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絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎

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     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処《どこ》までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾《しか》考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未《いま》だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而《しか》してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以《ゆえん》である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
 現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を有《も》ち、現実においてあるものは、何処までも決定せられたもの、即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。その背後に一を考えることもできない、多を考えることもできない。決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何《いか》に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩《いんゆ》的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιει【#「η」に帯気(「’」の反転したもの)付き、「※」はギリシア語小文字のファイナルSIGMA、「υ」はアキュートアクセント付き、「ι」はルド付き】という。無論|斯《か》くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
 時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
 世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾《しか》考えられる世界でなければならない。しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。我々がそこに於《おい》てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noire【#「e」はアキュートアクセント付き】)、我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。
【#ここより3字下げ】
 哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。
【#字下げおわり】
 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有《も》ったものでなければならない。故に我々の行為は、固《もと》行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此《もとかく》の如きものでなければならない。
 自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。動物的生命においては見るといっても、朦朧《もうろう》たるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。動作が本能的と考えられる所以である。本質的には表現作用的といっても、真に外に物を作るということはできない。動物はなお対象界を有たない、真に行為的直観的に働くということはない。動物にはいまだポイエシスということはない。作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない、故に作られたものから作るものへではない。それは生物的身体的形成たるに過ぎない。然るにモナド的に自己が世界を映すことが逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、いわば自己を外に見ることから働く。作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである。故に人間はポイエシス的である、歴史的身体的ということができるのである。而して表出即表現の立場から働くとして、それは論理的ということもできるであろう。
 右にいった如く、個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、形から形へと考えられる世界でなければならない。始に現在が現在自身を限定するといった如く、形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、かかる立場からは何処までも自己自身を形成する、形成作用的でなければならない。かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。私の形といっているのは、実在から遊離した、唯抽象的に考えられる、静止的な形をいうのではない。形から形へといっても、唯無媒介的に移り行くというのではない。多と一との矛盾的自己同一として、実在の有つ形をいうのである。生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、それは形成作用的と考えられねばならない。生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。形と機能とは、生物において不可分離的である。形というのは、唯、眼にて見る形の如きものをいっているのではない。生物の本能という如きものも、形成作用である。文化的社会という如きも、形を有ったものでなければならない。形とはパラデーグマである。我々は種の形によって働くのである。而《しか》してそれは行為的直観的に見ることによって働き、働くことによって見るということでなければならない。作られたものから作るものへということでなければならない。
 右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、形から形へとして何処までも形成作用的である、即ち主体的である。これに無限なる環境が対立する。而して主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない、形相を否定するものでなければならない。一から多へというに対して、多から一へということでなければならない。主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。形相が質料となり質料が形相となるとか、形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、過去から考えることである、機械的に考えることである。これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。真に一から多へというには、何処までも時間的なものと考えなければなるまい、ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、つまり過去からということはないのである。純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、現実の世界があるのである。一瞬の前にも還《かえ》ることのできない純粋持続の世界には、現在というものもあることはできない。これに反し空間的なるものが自己否定的に時間的なる所に、即ち自己矛盾的に自己自身から動き行く所に、現実の世界があるのである。故に絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、何処までも主体と環境とが相対立し、主体が自己否定的に環境を、環境が自己否定的に主体を形成する。而して現実の世界の現在は、主体と環境と、一と多との矛盾的自己同一として、決定せられたもの即ち作られたものから、作るものへと動き行く。それが過去から未来へと動き行くということである。作られたものというのは既に環境に入ったものである、過去となったものである。しかも(無が有として、過去は過ぎ去ったものでありながらあるものとして)それは自己否定的に主体を形成するものである。
 世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、かかることがあることはできない、否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。然るに多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新なる主体が出て来ることである。かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、作られたものから作るものへと動き行くのである。而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、而してまた新に作り行くのである。
 それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、結合することができないから矛盾するというのである。しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。対立が即|綜合《そうごう》である。そこに弁証法的論理があるのである。矛盾の尖端《せんたん》としては、時の瞬間の如きものが考えられるであろう。しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。時というものを抽象概念的に考えれば、過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。作られたものから作るものへということでなければならない。それが過去から未来へということである。時の現在の有つ形というのがその生産様式の形である。
 歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
 真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、なお過程的であって、真の現在というものはない。従って真の生産というものはない、創造というものはない。私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、単に主体的だという所以《ゆえん》である。然るに歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、作られたものと作るものとが対立する、而してまた作るものを作るのである。生産せられたものが単に過去に入り去るのでなくまた生産するものを生産するのである、そこに真の生産というものがあるのである。世界が一つの現在となるということは、世界が一つの生産様式となるということであり、それによって新な物が生れる、新な世界が生れるということである。それが歴史的創造の生産様式である、唯環境から因果的に物が出来るというのでもない、また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。創造ということは、ベルグソンのいうように、単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。無限なる過去と未来との矛盾的対立から、矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。直線的なるものが円環的なる所に、創造ということがあるのである、真の生産があるのである。
 歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、プラトンのいう如く非有が有である。歴史的現在においては、何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。これを私は歴史的生命の弁証法というのである。過去を決定せられたもの、与えられたものとしてテージスとすれば、それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、即ちアンティテージスが成立する。世界が矛盾的自己同一として創造的であり、生きた世界であるかぎり、かかるアンティテージスが成立せなければならない。而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、即ち真に矛盾的対立であればあるほど、矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、それがジンテージスである。現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。新なる世界が創造せられるということは、単に過去の世界が否定せられるとか、なくなるとかいうのではない、弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
 過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、現在が形を有《も》たなければならない。それが歴史的世界の生産様式である。個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、また作られたものから作るものへということができる。逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、歴史的現在であるのである。生物の形というのは機能的である。生物が機能的に働くということが、形を有つということである。而してそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、生産様式として一つの形を有つということである。しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、真の歴史的現在というものはない。矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうことはない。従って生物的動作は行為的直観的ではない。ヘーゲル的にいえば、それはなおアン・ジヒの状態である。世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において対立する歴史的社会的生産様式においては、現在が矛盾的自己同一として、何処までも動き行くものでありながら、現在が現在自身の形を有し、現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうのである。現在というものを唯抽象的に考えれば、現在から現在へなどということは、飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。綜合と対立とは何処までも二であって一でなければならない。而して実践的弁証法においては、綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、現実の世界の有つ形、現実の世界の生産様式というものでなければならない。無限の過去と未来とが何処までも相互否定的に結合する絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、それはイデヤ的ということができる。ヘーゲルのイデヤとは、此《かく》の如きものでなければならない。綜合は対立を否定する綜合ではない。故にそれはまた矛盾的自己同一として自己矛盾的に動き行くのである。
 過去と未来との矛盾的自己同一として自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を有《も》ち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越え行くことでなければならない。而してかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点であるという如き、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合するという世界において、我々は表現作用的に物を見、表現作用的に物を見るから働くということができるのである。それは機械的でもない、合目的的でもない、而してそれが真に論理的ということである。矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、我々が働くということはない。私の過去と未来とが現在において結合し、作られたものから作るものへ、現在から現在へという矛盾的自己同一は、我々の自己意識によっても分るであろう。我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、矛盾的自己同一的に爾《しか》考えているのであろう。しかし斯《か》くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を説明しようとするのではない。逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として即ちモナド的に爾あるのである。

