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『吾輩は猫である』下篇自序
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頁《ページ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)何カ月|経《た》ったか
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「猫」の下巻を活字に植えて見たら頁《ページ》が足りないから、もう少し書き足してくれと云う。書肆《しょし》は「猫」を以《もっ》て伸縮自在と心得て居るらしい。いくら猫でも一旦《いったん》甕《かめ》へ落ちて往生した以上は、そう安っぽく復活が出来る訳のものではない。頁が足らんからと云うて、おいそれと甕《かめ》から這《は》い上る様では猫の沽券《こけん》にも関わる事だから是丈《これだけ》は御免蒙《ごめんこうむ》ることに致した。
「猫」の甕へ落ちる時分は、漱石先生は、巻中の主人公苦沙弥先生と同じく教師であった。甕へ落ちてから何カ月|経《た》ったか大往生を遂げた猫は固《もと》より知る筈《はず》がない。然し此序をかく今日の漱石先生は既に教師ではなくなった。主人苦沙弥先生も今頃は休職か、免職になったかも知れぬ。世の中は猫の目玉の様にぐるぐる廻転している。僅《わず》か数カ月のうちに往生するのも出来る。月給を棒に振るものも出来る。暮も過ぎ正月も過ぎ、花も散って、また若葉の時節となった。是《これ》からどの位廻転するかわからない、只《ただ》長《とこし》えに変らぬものは甕の中の猫の中の眼玉の中の瞳《ひとみ》だけである。
  明治四十年五月



底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房
   1972(昭和47)年1月10日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:米田進
2002年4月27日作成
2003年5月25日修正
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