青空文庫アーカイブ

大菩薩峠
白根山の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)最期《さいご》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|瓢《ぴょう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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         一

 机竜之助は昨夜、お絹の口から島田虎之助の最期《さいご》を聞いた時に、
「ああ、惜しいことをした」
という一語を、思わず口の端から洩らしました。
 そうしてその晩、お絹は夜具を被《かぶ》って寝てしまったのに、竜之助は柱に凭《もた》れて夜を明かしたのであります。
 その翌朝、山駕籠《やまかご》に身を揺られて行く机竜之助。庵原《いおはら》から出て少し左へ廻りかげんに山をわけて行く。駕籠わきにはがんりき[#「がんりき」に傍点]が附添うて、少し後《おく》れてお絹の駕籠。
 山の秋は既に老いたけれども、谷の紅葉《もみじ》はまだ見られる。右へいっぱいに富士の山、頭のところに雲を被っているだけで、夜来の雨はよく霽《は》れたから天気にはまず懸念《けねん》がありません。
 お絹は駕籠の中から景色を見る。竜之助は腕を組んで俯向《うつむ》いている。
「百蔵さん」
 お絹はがんりき[#「がんりき」に傍点]のことを百蔵さんと呼ぶ。
「何でございます」
「まだその徳間峠《とくまとうげ》とやらまでは遠いの」
「もう直ぐでございます、この辺から登りになっていますから、もう少しすると知らず知らず峠の方へ出て参ります」
「なんだか道が後戻《あともど》りをするような気がしますねえ」
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を突込《つっこ》んで行くと同じことで、爪先下《つまさきさが》りに富士川まで出てしまうんでございますから楽なもので」
と言いながら、竜之助の駕籠《かご》わきにいたがんりき[#「がんりき」に傍点]が、お絹の駕籠近くへやって来て、
「それでもまあ、天気がこの通り霽《は》れましたからよろしゅうございます」
「天気はよいけれども、お前さんのために飛んでもないところへつれ込まれてしまいました」
「へへ御冗談でしょう、あなた様の御酔興《ごすいきょう》で、こんな深山の奥へおいでなさるのですから」
「でも、お前さんが、山道は景色が好いの、身延《みのぶ》へ御参詣をなさいのと、口前《くちまえ》をよく勧《すす》めるものだから」
「はは、その口前の好いのはどちらでございますか、この道は険《けわ》しいから、あなた様だけは本道をお帰りなさいと先生もあれほどおっしゃるのに、山道は大好きだとか、身延山へぜひ御参詣をしたいとかおっしゃって、わざわざこんなところへおいでなさる。いや、これでなけりゃあ、竹の柱に茅《かや》の屋根という意気にはなれませんな」
「そんなつもりでもないけれど、わたしも実は本道が怖《こわ》いからね。七兵衛のような気味の悪い男に跟《つ》けられたり、人を見ては敵呼《かたきよば》わりをするような若い人に捉まったりしては災難だから、それでわざわざ廻り道をする気になりました」
「いや、どっちへ廻っても怖いものはおりますぜ、この道を通って身延へ出るまでには、きっと何か別に怖い物が出て参りますよ」
「おどかしちゃあいけませんね、何が怖いものだろう」
「ははは、別に怖いものもおりませんが、山猿が少しはいるようでございます、それから、どうかすると熊が出て参ります」
「怖いねえ」
「先生が附いているから大丈夫でございますよ」
 竜之助は前の駕籠で、二人の話を耳に入れている。がんりき[#「がんりき」に傍点]もなれなれしいが、お絹もなれなれしい。二人ともになれなれしい口の利《き》き様《よう》であります。
 お絹という女、誰にでもなれなれしい口の利き方をする。旗本のお部屋様として納まっていられない女。気象《きしょう》によっては、こんな男と言葉を交すのでさえも見識《けんしき》にさわるように思うのであるに、この女は、それと冗談口《じょうだんぐち》をさえ利き合って平気でいます。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が昨夜の言い分、お絹はそれを知らないから、平気で話をしているが、たとえ冗談にもせよ、そういうことを聞いている竜之助にとっては、二人のなれなれしい話し声を不愉快の心なしに聞いているわけにはゆくまいと思われます。

「ここが峠の頂上でございます」
 ようように山駕籠が徳間峠の上へ着きました。
「さあ若い衆さん、休んでくれ」
 徳間峠の上で二つの駕籠が休む。がんりき[#「がんりき」に傍点]は腰に下げていた一|瓢《ぴょう》を取り出して、
「先生、お一つ、いかがでございます」
 駕籠の中の竜之助に持って行って、次に、
「若い衆さん、お前も一つどうだね」
「へえ有難うございます」
 この駕籠舁《かごかき》は海道筋《かいどうすじ》の雲助と違って、質朴《しつぼく》なこの辺の百姓。
「御新造様《ごしんさま》、一ついかがでございます」
「駕籠を出ていただきましょう」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、また猪口《ちょく》を出す手先をお絹は見咎《みとが》めて、
「百蔵さん、お前の手はそりゃ……」
「ええ?」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は驚いて手を引込ませ、
「ナニ、いたずらでございます」
と言って、左右の駕籠舁の方に気を兼ねるらしい心持。けれども質朴な駕籠舁は、この時に眼を見合せました。
「こりゃ甲州無宿の入墨者《いれずみもの》だ、この入墨者を峠から一足でも甲州分へ入れた日にゃあ、こっちの首が危ねえ」
 こう言って駕籠舁どもが、一度に立ち上って噪《さわ》ぎ出しました。
「抜いた抜いた!」
 噪ぎ出した駕籠舁が急に仰天して逃げ出します。見れば駕籠から出た机竜之助が刀を抜いて立っていました。
「先生、何をなさいます」
 竜之助は物を言わず、逃げて行く駕籠屋は追おうともせずに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の声のする方へ向って来ますから、
「あ、危のうございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]も驚く、お絹も驚く。驚いて逃げるがんりき[#「がんりき」に傍点]の方へ寄って行く竜之助、ふらふらとして足許《あしもと》が定まりません。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、竜之助の刀を避けて、楢《なら》の木の蔭へ隠れる。白刃《しらは》を閃《ひら》めかした竜之助は、蹌踉《そうろう》として、がんりき[#「がんりき」に傍点]の隠れた楢の木の方へと歩み寄る。
「先生、御冗談じゃありません、わっしをどうしようと言うんでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は木の蔭から叫ぶ。その声をたよりに刀を振りかぶった竜之助。
「先生、眼が見えるんでございますか、わっしをお斬りなさるんですか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、刀を振りかぶった竜之助の形相《ぎょうそう》を見てまた驚く。静かに歩み寄る足取りが盲目の人とは思われない。閉じた眼が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》に向いて輝くような心持がしますから、
「あ、危ねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、楢の木の蔭に居堪《いたたま》らないで、身軽に飛んで、高さ一丈余りある国境《くにざかい》の道標の後ろへ避ける。
 「是《これ》より甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》……
 是より駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして徐々《そろそろ》と歩み寄る。
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から梨子割《なしわ》り。後ろを見せれば背を割られる。進退|窮《きわ》まって道標の蔭から竜之助の隙《すき》をうかがう。
 そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりき[#「がんりき」に傍点]はたまらなくなって、
「おい、御新造様《ごしんさま》、先生は気が違ったぜ、なんの咎《とが》もねえわっしをお斬りなさろうと言うんだ、あ……危ねえ」
 この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりき[#「がんりき」に傍点]の右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ颯《さっ》と紅葉《もみじ》。
「あ痛えッ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「狂人《きちがい》に刃物とはこれだ、手が利いているだけに危なくって寄りつけねえ、御新造様、早く逃げましょう、ぐずぐずしているとお前様も殺《や》られちまいますぜ」
 尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
 お絹は、さすがに狼狽《ろうばい》して途方に暮れているのを、
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで疾《と》うに逃げてしまいました。駕籠屋の逃げたのは駿河の国、がんりき[#「がんりき」に傍点]お絹の逃げたのは甲斐の領分、双方ともに後をも見ずして逃げ去ったあとに、ひとり残る竜之助。
 刀の血振《ちぶる》いをして道標の柱へ手をかけてほっと一息。
 やがて持っていた刀をそこへ投げ出すと斉《ひと》しく、道標の下へ崩折《くずお》れるように倒れて、横になって落葉の上へ寝てしまいました。

 昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪《ふじおろし》が音を立てて、梢《こずえ》の枯葉を一時に鳴らすのでありました。
 竜之助は道標の下に倒れて、昏々《こんこん》として眠っている間に、サーッと雨が降って来ました。時雨《しぐれ》の空ですから、雲が廻ると雨の落ちるのも早い。
 ちょうど雑木《ぞうき》の蔭になったところで、いくらか雨は避けられるようになっているが、葉末から落ちる時雨の雫《しずく》がポタリポタリと面《かお》を打つので竜之助が、うつらうつらと気がついたのは、あれから、やや暫らくの後のことでした。
「雨が降っているようだな」
 まだ本当に正気には返らないで、昏倒《こんとう》から醒《さ》めかかった瞬間の心持は、連々《れんれん》として蜜のように甘い。時雨の雫がポタリポタリと面を打つことが、かえって夢うつつの間を心持よくして、いったん醒めかかってまた昏々として眠くなるうちに、
「ああ、水が飲みたい」
 で、また我に返りました。
 せっかく、よい心持で、いつまでも眠りに落ちようとするのに咽喉《のど》はしきりに水を飲みたがって、
「水、水、水」
 譫言《うわごと》のように言いつづけたが、誰も水を持って来てくれそうな者はなく、水を欲しがる竜之助の面へは雨の雫がポタリポタリと落ちて来るばかりです。
 こういう時の夢には、滾々《こんこん》としてふき出している泉や、釣瓶《つるべ》から釣られたばかりの玉のような水、草叢《くさむら》の間を潺々《せんせん》と流れる清水などが断えず眼の前に出て来るもので、
「あ、有難い、水」
と言って竜之助は、それを手に掬《むす》んで口へ持って来ようとすると、煙のようになくなってしまいます。
 竜之助は、これもかなり長い時の間、夢うつつの境に水を求めて昏倒していましたが、村方の方からは駕籠だけも取り戻しに来そうなものだが、それも来る様子はなし、腕を斬られて逃げたがんりき[#「がんりき」に傍点]と、それと一緒に逃げたお絹の方からも何の音沙汰《おとさた》もなし。
「まだ雨が降っているようじゃ」
 もうかれこれ日は暮れる。その時分ようやく正気がつきかけると、さて自分はいま峠の上に寝ているな、うむ、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]という奴を斬った、駕籠屋が逃げた、そもそもここは甲斐と駿河の境だと彼等の話に聞いていた、その前にかの古寺、その前は……それにしても水が飲みたい――
「水、水」
 咽喉は乾いてゆくけれど、昏睡《こんすい》の慾が強くて、ややもすれば深き眠りに落ちようとする。
 ここは甲州入りの抜道《ぬけみち》、滅多《めった》に人の通るところでないことが、寝ている竜之助のためには幸か不幸か。このまま深い眠りに落ちてしまっては……よし眼が覚めたところでこの人には、どちらへどう行ってよいか方向がわかるまいけれど……

