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猫又先生
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)而《しか》も

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(例)※[#「鷄」の旁は「隹」、168-下段22]
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 高橋順介、それが猫又先生の本名である。
 先生はT中學校の國語並に國文法の先生で、私達が四年級に進んだ年の四月に新任されたのである。而《しか》も、當然私達の擔任たるべく期待されてゐた歴史の杉山先生が、肺患が重つた爲めに辭任されたので、代つて私達のクラスを擔任されることになつた。杉山先生は若かつたが、中學校の先生には稀に見る程の温かな人格者で、而も深い學識を持ちながら淡々たる擧措《きよそ》が一同の敬愛の的となつてゐた。故にその辭任の原因が肺患と知つた時にも、私達は先生と離れるのを幸福と思はなかつた。そして一同涙ぐましい程失望した。猫又先生はこの失望の前に迎へられたのである。
 講堂で催された新學期始業式の席上で、教頭が新任先生三人の紹介をした後、猫又先生は三人の最後に壇上に現れて、赤面しながら挨拶された。先生の丈《たけ》は日本人並であつたが、髪の毛が赤く縮れた上に、眼が深く凹《くぼ》んでゐて、如何《いか》にも神經質らしい人に見えた。私達は擔任の先生であると聞いたので、特別の期待と好奇心を以て、先生の詞《ことば》に耳を傾けてゐた。が、遠くに離れてゐた私達の眼に、先生の紫ずんだ唇が磯巾着《いそぎんちやく》のやうに開閉し、それにつれて左右に撥《は》ねた一文字髭が鳶《とび》の羽根のやうに上下するのが見えたかと思ふと、先生はもう降壇されてしまつた。呆氣《あつけ》に取られたのは私ばかりではない。みんなきよとんとした眼で互に顏を見合せて、にやりと笑つた。私達は所屬の教室に退いて、今度こそは――と思ひながら、先生の到着を待つてゐた。
「おいおい、あの先生は少し露助に似てるな。」と、剽輕者《へうきんもの》の高木が眞先に口を切つた。
「露助……それよりも僕は猫みたいな氣がしたぜ、眼が變に光つて、髭がぴんと横つちよに撥《は》ねてて……」と、一人が笑ひながら云つた。
「とに角、貧相な先生だ。」とまた一人が叫んだ。
「然し、あの挨拶つ振りなんか見てると、人は好ささうだね。」と、得能が振り返つた。
「人が好ささうだつて、そいつはどうだかな。」副級長の松川が、それに答へた。
「だつて顏を赧《あか》くしたり、もぢもぢしたりして、何だか落ち着かなかつたぜ。」
「そりや違ふ、それで人が好いとは云へない。人間、誰だつて初めん時はちよいとてれるからね。」松川がまた反對した。
「てれる……」と、得能が呟いた。
「まあどつちみち、杉山先生とは比べ物にならないさ。」と、首藤が二人の間に口を挿んだ。
 姿から來た先生の印象は、とに角みんなの心持に輕い失望を與へたらしい。が、何《いづ》れにしてもみんなの口は、新任先生の下馬評に賑《にぎは》つて、囁《ささや》きとなり呟きとなり笑ひとなつて、部屋の空氣がざわめき立つてゐた。
「來たよ、來たよ。」と、一人が聞き耳を立てて叫んだ。
 途端に、廊下から先生の靴音が明かに聞えて來た。みんなは一齊に默り込んで、顏を見合せた。教室は急に谷底にでも沈んだやうにひつそりして、ずんと抑へかかるやうな沈默が其處に擴がつた。そしてその靴底から傳はつてくるモノトナスな響が、みんなの聽覺を擽《くすぐ》るやうに刺戟した。而も、それが近寄つてくるにつれて、金屬と板との擦れ合ふやうな鈍音が聞えるのは、双の靴底に重い鐵の金具が打ち着けてあつたからに違ひない。
 扉のハンドルががちやりと鳴つて、教壇の上に先生の姿を見るまでの數秒間、先生の動作は講堂で見た時のそれとは、餘程落ち着いてゐるやうに思はれた。それは恐らくは、初めての先生を目前に見ると云ふ一種のあらたまつた心持が、拔目のない私達の觀察眼を鈍らした爲めか、或は教へ子の前に自己の威嚴を保たうとする先生の意志が、十分の戒心を自らに加へた結果か、何れにせよ、先生が黒板を前にして端然と直立された時、私達は級長谷の號令に應じて、謹嚴な心持で一禮を行つたのである。先生の顏はそれに對して幽《かす》かに赧《あか》らんだが、それは明かに私達の敬意に答へる滿足の紅潮で、また實際の處、新任挨拶の爲めに着用されたフロッコオトの黒が譬《たと》へ古色蒼然たるものであつたにせよ、師としての敬意に價ひするだけの感じを、私達の心に與へてゐたのである。挨拶を濟《すま》した私達は緊張した心のまま席に着いて、靜かに先生の顏に視線を集中した。
