青空文庫アーカイブ

琴のそら音
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)洋灯《ランプ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|肥《ふと》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山/歸」、第3水準1-47-93]
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「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋灯《ランプ》の穂を細めながら尋ねた。
 津田君がこう云《い》った時、余《よ》ははち切れて膝頭《ひざがしら》の出そうなズボンの上で、相馬焼《そうまやき》の茶碗《ちゃわん》の糸底《いとそこ》を三本指でぐるぐる廻しながら考えた。なるほど珍らしいに相違ない、この正月に顔を合せたぎり、花盛りの今日《きょう》まで津田君の下宿を訪問した事はない。
「来《き》よう来《き》ようと思いながら、つい忙がしいものだから――」
「そりゃあ、忙がしいだろう、何と云っても学校にいたうちとは違うからね、この頃でもやはり午後六時までかい」
「まあ大概そのくらいさ、家《うち》へ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。勉強どころか湯にも碌々《ろくろく》這入《はい》らないくらいだ」と余は茶碗を畳の上へ置いて、卒業が恨《うら》めしいと云う顔をして見せる。
 津田君はこの一言《いちごん》に少々同情の念を起したと見えて「なるほど少し瘠《や》せたようだぜ、よほど苦しいのだろう」と云う。気のせいか当人は学士になってから少々|肥《ふと》ったように見えるのが癪《しゃく》に障《さわ》る。机の上に何だか面白そうな本を広げて右の頁《ページ》の上に鉛筆で註が入れてある。こんな閑《ひま》があるかと思うと羨《うらや》ましくもあり、忌々《いまいま》しくもあり、同時に吾身が恨《うら》めしくなる。
「君は不相変《あいかわらず》勉強で結構だ、その読みかけてある本は何かね。ノートなどを入れてだいぶ叮嚀《ていねい》に調べているじゃないか」
「これか、なにこれは幽霊の本さ」と津田君はすこぶる平気な顔をしている。この忙《いそが》しい世の中に、流行《はや》りもせぬ幽霊の書物を澄《す》まして愛読するなどというのは、呑気《のんき》を通り越して贅沢《ぜいたく》の沙汰だと思う。
「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」
「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯《しんじょたい》の味は。一戸を構えると自《おのず》から主人らしい心持がするかね」と津田君は幽霊を研究するだけあって心理作用に立ち入った質問をする。
「あんまり主人らしい心持もしないさ。やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。あれでも万事整頓していたら旦那《だんな》の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮《しんちゅう》の薬缶《やかん》で湯を沸《わ》かしたり、ブリッキの金盥《かなだらい》で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。
「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。所有と云う事と愛惜《あいせき》という事は大抵の場合において伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる[#「くれる」に傍点]者である。
「俺の家《うち》だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家《うち》だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口《かどぐち》にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面倒が殖《ふ》えるばかりだ」と深くも考えずに浮気《うわき》の不平だけを発表して相手の気色《けしき》を窺《うかが》う。向うが少しでも同意したら、すぐ不平の後陣《ごじん》を繰《く》り出すつもりである。
「なるほど真理はその辺にあるかも知れん。下宿を続けている僕と、新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違うからな」と言語はすこぶるむずかしいがとにかく余の説に賛成だけはしてくれる。この模様ならもう少し不平を陳列しても差《さ》し支《つかえ》はない。
「まずうちへ帰ると婆さんが横《よこ》綴《と》じの帳面を持って僕の前へ出てくる。今日《こんにち》は御味噌を三銭、大根を二本、鶉豆《うずらまめ》を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。厄介きわまるのさ」
「厄介きわまるなら廃《よ》せばいいじゃないか」と津田君は下宿人だけあって無雑作《むぞうさ》な事を言う。
「僕は廃《よ》してもいいが婆さんが承知しないから困る。そんな事は一々聞かないでもいいから好加減《いいかげん》にしてくれと云うと、どう致しまして、奥様の入《い》らっしゃらない御家《おうち》で、御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違いがあってはなりません、てって頑《がん》として主人の云う事を聞かないんだからね」
「それじゃあ、ただうんうん云って聞いてる振《ふり》をしていりゃよかろう」津田君は外部の刺激のいかんに関せず心は自由に働き得ると考えているらしい。心理学者にも似合しからぬ事だ。
「しかしそれだけじゃないのだからな。精細なる会計報告が済むと、今度は翌日《あす》の御菜《おかず》について綿密な指揮を仰ぐのだから弱る」
「見計《みはか》らって調理《こしら》えろと云えば好いじゃないか」
「ところが当人見計らうだけに、御菜に関して明瞭なる観念がないのだから仕方がない」
「それじゃ君が云い付けるさ。御菜のプログラムぐらい訳《わけ》ないじゃないか」
「それが容易《たやす》く出来るくらいなら苦にゃならないさ。僕だって御菜上の智識はすこぶる乏《とぼ》しいやね。明日《あした》の御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]の実《み》は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから……」
「何だい御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]と云うのは」
「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]と云うのだ。まずその汁の実を何に致しましょうと聞かれると、実になり得べき者を秩序正しく並べた上で選択をしなければならんだろう。一々考え出すのが第一の困難で、考え出した品物について取捨をするのが第二の困難だ」
「そんな困難をして飯を食ってるのは情ない訳だ、君が特別に数奇《すき》なものが無いから困難なんだよ。二個以上の物体を同等の程度で好悪《こうお》するときは決断力の上に遅鈍なる影響を与えるのが原則だ」とまた分り切った事をわざわざむずかしくしてしまう。
「味噌汁の実まで相談するかと思うと、妙なところへ干渉するよ」
「へえ、やはり食物上にかね」
「うん、毎朝梅干に白砂糖を懸《か》けて来て是非《ぜひ》一つ食えッて云うんだがね。これを食わないと婆さんすこぶる御機嫌が悪いのさ」
「食えばどうかするのかい」
「何でも厄病除《やくびょうよけ》のまじないだそうだ。そうして婆さんの理由が面白い。日本中どこの宿屋へ泊っても朝、梅干を出さない所はない。まじないが利《き》かなければ、こんなに一般の習慣となる訳がないと云って得意に梅干を食わせるんだからな」