         二

 甲斐の白根山脈と富士川との間の山間一帯に「山の娘」という、名を成さない一団体の女子連《おなごれん》があります。
 仕事の暇な時分に、山の娘は他国へ行商に出かける。
 山の娘は、揃いの盲縞《めくらじま》の着物、飛白《かすり》の前掛《まえかけ》、紺《こん》の脚絆手甲《きゃはんてっこう》、菅《すげ》の笠《かさ》という一様な扮装《いでたち》で、ただ前掛の紐とか、襦袢《じゅばん》の襟《えり》というところに、めいめいの好み、いささかの女性らしい色どりを見せているばかりであります。娘といっても、なかにはかなりのお婆さんもあるけれど、概して鬼も十八という年頃に他国へ出入りして、曾《かつ》て山の娘の間から一人の悪い風聞《ふうぶん》を伝えたものがないということが、山の娘の一つの誇りでありました。
 なんとなれば、これらの娘たちが、もし旅先で、やくざ男の甘言《かんげん》に迷わされて、身を過《あやま》つようなことがあれば、生涯浮ぶ瀬のない厳《きび》しい制裁を受けることになってもいるし、娘たち自身も、その制裁を怖るるよりは、そんな淫《みだら》なことに身を過つのを慙《は》ずる心の方が強かったからであります。
 それと共に、一隊の間には、たとえ離れていても糸を引いておくような連絡が取れていて、一人が危難に遭うべき場合には、たちどころに十人二十人の一隊が集まり得るようにしてあるから、たとえいかなる悪漢でも、その中の一人を犯すことはできないのでした。故に山の娘は、知らぬ他国へも平気で出入りして怖るることがないのであります。それとまた、山の娘の一徳は秘密を厳守する力の優れたことで、彼等の間において約束された秘密は、それは大丈夫が金石の一言と同じほどの信用が置けるのであります。女は秘密の保てないものという定説が、山の娘だけには適用しない、彼等はその仲間うちの秘密を他に洩らすことのないように、得意先の秘密と人の秘密をも洩らすようなことは決してないのです。大塩平八郎の余党の中には甲州へ落ちたものが少なからずある、その中の幾人かは、この山の娘たちによって隠され保護されて一身を全うしたという説は、あながち嘘ではないようです。
 ちょうど降りかかった時雨《しぐれ》を合羽《かっぱ》で受けて、背に負うたそれぞれの荷物を保護しながら、十余人のこの山の娘が、駿河路《するがじ》から徳間峠《とくまとうげ》へかかって来たのは同じ日の夕方でありました。
「さあ、峠の上へ着きましたぞい」
「福士《ふくし》まで行って泊らずかい」
 組の頭《かしら》は、さきに竜之助、お絹の一行が乗り捨てた山駕籠のところまで来て、
「まあ、ここに駕籠が二つも乗り捨ててあるが、どうしたものであろうなあ」
「物扱いの悪い人たちじゃ」
 その駕籠の周囲へ山の娘の一隊が集まる。
「身延様参《みのぶさままい》りは、折々この道を通る人がありますから、それが……はて、煙草入が落ちていたり、駕籠の中には蒲団《ふとん》や包みがそのままであってみたり……」
 彼等はようやく異様な眼で、そこらあたりを見廻し、
「おお、怖い、落葉の中に光る物が……」
 最も早く見つけたのは、組の中でもいちばん若い人。
「あれあれ、血の塊《かたまり》が……」
 山の娘の一人が絶叫する。
「血の塊と言わんすか」
 駈けて行って見ると、
「おう、気味の悪い、人の片腕、こりゃ人間の片腕ではございませぬかいなあ」
 落葉の上の片腕、血は雨に打たれてドロドロにとけて流れている。
「ああ、ここには人が一人殺されて倒れていますわいなあ」
「ナニ、人が殺されて?」
 山の娘は、今度は走り出さないで、十余人が一度にかたまってしまう。針鼠《はりねずみ》は危険に遭うた時は、敵へ向っては反抗しないで、かえってわが身を縮める。山の娘たちもまた、危難の暗示ある時は、遠のいていたものが必ず密集する、そうして組の頭《かしら》の取締りの者がまず口を開くまでは、なんとも言わないのが例となっているのでした。
「皆さん」
 真中に立った頭の女は三十ぐらいの年頃で、血色がよくて分別のありそうな人。
「はい」
 一同は神妙に返事をする。
「身延参りをなさんす旅の人が、今これで追剥《おいはぎ》にあいなさったようじゃ。これから先の道が危ない。皆さんたち甲州入りをなさる気か、それとも駿河の方へ帰りますか」
「それは姉さん次第」
「それなら皆さん、駿河へ帰るも甲州へ入るも人家までは同じぐらいの道程《みちのり》、いっそ甲州へ入ることに致しましょう」
「承知しました」
「わたしが先へ立って参ります、お浪さん後からおいでなさい、いちばん若い人を真中にして」
「心得ました」
「わたしが音頭《おんど》を取りますから、人家へ出るまで皆さん、歌をうたって下さいまし」
「よろしゅうございます」
「それで、人家へ着いたなら、お役人の方へ御沙汰《ごさた》をしなくてはならぬから、一通り、あの人の殺されているところを調べて参りましょう。さあ一緒になって」
 一団になった山の娘は粛々《しゅくしゅく》として道標の傍《かたわら》へやって来る。
「長い刀……」
 頭のお徳は竜之助が捨てた刀を落葉の中から拾い取る。
「この片腕……」
 血が雨で洗われている片腕――さすがに気味を悪がって面《かお》を反《そむ》ける。
「この人は、こりゃお武家じゃわいな」
 恐る恐る竜之助の傍へ寄る。
「水、水が飲みたい」
「え、えッ!」
 山の娘たちは一足立ち退く。
「生きていますぞいな、このお人は」
「なんぞ物を言いましたぞいな」
 年嵩《としかさ》のお徳とお浪とは、竜之助の傍へ再び寄って来て、
「もし」
「うーむ」
「もし」
 背を叩《たた》いて呼んでみて、
「このお人は生きてござんす、その片腕を切られたのは、このお人ではござんせぬ、薬を飲まして呼び生《い》けて上げましょう」
 薬はお手の物。
「水があるとな」
「どこぞ捜《さが》して来ましょうか」
 若いのが一人出ようとするから、
「いいえ、離れてはなりませぬ、一足なりと一人でここを出てはいけませぬ。皆さん、笑いなさんな、このお人に、わたしが口うつしでこの薬を飲まして上げるから」
 山の娘の頭《かしら》のお徳は、気付けの薬を自分の口へ入れて噛《か》む。
 竜之助を抱いてお徳は、口うつしに薬を飲ませる。
 男に許すことを知らない山の娘も、人を助ける時には大胆な挙動をする。よし、これが竜之助でなくして、道に倒れた悪病の乞食であったにしても、その一命を取り返す必要があれば、山の娘は必ずこういうことをするのです。
 無論、一行の中には、それを怪しむものもなければ笑うもののありようはずがない。
「はーっ」
と気が開《ひら》けた竜之助。
「お気がつきましたかいなあ」
「有難い」
「お気を確かにお持ちなさいませ」
「もう大丈夫」
 竜之助は身を起して、道標の傍に立とうとしたけれど足がふらふら。
「お危のうござんす」
 山の娘たちが押える。
「このお刀はあなた様の……」
「ああ、そう。いや、どうも有難い」
「拭いて上げましょう」
 山の娘は手拭《てぬぐい》で刀を拭いて竜之助に渡す。
「ここに人の片腕が斬り落されてござんすが、こりゃどうしたわけでござんすかいな」
「ああ、それは……」
 竜之助は刀を鞘《さや》に納めながら、
「悪い奴が出たから斬ったのじゃ」
「悪い奴、その悪い奴は、片腕だけを残してどっちへ参りましたかいな」
「いずれへ逃げたか知らぬ、斬ると逃げた、そのままわしは眠くなってここへ倒れて寝た故に、前後のことは更にわからぬ」
「悪い奴でござんすなあ。皆さん、その手をここへ持って来て、お武家様にお目にかけるがよいぞや、お見覚えがありなさんすかも知れぬ」
「それもそうでござんすな」
 お浪が拾って来た、がんりき[#「がんりき」に傍点]の片腕。
「どうぞこの悪い奴の片腕を、篤《とく》とごらん下されましな」
「はは、わしは眼が見えぬのじゃ、この通り不自由者じゃ」
「お目がお不自由……まあ、そうでござんしたか、それは失礼なことを」
 山の娘たちは、今更のように竜之助の面を見る。
「ああ、皆さん、この片腕はなあ」
 腕を持って来たお浪が、何か気がついたように叫ぶ。
「その片腕が、どうなさんした」
「この片腕には入墨がしてありますぞいな。この入墨は甲州入墨といって、甲州者で悪いことをしたのが、甲府の牢屋《ろうや》へつながれて追い出される時に、この入墨をされるのじゃわいな」
「まあ、どこにそんな入墨が」
「これ、この通り、手首から五寸ほどのところに二筋の入墨」
 なるほど、斬り落された腕にはその通りの入墨がある。
「案《あん》の定《じょう》、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了《おお》せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交《かわ》る交る舁《かつ》いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」

         三

 東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵《いわぶち》から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島《とおじま》、左が万沢《まんざわ》で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりました。兵馬は要路の人から証明を貰っているから、いつ、どこの路をも滞《とどこお》りなく通過することができるので、七兵衛は兵馬と一緒に歩く時のみはその従者として通行するが、一人で歩く時は、到るところのお関所を超越してしまいます。
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
 兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州|訛《なま》りがありますのと、それからあいつの手に入墨があるのでございます、そいつが甲州入墨と、ちゃんと睨《にら》んでおきましたよ」
「甲州入墨というのは?」
「手首と臂《ひじ》の間に二筋、あれこそ甲府の牢を追放《おいはな》しにされる時に、やられたものに違いございません」
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに怖《おど》っかする人間ではございません。なんでもこの辺の間道《ぬけみち》を通って、甲州入りをしたものに違いございませんが、あいつが盲目《めくら》と足弱をつれて、どういう道行《みちゆき》をするかが見物《みもの》でございます。これから川岸を西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《きりくぼ》、福士《ふくし》と行くうちに、何かひっかかりが出て来るから見ていてごらんなさい、無事に身延まで伸《の》せたら、この七兵衛が兜《かぶと》を脱いでしまいます」
「しかし、間道から身延へ出ないで、信濃路へ紛《まぎ》れ込むようなことはなかろうか」
「どうしてどうして。あれごらんなさい、あの白根山《しらねさん》の山つづき、鳥獣《とりけもの》でさえも通《かよ》えるものではございませぬ。どのみち、水が低いところへ落ちて来るように、あの道を出たものは、いやでもこの富士川岸へ落ちて来るのが順なのでございますよ」
「もしまた、さきにこの川へ出て、船で逆に東海道へ戻ってしまうようなことはなかろうか」
「それは何とも言えません……なにしろこの川は、鰍沢《かじかざわ》から岩淵まで十八里の間、下る時は半日で下りますが、これを上へ引き戻すには四日からかかりますからな。しかし、やっぱり舟にも関所がありましてね、舟改《ふなあらた》めをされますから、舟で逆戻りをするようなことになると、かえって毛を吹いて疵《きず》を求めるというようなことになりましょう、それは大丈夫でございます」
「舟改めはどこでやります」
「やはりこの万沢と十島とでやるのでございます。それにひっかかって御覧《ごろう》じろ、入墨者と女と、それからお尋ね者のような、あの竜之助様、忽ちに動きが取れなくなってしまうのでございますから、大丈夫、舟へかかる気遣《きづか》いはございません」
「七兵衛どの、そなたの言うように、あの三人が果して一緒におるものやら、それとも離れ離れになっているものやら、それもようわからぬではないか」
「三人は三《み》つ巴《どもえ》のようになって、ちょっとは離れられない組合せになっているのがおかしゅうございます。それとも離れる時には、どれか一つ命が危ない時で、まかり間違えば三つ共倒れになるのが落ちでございますから、そーっと置くのがかえって面白いんでございますがね」
 こんな話をしながら兵馬と七兵衛は、富士川岸の険路を、前に言ったように西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《きりくぼ》と過ぎて、福士川《ふくしがわ》のほとりへ来た時分には日が暮れかかっています。
「昨日の雨で、少し水が出たようでございますが、ナーニ、このくらいなら大したことはございません、川留めになるようなことはございません」
 水のひたひたと浸《つ》いた板橋を渡りながら、
「この川は富士川の支流《わかれ》か知らん」
「富士川の支流ではござんすまい、駿河境の方から出て富士川へ流れ込むのでございましょう。これだけの流れでございますが、雨上りにはかえってこんなのが厄介で……」
と言いさして、板橋を半ばまで渡り来《きた》った七兵衛、そこで立ち止って、流れの少し上手《かみて》の方をじっと見る。
「宇津木様、少しお待ちなすって下さいまし」
 七兵衛は、先へ行く兵馬を呼び止めて、自分はやっぱり川の少し上手の方を見ています。
「どうしました」
「どうも何だか、あすこに変なものが、あの石と石との間に挟まっておりますな」
「おお、何か白いものが……」
 夕暮れのことであり、少し離れているところでしたから確《しか》とは見定め難いけれど、
「どうやら、人間の腕のように見えますが、あなた様のお眼では……」
「左様、わしが眼にもどうやら……」
「向うへ廻ってよく調べてみましょう」
 一旦、板橋を渡りきって七兵衛は、岩の間を飛び越えてそこへ行って見る。
「宇津木様、この辺でございましたな」
「そこへ真直ぐに手を伸ばせば……」
「それではこの棒で突き出してみますから、そちらで受けて下さいまし」
 岩の間に淀《よど》みもせず流れもせず、ふわりとしていたものを七兵衛が上から棒で突き流すと、兵馬の足許へ流れて寄ったのは、
「おお、たしかに人の片腕」
「なるほど、人の片腕に違いございませんな」
 七兵衛はその片腕を棒の先で砂洲《さす》の上へ掻《か》き上げて、腕を一見すると、意味ありげな笑い方。
「こんなことだろうと思った」
 兵馬にはその意味がよく呑込めないでいると、
「宇津木様、図星《ずぼし》でございますよ」
「図星とは?」
「この通り、御覧下さい、この腕に二筋の入墨がございます、これがさいぜんお話し申し上げた、甲州入墨でございます」
「なるほど」
「どうか、スパリとこの腕をやった切口をよく御覧なすって下さいまし、斬手がどのぐらいの奴だか、それをよく御覧なすって下さいまし」
「ははあ」
 兵馬は篤《とく》とその切口を見る、手は右の二の腕から一刀に。
「よく切ってある」
「さあ、斬った奴は生きてるか、斬られた奴は死んでしまったか、これからがその詮議《せんぎ》でございますよ。どのみち、この川上の仕事に相違ございません」
「尤《もっと》もだ」
「今晩はこの福士へ泊って、土地の人によく地の理を聞いてみましょう。地の理を聞いてから、この川上へ行って見ると、思いにつけぬ獲物《えもの》があるかも知れませんよ。なんでもこの川沿いに、駿河へ出る路が別にあるに相違ありませんですね。そうなれば、もうこっちのものでございますよ」
 七兵衛はなお川上を見る。兵馬はその腕をよく見ている。
「この腕がここへ流れつくまでには、かなりの時がたったであろう……斬って逃げたか、斬られて逃げたか」
「眼があんなでなけりゃあ、腕だけで逃す斬手ではございませんがね。またこっちの奴にしたところで、片一方斬られて、それなりで往生する奴でもございません。ところであのお絹という女、あの女がどっちへついて逃げたか、それは考え物ですね。この腕はこうして置くもかわいそうだから、砂の中へ埋めておいてやりましょう。まあ、あの野郎も、この腕一本のおかげで命拾いをしたと思えば間違いはござんすまい、この腕はあの野郎にとっては命の親でございますから、そのつもりでお葬《とむら》いをしてやりましょう」
 七兵衛は棒の先で砂場へ穴を掘って、足の先で腕を蹴込《けこ》んで、砂をかぶせて、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》をいう。

