青空文庫アーカイブ

大菩薩峠
市中騒動の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白根《しらね》

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(例)得意|想《おも》うべし

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(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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         一

 白根《しらね》入りをした宇津木兵馬は例の奈良田の湯本まで来て、そこへ泊ってその翌日、奈良王の宮の址《あと》と言われる辻で物凄い物を見ました。兵馬が歩みを留めたところに、人間の生首《なまくび》が二つ、竹の台に載せられてあったから驚かないわけにはゆきません。捨札《すてふだ》も無く、竹を組んだ三脚の上へ無雑作《むぞうさ》に置捨てられてあるが、百姓や樵夫《きこり》の首ではなくて、ともかくも武士の首でありました。
「これは何者の首で、いかなる罪があって斯様《かよう》なことになったものでござるな」
 通りかかった人に尋ねると、
「これは悪い奴でございます、甲府の御勤番衆《ごきんばんしゅう》の名を騙《かた》って、ここの望月様という旧家へ強請《ゆすり》に来たのでございます。望月様は古金銀がたくさんあると聞き込んで、それを嚇《おど》して捲き上げようとして来ましたが、悪いことはできないもので、ちょうどこの温泉に泊っていたお武士《さむらい》に見現わされて、こんな目に会ってしまいました。あんまり図々《ずうずう》しいから首はこうして晒《さら》して置けとそのお武士がおっしゃる、望月様もあんまり酷《ひど》い目に会わせられましたから、口惜しがって、その武士のお言付《いいつけ》通り、ここにこうして見せしめにして置くのでございます。今日で三日目でございます」
「して、その望月というのはいずれの家」
「あの森蔭から大きな冠木門《かぶきもん》が見えましょう、あれが望月様でございます、たいへんに大きなお家でございます。もしこの悪者の余類が押しかけて来ないものでもないと、このごろは用心が厳重で、若い者を集めて夜昼《よるひる》剣術の稽古をやったり鉄砲などを備えて置きますから、あなた様にもその心持でおいでにならないと危のうございますぞ」
 こんなことを話してくれましたから、兵馬は教えられた通りその望月家の門前へ走《は》せつけました。
 兵馬は望月家の門前へ立って案内を乞うと、なるほど広庭でもって若い者が大勢、剣術の稽古をして喚《おめ》き叫んでいました。
 胴ばかり着けて莚《むしろ》の上で勝負をながめていた若い者の頭分《かしらぶん》らしいのが出て来て、
「何の御用でござりまする」
「あの宮の辻と申すところに出ている梟首《さらしくび》のことに就いてお尋ね致しとうござるが」
「あ、あの梟首のことに就いて……そうでございますか、まあどうかこれへお掛けなすって」
 若い者の頭分は、そのことに就いて語ることを得意とするらしく、喜んで兵馬を母屋《おもや》の縁側へひくと、村の剣客連はその周囲へ集まって来ました。
「今からちょうど五日ほど前のことでございました。当家の望月様へ甲府の御勤番と言って立派な衣裳《なり》をしたお武士《さむらい》が二人、槍を立て家来を連れて乗込んで来ましたから、不意のことで当家でも驚きました。ちょうどそれにおめでたいことのある最中でございましたから、なおさら驚きました。けれども疎略には致すことができませんから、叮重《ていちょう》にお扱い申して御用の筋を伺うと、いよいよ驚いて慄《ふる》え上ってしまいました。その勤番のお侍衆の言うことには、当家には公儀へ内密に夥《おびただ》しい金銀が隠してあるということを承わってその検分に来た、さあ隠さずそれを出して了《しま》えば内済《ないさい》ですましてやるが、さもない時には重罪に行うという申渡しなんでございます。あんまり突然《だしぬけ》に無法な御検分でございますから、当家の老主人も若主人も、親類も組合も土地の口利《くちきき》もみんな呆気《あっけ》に取られてしまいました。尤《もっと》も当家には金銀が無いわけではございませぬ、金銀があるにはあるのでございます、他に類のない金銀が当家には蔵《しま》ってあるには違いございませんけれども、その蔵ってあるのはあるだけの由緒《いわれ》があって蔵ってあるので、決して公儀へ内密だとか、隠し立てを致すとか、そんなわけなのじゃございません、先祖代々金銀を貯えて置いてよろしいわけがあるんでございますから、まあそれからお聴き下さいまし……御存じでもございましょうが甲州は金の出るところなんでございます。金の出るのは国が上国《じょうこく》だからでございます。その金の出ますうちにもこの辺では雨畑山《あまはたやま》、保村山《ほむらやま》、鳥葛山《つづらやま》なんというのが昔から有名なのでございます。いまでも入ってごらんになれば、昔掘った金の坑《あな》の跡が、蛙の腸《はらわた》を拡げたように山の中へ幾筋も喰い込んでいまして、私共なんぞも雨降り揚句なんぞにそこへ行ってみると、奥の方から押し流された砂金を見つけ出して拾って来ることが度々ありまして、なにしろ金のことでございますから、それを取って貯めておくと一代のうちには畑の二枚や三枚は買えるのでございます。けれどもそれでは済まないと思って、拾った金はみんな当家へ持って来てお預けしておくのでございます。そうしますと当家では、年に幾度とお役人の検分がありまするたびにその金を献上し奉ると、お上《かみ》からいくらかずつのお金が下るという仕組みになっているのでございますよ。まあ話の順でございますからお聞き下さいまし、文武《もんむ》天皇即位の五年、対馬国《つしまのくに》より金を貢す、よって年号を大宝《たいほう》と改むということを国史略を読んだから私共は知っています。なにしろ金は天下の宝でございますから、私共が私しては済みませんので、今いう通り拾ったものまでみんな当家へ預けてお上へ差上げるようにしておりますくらいですから、当家でそれをクスネて置くなんていうことができるものではございません。当家にありまする金銀と申しますのは御先祖から伝わる由緒《ゆいしょ》ある古金銀で、山から出るのとは別なんでございます。その当家の御先祖というのは……当家の御先祖は権現様《ごんげんさま》よりずっと古いのでございます。このあたりから金を盛んに掘り出しましたのは武田信玄公の時代でございます。もっともその前に掘り出したものも少しはございましょうけれど、信玄公の時が一番盛んで甲州金というのはその時から名に出たものでございます。権現様の世になってからもずいぶん掘ったものでございますが、その金を掘る人足はみんなこの望月様におことわりを言わないと土地に入れなかったもので、信玄公時代からの古い書付に、金掘りの頭を申付け候間、何方《いずかた》より金掘り罷《まか》り越し候とも当家へ申しことわり掘り申すべく、この旨《むね》をそむく者あるにおいてはクセ事[#「クセ事」に傍点]なるべきものなりとあるんでございます。そのくらいの旧家でございますから、代々積み貯えた金銀がちっとやそっと有ったところで不思議はございますまい、古金の大判から甲州丸形の松木の印金《いんきん》、古金の一両判、山下の一両金、露《ろ》一両、古金二分、延金《のべがね》、慶長金、十匁、三朱、太鼓判《たいこばん》、竹流《たけなが》しなんといって、甲州金の見本が一通り当家の土蔵には納めてあるのでございます。それはなにも隠して置くんでもなんでもなく、お役人が後学のために見ておきたいとか、学者たちが参考のために調べたいとかいう時には、いつでも主人が出して見せているのでございます。ところが今度来たお役人は、大枚三千両とか五千両とかの金銀を隠して置くに相違あるまい、それを出さなければ重罪に行うと言うのでございましょう、飛んでもないことでございます、当家の主人がそんな金銀を隠して置くような人でないことは、私共はじめ村の者がみんな保証を致しまする。そんなことはございませんと言いわけをしますと、どうでございましょう、若主人を引きつれてあの宿屋へ行って拷問《ごうもん》にかけているのでございます。さあ三千両の金を出せば内済《ないさい》にしてやる、それを出さなければ甲府へ連れて行って磔刑《はりつけ》に行うと、こう言って夜通し責めているのでございますから、ちょうど婚礼最中の当家は上を下への大騒ぎで、村の大寄合いが始まってその相談の上、年寄たちが土産物を持って御機嫌伺いに行って、お願い下げにして来るということになりましたが、何の事に直ぐ追い帰されてしまって取附く島がございません。私共若い者たちは血の気が多うございますから、そんな没分暁《わからずや》の非義非道な役人は夜討ちをかけてやっつけてしまえと、勢揃《せいぞろ》いまでしてみましたが、年寄たちがまあまあと留めるものですから我慢をしていました、そうすると、いいあんばいにそこに立会ってきまりをつけてくれたのが一人のお武士《さむらい》でございます。そのお武士は御病身と見えまして、その前からこの温泉で湯治をなすっていたのでございます、身体も悪いようでございましたが眼が潰《つぶ》れておいでになりました」
「ナニ、目が潰れていた?」
 前口上はどうでもよろしいが、これだけは聞き洩らすまじきことです。この男の口から語られた机竜之助の挙動はこうでありました――
 擬《まが》い者《もの》の神尾主膳であった折助の権六を一槍《いっそう》の下《もと》に床柱へ縫いつけた時、主膳の同僚木村は怒り心頭より発して、刀を抜き放って竜之助に斬ってかかったが、脆《もろ》くもその刀を奪い取られて、あっというまに首を打ち落されてしまったから、一座は慄《ふる》え上ってしまいました。
 役人に附いて来た下人《げにん》どもは、もう手出しをする勇気もありませんでしたが、今まで役人どものなすところを歯咬《はが》みをして口惜しがっていた望月方の者でさえも、これには青くなってしまいました。口を利《き》いてくれることは有難いけれども、これではあんまりである、こんなにまでしてくれなくともよかったものを、後難が怖ろしいと、誰も役人の殺されたことを痛快に思うものはなくて、かえって竜之助の挙動《ふるまい》の惨酷《さんこく》なのに恨みを抱くくらいでした。
「飛んでもないことが出来た、仮りにもお役人をこんなことにして、さあこれからの難儀の程が怖ろしい」
 蒼くなって口を利く者もなく、手を出す者もなかったのを竜之助が察して、
「心配することはない、これはほんものの甲府勤番の神尾主膳ではない、偽《いつわ》り者である、その証拠には自分がほんものの神尾主膳への紹介状を持っているし、自分の友達はその神尾をよく知っている、これは近ごろ流行の浮浪の武士が、こんな狂言をして乗込んで金を盗《と》ろうとして来た者だ、それだから二人とも殺してしまった、以後の見せしめにこの首を梟《さら》し物《もの》にしてやるがよい、後難は更に憂《うれ》うるところはない、この二人が乗って来た乗物の中へ自分が乗って甲府へ行って、この責《せめ》は引受ける、村の人たちにはかかり合いはさせぬ」
と言って竜之助は、二人の偽役人《にせやくにん》が乗って来た乗物にお伴《とも》の連中をそのままにして乗り込んでしまいました。お伴の連中が狐を馬に乗せたような面《かお》をして竜之助を荷《にな》ってここを立って行ったのは昨日の朝。
 若い者の頭分は、それをいろいろな仕方話《しかたばなし》で竹刀《しない》で型をして見せたりなんかして、だいぶ芝居がかりで話しました。ことに竜之助が槍で突いた時の呼吸や、一刀の下に首を打放《ぶっぱな》した時の仕草《しぐさ》などを見て来たようにやって見せて、
「なにしろ強い人でございます、滅法界《めっぽうかい》もなく強い人でございます。あれから当家へおいでなすった時に、こうして私共が剣術をしているのを見て……ではない、その様子を聞いていまして、さあこうして拙者《わし》が立っているから打ち込んでごらんと、竹刀を片手にそこへ突立っておいでなさるところを、大勢して覘《ねら》って打ち込んでみましたけれども、どうしても身体へ触《さわ》ることができませんでした。眼が見えないであのくらいですから、眼が見えたらどのくらい強いんだかわかりません」
「その盲目《めくら》の武士《さむらい》という者こそ、永年拙者が尋ねている人」
 兵馬は一礼して、この家の門を出て行きました。

 望月の家を走《は》せ出した兵馬が、この村をあとにしてもと来た道。そこへちょうど通りかかったのは、空馬《からうま》を引いた、背に男の子を負《お》うた女。
「その馬はこれからどちらへ行きます」
「これから三里村を通って七面山《しちめんざん》の方へ参るのでござんす」
「はて、それでは少し方角が違うけれど、拙者はちと急ぎの用があって甲府まで帰らねばならぬ者、お見受け申すに、馬は空荷《からに》の様子、せめてあの丸山峠を越すまでその馬をお貸し下さらぬか」
 兵馬はその女の人に頼んでみました。
「お急ぎの御用とあらば……わたくしどもには少し廻りでござんすけれど、お貸し申してもよろしうございます、お乗りなさいませ」
 兵馬は、この婦人が快く承知をしてくれたのを嬉しく思いました。
 しかし、馬に乗りながら見るとこの婦人が、眼に涙を持っているのが不思議であります。

         二

 こうして宇津木兵馬は、またも甲府まで戻って来てみましたところが、机竜之助の乗物が神尾主膳の邸内へ入り込んだことは確かに突き止めたけれども、それから先どこへ行ったか、それともこの邸内に留まっているものだか、そこの見当が一向つきませんから、ぜひなく非常手段に出でて、夜分ひそかに神尾の邸内へ忍び込んでみようと思いました。
 三日目の晩は雨が降って風も少し吹いていたから、兵馬はそれを幸いに、城内の神尾が屋敷あたりまで密《ひそ》かに入り込んで夜の更《ふ》くるのを待ち、追手濠《おうてぼり》の櫓下《やぐらした》へ来て濠端の木蔭に身をひそませている時分に、思いがけなく、濠の中からムックと怪しい者が現われて来ました。片手には金箱《かねばこ》のようなものを抱え、覆面して脇差を一本差し、怪しいと兵馬が思う間に、その男は金箱を濠の端に置いて櫓の方へ、また取って返しました。
 まもなく櫓《やぐら》の下から、また一人の男、今度は金箱のようなものを背中に確《しか》と結びつけて、ムックリと出て来ました。それと同時に前に取って返した男、それもまたムックリと出て来て、濠の中へ引っぱった細引の縄を手繰《たぐ》り寄せ、その一端を前に置き放した金箱に結びつけて背中へ引背負《ひきしょ》って、二人は煙の如く消えてしまいました。
 そこには二重の怪しみがある。これはてっきり曲者《くせもの》と思うた怪しみと、もう一つは、その曲者二人とも見覚えのあるような形。先に出て来たのが背と言い恰好《かっこう》と言い七兵衛そっくり、あとから来たのは片腕が無いようであった。してみれば徳間《とくま》の山の中から拾って来たあのがんりき[#「がんりき」に傍点]という男でもあろうか。
 兵馬は実に不審に堪えませんでした。だいそれた甲府城内の御金蔵破り、いま眼《ま》のあたり見れば、それはドチラも自分の知った人、のみならず自分が世話になった人、つい幾日前まで同じ宿にいた人。あまりの不審に兵馬はあとを追いかけてみました。しかし、もうどこへ行ったか姿が見えません。
 これを二人の方にしてからが解《げ》せぬことであります。百蔵も江戸へ出て小商《こあきな》いでもして堅気になると言い、七兵衛もそれを賛成したのに、まだこの辺に滞《とどこお》っていて、ついにこんなだいそれたことをやり出すようになったのか、さりとは測りがたないなりゆきと言わねばならぬ。
 兵馬はそのことから、七兵衛なる者に対する疑点が深くなりました。もしも彼は表面あんなことにしていて、内実はこんな悪事を働いている人間ではなかったか知ら。そうだと知れば、少なくともその世話になったことのある自分にとっては一大事だ。人は見かけによらぬもの、恃《たの》みがたないものであるわいと、兵馬も茫然《ぼうぜん》として我を忘れていました。
 その時に、追手《おうて》の橋の方で提灯の光あまた。
「櫓下の御金蔵破り! 出合え、出合え」
 兵馬は気がつけば、危ないこと、自分も疑われるには充分な立場にいる。さてどちらへ避けたものと思って見廻したが、どちらにも提灯。はて迷惑なことが出来たわいと思いました。
 兵馬はぜひなく覆面を外《はず》して追手通りの方へ引返しました。無論のこと、そこには警固の侍、足軽がたくさんいる、その網にひっかかるは覚悟の上で、ひっかかった時は尋常に言いわけをしようと心をきめてやって来たが、果して、
「待て!」
 バラバラと兵馬を取捲いて来た警固の者。
「神妙に致せ」
 そこで兵馬は調べられてしまいました。
「今時分、何しにここへ来られた」
「ちと用事あって」
「何用があって」
「神尾主膳殿まで罷《まか》り越《こ》したく」
「神尾主膳殿方へ? して貴殿は何者」
「拙者は江戸麹町番町、旗本片柳伴次郎家中、宇津木兵馬と申す者」
「神尾殿とは御昵懇《ごじっこん》の間柄か」
「まだ御面会は致しませぬ」
「面識もないものが、この真夜中に人を訪ねるとは心得難し」
「大切の用向あるにより」
「大切の用向とは?」
「それは、御城内勤番衆二三の方にも知合いがあるにより、事情を述べれば委細明白のこと」
「その言いわけは暗い。他国の者、夜中《やちゅう》このあたりを徘徊《はいかい》致すは不審の至り、尋常に縄にかからっしゃい」
「縄に?」
「温和《おとな》しくお縄を頂戴致せ」
「縄にかかるような覚えはない」
「手向いさっしゃるか」
「なかなか。縄をいただくべき覚えなきにより、手向い致す心もござらぬ」
「言い逃れを致さんとするか、不敵者」
「これは理不尽《りふじん》な」
 兵馬の言いわけは聞き入れられませんでした。それで兵馬に縄をかけようと群《むら》がって来た時に、その中から分別ありげな武士《さむらい》が一人出て来ました。
「お見受け申すところ、お年若のようでもあるし、両刀の身分、且《かつ》は番町片柳殿の家中と申されるからには拙者にも多少の思い当りがござる、人違いして滅多なことがあってはよろしくあるまい。しかしながら、今宵の大変に出会いなされたが貴殿にとっての不仕合せ故、ともかくも尋常に奉行まで御同行下さるよう。委細の申し開きは奉行に逢ってなさるがよろしかろうと存ずる」
 こう穏《おだや》かに言われて、兵馬は大勢に囲《かこ》まれて勘定奉行《かんじょうぶぎょう》の役宅の方へ引かれて行ってしまいました。
 兵馬は勘定奉行の役宅へ預けられて、ほとんど牢屋同様のところでその夜を明かしました。夜は明けたけれども、兵馬の身の明《あか》りは立たなくなりました。
 盗賊の行方《ゆくえ》は一向わからない上に、彼らが忍び出でた痕跡《こんせき》のある濠端は、ちょうど兵馬が通りかかったと同じ方向でした。その上に、兵馬は神尾主膳を尋ねると言ったけれども、神尾は兵馬なるものをいっこう知らないと言うし、それはとにかく、兵馬が何故に夜分あんなところへ来合せたかということが、誰にとっても解けぬ不審でありました。すべてが兵馬に不利になってゆくから、気の毒にも兵馬は、獄に下されるよりほかに仕方のない羽目《はめ》に陥りました。

