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ハルピンの一夜
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)指揮者《コンダクタア》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)時時|眞面《まとも》になる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)フオツク[#底本では「ク」脱、5-12]ス
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 頭の禿げた、うす穢いフロツク姿の老人の指揮者《コンダクタア》がひよいと立ち上つて指揮棒を振ると、何回目かの、相變らず下品な調子のフオツクス・トロツトが演奏團席《ジヤズ・バンド》の方で始まつた。落ちぶれ貴族の息子とでも云ひさうな若いロシヤ人、眼の動かし方に厭味のある、會社の書記風のイギリス人、髪の毛を妙に凝つた仕方に縮らせたアメリカ人の下士官、金儲けにぬけめのなささうな、商人らしい中年のフランス人、何れも其處の常連だと云ふ、何處となく下等な身成をした、一癖ありげな顏附の男達の十餘人と、それを彩《いろど》る酒場《カバレエ》[#底本では「酒傷」、3-6]稼ぎのロシヤ人の賣笑婦達――壁際のテエブルのまはりに休んでゐた彼等は順順に立ち上つて、それぞれに腕を組み合せながら、強い酒の香と、煙草の烟のむつと立ち罩めた、明りの色の如何にも陰氣くさいホオルの中へ、樂の音に合せて踊の輪を作つて行く。まだお客の掴めない女達は自分達同士の組を拵へて、紅を使つた厚い化粧の毒毒しい顏に蓮葉《コケツト》な笑ひを浮べながら、腰の振方に蠱惑するやうな誇張を交へながら、踊の輪の中へ加はつて行く。氣持を變に浮き立たせる樂音の渦巻、靴の踵と床の擦れ合ふ響、踊りながらする男女の囁き、その間に時時洩れる女達の淫蕩な笑ひ聲。正面の酒賣棚の右手の壁に掛かつた六角時計を見ると、丁度一時五分だつた。私はふと思ひ出して、半分殘つてゐたグラスのウイスキイをぐつと呑み干した。
 「おや、何時の間にはいつて來たんだらう?」と、その時踊の輪の方を眺め降してゐた水島君は、一息吸つた葉巻の烟をふうつと吐きながら呟いた。
 「何だい?」と、とろんとして來た眼を見張りながら、私は水島君の視線の行手を追つた。
 「ほら、あのでつぷり肥つたロシヤ人と組みながら、今、こつちを向つて笑つてる女があるだらう。――緑色の上着を着た……」
 「うむ、ゐるゐる。――素適な美人《シヤン》ぢやないか……」頷き返しながら、私はその女の方を思はず惹きつけられるやうに見詰めた。
 それまで私もその女には氣附かずにゐた。丈の高い男の嚴丈さうな腕に、もたれるやうに腰を抱きかかへられながら、女は踵の高い赤革靴の運び輕げに踊つてゐる。房房した亞麻色の髪を羊の毛のやうに縮らせた、小柄の、然し肉附の好い女。強い線を描いた彫刻的な鼻と、きつと投げた瞳の光に何處となく智的な感じがあつた。年は二十二三なのであらう。如何にも物慣れた、形の好い恰好に踊り續けながら、時時|眞面《まとも》になる女の顏には、外の女達とは際立つて品の好い、が、同時に強く人の眼を奪ふやうな魅力のある笑ひが始終たたへられてゐた。
 「あの女がね……」と、グラスを一啜りして、水島君は云つた。
 「うむ……」
 「この酒場《カバレエ》[#底本では「酒傷」、5-2]での一番腕つこきなんださうだよ。」
 「さうだらう。――美人《シヤン》ぢやあるし、何處か凄さうな處があるもの……」と、相槌打ちながら、私は水島君を振り返つた。
 と、水島君は何故かにやりと笑つた。
 「處でね、あの女の前身は何だと思ふ?――何處か感じに變つた處があるだらう……」
 「さあ、さう云へば、何だか上品な氣がするね。――やつぱり貴族か何かの……」
 「さうだ。その通りなんだ。――あれがねぇ君、帝政時代の或る伯爵の娘だと聞いたら驚くだらう。」
 「驚くね。――ふうん、伯爵の娘か……」と、私は思掛ない氣持で、またその女の方を見返つた。
 と、丁度その時、フオツク[#底本では「ク」脱、5-12]ス・トロツトの一くさりが終つた處だつた。顏に踊のあとの疲れと興奮の色を浮べた男女達は組を解いて、それぞれの席につくのであつたが、その女は肩越しに首筋を男に抱きかかへられたまま、窓際の、酒賣棚から五番目の椅子に腰を降した。そして、テエブルの上にあつたグラスの、琥珀色の酒をぐいと呑み干すと、いきなりまた男の首筋に白い手を巻きつけて、じやれつくやうに短い接吻をその唇に與へた。女が唇を離した時、男は淫らな眼を光らせながら直ぐそのあとを追つた。そして、縮こめた女の體をぐいと自分の胸に引き寄せて、二度目の接吻を交したかと思ふと、二人は身を搖す振つて一時に笑ひさざめいた。