         四

 福士の宿屋へ泊った七兵衛と兵馬。
 七兵衛は行燈《あんどん》の下で麻を扱《しご》いて、それを足の指の間へ挿《はさ》んで小器用に細引《ほそびき》を拵《こしら》えながら、
「ねえ、宇津木様、知らぬ山道を歩くには、この細引というやつがいちばん重宝《ちょうほう》なものですよ、こいつを持って歩いてると、まさかの時にこれが命の綱となるのでございます」
 兵馬は旅日記を書いていましたが、
「なかなか、器用に撚《よ》れますな」
「へえ、子供の時から慣れておりますからな。子供の時分に、こうして凧糸《たこいと》を拵えたものでございますよ」
 七兵衛は見ているまに二間三間と綯《な》ってゆく。
「長い道中をする者は、これと火打道具だけは忘れてはなりません。あなた様なんぞは煙草をお喫《の》みなさりはしますまいが、それでも火打道具だけはお忘れなすってはいけませんでございます」
「それは忘れはしない」
「私共のように煙草を喫みますと、火打道具は忘れろと言っても忘れることじゃござんせん。おやおや、そんなことを言ってる間に、煙草が喫みたくなって参りました」
 七兵衛は細引をやめて煙草入れを取り、日記を書いている兵馬の方をちょいと覗《のぞ》き込みながら、
「大分、御精が出ますね」
「日記は、忙《せわ》しくともその日に書いておかねば、あとを怠る故」
「感心なことでございます。私共なんぞも若い時に、もう少し勉強をしておけば、もう少しよい人になったものでございましょうが、貧乏や何やかで、つい学問の方に精を出すことができませんで、今となっては後悔《こうかい》先に立たずでございます、若いうちに御勉強をなさらなくてはなりません」
 七兵衛は述懐《じゅっかい》めいたことを言う。
「おやおや、絵図をお書きになりましたね。なるほど、甲州入りの絵図でございますね。よくこんなに細かにお書きなすったものでございますね。私なんぞはこの甲州を通ることが幾度あるか知れませんが、まだ絵図面を取ってみようというような考えを起したこともございませんのに、さすがにあなた様は」
 七兵衛は兵馬が書いた甲州図を見て、
「なるほど、こちらの方が西川内領《にしかわうちりょう》、ここが万沢《まんざわ》でございますな。こちらが東川内領で十島《とおじま》。なるほど、この富士川を上ってここが福士、それから身延鰍沢《みのぶかじかざわ》、信州境から郡内《ぐんない》、萩原入《はぎわらいり》から秩父《ちちぶ》の方まで、よく出ておりますな。中へ入れば、これでずいぶん広いところもありますけれど、こうして見れば本当に甲州は山ばかりでございますな」
「いや、これはほんの見取図で、まだこれへ書き入れないほかの山や川や村がいくらもあるでしょう」
「そう言われるとそうでございますね。信州|佐久《さく》の方へ出るところに、まだこのほかに一筋の路がございますよ。相州口にも、まだちょっとした間道《ぬけみち》がございますがな、それは処の案内者でないとわかりませんでございますよ。なるほど、この福士から富士川を上って徳間へかかって、駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》へ出る道は記してございますな。明日はこの道をひとつ、行ってみようというんでございますな」
「七兵衛どの」
 兵馬はようやく筆を休めて、
「さてどうも長の旅路を、いろいろとお世話にあずかってかたじけない、なんともお礼の申し様《よう》もござらぬが、そなたの仕事の障《さわ》りにはなりませぬか。こうしてお世話になることは、拙者にとってはこの上もない有難いことなれど、農事やその他の妨げになるようなことはないか、それがいつも心配で……」
「またしてもその御心配、それはお止めになされませ、そういうことにかけては私共は、これで気楽な身分でございます」
 兵馬は七兵衛の素姓《すじょう》をよく知らないのです。ただ自分の娘にしているお松のために尽す行きがかりで、自分に尽してくれるのだと、こう思っています。
 一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り上方見物《かみがたけんぶつ》をするつもりで、あなた様のお伴《とも》をして相当のお力になるつもりでございます」
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が迅《はや》い、兵馬にとってはこの上もない力であります。
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を巡《めぐ》って歩くのが何より楽しみなのでございますから、どうか打捨《うっちゃ》ってお置きなすって下さいまし。それからもう一つは、あのお松の爺父《おじい》さんというのを切った奴、それを探してやりたいんで。こうなってみると、おたがいに意地でございますから、首尾よくあなた様が御本望《ごほんもう》をお遂げなさるまではお伴《とも》していたいのでございます」
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
 兵馬は何の合点《がてん》もなく、ただ笑うばかり。
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことではないんで、うっかり七兵衛とおっしゃると罰《ばち》が当りますよ」
「罰が当る?」
「そうでございます、御承知の通り私共は韋駄天《いだてん》の生れかわりでございまして、下手《へた》に信心をするとかえって罰が当ります」
 こんな話をしてその晩はここに泊り、兵馬と七兵衛はその翌朝、暗いうちに福士川の岸を上ります。
 岸がようやく高くなって川が細くなる。細くなって深くなる。峰が一つ開けると忽然《こつねん》として砦《とりで》のような山が行手を断ち切るように眼の前に現われる。七兵衛は平らな岩の上に立って谷底を見ていたが、
「この水は、あの山を右と左から廻《めぐ》ってここで落合《おちあい》になるようだが、徳間はあの山の後ろあたりになるだろう、ここらあたりから向うへ飛び越えて行けば妙だが」
 山の裾《すそ》から谷底、向うの岸をしばらく眺めているうちに、
「はて、この谷の中に何かいるようだ」
 七兵衛は蔽《おお》いかぶさった木の中から谷底を覗《のぞ》く。なるほど、ガサガサと物の動くような音がします。
「宇津木様、この下に何かいますぜ、熊か猪か、それとも鹿か人間か、ひとつ探りを入れてみましょう」
 手頃の石を拾って谷底へ投げ落すと、
「危ない、誰だい石を投げるのは」
 谷底から子供の声。
「おや、子供の声のようだ」
 七兵衛は深く覗き込んで、
「誰かいたのかい」
「人間が一人いるんだよ」
「人間が……そんなところで何をしているんだい」
「何をしたっていいじゃないか、お前こそ上で何をしているんだい」
「俺は旅人だが、下で音がするようだから石を抛《ほう》ってみた。そこにいるのはお前一人か」
「私一人だよ、もう石を抛ってはいけないよ」
「もう抛りはしない、その代り道を教えてくれないか」
「お待ち、今そこへ登って行くから」
「いいよ、お前が登って来なくても、こっちから下りて行く」
「危ないよ、上手に下りないと岩の上へ落ちて身体が粉になるよ」
「大丈夫――宇津木様、こんな谷底で子供が一人で何をしているのだか、ひとつ下りて行ってみましょう」
 七兵衛は兵馬を残して、木の根と岩角《いわかど》を分ける。
「小僧さん、どこだい」
「ここだよ」
 屏風《びょうぶ》のようになった岩の蔭。水を飛び越えて七兵衛は声のする方へ行って見ると、笠をかぶって首から肩へ袋をかけて、尻切半纏《しりきりばんてん》を着た十五六の少年が一人、水の中を歩いています。
「山魚《やまめ》でも捕るのかい」
「そうじゃないよ、もっと大きな物を捕るんだ」
「山魚より大きなもの――それでは鰻《うなぎ》か鱒《ます》でもいるのかい」
「そんな物じゃあない、もっと大きな物よ」
「鰻や鱒より大きなもの――はてな、こんなところにそんな大きな魚がいるのかね」
「いるから捕りに来るんじゃないか」
「なるほど、鰻や鱒よりも大きい……まさか鮪《まぐろ》や鯨《くじら》がいるわけでもあるまいな」
「ははあだ、鮪や鯨よりもっと大きな物がいるんですからね、お気の毒さま」
 人を食った言い分で七兵衛もいささか毒気《どっき》を抜かれます。
「鮪や鯨より、もっと大きなもの――それをお前はそのお椀《わん》で掬《すく》って、その袋へ入れようと言うんだね」
「そうだよ、その通り」
 ああ言えばこう言う、少しも怯《ひる》まぬ少年。
 なるほど、少年は手に一箇の吸物椀《すいものわん》を持っていて、それで水の中を掻き廻していたのです。右のお椀で水の中を掻き廻して掬い上げると、鮪も鯨も入ってはいない、ただ川の中の砂がいっぱい。
「どうだ、おじさん、わかったかい、これは鮪や鯨より大きいものだろう」
「何だい」
「このピカピカ光る物をごらん」
「はてな」
「このお椀を左右へこんなに動かすと、それ、だらだらと砂が溢《こぼ》れる。砂が溢れると、あとに残るのがこのピカピカする物。おじさん、これを何だと思う」
「なるほど」
「知らなけりゃ教えてやろう、こりゃ黄金《きん》というものだよ。黄金というものは、この世でいちばん大したものなんだ、鮪や鯨より、もっと大きなものなんだ」
「なあーるほど」
「国主大名のような豪《えら》い人でもこの黄金の前には眼が眩《くら》むんだよ、花のような美しい別嬪《べっぴん》さんでも黄金を見れば降参するんだよ。どんな者でも、この黄金の前へ出れば顔色が変るんだから、なんと大したものじゃねえか」
「なるほど、こいつは恐れ入った」
「この甲州という国は、昔から金が出る国なんだよ」
「そりゃわかった、黄金の話はまた後から聞かしてもらおう。小僧さんや、あの山はありゃ何という山だい」
「あれか、あれは土地では燧台《のろしば》と言っているが、昔はお城があったところ、今はお化《ば》けと狼が住んでいるんだ」
「お化けと狼が?」
「あの裏山へ廻ればお化けと狼がいるという話だけれど、こっちの方を通ればそんなものは出て来やしない」
「けれども、あっちを通れば徳間の方へは近いのだろう」
「近いには近いけれど、なにも、わざわざお化けや狼に食われに行かなくてもよかろう」
「そうお前のように、いちいち理窟攻めにされてはたまらない、ただ聞いてみただけのことだよ」
「だから親切に教えて上げるんだよ、燧台《のろしば》の後ろへは土地の人だって行きゃしない」
「そうして小僧さん、お前はお化けや狼の出るという山の傍で、鮪《まぐろ》や鯨より大きな金目《かねめ》のものを持っていて、それで怖《こわ》くはないのかい」
「ナニ、怖いことがあるものか、悪いことをしていなけりゃ怖いことはねえ」
「それでもお前、その袋にいっぱい入っている黄金《きん》の塊《かたまり》を盗まれたらどうする」
「ははは」