         三

 さるほどに道庵先生がまた飛び出して来ました。どこへ飛び出したかと言えば、貧窮組《ひんきゅうぐみ》の中へ飛び出して来ました。
 この貧窮組というものが、前に申すように、山崎町の太郎稲荷《たろういなり》から始まるには始まったが、このくらい不得要領な組合もなかったものです。幾百人の男女が市中を押廻って、町の角や辻々へ大釜を据《す》えて、町内の物持から米やお菜《かず》を貰って来て粥《かゆ》を炊《た》いて食い、食ってしまうと鬨《とき》の声を挙げて、また次の町内へ繰込んで貰って炊いて食い歩くのです。その仲間に入らないと受けが悪いから、相当の家の者共がみんないっぱしの貧窮人らしい面《つら》をして粥を食い歩く。食って歩くだけで別に乱暴するではない。大塩平八郎が出て来るでもなければ、トロツキーが指図をするわけでもない。ただわーっと騒いで歩くだけのことだから、道庵先生が出現するには恰好《かっこう》の舞台です。
 長者町の先生の家へ、町内の遊び人がやって来て、
「今日はわっしどもの町内でも、いよいよ貧窮組をこしらえますから、こちら様でもお仲間入りをして下さるか、そうでなければ、いくらか奉納を致してもらいてえんでございます。それができなければ、こっちにも覚悟があるんでございます」
と出ました。
 それを聞いたから道庵先生が、飛び上って喜びました。
「しめた」
 草履を逆さにして、遊び人をそっちのけにして駈け出してしまったわけです。
「ばかにしてやがら、貧窮組ならこっちが先達《せんだつ》だ、おれに断《ことわ》りなしに拵《こしら》えたのが不足なぐらいなもんだ、押しも押されもしねえ十八文だ、十八文の道庵は俺だ」
 ちょうど米友が柳原河岸へ行ってしまった時分に、道庵先生は昌平橋で大勢の貧窮組が粥を食っているところへ駈けつけました。
「さあ道庵が来たぞ、十八文の道庵は俺だ、見渡したところ、貧窮組の先達で俺の右へ出る奴はあるめえ」
 自分から名乗りを上げてしまいました。元より道庵先生はこの近所で人気があるのです。人気がある上に、ちょうどこういう舞台へ乗り出すにはうってつけの役者でしたから、一同がその名乗りを聞くと、やんやと言って喝采《かっさい》しました。道庵先生の得意|想《おも》うべしで、嬉し紛れに米俵を引いて来た大八車の上へ突立って演説をはじめてしまいました。
「さあ、皆の衆、俺は御存じの通り長者町の十八文だ、今度、皆の衆が貧窮[#「貧窮」は底本では「貧弱」]組をこしらえたというのは近頃よい心がけで俺も感心した、俺に沙汰無しで拵えたことがちっとばかり不足といえば不足だが、それは感心と差引いて埋合せておく。いったい物持というやつが癪にさわる、歩《ふ》が成金《なりきん》になったような面《つら》をしやがって、我々共が食うに困る時に、高い金を出して羅紗《らしゃ》なんぞを買い込みやがる。そこで皆の衆が物持から米や沢庵を持って来てウント喰い倒してやるというのは、天道様《てんとうさま》の思召《おぼしめ》しだ、実にいい心がけである、賛成!」
 煽《あお》ってしまったからたまらない。
「やんや」
「やんや」
 四方から喝采が起る。道庵先生、いかめしい咳払《せきばら》いをして、
「これから俺が先達になってやるから安心しろ。しかし俺は大塩平八郎ではねえから、危なくなれば逃げるよ。俺に逃げられたくねえと思ったら乱暴をするな、人の物を取るな、女をいじめるな、役人が来たら俺も逃げるからみんなも逃げろ」
「やんや」
「やんや」
「相対《あいたい》で物を貰って喰うには差支えねえ、人の物を盗《と》ったり乱暴をしたりすると、捉《つか》まって首を斬られる、首を斬られるのは俺もいやだがお前たちもいやだろう、だから乱暴をしてはいけねえ」
 この不得要領な貧窮組は、その夜は昌平橋際へ夜営をしてしまいました。このくらいの騒ぎだから役人の方へも聞えないはずはありません。けれども幕末の悲しさ、これを押えんために捕方《とりかた》が向って来る模様も見えませんでした。そうなってみると貧窮組の組織は、決してこの一カ所にとどまらないことです。
 江戸市中、至るところにこの貧窮組が出来てしまいました。道庵先生の如きは興味を以てこの貧窮組に賛成をしたけれども、貧窮組に馳せ参ずるもののすべてが、道庵先生の如き無邪気な煽動者《せんどうしゃ》ばかりではありません。と言って幸いなことに、大塩もトロツキーも出て来なかったから、それを天下国家の問題にまで持ち上げる豪傑は入って来ないで、小無頼漢のうちの抜目のないのがこれを利用することになりました。
 困ったのは道庵先生で、本業の医者をそっちのけにして貧窮組の太鼓を叩いて歩いています。因果なことに先生には、こんなことが飯よりも好きなので、ただ嬉しくてたまらないのです。嬉しまぎれに、一種の煽動者となってしまったけれど、時々穏健な説を唱えて、たいした乱暴を働かせまいと苦心しているのは感心なものです。
 この貧窮組が昌平橋に夜営している時分に、これより程遠からぬところに住居《すまい》している金貸しの忠作は、お絹と夕飯を食いながら、呟《つぶや》いて言うには、
「悪いことが流行《はや》り出した、ここは表通りではないけれど、そのうちには何か集めに来るだろう、その時は手厳《てきび》しく断わってやる」
 お絹はそれに対して、
「そんなことをして悪《にく》まれるといけないから、少しぐらい出してやった方がよいだろう」
「いけません、癖になるからいけません、あんな性質《たち》の悪い組合をお上が取締らないというのが手緩《てぬる》い」
 忠作は子供のくせに、このごろではもう前髪を落して、肩揚《かたあげ》の取れた着物を着て、いっぱしの大人ぶっています。
「でも、大勢に悪《にく》まれてはつまらない」
 お絹は気のない面《かお》をしていたが、忠作はいっこう撓《ひる》まずに、
「貧乏な奴は日頃の心がけが悪いんだ、有る時は有るに任せて使ってしまい、無くなると有る奴を嫉《そね》んで、あんな騒ぎを持ち上げる、あんなのを増長させた日には、真面目《まじめ》に稼《かせ》いでいる者が災難だ、わしは鐚一文《びたいちもん》もあんなのに出すのは御免だ」
「そんな一国《いっこく》なことを言って、大勢の威勢で打壊《ぶちこわ》しにでも会った日には、ちっとやそっとの金では埋合せがつかない」
「たとえ打壊しに逢ったからと言って、あんな筋の違ったやつらに物を出してやることはできません。あんなのが出来たために日済《ひなし》の寄りの悪いこと。いったい役人が何をぐずぐずしているんだろう、いちいち括《くく》り上げて牢へぶち込むなり、首を斬るなりしてしまえばいいのだ」
 こんなことを言っている時に、表の戸がガラリとあいて、
「へえ、御免下さいまし、町内でもいよいよ貧窮組をこしらえますから、お宅様でもどうか応分の御助力を願いたいもので」
 ドヤドヤ入って来たものがあります。
「それ、やって来た」
 忠作は苦い面《かお》をして玄関へ出て見ると、威勢のよい遊び人風をしたのが二三人先へ立って、あとは雑多の貧窮組。
「へえ、御存じの通り町内でも貧窮組をこしらえましたから、こちら様でも、どなたかおいで下さるように。もしお手少なでございましたら、幾分か費用の寄進についていただきたいものでございます」
 それを聞いた忠作は、
「せっかくでございますが、私共は無人《ぶにん》でございますから」
「それではどうか、思召しの寄進をお願い申します、この通り町内様でみんな賛成をしていただいたんでございますから」
 帳面を繰りひろげて、鰻屋《うなぎや》では米幾俵、薪炭屋《すみや》では店の品|幾駄《いくだ》というように、それぞれ寄進の金高と品物の数が記されたのを見せると、
「宅《うち》なんぞはこの通り裏の方へ引込んでおりまして、とても表通りのお歴々と同じようなお附合いは致し兼ねまする、どうかそれは御免なすって下さいまし」
「それでは、誰か貧窮組へ出ておくんなさるか」
「宅は女と子供ばかりで」
「やい、ふざけやがるな、貧窮組を何だと思ってるんだ、ぐずぐず吐《ぬか》すとこっちにも了簡《りょうけん》があるぞ」
「皆さんの方に了簡がおあんなさるなら、了簡通りになさいまし、宅では貧窮組なんぞへ入る人間は一人もございませんし、そんなところへ出すお金なんぞ鐚一文もございません」
「何だと、この若造! やい、みんな聞いたか、今のこの野郎の言草《いいぐさ》を聞いたか」
 威勢のいい兄《あに》いが片肌を脱いでしまいました。それに続いた面々がみな眼を三角にする。
「貧窮組なんぞへ入る人間は一人もねえんだとよ、そんなところへ出す銭は鐚一文《びたいちもん》もねえんだとよ、みなさん方に了簡がおありなさるなら了簡通りになさいましと吐《ぬか》したぜ。べらぼうめ、了簡通りにしなくってどうするものか、貧窮組を何だと思ってやがるんだ、憚《はばか》りながら貧窮組は貧乏人だ」
「ここの宅《うち》は、これで金貸しをしてやがるんだ、貧乏人泣かせの親玉はここの宅なんだ、いまのあのこましゃくれた若造が、あれで鬼みたような奴なんだ、主人はお妾上りだということだ、金持を欺《だま》して絞り上げたその金で、高利を貸して、今度は貧乏人の生血《いきち》を絞ろうというやつらなんだ、だから貧窮組が嫌いなんだろう、誰も貧乏の好きな者はねえけれども、時世時節《ときよじせつ》だから仕方がねえや、ばかにするない」
「貧乏人がどうしたと言うんだい、そりゃ銭金《ぜにかね》ずくでは敵《かな》わねえけれど頭数《あたまかず》で来い、憚りながらこの通り、メダカのお日待《ひまち》のように貧乏人がウヨウヨいるんだ、これがみんなピーピーしているからそれで貧乏人なんだ、金があるといってあんまり大きな面《つら》をするない、これだけの頭数はみんな貧乏人なんだ、逆さに振《ふる》ったって血も出ねえんだ、その貧乏人が組み合ったから貧窮組というんだ、貧乏でキュウキュウ言ってるからそれで貧窮組よ、ばかにするない」
 大勢の貧窮組が口々に悪態《あくたい》をつき出したけれど、忠作は意地っ張りで、
「何とおっしゃっても私共は、皆さんが貸せとおっしゃるから貸して上げるだけの商売でございます、なにも皆さんに筋の立たない金を差上げる由がございませんから」
 こう言い切って、玄関の戸をバタリと締めてしまって、中へ引込んだから納まらない。
「それ、打壊してしまえ」
 ついに貧窮組がこの家の打壊しをはじめました。
 貧窮組の一手は、ついに忠作の家をこわし始めました。火をつけると近所が危ないから火はつけないで、門、塀、家財道具を滅茶滅茶に叩き壊します。忠作は素早く奥の間に駈け込んで、証文や在金《ありがね》の類を詰め込んで用心していた葛籠《つづら》の始末にかかると、いつのまに入って来たか覆面《ふくめん》の大の男が二人、突立っていました。
 この大の男は、貧窮組とは非常に趣を異にして、その骨格の逞《たくま》しいところに、小倉《こくら》の袴に朱鞘《しゅざや》を横たえた風采が、不得要領の貧窮組に見らるべき人体《にんてい》ではありません。忠作が始末をしている葛籠のところへ来て、黙って忠作の細腕をムズと掴んで捻《ね》じ倒すと同時に、一人の男はその葛籠を軽々と背負って立ち上ります。
「どろぼう!」
 忠作が武者振《むしゃぶ》りつくのを一堪《ひとたま》りもなく蹴倒《けたお》す、蹴られて忠作は悶絶《もんぜつ》する、大の男二人は悠々《ゆうゆう》としてその葛籠を背負って裏手から姿を消す。
 貧窮組は表から盛んに叩きこわしていたが、いいかげん叩きこわしてしまうと、鬨《とき》の声を揚げて引上げました。
 もとより宿意あっての貧窮組ではないから二度まで盛り返して来ず、昌平橋へ行ってお粥《かゆ》を食っています。貧窮組はこのくらい、無邪気といえば無邪気なものだけれど、合点のゆかないのは朱鞘《しゅざや》を横たえた小倉袴の覆面の大の男。表で無邪気な貧窮組を騒がしておいて、金目の物を引浚《ひっさら》って裏から消えてしまうというのは、武士にあるまじき行いであります。
 この勢いで貧窮組は江戸の市中へ蔓延《まんえん》して、ついには貧窮組へ入らなければ人間でないようになってしまいました。男ばかりではない、女も入らなければならないようになりました。職人は職人同士、芸人は芸人同士で貧窮組を作らなければならない義務が出来て、まんいち貧窮組に加入していないことが知れようものなら、人間の仲間を外されて非人の仲間へ組入れられなければならなくなりました。そうして貧窮組はついに江戸市中を風靡《ふうび》してしまったけれど、その不得要領なことはいつまでたっても不得要領で、お粥を食って歩くこと、せいぜい忠作の家を叩き壊すくらいのところであったが、解《げ》せぬのはその貧窮組が騒いで行ったあとで、必ず貧窮組らしくない仕業《しわざ》が二つ三つは必ず残されていることです。この手段は前の忠作の家を荒した時と同じような手段で、表で貧窮組が騒いでいる時、裏で、前に見る通り、朱鞘を差した堂々たる武士が仕事をするのであります。
 その強奪《ごうだつ》の仕方があまりに大胆で大袈裟《おおげさ》で、しかも遮《さえぎ》る人があっても人命を殺《あや》めるようなことはなく、衣類や小道具などには眼もくれず、纏《まと》まった金だけを引浚《ひっさら》って悠々として出て行く。
 不得要領でどこまでも拡がってゆく貧窮組。それと脈絡があってこの強盗武士に要領を得さするものとすれば、貧窮組も決して不得要領ではないけれど、貧窮組にそんなアクドい根のないことは、その成立の動機が煙みたようなのでわかるし、そのなりゆきがお粥以上に出でないのでわかります。しからばその貧窮組を表にして、それとは全く没交渉《ぼっこうしょう》でありながら、巧《たく》みにそれをダシに使って大金を奪い歩く武士体《さむらいてい》の強盗は果して何者。そうしてその盗った金を何事に使用するのだろう。市中の大商人で、この朱鞘の武士の強奪に会ったものは無数であったけれども、後の祟《たた》りを怖れてそれを表立って申し出でない。申し出でても当時の幕府の威勢では、それを充分に取締るの力さえなかったものです。

         四

 徳川幕府の影が薄くなって、そのお膝元《ひざもと》でさえこの始末。
 貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と覚《おぼ》しき強盗が蔭へ廻って悪事を働き、なお火事場泥棒式の悪漢が出没するけれども、それを取締る捕方《とりかた》は出て来るという評判だけで、ちっとも出て来ません。
 人形町の唐物屋《とうぶつや》を貧窮組が叩き壊した時は、朝の十時頃から始めて家から土蔵まで粉のように叩き壊してしまいました。いくら多勢の力だからと言って、これは人間業とは思われませんでした。表の店の鉄の棒が、飴を捻《ねじ》るように捻切ってありました。それを捻切ったのは十五六の子供であったということ、それは天狗の子に相違ないということ、天狗の子供が先に立って、大勢の指図をして歩くのだというようなことが言い触らされました。
「天誅《てんちゅう》」の文字が江戸の市中にも流行《はや》り出して来て、市民を戦慄《せんりつ》させたのはそれから幾らもたたない時でありました。この「天誅」の文字は大和の「天誅組」から筋を引いたものかどうかわからないが、武士と武士との間に行わるるのみではなく、町人にまで及びます。ひそかに人の首を斬って、橋の上や辻々へ捨札《すてふだ》と共に掛けて置きます。市民の財産の危険はようやく生命の危険に脅《おびや》かされてきました。
 さても本所の鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋《さがみや》という夜鷹宿《よたかやど》へ、やっと落着いた米友は、お君から何かの便りがあるかと思って、前に両国の見世物を追い出された晩、お君と二人で宿を取った木賃宿へ行って様子を聞いて、まだ何も消息がないと聞いて失望して、帰りがけに、両国橋を渡りかかると、多くの人が橋の上に立っていますから、米友もなにげなく覗《のぞ》いて見ました。米友ではとても人の上から覗き込むことはできないから、人の腰の下から潜《もぐ》るようにして見ると、橋の欄干《らんかん》へ板札が結び付けてあります。米友は学者(お君に言わせれば)ですから直ぐにその板の文句を読むことができました。
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「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来|賄金《まひなひきん》を請ひ、府下の模様を内通致し、剰《あまつさ》へ婦人を貪り候段、不届至極につき、一夜天誅を加へ両国橋上に梟《さら》し候所、何者の仕業に候|哉《や》、取片附け候段、不届|且《かつ》不心得につき、必ず吟味を遂げ同罪に行ふべき者也。
    月  日[#地から3字上げ]報国有志
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此高札三日の内、取片附け候者|有之《これあら》ば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也」
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 米友はその文句を読んでしまったが、腑《ふ》に落ちないことがありました。
「この札はこりゃ誰が立てたんだ」
 米友は独言《ひとりごと》のように聞いてみましたけれど、誰も返事をするものがありません。
「この高札三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也てえのは穏かでねえ」
 米友が仔細《しさい》らしくこんなことを言い出したから、集まっていた人は、それを聞いて滑稽に思うよりは怖ろしく感じました。そうして何者がそんなことを言うかと思って、声の出たところをよく見ると、人の股《また》の間にモゴモゴしている米友でしたから、みんなプッと吹き出しました。
 米友にとっては笑われる自分よりも、笑うやつらの方がおかしい。単純な米友は、理由なきに冷笑されたことを不本意として、ムッとしてきました。
「何がおかしいんだい、俺《おい》らの言うことが何がおかしいんだい」
「若い衆、そう怒るもんじゃねえよ」
 米友がムキになったのをなだめたのは老人。
「こりゃ天誅組というやつなんだから、お役人でも始末にいかねえんだ」
「天誅組というのは何でございます、お爺さん」
 米友は老人の面《かお》を見上げる。
「天誅組というのは、このごろ流行《はや》り出した悪い貼紙《はりがみ》で、疱瘡神《ほうそうがみ》よりもっと剣呑《けんのん》な流行神《はやりがみ》だ」
「そんな剣呑な流行神を平気で眺めている奴の気が知れねえ」
 見物はまたドッと笑い出して、
「うむ、全く気が知れねえ、若い衆、お前なんとかひとつ、その流行神を始末してみねえな、人助けになるぜ」
「ばかにするない」
 米友が眼をクルクルして群集を見廻した、その面《かお》つきと身体《からだ》を見て群集はやはり笑わずにはいられません。高札《こうさつ》よりもこの方がよほど見栄《みば》えがあると思って、
「豪《えら》い!」
 拍手喝采してこの奇妙な小男の、本気になって憤慨するのを弥次《やじ》り立てて楽しもうとすると、米友はかえってそれらを相手にはしないで、欄干に結びつけてあった高札の縄目を解きにかかったから、
「おやおや」
 弥次連の面《かお》の色が変ります。
「おい、若い衆、小せえの、何をするんだい」
 慌《あわ》てて留めたのは老人。
「冗談《じょうだん》じゃねえ、煽《おだ》てに乗るも大概がいい、その高札へお前、指でも差そうものなら、大変なことになるぜ、引込んでいなせえ、いなせえ」
「ナニ、かまわねえ」
「三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきものなり――この字がお前にも読めたんだろう、天誅というのは首が飛ぶことなんだ、いいかい、この高札を動かそうものなら、お前の首がなくなるんだ、お前が遠からず首を斬られてしまうんだぜ」
「誰が俺らの首を斬りに来るんだ」
「天誅だよ、天誅だよ」
「天誅が首を斬りに来るのか。天誅というのは何だ、俺らはまだ天誅に首を斬られるような悪いことをした覚えはねえ」
 米友は留めてくれる老人の手を振り払って苦もなく高札の縄を解いてしまい、その高札を振り上げて橋の上から川の中へポンと投げ込んでしまいました。
「無茶なことをする奴だ」
 さすがの弥次馬《やじうま》も舌を振《ふる》ってしまいました。