 右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。歴史的世界においては単に与えられたものはない。与えられたものは作られたものである。環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。そこに生物的種との区別があるのである。イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。
 私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、単に文化的となるということではない。それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、イデヤがイデールとなることである。主体が環境を形成する。環境は主体から作られたものでありながら、単に作った主体のものではなく、これに対立しこれを否定するものである。我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。何処までも主体が生きるには、主体が更生して行かなければならない、絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。生産した所のものが世界性を有たなければならない、即ち世界的環境を作って行かなければならない。かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、主体がなくなるということではない、その特殊性を失って単なる一般となるということではない。無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、永遠に触れるということができるのである。すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、抽象的一般の世界となるということでもなければ、すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。種の主体的生存ということと、文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は世界歴史において生存することはできないであろう。イデヤは主体的生命の原理でなければならない。但《ただ》、作られたものとして既に環境的となったもの、而して作るものを作るという力を有せないものが、主体から遊離した文化である。世界を唯作られたものとして見るのが、単なる文化的見方である。

     二

 絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、矛盾的自己同一的に現在が形を有《も》ち、現在から現在へと自己自身を形成し行く世界である。世界がいつも一つの現在として、作られたものから作るものへである。矛盾的自己同一として現在の形というものが世界の生産様式である。此《かく》の如き世界がポイエシスの世界である。かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くということができる。我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。働くという時、我々は個人的主観から出立する。しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。働くことは働かれることでなければならない。我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。
 過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。斯《か》くいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処《どこ》までも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕《はら》む一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未《いま》だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。そこには因果的に過去からの必然として、また合目的的に未来からの必然として相対し相働くのではない。矛盾的自己同一的に、一つの現在として現在から現在へと動き行く世界、作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界においてのみ、爾《しか》いうことができるのである。
 自己自身を形成し行く世界の形から形へということは、あるいは飛躍的とか無媒介的とか考えられるであろう。個物の働きというものがないとも考えられるであろう。しかし私の考はその逆である。個物とは何処までも自己自身を表現的に限定するものでなければならない、表現作用的に働くものでなければならない。世界の有つ形とは、かかる個物の相互否定的統一、矛盾的自己同一として現れるものでなければならない。それは逆に無数なる個物の表現作用が絶対矛盾的自己同一的世界の無数の仕方においての自己表現といわなければならない。再び我々の自己の意識統一によって考えて見よう。我々の意識現象とは、その一々が独立であり、自己表現的である。その一々が自己たるを主張し要求するといってよかろう。しかも我々の自己というのはジェームスのいう羊群の焼印の如きものではなく、かかる自己自身を表現するものの否定的統一として、形を有ったものでなければならない。それが我々の性格とか個性とかいうものである。自己というものが超越的に外にあるのでなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。しかもそれを否定的に統一し行く所に、真の自己というものがあるのである。我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に結合し、全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。意識統一というものも、通常は世界から離して抽象的に(心理学的に)考えられるのであるが、具体的には自己自身を形成する世界の表現作用的個物として考うべきであろう。
 一々の個物が何処までも個物的として表現作用的に自己自身を限定するというべき絶対矛盾的自己同一の世界において、個物的多が自己否定的に単に点集合的に考えられる時、それが物理的世界である。物理的世界は数学的記号によって表される数学的形の世界である。個物がそれぞれの仕方において世界を表現すると考えられる時、それが生命の世界である。その環境に即したものが生物的生命の世界である。そこでは個物はなお真に表現作用的でない。個物が何処までも表現作用的に自己自身を限定するという時、人間の歴史的世界である。世界は絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く。生物的世界はいうまでもなく、物質的世界も形を有つ。しかしそれは生産的でない、創造的でない。故になお現在から現在へ、形から形へといわれない、なお真に作られたものから作るものへとはいわれない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合する所、そこにはいつも過去から未来へという時が消されると考えられる、即ち意識面がある。歴史的世界は意識的である。表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる、作用と形というものが無関係と考えられる。しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。物理現象においても爾《しか》いわなければならない(ロッチェはその『形而上学』においてこの点を明《あきらか》にしていると思う)。全世界の有つ形、私のいわゆる生産様式と作用とは離して考えることはできない。人は多く作用というものを全世界との関係から離して抽象的に考えている。物理作用とか、生物的作用とかいうものでも、爾考えることができる。しかし表現的作用というものは、爾考えることはできない。主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる絶対矛盾的自己同一の世界においては、物質的世界というものも既に作られたものであり、作られたものは環境的として主体を形成し行く。物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。矛盾的自己同一ということが、抽象論理的に考えられないといっても、実在とは此《かく》の如く自己自身から動くものであろう。
 我々がこの世界において働くということは、物を形成することであり、私が行為的直観的に物を見、物を見るから働くというのは、右の如く個物が何処までも表現的に世界を形成することによって個物であり、逆にそれが絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の一角であるというによるのである。行為的直観というのは、我々が自己矛盾的に客観を形成することであり、逆に我々が客観から形成せられることである。見るということと働くということとの矛盾的自己同一をいうのである。過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、現在が形を有《も》つという時、そこに私のいわゆる自己自身を形成する世界があるのである。世界は一つの現在として、作られたものから作るものへと無限に自己自身を形成し行く。我々はかかる世界の個物として意識的に世界を映すことによって形成的であり、而して自己矛盾的に世界を形成し行く、即ち表現作用的である(表現作用とは世界を媒介として働くことである)。そこに我々は我々の生命を有つのである。
 行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。かかる意味において物を見ることは世界を映すことである。ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、此《かく》の如きことでなければならない。物を具体概念的に把握するというのは、(作られて作るものとして)物を歴史的生産様式的に把握することでなければならない。かかる立場から把握せられる物の本質がその具体概念である。具体概念とは抽象作用によって作られるのではない、行為的直観的に把握せられるのである。そこに作ることが見ることである、表出即表現である。我々は個物として世界を映すことから働き、行為的直観的に物を構成することによって、実在を歴史的生産様式的に即ち具体概念的に把握するのである。この故に芸術家の創造作用の如きものでも、制作によって生産様式的に物の具体概念を把握するということができる(かかる意味において美も真である)。しかし無限なる過去と未来とが現在において結合し、絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、超越的方向においては全く記号的に表現せられる世界でなければならない。世界のかかる方向においての生産様式即ち物の具体概念を、行為的直観的に把握し行くのが実験科学である。そこでは私の行為的直観とは科学的実験ということである。物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。私の行為的直観とは単に受働的なる直覚をいうのではない。また単に行為を否定した受働的な直覚という如きものは、抽象概念的に考え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。
 具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも此処《ここ》にロードゥスがある、此処で踊れといわなければならない。行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事は此《ここ》に決せられるのである。思惟の真偽も此に決せられるのである。我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。単にかかる作用が作用として形成的なる時、それは抽象論理的である。抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである(即ち言語的に)。然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くのが、具体的論理である。行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。

