヤキモチでなく
杜会的立場からのヤキモチを焼く、
芥川龍之介はさすがに偉らかつた、
彼は杜会的な風邪をひいて
鼻水をだらだら垂らしながら死んでいつたが、
目本の文学の残された仕事に就いて
遺言をのこして死んでいつたが
曰く『鼻の先だけで暮れのこる――』と、
×
『僕は学生なんです――』
とその時、学生は改まつた口調でしやべり出した、
そこで私は彼を押しとどめた
『まあ、さう学生を強調し給ふな』
教科書の頁を飛ばして読まうが、
飛ばして読むまいが
卒業後の就職には一苦労することは同じだ、
出来ることなら学生らしく頁を飛ばさないで、
また、在学中に、作家廻りなどの
悪い癖をつけないがいゝ、
『僕は就職はあきらめたんです
諷刺文学をやらうと思ふのです
よろしく御指導下さい――』
『それはよからう、ゴーゴリの小説に
出て来るやうな人物が
われわれの国には少なくない
人物はゐる、しかし作品が出てこないのだ
君もまた人物としては、諷刺的存在だ、
しかし君は自分の個性を圧倒するやうな
真理の上手な語り手になれるかね、
もし成りそこねたら、
他人が君をカルカチュアのしつ放しで
君は滑稽な人物として一生を終ることになる、
だから諷刺作家になるなら
諷刺負けをしないやうに
大いに諷刺で他人に攻勢に出るんだね、
それがなかなか難しいんだよ、
学生よ、
まあカユイところに手が届かないといつて
さういらいらするな
背中を出し給へ、僕が掻いてやらう、
もし僕が君の背中を掻いてやつて
それで君の気が楽になるのなら
諷刺作家志望などを取り下げて
工場の倉庫番にでも就職し給へ、
ほんとうに君が素裸になつて
自分で自分の背中を掻く力がでたら
また改めて僕の処に訪ねて来給へ、
馬だつて横木に背中をこすりつけて
ごりごりと掻く智慧をもつてゐるよ、
どうせ我々の背中は
千年待つても誰も掻いてくれる筈がないさ、
君はどうも背中が掻くなつて
僕の処にやつてきたらしい
学生よ、ちよつと顔をあげて見せ給へ、
立派な人相だ、
シャクレた頤、諷刺家の骨格を充分備へてゐる、
手の指の動作も、
何物かを掴まなければやまないといつた
美しい痙攣をしてゐる
鼻の利く奴、遠眼の利く奴、
速歩、跳躍的な奴、
お前、諷刺家を望む青年の
骨格上の惨忍性に光栄あれ――、
×
ネバ河の葦の生へた辺りを
うろうろしてゐた一人の男がゐた
彼はそこに立つてぶるぶるつと身ぶるひし
古モーニングを着た狼の恰好で
汚れた毛のぬけた外套の襟を掻き合せたものだ
奴は狼の良い習性を
全く身につけたやうな精桿な男であつた
ステッキをコツコツとついて黙想しながら
ロシヤの将来について考へながら
河岸を歩るいてゐる間に
ステッキの音によつて地の中に
ガラン洞な一個所のあることを発見した
――おや、これは美しい俺の運命がひらかれる時が来た
こいつの穴に生命を投げこむのは
俺の習性にピッタリしてゐるぞ――、
彼はそこで河岸の一枚の石をはねのけた
そこには何処かに通ずる
暗い横穴があつた
彼は石の上蓋をのけてその穴の入口から
地面の中に潜りこんでしまつた
×
ロシヤの霧隠才蔵はその時
ネバ河から通ずる
不思議な奥穴を這つてゐた
全く偶然的に――そして予め設計師に
設計させたもののやうに
おあつらひ向きにクレムリン城廓に通じてゐた
間道は次第に細くなり
四つん這の行進が終つたとき
こゝで人間的にウーンと
背伸びをして立ちあがつた
こゝで人間的な意志の強さを
発揮する番になつた
壁は五寸程のすき間よりない
左右の足の関節を巧みに動かして
クレムリン宮の外廊をまはりだすと
なんと運命は小癪な
喜びをもたらすものだらう、
ひよつこりと会議室の地下に出た、
そつと階段をあがつて
会議室の中をのぞくと
そこの大テーブルの上には
