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文藝作品の映畫化
南部修太郎
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最近、偶然に文藝作品の映畫化されたものをつゞけて三つ見た。ワイルドの「ウヰンダアミア夫人の扇」、ウエデキントの「春の眼覺め」、ロチの「氷島の漁夫」がそれだ。その中で「ウヰンダアミア夫人の扇」は原作とどうかうと云ふことは別問題として、流石にルビツチの監督したものだけあつて、映畫としても可成り面白く見た。然し、「春の眼覺め」は原作に非常に忠實であらうとする努力は見られたが、結局原作のパラフレエズになつてしまつて急所を突いた處がなく、映畫としては甚だ冗漫だつた。また、[#底本では読点ではなく句点になっている]「氷島の漁夫」は綺麗な映畫で撮影の苦心は大に感じられたが元來映畫化するのが無理な原作でずゐぶん苦しい映畫だ。あれを「氷島の漁夫」などと銘打たれては、作者生あらば抗議ぐらゐ申し出るに違ひない。
が、それはとにかく、文藝作品の映畫化は相變らず盛んらしい。これは文藝作品の――特に世界的な名篇傑作の撮影などと云へば、監督には勿論仕映えのある仕事だらうし、俳優達も進んで出演したがると云ふやうなこともあるからに違ひない。また一方にはそれで見物を樂に惹きつけようと云ふ映畫會社の興行政策も明にあるのだらう。日本にも繪書きの娘さんが女優になつたのがあるのとちよつと似てゐるが例のジヤン・ルノアアル監督の「ナナ」やヤニングス主演の「フアウスト」などの封切はもう近い内だらうしリリアン・ギツシユが「アンナ・カレンナ」に主演し、ロド・ラ・ロツタが「復活」のドミトリイを助演すると云ふのは映畫時代消息欄の受け賣りだが、日本でも岡田嘉子が「椿姫」に主演すると云ふし、「受難華」の映畫化が評判になつたのはつい先頃のことで、今更云ふまでもないことだ。
處で、これまでにも文藝作品の映畫化されたものは數知れない。が、私の見た限りでは感心したいのは殆ど無い。いや所謂文藝映畫と云へば寧ろ面白くないものと云ふ觀念さへ私には出來てしまつてゐる。文字で讀むべきものをスクリインの上に見る、そりや當り前の話だと思つてしまへばそれまでだが、原作の内容が出てゐるかゐないかは別問題にして、何しろ根本的な映畫としての面白味がいつも缺けてゐる。云ひ換へれば、文藝的内容と映畫的内容とが大概どつちつかずで、前者に片よつて原作に忠實であらうとすれば前に云つた「春の眼覺め」のそれになり、後者に片よつて映畫的に面白く行かうとすれば「氷島の漁夫」[#「氷島の漁夫」は底本では「永島の漁夫」と誤植]のそれになるのが所謂文藝映畫の極りきつた二つの型で、結局どつちに傾いてもそれは自殺することになるらしい。
滑稽なのは、いつだつたか「人形の家」を見たことがある。これは原作に忠實も忠實すぎて、あの三幕物を殆ど原作そのままの場面に撮影したもので、幸ひ私は内容的知識を持つてゐたからよかつたものの、それが無つたら[#「無つたら」はママ]結局何のことか分るまいと思はれる處の、スクリインの上では退窟至極なものだつた。またこれと正反對な對照をなして私の覺えてゐるのにダヌンチオの「犧牲」がある。何でもこの時は文藝映畫大會と云ふので、當時たしか三田の文科生だつた私は原作を讀み一種の興奮とともに見に行つたのだが、作の主人公が赤んぼに肺炎を起させようとして、吹雪の晩それを窓そとに突き出すあたりが僅に原作の面影を感じさせただけで、無理以上に無茶な脚色はまるで内容を捩ぢ曲げてしまひ、當時ちよつと私を惹きつけてゐたダヌンチオ一流の絢爛豐麗な文章に充ちてゐる「犧牲」の感じなぞまるでどこへやらだつた。尤も、流石にその頃とは脚色撮影ともに格段の進歩で、如何に文藝映畫でもこの頃はもうそんなものは無くなつた。そして、多くはあまり感心せず、また面白くないとは云つても、いつかの「毆られる彼奴」や今度の「ウヰンダアミ夫人の扇」などは、こまかくやかましく云へば原作と違つた點もあるし、原作以外なものを加へた處もあるが、先づ原作の文藝的内容もさほど喪はず捩ぢ曲げず、一方映畫的内容も面白く巧に按配して、所謂文藝映畫としては上乘のものと云へる。とにかくあれだけに行つてゐれば、原作そのものの内容は受け取れずとも、映畫的に面白いだけでも有難い。そして、それもつまりは優れた監督の手腕を得たからに違ひない。