 「驚いたなあ……」と呟きながら、笑ひすまして、私は思はず顏をそむけてしまつた。が、如何にも捨鉢氣味な二人の歡樂の姿は私の氣持を曇らせずにはゐなかつた。
 「ふふん……」水島君は怒つたやうな顏に苦笑ひを浮べた。
 何故となく、私達はそのまま沈默してしまつた。
 「おい、そろそろ出ようか?」と、暫くして水島君が不意に云つた。
 「さうだね、出ようか。――ああ、すつかり醉つちやつたなあ……」と、私はほつと溜息づきながら、水島君を見返つた。赧らんだその顏には、血走つた、憂欝な感じの眼がとろんと据わつてゐた。
 「僕もほんとに醉つたよ。」
 「だいぶ飮んだからな。」
 「さうだ。少し飮み過ぎた。――然し、然し、今夜はほんとに愉快だつたよ……」と、水島君は互にふと滅入りかけた氣持を引き立てるやうに、元氣作つた聲で云つた。そして、のけぞるやうにして、背後の壁の呼鈴を押した。
 「あら、もうお歸り?」と、その水島君の樣子をちらと眺めた女は、あわてたやうに立ち上つて、仕切りの框に肘つきながら云つた。さつきから隣の仕切りの部屋のテエブルに一人凭つて[#底本では「つ」が脱、7-5]、二人の何れかを一夜のとりこ[#「とりこ」に傍点]にでもする積りだつたのか、しきりに媚態を送つてゐた、英語の巧い、二十六七の女である。「生れは?」と、訊ねたら、「キエフです……」と、答へた。何れはこれもソヴイエツト政府の支配下を遁れて來た、不幸な運命を擔つた女なのであらう。白粉で塗り隱した荒んだ肌、左の頬に拵へたわざとらしいほくろ、眉墨で縁取った疲れたやうな眼の光、受け口のまつ赤な唇、まづい顏ではあつたが、相當の教育も受けたらしく、愛想交りにも日本の事を色色問ひ尋ねたりする女だつた。
 「歸るんだよ……」と、水島君は素氣なく答へた。
 「もう少しいらつしやらない?」
 「厭やだ。」
 水島君は不機嫌な顏でまた打つちやるやうに云つて、そのまま横を振り向いた。女は、賣れの惡い、気弱さうな女は諦めたやうにまたもとの椅子に歸つた。そして、寂しさうな中に、何處か反撥的な光を含んだ眼で私達を見詰めてゐた。
 「すべため[#「すべため」に傍点]、お前なんかの相手になるもんか……」と、ひよいと私を振り返つて聲高な日本語で云ひながら、水島君は冷たい笑ひを浮べた。
 支那人のボオイが持つて來た傳票《チツト》に少しの酒手を加へて拂ひをすますと、水島君と私とは仕切りの部屋を廊下へと飛び出した。そして、入口で支那人の玄關番《ポオタア》から外套と帽子を受け取ると、また聞えて來た浮き浮きした舞踏曲の音色をあとに殘して、遁れるやうな氣持で酒場《カバレエ》[#底本では「酒傷」、8-8]「アポロ」の外へ飛び出した。
 「歩いて歸らうぢやないか……」と、外套の襟を立てながら、水島君は云つた。
 「ああ、さうしよう……」と、私は直ぐに應じた。
 高い煉瓦塀にせばめられた暗い路次を通り拔けて、K街の大通へ出ると、街燈の鈍い光の中に客待ちしてゐた五六人の支那人の俥引達がばらばらと二人の側へたかつて來た。
 「不要《プヤウ》……」
 「不要《プヤウ》……」
 變にむかつ腹の立つやうな氣持でかう繰り返しながら、うるさく追[#底本では「迫」の誤り、9-2]つてくる俥引達を振り向きもせずに、更け鎭まつた大通のうす暗い歩道の上を、水島君と私とは俯向き勝ちに歩き始めた。
 ハルピンの十月末、と云つても、あたりはもう索漠たる冬景色だつた。すつかり葉をふるひ落した裸のポプラ並木、からからに凍りついた歩道、明りを消し、二重窓を降して冷たい沈默を包んでゐる煉瓦や石造りの暗い家並、毎日毎夜の不安な空氣に脅かされてゐる町は、朝から曇つたままに暮れ落ちた暗澹たる夜空の下に、わけても眞夜中過ぎのその夜は、人通さへ稀に無氣味な程に鎭まり返つてゐた。處處のとろんとした薄暗い街燈の陰に腕を組みながら、眠さうな眼を見張つてゐる支那人巡警の影のやうな立姿、暗い横町の檐下に客待ちしてゐる支那人車夫のうろん臭い顏附、前部燈をきらきら光らせながら時折何處からとなく疾走してくる、何かの秘密でも載せてゐさうな自動車の影、厚い外套越しに染みこんでくる夜寒さに體を丸めながら、水島君と私とは互に默り込んだまま小刻みに足を急がせて行つた。