 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということでなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない。動物の生命というものも、既に此《かく》の如きものでなければならない、即ち既に意識的でなければならない。動物といえども、高等なればなるほど、いわば一種の世界像を有っていなければならない。無論それは意識的にとか自覚的にとかいうのではない。しかし動物の本能作用というのは一種の形成作用でなければならない。昔、ハルトマンなどの考えた如き無意識ともいうことができる。動物は無意識的に自己自身を形成する世界を宿すことによって本能的であるのである。
 絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。生物の身体的生命というのは、かかる形成作用でなければならない。是《ここ》において個物は既に機械的でもなく、単に合目的的でもなく、形成的でなければならない。動物的身体的であっても、意識的であるかぎり斯《か》くいうことができる。この故に動物の動作は衝動的であり、その形成において本能的であり、即ち身体的ということができる。そこに見ることが働くことであり、働くことが見ることである、即ち構成的である。見ることと働くこととの矛盾的自己同一的体系が身体である。しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない。生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由でない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である、歴史的主体的ではない。なお真に作られたものから作るものへではなくて、作られたものから作られたものへである。
 (私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、作られたものから作るものへということであるのである。生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。単に主体的ということそのことがかえって環境的たる所以《ゆえん》である。自己自身を環境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。そこでは環境は与えられたものでなく、作られたものであるのである。そこに真に主体が環境を脱却するということができる。生物的生命の世界はなおアン・ウント・フュール・ジヒの世界ではない。)
 生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
 過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に爾《しか》いうことができる。本能というのも、生物と世界との関係から理解せられなければならない(行動心理学においてのように)。人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起るのである、制作的身体的に物を見ることから起るのである。行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。
 我々は制作的身体的に物を見、斯《か》く物を見ることから働く制作的身体的自己においては、見るということと作るということとが矛盾的自己同一的である。物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。それが真の具体的論理の立場であろう。そこに真なるものが実なるものである。抽象的知識とはかかる立場を離れたものとも考えられるであろう。しかしかかる実験の立場を離れて客観的知識というものはない。学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。而してその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到《いた》ると考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処《ここ》から出立したものであり、此処に戻り来るものでなければならない。無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、世界は何処までも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。しかしそれはまた何処までも我々の歴史的身体を離れるということではない。
 絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を有《も》って生れ来るのである。与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。成し遂げらるべく与えられたものである、即ち身体的に与えられたものである。我々は無手でこの世界に生れて来たのではない、我々は身体を有って生れて来たのである。身体を有って生れて来るということそのことが、既に歴史的自然によってそこに一つの課題が解かれたといい得ると共に(例えば昆虫《こんちゅう》の眼ができたという如く)、矛盾的自己同一として無限の課題が含まれているのである。我々が身体を有って生れるということは、我々は無限の課題を負うて生れることである。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。現実とは我々を包み、我々を圧し来るものでなければならない。単に質料的のものでもなければ、媒介的のものでもない。我々の自己に対して、汝《なんじ》これを為《な》すか然らざれば死かと問うものでなければならない。世界が一つの矛盾的自己同一的現在として私に臨む所に、真に与えられたものがあるのである。真に与えられたもの、真の現実は見出されるものでなければならない。何処に現実の矛盾があるかを知る時、真に我々に対して与えられたものを知るのである。単に与えられたものというものは、抽象概念的に考えられたものに過ぎない。我々は身体的なるが故に、自己矛盾的であるのである。行為的直観的に我々に臨む世界は、我々に生死を迫るものである。

 絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。斯《か》くいうのは、我々人間は何処までも社会的ということでなければならない。ホモ・ファーベルはゾーン・ポリティコンであり、その故にまたロゴン・エコーンである。家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基《もとづ》くとも考えられるであろう。ゴリラが多くの牝《めす》を連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。しかしマリノースキイなどのいうように、動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない(Malinowski, Sex and Repression in Savage Society[『原始社会における性と抑圧』])。エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。本能というのは、有機的構造に基いた、或種に通じての行動の型である。動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。それは人間の社会的構造とは異なったものである。人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。多くの人が原始社会を唯団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始《はじめ》から個人というものを含んでいるという考に同意したいと思うのである。原始社会にも罪というものがあるのである(Malinowski, Crime and Custom in Savage Society[『原始社会における犯罪と慣習』])。それは社会というものが動物の本能的集団と異なり、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。原始社会構造において近親|相姦《そうかん》禁止というものが強き意義を有するように、社会は本能の抑圧を以て始まると考えられる。夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。
 かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える所以《ゆえん》である。社会は一つの経済的機構と考えられるであろう。社会は何処までも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。しかしそれはいうまでもなく、ポイエシス的でなければならない。人間は用具を有《も》つということによって、動物から区別せられる。そして作られたものから作るものへとして、社会の経済的機構が発展して行く。家族制度の如きも、一面にはかかる経済的機構から考えられるであろう。財産制度の起源については、色々の学説があるようであるが、我々が物において自己の身体を有つという歴史的身体的形成から成立すると考えなければなるまい。
 矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。而して矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。それが環境が何処までも自己否定によって主体的となるということである。矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、環境が自己否定によって主体的となることによって環境でなければならない。而して世界が斯《か》くあるということは、何処までも自己自身の中に世界を映し表現的形成的である個物が、自己自身を形成する世界の一角として爾《しか》あるということでなければならない。かかる世界において個物が客観界において自己を有《も》つ、即ち物において自己を有つということが我々が財産を有つということである。故に我々が財産を有つということは、単に個人の働きによって爾いい得るのではなく、客観的世界によって承認せられなければならない、世界において或個人の物として表現せられねばならない、主権から認められなければならない。多と一との矛盾的自己同一として表現的に自己自身を形成する世界は、法律的でなければならない。我々が物において身体を有つということは法律的でなければならない。ヘーゲルによるも(Philos. d.Rechts. §29)、存在が自由意志的存在と見られることが法律である。作られたものから作るものへとして、我々がポイエシス的である、歴史的身体的であるということは、我々の社会が本能的ではなく、既に法律的であるということでなければならない。ポイエシスということが可能なるのは、法律的に構成せられた世界においてでなければならない。人類学者のいう所によれば、原始社会の生産作用も広義において法律的に支配せられているのである。而してまたそれらの社会制度は逆にポイエシス的生産の可能発展の形態ということができる、即ち特殊的な一種の歴史的生産様式であるのである。作られたものから作るものへとしての歴史的生産の世界は、環境的には何処までも物質的生産的でなければならない。そこにマキァヴェリ的なシュターツ・レーゾンの根拠がある。そしてそれが歴史的生産的世界の成立の条件とならねばならない。
 作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。社会は経済機構を有たなければならない、物質的生産的様式でなければならない。しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない。世界が一つの現在として自己形成的だということである。そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。世界が矛盾的自己同一的に絶対に触れるということがなければならない。社会成立の根柢に宗教的なるものが働いているのである。故に原始社会はミトス的である。原始社会においては、神話は人間世界を支配する生きた実在であるのである(Malinowski, Myth in Primitive Psychology[『原始的心理における神話』])。古代宗教は宗教というよりもむしろ社会制度であるといわれる(Robertson Smith)。私は社会形成の根柢にはディオニュソス的なものが働いていると思う。ディオニュソス的舞踊から神々が生れたというハリソンの如き考に興味を有つのである(Jane Harrison, Themis)。或地理的環境に或民族が住むことによって、或文化が形成せられると考えられる。地理的環境が文化形成の重大な因子となるはいうまでもない。しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。民族というのも、形成することによって形成せられ行くものでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。動物においてはそれは本能的であるが、人間においてはそれはデモーニッシュである。そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。民族というのは、かかるデモーニッシュな形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。

 動物の本能的動作においても、既に爾《しか》考えられる如く、我々の行為は我々が自己矛盾的に世界を映すということから起る、即ち歴史的身体的であるということから起る。而してそれは我々の行為は社会的に起るということである。私と汝との人格的対立も、社会的発展から出て来るのである。子供の自己意識は、社会的関係から発展するものでなければならない。社会というものが、矛盾的自己同一的現在の自己形成として成立するものなるが故である。生物的生命には、矛盾的自己同一的形成として生物的身体即ちいわゆる身体というものがある如く、歴史的生命には行為的直観的に歴史的身体即ち社会というものがあるのである。行為的直観というのは、矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界を、かかる世界の個物として我々が生産様式的に把握することである。ヘーゲルのいわゆる概念的に把握することである。ポイエシス的に実在をベグライフェンすることである。かかる行為的直観的なる歴史的身体的社会は、絶対矛盾的自己同一によって基礎附けられたものとして、何処までも自己矛盾的に自己自身を越え行かなければならない。しかしそれは何処までも自己自身を越え行くといっても、その実在的地盤を離れるのではない。これを離れれば、唯抽象的世界となるのほかない。単に抽象論理の立場から行為的直観の現実を否定することはできない。否定は現実の自己矛盾からでなければならない。与えられるものは、歴史的個人的に与えられるのである。生命の矛盾は生命の成立する所にある。そしてそれは何処まで行っても矛盾である。人間に至って矛盾の極に達する。矛盾の立場からは、何処までも矛盾を脱することはできない。宗教家が原始罪悪というものを考える所以である。禁断の果実を食ったアダムの子孫として、我々は原罪を負うて生れるのである。