白い花に紅をさしたやうに
小さな簇生的な花は花瓶にさゝれ、
その花の名はわからない、
温室そだちの季節外れの花に違ひない
その花は円卓の上に
お尻をもたげたやうに盛花され
周囲の窓には
垂れ下つたグリーン色の
地厚のカーテンは重さうであつた、
そのとき会議室の一隅のドアは排され
大臣達は一人づゝそのドアの中から
現はれて座についた
そこでロシアの忍術使ひは
そつと階段を下りて地下室にもぐりこむ
そして彼は胸を叩く、踊れ心臓と、
脳のシワもアコオジョンの
蛇腹のやうに揺り動かし眼を輝やかす
私はつぶやいて――さあ、いそがしいぞ、と
水洟もすすらなければならないし
額にさがる髪も掻きあげねばならぬ、
自分の胸から、丸い鉄の心臓をとりだして
それを地下の適当な場所に据ゑねばならないし、
聴耳をたてたり、小唄をくちづさんだり、
ロシアの百姓達のことも考へたり、
嬉し涙をながしたり
なにもかにも一緒にやらねばならない、
おや、おや、頭上には
ロシアの現状についての
深刻ぶつた会議。
×
その真下では今にも彼の丸い心臓が
笑ひだしさうに
それから長い導線を引きだした
煙草嫌ひの心臓さん、
いまにマッチで一服
お前さんに吸はしてあげるよ、
充分煙でむせんだら
パッと火を吐きだしたらいゝ、
可愛い心臓よ、
お前をこゝにのこして
私はそろそろ後退するよ、
だが心配し給ふな
お前と私とは導線でつながつてゐるから
そこで急設の電話で連絡を致しませう、
かういひながら彼は自分の鉄の心臓を
会議室の真下にをいてから
そろりそろりと後退した。
×
僕の処に訪ねてきて[#「て」に「ママ」の注記]学生君よ、
この辺りで話を打切らうか――、
それともくすぐつたい許りで
笑はせてしまはないのが罪だといふなら
それからどうなつたかを話を続けよう、
どうせ僕は君の訪問のために
時間をあけてをいたのだから、
君も諷刺作家として
三つの呪文を唱へる仲間に入らうとしてゐるのだから、
第一に――、批判精神、
第二に――、諷刺性、
第三に――、物質的表現、
この三つの呪文が風の間を
飛びまはるやうにならなくては
日本の平民の生活が楽しくならない、
×
三つの呪文を忘れぬやうに
未来の諷刺作家よ、
クレムリンの住人共が、
万一の場合逃げ路のために
造つてをいた横穴を
逆にネバ河から入りこむ
型変りの戦術家が
殖えるほど人生は明朗だ、
僕はこないだセルロイド工場の火事を見たが、
ポンポンと夜空に打ちあがる
爆発的な笑ひは美しかつた
学生君よ、君の心臓も、あいつの心臓のやうに、
とほくに仕掛けてをいて
導線で密語を交すのだね、
連絡が切れたときは
君の心臓は
火の絨氈をかぶつて
天井まで飛びあがるだらう、
大臣たちはチ切れ飛んだ、
自分の手や足を
探しまはつてゐたさうだ。
×
さあ、三つの呪文を唱へて
学生君よ、
日本の霧隠才蔵である僕の弟子入りをし給へ、
まだ話の残りが気になるのかね、
もつともだ、
丁度、その時、美しく着飾つた
金の冠をかぶつた雄鶏は雌鶏を従へて、
会議の席にのぞんだが、
扉の処で驚ろいて蹴つまづいて
会議室の中へではなく
外へ転げたため、
火の絨氈はかぶらずに救かつた、
その頃、ネバ河の葦の中の
小鳥がチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと鳴いた。
底本:「新版・小熊秀雄全集第1巻」創樹社
1990(平成2)年11月15日第1刷
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1999年6月18日公開
1999年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