 勤めてゐる大連のM會社の或る仕事のために、私がハルピンへ來たのは、その一週間程前の事だつた。水島君は私の中學時代の同窓で、外國語學校露語科の出身者で、K商事會社の支店員だつたが、互に仕事の餘暇を誘ひ合せて、大正――年の秋、反過激派の勢力が衰へて過激派の勢力が次第にシベリアを南下してくると共に不安騒然たる空氣に包まれてゐるハルピンの町を、日となく夜となく彷徨ひ歩いたのであつた。淫らな見世物のある公園のバアへも行つた。歡樂と頽廢の空氣の漲つてゐる幾つかの酒場[#底本では「酒傷」、10-4]も訪ね歩いた。支那の阿片窟へもはいつて見た。馬賊の銃殺も見物した。零落したロシヤの帝政時代の人達の悲慘な生活振も日日眼のあたりにした。強盜、殺人、喧嘩、自殺――さうした見聞にも幾度となく脅かされた。そして、翌日の夕方大連へ立つと云ふその晩は、酒場《カバレエ》[#底本では「酒傷」、10-7]「アポロ」で互に別れを惜む氣持もあつて酒の醉を買ひながら、四時間あまりを過したのであつた。
 「おい近藤君、どうしたんだ?――厭やに默りこんでしまつたぢやないか……」と、一町あまりも歩いたあと、水島君は不意に私を振り返りながら詞をかけた。
 「いや、別にどうもしやしないさ……」私は漠然と答へ返した。が、醉にぐらぐらするやうな頭の中には酒場で受けた色色な印象が、憂欝な氣持の尾を引きながら次から次へと繰り返されてゐるのであつた。
 「然しね、酒場にゐるああ云つた女の行末は、一體どうなるんだらう?」
 「さあ、どうなるかな? この頃、僕はもうそんな事考へてみようともしなくなつたが、たまに一人ぐらゐが奇蹟的な幸福な餘生にはいれたにした處で、多數は悲慘な末路を遂げるんだと思ふよ。」
 「さうかな。――だが、ハルピンて全く堪らない感じのする町だね。人間がまるで踏みくちやにされてしまつてる……」
 「うむ、踏みくちやにされてしまつてるは好いね。――實際、こんな處で人間を人間らしく思はうとしたり、人生を眞面目に考へようとした日にやあ、氣違ひになるより外仕方がないよ。」
 「はつはつは……」
 「はつはつは……」
 互に振り返つて、水島君と私とは強ひられたやうな笑ひ聲を洩らし合つた。
 「然し、考へてみると、すべてが馬鹿馬鹿しいよ。――より善き、より幸福な人生を建設しようとしてソヴイエツト政府が成立する。が、その革命の背後には幾千、幾萬の犠牲者があんな風にして苦しんでゐる。少くとも、彼等にとつて人生は決してより善くも、より幸福にもなつてゐやあしないんだからね。僕は革命なんてほんとに厭やだと思ふ……」
 「だが、革命者の立場から云へば……」と、私は詞を挾みかけた。
 「待ち給へ。――あんな犧牲は當然だと云ふんだらう……」と、水島君は強く私を遮つた。
 「さうだ……」
 「だから、僕は革命なんか厭やだと思ふんだよ。――一體、君はさう云ふ革命者の心持を肯定出來るのかね?」
 「いや、別に肯定してゐる譯ぢやない。」
 「無論、さうだらう。――それに……」と、水島君の聲は急に高くなつて來た。「根本的に云へば、革命なんかを幾度繰り返してみたつて、少數の革命者が自我《エゴ》の滿足をかひ得るだけで、人間全體は決してより善くも、より幸福にもなり得ないと僕は思ふね。――更に云ひ直せば、人間がどんなにあがいてみたつて、結局人生には永久にユウトピヤは來ないと云ふ事になるんだ。」
 「然し、結局さうだとは考へられても、僕は其處まで人生に絶望してしまひたくはないよ。――人間にそのユウトピヤへの夢がなかつたら、云ひ換へれば、自分達の生活をより善く、より幸福にしようとする感激がなくなつたら……」
 「そりや寂しい。或は死ぬより外はあるまい……」と、水島君は吐き出すやうに云つた。「だがね、君の云ふその夢や感激つて云ふのは何だらう? 人間を胡麻化す或る操《あやつ》りの糸に過ぎないんぢやないかね……」
 私はそれには何故か答へる事が出來なかつた。水島君は直ぐに云ひ重ねた。
 「でも、そんな操りの糸にでも操られ得る人はまだ幸福だよ。――夢も感激も喪つてゐながら、而も人間は容易に死ねやしない。そして、その矛盾や、寂しさを胡麻化しながら生き續けてゐる。あの酒場《カバレエ》の女達だつて、またその女達を亨樂の對象にしてゐる男達だつて、要するに、さうした人間の仲間に過ぎないと僕は思ふよ。」
 水島君はふつと深く溜息づいて、そのまま口を噤んだ。私も何か知ら不意に索漠たる氣持を胸に感じながら、そのまま口を噤んだ。そして、二人はただ白い息を吐きながら、石のやうに凍りついた地面に四つの靴音を響かせながら、默默と歩いて行つた。何時となく酒の醉はさめかけて來た。ひしひしと迫つてくる夜寒さに、私はこごえるやうな足先の痛みを意識した。
 K街とP街との交叉點で、明日の再會を約しながら水島君と別れた時、町角の高い時計塔の針は丁度二時を指してゐた。其處から私の泊つてゐるMホテルまではまだ七八町の道程だつたが、送らうといふ水島君の詞を強ひて斷つて、薄暗い並木の蔭を私は一人俯向き勝ちに歩き始めた。
 「然し、水島君も變つたなあ。――何と云ふ變り方なんだらう?」と、私はふと心の中に呟いた。