     三

 矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、多と一との矛盾的自己同一の世界であり、かかる世界の個物として、何処《どこ》までも自己自身を限定する我々は、無限なる欲求でなければならない、生への意志でなければならない。而《しか》して世界は我々を生むと共に我々を殺すものでなければならない。世界は無限なる圧力を以て我々に臨み来るものである、何処までも我々に迫り来るものである。我々はこれと戦うことによって生きるのである。抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的自己に対して与えられる世界は、一般的な世界ではなく、唯一的な世界でなければならない。我々が個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。そしてそれはまた逆に矛盾的自己同一的に世界が唯一的なればなるほど、個物は個物的となるということができる。この故に個物は絶対矛盾的自己同一、即ち絶対に対することによって、個物であるということができる。自己自身の生死を媒介とする所に、個物が個物であるということができる。而してそれが行為的直観を媒介とするということである。生物の種というものが出来るのも、かかる過程によるものでなければならない。
 個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対する。そこに矛盾的自己同一的に一つの生産様式というものが出来るかぎり、個物が生きるのである。無論そこには、いつも種々なる様式が可能でもあろう。種々なる種の成立する所以《ゆえん》である。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界において、矛盾が解かれるかぎり、一つの種が成立するのである。行為的直観的なるかぎり、種的生命が成立するということができる。種も生命も既に弁証法的である(概念的であるのである)。種によって個が生き、個によって種が生きるかぎり、種の生命であるのである。生命はいつも動揺的である、動揺的なるかぎり生命というものがあるのである。弁証法的発展というのは、与えられたものを外から否定するのでなく、与えられたものそれ自身が自己矛盾的として、自己の内から自己を越え行くことでなければならない。生物的生命といえども、単に機械的でもなければ合目的的でもない。今日固定せる種と考えられるものも、無限なる弁証法的発展の結果として成立したものであり、それはまたいつかは変じ行くもの、亡び行くものでなければならない。種が固定するといっても、いつも或範囲内では動揺的である。唯それが基準的な形を有《も》ったということである。
 動物の行為的直観的とか、概念的とかいうのは、言い過ぎといわれるでもあろう。しかし動物的生命といえども、矛盾的自己同一的現在の自己限定として形成作用的であり、見るということと働くということとが不可分離的でなければならない。例えば、動物の眼の如きものでも、無限なる矛盾的自己同一的形成の結果としてできたものであり、動物そのものの種的生命と離すべからざるものでなければならない。矛盾的自己同一的に実在が把握せられる所に、行為的直観というものがあるのである。それはそこに実在の創造的な生産様式が把握せられるということである。生物的生命の種というものも、かかる弁証法的過程によって出来たものでなければならない。この故にその深き根柢には、イデヤというものを考えることができる。イデヤとはイデールではなく、ヘーゲルのそれの如く弁証法的形成作用でなければならない。行為を離れた直観という如きは、抽象的に考えられたものか、然らざれば幻想に過ぎない。生命は動揺的である。そこにはいつも無限なる方向があり、無限に幻想的でなければならない。生命が矛盾的自己同一的なればなるほど爾《しか》いうことができる。我々が個性的に深ければ深いほど、幻想的ということができる。しかし矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、我々の個人的生命があるのである、真の自己があるのである。我々はそこに絶対矛盾的自己同一として、我々に生死を問うものに対しているのである。かかる行為的直観を離れた時、我々の働きは単に機械的か合目的的たるかに過ぎない。当為といっても行為的実現を離れては唯形式的たるに過ぎない。
 我々の種的生命というものも、無限なる弁証法的発展の結果として出来たものであるが、我々が単に因襲的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である。我々は時々刻々に創造的でなければならない。私の行為的直観というのは、全体が受働的に一時に現前するなどいう如きことではない。それでは自己というものがなくなることである、自己が単なる一般となることである。これに反し我々が何処までも個物的として、絶対矛盾的自己同一的に、我々の自己に臨む世界に対することである、創造的となることである。私は個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対するというが、生死ということが個物の個物たる所以でなければならない。個物は生死するものでなければならない、然らざれば個物ではない。そして生物的生命といえども、個物の生死ということがなければならない。死ということは絶対の無に入ることであり、生れるということは絶対の無から出て来ることである。それは唯絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。
 生物的生命といえども、形成的でなければならない。そこには既に行為的直観が含まれていなければならない。行為的直観的なる形成作用というのは、個物が何処までも超越的なるもの即ち絶対に対し、絶対矛盾的自己同一を媒介とするということである。真の当為はかかる個物の立場から起るものでなければならない。然らざれば、それは主観的たるを免れない。具体的当為は、我々が自己自身を否定するものによって生きるという個人的存在としての自己矛盾から起るものでなければならない。欲求的なる身体的存在としても、我々は既にかかる自己矛盾的存在であるのである。真の具体的当為とは、何処までも我々を越えたものが行為的直観的に外から我々に求めるものでなければならない、ポイエシスを通して現れ来るものでなければならない(真の実践はいつも行為的直観を媒介するものでなければならない)。身体的なるが故に、我々は自己存在の根柢において自己矛盾である。而して歴史的身体的なるが故に、我々は何処までも当為的であるのである。単に論理的矛盾から具体的当為は出ない。真の絶対として我々に臨むものは、論理的に考えられた絶対ではなく、現実に我々の生死を問うものでなければならない。

 絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。無限なる過去と未来とが自己矛盾的に現在において合一するという時、そこに時が消される立場がなければならない。矛盾的自己同一的現在の自己形成は意識を契機とするものでなければならない。形成作用というのは機械的でもなく単なる合目的的でもない、意識的でなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。しかし世界が斯《か》く何処までも表現的に、換言すれば抽象概念的に考えられて行くというのも、それは行為的直観の現実からであり、世界はいつも絶対矛盾的自己同一として、かかる自己否定を契機として行くのである。我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである、個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。この故に絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、何処までも論理的ということができる。
 絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成において、時が消されると考えられる意識面においては、世界は何処までも動揺的である。そこには行為的直観が失われるとすら考えられる。我々は自由に考え自由に行い得ると考えられる。我々は絶対矛盾的自己同一として我々に臨むものから離れる。抽象的自由の世界があるのである。しかしそれは世界が亡び行く方向であり、我々が我々自身を失い行く方向たるに過ぎない。我々の意識というのは絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の契機として現れるのであり、意識的に過去と未来とが自己矛盾的に現在に合一するということは、逆に世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するということでなければならない。我々は意識的に自由であればあるほど、逆に行為的直観的に絶対矛盾的自己同一に対するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界の個物として、我々は何処までも自己自身の生死を問うものに対するのである。そこに我々の意識作用は何処までも当為的でなければならない所以《ゆえん》のものがあるのである。
 幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。無論、本能とはその未発展の状態といい得るであろう。芸術とはその一方向への極限とも考えられるであろう。しかし行為的直観というのは、我々が意識的に実在を把握する、最も根本的な、最も具体的な仕方でなければならない。概念というのは、唯抽象によって成立するのではない。物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。行為的直観的に物を把握するということは、作ることによって見ることである、ポイエシスによって物を知ることである。私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生れるといったが、作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時我々は行為的直観的に実在を把握するのである。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。それが我々の概念的知識の本質であるのである。我々の今日概念的知識というものは、その根柢において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。いわゆる実践によって獲得し来ったものである。一般には、眼が実用を離れて知識的と考えられる。しかしアリストテレスが我々は手を有《も》つ故に理性的であるといった如く私は我々の概念的知識は手から得られたのであると思う。手は運動の機関であり把握の機関であると共に、製作の道具であるのである(Noire, Das Werkzeug【#「Noire」の「e」はアキュートアクセント付き】[『道具』])。
 動物より人間へという時我々は社会的となる。上にいった如く、社会においては既に個人というものがあるのである。社会というものは、ポイエシスを中心として成立するのである。我々の概念的知識というのは、固《もと》社会的制作から発展し来ったものでなければならない。物の概念とは、固社会的制作によって把握せられたものでなければならない。社会的制作的に把握せられる物の生産様式が概念的知識の起源となるのであろう。言語というものなくして思惟というものなく、言語学者は言語は固社会的共同作用に伴うという。而して概念的知識は生産様式的に生産的なればなるほど、真なのである。今日の科学といえども、かかる立場から発展し、また何処までもかかる立場を離れないものでなければならない。無論それは何処までもかかる立場を越えたものと考えられるであろう、かかる立場を否定するとすら考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処《ここ》から出て此処へ還《かえ》り来る性質を有ったものでなければならない、いわば技術的意義を有ったものでなければならない。しかのみならず、純知識的といっても、実験ということは行為的直観的に実在を把握することでなければならない。無論科学は単なる実験ではない。しかし科学においては実験と理論とは不可分離的でなければならない。而《しか》して理論というものが、如何に純理論的といっても、私のいわゆる制作によって行為的直観的に物の生産様式を把握するということから発展し来ったものでなければならない。何処までもかかる立場から歴史的に発展し来ったものでなければならない。行為的直観の地盤を離れて科学はない。ミンコフスキーは時間空間の相対性を講ずるに当って、この見解は物理的実験の地盤から生れた、そこに強味があるといった如く。
 過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する、即ち唯一なる世界に対するのである。我々が個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。而して斯《か》くなればなるほど、逆に我々は自己矛盾的に世界と一つになるということができる。かかる立場において、世界が意識面的であり、我々の自己が意識作用的であると考えられる時、世界が一つの論理的一般者と考えられる。かかる個物的自己として行為的直観的に物を把握するのが、我々の判断作用というものである。現在において、我々が何処までも個人的自己として、個人的自己の尖端《せんたん》において行為的直観的に物を把握する所に、客観的実在の判断的知識が成立するのである。現在においての個人的自己とは何を意味するか。過去と未来とが何処までも矛盾的に合一する矛盾的自己同一的現在の世界においての個物としてということを意味するのである。いわば絶対現在としての歴史的空間の個物ということである。かかる個物的自己として行為的直観的に即ちポイエシス的に物を把握するということは、物を絶対現在としての歴史的空間において見ることであり、過去未来を包んだ現在においての物の法則を明《あきらか》にすることである、私のいわゆる世界の生産様式を把握することである。そこに客観的認識の世界があるのである。
 行為的直観的自己が何処までも個物的であり、現在が何処までも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。例えば、物理学者が実験をするというのも、物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。矛盾的自己同一的現在が形を有《も》たない世界の生産様式が非創造的である、同じ生産様式が繰返される。斯く見られた時、歴史的世界は物理学的世界であるのである、而してまた歴史的世界は一面に何処までもかかる世界でなければならない。我々も身体的には物質的としてかかる世界の中にいるのであり、我々は社会的制作的に歴史的生命の始から既に物理学的に世界を見ているのである。今日の物理学というも、かかる立場から発展し来ったものでなければならない。我々が個人的自己として世界に対するということは、世界が唯一的に我々に臨むことである。世界が唯一的に我々に臨む所に、我々の個人的自己があるのである。今日の物理学的世界が唯一的に我々に臨む所に、今日の物理学的個人的自己というものがあり、行為的直観的に今日の物理学的知識が把握せられるのである。
 過去未来合一的に絶対矛盾的自己同一として、即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、何処までも論理的である。かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。絶対矛盾的自己同一的現在の意識面において世界は動揺的である。我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。行為的直観的現実をヒポケーメノンとして種々なる判断が成立する。我々が個物的なればなるほど、斯《か》くいうことができる。世界は種々に表現せられる。モナドが世界を映すと考えられる如く、個物の立場から全世界が表現せられるということができる。個物の立場からの世界の表現即ち判断が、行為的直観的に即ちポイエシス的に証明せられるかぎり、それが真であるのである。我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、行為的直観的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。
 我々が世界の形成要素として個物的なればなるほど、矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に撞着《どうちゃく》するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、時が否定せられると考えられる世界の意識面的形成として、知識は形式論理的でなければならない。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界から、その行為的直観的なる核を除去すれば形式論理的となるのである。しかし形式論理が行為的直観的な歴史的形成作用の外にあって、これと相媒介をなすのではなく、かえってこれに含まれているのでなければならない。知識は論理と直覚とが相対立し相媒介することによって成立するのではなく、具体的一般者の自己限定として成立するのでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、それが意識面的形成的に、即ち論理的に具体的一般者ということができる。モナドが世界を映すことは、世界のペルスペクティーフの一観点となることである。多と一との矛盾的自己同一的一般者、いわゆる弁証法的一般者の自己限定として、作られたものから作るものへと、ポイエシス的に、行為的直観的に実在を把握し行く所に、客観的知識が成立するのである(真の具体的一般者とは個物を含むものでなければならない、場所的でなければならない)。行為的直観の過程というのは、かかる具体的一般者の自己限定として具体的論理の過程でなければならない。帰納法的知識即ち科学的知識というのは、かかる過程によって成立するのである。
 上にいった如く、すべて我々の行為は行為的直観的に起るのである、個物が世界を映すから起るのである(故に表現作用的である)。我々の知識作用というも、何処までも歴史的行為として見られねばならない。如何にそれが抽象論理的と考えられても、客観的認識であるかぎり、ポイエシス的に、行為的直観的に物を把握するという立場を離れない。無論それは矛盾的自己同一的現在の自己限定として何処までも論理的に自己自身を媒介すべきはいうまでもない。我々が何処までも個物的であり、知識が客観的であればあるほど、爾《しか》いうことができる。従来の認識論においては、認識作用を歴史的世界においての歴史的形成作用として、即ちその全過程において考えていない。これを全過程として見ないで、一々の意識作用として、いわば歴史の横断面においてのみ見ているのである。これを意識面において中断して見れば、論理と直覚とが相対立し相媒介するとのみ考えられる。しかし全過程としては、知識とは固《もと》歴史的制作的自己としての我々のポイエシスより、何処までも行為的直観的に実在を把握し行くことでなければならない。問題は歴史的生命の地盤から起るのである、抽象論理的に起るのではない。しかし斯《か》くいうのは、真理を実用主義的に考えるのではない。歴史的生命とは矛盾的自己同一的現在の自己形成としてイデヤ的であるのである。