「なるほどそれは一理あるよ、すべての習慣は皆相応の功力があるので維持せらるるのだから、梅干だって一概に馬鹿には出来ないさ」
「なんて君まで婆さんの肩を持った日にゃ、僕はいよいよ主人らしからざる心持に成ってしまわあ」と飲みさしの巻煙草《まきたばこ》を火鉢の灰の中へ擲《たた》き込む。燃え残りのマッチの散る中に、白いものがさと動いて斜《なな》めに一の字が出来る。
「とにかく旧弊な婆さんだな」
「旧弊はとくに卒業して迷信|婆々《ばばあ》さ。何でも月に二三|返《べん》は伝通院《でんずういん》辺の何とか云う坊主の所へ相談に行く様子だ」
「親類に坊主でもあるのかい」
「なに坊主が小遣《こづかい》取《と》りに占《うらな》いをやるんだがね。その坊主がまた余計な事ばかり言うもんだから始末に行かないのさ。現に僕が家《うち》を持つ時なども鬼門《きもん》だとか八方《はっぽう》塞《ふさが》りだとか云って大《おおい》に弱らしたもんだ」
「だって家《うち》を持ってからその婆さんを雇ったんだろう」
「雇ったのは引き越す時だが約束は前からして置いたのだからね。実はあの婆々《ばばあ》も四谷の宇野《うの》の世話で、これなら大丈夫だ独《ひと》りで留守をさせても心配はないと母が云うからきめた訳さ」
「それなら君の未来の妻君の御母《おっか》さんの御眼鏡《おめがね》で人撰《じんせん》に預《あずか》った婆さんだからたしかなもんだろう」
「人間はたしかに相違ないが迷信には驚いた。何でも引き越すと云う三日前に例の坊主の所へ行って見て貰ったんだそうだ。すると坊主が今本郷から小石川の方へ向いて動くのははなはだよくない、きっと家内に不幸があると云ったんだがね。――余計な事じゃないか、何も坊主の癖にそんな知った風な妄言《もうごん》を吐《は》かんでもの事だあね」
「しかしそれが商売だからしようがない」
「商売なら勘弁してやるから、金だけ貰って当り障《さわ》りのない事を喋舌《しゃべ》るがいいや」
「そう怒っても僕の咎《とが》じゃないんだから埓《らち》はあかんよ」
「その上若い女に祟《たた》ると御負けを附加《つけた》したんだ。さあ婆さん驚くまい事か、僕のうちに若い女があるとすれば近い内貰うはずの宇野の娘に相違ないと自分で見解を下《くだ》して独りで心配しているのさ」
「だって、まだ君の所へは来んのだろう」
「来んうちから心配をするから取越《とりこし》苦労さ」
「何だか洒落《しゃれ》か真面目か分らなくなって来たぜ」
「まるで御話にも何もなりゃしない。ところで近頃僕の家の近辺で野良犬《のらいぬ》が遠吠《とおぼえ》をやり出したんだ。……」
「犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい。僕には聯想さえ浮ばんが」と津田君はいかに得意の心理学でもこれは説明が出来《でき》悪《にく》いとちょっと眉《まゆ》を寄せる。余はわざと落ちつき払って御茶を一杯と云う。相馬焼の茶碗は安くて俗な者である。もとは貧乏士族が内職に焼いたとさえ伝聞している。津田君が三十匁の出殻《でがら》を浪々《なみなみ》この安茶碗についでくれた時余は何となく厭《いや》な心持がして飲む気がしなくなった。茶碗の底を見ると狩野法眼《かのうほうげん》元信流《もとのぶりゅう》の馬が勢よく跳《は》ねている。安いに似合わず活溌《かっぱつ》な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
「さあ飲みたまえ」と津田君が促《うな》がす。
「この馬はなかなか勢がいい。あの尻尾《しっぽ》を振って鬣《たてがみ》を乱している所は野馬《のんま》だね」と茶を飲まない代りに馬を賞《ほ》めてやった。
「冗談《じょうだん》じゃない、婆さんが急に犬になるかと、思うと、犬が急に馬になるのは烈《はげ》しい。それからどうしたんだ」としきりに後《あと》を聞きたがる。茶は飲まんでも差《さ》し支《つか》えない事となる。
「婆さんが云うには、あの鳴き声はただの鳴き声ではない、何でもこの辺に変《へん》があるに相違ないから用心しなくてはいかんと云うのさ。しかし用心をしろと云ったって別段用心の仕様《しよう》もないから打ち遣《や》って置くから構わないが、うるさいには閉口だ」
「そんなに鳴き立てるのかい」
「なに犬はうるさくも何ともないさ。第一僕はぐうぐう寝《ね》てしまうから、いつどんなに吠《ほ》えるのか全く知らんくらいさ。しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を択《えら》んで来るから面倒だね」
「なるほどいかに婆さんでも君の寝ている時をよって御気を御つけ遊ばせとも云うまい」
「ところへもって来て僕の未来の細君が風邪《かぜ》を引いたんだね。ちょうど婆さんの御誂《おあつら》え通りに事件が輻輳《ふくそう》したからたまらない」
「それでも宇野の御嬢さんはまだ四谷にいるんだから心配せんでもよさそうなものだ」
「それを心配するから迷信|婆々《ばばあ》さ、あなたが御移りにならんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから是非この月|中《じゅう》に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。飛んだ預言者《よげんしゃ》に捕《つら》まって、大迷惑だ」
「移るのもいいかも知れんよ」
「馬鹿あ言ってら、この間越したばかりだね。そんなにたびたび引越しをしたら身代限《しんだいかぎり》をするばかりだ」
「しかし病人は大丈夫かい」
「君まで妙な事を言うぜ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇《おど》かすもんじゃない」
「威嚇《おど》かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これでも君の妻君の身の上を心配したつもりなんだよ」
「大丈夫にきまってるさ。咳嗽《せき》は少し出るがインフルエンザなんだもの」
「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かすほどな大きな声を出す。今度は本当に威嚇《おど》かされて、無言のまま津田君の顔を見詰める。
「よく注意したまえ」と二句目は低い声で云った。初めの大きな声に反してこの低い声が耳の底をつき抜けて頭の中へしんと浸《し》み込んだような気持がする。なぜだか分らない。細い針は根まで這入《はい》る、低くても透《とお》る声は骨に答えるのであろう。碧瑠璃《へきるり》の大空に瞳《ひとみ》ほどな黒き点をはたと打たれたような心持ちである。消えて失《う》せるか、溶けて流れるか、武庫山《むこやま》卸《おろ》しにならぬとも限らぬ。この瞳ほどな点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのである。余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一時《いちじ》にぐっと飲み干した。
「注意せんといかんよ」と津田君は再び同じ事を同じ調子で繰り返す。瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。
「縁喜《えんぎ》でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑《ふ》の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめると同時にこの笑がいよいよ不自然に聞かれたのでやはりしまいまで笑い切れば善《よ》かったと思う。津田君はこの笑を何と聞いたか知らん。再び口を開《ひら》いた時は依然として以前の調子である。
「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹《かか》ってね。別段の事はないと思って好加減《いいかげん》にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性《たち》が悪い、じきに肺炎になるから用心をせんといかんと云ったが――実に夢のようさ。可哀《かわい》そうでね」と言い掛けて厭《いや》な寒い顔をする。
「へえ、それは飛んだ事だった。どうしてまた肺炎などに変じたのだ」と心配だから参考のため聞いて置く気になる。