 若若しい人生の夢想家で、感激的なロマンテイシストで、而も、臆病と云ひたい程の道徳家だつた過去の水島君を思ふと、私は三年近くのハルピンの生活が同君の性格に與へた影響の深さを考へないではゐられなかつた。が、またそれ程に同君の心を荒ませ、生活を散文化させ、性格を暗い否定主義《ベツシミズム》に誘つた町の空氣を思ふと、一週間の滯在の間に受けた色色な印象、見聞のすべてが一層切實なものに感じられた。他愛なく笑ひさざめく男達の前で裸踊する痩せこけた女の顏、血烟立ててコロツと前に轉がつた馬賊の首、死骸のやうに床にのけぞり返つてゐた阿片中毒のロシヤ人の無氣味な瞳の光……。
 「愚と、惡と、醜と。――何と云ふ堪らない町なんだらう?」と、呟きながら、私はP街の大通から、近道の暗い横町へ折れ曲つて、重く頭にかぶさつて來た憂欝さを遁れるやうに足を急がせた。
 商店の倉庫らしい建物の立ち並んだ、高い、じめじめした煉瓦塀の兩側から迫つた、二三間幅の道。遠くの暗闇の中に見覺えのある支那料理屋の明りが、ぽつつと一つ光つてゐる。その明りの處を右に折れてまた大通へ出ると、Mホテルなのであつたが、人通さへないその道へ足に任せて何氣なく飛び込んで、私は思はず水を浴せられたやうにぞつとした。
 私は兩手を外套のポケツトに差し込み、首を襟の中に縮こめながら、變に高く反響する自分の靴音におびえおびえ歩き續けて行つた。が、暫くすると、私は不意に背後の方に低い靴音を耳にした。振り返る氣込もなかつた。私は不意に高く動氣打たせながら、ただ歩調を早めるばかりだつた。
 「あなた、あなた……」と、靴音を聞きつけてから七八間も歩いたかと思ふと、私は突然背後から呼び掛けられた。而も、その聲はアクセントこそ違つてゐたが、はつきりした日本語だつた。
 「え?」私はぎよつとして振り返つた。
 立ち止まつた私の前に、暗闇の中から、影のやうにひよいと近附いて來たのは、肩掛を頭越しにかぶつた、何となくみすぼらしい身成の外國の婦人だつた。厚く白粉を刷いた顏が夜眼にもまつ白く見えた。何か知ら危險に迫られてゐるやうな不安を感じてゐた私はほつと氣持の安らぎを覺えたが、ぢつと向けられた二つの眼の光に氣が付くと、それが女であるだけに變な無氣味さを感じないではゐられなかつた。
 「何か用ですか?」暫くためらつた後に、私は日本語でかう訊ねかけた。
 婦人はもじもじして默つてゐた。
 「人違ひではありませんか?」私はまた云つた。
 それにも婦人は答へなかつた。が、俯向いて暫く考へこんだかと思ふと、ひよいと顏を上げて、
 「わたくし、日本|詞《ことば》、よく、駄目です。――あなた、わたくし、家《いへ》、來て下さい……」と、婦人は覺束ない詞で云つた。
 突然の思掛ない誘ひの詞に驚いて、私はまじまじと婦人の顏を見詰め返した。と、何故か私の視線を遁れるやうに、婦人は直ぐに眼を伏せてしまつた。そして、灰色がかつた肩掛の端を右手の指先で苛立たしさうにまさぐつてゐるのであつた。が、外國人にしては小柄な體を肩越しにぢつと見詰めながら、その着てゐる上着のひつつこい更紗模樣にふと氣が付くと、私はそれがロシヤの婦人に違ひない事を刹那に感じた。そして、何のために呼び止めたか、どんな種類の女であるかを頭の中にす早く考へてみた時、「素人の賣笑婦」と云ふその想像が瞬間に閃き過ぎた。
 「どうぞ、わたくし、家、來て下さい……」婦人は俯向いたまままた歎願するやうに繰り返した。
 瞬間の想像は私を答への詞にためらはせてしまつた。が、それと氣附いて或る落ち着きを得た私の心には、婦人に背中を向けようとする一つの感情と同時に、婦人に惹かれようとする好奇心らしい感情が明に動いてゐた。そして、其處にはなほ無氣味さに對する氣おくれの心が働いてゐたが、さめかけたとは云へまだ殘つてゐる幽かな醉心地が私をそそのかし始めたのも事實だつた。答へ澁つたまま、私は暫く身動きもせずに佇み過した。
 と、婦人はちらと私を見上げて、また眼を伏せながら、半分口の中で不意に云つた。
 「一圓《アデインゑん》、宜しいです。」
 來たな――と云つたやうな、くすぐつたい氣持だつた。もう疑ふ餘地もなかつた。私は水島君から「一圓《アデインゑん》……」を繰り返しながら日本人を呼び止めると云ふ零落したロシヤ人の素人賣笑婦の話を、色色聞かされてゐた。私は眼を落して、すくんだやうに佇んでゐる女をもう一度頭越しにぢつと見詰めた。何となく痛痛しい氣持がした。が、次の刹那には、何故か私の心には臆病な道義心も、氣おくれもなくなつてしまつた。そして、欲情と云ふよりも、寧ろ不思議の世界に對してそそられた好奇心から、妙に自分を力づけるやうな努力的な氣持で私は云つた。
 「行かう……」