 私の行為的直観というのは、判断論理を媒介とせないで、唯無媒介的に、単に受働的ないわゆる直観から直観へと移り行くことを意味するのではない。矛盾的自己同一的現在の世界においては、何処までも個物と世界との対立がなければならない、作られたものと作るものとの対立がなければならない。かかる立場からは、直観と行為とは何処までも対立するものでなければならない。その間には単に主体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。そこには絶対の過去と未来との対立がなければならない。無限なる歴史的過去が絶対現在において無限に我々に迫りおるのである。無限の過去が現在において我々に対するということは表現的ということであり、それは単に了解の対象と考えられるが、何処までも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。我々の自己の存在そのものを動かすものが、直観的に見られるものである。上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。作用が自己矛盾的に対象に含まれ、見ることから働く世界である、いわば我々が何処までもその中に吸い込まれ行く世界である。
 絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない、また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。作用が自己矛盾的に対象に含まれるというのは、その根柢において此《かく》の如きことでなければならない。環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、自己自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。我々の自己が個物的なればなるほど、斯くいうことができる。物が直観的に与えられるということは、単に受働的に見られることであるとか、あるいは作用がなくなることであるとかいうのは、知的自己の立場からの非弁証法的見方に過ぎない。作用が我々に逆に向い来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個物的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。動物的本能の世界においても、個物が自己の中に世界を映すことによって欲求的であり、見ることから働く。しかしそこでは個物は真に個物的ではない故になお直観というものはない。本能的動物は悪魔に囚《とら》われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起《じゃっき》するもの、我々の魂の底までも唆《そその》かすものである。然るに人は唯心像とか夢想の如くにしか考えていない。
 矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時、過去は既に過ぎ去ったものでありながら、自己矛盾的に現在においてあるものである、無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。我々人間に対しては、環境が何処までも表現的ということができる。而してそれが作られたものから作るものへとして、何処までも我々に迫るという時、我々に直観的である。個人的自己としての我々の作用的存在を動かすかぎり、直観的である。しかし過去は自己自身を否定して、未来へ行くことによって過去である。未来ありての過去である、無論その逆も真である。歴史においては、単に与えられたものはない、与えられたものは作られたものである、作られたものから作るものへと否定すべく作られたものである。我々は作られたものから作るものへの世界の作るものとして、自己自身を形成する世界の形成要素として、何処までもこれに対立する。而して作られたものから作るものへと世界を形成し行くのである。そこに私のいわゆる行為的直観の立場があるのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として個物的なればなるほど、即ち具体的人格的なればなるほど、我々は行為的直観的に歴史的創造の尖端《せんたん》に立つのである。かかる意味において、行為と直観とは何処までも相反するということができる。世界が一つの表現として何処までも我々に迫るというのは我々の自己の底にまで迫るのである、我々の魂の譲渡を求めるのである。
 此処《ここ》に我々が形成的というのは、絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、世界を創造的に把握するということでなければならない。歴史的創造作用として現実を把握することが、具体的理性的ということである。そこには判断論理の媒介というものが、含まれていなければならない。行為的直観の立場に深くなるということは、理性的となることである。生産様式的に実在を把握することである。具体概念とは、実在の生産様式でなければならない。科学的知識も、かかる基礎の上に立つのである。而して世界を創造作用的に把握するということは、イデヤ的にということである。イデヤとは世界の創造作用でなければならない。ヘーゲルのイデヤとは此《かく》の如きものであろう。
 ポイエシスを中心とする歴史的世界は、その創造の尖端において、無限の過去と未来とに対立する。而してそれは絶対矛盾的自己同一的現在においての対立として主体と環境との対立ということができる。かかる絶対現在においての主体と環境との対立、相互形成は機械的でも、合目的的でもあることはできない。環境は何処までも表現的であり、主体へ、作るものへ、何処までも直観的に迫るのである。直観とは物が我々の自己を奪い去らんとすることである。物と自己とが無関心に対立することではない。物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能働的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定するとも考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能働的となることである。物をそのままに受取ることではない、物を能働的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は益※《ますます》【#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、66-4】明となるのである。芸術は非論理的と考えられる。芸術的直観とは、行為的直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、非論理的とも考えられるが、具体的論理の立場からは、芸術的直観もその一方向として含まれなければならない(芸術も理性的でなければならない)。
 創造の立場においては過去と未来とが絶対に相対立するものでなければならない。しかもそれは単なる対立ではなく、矛盾的自己同一的対立として、作られたものから作るものへと創造的に動き行くのである。この故に世界は矛盾的自己同一的現在として自己形成的である、即ち意識的である。過去と未来との矛盾的自己同一なるが故に、意識的なのである。世界は絶対の過去として必然的に我々を圧して来る。しかし矛盾的自己同一的世界の過去として、単に因果的に、我々を圧するのでない。単なる因果的必然は、我々の自己を否定するものではない。それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的でもなく、単に否定的でもなく、悪魔的に我々に迫り来るものでなければならない。真に我々の魂に迫るものは、かえって抽象論理を以て我々を唆《そその》かすものでなければならない、真理の仮面を以て我々を誑《たぶらか》すものでなければならない。右の如く絶対過去として我々の個人的自己の根柢に迫り来るものに対して、我々は絶対未来の立場に立つものとして、行為的直観的に何処までも形成的である、創造的世界の創造的要素として何処までも創造的である(我々はいつも超越的なるものにおいて自己を有つ、この論文の終参照)。そこに理想主義の根拠があるのである。
 行為的直観的に世界を見るということは、逆に行為的直観的に世界を形成することを含むのである。過去は自己自身を否定して未来へ行くべく過去であり、未来は自己自身を否定して過去となるべく未来である。世界が絶対過去として何処までも直観的に、我々の個人的自己をその生命の根柢から奪うということは、世界が非創造的となることである、世界が自己自身を否定することである。直観自身が自己矛盾である。世界が生きるかぎり、即ち創造的であり生産的であるかぎり、世界は自己矛盾に陥らざるを得ない。我々の行為的自己は、かかる世界の自己矛盾の底より生れるのである。世界が絶対過去として直観的に個人的自己に迫り来るというのは、機械的にでもなく合目的的にでもなく、我々の魂の譲与を迫り来ることでなければならない。単なる了解の対象としてでなく、信念の対象として、行為を唆すものとして、迫り来ることでなければならない。それは何処までも論理性を有ったものでなければならない。然らざれば、我々の個人的自己を動かすものではない、我々の行為的自己に対して与えられたものとはいえない。絶対矛盾的自己同一的現在において、作られたものとして我々を動かすものは、抽象論理的に我々に迫るものでなければならない(斯《か》くあったから斯くすべしとして)。抽象論理の立場からは、世界を決定したものとして考えるのである。我々の行為的自己が過去から自己に臨む所に、抽象論理的である。これを反省という。しかし我々の行為的自己は、矛盾的自己同一的世界の形成要素として、行為的直観的に、ポイエシス的に、歴史的世界の生産様式を把握し行く所に、具体的論理があるのである。過去というものがなければ未来はない。我々の行為には、何処までも過去が基とならなければならない。決定せられたものからという立場からは、我々の行為は抽象論理的でなければならない。矛盾的自己同一的世界が何処までも行為的直観的に我々に臨むということは、抽象論理的に我々を動かすことが含まれていなければならない。しかしそれは何処までも絶対矛盾的自己同一的現在においての過去として、形成作用的に然るのである。具体的論理は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、抽象論理を媒介とするが、抽象論理は具体的論理の媒介として、論理の意義を有するのである。然らざれば単なる形式たるに過ぎない。
 私の行為的直観的に実在を把握するというのは、抽象論理を媒介とせないというのではなく、我々が矛盾的自己同一的世界の形成要素として個物的であり、創造的であればあるほど、絶対矛盾的自己同一的現在において行為的直観的に与えられるものは、論理的に我々を動かすものでなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するのが、具体的論理である。かかる意味において、芸術も具体的論理的である。私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであって、後者から前者を見るのではない。