「私がこれから諸君のクラスを受け持つこととなつた。諸君は學生としての諸君の本分を……」先生は緩《ゆるや》かに腰を降して、出席簿を讀み終ると、やがてかう口を開かれた。みんなは從順な學生振りを示して、ぢつと傾聽してゐた。
 目の前にして見ると、額の狹い、頬骨の角張つた、そして痩せこけた先生の顏附は、如何にも貧相で、如何にも神經質らしい感じを深くした。その聲は相變らず低かつたが、聞いてゐる内に時々聞き慣れない調子|外《はづ》れの音が混《まじ》つた。而も初めには誰も氣附かなかつたらしいが、それが一音二音と重なつてくるにつれて、何處となく語調が可笑《をか》しく響くのである。然し、思ひの外滑《なめら》かな詞《ことば》の運びと、引き續いてゐたみんなの愼《つつし》みの念が、その隙《すき》を探る餘裕を與へなかつた。
「一體諸君は、國語學と云ふと輕蔑する傾きがある。然しそれはとんだ間違ひで、諸君が日本の人間である以上、一瞬間も諸君は國語學を忽《ゆるがせ》にしてはいけない……」私達の靜肅さに氣を得た先生は、その顏に輕い興奮の色を見せて、國語學の我田引水論を試み始めた。先生の女のやうな細い聲に、やや氣《け》上《あが》つた調子さへ加はつて來たのである。
「さうだ、一瞬間も諸君は國語を離れることは出來ない。例へば文章を書くにしても……」先生は得意らしく身振り手振りで諄々《じゆんじゆん》と説き出したが、かうなつて來た時、私は先生の所論の如何にも陳腐なのに氣が附かずにはゐられなかつた。そればかりではない、話に上《うは》ずつて來た先生の風貌は眼慣れるに從つて、堪らなく貧弱な、下品な物に見えて來た。みんなの愼しみは漸次に崩れざるを得なかつた。そして心持に餘裕の生じてくると共に、そろそろ中學生らしい惡戲性が働き出して、意地惡く何かの隙を覘《ねら》ひ始めたのである。
 ――一瞬間も諸君は――と、その詞が二度目に先生の口を衝《つ》いて出た時、背後《うしろ》の席で誰れかが「一シン間も諸クンは……」と、小聲で口眞似して囁いた。一人がくすりと笑つた、續いてまた一人がくすりと笑つた。先生の詞には東北生れらしい怪しげな田舍《ゐなか》訛《なま》りと、それから起る變てこなアクセントが隱れてゐた。語調の可笑しさの正體がそれと知れてくると、その可笑しさが次から次へと移つて行つて、密《ひそや》かなどよめきが教室の中に漲《みなぎ》つた。そしてぢつと先生の顏を見詰めてゐた私達は、一人一人|俯向《うつむ》いて來て、先生の詞を聞くよりも、次第に腹の底から込み上げてくる可笑しさを堪《こら》へる爲めに、息の詰るやうな苦しい努力を續けなければならなくなつた。
「……。だから諸君にとつて國語學程重要な物はない。」先生はチョッキの釦《ボタン》に絡《から》んだ、恐らくは天麩羅《てんぷら》らしい金鎖を指でまさぐりながら、調子に乘つて饒舌《しやべ》つてをられた。その糞眞面目な、如何《いか》にも尤《もつと》もらしい先生の樣子を見てゐると、流石《さすが》に吹き出すのは憚《はばか》られたのである。が、たうとう我慢のならなくなつた笑ひ上戸《じやうご》の吉田が、※[#「鷄」の旁は「隹」、168-下段22]の締め殺されるやうな奇聲を上げて噴《ふ》き出《だ》してしまつたので、それに釣り出されたみんなの笑ひ聲が堤の切れたやうにどつと迸《ほとばし》つた。春の明るい光線を湛《たた》へた教室の中には、笑ひの波が崩れ合ひ縺《もつ》れ合つて、一時に湧き返つた。
「何《な》、何《な》、何故《なぜ》笑ふ。何が可笑しい……」さつきから教室の中に漲つてゐたざわめきを、薄々感じてゐたらしい先生は、私達の笑聲の爆發と共にかつとなつた。そして先生の顏の平面が急に崩れて、顏面筋が小波《さざなみ》のやうに痙攣《けいれん》したかと思ふと、怒りの紅潮がさつと顏中に走つた。
「怪《け》しからん、國語學が重要だと云ふのが何で可笑しい……」先生は教壇の板に靴底を叩き附けて立ち上つて、劇《はげ》しく呶鳴《どな》つた。
 氣の毒な先生は、私達の笑ひの原因をすつかり誤解されてしまつた。その誤解の爲方《しかた》が、餘りに眞正直らしい先生の性格から産み出された物であると考へた時、その激怒の表情を痛ましく思つたのは私ばかりではなかつたらう。而もその先生に、單純な中學生の心理を巧に綾なして行く程の教授法以外の手管《てくだ》があらう筈もない。痛ましいとは思ひながらも、むきに腹を立ててしまつた先生の姿を見てゐると、やつぱり可笑しさが先に立つて、私も吹き出した。或る者は机を叩いた、或る者はぴゆつと口笛を鳴した、或る者はチェストオと小聲で叫んだ。教室は滅茶滅茶に混亂してしまつた。