 これが不思議な縁で米友は、その翌日から本所の相生町《あいおいちょう》の箱屋惣兵衛一家の留守番になってしまいました。それで鐘撞堂《かねつきどう》の相模屋から気軽くそこへ移ってしまいました。
 この縁は昨日の高札の一件からであります。米友が高札を川へ抛《ほう》り込んだために、町内からこの家の留守番を押《おっ》つけられたものです。
 米友もまた押つけられたことをかえって幸いにして箱惣《はこそう》の留守番を欣《よろこ》んで引受けてしまいました。
 米友が留守番を押つけられた箱惣の家は大きな家でした。けれども誰も一人も住んではいないのです、ガラあきです。ただの空家《あきや》と違って誰も留守居をし手[#「し手」に傍点]のない空家なのです。昨日、米友が投げ込んだ札の文句にも、「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金を請ひ、府下の模様を内通致し、剰へ婦人を貪り候段……」とある通り、浪士たちに悪《にく》まれてツイこの間の晩、首を斬られて、両国橋へ梟《さら》し物にかけられた惣兵衛の家です。その首が誰がどうしたか直ぐに片附けられてしまうと、その後へ立てられた高札がすなわち米友の川へ投げ込んだものであります。その後難《こうなん》の人身御供《ひとみごくう》の意味で留守居を押附けられ、米友は、主人の居間であった贅沢《ぜいたく》な一間でゴロリと横になっている。その傍には例によって槍が一本あります。
 何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は疚《やま》しいところがないと、ひとりで力《りき》んでいたけれど、二晩三晩というものは、サッパリ何も手答えがないから、米友も力瘤《ちからこぶ》が弛《ゆる》んできました。四晩目の晩、雨が降って鬱陶《うっとう》しいものだから、行灯《あんどん》の下で、やはり寝ころんで絵草紙を見ていました。
「今晩は――今晩は」
 二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、
「今晩は」
 返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。
「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」
「今晩は」
「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」
「あの、仕出し屋でございますが……」
 ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから入用《いりよう》はないと思って、
「弁当箱を取りに来たのかい」
「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」
「ナニ、俺《おい》らに一口上げてくれって? そんな人はいねえはずだが」
「どうかここをおあけなすって下さいまし」
「どうもおかしいな」
 米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた番傘《ばんがさ》を被《かぶ》って岡持《おかもち》を提げて立っています。
「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」
「町内の衆でございます」
「町内の誰だろう」
「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」
「俺らの方ではよくわからねえ」
 米友は一合の酒と鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を受取りました。仕出し屋の女は帰ってしまいます。米友は、またもとのところへ帰って、鰻の丼と一合の酒を前に置いて、しきりにそれをながめていました。一合の酒も飲んでみたくないことはない、鰻の丼も食慾を刺戟しないこともない、けれども町内の誰がよこしたんだか、それがわからないのが不足である。うっかり御馳走になっていいものだかどうだか……米友は一合の酒と鰻の丼を後生大事《ごしょうだいじ》に睨《にら》めていました。
 一合の酒と鰻の丼を睨めている米友。
「飲んでしまおうか、それとも飲まずにいた方がいいか、この鰻の丼も食ってしまえばそれまでだが、食わずに置いてみたところでそれまでだ」
 米友はいろいろに考えてみたが結局、この無名の贈り主から贈られた酒は一滴も飲まず、丼は一箸《ひとはし》も附けずにほっておく方がよろしいと覚悟をして、床の間の方へ持って行って飾って置きました。飾って置いてそれをやや遠くからまた暫らくながめていたが、
「こうして俺らに酒を飲ましておいて、酔ったところを見計らって計略にかけるつもりだとすると、そんな計略にひっかかっても詰らねえ」
 誰も米友を毒殺しようというほどの物好きもなかろうけれど、米友の方でとうとう一合の酒と鰻の丼を敬遠してしまって、それからまた本を見だしていると、
「今晩は」
 またも表で人の声、前と同じように女の声。
「誰だ」
「仕出し屋でございます」
「ちェッ、また仕出し屋か」
「まことに相済みませんが、先程のお丼と御酒《ごしゅ》は間違いました」
「ナニ、間違えたって?」
「御近所へ持って上るのを、つい間違えまして申しわけがございません」
「そんなことだろうと思った、俺らに御馳走してくれる奴はないはずなんだから」
 米友は跛足《びっこ》を引きながら、いま床の間へ飾って置いた一合の酒と丼、果して手を附けなかったことの幸いを感じて、それをそっくり持って来てやりました。仕出し屋の女中の方では、食われてしまってもこちらの粗忽《そこつ》だから文句のないところへ、米友が手を附けずに返してくれたのだから大へん喜びました。
「気をつけなくっちゃいけねえ、俺らだから手を附けなかったが、ほかの者なら食ってしまうんだ、俺らも実は食ってしまおうかどうしようかといろいろ考えたんだ」
「どうも相済みません」
 仕出し屋の女はきまりの悪い面《かお》をして、一合の酒と鰻の丼を持って急いで敷居を跨《また》いで外へ出ました。米友は一合の酒と鰻の丼の香《におい》ばかりで妙な面をして見送っていたが、表を二三間も歩いたと思われる仕出し屋の女中が、
「あれ――」
 ガチャン、ピシーンという音。それによって見ると、女中はその辺で転んで倒れて泥濘《ぬかるみ》の中へ、せっかくの一合の酒も鰻の丼もみんなブチまけてしまったようですから、米友は舌打ちをして、
「だから言わねえことじゃあねえや、そそっかしい女だなあ」
 潜《くぐ》り戸《ど》から面《かお》を出して、雨の降る暗いところで転んだ女中をたしなめようとする途端《とたん》、
「静かにしろ」
 その潜り戸から跳《おど》り込んだ二人、小倉の袴に朱鞘に覆面、背恰好《せいかっこう》とも、忠作の家で金目の葛籠《つづら》を奪って裏口から悠々と逃げた強盗武士そのままの男であります。
「さあ来やがった」
 覚悟の上。米友は不自由な足ながら傘《からかさ》のお化《ば》けのように後ろへ飛んで返って、以前の一間に置いてあった槍を手に取りました。
「待ってたんだ、両国橋の立札を川ん中へ抛り込んだのは俺らの仕業《しわざ》に違えねえ、さあ何とでもしてみろ、宇治山田の米友の槍を一本くらわせてやる」
 米友の槍は、これを侮《あなど》っても侮らなくても防ぐことはむずかしいものです。
「呀《あ》ッ」
 内へ転げないで外へ転げた覆面の浪士は、米友の一槍で太股《ふともも》のあたりをズブリと刺されたらしい。

         五

 せっかく金貸しを始めた忠作、あの夜の一騒ぎから滅茶滅茶になってしまって、お絹はどこへ行ったか行き方が知れないし、金目の物はことごとく奪われてしまいました。
「癪《しゃく》にさわる、あの貧窮組というやつが癪にさわる。それにあの浪人者。浪人者というやつがあっちにもこっちにもウロウロして事あれかしと覘《ねら》っていやがる。貧窮組というやつはワイワイ騒ぐだけだが、浪人者というやつは大ビラで強盗《ぬすっと》をして歩くようなものだ。こうして歩いているうちにはどこかで出会《でくわ》すだろう、出会したら後をつけて手証《てしょう》を押えて町奉行へ訴え出るんだ。こっちも意地だ、キット尻尾《しっぽ》を捉まえて見せる、おれの家から取って行ったものだけは、取り返さなくっておくものか」
 忠作は歯噛みをしながら、このごろでは毎夜、蕎麦屋《そばや》の荷物を担《かつ》いで、蕎麦は売ったり売らなかったりして、夜遅くまで市中を歩いて佐久間町の裏長屋へ帰ります。今宵は浅草方面から売り歩いて両国橋手前まで来ると、
「駕籠屋」
 闇の中から人の声。それに呼ばれて朦朧《もうろう》の辻駕籠《つじかご》が、
「へえ」
と言って振返った。とある家の用水桶の蔭に真黒な二人、両方とも長い刀を差しています。そこで駕籠屋を不意に呼びかけたから駕籠屋も驚いたようであったし、通りかかった忠作も少し驚きました。
「駕籠をこれへ持って参れ」
「どうもお気の毒さま、これから蔵前《くらまえ》のお得意まで行くんでございますから」
「黙れ! 黙って駕籠を持って来い」
 嚇《おどか》しておいて、長いのをスラリと引抜くのではなく、懐中から投げ出したのは若干の酒料《さかて》らしい。
 用水桶の蔭に隠れていた浪人|体《てい》の怪しの者は、背に引きかけていた一人を労《いたわ》って駕籠の中へ入れると、
「旦那、どこまで行くんでございます」
「黙って拙者の行くところまで行けばよい」
 駕籠|側《わき》に一人が附添うて無暗《むやみ》に走り出しました。
 それを見ていた忠作は、何と思ったか蕎麦屋の荷物を抛り出して、一目散《いちもくさん》に駕籠の跡を追いかけました。
 神田へ出て、日本橋を通って、丸の内へ入って、芝へ出て、愛宕下《あたごした》の通りをまだ真直ぐにどこまでともなく飛ばせる。ついに駕籠は芝の山内《さんない》へ入る。丸山の五重の塔、その五重の塔の姿が丸山の上に浮き立っているのを横目に睨《にら》んで、土塀だの、板塀の物見だの、長屋だの、いくつも廻って駕籠が飛んで行く。左右を見廻すと、やっぱり丸山の五重の塔。はてそれでは、あの塔のまわりをグルグル廻っているのかな。
 そう思っているうちに、大きな土塀つづきで、右の五重の塔と向き合ったところに堂々たる黒塗の大門がある。その堂々たる大門のなかへ駕籠はスッスッと入って行きました。
 何者の邸であろうか知らないが、入って行った者も武士の姿こそしているが、その仕業《しわざ》は武士ではない。この家から出てそういうことをさせるはずもなかろうし、外からそういうことをした者を内へ黙って入れるはずもなかろうと、忠作が思っていると、門番がいるのかいないのか知らないが、無事にスーッとその駕籠は門内へ納まってしまいました。
 あの駕籠が通れるくらいなら自分も通れるだろうと忠作も、続いて入り込もうとすると、
「コラ、誰かッ」
 雷《いかずち》のような一喝《いっかつ》。
「今のあのお乗物の……お乗物の」
「乗物がどうした」
「あれは当家の御家中のお侍でございますか」
「馬鹿!」
 頭から一喝した仁王のような門番が取って食いそうな権幕《けんまく》ですから、忠作は怖ろしくなって飛び出しながら、黒塗の堂々たる大門を見上げると、正面三カ所に轡《くつわ》の紋があります。
 この門をよく見直すと、左右に門番があって、屋根は銅葺《どうぶき》の破風造《はふづく》り、鬼瓦《おにがわら》の代りに撞木《しゅもく》のようなものが置いてあります。
 土塀を一周り廻った忠作が通りの町家で聞いてみると、これは薩州鹿児島の島津家の門だと知れました。
 鹿児島の島津家といえば九州第一の大大名。その門と邸の結構の堂々たることはさもあるべきことだが、わからないのはそこから強盗が出て町家を荒して歩くということです。あの二人の者はたしかに自分の家へ入った浪人|体《てい》の強盗。その一人はどうやら手傷を負うたらしい一味の者。
 それを無事に門内へ入れたところを見ると、これは疑うべくもなきこの邸内の人、そうしてみれば薩州の家来には、強盗を内職にしている者があるはずである。いかに乱世とは言いながら、大名の家来が強盗を内職にしているというのは、あるべきことではありません。
 その晩はそれで帰って翌日、忠作は神田佐久間町の裏長屋を引払って、この薩州の屋敷の傍へうつることにしました。幸い、三田の越後屋という蕎麦屋《そばや》に雇人の口があったから、すぐそこへ雇われました。忠作がこの蕎麦屋へ奉公して見ると、この界隈《かいわい》の物騒なことは、神田や本所のそれ以上でありました。越後屋は大きな蕎麦屋で、奥座敷などがいくつもあるが、その奥座敷はしばしば一癖ありげな侍に借り切られることがあります。忠作は算勘《さんかん》が利《き》いて才気があったから、出前持をせずに帳場へ坐らせられることになって三日目の晩、店へ現われた田舎者体の男と計らず面《かお》を見合わせて、
「おや、お前さんは……」
「お前さんは……」
 これは甲州の、徳間入《とくまいり》の川の中以来の会見であって、田舎者らしい男は七兵衛であります。

 七兵衛は奥座敷を一つ借り切って、そこで一人で飲んでいると、暫らくして忠作がやって来て一別以来の話になりました。
 お絹のことや、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことが出て、七兵衛はかなり忠作をからかっていたが、
「私の姪《めい》がこの蜂須賀《はちすか》様に御奉公をしているんで、それでこうしてやって来ましたよ」

         六

 七兵衛がここで姪と言うたのはお松のことであります。お松はこの時分、徳島藩の中屋敷へ奉公をしておりました。徳島藩の中屋敷は薩州の邸とは塀一つを隔てたところにあって、お松はそこに奉公してから日もまだ浅いけれども、目上にも朋輩《ほうばい》にも信用され可愛がられて、前に神尾の邸にいた時のような危ないことは更になし、まことに無事に暮しておりました。
 この際お松は、今までにない一つの縁談をほのめかされました。この話は至極《しごく》実直に持ちかけられ、そうして自分の身を落着けるには、決してためにならないところではないし、自分もまた身を落着けてから、見込んで世話した人の鑑識《めがね》を裏切るようなことはないつもりだと、自信はしているけれども、お松はどうしてもそれを承諾する気にはなれませんでした。
 断わるならば何と言って断わろうか知ら、それが一つの難題で、せっかくああ言ってくれる親切を無下《むげ》に断わってしまえば、おたがいに気まずくなって、また自分はこのお邸を出なければならないことになるかも知れぬ、そうなるとまた落着くところに迷うかも知れぬ。お松はその晩、散々《さんざん》にこのことを考えてしまいました。
 無事に暮らしていたけれども、兵馬のことを考えないわけにはゆきません。兵馬のことは忘れたことはないのに、幾度もそれを考え直さねばならなくなりました。
 深いようで浅い二人の縁、浅いようで深い二人の間、お松にはそれをどうしてよいのかわからない。兄妹のようにして永らく一緒にいたけれど、どうも物足りない。兵馬その人に不足はないけれど、自分よりは仇討の方をだいじがる兵馬が、お松にはどうしても物足りないのでした。
 と言って兵馬さんは、わたしを可愛がらないのではない、わたしをいちばん可愛がっているし、わたしもまた兵馬さんがいちばん可愛ゆいけれども、それだけでは頼りがない。わたしがここでほかへお嫁に行ってしまっても、兵馬さんは口惜しいとも悲しいとも思いはしないで、かえって祝って下さるでしょう、それでは詰らない。お嫁に行ってしまったのを、喜んでくれるような可愛がり方ではそれでは詰らない、とお松はそれを物足りなく思いました。駿河《するが》の清水港で別れてから、船と共に江戸へ着いたお松。船頭が徳島藩の出入りでここへ世話をされて来てから、兵馬の便りは一度、甲府からあっただけでした。七兵衛は二度ばかり訪ねてくれたけれども、いつも風のように来て風のように帰ってしまう。
 その度毎に手紙を書いて置いて、それを兵馬の手許《てもと》に届けてもらうことをお松は何よりの楽しみにしていました。近いうちまた七兵衛が来るはず、お松はこのごろ、部屋にさがると毎夜のように手紙を書くことばかり。今もいろいろと思い悩まされた揚句《あげく》が、その思いだけを紙にうつすことによって、その憂《うさ》を晴らそうとしました。
 お松は自分の今の生活が至極《しごく》平穏無事であること、御殿でも皆の人に可愛がられて昔のような心配は更にないこと、朝夕|朋輩衆《ほうばいしゅう》と笑いながら働いていることなどを細々《こまごま》と書きました。自分の身はそんなに無事幸福であるけれども、江戸市中は日に増し物騒になって行って、兇器《きょうき》を抜いた浪人者が横行したり、貧窮組が出来たり、この末世はどうなって行くことかと市民が心配していること、それゆえ滅多《めった》に外出はできないこと、附近に薩州を初め内藤家、久留米《くるめ》藩などの大きな屋敷があって、ことに隣りの薩州家などは浪人者がたくさんに出入りして、朝夕戦場のように見えることもあるけれど、こちらのお屋敷は静かであることなどを書きました。そうして幾度か読み直したりした上で、封をしてしまいました。
 それを枕元に置いてお松は床に就きましたが、兵馬のことを夢に見ました。夢に見た兵馬は嬉しい人であったが、やっぱり物足りない人でありました。
 翌朝起きて見ると、昨夜書いて机の上に載せて置いた自分の手紙の上に、それとは全く別の人の書いた一封の手紙が載せてあります。
「誰が置いて行ったのでしょう」
 お松はその手紙を取り上げて見ると、七兵衛の手蹟《しゅせき》でありました。
 封を切って読むと、
「兵馬様の身の上に変事が出来たから急に相談したい、少しばかり暇を願って、越後屋まで来るように」
とのことであります。
 お松は胸が潰《つぶ》れる思いがして、すぐさま朋輩に頼んで少しばかりの暇をこしらえて、越後屋の奥座敷へ訪ねてみますと、七兵衛が待っていました。
「突然にああ言ってやったから驚いたろう。困ったことが出来たというのは、兵馬さんが縛られて、甲府の牢へ入れられてしまったことだ」
「ええ、あの方が縛られて牢へ? それはいったい、どうしたわけでございます」
「そのわけにはなかなか入り組んだ仔細《しさい》があるのだが、人違いなのだ、人違いで捉まって、甲府の牢へ入れられている。運は悪く、悪いところへ通りかかったのが兵馬さんの因果、身の明りの立つまでは、ああして甲府の牢内に窮命《きゅうめい》しておいでなさらなくてはならねえ」
「どうしてそんな悪いところへ通りかかったのでございます」
「盗賊《どろぼう》だ、盗賊のかかり合いだ」
「盗賊! そんなことはありますまい、なんと間違って兵馬さんが盗賊なんぞと……そんな間違いのあるはずがございませんもの。伯父さん、早く心配して、兵馬さんの身の明りが立つようにして上げてください」
「それについて、俺も実に困ったのだ、とてもあたりまえのてだてで兵馬さんの明りを立てることはできないから、仕方がないからお前に相談に来たのよ」
「だって伯父さん、盗賊をしない者が盗賊の罪を被《き》るなんて、お役人だってわかりそうなもの、盗賊をするような人としない人とは一目見てわかりそうなもの、伯父さんが早く行って、兵馬さんはそんな人ではございませんと明りを立てておやりなされば、お役人が直ぐに御承知になりそうなものではございませんか」
「いや、役人も兵馬さんが盗賊するような人でないことはよく御存じなのだが、どうもちょうど、御金蔵へ盗賊が入った晩、兵馬さんがちゃんと身拵えをしていたのだから、どうしても、ほんものの盗賊が出て来るまでは、兵馬さんは赦《ゆる》されまいとこう思うのだ」
「そんなら早く、そのほんものの盗賊が捉まるように骨を折って上げてくださいまし」
「それはずいぶん骨を折るけれども、なにしろ悪いことをするような奴だから、どこにいて、いつ捉まるかわからねえ。それについてお松、お前に相談だが、俺がひとつ兵馬さんを牢内から盗み出して来るから、お前どこかへ兵馬さんを当分かくしてくれないか」
「ええ? 兵馬さんを御牢内から盗み出して来るって、伯父さんが?」
 お松は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、
「伯父さん、そんなことをしないで、お役人によく仔細《わけ》を話して、そうでなければほかにその道の人を頼んで、兵馬さんを助けるようにして上げてくださいまし、お上《かみ》の牢内から盗み出すなんて、そんな危ないことをしてはおたがいのためにならないではありませんか」
「それだ、なにしろ今の時勢はこんな時勢だから、真直ぐなことばかりは通らねえのだ、あたりまえのことをしていた日にはトテモ、急に兵馬さんを助け出すことはできねえのだ」
「困ったことでございますねえ、御牢内のおかかりよりも、もっと上のお役人を頼んでお願いをしてみたらどうでございましょう」
「そこに一つの当りがねえわけではねえのだ、実はあの方の係りが、お前の知っている神尾主膳様よ」
「神尾主膳様? あの伝馬町の、わたしの元の御主人様が……」
「いかにも。その神尾様がこちらを失敗《しくじ》ったものだから、甲府詰を仰付《おおせつ》かったのだ。お旗本で甲府詰になるのはよくよくで、もう二度と浮ぶ瀬がないようなものだ。それであの神尾様も甲府へ行って、自暴半分《やけはんぶん》になかなかよくないことをなさるそうだ」
「そんなら伯父さん、その神尾様が御牢内の方のお係りでありましたら、わたしがこれからあちらへ行ってお願い申してみましょう、兵馬さんは決してそんな悪いことをなさる人ではないということを、わたしから神尾の殿様によく申し上げて、お願い申してみましょう」
「それなんだ、お前も一旦の御主人であってみれば、お前から願ってみれば聞いて下さるかも知れぬ。と言って、あの殿様はなかなか性質《たち》のよくない殿様だ、お前がとりなしたために、かえってよけいな面倒が起りはしないかと、俺はそれを心配するよ」
「神尾の殿様だって、まるっきり物のおわかりにならないお方ではございませぬ、わたしが一生懸命になってお願いをしてみたら、きっとお聞入れ下さることと思います。もしそれでいけませんでしたら、伯父さんのおっしゃる通り、兵馬さんを盗み出すなりどうなりしたがようございましょう、そうなればわたしも覚悟をしますから、どんなにしても兵馬さんをお隠し申します」
「なるほど……しかし、お前も今は主人持ち、ここで甲府まで出かけるというわけにはゆくまいからな」
「行きますとも、甲府まででもどこまででも参りますとも、ほかのこととは違いますから、わたしはどんなにしても、こちらのお暇をいただいて甲府へ参ります」
「もし暇が出なかったらお前はどうする」
「お暇が出なければ……わたしはお邸を逃げ出してもよろしうございます」
「なるほど……」
 七兵衛が暫く考えていましたが、
「お前がそこまで了簡《りょうけん》をきめてくれたなら、俺はひとつお前を連れて甲府へ乗り込むことにしてみよう。素直《すなお》にお暇の出ないことは知れているから、今夜、わしが人目に立たぬようにお前のところへ迎いに行く、それまでに身の廻りの物を用意して待っているがいい。それからお邸の間取り、お前の部屋の案内を聞かしておいてもらいたい」
 そこで七兵衛はお松から、邸の内部の模様をややくわしく聞き取って、二人はこの店を別れました。