「泥棒が、お前の後ろから不意に出て来て、その黄金の塊をよこせと言ったらどうする」
「ははは、よこせと言ったら遣《や》っちまうよ、この袋の中にある黄金なんぞは、いくらのものでもありゃしない」
「でもお前、大金だろう」
「ナーニ、これっぽっち。気の利いた泥棒はこんなものに目をくれやしない、俺《おい》らはまだ、ウンと山の中へ隠しておくんだ」
「どこの山へ」
「そりゃ教えるわけにはいかねえ」
「ちっとわけてくれないかい」
「おじさん、黄金が欲しけりゃ、私の弟子におなりよ、一山当てれば何百万両になるんだから、泥棒よりよっぽど割がいいよ」
 七兵衛はこの子供にまくし立てられてしまいそうで、思わず苦笑《にがわら》いをしたが、
「ときに小僧さんや、お前は金をたずねてこうして山奥を歩いているらしいが、私共はちと人を尋ねてこの山の中へ来たもんだ。お前はこの二三日に、この入《いり》で人を見かけなかったかい」
「見かけたよ」
「どんな人を見かけたい」
 七兵衛も少し乗気になる。
「山の娘たちを見かけたよ」
「山の娘たちというのは?」
「山の娘たちというのは、この国から出て、他国へ商売に行って、この国へ戻る娘たちのことだよ」
「そうか、そのほかには?」
「そのほかにはお前さんを見かけたばかりだ」
「刀をさした人とか、脇差《わきざし》を持った人、そんな人は見かけなかったかい」
「そんな人は……そんな人は見かけなかったよ」
「では、その山の娘たちというのは、どっちから来てどっちへ行ったえ」
「それは駿河の方から来て、この少し先の入《いり》から篠井山《しののいざん》の方へ廻ったようだ」
「そうか」
 七兵衛はついにそれより以上の要領を得なかったから、
「有難う、小僧さん」
「さようなら、おじさん」
 七兵衛が岩を飛び越えて、また上へ登ってしまうと、暫くして金掘《かねほ》りの少年は、
「うまく嚇《おどか》してやった、人を尋ねると言ったのは大方あのことだろう、燧台《のろしば》の後ろへ行くとお化けと狼が出ると言ったら本気にしていやがった」
 椀《わん》を袋へ納めて牛の背のような岩の上へのぼる。
「おーい」
「おーい」
 高いところの七兵衛と兵馬、谷の中の金掘り少年と呼び交《か》わす。
「右へ、右へ」
 少年が右の方を指さすのに、兵馬と七兵衛はそれを知りながら面を見合せて左へ向う。
「右へ、右へ」
 少年はしきりに叫びながら手を振って、
「おやおや、あの二人は左へ廻ったな、すると藤蔓橋《ふじづるばし》のあるところを知ってるのかしら、あれを渡られるとちっと困るぞ」
 上の二人は、燧台に近い細道を川沿いに、
「あの小僧、なかなか人を食った小僧でございます、この山の後ろへ廻ると、お化けと狼がいるなんぞと大人を嚇《おどか》す気になっているが、どのみち近いに越したことはございませんから、この辺をひとつ向うへ突っ切って、この燧台の後ろへ廻ってみましょう」
「なるほど、この山は要害の山、狼火《のろし》を上げて合図をするに都合のよかりそうな山だ」
「左様でございます、土地の人は燧台とも言うし、城山とも言うそうでございますから、昔は城があったものでございましょう」
「あれ、あの小僧が手を振っている」
「右へ、右へと怒鳴《どな》っていますな。おやおや動き出した、木の椀が転がり落ちた、それをまた拾っている。いやあれは椀カケとも言い、揺鉢《ゆりばち》とも言って、あれで川の底や山の間の砂を淘《よな》げてみて金の有無《あるなし》を調べるんで。しかしあれだけの子供で、あれだけの慾があるのはなんにしても感心なことだ。甲州人というやつは、一体になかなか山気《やまき》がある。あの小僧なんぞも、あれでよく抜けたらエラ者になりそうだ。あれ、見えなくなってしまった、また谷底へ下りたかな。おや、あの山道を駆けて行く、どこへ行く気だろう」
 金掘りの少年は山の小径《こみち》をドンドンと駆ける、駆けながら独言《ひとりごと》、
「あのおばさんが、江戸へ連れて行ってくれると言ったから、江戸へ行ってしまうんだ、こんな山の中では出世ができない、いくら黄金《きん》を持っていても、それを上手に使わなければ詰らねえ、黄金を上手に遣《つか》うには都へ出なければ駄目だ、山へ来て黄金を取って都へ出て遣うんだ、黄金は人に掘ってもらって、自分はいつでも都にいて、遣って儲《もう》けていた方がいいだろう。それはそうと、いま向うの岸を廻った二人連れ、あれは、どうやら剣呑《けんのん》だ、早く行っておばさんに知らせてやろう」
 燧台の裏へ先廻りした金掘りの少年は、岩の間へ掛け渡した、半分は洞窟《ほらあな》になった小屋へ駆け込んで、
「おばさん、おばさん」
 笠も袋も投げ出し、
「人が来るよ」
 暗いところから面《かお》を現わして、こっちを見たのは、意外にも徳間峠を逃げたお絹の姿でありました。
「忠作さん、どんな人が来ます」
「五十ぐらいの合羽《かっぱ》を着た人が一人と、それから、まだ前髪のある若いお侍が一人」
「ああ、それでは……」
 お絹は、
「忠作さん」
 金掘りの少年の名は忠作というらしい。
「なに」
「今あの人は寝ているから、あのままにしておいて下さい」
「ようござんす」
「それから忠作さん、お前は江戸へ出たい出たいと言っていましたね」
「ああ、おばさん、お前がつれて行ってやると言ったじゃないか」
「ええ、あの人の創《きず》が癒《なお》ったらつれて行って上げるつもりでいましたよ」
「早く癒ればいいな」
「いつ癒るか知れないからね……」
「早く癒してやりたいな」
「早く癒してやりたいけれども、こんなところではお医者さんもなし、お薬もないから、いつ癒るんだか知れやしない」
「気の毒だな」
「それだから忠作さん、こっちへおいで」
 お絹は、そっと奥の方を気遣《きづか》うこなしで、静かに立って忠作を表の方へ誘い出し、耳に口を当てるようにして、
「気の毒だけれど、あの人をああして置いて、二人で江戸へ行ってしまいましょうよ」
「ええ?」
 忠作は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》ってお絹の面《かお》を見上げ、
「あんなに怪我をした人を置放しにして出かけるのかい」
「でも、いつ癒るんだか知れやしないもの」
「だって、それはおばさん、薄情というものだろう、あの人を置放しにして出かけて行ってしまうなんて」
「そうしてもいい人なんだよ、あの人はお前、本当は泥棒なんだよ」
「泥棒?」
「ああ、泥棒で悪い奴なんだから、助けない方がかえってためになるのですよ」
「だって、おばさん、お前は連れの人で、道で追剥《おいはぎ》に遭ってこんなことになったと話したじゃないか」
「それは、お前を驚かさないようにわざとそう言っておいたのよ、本当はあの人は泥棒で、入墨者といって、あの人をかくまったことが知れれば、お前もわたしも罪になるのだよ」
「どうして、おばさんはそんな人と連れになって来たの」
「それにはわけがあるんだけれど、今お前が知らせてくれた人が来るというのは、きっとお役人か何かだろうと思う、それで早く逃げなければお前もわたしも縛られてしまう」
「そりゃ困ったな」
「さあ、お前案内して、間道《ぬけみち》の方から早く逃げておくれ」
「だっておっ母《かあ》が里へ行ってまだ帰らねえし、それから……」
「そんなことを言ってる時ではありません、甲府まで逃げれば知った人もありますから、後はまたなんとでもなります」
「それじゃおばさん、逃げよう」
「早くそうしておくれ」
「待っておいで、大事なものを持って来るから」
「何を持って来るの」
「黄金《きん》を」
「黄金を?」
「穴蔵《あなぐら》の中に蔵《かく》してあるから、あれを持って来るよ」
「病人に触《さわ》らないようにね」
「ああ、いいよ」
 忠作は、また奥の洞窟の方へ取って返して一包の袋を重そうに提げて来ました。
「これだよ」
「中に何があるの」
「黄金」
「黄金というのは、あの小判《こばん》にするお金のことなの」
「そうだよ」
「どうしてそんな物を持っているの」
「俺《おい》らの死んだ父《ちゃん》と俺らと二人で、山や谷を探して見つけ出しておいたものだよ、これだけあればおばさん、三年や五年は楽に暮して行けると言ったよ」
「それがみんな黄金なら大したもの、三年や五年どころではない、一生、楽に暮して行けるかも知れない」
「それではおばさん、これを持って行こう、きっと江戸へつれてっておくれ、江戸へ行ったらこの黄金を売っておばさんにもお礼をするから」
「そんなませ[#「ませ」に傍点]たことを言うものではありません、さあ、それを持ったら早く」
「間道《ぬけみち》から、おばさん、万沢へ出ようよ、その方が順だから」
「どっちでもお前のいいように」
「けれども、あの人を一人で置くのはかわいそうだな」
「大丈夫だよ、今に役人が来て、つれて行ってしまうから。ぐずぐずしているとこっちが危ないのだから」
「それでは……里へ行ってるおっ母《かあ》が帰って来ると心配するだろうから」
「だって当分は帰らないと言ったそうじゃないか」
「二月ほど経ったら帰るかも知れない」
「そんな暢気《のんき》なことを、聞いてはいられない」
「おっ母は里へ行って、またほかの人にお嫁に行くんだと言っていたから、もうここへは帰らないのだろう」
「それでは誰も心配する者はないはずだから、早く行きましょう」
「江戸はいいところだろうな、人の話に聞いたばかりで、早く行って見たい見たいと思ったが、今日はおばさんに連れて行ってもらえるかと思うと、こんな嬉しいことはないけれど、この小屋も住み慣れてみると何だか惜しいような気がするね」
 この場合に、江戸へ行きたがっていた少年の心をお絹が心あって焚《た》きつけるので、少年はすっかりその気になって、大急ぎで旅立ちの用意をします。このとき奥で、
「御新造《ごしんぞ》、いやお絹さん」
 譫言《うわごと》のような声、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の声。
「何か言ってるよ」
 耳を澄ますと、
「御新造、いやどうも」
 二人は面を見合せて、
「あれ、また何か言っている」
 奥では引続いて、
「いよ、お二人様」
 二人は奥を見込んで、
「眼が醒《さ》めたのかしら」
 奥の声、
「もうこっちのものだ」
 お絹忠作はニッコリと笑って、
「魘《うな》されているんだよ」
 奥では、つづいて、
「これからがこっちの世界と出る、へん、甲州ばかりは日が照らねえ、入墨がどうしたと言うんだ、これから御新造をつれて、泊り泊りの宿を重ねて鶏《とり》が鳴く東《あずま》の空と来やがる、嫉《や》くな妬《そね》むな、おや抜きゃがったな、抜いたな、お抜きなすったな、あ痛《いて》ッ、あ痛ッ、斬ったな、汝《うぬ》、斬りゃがったな」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の譫言《うわごと》は嵩《こう》じてくる。その間にお絹は忠作を嗾《そその》かして、この小屋を逃げ出してしまいました。