 すると、女は彈かれたやうに私を見上げて何かを云つたが、それは何の意味か聞き取れなかつた。が、滿足らしい微笑を浮べながら、急に勢づいた樣子で今まで歩いて來た道を急ぎ足に戻り始めた。私はその左背後から、變に苦笑されるやうな氣持で無言のまま追ひ從つて行つた。半町程も戻つたかと思ふと、女は私の少しも気附かなかつたまつ暗な、狹い路次を左手へ曲つた。そして、振り向かうともせずに、何か知らむつと塵芥《ごみ》くさい臭ひのする、右左に煉瓦塀のすれすれになるやうな道をせかせかと歩き續けて行くのだつた。
 「あなた、イギリス詞《ことば》、分りますか?」と、暫くすると、女は不意に私に振り返つた。
 「分る……」と、私は答へた。
 「おお、あなたは英語を話せるんですか?」と、女は急に調子づいて、流暢な英語で云ひ返した。
 「うむ。少しなら話せる……」と、私は何となく氣輕になつた氣持で應じた。
 「あなたは何處にお住みですの?」と、女は足を弛めて私と肩すれすれになりながら、直ぐに訊ねかけた。
 「M街に……」と、私は出鱈目に答へた。
 「さう。――私、日本の紳士を三四人知つてゐますよ。ミスタア・木村、ミスタア・高柳、ミスタア……」と、女は小聲に微笑を含んだ聲で云つた。
 「私、そんな人知らない。」
 「さうですか。」
 女の英語は私のそれと比較にならない程巧だつた。そして、それは女が決して無教育者でない事を感じさせた。何れはこれも革命の不幸な犧牲者の一人に違ひない――さう思つた時、かりそめの好奇の念に驅られてゐる自分の心に痛みを感じない譯にはいかなかつた。が、異郷の見知らぬ町で、異郷の見知らぬ女との間に偶然起つて來たアバンチウルに對する強い興味は、その痛みを直ぐに覆ひ包んでしまつた。
 「君の名前は?」と、私は無遠慮に訊ねかけた。
 「カテリイナよ……」と、女は蓮葉《コケツト》な聲で輕く答へ返した。
 やがて少し明りのある横町へ出た。その時、女はひよいと私の方を振り返つたが、かぶつた肩掛の間に初めて照し出されたその白い顏は、瞬間何となくなまめいた印象を與へた。が、女は默りこんだまま斜に横町を渡り過ぎて、また向う側の暗い路次へはいつた。そして、十間程も歩いたかと思ふと、女は不意に立ち止まつて、私の方へ頤じやくりをしながら、内側に鈍い明りの差した家の入口の扉をそつと引きあけた。
 「靜にして下さいね……」と、あとへ續いた私の耳元に女は聲をひそめながら囁いた。
 煤けた天井から、よれよれになつた電線を引いて、傘もない塵芥だらけの電燈の球が黄色い光をとろんとあたりへ投げてゐた。ほこり臭い感じのする、がらんとしたホオル。右奥へ扉のある部屋が三つ四つ續いてゐる。が、女は短いスカアトをうしろ手にたくし上げながら、直ぐ左手の壁際にそつた、もう板の角のまあるく擦りへらされた階段を、足音を怖れるやうにして昇り始めた。私もそれに續いたが、高かつた踵の、横に曲つてへつてしまつた女の黒い編上靴がおづおづと動いて行くのを眼の前にすると、私の胸には變な不快さが込み上げて來た。
 「來なければよかつたなあ……」と、心の中に呟いて、横に顏を反け反けしながら、私は重くなつた足を引きずるやうに昇つて行つた。
 一階、二階、人が住んでゐるのかゐないのか、息詰まるやうな靜けさを包んだ、安普請の洋館だつた。處處に落書のある、よごれた白壁、或る窓の毀れた硝子のあとには新聞紙を貼つてあつたりした。階段は足をひそめても無氣味な軋[#底本では「軌」の誤り、21-2]り聲を立て、泥や小砂利にざらついてゐた。そして、眞夜中過ぎの劇しい寒さにこごえたやうな電燈の光の薄暗さ、刹那の不快さは、何時の間にか恐怖の念に變つて來た。が、女は默りこくつたまま涯《はてし》ない階段を昇りでもするやうに、振り向きもせずに一段、一段を辿つて行くのであつた。二階、三階、それが最上層の四階目の階段を登りきつた時、女は苦しさうに吐息づいて立ち止まつた。そして、女はかぶつてゐた肩掛を靜に取りのぞけながら、小聲に云つた。
 「其處よ……」
 頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面《まとも》に見詰めた。赤茶けた、澤《つや》のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる程痩せてゐた。そして、夜眼にはただ白くばかり見えてゐた拙い化粧の下に、そばかすが一杯に浮いてゐた。年は二十六七なのであらう。明りに照り反された、黒くたるんだ瞼の陰にありありと羞恥の色を見せながら、まぶしさうに私を見詰めた眼は深く凹んで、その奥には生活に疲れきつてゐるやうな暗い影が差してゐた。私は思はず顏をそむけた。そして、幻影消滅の苦苦しさに打たれながら、引き摺られて來た今までの自分の姿の淺ましさを感じながら、暫く身動きもせずにその場に佇んでゐた。
 「さあ、おはいり下さいな……」と、女は小聲に私をうながした。そして、右手の直ぐとつつきの部屋の扉の前に歩み寄つて、ハンドルに手を掛けた。