「どうしてって、別段の事情もないのだが――それだから君のも注意せんといかんと云うのさ」
「本当だね」と余は満腹の真面目《まじめ》をこの四文字に籠《こ》めて、津田君の眼の中を熱心に覗《のぞ》き込んだ。津田君はまだ寒い顔をしている。
「いやだいやだ、考えてもいやだ。二十二や三で死んでは実につまらんからね。しかも所天《おっと》は戦争に行ってるんだから――」
「ふん、女か? そりゃ気の毒だなあ。軍人だね」
「うん所天は陸軍中尉さ。結婚してまだ一年にならんのさ。僕は通夜《つや》にも行き葬式の供にも立ったが――その夫人の御母《おっか》さんが泣いてね――」
「泣くだろう、誰だって泣かあ」
「ちょうど葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だったが、御経が済んでいよいよ棺を埋《う》める段になると、御母さんが穴の傍《そば》へしゃがんだぎり動かない。雪が飛んで頭の上が斑《まだら》になるから、僕が蝙蝠傘《こうもり》をさし懸《か》けてやった」
「それは感心だ、君にも似合わない優しい事をしたものだ」
「だって気の毒で見ていられないもの」
「そうだろう」と余はまた法眼元信《ほうげんもとのぶ》の馬を見る。自分ながらこの時は相手の寒い顔が伝染しているに相違ないと思った。咄嗟《とっさ》の間に死んだ女の所天の事が聞いて見たくなる。
「それでその所天の方は無事なのかね」
「所天《おっと》は黒木軍についているんだが、この方はまあ幸《さいわい》に怪我もしないようだ」
「細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろう」
「いや、それについて不思議な話があるんだがね、日本から手紙の届かない先に細君がちゃんと亭主の所へ行っているんだ」
「行ってるとは?」
「逢《あ》いに行ってるんだ」
「どうして?」
「どうしてって、逢いに行ったのさ」
「逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか」
「死んで逢いに行ったのさ」
「馬鹿あ云ってら、いくら亭主が恋しいったって、そんな芸が誰に出来るもんか。まるで林屋正三の怪談だ」
「いや実際行ったんだから、しようがない」と津田君は教育ある人にも似合ず、頑固《がんこ》に愚《ぐ》な事を主張する。
「しようがないって――何だか見て来たような事を云うぜ。おかしいな、君本当にそんな事を話してるのかい」
「無論本当さ」
「こりゃ驚いた。まるで僕のうちの婆さんのようだ」
「婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない」と津田君はいよいよ躍起《やっき》になる。どうも余にからかっているようにも見えない。はてな真面目《まじめ》で云っているとすれば何か曰《いわ》くのある事だろう。津田君と余は大学へ入ってから科は違うたが、高等学校では同じ組にいた事もある。その時余は大概四十何人の席末を汚すのが例であったのに、先生は※[#「山/歸」、第3水準1-47-93]然《きぜん》として常に二三番を下《くだ》らなかったところをもって見ると、頭脳は余よりも三十五六枚|方《がた》明晰《めいせき》に相違ない。その津田君が躍起《やっき》になるまで弁護するのだから満更《まんざら》の出鱈目《でたらめ》ではあるまい。余は法学士である、刻下の事件をありのままに見て常識で捌《さば》いて行くよりほかに思慮を廻《めぐ》らすのは能《あた》わざるよりもむしろ好まざるところである。幽霊だ、祟《たたり》だ、因縁《いんねん》だなどと雲を攫《つか》むような事を考えるのは一番|嫌《きらい》である。が津田君の頭脳には少々恐れ入っている。その恐れ入ってる先生が真面目に幽霊談をするとなると、余もこの問題に対する態度を義理にも改めたくなる。実を云うと幽霊と雲助《くもすけ》は維新《いしん》以来永久廃業した者とのみ信じていたのである。しかるに先刻《さっき》から津田君の容子《ようす》を見ると、何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間《ま》に再興されたようにもある。先刻《さっき》机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する。とにかく損はない事だ。忙がしい余に取ってはこんな機会はまたとあるまい。後学のため話だけでも拝聴して帰ろうとようやく肚《はら》の中で決心した。見ると津田君も話の続きが話したいと云う風である。話したい、聞きたいと事がきまれば訳はない。漢水は依然として西南に流れるのが千古の法則だ。
「だんだん聞き糺《ただ》して見ると、その妻と云うのが夫《おっと》の出征前に誓ったのだそうだ」
「何を?」
「もし万一御留守中に病気で死ぬような事がありましてもただは死にませんて」
「へえ」
「必《かなら》ず魂魄《こんぱく》だけは御傍《おそば》へ行って、もう一遍御目に懸《かか》りますと云った時に、亭主は軍人で磊落《らいらく》な気性《きしょう》だから笑いながら、よろしい、いつでも来なさい、戦《いく》さの見物をさしてやるからと云ったぎり満州へ渡ったんだがね。その後そんな事はまるで忘れてしまっていっこう気にも掛けなかったそうだ」
「そうだろう、僕なんざ軍《いく》さに出なくっても忘れてしまわあ」
「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」
「ふん。君は大変詳しく調べているな」
「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末《てんまつ》が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に懐中していてね」
「うん」
「ある朝例のごとくそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。するとその鏡の奥に写ったのが――いつもの通り髭《ひげ》だらけな垢《あか》染《じ》みた顔だろうと思うと――不思議だねえ――実に妙な事があるじゃないか」
「どうしたい」
「青白い細君の病気に窶《やつ》れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の通知の行った三週間も前なんだぜ。嘘をつくったって嘘にする材料のない時ださ。それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか。死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説|染《じ》みた呑気《のんき》な法螺《ほら》を書いて国元へ送るものは一人もない訳ださ」
「そりゃ無い」と云ったが実はまだ半信半疑である。半信半疑ではあるが何だか物凄《ものすご》い、気味の悪い、一言《いちごん》にして云うと法学士に似合わしからざる感じが起こった。
「もっとも話しはしなかったそうだ。黙って鏡の裏《うち》から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが、その時夫の胸の中《うち》に訣別《けつべつ》の時、細君の言った言葉が渦《うず》のように忽然《こつぜん》と湧《わ》いて出たと云うんだが、こりゃそうだろう。焼小手《やきごて》で脳味噌をじゅっと焚《や》かれたような心持だと手紙に書いてあるよ」
「妙な事があるものだな」手紙の文句まで引用されると是非共信じなければならぬようになる。何となく物騒《ぶっそう》な気合《けわい》である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相違ない。
「それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫《おっと》が鏡を眺《なが》めたのが同日同刻になっている」
「いよいよ不思議だな」この時《とき》に至っては真面目に不思議と思い出した。「しかしそんな事が有り得る事かな」と念のため津田君に聞いて見る。
「ここにもそんな事を書いた本があるがね」と津田君は先刻《さっき》の書物を机の上から取り卸しながら「近頃じゃ、有り得ると云う事だけは証明されそうだよ」と落ちつき払って答える。法学士の知らぬ間《ま》に心理学者の方では幽霊を再興しているなと思うと幽霊もいよいよ馬鹿に出来なくなる。知らぬ事には口が出せぬ、知らぬは無能力である。幽霊に関しては法学士は文学士に盲従しなければならぬと思う。
