青空文庫アーカイブ

薤露行
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)纏《まとま》ったものを

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)簡浄|素樸《そぼく》という

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]
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 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄|素樸《そぼく》という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏《そしり》は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏《まとま》ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍《おど》らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大《おおい》に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似《まね》がしたくなるからやめた。

     一 夢

 百、二百、簇《むら》がる騎士は数をつくして北の方《かた》なる試合へと急げば、石に古《ふ》りたるカメロットの館《やかた》には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽《ひ》く衣《ころも》の裾《すそ》の響《ひびき》のみ残る。
 薄紅《うすくれない》の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳《もすそ》のみは軽《かろ》く捌《さば》く珠《たま》の履《くつ》をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階《きざはし》の正面には大いなる花を鈍色《にびいろ》の奥に織り込める戸帳《とばり》が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴《き》く。聴きおわりたる横顔をまた真向《まむこう》に反《か》えして石段の下を鋭どき眼にて窺《うかが》う。濃《こま》やかに斑《ふ》を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇《ばら》が暗きを洩《も》れて和《やわら》かき香《かお》りを放つ。君見よと宵《よい》に贈れる花輪のいつ摧《くだ》けたる名残《なごり》か。しばらくはわが足に纏《まつ》わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹《き》と立ち直りて、繊《ほそ》き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩《まば》ゆき光り矢の如く向い側なる室《しつ》の中よりギニヴィアの頭《かしら》に戴《いただ》ける冠を照らす。輝けるは眉間《みけん》に中《あた》る金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚《はば》かり、地を憚かる中に、身も世も入《い》らぬまで力の籠《こも》りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏《おそ》れず。
「ギニヴィア!」と応《こた》えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋《うず》めてまた捲《ま》き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬《ほお》の色は釣《つ》り合わず蒼白《あおじろ》い。
 女は幕をひく手をつと放して内に入《い》る。裂目《さけめ》を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立《きわだ》ちて見える。左右に開く廻廊には円柱《まるばしら》の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の方《かた》なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉《まゆ》に晴れがたき雲の蟠《わだか》まりて、弱き笑《わらい》の強《し》いて憂《うれい》の裏《うち》より洩れ来《きた》る。
「贈りまつれる薔薇の香《か》に酔《え》いて」とのみにて男は高き窓より表の方《かた》を見やる。折からの五月である。館を繞《めぐ》りて緩《ゆる》く逝《ゆ》く江に千本の柳が明かに影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]《ひた》して、空に崩《くず》るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木《こ》の間《ま》隠れに白く※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74]《ひ》く筋の、一縷《いちる》の糸となって烟《けむり》に入るは、立ち上《のぼ》る朝日影に蹄《ひづめ》の塵《ちり》を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方《かた》へと飛ばせたる本道である。
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂《う》き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁《えにし》とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚《さんご》の唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に堰《せ》かるるあの世までも渝《かわ》らじ」と男は黒き瞳《ひとみ》を返して女の顔を眤《じっ》と見る。
「さればこそ」と女は右の手を高く挙《あ》げて広げたる掌《てのひら》を竪《たて》にランスロットに向ける。手頸《てくび》を纏《まと》う黄金《こがね》の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香《か》に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束《つか》の間に危うきを貪《むさぼ》りて、長き逢《お》う瀬《せ》の淵《ふち》と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然《かつぜん》と瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶《かな》わばこの黄金、この珠玉《たま》の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様《さま》である。白き腕《かいな》のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡《なび》きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖《そで》は、胸を過ぎてより豊かなる襞《ひだ》を描がいて、裾は強けれども剛《かた》からざる線を三筋ほど床《ゆか》の上まで引く。ランスロットはただ窈窕《ようちょう》として眺めている。前後を截断《せつだん》して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
 機微の邃《ふか》きを照らす鏡は、女の有《も》てる凡《すべ》てのうちにて、尤《もっと》も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭《かしら》を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾《と》きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛《くも》の巣と消えて剰《あま》すは嬉《うれ》しき人の情《なさけ》ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間《ひま》に際どく擦《す》り込む石火の楽みを、長《とこし》えに続《つ》づけかしと念じて両頬に笑《えみ》を滴《したた》らす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時《しばし》して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕《あと》を追い懸けて病|癒《い》えぬと申し給え。この頃の蔭口《かげぐち》、二人をつつむ疑《うたがい》の雲を晴し給え」
「さほどに人が怖《こわ》くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室《しつ》の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳《とばり》の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞《じゃくまく》の故《もと》に帰る。