「君達は私を侮辱するのか……」かう云つて更に詞を繼がうとした先生は、突然の興奮の爲めに唇が硬直してぐいと云ひ詰つた。そしてフロッコオトの長い尻尾《しつぽ》をぴくぴく顫《ふる》はせて、立ちすくんでしまつた。何分かが喧囂《けんがう》の内に過ぎた。血走つた先生の凹んだ眼には、その時涙さへ染《にじ》んで來たのである。
 ふと部屋が靜かになつたので、思はず顏を上げて先生の姿を見詰めた時、輕い同情の念と幽かな悔い心がみんなの胸を過ぎたらしい。が、それに心附いた時は遲かつた。もとの眞面目さに返つて、この新しい先生を迎へようとした一人一人の心は、さうする爲めにはあたりの空氣が餘りに崩れ過ぎてゐるのをどうする事も出來なかつた。小さな渦は大きな渦に卷き込まれねばならなかつた。そしてまた中には、我知らず騒ぎ立ててしまつたうしろめたさを胡魔化《ごまか》さうとして、故意に再び喧囂の内に隱れようとした者さへあつたのである。
「諸君は諸君の……」さんざんな混亂の内に先生が退室された時、高木がわざとらしい道化《だうけ》た聲で呶鳴つた。みんなはそれに和してわいわい騒ぎ立てながら、教室を出て行つた。
 この不幸な第一印象は先生と私達の心に、遂に最後まで埋め切れなかつた一ツの gap を造つた。快き第一印象は、時とすると惡しき第二第三の印象をも包まうとする。が、私達はその反對を先生との感情の中に味《あぢは》つた。そして全く單純な誤解に始まつた先生の私達に對する不快の氣持は、その日から漸次に色を深めて行くやうに思はれた。先生は何かと云ふと激昂された、詞に角を立てた。先生の、殆ど病的と思はれるばかりに鋭敏な神經は、私達の前に立つと何時《いつ》も苛立《いらだ》つてゐた。その顏には絶えず陰重な影が差してゐた。私達は先生の朗かに笑つた顏を一度も見たことはなかつた。先生は恰《あたか》も生存の歡びを忘れた人のやうに感じられたのである。
「面白くない先生だ。」と、私達は囁き合つた。「面白くない生徒だ。」と、恐らく先生も自らに呟いてをられたに違ひなかつた。
 が、面白くない先生は猫又先生だけには限らなかつた。T中學校の教員室にも色々な性格を持つた先生達が集まつてゐたのである。頑迷その物の化身かと思はれるやうな教頭がゐた。半《なかば》禿げ上つた額、曲つた鼻、人情の何たるかを解しないやうな冷然たる眼。そして不幸な私達は聞いても聞いてゐられないやうな反感をそそられながら、その少し鼻にかかつたねばり聲から、乾干《ひから》びきつた倫理の講義を授けられた。また小才子の英語の先生がゐた。生白い顏に、紅を塗つたやうな唇、そして張り物のやうにぴつたり分けた髪の毛。彼が小首を傾けて氣取りながら、生徒達の機嫌を窺《うかが》ふやうな眼附をして、にたりと笑ふ時、私達は蟲酸《むしづ》の走るやうな輕薄さを感じた。五萬圓の財産家たることを畢世《ひつせい》の理想としてゐた漢文の先生の憧憬。何かの式や遠足の時と云ふと軍服を着けて來て、日清日露役の從軍記章と、功六級の金鵄《きんし》勳章と、勳七等の青色桐葉章を得意氣にぶら下げた動物學の先生の稚氣、それ等は寧ろ氣持の好い先生達の愛嬌だつた。
 私達は教頭を「つくね芋」と呼び、漢文の先生を「五萬圓」と呼んでゐた。これ等の多くの先生達の内、正確にその名を呼ばれてゐたのは既に學校を去られた歴史の杉山先生だけだつた。杉山先生の親しみ深い人格には仇名《あだな》を以て呼ぶ程の隙がなかつたからである。然し、私達が先生を仇名で呼ぶのは、必ずしも惡意や皮肉にばかり由來するのではなかつた。一體私達の感情から云へば、七尺去つて師の影を踏まずと云つたやうな儒教的道徳は、先生を餘《あまり》に冷たく嚴《いかめ》しくする inhumane な道徳であつた。先生を一個の偶像として遠くから崇敬するのは容易であるが、若々しい或る憧憬の絶間ない私達にとつて、それは餘に寂しいことであつた。私達は何處までも先生を温い懐しい人間として、近寄つて親しみたかつたのである。が、先生達は私達が親しめば親しまうとするだけ、自己の周圍に城壁を築いた。そして益々自己を偶像化さうとした。而《しか》も、時には偶像としての自己を壇上に置いて私達を冷《ひやや》かに見降さうとする矯飾的態度さへ現した。その態度を私達は冷笑したかつた。その城壁の隙間から見える先生達の固陋《ころう》さを碎いてしまひたかつた。