 「其處かね。――君の家は……」と、私は氣拙さをてれ隱すやうに尋ねかけた。
 「ええ……」と、女は低く頷いた。
 然し、私ははいる氣込をすつかり喪つてしまつた。そして、むつつり口噤みながら、女の顏を眺めてゐた。
 「まあ、どうなすつたんですか?」と、女は氣遣はしさうに云つた。
 私はふつと溜息づいた。そして、女からそむけた視線をそのままにぐるりとあたりを見まはした。遁れる事、思ひ切つて階段を駈け降りてしまふ事、それより外に自分の救ひ場がない氣がした。が、私はためらつた。ためらひながら、探るやうにまた女の樣子を眺[#底本では「跳」の誤り、22-11]めた。と、遁げられては――と云ふ不安に捉はれたらしい女は、急に眼色を鋭くした。そして、つかつかと私の側に舞ひ戻つて來たかと思ふと、ぐいと外套の袖を掴んだ。
 「金だけ置いてやらう……」と、咄嗟にさうした苦苦しい決心で自分を鞭打ちながら、私は仕方なく女のあとに續いた。むかむかするやうな氣持だつた。が、扉の内へはいつて、女の指差した壁際の椅子にぐたりと腰を降した時、ほつと氣の弛みを感じた。知らない間に、私の總身は疲れきつてゐたのだつた。
 細長い部屋だつた。處處紙の破れた天井から、笠のない、ほこりだらけの電球が此處にも黄色い、乏しい光を投げてゐた。粗末な丸テエブルのまはりに、編目のほぐれたりした椅子が三つ四つ。針金に渡した、みすぼらしいカアテンの奥の方には、寢臺が備へてあるらしかつた。古びた唐草模樣の壁紙の處處はげかかつた四方の壁には、三色版の平凡な風景畫が一つ掛かつてゐるきりで、がらんとした、空氣の冷えきつた部屋の中には裝飾品らしい何物も見えなかつた。女は何か知ら落ち着きのない樣子で、テエブルを挾んで私と向ひ合せに腰を降したが、直ぐまた立ち上つた。
 「寒いでせう。――火を持つて來ますわ……」と、女は小聲に囁いた。そして、左手の壁の中程にある扉の方へ歩いて行つたかと思ふと、ひよいと私を振り返りながら、そのまま隣の部屋へ姿を消してしまつた。
 この部屋きりの一人住居――そんな風に女の身を想像してゐた私は、思掛ない氣持で扉の方を眺めながら耳を澄ましたが、ごとりごとりと聞えてゐた女の靴音はやがて止んで、隣の部屋は直ぐに鎭まり返つてしまつた。私はその扉と向ひ合せの、右手の窓に眼を移した。降された、貧しい花模樣のある、茶色のカアテンが靜に搖れてゐる。十秒、二十秒、三十秒、私は部屋の中をまたぐるりと見廻した。幽かな胸騒ぎがし始めた。それを胡麻化すやうにポケツトから煙草を取り出してマツチの音を氣にしながら火をつけた。そして、一息吸つた紫烟を吐き出しながら、その烟のからんで行く電燈の方を見るともなく見上げてゐた。すると、その途端に扉の向うで幽かな人聲がした。續いて、力の無い咳音が二つ三つ聞えた。思はず息を抑へながら、私は聽耳を立てた。が、そのままあたりはひつそりとなつてしまつた。
 「誰がゐるんだらうか?」と、私は心の中にこはごは呟いた。と、刹那に或る人から聞かされてゐた西洋の「美人局《ブラツク・メリイ》」の話が不意に頭の中に閃いた。私はぎくりとした。
 やがて私はそつと椅子から立ち上つた。そして、女のはいつて行つた扉の方へあるきかけた。が、ぎしりと床にきしつた自分の靴音を感じると、足はそのまますくんでしまつた。動氣が高まつて來た。神經が針のやうに尖がつて來た。私は體の動きに迷ひながら、入口の扉の方をぢつと眺めてゐた。
 が、間もなかつた。よろめくやうな足音が再び聞えたのにはつとして振り返ると、隣の部屋の扉が靜にあいて、その陰に瀬戸火鉢を抱へた女の姿が現れた。火鉢の中には今燃やしつけたばかりらしい木片がけぶつてゐた。瀬戸火鉢と西洋婦人と、それは如何にも奇妙な、同時に如何にも貧乏くさい感じを與へる對照だつた。張り切つてゐた氣持はふと弛んだ。そして、私は怪訝の眼を女の姿に投げかけた。と、女は何故か憚るやうにあわてて扉を締めて、置いた火鉢を抱へ直すとけむつぽい顏を横に曲げながら、私の側に近寄つて來た。
 「たいへん、寒い……」と、てれ隱すやうに日本語を呟いて、女は硬張《こはば》つた作り笑ひをその澤《つや》のない顏に浮べた。そして、私の前に引き寄せた椅子の上に火鉢を降すと、それを挾んで私と向ひ合せに腰を降した。
 私は塵の浮いたテエブルの面に眼を落したまま、身動きもせずに默りこんでゐた。が、さうした故意とらしい女の仕草が油斷を作らせるためではないか知らと思ふと、私は警戒の氣持を弛める譯にはいかなかつた。互にこだはり合つた、ぎごちない沈默が續いた。と、やがて女はかざしてゐた手の指先で火鉢の縁をこつこつ彈き始めたが、暫くしてひよいと顏を上げながら、
 「外套をおぬぎなさいな……」と、變に調子のもつれた聲で囁いた。