「宵《よべ》見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽《たちま》ち紅《こう》落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心|躁《さわ》ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥《ふ》したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一|疋《ぴき》の蛇は黄金《こがね》の鱗《うろこ》を細かに身に刻んで、擡《もた》げたる頭《かしら》には青玉《せいぎょく》の眼《がん》を嵌《は》めてある。
「わが冠の肉に喰《く》い入るばかり焼けて、頭の上に衣《きぬ》擦《す》る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞《めぐ》りて動き出す。頭は君の方《かた》へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間《ま》に、君とわれは腥《なまぐ》さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術《すべ》なし。たとい忌《いま》わしき絆《きずな》なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣《こころや》りなりき。囓《か》まるるとも螫《さ》さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅《くれない》なるが、めらめらと燃え出《いだ》して、繋《つな》げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋《ひとひろ》余りは、真中《まなか》より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭《にお》いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失《う》せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒《さ》めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵《よべ》の名残かと骨を撼《ゆる》がす」と落ち付かぬ眼を長き睫《まつげ》の裏に隠してランスロットの気色《けしき》を窺《うかが》う。七十五度の闘技に、馬の脊《せ》を滑《すべ》るは無論、鐙《あぶみ》さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇《く》しとのみは思わず。快からぬ眉根は自《おのずか》ら逼《せま》りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締《し》ばるならん。
「さらば行こう。後《おく》れ馳《ば》せに北の方《かた》へ行こう」と拱《こまぬ》いたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯《からだ》をゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵《くびす》を回《めぐ》らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合《ゆり》の花弁《はなびら》をひたふるに吸える心地である。ランスロットは後《あと》をも見ずして石階を馳け降りる。
 やがて三たび馬の嘶《いなな》く音《ね》がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿《たかどの》を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚《よ》りて、かの人の出《いづ》るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面《はなづら》が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠《かす》めて砕くるばかりに石の上に落つる。
 槍《やり》の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜《かぶと》と挿毛《さしげ》のさと靡《なび》くあとに、残るは漠々《ばくばく》たる塵《ちり》のみ。

     二 鏡

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台《うてな》の中に只一人住む。活《い》ける世を鏡の裡《うち》にのみ知る者に、面《おもて》を合わす友のあるべき由なし。
 春恋し、春恋しと囀《さえ》ずる鳥の数々に、耳|側《そばだ》てて木《こ》の葉《は》隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮《あざ》やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽《かす》かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩《おお》うてまた鏡に向う。河のあなたに烟《けぶ》る柳の、果ては空とも野とも覚束《おぼつか》なき間より洩《も》れ出《い》づる悲しき調《しらべ》と思えばなるべし。
 シャロットの路《みち》行く人もまた悉《ことごと》くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯《ひげ》の寛《ゆる》き衣を纏《まと》いて、長き杖《つえ》の先に小さき瓢《ひさご》を括《くく》しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭《かしら》よりただ一枚と思わるる真白の上衣《うわぎ》被《かぶ》りて、眼口も手足も確《しか》と分ちかねたるが、けたたましげに鉦《かね》打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩《らい》をやむ人の前世の業《ごう》を自《みずか》ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
 旅商人《たびあきゅうど》の脊《せ》に負える包《つつみ》の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚《さんご》、瑪瑙《めのう》、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸《ひとみ》には映ぜぬ。
 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択《えら》ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永《なが》く停《とど》まる事は天に懸《かか》る日といえども難《かた》い。活《い》ける世の影なればかく果《は》敢《か》なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳《か》けよりて思うさま鏡の外《ほか》なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪《のろ》いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐《きょくせき》せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦《う》めば山に遯《のが》るる心安さもあるべし。鏡の裏《うち》なる狭き宇宙の小さければとて、憂《う》き事の降りかかる十字の街《ちまた》に立ちて、行き交《か》う人に気を配る辛《つ》らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃《ばんけい》の乱れは永劫《えいごう》を極めて尽きざるを、渦|捲《ま》く中に頭《かしら》をも、手をも、足をも攫《さら》われて、行くわれの果《はて》は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台《うてな》に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆《あほう》の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助《たすけ》にて、よそながら窺《うかが》う世なり。活殺生死《かっさつしょうじ》の乾坤《けんこん》を定裏《じょうり》に拈出《ねんしゅつ》して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁《さわ》がして窓の外《そと》なる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄《くろがね》の黒きを磨《みが》いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑《かがみ》の霧を含みて、芙蓉《ふよう》に滴《した》たる音を聴《き》くとき、対《むか》える人の身の上に危うき事あり。