     四

 直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考に反することであろう。私のいう所があるいは無理押しと考えられるかも知れない。しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、具体的な歴史的・社会的自己の立場からではない、即ち行為的・制作的自己の立場からではない。判断論理の立場からは、与えられたものといえば非合理的と考えられ、直観といえば論理を拒否すると考えられるでもあろう。しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生れ来るのであり、何処まで行ってもかかる立場を脱するものではない。与えられるものは歴史的・社会的に与えられるのであり、直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。矛盾的自己同一的現在の世界において与えられたものとして、我々の個人的自己に迫るものでなければならない。社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。如何に原始的であっても、単に本能的ではない、単に全体的ではない、多と一との矛盾的自己同一的でなければならない。我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。動物的群居と異なるものがあるのである。原始社会はトーテムとかタブーとかにより極度に束縛せられる。しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。
 具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、社会的に与えられるものでなければならない、我々を包むものとして与えられるのである。矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである、私のいわゆる弁証法的一般者の自己限定として与えられるのである。社会的因襲的に過去からとして要請せられるのである。論理的には特殊的といっても、我々が歴史的・社会的であるかぎり、種的であるかぎり、本質的にそれから動かされざるを得ないのである。それはレヴィ・ブリュールの如く論理以前ということができるであろう。しかしプラトンの論理といえども、その根柢においてイデヤの分有にほかならない。単なる抽象的論理はかえって真の論理ではない。具体的論理は両面の矛盾的自己同一でなければならない。いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。作られたものから作るものへと、社会は弁証法的に進展し行くのである。しかし何処まで行っても、その根柢において、歴史的・社会的形成として、ポイエシス的に実在を把握し行くという行為的直観の過程たるを脱せない。具体的論理たるかぎり、爾《しか》いうことができる。しかし斯《か》くいうのは、論理の根柢に神秘的直観的なものを考えるということではない。何処までもポイエシス的に、実践的に、真実在に肉迫し行くことである。絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くことである。そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない。単に特殊的なるもの単に歴史的なるものを越え行かねばならない。そこには直観的に与えられるものが否定せられると考えられる。しかしそれは抽象的合理論者の考える如く、歴史的過去が否定せられるとか、特殊が単に一般の特殊となるとかいうことではない。原始社会というものが、既に矛盾的自己同一として成立するのである。而《しか》して我々の社会は何処までもかかる立場において発展し行くのである。否、矛盾的自己同一的なるが故に、作られたものから作るものへと発展し行くのである。
 歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、我々が個人的自己であればあるほど、それを否定することができないまでに自己の生命の根柢に迫るのである。直観的に我々に迫るものは、世界史的に迫るものとなるのである。社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、固《もと》歴史的世界の生産様式であったのである。我々は個人的自己として、すべて直観的なるものを棄《す》てて、合理的となると考える。しかしそれはかえって自己同一的世界の形成要素として、真に行為的直観的となるということである。原始社会においての如く、我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである。否、我々は個人的なればなるほど、爾いうことができる。矛盾的自己同一的世界の形成要素として絶対矛盾的自己同一に対することによって我々は個人的自己となるのである。我々はこれに至って真に個人的自己となるということができる。而して我々は矛盾的自己同一的世界の自己形成によって、即ち具体的論理的にそこに至るのである。具体的論理は何処までも抽象論理を媒介とする。しかし抽象論理的媒介によって具体的論理に行くのではない。

 ヘーゲルは人格がイデヤ的存在であるために、財産を有《も》たねばならぬという。具体的人格は歴史的身体的でなければならない。社会は作られたものから作るものへという歴史的生産作用として成立し、我々の自己はかかる矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会の形成要素としてあるのである。人格というものも、かかる立場から考えられねばならない。人間の社会は動物のそれと異なって最初より個人というものがあり、多と一との矛盾的自己同一において、全体的一に対する個物的多として人格的自己というものが成立するのである。矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝《なんじ》に対し、人格は人格に対するということでもある。社会は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、何処までも作られたものから作るものへと動いて行く。かかる過程は機械的でもなく合目的的でもない。多と一との矛盾的自己同一的過程として行為的直観的でなければならない。多が一の多、一が多の一、動即静、静即動として、そこに永遠なるものの自己形成即ちイデヤ的形成の契機が含まれていなければならない。文化というのはかかる契機において成立するのである。この故にそれは何処までも種的形成でありながら、絶対矛盾的自己同一的現在の自己形成として世界史的となる。矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会は、是《ここ》においてイデヤ的形成的として国家となる、即ち理性的となるのである。かかる社会の形成要素として我々は具体的人格となるのである。かかる意味において国家が倫理的実体であり、我々の道徳的行為は国家を媒介とするということができるのである。文化的ならざる国家というものはない。非文化的な社会は国家の名に価せないものである。但、文化はイデヤ的として世界史的なるを以て或社会の種的形成でありながら、いつもそれだけのものではない。
 歴史的世界は、生物の始から人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。而して作られたものから作るものへと動いて行くのである。動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。作られたものから作るものへとの歴史的進展の過程が、全体的一の過程と考えられる、即ち合目的的と考えられる。個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである、個物的多の世界に対して超越的でないということである、なお多の一であるということである。これに反して人間の世界においては、如何に原始的であっても既に多と一との矛盾的自己同一的である。しかしそれでも原始的社会にあっては、個物はなお真に独立的ではない、全体的一は抑圧的である。全体的一は単に超越的である。多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。絶対矛盾的自己同一の世界においては、個物が個物自身を形成することが世界が世界自身を形成することであり、その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。多と一とが相互否定的に一となる、作られたものから作るものへである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。それが文化的過程である。かかる立場において、個物的多を生かすことが全体的一が生きることであり、全体的一が生きることが個物的多が生きることである。社会が実体的自由として倫理的実体となり、歴史的世界の形成作用として我々の行為は道徳的意義を有つ。世界が絶対矛盾的自己同一として矛盾的自己同一的に、イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、真の道徳があるのである。
 かかる意味において、文化的過程は倫理的でなければならない。文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、社会が倫理的実体であるのである。かかる世界のイデヤ的形成の要求が何処までも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、当為として意識せられるのである。芸術や学問も、かかる立場においてイデヤ的形成作用たるかぎり、倫理的意義を有するということができる。これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。マキアヴェルリが国家の本質とした「力」virtu 【#「u」はグレーブアクセント付き】というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。故に国家存在理由には、いつも矛盾が含まれている。しかしそこに国家の存在理由があるのでなければならない。歴史的世界に実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかかる実在の自己形成から成立するのである。現在の十字架において薔薇《ばら》を認めることでなければならない、然らざれば真の文化ではない。芸術という如きものも、矛盾的自己同一的な社会の自己形成作用として生れるのである。かかる意味において、私は芸術が社会の儀式から生れるという考に興味を有するのである(Jane Harrison, Ancient Art and Ritual[『古代芸術と祭式』])。而してそれは何処まで進んでも、かかる立場が失われないであろう。芸術も具体的論理的という所以《ゆえん》である。しかし矛盾的自己同一的形成が深くなればなるほど、行為的直観の現実を中心として種々なる文化が相異なる方向に分化発展するのである。
 絶対矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへとの自己形成の過程において、イデヤ的である、直観的なるものを含むといった。しかし私はそこに世界の自己同一を置くのではない。もし然《しか》いうならば、それは絶対矛盾的自己同一の世界ではない。絶対矛盾的自己同一の世界においては、自己同一は何処までもこの世界を越えたものでなければならない。それは絶対に超越的でなければならない、人間より神に行く途《みち》はない。個物的多と全体的一とは、この世界において何処までも一とならないものでなければならない。この世界に内在的に、イデヤ的なるものに、自己同一を置くかぎり、世界は真に自己自身から動く現実の世界ではない。この故に絶対矛盾的自己同一の世界は、イデヤ的なるものをも否定する世界でなければならない、文化をも否定する世界でなければならない。イデヤ的世界は仮現の世界である。イデヤ的なるものは、生れるもの、死に行くもの、変じ行くもの、過程的なものでなければならない。世界が絶対矛盾的自己同一的なる故に、その自己形成の過程が単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。絶対弁証法的なるが故にイデヤ的直観的契機が含まれるのである。故に文化と宗教とは何処までも相反する所に、相結合するということができる。私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、それは絶対の断絶の連続ということでなければならない。それは何処までも超越的なるものが自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。宗教は文化を目的とするものではない、かえってその逆である。しかし真の文化は宗教から生れるものでなければならない。
 絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を有《も》たない。矛盾的自己同一として、いつもこの世界に超越的である。この故に限定するものなき限定として、その自己形成がイデヤ的である。斯《か》くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。それは文化発展によって減ぜられ行く矛盾ではなくして、かえって益※【#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、78-2】|明《あきらか》となる矛盾であるのである。超越的なるものにおいて自己同一を有つ矛盾的自己同一的世界においては、作られたものから作るものへとの行為的直観的なポイエシス的過程は何処までも無限進行でなければならない。我々はその方向において絶対者に、神に結び附くのではない。我々は我々の自己成立の根柢において神に結合するのである(我々は被創造物であるのである)。
 過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、我々は生命の始においてかかる約束の下に立たねばならない。我々はいつも絶対に接しているのである。唯これを意識せないのである。我々は自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身を翻して絶対に結合するのである、即ち神に帰依するのである。これを回心《えしん》という。そこには自己自身を否定することによって、真の自己を見出すのである。ルターは基督《キリスト》者の自由を論じて、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、すべてのものに奉仕する従僕であるという。故に我々はこの世界の中に自己同一を置く我々の行為によって宗教に入るのでなく、かかる行為そのもの、自己そのものの自己矛盾を反省することによって宗教に入るのである。而して我々が斯く自己自身の根柢において自己矛盾に撞着《どうちゃく》するというも、自己自身によるのでなく絶対の呼声でなければならない。自己自身によって自己否定はできない(ここに宗教家は恩寵《おんちょう》というものを考える)。この故に宗教は出世間的と考えられる。しかし右にもいった如く、宗教は絶対矛盾的自己同一的立場として、それによって真の文化が成立するのでなければならない。我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである。他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基《もとづ》くものでなければならない。かかる道徳的制約の下に、矛盾的自己同一的に、自己自身を形成する世界として、作られたものから作るものへと、世界はイデヤ的形成的でなければならない。
 宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力|作善《さぜん》の道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。親鸞《しんらん》が『歎異抄《たんにしょう》』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味《あじわ》うべきである。また今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容《あいい》れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。
 東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方[即今《そっこん》目前孤明|歴歴《れきれき》地《じ》に聴く者、此の人は処処に滞《とどこお》らず、十方に通貫す]といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1-14-45、80-8】祇今聴法者、不是※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1-14-45、80-8】四大、能用※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1-14-45、80-9】四大、若能如是見得、便乃去住自由[※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1-14-13、80-9】《なんじ》が祇《た》だ今聴法するは、是れ※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1-14-13、80-9】が四大にあらずして、能く※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1-14-13、80-10】が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃《すなわ》ち去住自由ならん]という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。