         七

 お松は七兵衛と別れて、越後屋の奥座敷を出て、薩州邸の長い土塀をグルリと廻って徳島藩の裏門を入りました。
 その晩、お松はいろいろの思いで手近のものを用意して、日が暮れるのを待ち兼ね、日が暮れると、夜の更《ふ》けるのを待ち兼ねていました。ほかの女中たちは、昼の疲れで早くから眠ってしまいました。お松は女中部屋の戸を細目にあけて待ち構えています。
 屋敷の庭には大きな池があって、池の向うには高い火の見櫓が立っています。お松が夜更けて七兵衛の合図を待つ時分に、この火の見櫓の上に二つの黒い影法師がありました。共に夜番や火の番の類《たぐい》ではなく、覆面をして両刀を差して一人は手に龕燈《がんどう》を携えていました。この二人の武士は相当に身分あるものらしく、櫓《やぐら》の上から、目の下に見ゆる薩州邸の内を仔細に見ていました。そうして一人の丈《たけ》の高い方が、矢立《やたて》と紙を取り出しては見取図を作っていました。
 お松はそこに人のあることは知らないで、一心に七兵衛の合図ばかりを待っていると、池の中へトボーンと礫《つぶて》の音。
 その音を聞いて、お松は立ち上りました。戸を細目にあけると、闇の中ながら、今どこからともなく落ちて来た礫が、池の水を動かして波紋がゆらゆらと汀《みぎわ》の水草の根を揺《ゆす》っているのを見て、お松は胸を轟《とどろ》かしながら四辺《あたり》を見廻しました。続いて第二の礫の音。
 この時、火の見櫓の上で見取図を作っていた丈の高い方が、
「今の音は?」
 聞きとがめると、
「池の中で魚が跳《は》ねたのでござろう」
 背の低い方が答える。
「魚の跳ねる音ではなかったようだ」
「と言うてこの夜中に――」
「ともかく、あの音は礫の音。ことによると、薩州の方で誰かここを認めた奴があるかも知れぬ」
「油断はなり申さぬ」
 薩州邸内の見取図を作っていた二人の武士は、櫓《やぐら》の上から前後左右を警戒すると、背の高いのが急に紙と筆を下へ投げ捨てるように差置いて、
「怪しい奴」
 手裏剣《しゅりけん》を抜いて発矢《はっし》と投げる。投げた方角は薩州邸の馬場から此邸《こちら》の隔ての塀あたり。低い方の武士は下に伏せてあった龕燈《がんどう》を手早く持ち直してその方角に突きつけると、池の上を飛ぶように汀《みぎわ》を走って女中部屋の方へ行く怪しの者。
 二人の武士は高いところにいたから、怪しい者の影を龕燈の光に照しては見たけれど、大きな声を揚げて屋敷の中を騒がすべく遠慮するところがあったものらしい。それで、
「怪しい奴」
「取逃がしたか」
と火の見櫓の上で面を見合せて、空しく下の闇を立って見ていると、池のほとりで、
「何者だ!」
「呀《あっ》!」
 ざんぶと水の中へ落ち込んだような物の音。
「出合え、出合え、いま女中部屋へ曲者《くせもの》が入った、早く出合え」
 ちょうどこの時、邸外を通り合せたのが白金《しろがね》に屯所《とんしょ》を置く荘内藩《しょうないはん》の巡邏隊《じゅんらたい》でした。短い槍と小銃を携《たずさ》えた四人の隊士が一人の伍長に率いられて、三田通りを巡邏してこの邸の外まで来た時に、邸内で曲者あり出合えという声を聞いたから、そこで五人が一時に立ちどまりました。
「御同役、何かこの邸内で変事がござったようじゃ」
「左様、何か物騒がしい」
 市中取締りが、この時分には町奉行の手だけでおさまりのつかなかったことは前に言う通りであったから、幕府は譜代の大名と五千石以上の旗本を択《えら》んで、それぞれ持場持場を定めて八百八街《はっぴゃくやまち》を巡邏させたのでありました。そうして、もっとも危険区域とされた三田の藩州附近、伊皿子《いさらご》、二本榎《にほんえのき》、猿町、白金辺を持場として割当てられたのが荘内藩であります。
 この荘内の巡邏隊は今、徳島藩邸内の騒ぎを聞いて、足を留めて中の様子を窺《うかが》っていると、脇門《わきもん》がギーッとあいて、そこから形を現わしたのが、以前火の見櫓で絵図面を取っていた覆面のふたり。
「さてこそ!」
 巡邏隊は短槍と小銃とを二人につきつける。
「これは巡邏隊の諸君か、お役目御苦労」
 中から出て来たふたりは、かえって心安げに言葉をかけたが、こっちは油断をしないで、
「名乗らっしゃい、我々は荘内藩の巡邏隊でござる」
「拙者は上《かみ》の山《やま》の金子六左衛門」
 大きいのが答えると、低い方のが、
「拙者は堤作右衛門」
 上の山の金子六左衛門は六左衛門で通る人でありました。六左衛門というよりも、その一名与三郎の方が通りがよかったこともあります。さきに新徴組が清川八郎を覘《ねら》う時、しばしばその金子の家で会合したことがあります。金子は新徴組の連中と交わりがよかったばかりでなく、そのころ聞えたる各藩士及び志士とはたいてい往来していました。その主張するところは幕府を佐《たす》けて尊王の志を成さんとするのであります。朝廷と幕府との間の調和をはかるがためには、非常に働いた人でありました。藩内では家老であり、その時代には一種の志士として畏敬《いけい》されていたのであったから、荘内藩の巡邏隊はそれを聞いて、やや意を安んずるところあって、
「これはこれは、上の山の金子殿でござったか、それとは知らず失礼を致しました。我々は白金屯所の荘内藩巡邏隊、拙者は伍長の斎藤角助と申す者」
と名乗りました。
 そこで斎藤角助は隊士に、槍と鉄砲を引かせ、
「この邸内が物騒がしいようでござるが……」
「いかにも。ただいま怪しい奴が忍び込んで、女を一人奪って逃げたと申すこと」
「女を奪って逃げた? それは聞捨てならぬこと」
「あの土塀を乗り越えて逃げたとやらだが、まだ遠くへは行くまいと思われる」
「諸君、追蒐《おっか》けて見給え」
 それはやり過ごしてしまって金子六左衛門は、先に立って歩きながら堤作右衛門を顧みて、
「一網打尽《いちもうだじん》にやってしまわねばいかぬわい」
という。堤はそれに答えて、
「いかにも。思いのほか念が入《い》った仕方でござるな」
「不届きなやつらじゃ、誰か大きな頭があって指図をしているのに違いない、中の様子はまるで要塞だ。いざと言えば幕府の兵を引受けて防戦する覚悟でいるから、まず謀叛《むほん》と見ても差支えない」
「お膝元を怖れぬ振舞《ふるまい》じゃ。もし大きな頭があって、その指図とあらば、このままに置くは幕府の威信にかかわる」
 六左衛門と作右衛門の話は徳島藩邸内で女が浚《さら》われたということとは全く別な話で、こうして二人は、三田通りの越後屋まで引上げて来ました。

         八

 この頃、また上野の山下へ一軒の変った床屋が出来ました。
 変ったといっても店の体裁《ていさい》や職人小僧の類《たぐい》、お客の扱いに別に変ったところはなく、「銀床《ぎんどこ》」という看板、鬢盥《びんだらい》、尻敷板《しりしきいた》、毛受《けうけ》、手水盥《ちょうずだらい》の類までべつだん世間並みの床屋と変ったことはない。ただ一つ変っているのは、この主人がてんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったことだけであります。
 どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。
 この床屋の店先で、
「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」
「何でございます」
「まあ、読むからお聞きなさいまし」
「聞きやしょう」
 懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、
「ようございますか、恐れながら売弘《うりひろ》めのため口上……」
「なるほど」
「此度《このたび》徳川の橋詰に店出《みせだし》仕り候|家餅《いへもち》と申すは、本家和歌山屋にて菊の千代と申弘《もうしひろ》め来り候も、此度相改め新製を加へ極《ごく》あめりかに仕立《したて》趣向|仕《つかまつ》り候処、これまで京都堺町にて売弘め候|牡丹餅《ぼたもち》も少し流行に後《おく》れ強慾に過ぎ候、三条通にて山の内餅をつき込み……」
「ははアなるほど、御養君の一件だね、誰がこしらえたかたいそうなものを拵《こしら》えたものだが、うっかりそんなものは読めねえ」
「ナニ、御威勢の盛んな時分ならこんなものを拵える奴もなかろう、拵えたって世間へ持って出せるものではねえが、何しろ今のような時勢だから、公方様《くぼうさま》の悪口でも何でもこうして版行《はんこう》になって出るんだ」
「それだってお前、滅多《めった》にそんな物を持って歩かねえがいいぜ、岡ッ引の耳にでも入ってみろ、ただでは済まされねえ」
「大丈夫だよ、何しろ公方様の御威勢はもう地に落ちたんだから、とてもおさまりはつかねえのだ、ああやって貧窮組が出来たり、浪人強盗が流行《はや》ったり、天誅《てんちゅう》が持ち上ったりしている世の中だ」
「悪い悪い、公方様の悪口なんぞを言っては悪いぞ」
「かまうものか、公方様も今時の公方様は、よっぽどエライ公方様が出なくちゃあ納まりがつかねえ、このお江戸の町の中で、お旗本よりもお国侍の方が鼻息が荒いんだから、もう公方様の天下も末だ」
「なんだと、この野郎」
「なんでもねえ、実地のところを言ってるんだ」
「野郎、ふざけたことを吐《ぬか》すな、このお膝元《ひざもと》で、永らく公方様の御恩になっていながら、公方様の悪口を言うなんて飛んでもねえ野郎だ」
 雑談が口論となり、口論が喧嘩になろうとするところへ、
「まあまあ、皆さん、お静かになさいまし」
 現われたのは、問題の片手のない中剃《なかぞ》りの上手な親方。
「憎い野郎だ、公方様の悪口なんぞを言やがって」
 一人は余憤勃々《よふんぼつぼつ》。それを銀床の親方はなだめて、
「少し酔っぱらってるようでございますね」
「太《ふて》え野郎だ、どうも眼つきがおかしいから、あんな奴が薩摩の廻し者なんだろう」
「ナニ、御酒《ごしゅ》のかげんでございますよ」
 親方がしきりになだめているところへ、
「これ神妙にしろ、いま公儀へ対して無礼の言を吐いたものは誰だ」
 ズカズカと茶袋《ちゃぶくろ》が一人入って来ました。入って来ると共に茶袋は、店前《みせさき》に落ちていた紙片を手早く拾い取って、威丈高《いたけだか》に店の者を睨《にら》みつけます。
 茶袋というのは、幕府がこのごろ募集しかけた歩兵のことで、筒袖《つつそで》を着て袴腰《はかまごし》のあるズボンを穿《は》いているからそれでそう言ったもので、あんまり良い人が集まらなかったから、多くは市中の破落戸《ならずもの》を集めたものであります。どうも仕方がないからこの破落戸を集めて、歩兵隊を組織して西洋流に訓練をさせていったが、本来破落戸であったのが急に茶袋を穿き、かりそめにも二本差すようになったから、これらの連中の威張り方といったらない。それで市民は茶袋茶袋といってゲジゲジのように思っていたものです。今も今とて、公方様の不敬問題で口論した揚句のところへこの茶袋がやって来たから、床の者はみんな悪い奴が来たなと思いました。
「公方様へ対して悪口を申し上げるなんて、そんなことは決してあるものじゃございません」
 腕のない親方が詫《わ》びをいう。
「黙れ黙れ、ここにいる客人のうちで、公方様の悪口を申し上げた奴がある、恐れ多くも今の公方様では納まりがつかぬ、浪人者の方が旗本よりもズット鼻息が荒いなどと、高声《こうせい》で噪《さわ》いでいたと知らせて来た者がある。誰がそのように無礼なことを申したか名乗って出ろ、これへ名乗って出ろ。名乗って出なければ店の者共を片っぱしから引括《ひっくく》る」
 どうも相手が悪い、と店の者は震え上りました。
「そんなわけではございません……実は」
 最後の口論の相手になった男、しかもそれは公方様を悪く言ったのではなく、公方様を悪く言ったのを憤慨した方が何か申しわけをしようとすると、
「貴様だろう、無礼者め!」
 茶袋は飛んで行ってその男の横面《よこつら》をピシリと打って、その手を逆に捻《ひね》り上げてしまいましたから、
「ア、これは、これは、滅相《めっそう》なことをなされますな、私は公方様の悪口なんて、そんなことを申し上げた覚えはございません」
「いや、貴様に違いない、お膝元に住居《すまい》致し、永らく徳川家の御恩を蒙《こうむ》りながら、公儀に対して悪口《あっこう》を申すとは言語道断《ごんごどうだん》な奴」
「いえいえ、私がなんでそのようなことを申しましょう、実は……私の方でそれをとめましたので、そんなことを言っては恐れ多いとそれをとめましたのでございますから……飛んでもない、私がそんなことを」
「こいつが、こいつが、自分の罪を人になすりつけようと致すか、いよいよ以て図々しい奴」
 茶袋はその口を捻《ね》じ上げました。それを見兼ねて片腕の親方が割って出で、
「これは歩兵様、まあお聞きなすって下さいまし、このお方は決して左様なことを申し上げたのではございません、実はこういうわけなんでございます」
「貴様は何だ」
「私はこの店の亭主でございまして、銀と申します、私が細かいことを存じておりますから、どうかお手をおゆるめなすって、一通りお聞きなすって下さいまし」
「貴様、知っているならナゼ最初から知ってると申さん、正直に言ってみろ」
「公方様の悪口を申し上げるほどのことではございません、ただ話の調子でございまして、ツイ威勢のいいことを申しましたのが、少しばかり声が高くなりましたので。それもこのお方ではございません、そんなことを申しましたお客様はたった今お帰りになってしまいましたので。このお客様なんぞは傍《わき》で聞いておりまして、そんなことを言ってはよくなかろうぜと気をつけて上げたくらいでございます。どう致しまして公方様の悪口なんて、私風情《わたしふぜい》がそんなことを申し上げようものなら口が曲ってしまいまする。この方はそれをお留め申しただけでございます、どうか御勘弁なすって下さいまし」
「ナニ、この男が悪口を申し上げたのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」
「それはただいまお帰りになりました」
「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」
「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」
「白々《しらじら》しい言いわけを申すな。どうも当節は、ややもすればお上の御威光を軽く見る奴があって奇怪《きっかい》じゃ、見せしめのために厳しくせんければならん。亭主、この上かれこれ申すと貴様も同罪だぞ」
「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」
「喧《やかま》しい、強《た》ってこいつが悪口を申し上げたことでないとならば、その本人をここへ連れて来い。その本人が出て、私が申しました、恐れ入りましたと白状した時に限ってこいつを許してやる」
「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお捕《つか》まえなさるのはあんまり御無理なことで……」
「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は退引《のっぴき》のならぬことじゃ。しかし、理非曲直が立たねば政道も立たぬ道理じゃ、歩兵隊は無理を言わぬという証拠にその証拠を見せてやる。これ見ろ、これはいま貴様の家の店前《みせさき》で拾ったものじゃ、さあこれを見たら文句はあるまい」
 突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ乍《なが》ら売弘《うりひろ》めの為の口上、家伝いゑもち、別製|煉《ねり》やうくん」と書いた、紛《まぎ》れもなく今の将軍家を誹謗《ひぼう》した刷物《すりもの》です。悪い奴に、悪い物を拾われました。
「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで罷《まか》り出ろ。あとのやつらは神妙に待っておれ、お差図があるまでここを動いてはならん」

 この危急存亡の秋《とき》に、天なる哉、命《めい》なる哉、ゆらりゆらりとこの店へ繰込《くりこ》んだものがありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。
「親方、これはどうしたというものだ」
 道庵先生はぬからぬ面《かお》。