※[#「(彡をつらぬいてたてぼう)/石」、第4水準2-82-32]然《けきぜん》と故《ゆえ》なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人|末期《まつご》の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月《いくとしつき》の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝《あした》に向い夕《ゆうべ》に向い、日に向い月に向いて、厭《あ》くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞《おそれ》ありとは夢にだも知らず。湛然《たんぜん》として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗《えいろう》たる面《おもて》を過ぐる森羅《しんら》の影の、繽紛《ひんぷん》として去るあとは、太古の色なき境《さかい》をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空《たいくう》を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏《うち》に圧《お》し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍《そば》に坐りて、夜ごと日ごとの※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はた》を織る。ある時は明るき※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はた》を織り、ある時は暗き※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はた》を織る。
 シャロットの女の投ぐる梭《ひ》の音を聴く者は、淋《さび》しき皐《おか》の上に立つ、高き台《うてな》の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代《よ》にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居《すまい》である。蔦《つた》鎖《とざ》す古き窓より洩《も》るる梭の音の、絶間《たえま》なき振子《しんし》の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静《しずか》なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝《まさ》る。恐る恐る高き台を見上げたる行人《こうじん》は耳を掩《おお》うて走る。
 シャロットの女の織るは不断の※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はた》である。草むらの萌草《もえぐさ》の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪《なみ》の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地《じ》に、燃ゆる焔《ほのお》の色にて十字架を描く。濁世《じょくせ》にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯《たてよこ》の目にも入ると覚しく、焔のみは※[#「糸+曾」、第3水準1-90-21]《はた》を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚《や》け落つるかと怪しまれて明るい。
 恋の糸と誠《まこと》の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経《たて》に怒りを緯《よこ》に、霰《あられ》ふる木枯《こがらし》の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯《ひげ》飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅《くれない》と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和《おとな》しき黄と思い上がれる紫を交《かわ》る交《がわ》るに畳めば、魔に誘われし乙女《おとめ》の、我《われ》は顔《がお》に高ぶれる態《さま》を写す。長き袂《たもと》に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願《ねがい》の糸の乱れなるべし。
 シャロットの女は眼《まなこ》深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上《のぼ》りてより、刻を盛る砂時計の九《ここの》たび落ち尽したれば、今ははや午《ひる》過ぎなるべし。窓を射る日の眩《まば》ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟《どうくつ》の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手《めて》より投げたる梭《ひ》を左手《ゆんで》に受けて、女はふと鏡の裡《うち》を見る。研《と》ぎ澄したる剣《つるぎ》よりも寒き光の、例《いつも》ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事《なにごと》ぞ!音なくて颯《さ》と曇るは霧か、鏡の面《おもて》は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往《ゆ》きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼《まぶた》は黒き睫《まつげ》と共に微《かす》かに顫《ふる》えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷《いっさつ》に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見《あら》われる。梭は再び動き出す。
 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
  うつせみの世を、
  うつつに住めば、
  住みうからまし、
  むかしも今も。」
  うつくしき恋、
  うつす鏡に、
  色やうつろう、
  朝な夕なに。」
 鏡の中なる遠柳《とおやなぎ》の枝が風に靡《なび》いて動く間《あいだ》に、忽《たちま》ち銀《しろがね》の光がさして、熱き埃《ほこ》りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘《ねら》う鷲《わし》の如くに、影とは知りながら瞬《またた》きもせず鏡の裏《うち》を見《み》詰《つむ》る。十|丁《ちょう》にして尽きた柳の木立《こだち》を風の如くに駈《か》け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼《はがね》の鎧《よろい》に満身の日光を浴びて、同じ兜《かぶと》の鉢金《はちがね》よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ※[#「参+毛」、第3水準1-86-45]々《さんさん》と靡かしている。栗毛《くりげ》の駒《こま》の逞《たくま》しきを、頭《かしら》も胸も革《かわ》に裹《つつ》みて飾れる鋲《びょう》の数は篩《ふる》い落せし秋の夜の星宿《せいしゅく》を一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を据《す》える。
 曲がれる堤《どて》に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾《たて》を懸けたり。女は領《えり》を延ばして盾に描ける模様を確《しか》と見分けようとする体《てい》であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢《いきおい》で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭《ひ》を抛《な》げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜《かぶと》の廂《ひさし》の下より耀《かがや》く眼を放って、シャロットの高き台《うてな》を見上げる。爛々《らんらん》たる騎士の眼と、針を束《つか》ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡《うち》にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍《そば》に馳《か》け寄って蒼《あお》き顔を半ば世の中に突き出《いだ》す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