 多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。而して斯《か》く超越的一者に対するということは、内在的にはアガペ的に個物が個物に対することである。我々は作られたものから作るものへとして、歴史的にこの世界から生れるものでありながら、いつも我々は直接にこの世界を越えたものに対するものであり、即ちこの世界を越えたものである。そこに個物と世界とが対立する。前に行為的直観の立場において与えられたものというのは、我々の個人的自己に迫るもの、我々の魂を奪うものといったのは、これによるのである。それは我々の身体的生命を否定するのみならず、我々の魂を否定するものでなければならない。超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界の個物として、我々はこれに対して何処までも対立的である。与えられたものとして自己自身に迫り来るものに自己を奪われるかぎり、超越的一者において自己を有つ真の個物ではない。我々は何処までも物に奪われてはならない。そこに無上命法の根拠があるのである。しかしそれはまた何処までも絶対矛盾的自己同一的世界の個物としてでなければならない。然らざれば、単なる道徳的自尊として一種のヒュブリスたるに過ぎない。我々が右の如き個物として、人格的であればあるほど、作られたものから作るものへとして、イデヤ的形成的でなければならない。それは我々が創造的世界の創造的要素として、超越的一者の機関となるということでなければならない。そこに道徳的ということが、即ち宗教的ということであるのである。
 世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一を有《も》ち、我々は超越的一者に対することによって個物なるが故に、我々は個物的なればなるほど、現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を越えて、反省的であり、思惟的であるのである。世界が自己自身を越えたものにおいて自己同一を有つという時世界は表現的である、我々はかかる世界の個物として表現作用的である。而して世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。反省とは過去と未来とが現在において結合することでなければならない。かかる方向において過去と未来とが何処までも現在において否定せられ、無限に動き行く世界を一つの現在として把握するのが思惟の立場である。思惟の立場においては、表現的に世界を一つの現在として把握するのである。矛盾的自己同一的世界がそこには自己自身の中に自己同一を有つものとして把握せられるのである。自己矛盾的世界を非矛盾的に把握するのである。この故に思惟の立場は何処までも自己矛盾的である。而してそこに思惟と実践とが何処までも対立する、純なる知識の立場というものが成立するのである。世界が矛盾的自己同一として、イデヤ的形成的なればなるほど、我々は個物的として思惟的となるということができる。無限なる過去から無限なる未来へとして、何処までも自己自身の中に自己同一を有たない世界が、自己自身の中に自己同一を有つものとして推論式的一般者と考えられるのである。そこに科学的知識というものが成立するのである。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。斯く世界が何処までも自己自身の中に自己否定の契機を有つということが、世界が矛盾的自己同一的たる所以《ゆえん》であるのである。然らざれば、それは矛盾的自己同一的世界ではないのである。しかし絶対矛盾的自己同一的世界を何処までもかかる立場から把握して行くこと、即ち内在的に自己同一的に見るということは、それを抽象化することでなければならない。具体的論理はその否定的契機として抽象的論理を含まねばならないが、抽象的論理の立場から具体的論理的に考えることはできない。絶対矛盾的自己同一的世界は何処までも自己自身の中に、自己同一を有つことはできない。それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、含まれるものでなければならない。我々の自己が歴史的制作的自己として実在を把握し行く所に、具体的論理というものがあるのである。そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、自己自身を明にするといい得るであろう。我々の意識は自己矛盾的に世界の意識となるのである。故にそこに我々が実践によって実在を映すとか、物が物自身を証明するとかいうこともできる。知識は抽象的分析から始まるといっても、如何なる立場から如何にということは、作られたものから作るものへとして、自己が如何なる立場にあるかの自覚からでなければならない。知識は歴史的過程でなければならない。私は右の如き歴史的生命の自覚という如きものを弁証法的論理というのである。故に科学も弁証法的である。但《ただ》それは作られたものからというに即するが故に、環境的といわねばならない。その立場からのみ歴史的生命の世界を見ることは、抽象的たるを免れない。
 我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。アリストテレスのいう如く、身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる。かかる立場から、我々の歴史的生命は何処までも技術的といい得るであろう。しかしまた逆に歴史的生命が技術的ということは、矛盾的自己同一的に、何処までもイデヤ的形成的ということでなければならない。故に種的形成からイデヤ的形成に発展する。かかる意味においてのみ、特殊が即一般といい得るのである。



底本:「西田幾多郎哲学論集III」岩波文庫、岩波書店
   1989(昭和64)年 12月18日 第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集」岩波書店
入力:nns
校正:ちはる
2001年6月5日公開
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