         五

 今宵《こよい》は月がよく冴《さ》えている。主婦《あるじ》のお徳は庭へ出て砧《きぬた》を打っていると、机竜之助は縁に腰をかけてその音を聞いています。
 ここは篠井山《しののいざん》の山ふところ、お徳というのは先日、峠の上で竜之助を助けて来た「山の娘」たちの宰領《さいりょう》であります。
 お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の筒袖《つつそで》を着て、手拭を被《かぶ》って砧を打つと、その音が篠井山の上、月夜段《つきよだん》の奥までも響いて、縁に腰かけた竜之助の足許から股《もも》のあたりまでが、軽い地鳴りで揺れるのがよい心持です。
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
 お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も入用《いりよう》のない身になったけれど、それでも物の音だけはよくわかります。いや、眼が見えなくなってから、耳の方が一層よくなったようじゃ。そうして御身がいま打つ砧の音を聞いていると、月が高く天に在って、そしてそこらあたり一面には萩の花が咲きこぼれているような心持がします」
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござんした……月見草はよい花でございます」
「あれはさびしい花であるが、風情《ふぜい》のある花で、武蔵野の広々したところを夕方歩くとハラハラと袖にかかる、わしはあの花が好きであった」
「先《せん》の人もこの花が好きだと申して、山から取って来ては、この通り庭いっぱいに植えたのでございます」
「御身の先《せん》の良人《つれあい》という人は、なかなか風流人であったと見える。武術の心がけもあったようであるし、文字の嗜《たしな》みもあったというのに、その上こうして庭に花を植えて楽しむというのは、こんな山家住《やまがずま》いには珍らしい人であったようじゃ」
「もとからこの山家の人ではございませんでした」
「どこから来た人?」
「上方の方から参りました、いいえ、縁もゆかりもない人で、ふとした縁から一緒になってしまったのでございます」
「甲州は四方《しほう》山の国、思いにつけぬ人が隠れているそうじゃ。そんなことはどうでもよいが、甲州といえば、わしが生国《しょうごく》はその隣り。ここへ来ると、わしもどうやら故郷へ来たような心持がして、この山一つ向うには、懐しい親子が待っているように思われてならぬわい」
「御尤《ごもっと》もでございます、なんとかして早くお帰し申すようにして上げたいと……でも当分は、おうちのつもりで御休息をなさいませ」
 家の奥の方でこの時、書物を声高《こわだか》に読む子供の声がします。
「よく勉強していますな。あの子は性質《たち》のよい子じゃ、よく育ててもらいたいもの」
 竜之助は、奥の間で本を読んでいる子供の声に耳を澄ましている様子です。
 子供は三字経《さんじきょう》を読んでいるものらしい。
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「養うて教へざるは父のあやまち
教へて厳ならざるは師のおこたり」
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というような文句が断続《きれぎれ》に聞えます。
「今はもう、あの子の成人するばかりが楽しみでございます。他国《よそ》へ出る時はお隣りへ預けて参りますが、それでも感心に手習や学問に精を出してくれますから。なに、こんな山家で学問なんぞをと申しますけれど、死んだ良人《つれあい》が、この子はぜひ世間に出してやりたいと申しておりましたものですから」
 母もやっぱり、わが子の読書の声を嬉しがって聞《き》き惚《ほ》れています。やがて読書の声が止んで、しばらくして裏口からハタハタと駆け出して来た子供。
「お母さん」
「蔵太郎《くらたろう》かえ」
「ああ」
 月見草が咲いた中から、面《かお》を出した六歳ばかりの可愛らしい男の児。
「おじさんもいるの?」
「おじさんもここでお月見を……お前も来てあのお月様をごらん」
 お徳はわが子を縁側の方へ麾《さしまね》く。
「月見草がよく咲いてるね」
と言って、子供はその花を一つ※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》る。
「あ、これ、その花を取ってはいけません、それはお前のお父さんが大好きな花なのだから大切にしなくては」
「でも、こんなにたくさん咲いているから一つぐらい」
「一つでもいけません、せっかく、月見草がお月見をしているものを、摘み取るのはかわいそうですよ」
「花が月見をする? それはおかしいね、母さん」
「ごらん、この月見草という花は、日が暮れるとこんなに咲いて、日にあたると凋《しぼ》んでしまうのだから。お月様の好きな花、そうしてお月様に好かれる花」
「坊は、こんな花よりも桜の花や、つつじの花が好きさ」
「お前のお父さんはまたこの花が好きであったのだから、お前も好きにおなり」
「それでは好きになろう、この花と一緒にお月見をしよう」
「それがよい。そんならおじさんの傍へ行って、縁側へ腰をかけてお月見をしながら、また戦人《いくさにん》の話を教えておもらいなさい」
「そうしよう。おじさん」
 子供は勇んで竜之助の傍へ来る、竜之助は黙ってその頭を撫《な》でる。
「おじさん、お前は眼が見えないのだろう?」
「ああ、眼が見えない」
「それでお月見をするのはおかしいね」
「それでもその月見草でさえも、眼がなくてお月見をしているではないか」
「そうだな、眼がなくても月が見えるだろうか知ら」
「それは見える」
「では、この月見草の花は、どんな色をしているか当ててごらん」
「黄色い色をしている」
「よくわかるね。それではおじさん、坊がここへ字を書くから、その字を読んでごらん」
 子供は棒切れを取って竜之助の足許《あしもと》の地面へ大きく文字を書いて、
「さあ、何という字を書いた」
「それは読めない」
「それごらん」
「どうにも、おじさんにはそんなむずかしい字は読めぬ」
「教えて上げようか」
「教えてくれ」
「いや」
「教えてくれ」
「いや」
「その字が知りたい」
「教えればおじさん、戦人《いくさにん》の話をしてくれる?」
「焦《じ》らすものではない、早く教えてくれ」
「蔵太郎や、おじさんを焦らさないで早く教えてお上げ」
「それでは教えて上げよう、いま書いたのは月という字」
「ああ、月という字――そう言おうと思っていたところ」
「聞いてから言っても駄目。それではおじさん、戦人のお話をしておくれ」
「おじさんに戦人の話をしてもらうより、お母さんに歌を聞かしておもらい」
「お母さんに歌を?」
「お前のお母さんは歌が上手であった。話は家の中でするもの、歌はこういうところでうたうのがよい」
「それではお母さん、歌をうたって聞かせておくれ」
「母さんに歌などがうたえますことか。それはおじさんが嘘《うそ》をおっしゃるのですよ」
「嘘ではない。峠から下りて来る時、山駕籠の中でうつつに聞いていたがよい声であった。あれをひとつ、この月の晩にここで聞かしてもらいたい」
「まあお恥かしいこと、あんなのは歌でもなんでもありゃしません、魔除《まよけ》にああして声を出し歩くだけのことで」
「そうではない、土地の歌は土地の人の口から聞かねば情合《じょうあい》がない、あの、甲州出がけのという歌、あれを駕籠の中で聞いていた時に、わしはなんとなく腸《はらわた》に沁《し》みるような心持がした、ぜひもう一度、聞かしてもらいたい」
「甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》、涙湿《なみだじめ》りで火がつかぬ……あれでございますか」
「そうそう、それにもう一つは何と言ったか、生れ故郷の……という歌」
「生れ故郷の氏神《うじがみ》さんの、森が見えますほのぼのと……あれでございますか」
「それそれ、どうかあれをひとつ聞かしてもらいたい」
「ああいう時の調子では音頭取《おんどとり》も致しますけれど、改まってどうしてお聞かせ申すことができますものか」
「そのように言わずにぜひ頼む……月があっても光が見えぬ、花があっても色の見えぬ身には、声と音を聞いて楽しむよりほかに道がない、どうぞその歌を聞かして拙者の心を慰めてもらいたい」
「そうおっしゃられると……」
 お徳は竜之助の面《かお》を仰いで見て、気の毒そうに、
「それでは、歌ってお聞かせ申しましょう、お笑いなすってはいけませぬ」
「どうぞ頼みます」
 お徳は槌《つち》を取り直して軽く拍子を取りながら、
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甲州出がけの吸附煙草
涙じめりで火がつかぬ
[#ここで字下げ終わり]
 旅をして歩く時に興に乗じてうたう歌、危険な山坂を超ゆる時、魔除《まよけ》を兼ねて歌いつけの歌、心なく歌っても離愁《りしゅう》の思いが糸のように長く引かれる。
「ホホホ、こう歌いますと、なんとなく情合《じょうあい》が籠《こも》っているようでござんすけれど、この替歌《かえうた》に……」
と言ってお徳は直ぐに、
[#ここから2字下げ]
甲州出る時ゃ涙で出たが
今じゃ甲州の風もいや
[#ここで字下げ終わり]
と歌い、
「こうなってしまいますから薄情なもので……まだわたしたちの中でうたいます歌にこんなのが」
[#ここから2字下げ]
道中するからお色が黒い
笠を召すやら召さぬやら
[#ここで字下げ終わり]
 それから最後に、
[#ここから2字下げ]
生れ故郷の氏神さんの
森が見えますほのぼのと
[#ここで字下げ終わり]
 三十を越したお徳も、土地の歌をうたう時は乙女の心になる、鄙《ひな》の歌にも情合が満つれば優しい芽が吹いて春の風が誘う。

         六

 山の娘たちはいったん帰って来たけれど、また暫らくして旅に出かけなければならなくなりました。今度は郡内《ぐんない》から東の方へ出ようということになりました。隣り隣りというてもなかなか遠い、山の間《あい》や谷の中から娘たちがゾロゾロと集まって、お徳の家へ詰めて来ながらの話、
「わたしが思うのには、お徳さんは今度は出かけられないかも知れませんわ、もしお徳さんが出かけられなければ、組の頭《かしら》はお浪さんになってもらわなければならないでしょう、まあお徳さんの了見《りょうけん》を聞いてみてからのこと」
「お徳さんは、あのお武家《さむらい》さんをどうなさるつもりでしょう。あのお武家さんはお眼が悪い上に、お身体も本当ではないのを、お徳さんが引受けてお世話をなさると言っておいでだが、お徳さんはお世話好きだからよいけれども、もしあのお武家が悪い人であったらどうでしょうね」
「お徳さんは、きっとあのお武家を好いているのですよ、ついこの間の晩も、庭でもって歌をうたって聞かせていましたよ、それに蔵太郎さんもあのお武家に懐《なつ》いているから、まるで夫婦と親子のように見えました」
「ほんとに、お徳さんは好いているならば、あのお武家と一緒になったらどうでしょう、お武家さんの方でもいやでなければ、みんなで取持ってお徳さんに入夫《にゅうふ》をさせたらどうでしょう」
「わたしもそう思っていましたけれど、お徳さんが今までよく立て通して来たものを、こちらからそんなことを言うのはおかしいし、それにあのお武家はお眼の不自由な人、あれでは始終お徳さんの面倒《めんどう》を見ることもできますまいし」
「たとえお眼が不自由でも、お徳さんが好いたと言い、お武家さんの方でもその気ならば出来ない縁ではありません。ねえ、皆さん、男一人を立て過ごせないような女では詰《つま》りませんね」
「働き者のお徳さんのことですもの、あれで立派に通して行かれますよ、誰かお徳さんの了簡《りょうけん》を聞いてみてごらん」
「そんなことが聞かれるものかね、お徳さんはそんな了簡で、あのお武家のお世話をしてるのではありません、ああしてお身体が少し好くなったら、直ぐにみんなして送り返すつもりでいるではありませんか」
「それはそうだけれども、この前のお方もそうして出来た縁、今度もひょっとすると、不思議な縁にならないとも限りませんからね」
「前のお方がああいうお方でありましたからお徳さんの入夫はむずかしいと思うていたところ、ちょうどまたああいうお武家が来て、やっぱり縁というものですね、せめてお目でも悪くなければお取持ちをして上げたい」
「お目が悪いからかえって縁がよいのでしょう、満足なお武家さんがどうしてこんな山家《やまが》へ入夫に来るものですか」
「それにわたしは、あのお武家はお目が悪いばかりではなく、何か悪いことをして来たお方ではないかと思いますよ」
「どうして」
「どうもなんだか気の置けるようで……もし人殺しなどをして来た人であったら」
「それはなんとも言えませぬ、もしそうであったからとて、お徳さんが承知であれば仕方がないではないか」
「でも、もし悪いことをして来た人で、お役人に尋ね出されるようなことになると、お徳さんや蔵太郎さんにまで、縄目《なわめ》がかかるようなことになりはしないか知ら」
「その時は、お徳さんばかりではない、あのとき峠を通ったものはみんな同罪、お前とわたしも逃れることはできませんね」
「どうなるものですか、やくざ男に欺《だま》されるのは山の娘の名折れだけれど、世間に憚《はばか》る人を助けるのは山の娘の気負《きお》いだとさ。なんにしてもお徳さんの心の中を聞いてみて、それからのことにしましょうよ」
「それがようござんすよ」