 ぴちりと音がして皓々《こうこう》たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面《おもて》は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉《こな》微塵《みじん》になって室《しつ》の中に飛ぶ。七巻《ななまき》八巻《やまき》織りかけたる布帛《きぬ》はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切《ちぎ》れ、解け、もつれて土《つち》蜘蛛《ぐも》の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期《まつご》の呪《のろい》を負うて北の方《かた》へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分《のわき》を受けたる如く、五色の糸と氷を欺《あざむ》く砕片の乱るる中に※[#「革+堂」、第3水準1-93-80]《どう》と仆《たお》れる。

     三 袖

 可憐《かれん》なるエレーンは人知らぬ菫《すみれ》の如くアストラットの古城を照らして、ひそかに墜《お》ちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪《と》う人は固《もと》よりあらず。共に住むは二人の兄と眉《まゆ》さえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北の方《かた》なる仕合に参らんと、これまでは鞭《むちう》って追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえ岐《わか》れたるを。――乗り捨てし馬も恩に嘶《いなな》かん。一夜の宿の情け深きに酬《むく》いまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍《ほう》に姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳《は》せる時何事とは知らず、岩の凹《くぼ》みの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、頬《ほお》の蒼《あお》きが特更《ことさら》の如くに目に立つ。
 エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何《いか》なる風の誘いてか、かく凛々《りり》しき壮夫《ますらお》を吹き寄せたると、折々は鶴《つる》と瘠《や》せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫《まつげ》の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術《すべ》もあろう。偃蹇《えんけん》として澗底《かんてい》に嘯《うそぶ》く松が枝《え》には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶《こちょう》は薄き翼を収めて身動きもせぬ。
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日《あす》と定まる仕合の催しに、後《おく》れて乗り込む我の、何の誰《たれ》よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌《きら》わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾《たて》あらば貸し玉え」
 老人ははたと手を拍《う》つ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去《さん》ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐《じょく》を離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷《きずつ》きて、その創口《きずぐち》はまだ癒《い》えざれば、赤き血架は空《むな》しく壁に古りたり。これを翳《かざ》して思う如く人々を驚かし給え」
 ランスロットは腕を扼《やく》して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気《けなげ》に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催《もよおし》にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄《ひづめ》のあとに倶《ぐ》し連れよ。翌日《あす》を急げと彼に申し聞かせんほどに」
 ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬《ほお》に畳める皺《しわ》のうちには、嬉《うれ》しき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
 木に倚《よ》るは蔦《つた》、まつわりて幾世を離れず、宵《よい》に逢《あ》いて朝《あした》に分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊《ほそ》き身の寄り添わば、幹吹く嵐《あらし》に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括《くく》る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼《まぶた》に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館《やかた》こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐《あわ》れの胸に漲《みなぎ》るは、鎖《とざ》せる雲の自《おのずか》ら晴れて、麗《うらら》かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋《うず》めて千里の外《ほか》に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目《びもく》にはたと行き逢える今の思《おもい》は、坑《あな》を出でて天下の春風《はるかぜ》に吹かれたるが如きを――言葉さえ交《か》わさず、あすの別れとはつれなし。
 燭《しょく》尽きて更《こう》を惜《おし》めども、更尽きて客は寝《い》ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳《ひとみ》の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力《つと》めたれど詮《せん》なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏《うち》に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂《たま》消《ぎ》える物《もの》の怪《け》の話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛《かわゆ》き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟《たた》りを据えての恐《おそれ》と苦しみである。今宵《こよい》の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失《う》せて、求むれども遂《つい》に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司《つかさ》どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇《く》しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪《うしな》える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂《ひさし》深き兜《かぶと》の奥より、高き櫓《やぐら》を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡《う》せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微《かす》かなる毛孔《けあな》の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千|壺《こ》の香油を注いで、日にその膚《はだえ》を滑《なめら》かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来《きた》る期《ご》はなかろう。
 やがてわが部屋の戸帳《とばり》を開きて、エレーンは壁に釣《つ》る長き衣《きぬ》を取り出《いだ》す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜《よる》を呑《の》んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮《あざや》かである。エレーンは衣の領《えり》を右手《めて》につるして、暫《しば》らくは眩《まば》ゆきものと眺《なが》めたるが、やがて左に握る短刀を鞘《さや》ながら二、三度振る。からからと床《ゆか》に音さして、すわという間《ま》に閃《ひらめ》きは目を掠《かす》めて紅《くれない》深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭《てしょく》は、風に打たれて颯《さ》と消えた。外は片破月《かたわれづき》の空に更《ふ》けたり。
 右手《めて》に捧《ささ》ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居《すまい》、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
 聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶《めと》らんとして、心惑える折、居《い》ながらに世の成行《なりゆき》を知るマーリンは、首を掉《ふ》りて慶事を肯《がえん》んぜず。この女|後《のち》に思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔《くい》あらん。とひたすらに諫《いさ》めしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰《たれ》なるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰なるかを知りたる時、天《あめ》が下《した》に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命《さだめ》に廻《めぐ》り合せたる我を恨み、このうれしき幸《さち》を享《う》けたる己《おの》れを悦《よろこ》びて、楽みと苦みの綯《ないまじ》りたる縄を断たんともせず、この年月《としつき》を経たり。心|疚《や》ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸《かも》せと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄《す》てず。ただ疑の積もりて証拠《あかし》と凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭《くい》に焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
 眠られぬ戸に何物かちょと障《さわ》った気合《けわい》である。枕を離るる頭《かしら》の、音する方《かた》に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸《なきがら》に脈も通わず。静《しずか》である。
 再び障った音は、殆《ほと》んど敲《たた》いたというべくも高い。慥《たし》かに人ありと思い極《きわ》めたるランスロットは、やおら身を臥所《ふしど》に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭《ろうそく》の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方《かた》にまたたく。乙女の顔は翳《かざ》せる赤き袖の影に隠れている。面映《おもはゆ》きは灯火《ともしび》のみならず。
「この深き夜《よ》を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠《ねずみ》だに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
 男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹《もみ》の衝立《ついたて》に、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝《まさ》る豊頬《ほうきょう》の色は、湧《わ》く血潮の疾《と》く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢《びん》の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪|挿《さ》したり。
 白き香りの鼻を撲《う》って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故《なにゆえ》とは知らず、悉《ことごと》く身は痿《な》えて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。
「紅《くれない》に人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、乞《こ》われぬに参らする。兜《かぶと》に捲《ま》いて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前に出《いだ》す。男は容易に答えぬ。
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗《のぞ》く。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦《たたかい》に臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたる試《ため》しなし。情《なさけ》あるあるじの子の、情深き賜物を辞《いな》むは礼なけれど……」
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、夜《よ》を冒して参りたるにはあらず。思の籠《こも》るこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットは惑《まど》う。
 カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業《しわざ》故である。闘技の埒《らち》に馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、と謳《うた》わるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠《あかし》よといわば何と答えん。今|幸《さいわい》に知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖を纏《まと》い、二十三十の騎士を斃《たお》すまで深くわが面《おもて》を包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――誰《たれ》彼《かれ》共にわざと後れたる我を肯《うけが》わん。病と臥せる我の作略《さりゃく》を面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸《ようや》くに心を定める。
 部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧《よろい》の胴に立て懸けたるわが盾を軽々《かろがろ》と片手に提《さ》げて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉《ほま》れ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬《かたほ》に笑《え》める様は、谷間の姫《ひめ》百合《ゆり》に朝日影さして、しげき露の痕《あと》なく晞《かわ》けるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身《かたみ》と残す。試合果てて再びここを過《よ》ぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女は跪《ひざまず》いて両手に盾を抱《いだ》く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
 この時|櫓《やぐら》の上を烏《からす》鳴き過ぎて、夜《よ》はほのぼのと明け渡る。

     四 罪

 アーサーを嫌《きら》うにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアの己《おの》れにのみ語る胸のうちである。
 北の方《かた》なる試合果てて、行けるものは皆|館《やかた》に帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の便《たよ》りは絶えて、思わぬものの※[#「金+(鹿/れっか)」、第3水準1-93-42]《くつわ》を連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、遂《つい》に両手の指を悉《ことごと》く折り尽して十日に至る今日《こんにち》までなお帰るべしとの願《ねがい》を掛けたり。
「遅き人のいずこに繋《つな》がれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる気色《けしき》もなくいう。
 高き室《しつ》の正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈《もうせん》にて蔽《おお》う。段の上なる、大《おおい》なる椅子《いす》に豊かに倚《よ》るがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几《しょうぎ》の上に、纎《ほそ》き指を組み合せて、膝《ひざ》より下は長き裳《もすそ》にかくれて履《くつ》のありかさえ定かならず。
 よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍《おど》るを。話しの種の思う坪に生《は》えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「後《おく》れて行くものは後れて帰る掟《おきて》か」といい添えて片頬《かたほ》に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
 恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐《きり》に刺されし痛《いたみ》を受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯《さ》と音がして熱き血を注《さ》す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖《そで》の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛《さしげ》に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女[#「美しき少女」に傍点]というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾《いく》日《ひ》を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]! 美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履《くつ》に三たび石の床《ゆか》を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
 夫に二心《ふたごころ》なきを神の道との教《おしえ》は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉《うれ》しと見しも君がためなり。春風《しゅんぷう》に心なく、花|自《おのずか》ら開く。花に罪ありとは下《くだ》れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明《あきらか》なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡《うち》に、人にも世にも振り棄《す》てられたる時の慰藉《いしゃ》はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆《くつが》えされて、踵《くびす》を支《ささ》うるに一塵《いちじん》だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎《とが》も恐れず、世を憚《はばか》りの関《せき》一重《ひとえ》あなたへ越せば、生涯の落《お》ち付《つき》はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府《よみ》へ隕《お》つる。わが坐《す》わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床|崩《くず》れて、わが踏む大地の殻《こく》裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧《くだ》けよと圧《お》す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶《もだえ》を人知れぬ方《かた》へ洩《も》らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己《おのれ》を誣《し》いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽《のど》を転《まろ》び出《い》でたり。
 ひく浪《なみ》の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛《か》む勢《いきおい》の、前よりは凄《すさま》じきを、浪|自《みずか》らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然《ゆうぜん》として常よりも切なきわれに復《かえ》る。何事も解せぬ風情《ふぜい》に、驚ろきの眉《まゆ》をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少《しば》らく前のアーサーにあらず。
 人を傷《きずつ》けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔《くい》の甚《はなはだ》しきはあらず。聖徒に向って鞭《むち》を加えたる非の恐しきは、鞭《むちう》てるものの身に跳《は》ね返る罰なきに、自《みずか》らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然《しょうぜん》として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁《とつ》ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身《おんみ》のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日《はつか》を、帰るを、忘るべきに、罵《のの》しるは卑《いや》し」とアーサーは王妃の方《かた》を見て不審の顔付である。
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐《あわれ》を寄せたりとも見えず。
 アーサーは椅子に倚る身を半ば回《めぐ》らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈《じょう》に余る石の十字を深く地に埋《うず》めたるに、蔦《つた》這《は》いかかる春の頃なり。路《みち》に迷いて御堂《みどう》にしばし憩《いこ》わんと入れば、銀に鏤《ちり》ばむ祭壇の前に、空色の衣《きぬ》を肩より流して、黄金《こがね》の髪に雲を起せるは誰《た》ぞ」
 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床《ゆか》しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然《こつぜん》と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋《しお》れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天《あま》つ下《くだ》れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
 逝《ゆ》ける日[#「日」に傍点]は追えども帰らざるに逝ける事[#「事」に傍点]は長《とこ》しえに暗きに葬むる能《あた》わず。思うまじと誓える心に発矢《はっし》と中《あた》る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処《いずこ》へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑《おさ》えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍《しかばね》を抱《いだ》くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵《ののし》る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼《せま》る。
 入口に掛けたる厚き幕は総《ふさ》に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈《たけ》高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
 モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入《い》るはアグラヴェン、逞《たく》ましき腕の、寛《ゆる》き袖を洩れて、赭《あか》き頸《くび》の、かたく衣の襟《えり》に括《くく》られて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の後《あと》には物色する遑《いとま》なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人《ひとり》前に、ずらりと並ぶ、数は凡《すべ》てにて十二人。何事かなくては叶《かな》わぬ。
 モードレッドは、王に向って会釈せる頭《かしら》を擡《もた》げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者《おうしゃ》の事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という面持《おももち》である。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
 アーサーは我とわが胸を敲《たた》いて「黄金の冠は邪《よこしま》の頭に戴《いただ》かず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩に括《くく》る緋《ひ》の衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君が傍《かたえ》に坐せる女をも許さじ」とモードレッドは臆《おく》する気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間《みけん》を指《さ》す。ギニヴィアは屹《き》と立ち上る。