         九

「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
 片腕のない髪結床《かみゆいどこ》の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面《かお》をして聞いていましたが、
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って苟且《かりそめ》にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
 道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、
「無礼な奴、控《ひか》えろ」
「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは嘘《うそ》にきまっていますよ、私が成り代ってこの通りお詫《わ》びを致しますから、今日のところはおおめに見てやっておくんなさんしょう」
 道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、
「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは猪口才《ちょこざい》だ。こっちには確かに訴え出でた人もあり、この通り証拠もある。なお申し開くことがあれば屯所へ出てから申せ、貴様も証人として出たくば引張ってやる」
 歩兵はうるさいから、道庵の胸倉《むなぐら》を取って嚇《おどか》すと、
「歩兵さん、歩兵さん、まあお待ちなさいまし、どうか穏かに話を致そうではございませんか。いったいあなた様方は、町奉行や酒井様などのような、古手といっては失敬だが、旧式のお役人と違って、こうして開けて来た西洋の新式の調練を受けておいでなさる歩兵さんでございましょう、それですから、モウ少し話がわかりそうなものでございますね」
と言って道庵は、自分の胸倉を取った歩兵の腕を逆に取り返しました。逆に取り返したと言っても、それを逆指《ぎゃくゆび》や片胸捕《かたむねと》りで鮮《あざや》かにとっちめて、大向うを唸《うな》らせるような芸当がこの先生にできるはずはないが、不思議なことに、荒っぽく道庵の胸倉を取った茶袋が、それを逆に取り返されると、甚だおとなしくその手を外《はず》して、
「うむ、そう言われればなるほどだ、我々は町奉行や新徴組のような融通の利かぬ者共とは違って、新式の調練を受けているものだ、高島流の砲術も江川流の測量も一切心得ている」
「左様でございましょうとも。人の胸倉を取るなんということは、みんな旧式の兵隊のすることでございます、歩兵さんに限ってそんなことはございません、やっぱり西洋流に、こうして握手ということをなさるんでございましょうね」
 歩兵が存外|温和《おとな》しく外した手を、道庵先生が握り締めると、
「ははあ、貴様はなかなか話せる、医者だけあって脈処《みゃくどころ》がうまいわい」
 茶袋は急にニコニコしてきました。
 今まで威張りくさっていた茶袋が、急に面《かお》を崩して、
「貴様は話せる」
と言って道庵と握手をして、
「よしよし、万事貴様に任せてやる、貴様からこの者共をよく説諭《せつゆ》してやるがよい、拙者も今日のところは特別の穏便《おんびん》を以て聞捨てにして遣《つか》わす」
「いや、どうも有難うございます」
 道庵は額を丁と拍《う》って、取って附けたようなお辞儀をした時分には、せっかく包みかけた道庵が危なく転げ出してきました。
「貴様は少々酔っているようだな」
「へえ、いつでも酔っぱらっているのでございます、町内では酔っぱらいで御厄介になっているのでございます」
 何かわからないことを言ってまたお辞儀をする。茶袋はその形をおかしがって渋面《じゅうめん》を作り、
「以来、気をつけろ」
と言って出て行ってしまいました。道庵先生の出る幕は、大抵のことが茶番になってしまいます。夫婦喧嘩でもなんでも、道庵ひとたび出づれば大抵は茶にして納まりをつける。それが時としては道庵の一徳であり、時としては道庵先生の人格を軽くする所以《ゆえん》となることもあります。しかしながらこの場の働きは、たしかに先生の器量を一段と上げてしまいました。なんとなればこれはお鍋や八公の夫婦喧嘩とは違って、相手が始末の悪い茶袋ときていたところへ、事は上様の不敬問題だから、屯所へ引張られた上は、まず生命は覚束《おぼつか》ないものと思わなければならない。それを道庵が出て易々《やすやす》と解決をつけてしまったから、今まで黒山のように人だかりしていた連中が、ここで一度に哄《どっ》と喝采《かっさい》しました。そうして口々に先生の器量を讃《ほ》める言葉を記してみるとこういうことになります。
「どうでげす、あの道庵さんは大したものじゃあございませんか、お前さんごらんなすったか、ああしていったん胸倉を取られたところを道庵さんが逆に取り返した、あすこが見物《みもの》なんでげす、あれがその、柔術《やわら》の方で逆指といって、左の指の甲の方からこうして掴《つか》んで、掌を上の方へこう向けて強くあげるんでげすな、そうするとそれ、指を取られた方は、騒げば騒ぐほどこっちがその拳を自分の方へ向けてこう曲げるものですから、指が折れてしまう。柔術取《やわらと》りの名人にああして指を取られてしまったが最後、もう動きがつくことじゃあございませんからな、それでさすがの茶袋も我《が》を折って降参してしまいました」
「さよですかな、あの先生がそんな柔術取りの名人とは今まで知らなかった、酔っぱらってひっくり返ってばかりいるから腰抜けかと思ったら、やっぱりそれじゃあ、なんでござんすかな、道庵先生は柔術の方もちゃあんと心得ているのでございますかな」
「そこがそれ、能ある鷹《たか》は爪を隠すと言うんで、先生、ああしてしらばっくれて酔っぱらっているけれど、武芸十八般ことごとく胸へ畳み込んでいるところを俺はちゃんと見て取った、その上にお医者さんで脈処《みゃくどころ》を心得ているから鬼に金棒でございますよ」
「なるほど。それにしてもおかしいのは、あの茶袋が道庵先生に手を取られると、痛いとも痒《かゆ》いともいう面《かお》をしないで、ニコニコと笑ったところがわかりませんな」
「いやそうではない、あの茶袋もあれで柔術にかけてはなかなかの取り手だが、何しろ道庵先生に会ってはその敵でないと、つまり自分に心得があるだけに、彼を知り己《おの》れを知るんでげすな、だから指を取られるとすぐに、お前は話せると言って莞爾《にっこり》と笑って、尋常に引上げたところがあれで味のあるところで、道庵さんが敵をとっちめながら、ペコペコお辞儀をして先を立てておく呼吸なんぞも、なかなか見上げたものでございますな、エライものでございます」
 輿論《よろん》は往々、土偶人形《でくにんぎょう》をも偉大なものに担《かつ》ぎ上げてしまいます。道庵先生もここで暫く輿論の勝利者となりました。
 そのあとで床屋の親方は、道庵先生を座敷へ招いて一口差上げ、
「先生、おかげさまで助かりました。いったいどうしたわけでござります」
「あははは」
 道庵先生は笑って、
「あれは二両取りという新手だ、あれで首尾よくとっちめてしまった」
「いや町内では、もう大変な評判で、さっきから入り代り立ち代りお礼にやって来ますが、なんでも先生が柔術の達人で、茶袋を手玉に取って投げたと言って騒いでいますが、その二両取りというのは、やはり柔術の手なんでございますかね」
「あはははは」
 道庵はいちだんと大口をあけて笑い、
「柔術《やわら》の手だとも、俺が新発明の柔術の新手だわい、尤《もっと》も古い型を少しは取り入れてあるんだがな、それを場合に当って器用に施《ほどこ》し用いたというのが拙者の働きさ」
「その型をひとつ、伝授を受けたいものでございますね」
「あはははは、いいとも、二両取りの型をひとつ話してやろう。まず最初に茶袋が、わしの胸倉を取った時、その手先を逆に取り返したわたしの働きを見たかい。あの時それ、そっと一両握らしてやった」
「なるほど」
「そうして利目《ききめ》のところを見ていると、グンニャリと来たから、こいつは手答えがあるわいと、それを下へ持って行って西洋流の握手をやる時にまた一両、それで都合《つごう》二両取り、わしの方から言えば二両取られだ、それでスッカリ柔術が利いてしまった。二両取りの新手というのは、つまりそれだけのものさ」
「なるほど、そんなことだろうと思って、私もあの時にお手の中を見ていました。私の方でその手を先に用いさえすれば何のことはなかったのでございますが、あの茶袋の言い分があんまり癪《しゃく》にさわるものでございますからツイ持前が出て、先生に落ちを取られてしまいました、申しわけのないことでございます」
「それはそうと親方、お前さんは何かこの道庵に内緒《ないしょ》の頼みがあると言いなすったから、それで俺《わし》はやって来たのだが、内密《ないしょ》の頼みというのはいったい何だね」
「そりゃ先生、ほんとうに内密なんでございますがね、本人も先生ならばというし、私共も先生をお見かけ申してお願いの筋があるんでございますがね」
「たいへん改まったね、この呑んだくれをまたいやに買い被ったね」
「全く先生をお見かけ申してお縋《すが》り申すんでございますから」
「気味が悪いな、そうお見かけ申して、見かけ倒しにされてしまってはたまらねえ、あんまりお縋り申されて引き倒されてもやりきれねえが、男と見込んで頼まれりゃ、おれも道庵だ、ずいぶん頼まれてみねえ限りもねえのさ」
「実は先生、人を一人預かっていただきたいんでございますがね。ただ預かっていただくんならどこでもよろしうございますが、暫らく隠して置いていただきたいんでございます。先生ならば預ける方も安心、預けられる方も安心なんでございますから」
「俺に人を隠匿《かくま》えというのか。そりゃ大方|謀叛人《むほんにん》とか兇状持《きょうじょうも》ちとか、碌《ろく》な奴じゃあるめえ。いくら男と見込んで頼まれても、そんなのを預かるのは御免蒙りてえが、それも事と品によっては、ずいぶん引受けてみねえ限りもねえのさ。まあ、どんな人間だか言ってみてごらん」
「先生、謀叛人とか兇状持ちとか、そんな物騒な人じゃございません、女の子でございます、女の子を一人、預かっていただきたいんでございますが」
 ここで片腕のない床屋の親方というのが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の変形であること申すまでもありません。道庵先生は、百蔵の口から何事か頼まれると、
「遠くの親類より、近くの他人ということもあるて」
と言って、飄々《ひょうひょう》とその床屋を出かけてしまいました。
 道庵がこの床を出て行くと、入れ違いに、
「少々ものを承りとうございます」
 小股《こまた》の切れ上った女が、小風呂敷を抱えて店前《みせさき》に立って、
「おや百蔵さん」
と言って驚きました。これは女軽業の棟梁《とうりょう》お角《かく》であります。

 それから百蔵がお角を連れて、山下の雁鍋《がんなべ》へ来て飲みながらの話、
「親方、おかげさまで全く助かりました、近いうち両国でまた一旗揚げる都合ですから、どうぞ御贔屓《ごひいき》を頼みます」
「それはまあよかった。甲府へ残して置いた連中もみんな、無事でいなすったかね」
「ええ、みんな無事でおりましたが、ただ一人だけどうしても見つからないんですよ。あれがわたしども一座の花形なんですが、火事場からどこへ行ったか、焼け死んだ様子もないから、どこかへ逃げたんだろうと、よく土地の人に頼んでおきました、広いところではありませんから、そのうちに見つかるだろうと思っていますよ。あれが見つかりさえすれば、一人も欠けずに面《かお》が揃いますけれど、そうでなくっても、近いうちに花々しくやってみる当りが附きましたのは、みんな親方のおかげでござんすよ。あの時に親方がいて下さらなければ、一座の者は目も当てられない醜態《ざま》になってしまうところでした」
「俺も少しばかりのお金が、お前さんのお役に立って嬉しいというものだ」
「それから親方、府中でお目にかかった時は、お前さんはたしか、百蔵さんとおっしゃいましたが、ここで銀造さんとおっしゃるのは、どういうわけでございます」
「百蔵の方は近ごろ通りが悪いから、それで銀造と変えたのだ、銀造というのが餓鬼《がき》の時分からの名前さ、これから百の方はやめにして銀の方だけにしてもらいたい。もう一つの頼みは、なるべく甲州ということを言ってもらいたくねえのだ、お前と俺との馴染《なじみ》もあの時限りのことにして、人が聞いたら、兄貴だとか親類だとか言って済ましておいてもらいてえのだ」
「ようございますとも。それはそうと親方、お前さんは、ほんとうにおかみさんがないのですか。あの時のお話では、おかみさんは三年前|亡《な》くなったようなお話でしたけれど、なんだかあてになりませんね」
「ナニ、嘘をつくものか、おかみさんなんぞはありゃしねえ」
「それがやっぱり嘘でございますよ」
「それじゃなにか、俺におかみさんがあるというのかね」
「ありますとも、大ありです」
「こいつは聞き物だね。無いものでも有ると言われりゃ悪い気持はしねえが、お前からそう言われると、どうやら痛くねえ腹を探られるようだ」
「申しわけをするだけ弱味があるんですね、隠したって駄目ですよ」
「驚いたね、ああして、男世帯の銀床《ぎんどこ》に無《ね》えものは女っ気と亭主の片腕だと、町内でこんな評判を立てられているところへ、お前だけが俺に濡衣《ぬれぎぬ》を着せようというものだ」
「そりゃいけません、ここの家に女っ気が有るか無いかということは、一目見れば直ぐにわかりますよ、女は細かいところへ気がつきますからね」
「それでは、俺の家に女がいるというのかね」
「そうですとも」
 こんなことから痴話《ちわ》が嵩《こう》じてゆきました。

         十

 その時分、根岸に住んでいたお絹が、今日は小女《こおんな》を連れて、どこの奥様かという風をして、山下を歩いて帰ります。
 雁鍋《がんなべ》の前へ来た時に、見たような人がその店から出かけたのに気がつきました。
 男と女と二人で微酔機嫌《ほろよいきげん》で店を出かけたうちの男の方が、東海道下りから甲州入りまで附纏《つきまと》って来たがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵に相違ないから、お絹は自分の面《かお》を隠そうとしました。
 しかし向うはちっとも気がつかないで、二人で笑いながら話し合って歩いて行きます。片腕の無い百蔵は前と変らず元気なもので、身なりなども小綺麗にしているのでした。女はと見れば、これは眉を落した年増《としま》でなかなか美《い》い女でした。
 お絹はそれを見ると、むらむらと嫉《ねた》ましくなりました。自分はなにもがんりき[#「がんりき」に傍点]に惚《ほ》れてはいない、東海道で附纏われた時も、内心では軽蔑《けいべつ》しながら調子を合せて来たが、男はなかなかしつこい。しつこいほど面白がって翻弄《ほんろう》気取りで一緒に来て、とうとう腕を一本落させることにしてしまって、死ぬか生きるかでウンウン唸《うな》っているのを、山の中へ置きばなしで逃げ出して、その時は、さすがに気の毒と思わないでもなかったが、思い出した時分には、柄にない男ぶりをしてわたしを張りにかかった、その罰はああしたものと腹の中で笑っているくらいでしたが、今その男がこうしてピンピンしている上に、他女《あだしおんな》と摺《す》れつもつれつして歩くところを見ると、お絹は自分勝手な嫉《ねた》みをはじめてしまいました。
「そういうわけなら、あの子をわたしが預かりましょうよ」
 それとも知らず、男女の話は甘ったるい。
「そんなことはできねえ」
 百蔵はわざとらしく首を振ります。
「そんなに、わたしという者に信用が置けないの」
「お前に預けて売物にでもされた日には、せっかくの生娘《きむすめ》が台無しだ」
「わたしはまた、お前さんが預かって食物《くいもの》にしやしないかと、それが心配だ」
「預かり物を食う奴があるものか」
「どうだかわかりゃしない、猫に鰹節《かつぶし》を預けたようなものだから」
「第一、おれに食われるような娘じゃねえ、お邸奉公を勤めていた娘で、堅いことこの上なしだ、友達の義理で退引《のっぴき》ならず預かってはみたものの、おれも実は心配なのだ」
「預けた方も心配でしょう」
「心配というのはそんなことじゃねえが、いつまでも俺のところへ置けねえわけがあるのだから、それで今日、よそへ預け換える約束をしてしまったのだ」
「どこへ預けようと言うの」
「どこでもいいじゃねえか」
「それを言わないと放さない」
 人目の薄いのをいいことにして、二人は肩と肩とを突き合せて、こんなことを話しながら行くのを、お絹はみんな聞いてしまって、この男も女も憎らしくなりました。よし、どこへ行くか、行く先を突きとめてやろうという気になりました。
「詰《つま》らなく嫉《や》かれるのも嫌だから言ってしまおう、長者町の道庵という剽軽《ひょうきん》なお医者さんへ預けることにしてしまったんだ」
「長者町の道庵さん?」
 こう言って男女が山下の銀床《ぎんどこ》という床屋へ入るのまで、お絹はちゃんと見届けてしまいました。
 根岸の住居《すまい》へ帰ってからお絹は、異様の嫉《ねた》ましさで悩まされました。惚れてもいない男だが、ああなってみると、なんだか仕返しをしてやらなければ納まらなくなりました。
 と言って、自分が男をこしらえて見せつけてやるほどのことではない。なんとかして、いったん自分の方に向いていた男の心を、もう一ぺん向き直させなければ女の面目が立たないように思いました。一緒に歩いていた女は、ありゃ女房だろうか妾だろうかと、よけいな詮索《せんさく》までしてみたくなりました。いったいあの男が、徳間《とくま》の山の中で抛《ほう》り放しにして置かれてあったのを助かって出て来たのが不思議、誰が助けて来たのだろう、ことによったら山の中へあの女が通りかかって介抱した、それからの腐れ縁じゃないか知らなどとも考えてみました。それはそれにしてもあの女……
「ああ、そうだ」
 とうとう思い当ってお絹は小膝《こひざ》を丁と打ちました。あの女はたしか忠作のところへ金を借りに来たことのある女である。そうだそうだ、甲州へ旅興行に出る仕込みのためといって、五十両の融通を人を中に立てて借りて行ったのはあの女に違いない。そんならばことによると、自分が持って来た品物の中に、あの書付が残っているかも知れぬ。お絹は葛籠《つづら》をあけて証文箱を取り出しました。
 忠作と別れる前から、お絹は末の見込みのないことを知って、自分の物は廻しておきました。大切の証文も幾通りか逸早《いちはや》く取纏《とりまと》めて持って出ました。
「有った有った、これに違いない」
と皺《しわ》をのばした一通の証文は、一金五十両也と書いて、女軽業太夫元かくという名前にしてあったから、それであの女が軽業師の興行人であり、その名をかく[#「かく」に傍点]ということまでお絹は知ることができました。こうなってみると、お絹はそれやこれやを種に、二人をいじめつけてやらなければ納まりません。
 その晩は寝ながらも、この仕組みのことばかり考えていました。
 先刻、耳に入れた話、何か預かり物の一件、生娘《きむすめ》だとかお邸奉公だとか言っていたが、あれは何、それを種に使えまいか。そうして店へ入る時に言ったのは、長者町の道庵という剽軽《ひょうきん》な医者へ預けることにしたという言葉。
「よしよし、道庵が入るならば芝居が栄《は》える」
 その翌日、お絹は十二分の好奇心を以て長者町の道庵先生を訪れました。
「先生、今日伺ったのはほかのことではございませんが、先生の身の上にありそうもない噂《うわさ》を聞きましたから、それで念のためにお聞き申しに上りました」
「ははあ、モウあれを聞かれてしまったか、それはそれは」
と言って、道庵はきまりの悪いような面《かお》をします。
「先生にもお似合いなさらぬことで……」
と、お絹はなんだか意味のありそうに言うと、道庵は恐縮して、
「ツイどうも、あんなことになってしまって甚だ申しわけがない、わしも面白半分で出かけて行って見ると、ワイワイ騒いでお粥《かゆ》を食っている様子があんまりいいもんだから、ツイ大八車の上へ乗っかってよけいなことを喋《しゃべ》ってしまうと、みんながまた馬鹿に嬉しがって、やんややんやと讃《ほ》めるから少しばかり調子に乗ってしまってるうちに、騒ぎがだんだん大きくなるので、こいつはたまらねえと、逃げ出すのも面倒だから車の上へグウグウ寝込んでしまったようなわけで。それをどう間違えたか道庵が煽《おだ》てたのだ、貧窮組を持ち上げたのは道庵の仕業《しわざ》だ、それでお前の家を荒したのも道庵が指図をしたんだなんて、よけいなことを言い触らす奴があったものだから、危なくお上の手にかかってこの腕が後ろへ廻るところを、それでも永年、道庵で売り込んでいるだけに、役人の方で取り上げずに、道庵か、道庵ならば道庵でよろしい、テナことになって無罪放免で済んだが、年甲斐もなくばかなことをしたものだよ、全く以て申しわけがない」
「先生、そんなことではありません、わたしの聞いた噂というのは別なことですよ」
「はて、そのほかには、別に人に聞かれて後暗《うしろぐれ》えようなことをした覚えはねえのだが」
「先生が奥様をお迎え申すようになったと聞いて、お祝いに参りました」
「おやおや、わしが奥様を迎えることになったって? そりゃ初耳だ。そうしてそりゃ、どこから来るんだい」
「先生、恍《とぼ》けちゃいけません、それだからワザワザお聞き申しに来たのですよ」
「そりゃ、おれの方からもお聞き申したいところだ、ほかのことと違ってこんなめでたいことはない、どこから、どんなのが来るんだか早く聞かせてもらいたい」
「先生が言わなければ、わたしの方で言ってみましょうか」
「ぜひ、そういうことにしてもらいたい、同じ値ならば若くって綺麗《きれい》な方にしてもらいたいが、こう年をとって飲んだくれの俺だから、とてもそんな贅沢《ぜいたく》なことは言えねえ、万事お前さんの方に任せる」
「ところが、若くって綺麗なのだから不思議ですね、その上にお邸奉公までつとめて、遊芸の嗜《たしな》みもあれば礼儀作法も心得ているというのだから、どうしたってこれは先生に奢《おご》らせなければなりません」
「奢る! そうなれば道庵もこうして踏み倒されてばかりはいねえ。そうしてなにかい、親許《おやもと》はいったいどこで、いつ来てくれるんだろう」
「親許は上野の山下で、もう結納《ゆいのう》のとりかわせも済んで、近々のうちにお輿入《こしい》れがあるそうじゃありませんか」
「親許は上野の山下だって? そうしてそれは武家か町人か、ただしまた慈姑仲間《くわいなかま》が親許か、その辺も確かめておきたい」
「山下の銀床という床屋が親許で、近いうちに道庵先生のお邸へ乗組むということを、人の噂でチラリと聞きました」
「ハハア、なるほど」
 それと聞いて道庵先生が初めて気がつきました。この女どこから聞き出して来たか、もうあの娘のことを知っている、そうしてワザとこんなふうに綾《あや》をかけて持ち出したのだなと思いました。
 それと共に道庵がフト考えついたのは、この女もずいぶん腑《ふ》に落ちないところはあるけれども、立入って人の世話をしてみたがったり、ぞんがい人を調戯《からか》ってみたりするところに、いくらか道庵と共通のところがあって心安くしているから、女は女同士で、いっそ、この女に頼んだらどうだろうかと、道庵は道庵なりに見当をつけた事件がありました。
「ははあ、あの娘のことか。どこから聞いて来たか知らねえが、お前さんにそう言われると、ははあなるほどというほかはないのだ。実は俺もその用談を持ちかけられて始末に困ったようなわけだが、いかがでございましょう、お前さんの方でなんとかお考えがございましょうか」
 道庵はこう言ってお絹に相談を持ちかけてみると、お絹は二つ返事でその娘を預かろうと言い出しました。
 道庵はそれでホッと息をついて、お絹を信用して百蔵から頼まれた娘をそっくりその方へ廻すことにしてしまいました。
 娘を預けようとする道庵も無論、その娘がお松であるとは知らず、それを預かろうとするお絹ももとより、それはいったん自分の手塩にかけたお松であろうとは思いも及ばず、道庵は頼まれてみたものの小面倒であるから、そのままお絹に引渡そうとし、お絹はただ、がんりき[#「がんりき」に傍点]とお角の間に何か仕返しをしてやろうという、いたずら心で進んでそれを引取ろうと言い出したものです。
 こう話が纏《まと》まって、お絹が道庵宅を辞して出ようとする時に、玄関で、
「御免下さいまし」
 薬籠持《やくろうもち》の国公がその応接に出てみると、
「山下の銀床から参りました……」
 その声は聞覚えのある声、すなわちがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の声でした。
 道庵は自身で玄関へ立ち出でて見ると、そこに駕籠を釣らせて来たのは、銀床の亭主、まごう方《かた》なきもとのがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵で、
「これは先生、かねてお願い申したのをただいま連れて参りました、なにぶんよろしく」
 次の間で隙見《すきみ》をしていたお絹が、
「おや!」
と言って驚いたのは、手を取って駕籠から助け出したそれは、自分が手塩にかけたお松の姿であったからであります。
 次の間で隙見をしていたお絹が驚いたばかりでなく、迎えに出た道庵もまた驚きました。お松にとっては道庵は再生の恩人であり、伊勢参りをした時に大湊《おおみなと》で会って奇遇を喜んだこともありました。これはこれはと言って道庵もお松も直ぐ打解けた。事情を聞いて、連れて来たがんりき[#「がんりき」に傍点]も喜んで、なおいろいろとお頼み申した上に無事に帰ってしまいました。
「お松ではないか」
 お松はその声を聞いて、水をかけられたような心持がしました。そこに立っているのは、姿こそ今は丸髷《まるまげ》の奥様風になっているが、もと自分を仕立ててくれたともかくも恩人でありましたから、
「まあ、お師匠さん」
 頓《とみ》には二の句がつげませんでした。
「珍らしいところで会ったね」
「どうも御無沙汰《ごぶさた》を致して済みませぬ」
「見ればお前はどこぞお邸奉公でもしておいでのようだが、どこに勤めていました」
「はい、三田の蜂須賀様のお邸に」
「どうしてお前、あの神尾様のお邸を出てしまったの」
「つい、よんどころないことが出来まして、それ故まことに……」
「人もあろうに、風呂番の与太郎とやらいう足りない男と逃げたというじゃないか」
「どうも申しわけがありません」
「お前があんな不始末をしてくれたおかげで、わたしは殿様の前へ、どんなに辛《つら》い思いをしたか知れやしない。ほんとに考えなしなことをしてくれたね」
「何卒おゆるし下さいまし」
「出来てしまったことは仕方がないが、もうその与太郎という風呂番とは手が切れてしまったのかい」
 お絹が与太郎与太郎というのは与八のことですけれど、お絹の口ぶりによれば、お松と与八と逃げたのは不義をして逃げたもの、お松がその風呂番に嗾《そその》かされて逃げたものと思い込んでいるらしいから、お松は、
「あの人が、よく親切にしてくれましたけれど、わたしが上方《かみがた》へやられたものですから……」
「何が親切なんだろう、色恋にも名聞《みょうもん》というものがあるのに、風呂番と逃げたんでは話にもなにもなりゃしない。ほんとうにわたしは、あの時ぐらい情けなく思ったことはありません」
「そういうわけではございませぬ」
「それからお前、上方へも行っていたそうな。一度ぐらいわたしのところへ便りをしてくれてもよかりそうなもの」
「そのつもりでおりましても、つい、いろいろの目に遭ったものでございますから」
「こっちへ来てそんなに御奉公するまでに、なぜわたしを訪ねてくれなかったの」
「まだこっちへ参りまして僅かでございますから、ツイ御無沙汰を」
 お松は畳みかけて叱られるのを苦しい受太刀《うけだち》をしていたが、お絹はあんまり深く追及しないで、
「過ぎ去ったことは仕方がないから、これから心を入れかえて下さい。今お前をつれて来た人なんぞも、どうやら性質《たち》のよい人ではない様子、引受けたのが当家の道庵さんや、わたしたちだからよかったけれど、一つ間違えば、お前の身は台なし。ほんとうに危ないところ」
 お絹は自分の子を危ないところから助け出したような言葉で言っていますが、これはまるきり作《つく》り言《ごと》ではなく、多少の親身《しんみ》が籠っているようです。