「遠い距離において、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと……」
「僕は法学士だから、そんな事を聞いても分らん。要するにそう云う事は理論上あり得るんだね」余のごとき頭脳不透明なるものは理窟《りくつ》を承《うけたま》わるより結論だけ呑み込んで置く方が簡便である。
「ああ、つまりそこへ帰着するのさ。それにこの本にも例が沢山あるがね、その内でロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。なかなか面白い。君ブローアムは知っているだろう」
「ブローアム? ブローアムたなんだい」
「英国の文学者さ」
「道理で知らんと思った。僕は自慢じゃないが文学者の名なんかシェクスピヤとミルトンとそのほかに二三人しか知らんのだ」
 津田君はこんな人間と学問上の議論をするのは無駄だと思ったか「それだから宇野の御嬢さんもよく注意したまいと云う事さ」と話を元へ戻す。
「うん注意はさせるよ。しかし万一の事がありましたらきっと御目に懸りに上りますなんて誓《ちかい》は立てないのだからその方は大丈夫だろう」と洒落《しゃれ》て見たが心の中《うち》は何となく不愉快であった。時計を出して見ると十一時に近い。これは大変。うちではさぞ婆さんが犬の遠吠《とおぼえ》を苦にしているだろうと思うと、一刻も早く帰りたくなる。「いずれその内婆さんに近づきになりに行くよ」と云う津田君に「御馳走をするから是非来たまえ」と云いながら白山御殿町の下宿を出る。
 我からと惜気《おしげ》もなく咲いた彼岸桜《ひがんざくら》に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのもわずか二三日《にさんち》の間である。今では桜自身さえ早待《はやま》ったと後悔しているだろう。生温《なまぬる》く帽を吹く風に、額際《ひたいぎわ》から煮染《にじ》み出す膏《あぶら》と、粘《ねば》り着く砂埃《すなほこ》りとをいっしょに拭《ぬぐ》い去った一昨日《おととい》の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返《さえかえ》るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと外套《がいとう》の襟《えり》を立てて盲唖《もうあ》学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞《つ》く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。――時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いて見ると妙な響である。一つ音が粘《ねば》り強い餅《もち》を引き千切《ちぎ》ったように幾つにも割れてくる。割れたから縁が絶えたかと思うと細くなって、次の音に繋《つな》がる。繋がって太くなったかと思うと、また筆の穂のように自然と細くなる。――あの音はいやに伸びたり縮んだりするなと考えながら歩行《ある》くと、自分の心臓の鼓動も鐘の波のうねりと共に伸びたり縮んだりするように感ぜられる。しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。
 極楽水[#「極楽水」に傍点]はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家《ながや》が建ったので昔ほど淋《さみ》しくはないが、その長家が左右共|闃然《げきぜん》として空家《あきや》のように見えるのは余り気持のいいものではない。貧民に活動はつき物である。働いておらぬ貧民は、貧民たる本性を遺失して生きたものとは認められぬ。余が通り抜ける極楽水《ごくらくみず》の貧民は打てども蘇《よ》み返《がえ》る景色《けしき》なきまでに静かである。――実際死んでいるのだろう。ポツリポツリと雨はようやく濃《こま》かになる。傘《かさ》を持って来なかった、ことによると帰るまでにはずぶ濡《ぬれ》になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭々《しょうしょう》と降る、容易に晴れそうにもない。
 五六間先にたちまち白い者が見える。往来《おうらい》の真中に立ち留って、首を延《のば》してこの白い者をすかしているうちに、白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる。半分《はんぶん》と立たぬ間《ま》に余の右側を掠《かす》めるごとく過ぎ去ったのを見ると――蜜柑箱《みかんばこ》のようなものに白い巾《きれ》をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を通して前後から担《かつ》いで行くのである。おおかた葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子《ちのみご》に違いない。黒い男は互に言葉も交えずに黙ってこの棺桶《かんおけ》を担いで行く。天下に夜中《やちゅう》棺桶を担《にな》うほど、当然の出来事はあるまいと、思い切った調子でコツコツ担いで行く。闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送って振り返った時、また行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜が更《ふ》けているので存外反響が烈《はげ》しい。
「昨日《きのう》生れて今日《きょう》死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方がない」と一人が答える。二人の黒い影がまた余の傍《そば》を掠《かす》めて見る間《ま》に闇の中へもぐり込む。棺の後《あと》を追って足早に刻《きざ》む下駄の音のみが雨に響く。
「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と余は胸の中《うち》で繰り返して見た。昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、昨日病気に罹《かか》って今日死ぬ者は固《もと》よりあるべきはずである。二十六年も娑婆《しゃば》の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具《そな》えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上《のぼ》りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。――何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立っているのは、ことによると死にに立っているのかも知れない。――また歩行《ある》き出す。死ぬと云う事がこれほど人の心を動かすとは今までつい気がつかなんだ。気がついて見ると立っても歩行いても心配になる、このようすでは家《うち》へ帰って蒲団《ふとん》の中へ這入《はい》ってもやはり心配になるかも知れぬ。なぜ今までは平気で暮していたのであろう。考えて見ると学校にいた時分は試験とベースボールで死ぬと云う事を考える暇がなかった。卒業してからはペンとインキとそれから月給の足らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える暇がなかった。人間は死ぬ者だとはいかに呑気《のんき》な余《よ》でも承知しておったに相違ないが、実際余も死ぬものだと感じたのは今夜が生れて以来始めてである。夜と云うむやみに大きな黒い者が、歩行いても立っても上下四方から閉《と》じ込めていて、その中に余と云う形体を溶《と》かし込まぬと承知せぬぞと逼《せま》るように感ぜらるる。余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭《いや》だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚《さと》ったように思う。雨はだんだん密《みつ》になるので外套《がいとう》が水を含んで触《さわ》ると、濡れた海綿《かいめん》を圧《お》すようにじくじくする。