「つくね芋、五萬圓……」かう呼んでみる時、私達の心には期待を裏切られた腹いせの滿足と、偶像をこき降す小さな快感が潜んでゐた。同じ意味で、高橋順介先生は間もなく私達から「猫又」の仇名を奉られた。その仇名の由來はかうである。
 丁度その頃、私達の使つてゐた國語讀本に「猫又」と云ふ小話が載つてゐた。
「猫又よ、やよ猫又よと申しければ……」と、先生はその中の一句を、田舍《ゐなか》訛《なま》りの可笑しな抑揚で高らかに讀み上げた。みんながどつと笑ひ崩れた。その可笑しさと、追ひ掛けられて逃げて行く猫又法師の姿を描いた文章の面白味と、先生の何處となく猫を思ひ出させるやうな風貌とが、その瞬間にひよいと結び着いた。私達は――猫又、猫又――と心の中に繰り返した。而も日が經つて行く内に、「猫又」の一語が表象するシニックな感じが、先生の人柄にぴつたり當《あ》て填《は》まるばかりでなく、それが巧に先生を諷し得てゐるやうな氣持がして來た。そして先生はたうとう「猫又さん」にされてしまつた。
 ――故に國語學は重要である――と、氣焔を擧げた先生は、時間の鐘が鳴ると、型の古い黒のモオニングに包んだ姿を機械的に教室へ運んで來た。そして何時も熱のない、退屈な講義を繰り返した。私達は先生の氣焔が餘に空言《そらごと》であつたのに、失望せずにはゐられなかつた。
 或る時間に、先生は「方丈記」を講義された。丁度春の盛りの頃で、左手の窓の擦硝子《すりガラス》には自然の豐熟を唄ふやうな長閑《のどか》な日光が輝いてゐた。明るい教室の中にはもやもやした生暖い空氣が一杯に罩《こ》め渡つてゐた。半《なかば》開いた窓の隙間からは鮮かな新芽の緑が覗《のぞ》いて、カアテンの白をそよがす風もなかつた。ぢつと机に向つて腰掛けてゐると、けだるい先生の講義の聲が蜜蜂の翅音《はおと》のやうに聞えてくる。そしてともすれば肉の締りがほぐれて行くやうな氣持がして、快い睡魔が何時《いつ》となく體を包んで行くのである。片隅で誰かの幽かな鼾聲《いびきごゑ》が擽《くすぐ》るやうな音を立ててゐる。先生の講義は誰の耳にも這入つてゐなかつたらしい。
「あゝ、つまらん……」と、右後の席で上村が不意に呟いた。鹿兒島育ちの彼は、クラスの野次の音頭取《おんどとり》で、田舍丸出しの率直さがみんなに愛されてゐた。
「『朝に死し、夕べに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける……』と云ふのは……」先生の牛の涎《よだれ》のやうな講義の聲はぱつたり止んだ。そしてふと顏を上げると、嶮《けは》しい皺を眉間《みけん》に寄せて上村を睨んだ。
「おい上村、今何と云つた。もう一遍云つて見ろ……」先生の眼は鋭く光つた。
 みんなは思はず顏を上げて、先生を見詰めた。
「『あゝ、つまらん……』と云うたですばい。」
上村は落ち着き拂つて云つた。みんなはわつと笑ひ出した。足擦りの音と机を叩く音が入り混つて聞えた。
「馬、馬、馬鹿つ……」先生は顏に蚯蚓《みみず》のやうな青筋を立てて、上村の席に近寄つた。
「教室を何と心得る。お前は、お前は……」
「お前とは何です。僕は學生ですぞ。」
「生意氣云ふな。お前のやうな奴はお前で澤山《たくさん》だ。」先生はせき込みながら續けた。「一體、つまらんとは何の云ひ草だ。」
「つまらんけんつまらんですたい。分らんですか、シエんシエい……」
 上村はけろりとした顏附で答へた。いきり立つた先生と、糞落ち着きに落ち着いた上村とのコントラストはまるでポンチ繪だつた。
「お前は己《おれ》を馬鹿にするのか、その分では濟まされないぞ。さあ教室を出ろ、出て行けつ……」先生の顏は蒼白に變つて、唇は怒りの爲めにぶるぶる顫《ふる》へてゐた。上村は空嘯《そらうそぶ》いて脇を向いた。不愉快な沈默が教室中に流れた。
「先生、『方丈記』の講義を續けて下さい。」と、級長の谷がわざとらしく叫んだ。「さうだ、さうだ……」と、みんなはまたそれにわざとらしく雷同した。先生は憎惡に燃えた眼で上村を見返りながら、舌打ちした。そして靴音荒く教壇に歸つた。讀本が再び手に取られた。
「質問があります。」と、哲學者としてみんなの尊敬を集めてゐた武井が、Pensive な瞳を上げて立ち上つた。
「何だ……」先生は我を守るやうに身構へた。
「先生の今講義なさいました『方丈記』の中には長明の人生觀の面白味があります。それに對する先生の御意見が伺ひたいと思ひます。字句ばかりの解釋では、國語なんて無意味です。」理智的な鋭さを持つた武井の蒼白い顏が、赧《あか》らんだ。どよめいた部屋の空氣がふと鎭まつた。意外な質問を受けた先生の顏には、狼狽の色が幽かに現れた。