 それには答へずに、私は探るやうに女の顏を見詰め返したが、何時の間にかそれは化粧し直されてゐた。そして、痩せてこそゐるが、人の好きさうな、小作りな顏に、素人らしい臆病さで媚びるやうに見開かれてゐる二つの眼には[#底本では「ば」、26-3]、何の邪惡の影も見えなかつた。火ぼこりをかぶつた髪、紅の曇つた唇、上着の間からのぞいた粗い襟足、よごれのついた更紗の上着、毛のすりきれた茶羅紗のスカアト――若い異性らしい魅力を喪つた、痛痛しいやうな、さうした姿と、自分の行爲に明ら樣になりきれない、部屋へはいつてからのぎごちない始終の樣子とを思ひ合せると、私は今まで女の上に描いてゐた不安な想像が少し馬鹿らしくなつて來た。が、それにしても隣の部屋に感じた人の氣配と、何處となく秘密を包んでゐるらしい女に對する疑念は霽れなかつた。
 「君は此處に一人で住んでるのかい?」と、私はさりげない調子で訊ねかけた。
 と、俯向いてゐた女はひよいと私を見上げたが、何となく不安らしい眼をしばだたきながら、返事にためらふ樣子だつた。
 「外に誰もゐないの?」
 「ええ。――私一人ですの……」と、女は底響のない聲で答へながら、俯向いた。
嘘だな――と、私は思つた。が、妙におどおどして落ちつかない女の樣子を見てゐると、強ひて問ひ詰めるのもためらはれるやうな氣持だつた。が、それだけにまた、何かある、何かある――と、さうした疑念が一そう深められずにはゐなかつた。
 「ほんとに一人?」と、聲を高めながら、私はまた云つた。
 「ええ……」女は曖昧に頷いた。
 「でも、さつき隣の部屋で誰かと話し合つてゐたぢやないか?」
 女はぎくりと肩先を顫[#底本では「顱」、27-6]はせた。が、俯向いたまま、何故か堅く唇を噛み締めてゐた。
 「何か隱してゐるね?」
 「いいぇ……」と、女は上眼遣ひに私を見上げた。おびえてゐるやうな視線だつた。そして、顏には血の色が消えてゐた。
 私は疑ひを深めながら、何故かだんだんに身ずくみして行くやうな女の姿を頭越しにぢつと見守つてゐた。そして、互に長い沈默を續け合つた。と、凝りついたやうに動かなかつた女は、やがて靜に顏を上げた。その眼は一杯に涙ぐんでゐた。
 「私はあなたのやうな方に初めて會ひました……」と、女は不意に云つた。
 「え?」
 「あなたは親切な人です。」
 私は返す詞もなく女を見詰めた。
 「いいえ、外の人はみんな直ぐに私の體を求めます。――あなたのやうな人はありません……」と、女は私の視線を遁れるやうに顏を反けて、聲を顫はせながら云つた。そして、暫くすると、突然机の面に身を投げ伏せて、啜り泣き始めた。
 私は浮びかかつた苦笑を苦苦しく噛み殺した。
 「一體、どうしたと云ふんだ?」と、たまり兼ねてとうとう立ち上つた私は、女の側に近附きながら訊ねかけた。
 女は力なげに身を起した。
 「ほんとは、ほんとは夫と、子供が二人……」と、女は涙ぐんだ眼で隣の部屋の方に眼くばせした。
 「ええ?――君の……」
 女は默つて頷いた。
 「どうして?――そして、君は……」と、私は息を彈ませた。
 女は答へ兼ねたやうに俯向いてしまつた。
 眞面《まとも》にびしりと何かを叩きつけられたやうな氣持だつた。私は隣の部屋の方を振り向き、女の姿を見詰めながら、不安と、困惑と、羞恥と、疑惑の中に立ち迷つてしまつた。
 「何故……」と、やがて云ひかけたが、私はその先を云ひためらつてしまつた。
 女は痛痛しい視線で私を見上げた。
 「夫は、夫は、肋膜炎に罹つてゐますの。――この夏の初めから……」と、女は聲を戰かせながら、絶望的な調子で云つた。
 密かな想像が其處へ動きかけてゐた。その途端だつた。で、今までのすべてをはつきりさせてしまふやうなその詞を聞かされた時、驚きに打たれると云ふよりも、騒いでゐた私の氣持はふと鎭まつた。そして、その鎭まつた氣持のままに、初めて我に返つたやうに、私は眼の前の女の姿をぢつと見詰めた。と、すべてを打ち明けて張り詰めてゐた氣持の綱が弛んだのか、女は俯向いたまままた啜り泣き始めた。
 「これも革命の悲慘な犧牲者の一人に違ひない……」と、私は心に思つた。そして、その啜り泣きの聲に惹きつけられながら、默つて膝に眼を伏せた。
 長い沈默が互の間に過ぎて行つた。
 「然し、御病人の樣子はどんななの?」と、私はやがて靜に訊ねかけた。
 「ええ、もう長くは持ちますまい。醫者にかける事が出來ないんですから。――それに第一、私達四人は昨日から何にも食べませんの……」と、女は啜り泣きをこらへながら、途切れ途切れに答へ返した。そして、暫く口を噤んだあと、急に身を顫はせながら※[#「くちへん」に「斗」、30-5]んだ。「これもみんなあのレエニンのためですよ。――あんな憎い、恐ろしい男はありません。」
 痛痛しい反抗の姿だつた。私は思はず顏を反けながら、ふつと溜息づいた。