 竹早町を横ぎって切支丹坂《きりしたんざか》へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽《こっけい》だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多《めった》に下りると滑《すべ》って尻餅《しりもち》を搗《つ》く。険呑《けんのん》だと八合目あたりから下を見て覘《ねらい》をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎《ふるえのき》が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽《おお》うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善《い》い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音がしきりにする。この暗闇《まっくら》な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷《みょうがだに》を向《むこう》へ上《あが》って七八丁行けば小日向台町《こびなただいまち》の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味がわるい。
 茗荷谷の坂の中途に当るくらいな所に赤い鮮《あざや》かな火が見える。前から見えていたのか顔をあげる途端に見えだしたのか判然しないが、とにかく雨を透《すか》してよく見える。あるいは屋敷の門口《もんぐち》に立ててある瓦斯灯《ガスとう》ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆灯籠《ぼんどうろう》の秋風に揺られる具合に動いた。――瓦斯灯ではない。何だろうと見ていると今度はその火が雨と闇の中を波のように縫って上から下へ動いて来る。――これは提灯《ちょうちん》の火に相違ないとようやく判断した時それが不意と消えてしまう。
 この火を見た時、余ははっと露子《つゆこ》の事を思い出した。露子は余が未来の細君の名である。未来の細君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明は出来んかも知れぬ。しかし心理学者の説明し得るものでなくては思い出してならぬとも限るまい。この赤い、鮮《あざや》かな、尾の消える縄に似た火は余をしてたしかに余が未来の細君をとっさの際に思い出さしめたのである。――同時に火の消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈出《ねんしゅつ》した。額《ひたい》を撫《な》でると膏汗《あぶらあせ》と雨でずるずるする。余は夢中であるく。
 坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上《つまあが》りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほどに濘《ぬか》る。暗さは暗し、靴は踵《かかと》を深く土に据えつけて容易《たやす》くは動かぬ。曲りくねってむやみやたらに行くと枸杞垣《くこがき》とも覚しきものの鋭どく折れ曲る角《かど》でぱたりとまた赤い火に出《で》くわした。見ると巡査である。巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当てて「悪るいから御気を付けなさい」と言い棄てて擦《す》れ違った。よく注意したまえと云った津田君の言葉と、悪いから御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うとたちまち胸が鉛《なまり》のように重くなる。あの火だ、あの火だと余は息を切らして馳《か》け上る。
 どこをどう歩行《ある》いたとも知らず流星のごとく吾家《わがや》へ飛び込んだのは十二時近くであろう。三分心《さんぶしん》の薄暗いランプを片手に奥から駆け出して来た婆さんが頓狂《とんきょう》な声を張り上げて「旦那様! どうなさいました」と云う。見ると婆さんは蒼《あお》い顔をしている。
「婆さん! どうかしたか」と余も大きな声を出す。婆さんも余から何か聞くのが怖《おそろ》しく、余は婆さんから何か聞くのが怖しいので御互にどうかしたかと問い掛けながら、その返答は両方とも云わずに双方とも暫時《ざんじ》睨《にら》み合っている。
「水が――水が垂れます」これは婆さんの注意である。なるほど充分に雨を含んだ外套《がいとう》の裾《すそ》と、中折帽の庇《ひさし》から用捨なく冷たい点滴《てんてき》が畳の上に垂れる。折目《おれめ》をつまんで抛《ほう》り出すと、婆さんの膝の傍《そば》に白繻子《しろじゅす》の裏を天井に向けて帽が転《ころ》がる。灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げた時はいつもよりよほど重く感じた。日本服に着換えて、身顫《みぶる》いをしてようやくわれに帰った頃を見計《みはから》って婆さんはまた「どうなさいました」と尋ねる。今度は先方も少しは落ついている。
「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。
「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院《でんずういん》の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。
「御前の方がどうかしたんだろう。先《さ》ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ」
「私は何と旦那様から冷かされても構いません。――しかし旦那様|雑談事《じょうだんごと》じゃ御座いませんよ」
「え?」と思わず心臓が縮みあがる。「どうした。留守中何かあったのか。四谷から病人の事でも何《なん》か云って来たのか」
「それ御覧遊ばせ、そんなに御嬢様の事を心配していらっしゃる癖に」
「何と云って来た。手紙が来たのか、使が来たのか」
「手紙も使も参りは致しません」
「それじゃ電報か」
「電報なんて参りは致しません」
「それじゃ、どうした――早く聞かせろ」
「今夜は鳴き方が違いますよ」
「何が?」
「何がって、あなた、どうも宵《よい》から心配で堪《たま》りませんでした。どうしてもただごとじゃ御座いません」
「何がさ。それだから早く聞かせろと云ってるじゃないか」
「せんだって中《じゅう》から申し上げた犬で御座います」
「犬?」
「ええ、遠吠《とおぼえ》で御座います。私が申し上げた通りに遊ばせば、こんな事にはならないで済んだんで御座いますのに、あなたが婆さんの迷信だなんて、あんまり人を馬鹿に遊ばすものですから……」
「こんな事にもあんな事にも、まだ何にも起らないじゃないか」
「いえ、そうでは御座いません、旦那様も御帰り遊ばす途中御嬢様の御病気の事を考えていらしったに相違御座いません」と婆さんずばと図星《ずぼし》を刺す。寒い刃《は》が闇に閃《ひら》めいてひやりと胸打《むねうち》を喰わせられたような心持がする。
「それは心配して来たに相違ないさ」
「それ御覧遊ばせ、やっぱり虫が知らせるので御座います」
「婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな、御前そんな経験をした事があるのかい」
「あるだんじゃ御座いません。昔しから人が烏《からす》鳴《な》きが悪いとか何とか善《よ》く申すじゃ御座いませんか」
「なるほど烏鳴きは聞いたようだが、犬の遠吠は御前一人のようだが――」
「いいえ、あなた」と婆さんは大軽蔑《だいけいべつ》の口調《くちょう》で余の疑《うたがい》を否定する。「同じ事で御座いますよ。婆《ばあ》やなどは犬の遠吠でよく分ります。論より証拠これは何かあるなと思うとはずれた事が御座いませんもの」
「そうかい」
「年寄の云う事は馬鹿に出来ません」