「そ、それはある。長明は厭世家だ、この世を悲觀したのだ。つまりその頃の天災地變の哀れさを見て……」先生は口籠《くちごも》りながら云つた。
「それは分つてゐます。」と、武井が遮《さへぎ》つた。「長明の思想は佛教の輪廻説《りんねせつ》の影響を受けた厭世思想だと思ひます。彼は天災地變に苛《さいな》まれる人生の焦熱地獄に堪へられなくなつて、この假現の濁世《ぢよくせ》穢土《ゑど》から遁《のが》れようとしたのです。そして解脱《げだつ》しようとしたのです。然し『方丈記』に現れた處では長明の思想は不徹底です。のみならず、その厭世的態度には何となくわざとらしい、誇張されたやうな厭味《いやみ》があります。」武井の頭は何時も私達の世界を遠く先んじてゐた。私達が押川春浪の小説に熱中する時、彼は大西博士の「西洋哲學史」などを耽讀してゐた。彼が三年級の時、校友會雜誌に發表した「超人論」は私達には難解の文字だつたが、ニイチェの側面觀として杉山先生などの推稱を受けた。
「そんな事はどうでも好い……」先生は苦笑しながら、やや嘲《あざけ》るやうな態度でかう云つた。
「どうでも好くはありません、先生は私達に思想上の問題は無用だとおつしやるんですか。」と、武井は氣色《けしき》ばんで、鋭く迫つた。
「さうだ、さうだ……」と、みんなは譯もなく呟いた。そして部屋の中が再び煽動的氣分に卷き込まれようとした時、放課の鐘がさわやかに鳴り響いた。先生はみんなの冷嘲の囁きを背にして、遁《のが》れるやうに教室を出て行かれた。
 互に楯《たて》を突き合ふやうな不愉快な時間が幾度か重《かさ》なつた。或る時は首藤に質問された「可《べ》かり可《べ》かる」の用法で、先生は一時間を苦しめられた。首藤は熱心な勉強家で國文法に特殊の興味と理解を持つてゐた。彼が細《こまか》く質問し始めると、先生は多くの場合無學さを曝露して答へることが出來なかつた。先生はその時もみじめな程の焦燥を見せて、何度か口籠つた。先生のねぢくれた感情が、首藤の質問を故意の時間潰しと思つたのは無理もない。そして仕舞ひには彼を口穢《くちぎたな》く罵《ののし》つた。
「何、分らん……これで分らんきやあ君は低能兒だ。」先生は本を教机に叩き着けて、劇《はげ》しく呶鳴《どな》つた。温良な首藤も流石《さすが》に興奮の色を見せて、激越な調子で先生に食つて掛かつた。先生の態度の邪慳《じやけん》さがみんなの反抗心を強めた。
 春は何時《いつ》しか更《ふ》けて行つた。學校に隣つたT公園の杉林がその緑を日に増し深めて行くと共に、校庭の土の上に落ちる日の光が夏の近いのを思はせるやうに、ぎらぎらと輝き出した。そして化學教室の裏手の樹蔭が、帽子に白の覆ひを被《かぶ》せ始めた生徒達の好んで休む集合所となる頃には、猫又先生に對するみんなの不滿が次第に高潮して來た。先生の詞訛りの可笑しさに先づ敬意の幾分かを傷つけられた私達は、退屈な講義に倦怠を覺え、絶えず grimace の浮んだ顏附に不快な壓迫を感じた。その倦怠と不快な壓迫を遁れようとして盛に働いたみんなの惡戲性は、やがて疲れて來た。先生をからかつて苛立《いらだ》たせて得られる意地惡な面白味は、漸く薄れて行つた。そしてもつと現實的な飽き足りなさが、先生に對して感じられて來た。
「あんな先生に教はるのは損だ。」と、或る時首藤が云つた。「文法の一句が説明しきれないなんて、そんな馬鹿馬鹿しい教師があるもんか。」
「よつぽど頭が惡いな。」
「惡いとも、もう好い加減腦味噌が腐つちやつてらあ。」と、松川が云つた。
「然し、國語だつてしつかりやつとかなきやあ後悔するぜ。何處の入學試驗にだつて國語はあるからな。」と、一人が云つた。
「さうさ、馬鹿に出來るもんか。」と、級長の谷が云ひながら、足下の小石を蹴飛ばした。
「一體學問だつて、三年の時の大石さんの方がずつとあつたぜ。」と、また首藤が云つた。彼は先生の無學さを一番失望してゐた。
「あつたとも、まだあの人の方がましだつた。」
「だがね、學問があつたつてなくつたつて、あんな態度で教へられちやあ、不愉快で堪らないぢやないか。」と、私は反抗的な氣持で云つた。
「排斥しちやへ……」と、突然武井が叫んだ。行き着く處をそれとなく豫想してゐたみんなは、はつと思つて武井を振り返つた。そして何云ふとなく口を噤《つぐ》んでしまつた。