普通の寫眞の中に藝術寫眞製作と云ふことがずつと以前からはやつてゐる。これは云ふまでもなく繪畫の持つ藝術的内容を眞似て寫眞の上に表現しようとするものだ。が、どう眞似ても、それが藝術的價値を持ち得ないのは自明の理であるのに、その二者の表現し得る内容に一脈相通ずるものがあるために、いや、殆ど兄弟に似たものがあるために、多くの寫眞家達はその製作に盛に誘惑され、その作品を藝術がつて得意としてゐる。處が、これと全く相似た誘惑がやつぱり文藝作品と映畫の間にも存在する。つまり二者の表現の手段は全く異つてゐ、從つて、その表現し得る境地にそれぞれ獨特なもの、或は得意不得意なものがあるにも拘らず、その表現し得る内容が甚だ似通つてゐ、時には同一でもあるために、文藝作品の内容を映畫の上に表現してみようとする誘惑が生じてくる。そして、根本的には、これが文藝作品の盛に映畫化される理由だと思ふが、その誘惑は結局どつちにとつてもあんまり有難くないことだ。云ひ換へればそれは殆んどすべての場合に文藝作品の冒涜であり、映畫の映畫的獨立性を妨げるものだからだ。
云つてみれば、前に擧げた「毆られる彼奴」や「ウヰンダアミヤ夫人の扇」が如何に面白く如何に感心出來たとは云へ、それは文藝的にも映畫的にも相互に妥協し合つた鑑賞の上でのことで、原作の側から嚴密に云へば無理な點や間違つた處もあつて、その内容がぴつたり表現されてゐるなどとは勿論云へないし、映畫そのものとして見れば原作にこだはつたための不徹底さや不自然さもずゐぶん感じられる。で、結局文藝作品の映畫化は十分の成功を納めることは可成りむづかしいし、その映畫的價値も自然乏しいものが多いのに違ひない。
そこで問題は映畫と文藝的内容との關係如何と云ふことになつてくるが、個々の原作などから離れて廣い意味の文藝的内容として考へれば、それは勿論映畫とは密接な關係がある。この頃の映畫の傾向から云へば、何等かの文藝的内容を持たないものは殆ど無いと云つていいくらゐだ。然し、文藝的内容と云つても映畫に向くものと向かないものとある。云ひ換へれば、その如何なるものを捉へるか、それを如何に映畫的に生かすかが根本であらう。その意味で、反映畫的な或は非映畫的な多岐多樣の文藝的内容を持つてゐる文藝作品などよりも、映畫的に作られ、且つ映畫的な文藝的内容を深く豐かに持つ處のシナリオに依ることが映畫の本道であることは云ふまでもない。
處で、そのよき文藝的内容を捉へながら、而も、それを映畫的に殆ど遺憾なく生かしたものと云へば、私はヤニングス主演の「最後の人」を今でも忘れ難く思ふ。とにかくあの映畫ではムルナウの監督による撮影技巧も全く申し分なかつた。またヤニングスその人の優れた演技ももとよりその成功の大部分をなしてゐた。そしてその二つによつてそれが一そう完全にされたのは云ふまでもないが、何しろ題材が實によかつた。それはたとへばチエエホフなどに使へば、例の涙と笑ひの内に巧みな心理描寫を以て好短篇をなすに違ひないやうな立派な文藝的内容も持つてゐた。いや、或はあの映畫の現し得てゐた處のものはさう云ふ場合のチエエホフの筆のそれよりも勝つてゐるくらゐだつたが、何れにしても映畫の内にあんな題材を取り入れて、而もそれをあれほど生かし得るものかと、私は寧ろ驚いた。この「最後の人」よりもずつと低調で、結末の意想が割につまらなくはあつたが、同じやうにちよつとした文藝内容を捉へて、それを映畫的にうまく生かしたものに「救ひを求むる人々」がある。これも私の見た内で好もしい映畫の一つだ。
さて「最後の人」や「救ひを求むる人々」はよき文藝的内容を捉へて、而もそれを映畫的にうまく生かしてある意味で、所謂文藝映畫などよりもずつと面白い、感じの深いものであるが、文藝的内容などには全くかかはり無しに、映畫の本領特質を遺憾なく發揮して、云ひ換へれば、映畫的内容の面白さで感心したのは、これも最近に見た「ホテル・イムペリアル」だ。あの映畫は内容はごく通俗的な軍事劇だ。どこにも打たれるとか動かされると云ふやうな點はない。然し、私がこれまでに見たものの中で、あれほど映畫的な映畫として巧に作られたものはない。筋も筋だが、その段取り、そのやま、その明暗、その背景の取り方、その光線の扱ひ方、人物の出し入れ、クロオズアツプやフラツシユバツクの用ゐ方、全く映畫的なもののすべてが活殺自在に少しの無駄もなくそこに操られてゐる。で、次から次へと加速度的に面白さや好奇的な感じが集積して、胸躍ると云つた工合に惹きつけられて行く。結局終つてしまへば「なんだい………」と思ふ程度のものだが、そして、後半はずつと前半に劣るが、とにかく見てゐてあんなに面白い映畫はまあ珍しい。云つてみれば、「最後の人」や「救ひを求むる人々」のやうなのも無論結構だが、生半可に文藝的内容なんぞにこだはらずに、映畫的にあすこまで徹底してもらへば「ホテル・イムペリアル」のやうなのも非常に面白い。そして、あれが寧ろほんとの映畫だと云ふ氣持もする。 (昭和二・三・三)
底本:「映畫時代五月號」文藝春秋社
1927(昭和2)年5月1日発行
入力:小林徹
校正:小林繁雄
2002年1月17日公開
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