「そりゃ無論馬鹿には出来んさ。馬鹿に出来んのは僕もよく知っているさ。だから何も御前を――しかし遠吠がそんなに、よく当るものかな」
「まだ婆やの申す事を疑《うたぐ》っていらっしゃる。何でもよろしゅう御座いますから明朝《みょうあさ》四谷へ行って御覧遊ばせ、きっと何か御座いますよ、婆やが受合いますから」
「きっと何かあっちゃ厭《いや》だな。どうか工夫はあるまいか」
「それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのに、あなたが余り剛情を御張り遊ばすものだから――」
「これから剛情はやめるよ。――ともかくあした早く四谷へ行って見る事にしよう。今夜これから行っても好いが……」
「今夜いらしっちゃ、婆やは御留守居は出来ません」
「なぜ?」
「なぜって、気味《きび》が悪くっていても起《た》ってもいられませんもの」
「それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃないか」
「心配は致しておりますが、私だって怖しゅう御座いますから」
 折から軒を繞《めぐ》る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這《は》うて唸《うな》り廻るような声が聞える。
「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳《ひとみ》を据《す》えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。
 余は例のごとく蒲団《ふとん》の中へもぐり込んだがこの唸り声が気になって瞼《まぶた》さえ合わせる事が出来ない。
 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀《なた》で打《ぶ》ち切った薪雑木《まきざつぼう》を長く継《つ》いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作《むぞうさ》の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心《とうしん》の花と漸次《ぜんじ》に消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微《かす》かに響くと思う間《ま》に、近づけば軒端《のきば》を洩《も》れて、枕に塞《ふさ》ぐ耳にも薄《せま》る。ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連《つら》ねて家の周囲を二三度|繞《めぐ》ると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、疾《と》き風に吹き除《の》けられて遥《はる》か向うに尻尾《しっぽ》はンンンと化して闇の世界に入《い》る。陽気な声を無理に圧迫して陰欝《いんうつ》にしたのがこの遠吠である。躁狂《そうきょう》な響を権柄《けんぺい》ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層|厭《いや》である、聞き苦しい。余は夜着《よぎ》の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
 しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半《やはん》の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家《わがや》が海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分《すんぶん》の観念だにない。性《しょう》の知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという掛念《けねん》が猛烈に神経を鼓舞《こぶ》するのみである。今出るか、今出るかと考えている。髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃに掻《か》いて見る。一週間ほど湯に入《はい》って頭を洗わんので指の股《また》が油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす。この一秒もまた待ちつつ暮らす。何を待っているかと云われては困る。何を待っているか自分に分らんから一層の苦痛である。頭から抜き取った手を顔の前に出して無意味に眺《なが》める。爪の裏が垢《あか》で薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢《いぶくろ》が運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日《てんぴ》で乾《ほ》し堅めたように腹の中が窮窟《きゅうくつ》になる。犬が吠《ほ》えれば善《よ》いと思う。吠えているうちは厭《いや》でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬ間《ま》に醸《かも》されつつあるか見当《けんとう》がつかぬ。遠吠なら我慢する。どうか吠えてくれればいいと寝返りを打って仰向《あおむ》けになる。天井に丸くランプの影が幽《かす》かに写る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になって来たと思うと、蒲団《ふとん》の上で脊髄《せきずい》が急にぐにゃりとする。ただ眼だけを見張って、たしかに動いておるか、おらぬかを確める。――確かに動いている。平常《ふだん》から動いているのだが気がつかずに今日《きょう》まで過したのか、または今夜に限って動くのかしらん。――もし今夜だけ動くのなら、ただごとではない。しかしあるいは腹工合《はらぐあい》のせいかも知れまい。今日会社の帰りに池《いけ》の端《はた》の西洋料理屋で海老《えび》のフライを食ったが、ことによるとあれが祟《たた》っているかもしれん。詰らん物を食って、銭《ぜに》をとられて馬鹿馬鹿しい廃《よ》せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心《かんじん》だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓《にじ》を粉《こ》にして振り蒔《ま》くように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼を開《あ》くとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。
 横を向いてふと目に入ったのは、襖《ふすま》の陰に婆さんが叮嚀《ていねい》に畳んで置いた秩父銘仙《ちちぶめいせん》の不断着である。この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛《たわい》もない話をしておった時、病人が袖《そで》口の綻《ほころ》びから綿が出懸《でかか》っているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想《れんそう》する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好《よ》くなったから明日《あした》あたりから床《とこ》を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢《ひょうのう》を載《の》せて、長い髪を半分|濡《ぬ》らして、うんうん呻《うめ》きながら、枕の上へのり出してくる。――いよいよ肺炎かしらと思う。しかし肺炎にでもなったら何とか知らせが来るはずだ。使も手紙も来ない所をもって見るとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。合わす瞳《ひとみ》の底に露子の青白い肉の落ちた頬と、窪《くぼ》んで硝子張《ガラスばり》のように凄《すご》い眼がありありと写る。どうも病気は癒《なお》っておらぬらしい。しらせはまだ来ぬが、来ぬと云う事が安心にはならん。今に来るかも知れん、どうせ来るなら早く来れば好《よ》い、来ないか知らんと寝返りを打つ。寒いとは云え四月と云う時節に、厚夜着《あつよぎ》を二枚も重ねて掛けているから、ただでさえ寝苦しいほど暑い訳であるが、手足と胸の中《うち》は全く血の通わぬように重く冷たい。手で身のうちを撫《な》でて見ると膏《あぶら》と汗で湿《しめ》っている。皮膚の上に冷たい指が触《さわ》るのが、青大将にでも這《は》われるように厭な気持である。ことによると今夜のうちに使でも来るかも知れん。