 みんなの心の底を割つてみれば、先生に對して不滿や反感があつたにしても、流石《さすが》に排斥と云つたやうな強い詞を出すのは何となく憚《はばか》られた。殊にみんなは先生の人の好さ眞正直さを十分認めてゐた。認めてゐるだけに、今まで自分達が先生に對して取つて來た態度が、幾らかうしろめたい心持で省《かへりみ》られた。何故ならば、自分達の團結力を頼みにして、故意に先生の神經を苛立たせ、無理に先生の講義を分らない物にしてしまふやうな意地惡さがなかつたとは云へないから……、そしてもう少し柔かく靜かに迎へたならば、先生の氣持をあれ程までに擾亂《ぜうらん》させなかつたに違ひないから……。然し、各自は密《ひそ》かにさう思つてゐたにしても、クラス全體に行き亘《わた》つてゐる群衆心理はそれを容易《たやす》く征服した。そして或る一點へ進まうとする根強い力が既に兆《きざ》してゐるのをみんなは意識してゐた。その力に反抗する事はこの場合不可能であり、またそれを一人で裏切る事が何等の效果にもならない事をよく知つてゐた。で、其處へ突然大膽に發言した武井の聲が響いたので、みんなは圖星を指されたやうな驚きを感じたのである。
「とに角あんな先生に教はらなくたつて好いんだ。」と、得能が或る瞬間の沈默の後に云つた。
「さうだ。學校に頼んで更《か》へて貰はう。更へてくれなきやあ最後の手段だ。」と、級長の谷が激越な態度で云つた。みんなは一種の叛逆的な氣分の快さに醉はされたやうに暗默裡に頷《うなづ》いた。先生の身に同情しようとする心の弱みは、みんなの胸に影もなくなつてゐた。
 二三日經つて、級長の谷以下のクラスの代表者六人から申し出た猫又先生更任願は、教頭の劇しい叱責と共に素氣《すげ》なく却《しりぞ》けられた。教頭は冷かな眼でみんなを見下しながら云つた。
「一體君等は學生の本分を何と心得てゐる、實に生意氣千萬な事だ。學校は君等に對して決して不適任な先生を授けやしない。考へて見給へ。これが若し軍隊の出來事で、高橋先生が君達の上官だつたとしたらどうなると思ふ。君達は上官に抵抗する者として、銃殺されぬとも限らない。」教頭は自ら比喩し得て妙と云はんばかりの倨傲《きよがう》な態度で云つた。禿げ上つた額のてらてらした艶が、見るから憎々しい尊大さで光つた。
「何、軍隊だつたら銃殺……」教頭の詞がクラスの一同に傳へられた時、かう聞き返して激昂したのは武井だつた。みんなはこれに和して憤慨の叫びを擧げた。舊套教育の傀儡《くわいらい》たる教頭の野蠻な比喩が、若々しい血潮の漲つてゐるみんなを憤らしたのは云ふまでもない。教頭の詞に對する反感は、却つて猫又先生に抱いてゐるみんなの不滿を高めてしまつた。
 六月の末、もう梅雨《つゆ》にかかつてしよぼ降る雨の鬱陶《うつたう》しい日が幾日となく續いた。それは或る金曜日の第三時間目で、その日も小止《をや》みない雨に教室の中は薄暗かつた。
「谷……武井……首藤……」と、型の如く先生が出席簿を讀み始めた時、教室の中は冷たい水底のやうにひつそりしてゐた。反響のない自分の聲の高さに氣が附いたらしい先生は、ひよいと顏を上げた。その時先生は、唖者に變つたやうな生徒達を眼前に見たのである。そして恐らく先生は、あたりの空氣が暴風の前の無氣味な
靜けさのやうに、ひしひしと自分の身に迫るのを感じられたに違ひなかつた。
「何故返事をしない……」先生は或る不安を豫感したやうにはつと息を引いたが、再び「何故返事をしない……」と呼ばはつた時、その顏色は蒼白く變つて、聲の餘韻が幽かに顫《ふる》へた。一人も答へなかつた。片唾《かたづ》を呑んだやうな教室の沈默は、先生の額の靜脈に注入してくる血液の流れを聞き分けられさうに澄みきつてゐた。
「何故返事をしない……」先生は殆ど發作的に立ち上つて、恐怖を包んだやうな表情を浮べながら、三度叫んだ。一人も答へなかつた。先生の顏には見る見る内に劇しい困惑の色が漲つた。そして捨鉢《すてばち》な舌鼓《したつづみ》の音が聞えたかと思ふと、黒板を背にして呆然と、まるで影法師か何かのやうに立ちすくんでしまつた。
 緊張した沈默が一分二分と過ぎて行つた。みんなは各自の胸から胸へ流れてゐる結合した心持の勝利を密かに感じながら、冷かに先生の姿を見詰めてゐた。
「一體君達は私をどうしようと云ふのだ。」先生は土氣色になつた顏を上げて云つた。
「君達は私に不平でもあるのか。」先生はまた云つた。その絞り出るやうな顫へ聲は、何時《いつ》か歎願的に變つてゐた。
 二三分が空《むな》しく流れた。しめやかに降り灑《そそ》いでゐた戸外の雨の音が、彈《はじ》くやうに私の鼓膜に響いて來た。
 クラスを代表して先生に宣言すべく期待されてゐた谷も武井も、ぢつと默り込んでゐた。いざとなるとやつぱり云へないんだ――私はかう思つて失望した。そのみんなの不甲斐なさに苛立つ感情と、途方に暮れた先生の姿を見てゐるもどかしさが、次第に私の胸の内に湧いて來た。そして徒《いたづら》に續いて行く沈默に焦燥する心持が、抑へても抑へきれぬ程私をじりじりさせた。唇の不隨意筋が自ら戰《をのの》き出すやうな、眼の血管にかつと血が押し寄せてくるやうな、鳩尾《みぞおち》が引き締められるやうな、さうした感情の興奮が私の全身に働いた。立ち上つて、みんなに先んじて、クラスの爲に勇敢に宣言する――さう思ふと、自分が非凡な勇者であるやうな氣持がして來た。