 山の娘たちは隊をなして、また他国へ出かけていったが、果してお徳だけは残ってしまいました。お徳は後に残ったのみでなく、それから直ぐに竜之助を案内し、蔵太郎をつれて、篠井山の麓から奈良田の温泉へ行ってしまいました。
 それは盲目の竜之助を馬に乗せて、お徳は蔵太郎を背に負って、篠井からまだ十里も山奥になっている奈良田へ行く間に、お徳はいろいろとその土地の物語をしました。
「昔、奈良の帝様《みかどさま》がおうつりになったところで、それから奈良田と申します、今でもその帝様の内裏《だいり》の跡が残っているのでございます」
「奈良の帝? 左様なお方がこんなところへおいでになる由《よし》もなかろうに」
「それでも昔からそのように申し伝えられてあるのでござんす、おいでになってごらんになればわかりますが、山と山とで囲まれた村の真中に二丁ほどの平らなところがあって、そこに帝様のお宮のあとが今でも神様に祀《まつ》ってあるのでござんす」
「帝様と申し上げるのは日の下を知ろし召すという方じゃ、その方がなんで斯様《かよう》なところへおいでなさるはずがない、大方その帝様のお社《やしろ》をそこへお移し申したのでもあろう」
「そうではござんせぬ、奈良の帝様が、たしかにその地へお移りになったということでござんす、その帝様は女のお方様で……」
「女の帝……奈良朝で女の帝に在《おわ》すのは」
 竜之助は自分の持っている国史の知識を頭の中から繰り出して、お徳の語るところと合せてみようとして、
「奈良《なら》七重《ななえ》……奈良朝は七代の御代《みよ》ということだが、そのなかで女の帝様は……」
 竜之助の思い浮ぶ知識はこれだけのもので、その七代のうちにどのお方が女帝におわしまし、その御名《ぎょめい》をなんと申し上げたかというところまでは届かないのです。
「その帝様《みかどさま》が、これへお越しになりまして、この土地は山国で塩というものがござんせぬ故、帝様は天にお祈りなされると、地から塩が湧いて出て、今も塩《しお》の井《い》というのがその土地にあるのでござんす。それから片葉《かたは》の蘆《あし》というのがござんす、帝様がこの土地へおいでになってから、旦暮《あけくれ》都の空のみをながめて物を思うておいであそばした故、お宮のあたりの蘆の葉がみんな片葉になって西の方へ向いていたということでござんす」
 身延《みのぶ》と七面山《しちめんざん》の間の裏山を越えて薬袋《みなえ》というところへ出た時分に、お徳は右手の方を指しながら、
「あちらから来る道が、富士川岸を伝うてやはり奈良田の方へ通うのでござんす、帝様へ諸国から貢物《みつぎもの》を献上なさる時は、いつもこの道を通ったとやらで、その帝様が奈良田でお崩《かく》れになりました時、それと聞いて土地の人が、その貢物を横取りしてしまって俄《にわ》かに富んだから、その村を飯富《いいとみ》村といって、あちらにはまた御勅使がお通りになった御勅使川《みてしがわ》というのがござんす」
 お徳は、やはり奈良の帝がこの土地へおうつりになったという伝説をそのままに受入れているらしいが、竜之助は、ただ伝説として聞いておくだけに過ぎません。
「お宮のあるところから十里四方は、いつの世までも年貢お免《ゆる》しのところ、権現様《ごんげんさま》も湯の島へ御入湯の時に御会釈《ごえしゃく》でござんした。たとえ罪人でもあの土地へ隠れておれば、お上《かみ》も知って知らぬふりをなさんすとやら」
 お徳は伝説をようやくに事実の方へ近づけてきます。
 奈良田の皇居ということは国史以外の秘説であります。
 奈良王この地に御遷座ありしという伝説は、ここにお徳の口から伝えらるるばかりではなく、幾多の古書にも誌《しる》されてあるので、その奈良王とは弓削道鏡《ゆげのどうきょう》のことであるとの一説、ただに奈良の帝と伝えられている一説、また明らさまに人皇《にんのう》第四十六代|孝謙《こうけん》天皇と申し上げてある書物もあるのであります。
 孝謙天皇は女帝におわします。弓削道鏡の悪逆、和気清麻呂《わけのきよまろ》の忠節などはその時代の出来事でありました。
 けれども、天皇がこの地に御遷座ありしというようなことは、正史のいずれにも見らるるところではなく、ただこの地の伝説だけに残っているのであります。
 村の中程に皇居の跡があるということ、塩の井、片葉の蘆、飯富村、御勅使川、十里四方万世無税、家康湯の島へ入湯のこと、みんなそれに附きまとうた伝説でもあり事実でもあるが、なおそのほかに、帝にお附の女房たちが、散々《ちりぢり》になって、このあたりの村々で亡くなった、それを神に祭って「后《きさき》の宮《みや》」と崇《あが》めてあること、帝が崩御《ほうぎょ》あそばした時、神となって飛ばせ給うところの山を「天子《てんし》ヶ岳《たけ》」と呼び奉ること、そんなこんな伝説がいくつも存在しているこの山の奥、人を隠すにも隠れるにもよいところ、ことにその地には百二十度の温泉がある――お徳の温い心、いつも冷たくなっている竜之助の心を、そこで温かにしてやろうという世話ぶり、その世話ぶりがいつまで続くか。竜之助が温かい人になることができないまでも、お徳のような温良な山の女を冷たい人にはしたくないものです。
 湯の島へ着いて、ゆっくりと温泉に浸った机竜之助。
「ああ、いい気持だ」
 木理《もくめ》の曝《ざ》れた湯槽《ゆぶね》の桁《けた》を枕にして、外を見ることのできない眼は、やっぱり内の方へ向いて、すぎこし方《かた》が思われる。
「三輪明神の社家《しゃけ》植田丹後守の邸に厄介になっていた時分と、ここへ来て二三日|逗留《とうりゅう》している間とが、同じように心安い。どうも早や、おれも永らく身世《しんせい》漂浪《ひょうろう》の体じゃ、今まで何をして来たともわからぬ、これからどうなることともわからぬ。それでも世間はおれをまだ殺さぬわい、いろいろの人があっておれを敵にするが、またいろいろの人があっておれを拾うてくれる、男の世話にもなり、女の世話にもなる、世話になるということは誉《ほまれ》のことではあるまい、いわんや一匹の男、女の世話になって旅をし病を養うというのは、誉ではあるまい、それを甘んじているおれの身も、またおかしなものかな。おれは女というものではお浜において失敗《しくじ》った、お豊においては失敗らせた、東海道を下る旅、道づれになったお絹という女、あの女をもまた、おれはよくしてやったとは思わぬわい。おれは女に好かれるのでもない、また嫌われるのでもない、男と女との縁は、みんな、ひょっとした行きがかりだ、所詮《しょせん》男は女が無くては生きて行かれぬものか知ら、女はいつでも男があればそれによりかかりたいように出来ている。恋というのは刀と刀とを合せて火花の散るようなものよ、正宗《まさむね》の刀であろうと竹光《たけみつ》のなまくらであろうと、相打てばきっと火が出る、一方が強ければ一方が折れる分のことだ。おれをここまでつれて来て湯に入れてくれる女、それはあの女の親切というものでもなければ色恋《いろこい》でもなんでもない、ちょうどあの女が夫を失うて淋《さび》しいところへ、おれが来たから、その淋しさをおれの身体で埋めようというのだ、おれが山家の樵夫《きこり》や炭焼でない限り、それであの女の珍らしがり方が多い分のこと。しかしおれには人の情を弄《もてあそ》ぶことはできない、親切にされれば親切にほだされるわい。いっそ、おれは、あの女の許《もと》へ入夫《にゅうふ》して、これから先をあの女の世話になって、山の中で朽《く》ちてしまおうか」
 竜之助はこんなことを考えていると、
「やあ、吉田竜太郎殿ではないか」
 浴室の外から呼ぶものがありました。
 その声で、竜之助は空想を破られる。
「わしを吉田というのは?」
「君は眼が悪いのか、眼をどうしたかい」
「この通り眼が見えない」
「眼が見えなくても声でわかるだろう、拙者の声がわからんか」
「聞いたような声じゃ。おお、山崎ではないか」
「そうじゃ、山崎じゃ。久しぶりで意外なところで会ったな」
「全く意外なところ。おぬしはあれからどうしていた」
「いや、おぬしこそどうしていた、この物騒《ものさわ》がしい世の中に悠々として湯治《とうじ》とは」
「これにはなかなか長い物語がある、湯から出て、ゆっくり話そう」
「それよりも、その眼をどうしたのか、それを聞きたい」
「これは十津川《とつがわ》でやられた。京都から引返して来るときに、伊賀の上野で天誅組の壮士というのに捉《つか》まり、それと一緒になって十津川へ後戻り、山の中で煙硝《えんしょう》の煙に吹かれてこうなってしまった」
「それは気の毒、全く見えないのか」
「初めのうちは少し見えたが、今は全く見えない」
「そりゃ災難じゃ、なんとか療治の仕様もありそうなものじゃ」
「療治も相当にやってみたが、本来、天のなせる罰《ばち》が報《むく》うて来たのだから」
「罰? 気の弱いことを言うな」
「どうも人間業《にんげんわざ》では癒るまいよ。それがために世間のことは一向わからぬ、近藤や土方は無事でいるか、芹沢との折合いはどうじゃ」
「君はそれを知らぬか、いやそりゃ、大変なことじゃ、四方八方、蜂の巣を突きこわしたようなもので、どれから話していいか」
「そうだろう」
 山崎と呼ばれた男は易者《えきしゃ》のような風をしていたが、浴室の中へ入って来て小さい声で、
「まず第一、芹沢が殺されたことを吉田、お前は知っているか」
「芹沢が……誰に」
「仲間に殺された」
「仲間の誰に」
「仲間といえばたいてい見当がつくだろう。芹沢が殺されると、近藤が新たに新撰隊というのを組織してその隊長になって、土方が副将でそれを助けることになった」
「うむなるほど、いやあれは、どちらかそうなるだろうと思うた」
「それから次が四条小橋、池田屋騒動の一件だ。血の雨を降らしたこと降らしたこと、貴殿もいたら、みっちり働き甲斐のある仕事であったわい」
「浪人を斬ったのか」
「斬った斬った、今でも池田屋へ行って見ろ、天井も壁も槍の穴でブスブス、血と肉が、あっちこっちにべたべたと密着《くっつ》いているわい」
「そうか」
「それにまた一方では、拙者の郷里水戸の地方に筑波山《つくばさん》の騒ぎが起ってな」
「筑波山の騒ぎとは?」
「それも知らないのか。水戸の家老武田耕雲斎が、天狗党というのを率いて乱を起した、それやこれやで拙者は関東と京都の間を飛び廻っている、ことに甲州の山の中にめざす者があって、ここへ来たわけじゃ」
 竜之助に向ってこういう話をする男、これは新撰組の一人で山崎|譲《ゆずる》という男、かつて竜之助が逢坂山《おうさかやま》で田中新兵衛と果し合いをした時に、香取流《かとりりゅう》の棒を振《ふる》って仲裁に入った男、変装に巧《たく》みで、さまざまの容姿《なり》をして、壬生《みぶ》や島原の間、京洛《けいらく》の天地を探っていた男。
「ともかく、湯から上ろう、もっと委《くわ》しい話を聞かしてくれ」
 山崎譲は後刻を約して、そこを立ち去ってしまうと、それと入り違えのようにお徳が入って来ました。
「そうしておいで遊ばせ、今お背中を流して上げますから」
 湯から出ようとする竜之助の傍へ寄って、手拭を固く絞ってお徳は、その肩へ手をかけて背中を洗ってやろうとします。
「それは気の毒」
 竜之助はお徳のなすままに任せて辞退もしない。
 お徳は筒袖をまくり上げて、裾が湯に濡れないように気をつけながら、竜之助の背中を流しはじめていると、この温泉の上の方で賑わしい人の声。
「あれは何だろう」
「あれはお慶《めで》たいことでござんす」
「はあ、何か人寄せがあるな」
「この山の上の望月《もちづき》様という郷士《ごうし》様のお邸へお嫁様が参りなさるそうで」
「婚礼があるのか、道理でさいぜんから時々賑わしい人の声が聞えると思うた」
「望月様は、この辺の山を預かる御大家でござんすから、もうこの近所の人はみんなよばれて朝から大騒ぎ、今夜もまた夜徹《よどお》し飲み明かしなさるのでござんしょう」
「それは盛んなことじゃ。そうして嫁御寮《よめごりょう》はもうこっちへ着いたのか」
「お嫁さんは前の日、わたしもちらと見ましたが、山家《やまが》には惜しい器量のお嫁様でござんした」
「どこから来たのじゃ」
「同じ甲州でござんすけれども、ここからはだいぶ離れておりまして、萩原領の八幡《やわた》村というところからお輿入《こしいれ》でござんすとやら」
「八幡村?」
 竜之助は何をか思い当って、
「八幡村というのは、石和《いさわ》と塩山《えんざん》に近いところではないか」
「左様でござんす、左様でござんす、あちらの入《いり》でございます」
「その八幡村からここへ嫁入りに来たのか」
「はい、向うもなかなか大家だそうでございますが、こっちはそれよりも大家で、お眼が見えればすぐおわかりでござんすが、白壁作りの黒塀《くろべい》で、まるでお城のような構え、権現様よりもずっと前から、この近辺の金の出る山という山を、みんな預かっているお家柄でござんすから、ああしてお祝いが幾日も続くのでござんす」
「なるほど」
 いま会った山崎譲の話では、関東も関西も鼎《かなえ》のわくような騒ぎ、四海の中《うち》が浮くか沈むかという時勢であるそうな。それにこの山里では、お嫁取りの飲み明かし歌い明かし、そぞろにその泰平《のどか》さにほほ笑まれるのであったが、その来る嫁というのが甲州八幡村と聞いて竜之助は、また思わでものことを思わねばならぬ。それは、わが身にとって悪縁の女、お浜の故郷が、やはりその八幡村であったからであります。
「そのお嫁さんを一目見たいものだな」
「それはお目にかけたいくらいの美しいお嫁様で」
 竜之助は冗談のように言うと、お徳は本気で答える。
「八幡村というところには、わしの親類……でもないが知合いがある」
「ああ、そうでござんすか、それではことによると、あのお嫁さんも御存じのお方かも知れませぬ」
「いいや知るまい、私はその八幡村というところへ行ったことはないのじゃ、ただ懇意な人の口から聞いて知っているばかり」
「左様でござんすか、いずれ明日にも、お嫁様のお里帰りがあるでござんしょうから、その時ごらんになると……そのとき誰かにお聞きなすってみましたら」
「別に聞いてみたいこともないのだが、なんとなくそのお嫁様を一目見たいような気持がする」
 その夜、竜之助は山崎譲と夜《よ》更《ふ》くるまで語り合ったが、山崎は竜之助にいろいろと忠告をしたり、早く故郷へ帰るように、道中の不便があらば、知合いの甲府の勤番《きんばん》に頼んでやると親切に言ったが、竜之助はなんとも別に定まった返事をしなかったけれども、先を急ぐ山崎は若干の見舞金と、甲府の勤番へ宛てての竜之助の身の上依頼状などを認《したた》めておいて、その翌日、ここを立ってしまいました。山崎を送った竜之助は、ひとり宿の二階の欄干に凭《もた》れていると、
「あれ、お嫁様が」
という遽《にわ》かの騒ぎ。
「あれが望月様の若奥様。まあごらんなさい、あの髪の毛、あのお面色《かおいろ》、あの髪飾りの鼈甲《べっこう》の、水の滴《したた》るような襟足《えりあし》の美しさ、あのお紋付、あのお召物、あの模様……ほんにお館様《やかたさま》のお姫様とても、これほどのことはおありなさるまい」
 姦《かしま》しい人の声。ははあ、これが、いわゆる八幡村から来たという嫁御寮、ただでさえ物見高い嫁入騒ぎ、このあたりの大家ということであるから、物珍らしい山家の人には、さながら信玄公の姫君でも御入来《ごにゅうらい》になったように騒ぐのだなと思っているところへ、お徳が入って来て、
「さあ、あれが先程お噂《うわさ》を申しました、望月様のお嫁御寮、あなた様が一目見たいとおっしゃったお方、いま直ぐこの下を通りますのでございます」
 お徳は手を拭きながら、これも御多分に洩れず、珍らしそうに息を弾《はず》ませて飛んで来て、竜之助のいる二階の欄干から下を見て、
「あれで十九。十九にしては落着きがおあり過ぎなさるほど。それはお人柄《ひとがら》がよいからでござんしょう、お婿様《むこさま》よりは一段|勝《まさ》っておいでなさる、お婿様は好いお人だけれど、なんだかそれほどに威がないようなお方、それがかえってよろしゅうござんしょう。何しろあの大家を踏まえて行くには、旦那様よりも奥様が、これからしっかりあそばさなくてはなりませぬ、好いところへお嫁入りすればするほど、お仕合《しあわ》せもお仕合せだがお骨も折れましょう」
 お徳が、こんな独言《ひとりごと》を言っている間に、嫁御寮の一行はゾロゾロとこの家の下を通り過ぎて行ってしまいます。
「ほんとうに、あんなお嫁様をお持ちになったお婿様の果報が思いやられます、お里帰りの五日が、どんなにお待遠しいことでしょう、両方の親御さんたちも本当にこれで御安心。ああいうことを見ますと、ひとごとでも嬉しくてたまりませぬ」
「里帰りといえば、これからあの八幡村まで帰るのか」
「左様でござんす、お馬やら釣台《つりだい》やら、あとからあの通り続いて参りますが、なんでも御旧家のこと故、すっかり古式でやるのだそうでござんす」
「いや婚礼というものは、慶《めで》たいことではあろうけれど、なかなか手数のかかるものじゃ」
「誰でも一生に一度は、その手数をかけねばならぬものでござんす。あなた様なぞもさだめし、こんなにおなりなされぬ前は、あんな手数をかけて、お喜びになったものでござんしょう」
 お徳は愛嬌《あいきょう》よく言う。
「あたりまえならば、そんなことになるのであったろうが、わしのはあたりまえの道を失ってしまったから、それで更に手数がかからなかった」