         十一

 こうして道庵の手からお松は再びお絹の許へうつることになりました。お絹は以前のことを一通り叱言《こごと》を言ってみたりしたけれど、お松の詫び方があまり神妙でしたからお絹も和《やわら》いで、
「お前がそういう気になってくれれば、わたしだって昔のことなんぞを繰返すのではありません」
「お師匠様、それについては一つのお願いがございますが、どうかお聞入れなすっていただきとうございます」
「改まってお願いというのは、どんなことでしょう、言ってごらん」
「お暇乞《いとまご》いを致さずにお邸を出ましたのは、わたしの重い罪でございますから、何卒もう一ぺん、神尾の殿様へ御奉公にお出し下さいまし、そうして一生懸命に御奉公を仕直して、お師匠様の御恩報じを致したいと存じまする」
「なるほど」
 お絹は本気になってなるほどと言いました。それはお松の心があんまり正直だから、多少動かされたのであります。
「けれどもね」
 ややしばらく感心していたお絹は、けれどもという言葉を挿《はさ》んでこう言いました。
「お前はまだ知るまいが、神尾様も昔の神尾様ではないのだよ、今はお江戸にはおいでにならないのですよ」
「あの、甲府の方へお役替えになったそうでございますね」
「まあ、よく知っている……」
 お絹の眼には驚きの色がありました。
「甲府のような山の中へおいでになりましては、何かにつけて御不自由でございましょうから、できますならば、お傍《そば》にいて相当の御用を勤めてお上げ申したいと存じまする」
 前にはいやがって逃げ出した神尾の殿様のところへ、今度は進んで行こうと言い出したのは、それだけ苦労をして来たききめだろうと思いました。
「ほんとにお前は感心なところへ気がつきました。それは甲府詰といえばお旗本の運の尽きで、ああして我儘《わがまま》をしておいでなすっただけに、今はどんなに苦労をしておいでなさるかと、それを思えば、おいとしくてなりませぬ。お前がそう言ってくれるのが、わたしにとっては親身《しんみ》のように嬉しい。御威勢のよい時は、ずいぶん忠義を尽す人も多かったのに、今は江戸からお手紙を差上げる人もない御様子、それをお前が、自分から御奉公に上ろうと言ってくれる心が嬉しい」
 お絹は喜びました。お松はなにも元の殿様に忠義を尽す心から言ったのではなかったけれど、お絹はお松の初心《うぶ》な気性を、ただ律義一遍《りちぎいっぺん》にのみ受取ったから親身に嬉しく思ったのでした。そういうふうにすべて善意に受取られることは、お松の性質の一徳でありましたけれど、お絹もまたこのごろでは、物に感じ易くなってしまったのです。さほどでもないことを嫉《ねた》ましく思ったり、その仕返しの種と思って、はからずお松と逢ってみれば、その言うことのしおらしさにいちいち感心してしまうようになったのは、ついこのごろのことでありました。
「わたしはもうこれまでの体だから、これからお前を養女にして、町人でいいから堅そうな養子を見立てて、小店《こだな》の一軒も出すようにして、お前の世話になって畳の上で死ねるようになりたい」
 なんぞと、心細いことをも言い出すのでありました。今夜もまた二人は床を並べて寝《しん》に就きましたが、
「お師匠様、まだお手形は出ませんのでございましょうか」
 お絹は思い出したように、
「ああ、もう下《さが》りそうなものですよ。けれどもお前も知っての通り、女の手形というものはなかなか手続が面倒なのだから、それでこんなに延びるのでしょう。もしあんまり後《おく》れるようならば、わたしがまた頼み込んでみるところがあるから、もう二三日待ってごらんなさい」
「もし、お手形が下りませんでしたらば、わたしはお手形なしで、裏道を通っても、早く甲府へ参りたいと存じます」
「わたしの方はそうはゆかないから、まあもう少し待っておいで」
 お絹とお松との手形というのは、疑いもなく、甲府へ行こうとするその道筋のお関所へ見せる女手形《おんなてがた》のことでありましょう。それを願い出ておいて、まだ下《さが》らないから二人でこんな噂をしているのです。
 その翌朝になると女中が、
「旦那様、お客様でございます、山下の床屋からと申しました」
と聞いて、お絹はそれと気がつきました。
「まあ、お待ち、どんな人が来たか見てやりましょう」
 お絹はワザワザ自身に立って玄関の襖《ふすま》の隙から表を見ると、先日の夕方、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と睦《むつ》まじそうに山下の雁鍋《がんなべ》から出て来たお角でありましたから、また居間へ帰って、わざととりすまして、
「何の御用ですか聞いてごらん、お門違《かどちが》いではございませんかと尋ねてごらん」
 それで女中が出て行きましたが、暫くたってまた引返し、
「旦那様へ、このお手紙をお目にかけさえすればわかるからと申しました、お客様は女の方でございます」
 一封の手紙を取次いだからお絹はそれを取って見ると、長者町の道庵先生からであります。
 封を切って読んでみると、その文面は、かねてお預け申してあった娘を、この手紙を持った人が迎えに行くから渡してやってくれ、お礼には後で拙者が出るからということでありました。まさしく道庵先生の筆に違いないけれど、お絹はわざとらしく解《げ》せないような顔をして、クルクルと巻いてしまい、それを女中に突き返すようにして、
「どうも、お手紙の筋は手前共の主人にはよくわかり兼ねますから、お返事の致し様がございませんとそう言って、この手紙を返してやってごらん」
「畏《かしこ》まりました」
 女中はまた出て行きました。なんと言って来るか知らんとお絹は、煙草の煙を吹いておりました。
「旦那様」
 またまた取次の女中がやって来ました。
「帰ったかい」
「いいえ、お客様は、そんなはずがないと申しておりまして、とにかく御主人様にお目にかかった上で、お門違《かどちが》いならお門違いのようにお詫びを致しますからと言って動きませんのでございます」
「そうだろうと思った。それではお通し申して置き。それから、用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》の二番目のをそっくり引き出してここへ持って来て下さい」
 女中はまず、命ぜられた通りに用箪笥の抽斗をそっくり引抜いて、お絹の前へ持って来てからまた取次に出かけました。
 お絹はその抽斗の中を選《え》り分《わ》けて一枚の借用証文を引き出しました。この証文は、お角が甲府へ旅興行に行く前に、仕込金として、忠作から借りて行った金の証文であります。
「お松や」
 お絹は証文の皺《しわ》を伸ばしながらお松を呼びました。
「はい」
「わたしが今お客様と話をしていますから、もしお茶をと言った時分に、お前はお茶を入れて持って来て下さい。お客様は、お前の面《かお》を見ると何か言い出すかも知れないが、お前は心配しないで、お茶を出したらば直ぐに奥へ入っておしまい」
 こう言ってお絹はとりすまして客間へ立って行きました。

「お初《はつ》にお目にかかりまして」
 お絹とお角と両女《ふたり》の挨拶《あいさつ》があってから、お角が改めて、
「さきほどお目にかけましたお手紙、どうやらお門違いとも思われませんのに、御様子がおわかりにならないそうでございましたから、押してお目通りをお願い申しました」
「道庵さんは始終《しょっちゅう》懇意《こんい》に致しておりますけれど、あの娘さんがどうしたことやら、文面が何のことやら、のみこめませんものですから」
「あの道庵先生から、当家様へ二三日お預かりを願いました娘さんのことでございますが、その親許《おやもと》が今日見えまして、連れて帰りたいということでございますから、さっそく道庵先生へお話を致しますると、先生は当家様へお頼み申してあるとおっしゃって、おれが直《じき》に連れて来てやると御自身でお出かけになるところを、なにしろあの通り御酒《ごしゅ》を召していらしって、お足元がお危のうございますから、それには及びませぬ、お手紙でもいただきますれば、私共の方からお迎えに上りますからと申しますと先生が、よしよしとおっしゃって書いて下すったのがあのお手紙でございます」
「それは変なことでございますね、私共では、先生から娘さんとやらを預かったような覚えは一向にありませんのですが」
「おやおや、それでは道庵先生が何か勘違いをなすったのではございますまいか」
「あの先生のことだから、何かいたずらをしてお前さんたちをかついだのかも知れません」
「ほかのことと違いまして人一人のことでございますから、そんな罪ないたずら[#「いたずら」に傍点]をなさる先生でもございますまいし」
「なにしろ、わたくしどもでは、道庵先生から小猫一匹でもお預かり申した覚えはございませんから」
「それは困ったことになりました、あの先生に限って、酔っぱらっておいでになっても、信用の置けることには置ける先生だとばかり思って安心して上りましたのに」
「どうもお気の毒に存じます、もう一度先生の方を確めてごらんなさいませ」
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、幾重《いくえ》にもお許し下さいまし」
 お角は当惑してしまったから、お絹に向って自分のそそうを詫びました。
「まあよろしうございます、お茶を一つ召上れ」
 お絹がお茶を一つと言った時に、何も知らないお松はお茶を立ててこの場へ持って出ました。お角は今お詫びをして帰ろうとするところへお松が入って来たものだから、思わずその面《かお》をじっと見て、
「おや、このお娘さんは……」
 お角が驚いて膝を立て直すのを見て、お絹は莞爾《にっこり》と笑いました。
 お松は何のことだかわかりませんで、ただこの女のお客が自分を見て仰々《ぎょうぎょう》しい表情をしたことを、少しくおかしく思いながら、
「おいであそばせ」
 一礼をして出て行こうとする時、お角の言葉つきがガラリと変って、
「奥様、おからかい[#「おからかい」に傍点]なすってはいけませんよ、女のことでございますから怯《おび》えますよ」
 膝を立て直したお角の挙動を、ますます怪しいことに思いながらお松はお茶を出して、次の間へ立去ってしまいました。それを流し目でお角は見送りながら、
「奥様、お前様は、女の子はおろか、猫一匹も道庵先生からお預かり申した覚えはないとおっしゃいましたね。そんなことだろうと思いました。危ないこと、子供の使いで追い返されて、こっちからは赤い舌を出され、向うでは笑い物にされるところでしたよ」
 お角は坐り込んで、ことわりもなしにお絹の煙管《きせる》を借りて煙草を一ぷくつけた時に、お絹はさいぜんの証文を取り出しました。
「お前さんには、あの女の子より先にお預かり申した品があるから、それをお返し申してからの話にしようと思いました」
 お絹はその証文をお角の前に置くと、お角は不審な面《かお》をして煙管を投げ出し、証文を取り上げて披《ひら》いて見ました。
「おやおや、こんな品物が奥様の方に廻っていようとは存じませんでした。エエよろしうございますとも、お借り申したものは決してお借り申さないとは申しません。甲府へ行く前にこの証文通りお借り申しました。甲府から帰って参りますと、佐久間町の方へお返しに上ったんですけれど、お家が壊《こわ》れておいでなすって、どこへお引越しなすったか近所で聞いてもわかりませんから、ツイそれなりになってしまったんですよ。決して返さないつもりじゃございません、お借り申したものはお借り申したもの、それをこうして不意にわたしの鼻先へ突きつけて下さるなんぞは御念が入《い》り過ぎましたね、あんまり御念が入って御親切が有難過ぎるから、わたしの方でも少々御念を入れてから返して上げることに致しましょうよ」
「ええ、いつでもようございますよ、このお預かりの方はいつでもかえして上げますが、あの娘の方は何べん取りにおいでなすっても無駄道でございますから、その方はお断わり申しておきますよ」
「おや、それはどういうわけでございましょう。なるほどこの証文は口を利きますけれど、あの娘さんはありゃ山下の床屋から、道庵先生のお手を通して当家様へお預け申した人、いくら高利貸が御商売でも、誘拐《かどわかし》までなさるんじゃございますまいね」
「気をつけて口をおききなさい、誘拐とはそりゃ何のことです」
「誘拐が悪うございましたか、人の娘を預かりながら、それを親許から受取りに来れば、預からないの返せないのと、しら[#「しら」に傍点]を切るのはそりゃ誘拐じゃありませんか」
「いくら淋しい根岸でも近所がありますから、あたりまえの声で話をして下さいよ。お前さんは何も知らずに山下の床屋から尋ねておいでなすったようだが、あの床屋というのはいったい、この娘の何に当るのですね。親許から迎えに迎えにとおっしゃるが、その親許というのはどんな人なんだか、それがお聞き申したいね」
「その親許というのは銀床の亭主の友達なんですよ、その人がいま銀床に来ているんだから、それより確かなことはございますまいよ」
「銀床の御亭主というのは、どんな人だかお前さんは御承知ですか」
「そりゃ銀さんといって、片腕がないけれど、腕がいいのであの辺で評判ですね」
「その銀さんとやらが、どうして片腕が無いんだか知っていますか」
「大きにお世話さまですね、片腕があろうとあるまいと、好い人は好い人なんですからね」
「ところが、あんまり好くない人なんですよ。なるほどお前さんには片腕のないところがいいかも知れないが、あんな物騒な人に娘盛りの子を預けてはおけません」
「何が物騒なんでしょう、人には親切で、銭金《ぜにかね》の切れっばなれはよし、男っぷりだって、まんざらじゃありませんからね。若いとき喧嘩をして、腕に怪我をしてから切り落すようになったんだから、軍人《いくさにん》の向う傷と同じで、男にとっては名聞《みょうもん》なくらいなものですよ、わたしはあの片腕が大好きなのさ」
「おやおや、首の無い殿御を抱いて寝るというお姫様もあるんだから、片腕のないところもまた乙《おつ》でしょうけれど、あの男が片腕をなくしたわけを聞いてしまったらお前さん、三年の恋も冷《さ》めるでしょう。何も知らないで、あんな男に頼まれておいでなすったお前さんがお気の毒」
「そんなことを聞きに上ったんじゃありません、あの人の片腕がどうしようと、そんなことは大きなお世話じゃありませんか」
 お角は非常に腹を立てました。自分に恥をかかせようと企《たく》んでするらしいこの女の仕打ちが憎《にく》らしくてたまらなくなりました。こうなっては腕ずくでも、お松を連れて帰らねば承知ができなくなったから、
「何を言ってやがるんだい、誘拐《かどわかし》め、ぐずぐず言わずに娘をお出しよ、出さないとためにならないよ」
 こう言って太返《ふてかえ》りました。近所隣りへ聞えるような大きな声で罵《ののし》りました。
「いいえ、かえすことはできません。何ですお前さん、人の家へ来て失礼な、そのなりは。さあ早く帰って下さい、お帰りなさい」
 お絹も負けてはいませんでした。
「失礼は持前《もちまえ》ですからね、とてもお前さんのようにお上品な面《かお》をして、人の娘を誘拐《かどわか》すようなことはできませんよ。わたしに失礼な真似をしてもらいたくなければ娘をお出し、大きな声をされるのがいやだと思ったら、預けておいたお嬢さんを出しておしまい、ぐずぐず言ってると腕ずくだよ、わたしはお前さんに噛《かじ》りつくよ」
「勝手になさい。わたしの体に指でも差してごらん、わたしもただは置かないが、この近所には、わたしの知合いで、公方様《くぼうさま》の兵隊を指図をする重い役人もいるんだから、お前さんのためになりませんよ」
「面白いね、御家人がいたら出てもらおうじゃありませんか、公方様の兵隊を指図なさるお役人がおいでなすったら、その兵隊を繰出してもらおうじゃありませんか、筋道を立ててお嬢さんを受取りに来る人と、企《たく》みをして誘拐《かどわかし》をしようという人と、どちらが白いか黒いか、そういうお方に見てもらおうじゃありませんか」
「お前さんのような下品な人とは口を利くのもいや、勝手にひとりで喋《しゃべ》っておいで」
 お絹は座を立って次の間へ行ってしまおうとする。お角は嚇《かっ》と怒りました。
「下品で悪かったね、どうせわたしなんぞは、下品で失礼で阿婆摺《あばずれ》でおたんちん[#「おたんちん」に傍点]ですから、自棄《やけ》になったら何をするか知れたものじゃありませんよ」
 お絹の後ろから飛びついて引き戻そうとしました。
「何をするんです」
 お絹はそれを突き返しました。
「さあ娘を返せ、お嬢さんをこれへお出しなさい」
 お角は突き放されてまた武者振《むしゃぶ》りつく、それをお絹は突き返す。
「まあ、何をなさるんでございます、何卒《どうぞ》お静かに、お師匠様もお静かに、おかみさんも手荒いことをなさらずに」
 次の間にいたお松は、見兼ねてそこへ仲裁に入りました。
「おお、お嬢さん、わたしは銀床から頼まれてお前さんを迎えに来たんですよ、お前さんの伯父さんがいま甲州の方から帰って、お前さんを連れて帰りたいというから、わたしが道庵さんまで迎えに行くと、こっちへ上っているというから、わざわざここまで来てみるとこの人が妙な真似をするから、わたしは腕ずくでもお前さんをお連れ申すつもりなんでございます、さあ、こんないやなところにおいでなさらずに、わたしと一緒にお帰りなさいまし」
 お角は仲裁に出たお松の手を引張りました。お絹はその間へ割って入り、
「お前さん方のような悪者の仲間へ、この子を渡すことはなりません」
「おや、悪者の仲間とはよく言った」
 お角はいよいよ荒《あば》れます。お絹は少しもひるみません。お松がもてあましているところへ折よく、
「まあ、まあ、まあ」
 かねて様子を見ていたもののように飛び込んで来たのは七兵衛でありました。