 「然し、君達はどうしてこんな……」と、私はためらひながら云つた。
 「聞いて下さい。――みんなお話ししますから……」と、女は涙をぬぐつた。
 やがて女が語り出した話はかうだつた。――夫がペトログラアドの近衞騎兵聯隊の一等大尉だつた事、結婚して長女が生れると間もなく革命が起つた事、職を剥がれ、財産を沒收されて親子三人命からがらにペトログラアドを遁れた事、あらゆる困難を嘗めながら二年間シベリアを流浪して來た事、その間に長男が生れた事、ハルピンへ來てから一年半程になる事、食を得るための無理な勞働の故に夫が肋膜炎に罹つた事、夫の死が迫ると共に、子供達に十分の食事が與へられない事、二月程前から賣るべき何物もなくなつてしまつた事、そして、その合間合間に、女は力の限りの反抗心を燃え立たせながら、ソヴイエツト政府を憎み呪ひ、革命を恨み罵つてやまなかつた。
 「レエニンは惡魔です、獸物です……」と、我と我が涙に興奮しながら、女は幾度か繰り返した。そして、時には齒を噛み鳴らした。時には握つた拳で机の面を叩きつけた。
 時時身振で相槌打ちながら、興奮すればする程早口になり、處處聞きとれなくなる女の詞に、私は默つて耳を傾けてゐた。が、それは女の身の上が餘に悲慘に過ぎてゐるためだつたらうか、それとも何か意識外の理由が働くためだつたらうか、女の話が進んで行くにつれて、私の心は初めの感動を喪つて、何故かだんだんに冷えて行くのであつた。のみならず女の感傷が強まるにつれて、その詞の間に、誇張した、お芝居らしい、西洋婦人によく見る仕草が交へられるのに気附き自分の境遇の悲慘さを私に強ひようとし、わけても自分の生き方の止み難さを私に認めさせようとする意圖が露骨になり出して來た時、幽かな嫌厭の氣持さへ時時胸に迫つてくるのを、私はどうする事も出來ないのであつた。
 「私の身の上に同情して下さい、同情して下さい……」と、女は西洋婦人らしい率直さで、何度か私に訴へた。そしてその度毎に、「お氣の毒です、ほんとにお氣の毒です……」と繰り返さなければならなかつたが、その聲がだんだん空空しくなつて行くのに気附いた時、私は密かな痛みを心に感じない譯にはいかなかつた。
 一わたり話し終つた女は、やがて疲れたやうに沈默してしまつた。私もそのまま口を噤んで、ぢつと俯向いてゐた。と、もう三時は過ぎたに相違なかつた。小さな火鉢に僅かばかり燃やされた木片で暖まる譯もないがらんとした部屋の中は、凍るやうな戸外の夜氣と共に冷え渡つて、寒さがひしひしと身に迫つて來た。私は堪りかねて部屋の中をぐるりと見廻した。女を見詰めた。が、興奮のすつかりさめきつてしまつたらしい女は陰欝な表情を浮べたまま、身動きしようともしなかつた。一分、二分と、白けきつた沈默の時が移つた。そして、私は傷ましい悲劇の女主人公《ヒロイン》を[#底本では「の」、32-10]眼の前にしながら、ただ索漠たる氣持の中に陷るばかりだつた。
 「歸らう……」と、私は心に思つた。そして、ずかりと椅子から立ち上つた。と、女は彈かれたやうに顏を上げた。
 「まあ、どうなさるんです?」と、女は眼を見張りながら、私を見詰めた。
 「歸るんです……」云ひながら、私は二三歩踏み出した。
 「待つて下さい、待つて……」と、女は立ち上り樣に※[#「くちへん」に「斗」、33-1]んだ。
 私は立ち止まつて、女の方を振り返つた。と、女は變にぎらついた眼で私の側へ近寄りながら、ぐいと外套の袖を抑へた。私はそれを振り放した。そして、洋服の内がくしから二三枚の紙幣を抜き出すと、手掴みのまま女の前に差しつけた。が、女は受け取らうとはしなかつた。私はそれを床に手放したまま、つかつかと入口の扉の方へ歩きかけた。
 「いけません、いけません……」と、女はあわてたやうに追ひすがつた。そして、肩越しにいきなり私を抱き止めると生温かな吐息を頬に吐きかけながら引き戻さうとした。私は逆ひながら振り返つた。と、その刹那に私の眼にまざまざと映つたのは、ほの白んだ女の顏に、欲情に燃えながら輝いてゐた、まん丸い二つの眼であつた。
 「さよなら……」
 荒荒しく女の腕を振りほどいて、さう叫び殘すと、私は振り向きもせずに扉の外へ飛び出した。そして、二段、三段と、大股に階段を駈け降りながら、苦苦しさ一杯に、自分を踏みくちやにしたいやうな氣持で、私は心の中に呶鳴り續けてゐた。
 「馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め……」 



底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
2000年2月19日公開
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