 茫然《ぼうぜん》たるアーサーは雷火に打たれたる唖《おし》の如く、わが前に立てる人――地を抽《ぬ》き出でし巌《いわお》とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を誣《し》いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐《いつわ》りは天も照覧あれ」と繊《ほそ》き手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹《たか》の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃《のが》れず」と口々にいう。
 ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶《たす》けて「ランスロット!」と幽《かすか》に叫ぶ。王は迷う。肩に纏《まつ》わる緋の衣の裏を半ば返して、右手《めて》の掌《たなごころ》を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
 この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が石※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2-4-94]《せきちょう》に響《ひびき》を反《かえ》して、窈然《ようぜん》と遠く鳴る木枯《こがらし》の如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、錆《さ》びたる鉄鎖に軋《きし》らせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事《ただごと》ではない。

     五 舟

「※[#「(矛+攵)/金」、第3水準1-93-30]《かぶと》に巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も覚《さ》むべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を仆《たお》して、引き挙ぐる間際《まぎわ》に始めてわが名をなのる。驚く人の醒《さ》めぬ間《ま》を、ラヴェンと共に埒《らち》を出でたり。行く末は勿論《もちろん》アストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。
「ランスロット?」と父は驚きの眉《まゆ》を張る。女は「あな」とのみ髪に挿《さ》す花の色を顫《ふる》わす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍《やり》を受け損じてか、鎧《よろい》の胴を二寸|下《さが》りて、左の股《また》に創《きず》を負う……」
「深き創か」と女は片唾《かたず》を呑んで、懸念の眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》る。
「鞍《くら》に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼《あお》き夕《ゆうべ》を草深き原のみ行けば、馬の蹄《ひづめ》は露に濡《ぬ》れたり。――二人は一言《ひとこと》も交《か》わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲《しの》ぶ。風渡る梢《こずえ》もなければ馬の沓《くつ》の地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十|哩《マイル》じゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬の頭《かしら》を右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの方《かた》へ――後《あと》より呼ぶわれを顧みもせで轡《くつわ》を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶《いなな》ける事なり。嘶く声の果《はて》知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻《あがき》の常の如く、わが手綱《たづな》の思うままに運びし時は、ランスロットの影は、夜《よ》と共に微《かす》かなる奥に消えたり。――われは鞍を敲《たた》いて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声を揃《そろ》えて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、闇《やみ》押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭《むちう》って長き路を一散に馳《か》け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似《まね》して行く。幽《かす》かに聞えたるは轡《くつわ》の音か。怪しきは差して急げる様もなきに容易《たやす》くは追い付かれず。漸《ようや》くの事|間《あいだ》一丁ほどに逼《せま》りたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。合点《がてん》行かぬわれは益《ますます》追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか躓《つまず》きて前足を折る。騎《の》るわれは鬣《たてがみ》をさかに扱《こ》いて前にのめる。戞《かつ》と打つは石の上と心得しに、われより先に斃《たお》れたる人の鎧《よろい》の袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は魂《たま》消《ぎ》ゆるほどの声に、椅子の端《はじ》を握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の袂《たもと》の柳の裏《うち》に、人住むとしも見えぬ庵室《あんしつ》あるを、試みに敲けば、世を逃《のが》れたる隠士の居《きょ》なり。幸いと冷たき人を担《かつ》ぎ入るる。兜《かぶと》を脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇《よみがえ》してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と択《えら》ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香《かお》りも、煮えたる頭《かしら》には一点の涼気を吹かず。……」
「枕辺《まくらべ》にわれあらば」と少女《おとめ》は思う。
「一夜《いちや》の後《のち》たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠《ねむり》覚めて、病む人の顔色の、今朝《けさ》如何《いかが》あらんと臥所《ふしど》を窺《うかが》えば――在《あ》らず。剣《つるぎ》の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い[#「罪はわれを追い」に傍点]、われは罪を追う[#「われは罪を追う」に傍点]とある」
「逃《のが》れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々《ぼうぼう》と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極《きわ》めがたければ、独《ひと》り帰り来ぬ。――隠士はいう、病《やまい》怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る方《かた》はカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは確《しか》と、さは思わず」と語り終って盃《さかずき》に盛る苦き酒を一息に飲み干して虹《にじ》の如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
 花に戯むるる蝶《ちょう》のひるがえるを見れば、春に憂《うれい》ありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇《やみ》に隠るる宵《よい》を思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の爪《つめ》ほど小《ちいさ》きものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに甲斐《かい》なき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは淋《さび》しかろう。エレーンは長くは持たぬ。
 エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪《ひざま》ずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、地《じ》は黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
 エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれ[#「かくあれ」に傍点]と念ずる思いの、いつか心の裏《うち》を抜け出でて、かくの通り[#「かくの通り」に傍点]と盾の表にあらわれるのであろう。かくありて後[#「かくありて後」に傍点]と、あらぬ礎《いしずえ》を一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
 重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を蹴《け》返《かえ》す時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが傍《そば》にあるべき所謂《いわれ》はなし。離るるとも、誓《ちかい》さえ渝《かわ》らずば、千里を繋ぐ牽《ひ》き綱《つな》もあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙が溢《あふ》れる。
 涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩《も》れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は褪《あ》せる。
 死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって易《やす》きかとも思う。罌粟《けし》散るを憂《う》しとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵《お》かして、愁《うれい》は衣に堪えぬ玉骨《ぎょっこつ》を寸々《すんずん》に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪《むさぼ》る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束《つか》の間《ま》の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く蕾《つぼみ》の中にも恨《うらみ》はあり。円《まる》く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文《ふみ》かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天《あめ》が下《した》に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎《かげろう》燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水《どすい》の因果を受くる理《ことわり》なしと思えば。睫《まつげ》に宿る露の珠《たま》に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆《もろ》くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺《そそ》げ。基督《キリスト》も知る、死ぬるまで清き乙女《おとめ》なり」
 書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫《ふる》えたるは、老《おい》のためとも悲《かなしみ》のためとも知れず。
 女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文《ふみ》を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣《きぬ》にわれを着飾り給え。隙間《すきま》なく黒き布しき詰めたる小船《こぶね》の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇《ばら》、白き百合《ゆり》を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期《ご》なし。父と兄とは唯々《いい》として遺言の如《ごと》く、憐れなる少女《おとめ》の亡骸《なきがら》を舟に運ぶ。
 古き江に漣《さざなみ》さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩《こ》むる陰を離れて中流に漕《こ》ぎ出《い》づる。櫂《かい》操《あやつ》るはただ一人、白き髪の白き髯《ひげ》の翁《おきな》と見ゆ。ゆるく掻《か》く水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮《すいれん》の睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。蕚《うてな》傾けて舟を通したるあとには、軽《かろ》く曳《ひ》く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静《しずけ》さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
 舟は杳然《ようぜん》として何処《いずく》ともなく去る。美しき亡骸《なきがら》と、美しき衣《きぬ》と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人を鞭《むちう》って起《た》たしめたるか、櫂を動かす腕の外《ほか》には活《い》きたる所なきが如くに見ゆる。
 と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く悠然《ゆうぜん》と水を練り行く。長き頸《くび》の高く伸《の》したるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目《わきめ》もふらず、舳《へさき》に立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の羽《は》に裂けたる波の合わぬ間《ま》を随《したが》う。両岸の柳は青い。
 シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞《じゃくまく》を破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音はあとを引いて、引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、艫《とも》に坐る翁のみ。翁は耳さえ借さぬ。ただ長き櫂をくぐらせてはくぐらする。思うに聾《つんぼ》なるべし。
 空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を挟《はさ》む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々《もうもう》と烟る。娑婆《しゃば》と冥府《めいふ》の界《さかい》に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色《けしき》である。画《え》に似たる少女《おとめ》の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。
 舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く峙《そばだ》てる楼閣の黒く水に映るのが物凄《ものすご》い。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、城中の男女《なんにょ》が悉《ことごと》く集まる。
 エレーンの屍《しかばね》は凡《すべ》ての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金《こがね》の髪に埋《うず》めて、笑える如く横《よこた》わる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭《ぬぐ》い去って、霊その物の面影を口鼻《こうび》の間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌《いま》わしきものの痕《あと》なければ土に帰る人とは見えず。
 王は厳《おごそ》かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖《おうし》の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下《くだ》りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文《ふみ》を取り上げて何事と封を切る。
 悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
 読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き徹《とお》るエレーンの額に、顫《ふる》えたる唇をつけつつ「美くしき少女[#「美くしき少女」に傍点]!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
 十三人の騎士は目と目を見合せた。



底本:「倫敦塔・幻影の盾 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
   1997(平成9)年1月16日第29刷発行
※校正には、1997(平成9)年9月5日発行の第30刷を使用した。
入力:鈴木厚司
校正:藤本篤子
1999年3月6日公開
2004年2月26日修正
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