「何故默つてゐる……」先生は再び劇しい怒の色を見せて呶鳴つた。
「先生……」かう叫んで立ち上つた時、私はくらくらするやうな興奮に捉はれてゐた。が、その瞬間にもみんなの驚異の視線が一齊に自分に集中した事を、はつきり意識した。
「先生、私達は先生に不滿があるんです。」激越な態度で私は云つた。みんなは私の周圍から呻《うめ》くやうな呟きを上げて聲援した。
「何、不滿がある……」と、聞き返しながら、先生は血走つた視線を私に向けた。
「さうです。第一先生の講義はちつとも面白くありません。先生の時間に出るのは退屈なばかりです。私達は愉快な講義を聞いて、面白く勉強したいと思ひます。處が……」體中はわくわくしながらも、喋舌《しやべ》り出してみると、思ひの外私の舌は滑《なめら》かに動いた。「處が、先生は何時も厭《い》やさうな顏をしてお教へになります。そして先生のお教へになることはちつとも身に染《し》みません。」
「さうです、さうです……」みんなは咽喉《のど》に詰つたやうな聲で、雷同した。先生は、若々しい血の思慮もなく劇しい語調で喋舌る私を、呆氣《あつけ》に取られたやうな面持《おももち》で見てゐた。
「先生は何故もつと快活になつて下さらないのです。先生の顏附は何時も苦蟲《にがむし》を噛み潰したやうな顏です。」
「何、顏……」と、先生は苦笑しながら聞き返した。「顏を快活にしろつたつて、これは持前だから爲方《しかた》がない……」みんなは冷嘲的にわつと笑つた。
「然し、人間は感情の動物です。先生が不愉快な顏附で講義して下されば、聞いてゐる私達も不愉快です。先生はお笑いになつたこともありません、何時もぶりぶりしておいでです。そしてぢきに呶鳴つたり腹を立てたりなさるぢやありませんか。」私はひどく眞面目で、ひどく得意だつた。自分が Patriot でもあるやうな氣持になつてゐた。そして自分の一言一句がクラスの全體から力強く同感されてゐる快さに醉つてゐた。
「そりやあ君達が熱心に勉強しないからだ。私だつて感情の動物である點に變りはない。君達が一所懸命にやれば愉快になる、然し……」
「それは違ひます。先生が私達を勉強するやうに教へて下さらないからです。」
「生意氣云ふな……」先生は再び顏に朱を注いで、嶮《けは》しい聲で呶鳴りつけた。
「生意氣ではありません。事實さうです。」私はむきになつて疊み掛けた。「私達は先生の講義を受けようとは思ひません。」
「さうだ、さうだ。」
「しつかりやれ……」教室は劇しくどよめいて、みんなの聲がこんがらがつた。
 先生はふいと口を噤《つぐ》んだ。そして窓の方に顏を反《そむ》けて佇《たたず》んだ。黒のモオニングを着た先生の背中は幽かに波打つてゐた。怒りの感情の高潮しきつたその眼には、何時か涙が潤《うる》んでゐた。まばらな赤い口髭の撥《は》ねた横顏は、その時五十を越した人間の寂しさを語るやうに暗く見えた。その身動きもしない先生の貧相な姿を見てゐると、私は一種の重苦しい壓迫が自分の胸に迫るのを感ぜずにはゐられなかつた。一時に奔騰《ほんとう》した感情が漸次に鎭靜してくるのを私は意識した。と同時に、我を忘れた輕彈《かるはず》みな自分の詞が、何となく悔いられるやうな氣持になつた。立ち上つた席に今更坐ることも出來ない心苦しさを感じながら、或る忌々《いまいま》しい感情が心の中に擴がつて行くのを私はどうする事も出來なかつた。
「さうか、それでは爲方がない。勝手にし給へ。」先生は苦澁に充ちた瞳をひよいと振り向けて、捨て鉢にかう云つた。その瞬間に現れた先生の表情はもう怒りのそれではなかつた。ただはつとする程の絶望的な寂しさを語つてゐた。先生は教机の上にあつた出席簿と國語讀本を掴《つか》み上げて、手荒く扉を開いて教室を出て行かれた。ぼんやりそれを見詰めてゐたみんなは、先生の亂調子な靴音が廊下を遠ざかつて行くのに氣が附いた時、初めてわつと喝采した。
「宮原君、巧くやつたね。素適、素適……」私ががつくり疲れたやうな心持で腰を降した時、みんなは一齊に私に向つて拍手した。その時|俯向《うつむ》いてゐた私の眼に涙が染《にじ》んでゐるのを知つてゐたのは、恐らく私ばかりであつたに違ひない。