         十二

 七兵衛のこの場へ飛び込んだことは、すべてにおいて都合がよくなりました。
 二人の女をうまく仲裁して、話をそっくりわかるようにしてお角をなだめて帰し、そのあとでお絹と万事話し合って事情がわかり、話を纏《まと》めておいて七兵衛は山下の銀床へ帰りました。
「百、いま帰った」
「兄貴、帰ったのか、俺がいま出かけようと思っていたところだ」
「どこへ」
「根岸の後家《ごけ》さんとやらがおかしな真似をするというから、行って見ようと思っていたところなんだ」
「それなら、もう話が纏《まと》まったからよせ」
「兄貴の方は話が纏まったか知れねえが、俺の腹にはちっとばかり居ねえことがあるんだ」
「あれはあの女の癖だから、別に気にかけなさんな」
「癖にしてはあんまり性質《たち》がよくねえようだ、何かこっちに恨みがあってするような乙《おつ》な真似をしやあがる」
「ははは、恨みは大ありだ、当ってみれば因縁《いんねん》がちゃんと附いてる」
「いったい、その女というのは何者だい」
「お前がその女に悪戯《いたずら》をされるのは、されるような因縁がついているんだから仕方がねえ、ちょっと調戯《からかい》にやってみたんだから、根に持つなよ」
「そう聞いてみると、なおさら打捨《うっちゃ》っちゃおけねえ」
「出かけて行ってどうするつもりだ、その女に指でも差してもらうと俺が困ることになるんだから、打捨っておいてくれ」
「兄貴の迷惑になるようじゃあ済まねえが、なんだか様子がわからねえから、まあ一通りの話を話してみてくれ」
「根岸にいる女というのはそりゃあそれ、徳間峠《とくまとうげ》の一件物だ」
「ナニ、徳間峠の? まさかあの切髪の新造《しんぞ》じゃあるめえな」
「それだそれだ、お前が腕を一本とられた因縁物だ」
「なるほど、そいつは廻《めぐ》り合せが奇妙だ、その女なら因縁はこっちから附けてやらにゃあならねえ」
「ところが向うから因縁をつけて来たというのは百、お前が気が多いからだ、あの女軽業の親方とお前と出来て、嬉しそうに歩いているところを見せつけられたから嫉《や》けてたまらねえので、そんな悪戯《いたずら》をして腹癒《はらいせ》をしてみたんだ、早く言えば百、お前が色男すぎるから調戯《からか》われたんだ、ここは腹を立てねえで一杯|奢《おご》るところだよ」
「うむ、そう言われるとなんだか擽《くすぐ》ってえような気持もするが、浮気で言うんじゃあねえ、あの女はあんまり薄情すぎる」
「ははは」
 七兵衛は笑っているが、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまだ心の底に何か残っているらしい。
「兄貴の前だが、おれは一旦ものにしかけた女を、そのままにしておくのはいやだ」
「おやおや、お前はまだそんなことを言ってるのか、男らしくもねえ、まだ未練が残っていたのかい」
「未練というわけじゃあねえが、おれもあの女ゆえにこの腕を一本なくして、生れもつかねえ片輪《かたわ》にされちまったんだ、身から出た錆《さび》だと言えばそれまでだが、どうもこのままじゃあ済まされねえ」
「済まされなけりゃあどうするつもりだ、腕一本で済んだのが見つけもので、すんでに命のねえところを助かったんだ、よけいなチョッカイを出したおつりと思えば腕一本は安いもんだと諦《あきら》めていたくせに、今になって済まされねえとはどうするつもりだ」
「兄貴、あきらめというのは見ず聞かずの上のことだ、ツイ目と鼻の先にいて、こんな悪戯をされた日にゃあ、どうもがんりき[#「がんりき」に傍点]も眼がつぶり切れねえ」
「存外、手前《てめえ》も男がケチだ、向うはちょっと調戯《からか》っただけの御挨拶で、女というやつは、ああもしてみないとバツが悪いんだ。可愛いくらいのもんじゃねえか」
「そこが兄貴と俺との性根《しょうね》が違うところなんだ、ケチな野郎ならケチな野郎でいいから、俺は俺の思うようにしてみてえ」
「それじゃなにか、執念深くどこまでもあの女を附け廻そうと言うんだな」
「そうだ、みんごと、俺はこの片腕であの女をこっちのものにして見せる、兄貴の方に何か差合《さしあ》いがあるかは知らねえが、お前も苦労人だから一番おれの男を立てさせてくれ」
「百、お前がそういう心がけならそれでいいから思うようにやってみろ、その代り、あまり出過ぎると、ちいーっと危ねえことがあるから、そう思え」
「合点《がってん》だ、どのみち危ねえ橋は渡りつけてるんだから、地道《じみち》を歩くのがばかばかしいくらいなもんだ」
「うむそうか。それじゃあ、あの女は近いうちに娘をつれて甲州街道を上って甲府へ行くはずだから、手前も一緒に行ってみたらよかろう、その途中には手前が望む危ねえ橋がいくつもあるんだから、渡れるものなら渡ってみねえ」
「兄貴、お前もついて行くんだろう」
「俺が頼んで行ってもらうような仕事だから、道中は眼がはなされねえ」
「そうなると兄貴と俺と楯《たて》を突くようなもんだな、兄貴を向うに廻して、俺が色悪《いろあく》を買って出るようなものだ」
「まあ、いいようにしてみろ」
 七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]とはこんな問答をして、少しばかりおたがいに気まずい色を見せて、七兵衛はこの銀床を立ち出でました。
「困った野郎だ、何をしようとたかの知れたようなものだが、詰らねえことにしたくもねえ、なんとかしてあいつを追っ払ってしまうような工夫はねえものか」
 七兵衛は考えながら歩きましたが、
「そうだそうだ、女から持ち上ったことは女に限る、一番あの女軽業のお角という女を焚附《たきつ》けて嫉《や》かしてやろう、そうしてがんりき[#「がんりき」に傍点]の胸倉《むなぐら》を取捉《とっつか》まえて、やいのやいのをきめさして、動きの取れねえようにしておけば、こっちも道中よけいな心配がなくっていい、こいつはいいところへ気がついた。あの女のいるところは両国の小屋ですぐわかるだろう、これから行って、罪なようだが狂言を書いてみる、いやはや、あっちでもこっちでも野呂松《のろま》人形を操《あやつ》るような真似ばっかり、おれも釣り込まれていいかげんの狂言師になったわい」

         十三

 宇治山田の米友はこの頃、お君の身の上を心配しています。両国の木賃宿《きちんやど》で別れてから時々便りのあるはずなのが更にありません。自分は程遠からぬ箱惣《はこそう》の家に留守番をしていることだから、毎日のように宿まで通《かよ》ってお君の便りを聞こうとするが、さっぱり何とも言ってよこしません。
 ああいうわけで米友は、両国の見世物小屋を追い出されてから、両国の近辺へは立廻れないわけなのですが、こっそりと出入りをして、もしお君らしい人が通りはしないかと思ってキョロキョロ見ていましたが、一向それらしい女の子は見えないから、いつでも失望して帰ります。米友の身体《からだ》は小兵《こひょう》な上に背が低いことは申すまでもありませんが、肉附《にくづき》だとて尋常《なみ》の人よりは少し痩《や》せているくらいですから、夜なんぞは誰でもみんな子供だと思っています。米友が一人で留守番をしていると近所の子供が寄って来て、
「お前も一緒に遊ばないか」
と言いましたが、
「やあ、この人は子供じゃあねえんだ、大人だよ、おじさんだよ」
 それで近所の子供らは、米友をおじさんと言うようになりました。
「おじさんは槍が上手なんだね」
と言って槍をいじくる。
「そりゃ上手さ、この間は侍の泥棒が十人も来たんだけれど、おじさんがこの槍一本で追払ったんだ、ねえおじさん」
「おじさんは背《せい》が低いねえ、俺《おい》らと同じぐらいだねえ、どうしてそんなに低いんだろう」
「そりゃお前、生れつきだから仕方がないじゃないか。背が低くったってお前、おじさんの面《かお》をごらん、皺《しわ》が寄ってるじゃないか、だから年をとってるんだよ」
「それにおじさんは跛足《びっこ》だねえ、どうして跛足になったの、馬に蹴られたんじゃないの」
 子供は正直だから、寄ってたかって米友の身体《からだ》の棚卸《たなおろ》しをしてしまいます。米友もさすがに苦い顔をしていますが、子供のことだから笑っているよりほかはないのを、子供はいい気になって米友の背中へ乗っかかったり、膝を枕にしたりして、
「跛足《びっこ》だって槍は使えるんだよ。ほらこのあいだ両国へ来た印度人の黒ん坊をごらん、あの黒ん坊も跛足だろう、それでも槍を使わせると素敵《すてき》だったぜ。金ちゃん、お前あの黒ん坊を見たかい」
「見なかったよ」
「話せねえな、印度で虎を退治して来た黒ん坊なんだよ、俺《おい》らはお父さんにつれて行ってもらったんだ、ずいぶん怖《こわ》い槍の使い方をして見せたよ」
 米友は、いよいよ苦い面《かお》をしていると、子供は頓着《とんちゃく》なしに、
「それがお前、途中でふいといなくなっちまったから、もう一ぺん見に行くつもりだったけれど詰らねえや。でもこのごろ、また朝鮮から象使いが来るんだとさ」
「どこへかかるんだい」
「前に印度人の槍使いが出たあの軽業の小屋さ、娘軽業というのがあったろう、あれが朝鮮まで行って帰って来たんだとさ、それで朝鮮から象使いをつれて来て、来月からあすこへかかるんだって。だから俺らはまたお父さんにつれて行ってもらうんだ」
「俺らもつれて行ってもらおうや」
 子供たちのこんな話を米友が聞咎《ききとが》めました。
「子供衆」
「何だ、おじさん」
「朝鮮から象使いが来るというのは、あの、なにかい、もと女軽業や力持がいたあの見世物小屋かい」
「そうだよ、もうビラが方々へ廻っているよ」
「それで、もとあの小屋にいた軽業や力持も帰って来たのかい」
「みんな帰って来たよ、久々《ひさびさ》にてお目見え、お馴染《なじみ》の一座、なんて書いてあるよ」
「そうか」
 米友は腕を組んで考え込みました。甲府へ旅興行に出かけたにしてはかなり日数がかかっていたが、ついでに処々の旅興行をして帰って来たものだろう。帰って来たとすれば、何よりも先にお君からの便りがなければならぬ。友さんいま帰ったよ、と言ってお君が真先にこの米友を尋ねなければならないのだ。つづいてムク犬も尾を振って咽喉《のど》を鳴らして跟《つ》いて来なければならないはずなのだ。それにもうビラも出来て諸方へ廻っているというのに、自分のところへ音沙汰《おとさた》がない。お君はこの米友を忘れてしまったのか、あんな仲間へ入っているうちに気象《きしょう》が変って、俺らのことなんぞはどうでもいいことにしてしまったんじゃあるまいか、どうも訝《おか》しい。米友は単純な頭をいろいろに捻《ひね》ってみたけれど結局、米友の知恵ではどうしてもその間の消息がわからないから、これは直《じか》に行って掛合ってみるよりほかはないと思案を固めました。
 しかしながら米友には、あの小屋へ行けないわけがある。見世物小屋の掟《おきて》で、あんなことをしてブチ壊しをやった芸人は、見世物師の背後についている破落戸《ならずもの》が寄ってたかって手酷《てひど》い制裁を加えて追い出すのであったが、米友のは全く無邪気でやった失策《しくじり》であり、且つ槍の名人ときているから、荒っぽいことをせずに単に追放だけで済みました。それを今ノソノソとあの小屋の附近へ近寄ろうものなら、どんな目に遭《あ》うか知れない。両国広小路は米友にとって鬼門《きもん》であるけれど、今はその危険を冒しても米友はそこへ行かねばならなくなりました。
「おじさん、どこへ行くの」
「うむ、俺《おい》らは広小路まで行って来る」
と言って米友は、急に跛足《びっこ》を引きずってこの家を出かけました。