 突然何者か表の雨戸を破《わ》れるほど叩《たた》く。そら来たと心臓が飛び上って肋《あばら》の四枚目を蹴《け》る。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。
「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」
 婆さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促《うなが》す。余は化石のごとく茫然《ぼうぜん》と立っている。
「いやこれは夜中《やちゅう》はなはだ失礼で……実は近頃この界隈《かいわい》が非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排《あんばい》でしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」
 余はようやくほっと息をつく。咽喉《のど》に痞《つか》えている鉛の丸《たま》が下りたような気持ちがする。
「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難に罹《かか》った覚はないようです」
「それなら宜《よろ》しゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うものか賊がこの辺《へん》ばかり徘徊《はいかい》しますんで」
「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。
 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄《あしだ》をと云うと歯入屋へ持って行ったぎり、つい取ってくるのを忘れたと云う。靴は昨夜《ゆうべ》の雨でとうてい穿《は》けそうにない。構うものかと薩摩下駄《さつまげた》を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳《か》けつける。門は開《あ》いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総《しもうさ》生れの頬《ほっ》ペタの赤い下女が俎《まないた》の上で糠味噌《ぬかみそ》から出し立ての細根大根《ほそねだいこん》を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷《たすき》を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓《らち》があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見ると御母《おっか》さんが、今起き立の顔をして叮嚀《ていねい》に如鱗木《じょりんもく》の長火鉢を拭《ふ》いている。
「あら靖雄《やすお》さん!」と布巾《ふきん》を持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さん[#「あら靖雄さん」に傍点]でも埓《らち》があかん。
「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。
 犬の遠吠が泥棒のせいときまるくらいなら、ことによると病気も癒《なお》っているかも知れない。癒っていてくれれば宜《よ》いがと御母さんの顔を見て息を呑み込む。
「ええ悪いでしょう、昨日《きのう》は大変降りましたからね。さぞ御困りでしたろう」これでは少々|見当《けんとう》が違う。御母さんのようすを見ると何だか驚いているようだが、別に心配そうにも見えない。余は何となく落ちついて来る。
「なかなか悪い道です」とハンケチを出して汗を拭《ふ》いたが、やはり気掛りだから「あの露子さんは――」と聞いて見た。
「今顔を洗っています、昨夕《ゆうべ》中央会堂の慈善音楽会とかに行って遅く帰ったものですから、つい寝坊をしましてね」
「インフルエンザは?」
「ええありがとう、もうさっぱり……」
「何ともないんですか」
「ええ風邪《かぜ》はとっくに癒《なお》りました」
 寒からぬ春風に、濛々《もうもう》たる小雨《こさめ》の吹き払われて蒼空《あおぞら》の底まで見える心地である。日本一の御機嫌にて候《そろ》と云う文句がどこかに書いてあったようだが、こんな気分を云うのではないかと、昨夕の気味の悪かったのに引き換《か》えて今の胸の中《うち》が一層朗かになる。なぜあんな事を苦にしたろう、自分ながら愚《ぐ》の至りだと悟って見ると、何だか馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいと思うにつけて、たとい親しい間柄とは云え、用もないのに早朝から人の家《うち》へ飛び込んだのが手持無沙汰に感ぜらるる。
「どうして、こんなに早く、――何か用事でも出来たんですか」と御母《おっか》さんが真面目《まじめ》に聞く。どう答えて宜《よ》いか分らん。嘘をつくと云ったって、そう咄嗟《とっさ》の際に嘘がうまく出るものではない。余は仕方がないから「ええ」と云った。
「ええ」と云った後《あと》で、廃《よ》せば善《よ》かった、――一思いに正直なところを白状してしまえば善かったと、すぐ気がついたが、「ええ」の出たあとはもう仕方がない。「ええ」を引き込める訳《わけ》に行かなければ「ええ」を活《い》かさなければならん。「ええ」とは単簡《たんかん》な二文字であるが滅多《めった》に使うものでない、これを活かすにはよほど骨が折れる。
「何か急な御用なんですか」と御母さんは詰め寄せる。別段の名案も浮ばないからまた「ええ」と答えて置いて、「露子さん露子さん」と風呂場の方を向いて大きな声で怒鳴《どな》って見た。
「あら、どなたかと思ったら、御早いのねえ――どうなすったの、――何か御用なの?」露子は人の気も知らずにまた同じ質問で苦しめる。
「ああ何か急に御用が御出来なすったんだって」と御母さんは露子に代理の返事をする。
「そう、何の御用なの」と露子は無邪気に聞く。
「ええ、少しその、用があって近所まで来たのですから」とようやく一方に活路を開く。随分苦しい開き方だと一人で肚《はら》の中で考える。
「それでは、私《わたし》に御用じゃないの」と御母さんは少々不審な顔つきである。
「ええ」
「もう用を済《す》ましていらしったの、随分早いのね」と露子は大《おおい》に感嘆する。
「いえ、まだこれから行くんです」とあまり感嘆されても困るから、ちょっと謙遜《けんそん》して見たが、どっちにしても別に変りはないと思うと、自分で自分の言っている事がいかにも馬鹿らしく聞える。こんな時はなるべく早く帰る方が得策だ、長座《ながざ》をすればするほど失敗するばかりだと、そろそろ、尻を立てかけると
「あなた、顔の色が大変悪いようですがどうかなさりゃしませんか」と御母《おっか》さんが逆捻《さかねじ》を喰わせる。
「髪を御刈りになると好いのね、あんまり髭《ひげ》が生《は》えているから病人らしいのよ。あら頭にはねが上っててよ。大変乱暴に御歩行《おある》きなすったのね」
「日和下駄《ひよりげた》ですもの、よほど上ったでしょう」と背中《せなか》を向いて見せる。御母さんと露子は同時に「おやまあ!」と申し合せたような驚き方をする。
 羽織を干して貰って、足駄を借りて奥に寝ている御父《おと》っさんには挨拶もしないで門を出る。うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜《ゆうべ》の心配は紅炉上《こうろじょう》の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇《むら》がるばかり嬉しい。神楽坂《かぐらざか》まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好《す》くようにしたいと思っている。
