青空文庫アーカイブ

馬地獄
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大江橋《おおえばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大衆|喫茶店《きっさてん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十六年十二月)
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 東より順に大江橋《おおえばし》、渡辺橋《わたなべばし》、田簑橋《たみのばし》、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼらしい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚《うすぎたな》い大衆|喫茶店《きっさてん》兼|飯屋《めしや》がある。その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけない。それが妙《みょう》に陰気《いんき》くさいのだ。また、大学病院の建物も橋のたもとの附属《ふぞく》建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋《さび》しい。薄汚《うすよご》れている。入口の階段に患者《かんじゃ》が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょんぼりさせているのだろう。川口界隈《かわぐちかいわい》の煤煙《ばいえん》にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁《にご》っている。
 ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日に何度となく渡らねばならぬことが、さように感じさせるのだろう。橋の近くにある倉庫会社に勤めていて、朝夕の出退時間はむろん、仕事が外交ゆえ、何度も会社と訪問先の間を往復する。その都度せかせかとこの橋を渡らねばならなかった。近頃《ちかごろ》は、弓形になった橋の傾斜《けいしゃ》が苦痛でならない。疲《つか》れているのだ。一つ会社に十何年間かこつこつと勤め、しかも地位があがらず、依然《いぜん》として平社員のままでいる人にあり勝ちな疲労《ひろう》がしばしばだった。橋の上を通る男女や荷馬車を、浮《う》かぬ顔して見ているのだ。
 近くに倉庫の多いせいか、実によく荷馬車が通る。たいていは馬の肢《あし》が折れるかと思うくらい、重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門《きもん》なのだ。鞭《むち》でたたかれながら弾《はず》みをつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、轍《わだち》が空まわりする。馬はずるずる後退しそうになる。石畳《いしだたみ》の上に爪立《つまだ》てた蹄《ひづめ》のうらがきらりと光って、口の泡《あわ》が白い。痩《や》せた肩《かた》に湯気《ゆげ》が立つ。ピシ、ピシと敲《たた》かれ、悲鳴をあげ、空を噛《か》みながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実に大変だ。彼《かれ》は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を離《はな》れないのだ。
 雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤《あか》ん坊《ぼう》のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並《けなみ》に疲労の色が濃《こ》い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃|自虐《じぎゃく》めいた習慣になっていた。惻隠《そくいん》の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。
 ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音をききながら、ほっとして欄干《らんかん》をはなれようとすると、一人《ひとり》の男が寄ってきた。貧乏《びんぼう》たらしく薄汚い。哀《あわ》れな声で、針中野《はりなかの》まで行くにはどう行けばよいのかと、紀州訛《きしゅうなまり》できいた。渡辺橋から市電で阿倍野《あべの》まで行き、そこから大鉄電車で――と説明しかけると、いや、歩いて行くつもりだと言う。そら、君、無茶だよ。だって、ここから針中野まで何里……あるかもわからぬ遠さにあきれていると、実は、私は和歌山の者ですが、知人を頼《たよ》って西宮まで訪ねて行きましたところ、針中野というところへ移転したとかで、西宮までの電車賃はありましたが、あと一文もなく、朝から何も食べず、空腹をかかえて西宮からやっとここまで歩いてやって来ました、あと何里ぐらいありますか。半分泣き声だった。
 思わず、君、失礼だけれどこれを電車賃にしたまえと、よれよれの五十銭|銭《ぜに》を男の手に握《にぎ》らせた。けっしてそれはあり余る金ではなかったが、惻隠の情はまだ温く尾《お》をひいていたのだ。男はぺこぺこ頭を下げ、立ち去った。すりきれた草履《ぞうり》の足音もない哀れな後姿だった。
 それから三日|経《た》った夕方、れいのように欄干に凭《もた》れて、汚い川水をながめていると、うしろから声をかけられた。もし、もし、ちょっとお伺《うかが》いしますがのし、針中野ちうたらここから……振《ふ》り向いて、あっ、君はこの間の――男は足音高く逃《に》げて行った。その方向から荷馬車が来た。馬がいなないた。彼はもうその男のことを忘れ、びっくりしたような苦痛の表情を馬の顔に見ていた。
[#地から1字上げ](昭和十六年十二月)



底本:「ちくま日本文学全集 織田作之助」筑摩書房
   1993(平成5)年5月20日第1刷発行
入力:吉田稔彦
校正:今井忠夫
2004年1月19日作成
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