         七

 旗本の神尾主膳《かみおしゅぜん》はお預けから、とうとう甲府|勝手《かって》に遷《うつ》されてしまって、まだ若いのに、もう浮む瀬もない地位に落されたが、当人はいっこう平気らしくあります。
 地位の変ったことは平気らしいけれども、うまい酒の飲めないことが何よりの苦痛と見えて、もとのように江戸の真中で馬鹿遊びをするようなことができないで、時時|折助《おりすけ》を引っぱって桜町《さくらちょう》へ飲みに来たり、こっそりと柳町《やなぎちょう》へ遊びに出たりするくらいのことで、毎日おもしろくもない甲州の山ばかりを睨《にら》めて暮らしていましたが、今宵もそのお気に入りの折助をつれて柳町の旗亭《きてい》へ飲みに来ていました。
「権六《ごんろく》、なんだか酒が酸《す》っぱいなあ」
 権六というのは折助の名、これは江戸から附いて来た渡り者の折助であります。
 折助の前身には無頼漢《ぶらいかん》もあれば、武士の上りもある。この権六は権六が本名でなくて、もう少し気の利いた名前のありそうな折助、前身は百姓町人でもなく、生《は》え抜きの無頼漢でもなく、ともかく神尾が引っぱり廻して酒の相手をさせるだけのこたえはありそうな折助であります。
「へへ、どうも仕方がございません」
 権六はお流れを頂戴する。
「うまい酒を飲みたいなあ」
「御意《ぎょい》の通りでございます」
「何かうまい酒を飲むような工面《くめん》はないかなあ」
「左様でございますねえ」
 二人は睨めくらをする。
「貴様の面《つら》も変らねえ」
「殿様もこのごろはおいとしゅうございます」
「はははは」
 睨めっこをして淋しく笑う。なるほど、これでは酒もうまくなさそうです。
「女を呼んで、一騒ぎ騒がせましょうか」
「それもこのごろでは張合いがないわい、甲府の女どもにまで懐都合《ふところつごう》を見透《みす》かされるような強《こわ》もてで、騒いでみたところがはじまらない、やっぱり貴様の面《かお》を見ながら飲んでいる方がよい」
「いよいよ以ておいとしゅうございます、春や昔というところでございますねえ、笠鉾《かさほこ》の下でお文《ふみ》を読んでおいでなさる覆面のお姿が眼にちらついてなりませんよ。大門口《おおもんぐち》の播磨屋《はりまや》で、二合の酒にあぶたま[#「あぶたま」に傍点]で飯を食って、勘定が百五十文、そいつがまた俺には忘れられねえ味合だ」
「権六、どう考えてみても、どのみち金だな、金が欲しいな」
「それに違いございません、色と金、二つにわけて申しますが金があっての色でございますよ、金さえありゃあ……」
「金が欲しいな」
「金さえあれば、殿様をまた昔の殿様にしてお目にかけますがなあ」
「金があれば、権六を昔の権六にしてやるのだが」
 主従はまた面《かお》を見合せる。
「金というやつは、こっちでのぼせればのぼせるほど向うが逃げて行く、上手《じょうず》に使える奴のところへは出て来ないで、薄馬鹿《うすばか》のような奴を好いてウンと集まる、始末の悪いやつだ」
「あるところにはある……もんでございますが、無《ね》えところには逆《さか》さに振っても無え」
「あるところにはある……権六、そのありそうなところを知ってるか」
 これは別に意味がありそう。
「ありそうなところ……とおっしゃいましても、そりゃまあ、ありそうなところには……」
「甲州は金《きん》のあるところだ」
「そりゃ、どこにしましても、あるところにはありますな、甲府も御城内の御金蔵《ごきんぞう》へ参れば唸《うな》るほどお金もございましょうけれど、そりゃあるだけのことで、よし御金蔵で金が唸って悶掻死《もがきじに》をしていようとも、手を出すわけにはいきませんからな」
「誰も御金蔵へ手を出せとは言わない、御金蔵のほかに甲州で金のあるところを、権六、貴様は知ってるだろう」
「御金蔵のほかにお金のありそうなところ、はてな、それは物持ちのところには、相当のお金があるでございましょうよ、それがあったにしてみたところで、やっぱり詰りませんな」
「権六、性根《しょうね》を据えて考えてみろ、公儀の金や町人の金銭に眼をつけたところで始まらないじゃないか、誰が取ってもさしさわりのない金がこの甲州にはウントあるのだ、言って聞かすまでもなく、その金は山の中にある、信玄公もそれを掘り出した、東照権現《とうしょうごんげん》もそれを掘り出した」
「なるほど」
「宝の山に入《い》りながら手を空《むな》しゅうしているというのはこのことではないか、甲州という金の出る国に来ていながら、おたがいにこうして面《かお》を見合って金が欲しい金が欲しいと溜息《ためいき》をついているのが愚の骨頂《こっちょう》だ」
「それは御意の通りでございますが、山ん中の金は見つけるのが事で、掘り出すのがまた事で、それを吹き分けるのがまた一仕事でございますからなあ」
「はははは、権六、貴様も根っから正直に物を考える男だ。まあ近く寄れ、もっと近く寄れ、手を濡らさずに、山の中から金を見つけて、掘り出して吹き分けて使いこなす仕組みがあるのだ」
「へえ、それは耳寄りでございますねえ」
 権六は主膳の近くへ膝行《にじ》り寄る。そうすると主膳の声がいっそう低くなって、権六のほかは何人《なんぴと》にも聞き取れない声で、
「実はな、御支配の下で、ずうっとこの白根《しらね》の奥に奈良田というところがある、そこに望月という郷士の家がある、これは徳川家以前の旧家で、天文永禄《てんぶんえいろく》あたりから知られている家柄だ、そこの家でいま婚礼がある、この東の八幡村というところから嫁が行ったそのお届があったから、拙者は何心なくその家のことを聞いてみるとな、望月というのは甲州金の金掘《かねほ》りをする総元締《そうもとじめ》を代々預かっていて、表面に現われた財産も少ないものではないが、先祖以来、穴倉《あなぐら》に隠して置く金の塊《かたまり》は莫大《ばくだい》なものだという噂《うわさ》」
 神尾主膳は結局、その金の塊を突き留めてみたらば、思いのほかの掘出し物があるかも知れないということ、それはちょうど今度の婚礼問題がよい機会であって、役目を笠にいくらでもその高圧の手段はあるようなことを言います。
 聞き終った権六は、
「なるほど、そいつは近ごろ面白い見付物《みつけもの》でございます、まかりまちがっても嚇《おどか》しで済む、うまくゆけば金脈に掘り当てる、転んでも大した怪我はなかりそうなのに、儲《もう》かれば大山だ。よろしゅうございます、それだけの絵図面で、造作《ぞうさく》と建具の細かいところは、しかるべき相棒《あいぼう》を見つけて俺共《わっしども》の方で万事気をつけることに致しまして、早速、仕組みにかかることに致しましょう」
「うまくやってくれ。それで権六、これが身共の徳川への奉公納めだ」
「奉公納めとおっしゃるのは?」
「もう徳川も下火だ、我々も、いつまでこうしていられるかわかったものじゃない、この狂言が済めば、それを持って侍をやめる」
「なるほど」
「貴様にも一生食えるようにしてやった上、うまい酒も少しずつは飲めるようにしてやるつもりだ」
「それは何より有難うございます、そのつもりで端敵《はがたき》を勤めて御覧に入れましょう。なあに、こういうことを時々おやりになるのがかえって田舎者のためになるので、天下の通用物を、穴の中へ蔵《かく》しておくなんぞというのが心得違いでございますから、とっちめてやるのがお役目柄でございます。幸いにお支配はおいでなさいませんし、お組頭《くみがしら》のあなた様の御威光で、あいつらも慄《ふる》え上ってしまうことでございましょう、よいところにお気がつかれまして結構で」
「こういうことの相談は貴様に限る」
 主従は、こんな秘々話《ひそひそばなし》をして酒を酌《く》み交わしました。