 やがて「つくね芋」の教頭が來た、豫備特務曹長の生徒監が來た。そして四年級乙組の三十七人は譯もなく二人の despotism に征服された。一學期の試驗の結果が發表された時、私の操行考査は二等から五等に下つてゐた。
 が、暑中休暇が過ぎて、さわやかな秋の新學期が始まつた時、もう私達は猫又先生の姿を黒板の前に見ることは出來なかつた。噂に依れば先生が中學生から排斥されたのは、私達が三度目だつたさうである。
 ――猫又や可《べ》かり可《べ》かるで一時間――誰の作つたとも知れない狂句が、時々みんなの口に上つてゐたが、秋が深くなつて行くと共に、先生の姿は何時かみんなの記憶の中に薄れてしまつた。

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 三月の初めの、或る晴れた日の午後であつた。私は久し振りに得能の訪問を受けた。彼は海軍大學の乙種學生で、既に一人の子の父になつてゐた。
「好い陽氣になつたね。」二人はかう云ひながら縁側に籐椅子を並べて、話し合つた。硝子戸越しに差す日影は春らしく氣持よく輝いてゐた。
「おい、この間|高輪《たかなわ》の御殿山で猫又さんに會つたぜ。」何かの話が途切れた後で、得能はふと思ひ出したやうに云つた。
「なに、猫又さんに……」私は驚いて聞き返した。
「さうなんだ。丁度土曜日でね、あの近所にゐる友達を訪ねた、處がゐなかつた、その歸り路さ。ほら毛利公爵の邸の横手に薄暗い急な坂道があるだらう。八つ山へ降りる……あすこでなんだ。」得能は海軍士官らしい輕快な調子で話し出した。
「妙な處で會つたもんだね。」
「さうだ。とに角僕が坂を降り掛けようとすると、下からペンギン鳥のやうな恰好で登つてくる老人がある。それが君、思ひ掛けない猫又さんさ。而も羊羮色になつた黒のモオニングに、穴のあいた中折を被り、そして泥まみれの深ゴム靴は圓い革を當てて處々|繕《つくろ》つてある……」
「何だい、まるで昔そのままぢやないか。」私の眼の前には、T中學校の教室で見慣れた猫又先生の姿が、ひよつくり浮び上つた。
「だからね、あんまり樣子が變らな過ぎるよ。小田原提灯のやうなヅボンの皺から、手の上に二寸もはみ出た白いカフスの汚れ方、それに例の金鎖さ。で、ひよいと先生の姿を見た時は、その昔のままなのが堪らなく懷《なつか》しくつてね。思はず駈け寄つて觸つてみたいやうな氣持がした。然し、流石《さすが》に昔のことを思ふと、氣が引けて話し掛ける勇氣も出なかつた。そしてぐづぐづしてる内に、お互に擦《す》れ違つてしまつたんだ。無論僕を、海軍中尉の服を着てゐた僕を、十年前の教へ子だと氣附かれる筈もない。先生にとつて僕は全く路傍の人だつたのさ。」
「無理もない。考へてみると、丁度十年になるからね。」私は少し囘想的な、センチメンタルな氣持になつた。
「然し、全くお互にあの時分は若かつた。君も隨分やんちやなお坊ちやんだつたが、實際、何處の學校騒動にだつて、顏付が氣に入らないつて先生に食つて掛かつた生徒は先づあるまい。人間は感情の動物です――なんかは、恐らく君一代の傑作だね。」得能はさう云つて、スリイ・キャッスルの烟《けむり》を吹いた。二人も顧みて高らかに笑つた。
「だが、先生はやつぱり先生をやつてられるのか知ら……」
「さ、それが確にさうなんだ。その時、二人が擦れ違つた途端にひよいと振り向くと、先生の少し猫背になつた肩の處にチョオクの粉が白く降り掛かつてゐるぢやないか。それが、先生が相變らず先生であることを證據立ててる……」得能はかう云ふと、詞を途切《とぎ》つて氣持よく澄んだ空を眺めた。
「細《こまか》い觀察だね。」と云ひながら、私も彼の視線の跡を追つた。
「所が、忌憚《きたん》なく云へば、その時それを見て、僕は骨董品の埃を何云ふとなく聯想した。」得能は再び私の方を振り向いて云つた。その潮燒けのした淺黒い顏に、皮肉な微笑が漂《ただよ》つた。
「骨董品の埃……」と、何氣なく私は呟いたが、その埃に埋もれかけてゐる先生の身を氣の毒に思ふよりも、寧ろ多くの人間のみじめさをシンボライズしてゐるやうな先生の姿が、一ツの irony として私の胸に迫つて來た。「然し、人間もああなりや立派な骨董品だね。そしてもう野心もなし、希望もなし、不平もなし、先生にとつて今程幸福な時はあるまい。」得能は私の沈默をよそにかう云つて、朗かに笑ひ出した。
(大正八年四月「三田文學」)



底本:筑摩書房版 現代日本文學全集85「大正小説集」
   1957(昭和32)年12月20日發行
入力:小林徹
校正:丹羽倫子
1999年6月24日公開
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