「こんにちは」
 もう開場三日前、小屋の内外の装飾で忙しいところへ米友はやって来ました。
 木戸番は怪訝《けげん》な面《かお》をして米友の面を見ていると、米友は、
「軽業の娘たちはみんな甲州から帰ったのかね、一人残らず帰って来たのかね」
「はい、みんな帰りましたよ」
「では君ちゃんも帰ったんだろう。君ちゃんが帰ったなら、ちょっとここまで面を出してもらいてえ」
「お前さんはどなたでございます」
「君ちゃんに会えばわかるんだ」
「…………」
「こんな人が尋ねて来たって、君ちゃんにそう言っておくれ」
 木戸番は米友の面をよく見ました。
「今こっちの方は忙しいんですから手が放されません、裏から廻って楽屋の方へ行ってごらんなさいまし、楽屋でお聞きなすってみてごらんなさいまし」
「そうですか、それじゃ楽屋の方へ廻ってみるかな」
 米友は久しぶりでこの小屋の内部へ入ってみました。
 大勢の人は気がつかないで立働いているが、米友はなんだか気が咎《とが》めるような心持で、勝手知ったる楽屋のところまで来て、恐る恐る言葉をかけました。
「こんにちは」
 楽屋では一座の美人連が出揃って、新興行にかかる小手調べをしているところでした。
「こんにちは」
 米友は女軽業の美人連の稽古場《けいこば》を覗《のぞ》き込むと、
「どなた」
「おやおや、米友さんじゃないか」
「まあ、米友さんが来たよ、可愛らしい米友さんだよ」
 美人連は稽古をしたりお化粧をしたりしている手を休めて、米友の方を見ました。米友は怖る怖る、
「皆さん、暫らく」
「米友さん、ほんとに暫らくだったね、どこにどうしていたの」
「あっちの方にいたんだ。皆さんはいつ帰ったんだい」
「わたしたちはこのあいだ帰ったのよ、まあお上り」
「上っちゃ悪かろう、親方はいねえのかい」
 米友は楽屋の中を見廻しましたけれど、不幸にして、お君の姿は見えませんでした。土間を見たけれども、ムクの姿をさえ見ることができませんでした。
「親方は、ちょっとそこまで用たしに行ったから、もう直ぐに帰るだろう」
「あの……あの、君ちゃんはいねえのか」
「君ちゃん……」
と言って、美人連は面《かお》を見合せました。
「君ちゃんも旅から一緒に帰ったんだろう、どこにいるんだい」
 米友は、美人連が見合せた面をキョロキョロと見ていました。
「君ちゃんはねえ……君ちゃんは帰らないんだよ」
「おや、君ちゃんは帰らないんだって? みんながこうして面を揃えているのに、君ちゃんだけが帰らないのかい」
「ええ、君ちゃんだけが帰らないんだよ」
「そりゃどうしたわけなんだい、君ちゃん一人を置いてけぼりにして来たのかい、そんなわけじゃあるめえ」
 米友がお君の安否を気遣《きづか》う様子があんまり熱心であったから、美人連はおかしがって、つい冗談《じょうだん》を言ってやる気になりました。
「米友さん、君ちゃんは旅先で、いい旦那が出来たから、それで帰るのがいやになったのだよ」
「いい旦那が出来たって?」
「わたしたちなんぞはいずれもこんな御面相《ごめんそう》だから、誰もかま[#「かま」に傍点]ってくれる人はないけれど、君ちゃんは容貌《きりょう》よしだから、忽ち旦那が附いちまったんだよ」
「そんなはずはあるめえ、そりゃ嘘《うそ》だ」
 米友は、いよいよ一心になりました。一心になればなるほどその態度が滑稽になりますから、人の悪い美人連は、そんなに悪い気分ではないけれど、ついついからかい[#「からかい」に傍点]があくどくなってゆきます。
「第一、ここに君ちゃんのいないのが何よりの証拠じゃないか。ほんとにあの人は仕合せ者だよ、甲府の御城内でお歴々のお方を擒《とりこ》にして、今は玉の輿《こし》という身分でたいした出世なのに、わたしたちなんぞは、いつまでもこんな稼業《かぎょう》をしていなけりゃならない、ほんとに君ちゃんを思うと羨《うらや》ましくてたまらない」
 口から出まかせにこんなことを言いましたのを米友は、そんなことはないと思いながらツイツイ釣り込まれて、
「ナニ、君ちゃんが俺《おい》らに相談なしで、そんなことをするもんか、俺らがちゃんと附いてるんだ」
 ウカウカと米友がこう言ったのが、美人連の笑いを買いました。
「ホホホホ、そうでしたねえ、君ちゃんには米友さんが附いているんでしたねえ、こんな色男を捨てて君ちゃんも罪なことをしたものさ」
 彼等は辛辣《しんらつ》な軽侮《けいぶ》を米友の上に加えました。
 女軽業の美人連は興に乗って米友に毒口を利きました。こんな毒口は楽屋うちで言い古されている毒口でしたけれども、単純な米友は嚇《かっ》と怒りました。
「ばかにするない、そんな了簡《りょうけん》で言ったんじゃあねえぞ」
「米友さん、怒っちゃあいけないねえ、君ちゃんに捨てられたと思って、そんなに自棄《やけ》を起しちゃいけないよ」
「馬鹿」
 米友は眼をクルクルと剥《む》いて美人連を見廻しました。
「君ちゃんは俺《おい》らと約束がしてあるんだ、約束を破るのは女郎と同じことなんだ、君ちゃんは俺らと約束を破って、一人で残っているような女じゃねえんだ、それを残して来たのはお前《めえ》たちが悪いんだ」
「手が着けられないね。米友さん、お前が君ちゃんと、どんな約束をしたか知らないが、現に君ちゃんはここにいないで、江戸へ帰るより甲府がいいと言って残っているから、文句がないじゃないか」
「お前たちが残して来たんだ」
「ばかにおしでないよ、こうして座を組んで、一つ鍋の御飯をいただいて歩いていれば姉妹《きょうだい》同様じゃないか、離れようといったって離れられるわけじゃない、それに君ちゃんは花形だから、親方の方でもはなすことじゃありません、それを振り切って行くくらいなんだから仕合せ者だよ」
 美人連はこんなことを言って米友を口惜《くや》しがらせました。
「本当のことを言ってくれよう、本当のことを」
 米友は焦《じ》れて歎願するように言いました。
「本当のことはね……本当のことは、やっぱり君ちゃんだけは旅から帰っていないんだよ」
「ほんとうに帰らないんだね」
「それはほんとうだよ」
「よし、それじゃ俺らがその甲府というところへ行く、そうして君ちゃんに会って話をしてみりゃわかることなんだ。甲府は何というところで、何という人の家にいるんだ、それを教えてくれ」
 米友はこう言ってせきこんだけれど、女軽業の美人連はそれほどに行詰ってはいないから、
「まあ、ゆっくりと旅の話をしてあげるから上って休んでおいでよ、お茶を入れるから」
 これらの美人連も一蓮寺では、お君とムクのおかげで危ないところを救われているのだから、それを思えば、お君のためにも米友のためにも、もっと親切に身を入れて応対をしてやらなければならないのですけれど、米友をあんまり軽く見ているから、ツイ身が入らないのでした。
「ちぇッ」
 米友は、もどかしさに舌を鳴らして、気がいよいよ焦立《いらだ》ちました。
「だから旅へ出るのをよせと言ったんだ、それをきかないで出たから悪いんだ。ムクだってそうだ、なんとか役に立ちそうなものじゃねえか、ちぇッ」
 米友が舌を鳴らして立っているところへ、お角《かく》が帰って来ました。
「親方のお帰り」
と言って、美人連の迎えを受けて楽屋へ入って来たお角が米友を見ると、眼に角《かど》を立てて、
「おや、見慣れない人が来ているよ。誰かいないの、ナゼあんな人をここへ通したんだろう、ここへ通して都合のいい人だか悪い人だかわかりそうなものじゃないか、あんな人が小屋の廻りにウロウロしていて人気に触らないと思うのがお目出度いね、ほんとに気の利かないやつらだ」
 お角の機嫌が大へんに悪い。美人連のうちの一人が米友の傍に寄って来て、
「お前さん、早くお帰り、親方に怒られると大変だから」

         十四

 軽侮《けいぶ》と冷淡の限りを浴びせられて米友は、悲憤を怺《こら》えながらこの小屋を出て来ました。ことに親方のお角はどういう虫の居所《いどころ》か、頭ごなしに米友を罵《ののし》って、水を浴びせかけないばかりにして、米友を追い出させてしまいました。
 いつもの米友ならば我慢しきれないところでしたけれども、感心に深く争わずしてこの小屋を出たのは、日の暮れる時分でありました。
 さすがの米友もこの時は、実に口惜《くや》しかったと見えて、両国橋の真中に来た時分に、立ち止まって橋の欄干《らんかん》から下を覗きながら口惜し涙をハラハラと落します。
 いくら自分が粗忽《そこつ》で黒ん坊を失敗《しくじ》ったからと言って、せっかく聞きに行ったのだから、一通りの消息ぐらいは知らせてくれてもよかりそうなものを、ああして寄ってたかって冷かした上に、ガミガミと突き出してしまうことは、いくら稼業柄《かぎょうがら》とは言いながら薄情なやつらだと、それで口惜しくてたまりませんでした。
「腹が立ってたまらねえ」
 米友は歯噛みをして、両国広小路見世物小屋の方を睨《にら》めました。
「覚えてやがれ」
 米友の面《かお》に殺気が浮びました。広小路の見世物小屋の方を睨んで、
「覚えてやがれ」
 橋の真中から相生町《あいおいちょう》の方へ歩き出すと、
「もし、兄《にい》さん」
と肩を叩いたものがあります。
「誰だ」
 米友が振返って見ると七兵衛でありました。もとより米友は七兵衛を知らないが、七兵衛は米友に見覚えがあります。
「兄さん、お前さんはこれからどこへおいでなさるのだ」
「どこへ行ったっていいじゃねえか」
「さっきからここで見ていると、お前さんは何か心配がおありなさるようだ」
「大きにお世話だ」
 米友は七兵衛の面《かお》を睨みました。
「私は通りかかりの者だが、どうやらお前さんの姿に見覚えがあるから、失礼なことだが暫らく立って見ていました、そうするとお前さんがしきりに何か言って腹を立っておいでなさるようだから、もしも変な気を起してざんぶりとおやりなさるのかと思って、こうして両手を出して見ていましたよ」
「大きにお世話じゃねえか、川へ飛ぼうと首を縊《くく》ろうとお前たちの世話にゃならねえ」
 米友は悲憤の思いでいっぱいですから、何を言っても耳へは入りません。
「兄さん、もしお金にでも困るようなことがあったら、ずいぶん力になって上げようじゃないか」
「大きにお世話だと言うに。いつお前に俺《おい》らが金を借りたいと言ったい」
「そうガミガミ出られちゃあ、せっかく親切に話をして上げても何にもならない」
「俺らはお前に親切をしてくれろと言った覚えはねえ」
「でも、こうして身投げでもしようというには、よくよくのことがあるんでしょう、御主人のお金を遣《つか》い込んだとか、身の振り方に困ったとか、何かよくよくのことがあるから、そんな無分別な考えを起すんだろう、それを通りかかって見れば、みすみす見捨てて行くのは人情としてできないことだから、それで大きにお世話だが、言葉をかけてみる気になりました」
「いつ、俺らが身投げをすると言ったい、お前《めえ》、俺らがここにいたって、身投げをするつもりでここにいるんだか、また別に何か考えているんだか、人の心持がよくわかるね、お前の方で身投げをするように見たって、俺らの方では身投げなんぞする気じゃあねえんだ」
「兄さん、そんなことを言って強がりを言ってみたところで、様子でわかりますよ、様子で。ほかから見るとお前さんの様子というものがよっぽど変で、口惜しまぎれに身投げをするか、人殺しをするか、その思案に暮れているようなあんばいに見えますから、それで私は見すごしができないわけなんでございます」
「嘘を言うない」
「嘘なもんですか。第一お前さんは伊勢の国からはるばる出ておいでなすって、今晩泊るところもないから、それで死ぬ気におなんなすったのだろう」
「何だ、お前は俺らが伊勢の国から出て来たことを知ってるのかい」
「知っていますとも、伊勢の国で宇治山田の米友さんというのはお前さんだろう」
「おやおや、俺らのところから名前まで知ってやがる、俺らの方ではお前を知らねえ」
「それで兄さん、お前は盗賊の罪を被《き》て、あの尾上山《おべやま》というのから突き落されて死んだはずだが、それが生き返って、いま両国橋の上に立っているんだから、私は驚きましたよ、幽霊かと思いましたよ」
「おや、お前はそんなことまで知ってるのか」
 米友は不安と怪訝《けげん》と交々《こもごも》、七兵衛の面を見返しました。
「心配しなくってもようございます、お前さんの罪のないことは、私がよく知っているのでございますからね」
「うむ、俺らには全く罪がねえんだ、盗人《ぬすっと》はほかにあるんだ」
「そうでしょうとも、お前さんは盗人なんぞをなさるような方ではない」
 七兵衛の信用を得て、米友はやや安《やす》んじた形でありました。
「俺らもあれから、ずいぶん運が悪くなり通しでね、なかなか苦労をしたよ」
「そりゃお気の毒でしたねえ」
「あっちへ行ってもこっちへ行ってもばかにされるんで、やりきれねえ」
 今までの突慳貪《つっけんどん》に引換えて訴えるような声で言い出したから、七兵衛もおかしくもあり、かわいそうにもなりました。
「私もお前さんの噂を聞いて、ほんとにお気の毒でたまらないから、どこかで逢ったら、いろいろお話をして上げようと思っていたところでした、今日はまあ、いいところで会いました」
 七兵衛と米友とは、どっちが先ということなしに両国橋を、本所の方へ向いて渡りながら身の上話。

         十五

 七兵衛に焚《た》きつけられたお角は、案の如く口惜しがってしまいました。百蔵はこのごろ、さる後家さんのところへ出入りするようになって、その後家さんが近いうち甲州へ出かけるに就いて、百蔵もその跡を追って甲州へ行くから気をつけなければならないと、七兵衛はお角を嗾《け》しかけました。その上、右の後家さんというのは根岸に住んでいて、先日お前さんの前へワザと古証文を突きつけたりなんぞした女だということを聞かされると、勝気のお角は矢も楯もたまらないほどに逆上《のぼ》せ、
「あんな女にこの上ばかにされてたまるものか」
 お角は小屋へ帰って、その腹癒《はらいせ》に、せっかく来合せていた米友をさんざんに罵《ののし》って、その足でまた山下の銀床へ飛んで行きました。そうして百蔵の胸倉を取って思う存分に文句を言いました。さすがのがんりき[#「がんりき」に傍点]もこれには閉口して、しきりに申しわけをしてみたけれどお角は耳にも入れないから、結局がんりき[#「がんりき」に傍点]がお角の前に謝罪《あやま》って、やっとその場を済ませたけれど、それからお角はがんりき[#「がんりき」に傍点]の家に入浸《いりびた》りで、その傍に附きっきりということになってしまいました。何か言えば刃物三昧《はものざんまい》でもしかねない勢いであったからがんりき[#「がんりき」に傍点]も全く閉口して、当分、外出もできないことになってしまいました。
 七兵衛はその有様を見て、手を拍って自分の策略が当ったことを喜び、その間に手形が下りて、お絹とお松とはがんりき[#「がんりき」に傍点]を出し抜いて甲州街道への旅路に出かけました。七兵衛は自分が見え隠れにこの女連《おんなづれ》を守護して行くつもりであったけれど、幸いに甚だ都合のよい従者を一人発見しました。その従者というのはすなわち宇治山田の米友であります。お君が甲州へひとり残されたことの真相を、七兵衛を通してお角から聞いてもらったところが、女軽業の美人連から冷かされた時のように、よい旦那が出来たから甲府へ残ったわけではなく、全く火事のために行衛不明《ゆくえふめい》になったのだとわかって米友は、お君のことが心配になってはるばる甲州まで行ってみる気になりました。
 跛足《びっこ》でこそあるけれども米友は、杖《つえ》をついて飛んで歩けば、あたりまえの人には負けない速力で歩くことができます。それで乗物で行く足弱の伴《とも》にはけっこう役がつとまる。それは槍を取っても取らなくても、生れついての俊敏で気が早いこと無類で、気が早くて直ぐに喧嘩を買ったり売ったりする。これは人気の悪い郡内あたりを通らすには善し悪しであるけれども、そこはよく七兵衛が意見をしておきました。
「兄さん、道中は無暗《むやみ》に人と物争いをしちゃあいけねえぜ、甲州街道の郡内というところは人気が悪いところだから、女連と見たら雲助どもが因縁をつけるだろうけれど、酒手《さかて》をドシドシくれてやりさえすりゃ、たあいなく納まるんだから、お前の一本調子で相手になっちゃあいけねえよ」
「うむ、いいとも」
「そうかと言って、まるっきり温和《おとな》しくしていると悪い奴にばかにされるから、時々威勢を見せつけてやらなくちゃあいけねえ。ことにこの街道には、がんりき[#「がんりき」に傍点]と言って一本腕で名代《なだい》の胡麻《ごま》の蠅《はえ》がいるから、なんでも一本腕の男が傍へ寄って来たら、ウント嚇《おどか》してやるがいい」
「うむ、一本腕の胡麻の蠅が来たら用心するんだな。何と言ったけな、その胡麻の蠅の名前は」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]という渾名《あだな》がついてるんだ、ちょっと色の白い小作りな綺麗な男だ、そいつが駕籠の傍へ寄って来たら用心をしなくちゃいけねえ、夜の宿屋なんぞもほかに怖いものはねえが、その一本腕だけは油断をしちゃあならねえからしっかり頼むよ」
「うむ、いいとも」
「おれは道中師だから、街道筋にどんな悪い奴がいるかということはチャンと心得ているんだが、おそらくそのがんりき[#「がんりき」に傍点]という奴ぐらい悪い奴はねえ、またあのぐらいスバシッコイ奴もねえ、わけて女連と見た日には執念深く附いて廻って仕事をする奴なんだから、そのつもりでしっかり頼むよ」
 七兵衛は米友に向って、なおくわしくがんりき[#「がんりき」に傍点]の人相や悪事の手並《てなみ》を語って、それに多くの敵意と注意を吹き込んでおきました。
 お絹とお松とには正式の手形、米友はその従者として正当に関所を越えることのできるように手続が出来ました。箱惣《はこそう》の家にいる時分に、ひまにまかせて米友は自分で工夫して、自分が名をつけた杖槍《つえやり》。槍の穂だけを取りはずして込《こみ》のところを摺《す》り上げ、それをいつでも柄《え》の中へ箝《は》め込むことができるようにして、穂を懐中に入れておき、柄は杖にしてついて歩き、いざという場合には、それを仕込んで咄嗟《とっさ》の間に槍にしてしまうという武器が出来たから、米友はそれを持って、頭には笠をかぶり首根ッ子へ風呂敷包を背負って、お絹とお松との駕籠のすぐあとへついて出かけました。米友のその風采《ふうさい》はお絹をもお松をも笑わせました。

 それより三日目に両国の女軽業の見世物が開《あ》けて、銀床に附ききりであったお角も、どうしても小屋へ帰らなければならなくなりました。その隙《すき》を見てがんりき[#「がんりき」に傍点]が根岸のお絹の住居《すまい》へ駈けつけて見ると戸が閉っていました。
「失策《しま》った」
 急いで取って返して旅の仕度をしているところへ、折悪《おりあ》しくお角が帰って来ました。
「お前さん、何をしているの」
「ナニ、その、ちっとばかり」
「足ごしらえをしてどこかへおいでなさるの」
「ナニ、近所まで」
「近所のどこへおいでなさるの」
「ナニ、そんなに遠いところではない」
「そんなに遠いところでなければ、足ごしらえなどをしなくてもいいじゃないか」
「でも、久しく旅をしないから」
「おや、久しく旅をしないから、どこかへ旅をしてみたくなったというんですか。知ってますよ、その旅先はちゃあんと呑込んでいますからね」
「ナニ、少しばかり足慣らしをやってみるんだ」
「出かけるなら出かけてごらんなさい、わたしという者をさしおいて行けるものだか行けないものだか、さあ、出るなら出てごらんなさい」
 お角はそこにあった荷物と、がんりき[#「がんりき」に傍点]が結びかけた脚絆《きゃはん》を取って抛《ほう》ります。
「何をするんだ、やい、ふざけたことをするない」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその脚絆を取って、また片手で足へ巻きつけようとすると、
「いけませんよ、わたしの見る前でそんなものを足へ巻きつけると罰が当りますよ」
「やい、何、何をするんだ」
「何をするんだもなにもありゃしない、わたしがこの間から見張っているのは何のためだと思ってるの、こんなことがあるだろうと思うから、それで忙がしい小屋の方をさしおいて、こっちへ来ているんじゃないか。それにちょっとの隙があれば、もうこの始末だから呆《あき》れ返っちまうじゃないか。あれ、まだそんなものを足へ巻きつけて、片一方手《かたっぽて》で捻《ひね》くり廻している無器用なザマと言ったら。ほんとに突き倒してやるよ」
「な、なにをするんだ」
「突き倒すよ、片一方手《かたっぽて》じゃ起きられないだろう、独り立ちで起きられもしないくせに、よくわたしを踏みつけにしたね」
「お前は何か勘違いをしているようだ、おれは今日、組合の方の寄合で千住まで出かけなくちゃならねえのだ、それで遊山《ゆさん》かたがた、久しぶりで草鞋《わらじ》を穿《は》いてみようと言うんだ、なにもお前に疑ぐられるような筋はありゃしねえ」
「冗談をお言いでないよ、火事場へ行くんじゃあるまいし、千住まで行くに草鞋を穿いて行くやつがあるものかね、組合の寄合に足ごしらえをして行くなんて、そんなばかばかしいことがあるものかね、千住がよっぽど遠くってお気の毒さま」
「どうも手が着けられねえ、お前がなんと言おうとも友達が待っているんだ、約束がしてあるんだからやめるわけにはいかねえ」
「おや、友達がよかったねえ。そりゃそうでしょうとも、いいお友達がおありなさるんだから、一刻も早く行ってお上げなさる方がいいでしょう。向う様もさぞ待っておいでなさるでしょうけれども、わたしというものがあってみれば、そうも参りませんでお気の毒さま、ほんとにお気の毒さま」
と言ってお角は、口惜しがりながらがんりき[#「がんりき」に傍点]を横の方から突き倒す。
「この阿魔《あま》、あんまり図に乗ると承知しねえぞ」
 突き倒されたがんりき[#「がんりき」に傍点]は起き上って眼の色を変えると、
「さあ、わたしに恥を掻《か》かせたあの後家さんの尻を追って行きたいんだろう、どこへでもおいで、グルになってわたしを出し抜こうとしたって、わたしの眼の黒いうちは……」
 お角はまた口惜しがって武者振りつきました。



底本:「大菩薩峠3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
   1996(平成8)年3月1日第3刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては「日本国民文学全集・別巻1 大菩薩峠 第1巻」河出書房、1956(昭和31)年3月15日初版発行と、「中里介山全集 第2巻」筑摩書房、1970(昭和45)年9月19日発行を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年10月4日公開
2004年3月6日修正
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