「旦那|髯《ひげ》は残しましょうか」と白服を着た職人が聞く。髯を剃《そ》るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋髯《あごひげ》だけかわからない。まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。
「源さん、世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるもんだねえ」と余の顋《あご》をつまんで髪剃《かみそり》を逆《ぎゃく》に持ちながらちょっと火鉢の方を見る。
 源さんは火鉢の傍《そば》に陣取って将棊盤《しょうぎばん》の上で金銀二枚をしきりにパチつかせていたが「本当にさ、幽霊だの亡者《もうじゃ》だのって、そりゃ御前、昔《むか》しの事だあな。電気灯のつく今日《こんにち》そんな箆棒《べらぼう》な話しがある訳がねえからな」と王様の肩へ飛車を載せて見る。「おい由公御前こうやって駒を十枚積んで見ねえか、積めたら安宅鮓《あたかずし》を十銭|奢《おご》ってやるぜ」
 一本歯の高足駄を穿《は》いた下剃《したぞり》の小僧が「鮓《すし》じゃいやだ、幽霊を見せてくれたら、積んで見せらあ」と洗濯したてのタウエルを畳みながら笑っている。
「幽霊も由公にまで馬鹿にされるくらいだから幅は利《き》かない訳さね」と余の揉《も》み上げを米噛《こめか》みのあたりからぞきりと切り落す。
「あんまり短かかあないか」
「近頃はみんなこのくらいです。揉み上げの長いのはにやけ[#「にやけ」に傍点]てておかしいもんです。――なあに、みんな神経さ。自分の心に恐《こわ》いと思うから自然幽霊だって増長して出たくならあね」と刃《は》についた毛を人さし指と拇指《おやゆび》で拭《ぬぐ》いながらまた源さんに話しかける。
「全く神経だ」と源さんが山桜の煙を口から吹き出しながら賛成する。
「神経って者は源さんどこにあるんだろう」と由公はランプのホヤを拭《ふ》きながら真面目に質問する。
「神経か、神経は御めえ方々にあらあな」と源さんの答弁は少々|漠然《ばくぜん》としている。
 白暖簾《しろのれん》の懸《かか》った座敷の入口に腰を掛けて、さっきから手垢《てあか》のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大きな声を出して面白い事がかいてあらあ、よっぽど面白いと一人で笑い出す。
「何だい小説か、食道楽《くいどうらく》じゃねえか」と源さんが聞くと松さんはそうよそうかも知れねえと上表紙《うわびょうし》を見る。標題には浮世心理講義録《うきよしんりこうぎろく》有耶無耶道人著《うやむやどうじんちょ》とかいてある。
「何だか長い名だ、とにかく食道楽じゃねえ。鎌《かま》さん一体これゃ何の本だい」と余の耳に髪剃《かみそり》を入れてぐるぐる廻転させている職人に聞く。
「何だか、訳の分らないような、とぼけた事が書いてある本だがね」
「一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ」と源さんは松さんに請求する。松さんは大きな声で一節を読み上げる。
「狸《たぬき》が人を婆化《ばか》すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術《さいみんじゅつ》でげす……」
「なるほど妙な本だね」と源さんは煙《けむ》に捲《ま》かれている。
「拙《せつ》が一|返《ぺん》古榎《ふるえのき》になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵《さくぞう》と云う若い衆《しゅ》が首を縊《くく》りに来やした……」
「何だい狸が何か云ってるのか」
「どうもそうらしいね」
「それじゃ狸のこせえた本じゃねえか――人を馬鹿にしやがる――それから?」
「拙が腕をニューと出している所へ古褌《ふるふんどし》を懸《か》けやした――随分|臭《くそ》うげしたよ――……」
「狸の癖にいやに贅沢《ぜいたく》を云うぜ」
「肥桶《こいたご》を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸《お》ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損《そこな》ってまごまごしておりやす。ここだと思いやしたから急に榎《えのき》の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響くほどな大きな声で笑ったやりやした。すると作蔵君はよほど仰天《ぎょうてん》したと見えやして助けてくれ、助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした……」
「こいつあ旨《うめ》え、しかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」
「大方|睾丸《きんたま》でもつつむ気だろう」
 アハハハハと皆《みんな》一度に笑う。余も吹き出しそうになったので職人はちょっと髪剃を顔からはずす。
「面白《おもしれ》え、あとを読みねえ」と源さん大《おおい》に乗気になる。
「俗人は拙が作蔵を婆化したように云う奴でげすが、そりゃちと無理でげしょう。作蔵君は婆化されよう、婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙《せつ》がちょっと婆化《ばか》して上げたまでの事でげす。すべて狸一派のやり口は今日《こんにち》開業医の用いておりやす催眠術でげして、昔からこの手でだいぶ大方《たいほう》の諸君子をごまかしたものでげす。西洋の狸から直伝《じきでん》に輸入致した術を催眠法とか唱《とな》え、これを応用する連中を先生などと崇《あが》めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆《がいたん》の至《いたり》に堪《た》えんくらいのものでげす。何も日本固有の奇術が現に伝《つたわ》っているのに、一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう。今の日本人はちと狸を軽蔑《けいべつ》し過ぎるように思われやすからちょっと全国の狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょう」
「いやに理窟《りくつ》を云う狸だぜ」と源さんが云うと、松さんは本を伏せて「全く狸の言う通《とおり》だよ、昔だって今だって、こっちがしっかりしていりゃ婆化されるなんて事はねえんだからな」としきりに狸の議論を弁護している。して見ると昨夜《ゆうべ》は全く狸に致された訳《わけ》かなと、一人で愛想《あいそ》をつかしながら床屋を出る。
 台町の吾家《わがや》に着いたのは十時頃であったろう。門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子《こうし》の隙《すき》から女の笑い声が洩《も》れる。ベルを鳴らして沓脱《くつぬぎ》に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。
「あなた来ていたのですか」
「ええ、お帰りになってから、考えたら何だか様子が変だったから、すぐ車で来て見たの、そうして昨夕の事を、みんな婆やから聞いてよ」と婆さんを見て笑い崩れる。婆さんも嬉しそうに笑う。露子の銀のような笑い声と、婆さんの真鍮《しんちゅう》のような笑い声と、余の銅のような笑い声が調和して天下の春を七円五十銭の借家《しゃくや》に集めたほど陽気である。いかに源兵衛村の狸でもこのくらい大きな声は出せまいと思うくらいである。
 気のせいかその後《ご》露子は以前よりも一層余を愛するような素振《そぶり》に見えた。津田君に逢った時、当夜の景況を残りなく話したらそれはいい材料だ僕の著書中に入れさせてくれろと云った。文学士津田|真方《まかた》著幽霊論の七二頁にK君の例として載《の》っているのは余の事である。



底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月26日修正
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