         八

 奈良田の望月家では、花婿が花嫁の里帰りから帰るのを待ち兼ねているところへ、花嫁は帰らないで、不意に甲府勤番の侍が二人、数人の従者を引連れてやって来ました。
 こは何事と驚く表から厳《いか》めしく踏み込んで、
「お調べの筋がある」
といって、隅から隅まで家の中を探し歩いたことで、家の者も近所の者もことごとく胆《きも》をつぶしてしまいました。
 そうしてめぼしい物にはことごとく封印をつけた上に、若主人を甲府まで同道するから、急いで仕度《したく》をしろということで一同が青くなりました。こうして、委細のことは役所へ罷《まか》り出でて申せとばかりで、遮二無二《しゃにむに》この新婿様《にいむこさま》を駕籠に乗せて引張って行ってしまいました。
 あとの連中はなすところを知らないでいたが、同じ旧家の佐野だとか松本だとかいう老人が飛んで来て、望月の老主人を慰めながら相談の額《ひたい》を鳩《あつ》めていると、
「甲府のお役人様は元湯へお泊りなされた」
 村の人の報告であります。元湯とは机竜之助が泊っているところ。
「それでは、もう一度、みんなしてお願いを致してみましょう、そうしてお話合いで済むようでしたら、若旦那をお願い下げにするように、骨を折ってみようではございませぬか」
 お役人の一行が元湯へ泊ったと聞いて、佐野の老人と松本の老人とを先に立てて、お願い下げの運動をやってみようということになり、お役人にお目にかかって怖る怖る伺ってみると、さきの権幕《けんまく》とは少しく打って変り、なんとなく手答えがあるようでしたから、
「さて、存外、話がわかりそうでございます……」
と言って、その次の難問題に就いて老人たちと望月の主人と親戚とが評議をしました。
「百両」
 まずその辺の相場かなと思う者もありました。みすみす名の知れない金を百両出すのも業腹《ごうはら》だという面《かお》をするものもありました。百両で若主人の身体《からだ》が釣替《つりか》えになれば安いものだといって、望月の家では金には糸目をつけないという色を見せました。
 再び出かけて行った古老たち。
「ほんのお土産《みやげ》の印《しるし》」
 怖る怖る差出した土地の織物、それに添えた百両の金。それをお役人にと従者の手を経て献納して帰ってみると、程を経てその織物も金百両も突き戻されて来ました。
 それから元湯の一室で、ひいひいと人の泣く声がする。荒々しく責める声が聞える。泣く方は人に聞かせまじと男泣き。責める方はわざと聞えよがしの荒い声。
 土地でも宿でもそれ以来、火の消えたような静まり方で、ただそのひいひいと泣く男泣きの声と、荒っぽく責める申し上げてしまえの声とを聞いて心臓をわななかせるばかり。
 それとはだいぶ間を隔てていたけれど、同じ屋根の下に泊り合せた机竜之助。まして眼のつぶれて感の鋭くなった耳にその声が入らないはずはありません。
 お徳から、あらましの事情を聞いた竜之助が、
「ああ、それは偽物《にせもの》だ」
と言いました。
「あの、お役人は偽物でございますか」
 お徳は呆《あき》れる。
「よくある手で、近頃はどこへ行っても流行《はや》る、徳川の御用金だとか、勤王《きんのう》の旗揚げの軍備金だとか言って、ところの物持ちをゆす[#「ゆす」に傍点]るのだ、それがこの山奥までやって来ようとは思わなかった」
「では盗賊《どろぼう》でござんすか」
「盗賊というわけでもない、なかには相当な志を持っているものが、心ならずもそんなことをして歩くのがある、結局は金で納まるのだ、白羽《しらは》の矢を立てられたその望月とやらが気の毒」
「お金で済めば結構でござんすけれど、山方《やまかた》の人はそんなことに気がつかないで、お金などを出してはかえってお役人に失礼なんぞと遠慮をなさるかも知れませぬ」
「どのみち扱いが少し面倒だ。人はみんなで幾人ぐらい来ているな」
「お侍が二人に、お伴《とも》の衆が五六人、みんなで十人ばかり」
「それは少し大仕掛だ、ことによると望月の財産を振ってしまうようなことになるかも知れぬ」
「御災難でござんすねえ」
「災難だ、災難だ。それから、あの里帰りに行ったという嫁は帰って来たのか」
「いいえ、まだお帰りござんせぬ」
「それも危ない。どのみち、この婚礼を附け込んで企《たく》んだ仕事だから、向うへも手が廻っている。結局ドチラも身代金《みのしろきん》、下手《へた》に出ると今いう通り両方の財産を振われてしまう、財産だけならよいが、女のことから出来心、人の命にかかるようなことにならねばよいが」
「何とかして上げたいものでござんす」
「うっかり出ると巻添えを食う。いや、京都あたりではこの手で浪人者にひっかかって、女房や娘を奪われたり家を潰《つぶ》されたりした者が幾人もある、よくない時勢だ」
「あれ、あんなに苦しがっておいでなさる御様子、誰ぞ口を利《き》いておやりなさるお方はないものか」
「抛《ほう》っておけ、あれが手だから責め殺すようなことはない」
「それでも」
「また誰かやって来たようだ、こりゃ今夜は夜通し眠れぬわい」
「もし、あなた様」
「何だ」
「あまりお気の毒でござんすから、ちょっと行って口を利いておやりなされたら」
「わしに仲裁に出ろというのか」
「この辺の人は、まるきり山の人でござんすから、とても納まりはつきますまいと存じます、あなた様が、ちょっと口を利いてみておやりなされたら――」
「駄目、駄目、そんなことをするとかえって藪蛇《やぶへび》じゃ、見込まれたが望月の因果よ」
「そんなことをおっしゃっては……あんまり薄情のようでござんす、少しでもこの土地に来ているうちに出来たこと、届かなければそれまででござんすが、こうして土地の人が総出で心配をしておりまする中で、わたくしどもも何とかして上げたいもの、できないまでも……」
「待て、待て、この間、山崎が書いて行ってくれた手紙、甲府の勤番へ宛てての紹介状があったはず、あれを出して見せてくれ」
 竜之助はお徳の話とは別に、思い出したように手紙のことを言うと、お徳は机の抽斗《ひきだし》から取り出した一通。
「その表書《うわがき》の宛名になんと書いてあるか読んでみてもらいたい」
 竜之助は今までそれを打捨てておいたが、この場合に思い出すと、お徳は覚束《おぼつか》なげにそれを読んで、
「御組頭神尾主膳様と書いてござんす」

         九

 広いところを三間《みま》も打払って、甲府勤番の役人が詰めています。役人二人は床の間を背にして大火鉢の前に睥睨《へいげい》している左右に、用人、若党のようなのが居並んで、その前には望月の若主人が両手を後ろへ廻されて、その間を十手《じって》でコジられて苦しがっています。
「さあ申し上げてしまえ、お上《かみ》のお調べによれば古金二千両、新金千両、そのほか太鼓判《たいこばん》の一分が俵に詰めて数知れず、たしかに其方《そのほう》の家屋敷の中に隠してあるに相違ない、ここで申し上げてしまえばお慈悲がかかって不問に置かれる、強情《ごうじょう》張って隠し立てを致すにおいては罪が一族に及ぶぞよ」
 厳《おごそ》かに言い渡しているのは意外にも先日、甲府の旗亭で、神尾主膳と酒を飲んでいた折助《おりすけ》の権六でありました。それがいつのまに出世したか、威儀厳然たる勤番格の武士の形になって、調べ吟味の指図役《さしずやく》に廻っていると、慄《ふる》え上っている望月の若主人は、
「どう致しまして、金銀を隠し置くなどとは以てのほか、先刻、家屋敷の隅々までも御捜索くだされた通り。また手前共の財産、すべて記録に差上げたものに寸分いつわりはございませぬ、お吹替《ふきか》えのありまするたびに、員数を改めて差出しまする古金新金、それを隠し置きまするような覚えは毛頭《もうとう》ござりませぬ、御念の上ならば、もう一応、家屋敷をおさがし下されまするように」
 畳へ額を擦《す》りつける。
「黙らっしゃい、其方の隠しておくところが家屋敷ときまったものではなかろう、世間の噂では持山の穴蔵《あなぐら》の中へ、先祖代々積み隠しておく金銀は莫大《ばくだい》とのこと、お上お調べの額《たか》はいま申す通り古金二千両、新金千両、別に一分の太鼓判《たいこばん》若干とのことなれば、内実《ないじつ》は暫く不問に置かれる、但し、右の古金、新金の在所《ありか》はこの場で訊《ただ》して帰らねば、身共役目が立ち申さぬ」
「これは、いよいよ以て御難題、さらさら左様な儀は……」
「これ、まだ強情を申しおるか、責めろ」
「申し上げろ」
 十手を腕の間へ入れてコジる。
「ア痛、ア痛!」
「痛いか」
「御無理でございます」
「泣いてるな。これ貴様も、苗字帯刀《みょうじたいとう》許されの家に生れた男ではないか、泣面《なきづら》かかずと潔《いさぎよ》く申し上げてしまえ」
「知らぬことは申し上げられませぬ、存ぜぬことは……あ痛ッ」
「これこれ望月、僅か三千両の金のために貴様がこうして窮命《きゅうめい》を受けるばかりではなく、あの八幡村から来た貴様の花嫁も追ってこんな目に会うのだぞよ」
「ええ、あの女房が?」
「知れたこと、亭主を責めていけなければ女房にかかる、それでわからなければ親へかかる。どうだ、これというもみんな其方が強情を張るからじゃ、僅か三千両の金、金が惜しいか女房が可愛いか」
「御無理でございます、御無理でございます」
「はははは、では女房が御城内へ引っ立てられ、親たちが縄付《なわつき》になっても、三千両の金は出せないと申すか」
「三千両などと申す大金が……」
「黙れ黙れ、先祖以来、公儀の眼を掠《かす》めて貯えた金銀が唸《うな》るほどあるくせに、三千両は九牛《きゅうぎゅう》の一毛《いちもう》。のう御同役、遠いところへ隠してあるならば、なにも古金の耳を揃えなくても、今時《いまどき》通用する吹替物《ふきかえもの》でも苦しゅうはござらぬてな」
「いかさま、三千両の数さえ不足がなければ、板金《はんきん》であろうと重金《じゅうきん》であろうと、そこは我々が上役へよしなに取計らう」
 同役二人が面を見合せるところへ、
「もしお役人様、ただいま、あなた様方にお目にかかりたいと、一人のお武家《さむらい》がこれへお見えになりました。お名前は水戸の山崎譲と申せばおわかりになると申しますのでございます」
 宿の主人が怖る怖る、遠くの方から平身低頭しての取次であります。

 折助には渡り者が多い。もとは相当の素性《すじょう》であっても、渡って歩くうちに、すっかり折助根性《おりすけこんじょう》というものになってしまいます。
 折助の上には役割《やくわり》、小頭《こがしら》、部屋頭《へやがしら》というようなものがあって、それは折助の出入りを司《つかさど》り、兼ねてその博奕《ばくち》のテラと折助の頭を刎《は》ねるが、これらは多少、親分肌の気合を持っている。渡り者の折助に至って、はじめて折助根性がよく現われるのです。
 彼等の仕事は、カッパ笊《ざる》を担ぐことと博奕をすることぐらいのもので、給金はたいてい二貫四百、一年中のお仕着せが紺木綿《こんもめん》の袷《あわせ》一枚と紺単衣《こんひとえ》一枚。とてもそれではうまい酒が飲めないから博奕をする、博奕をするのは性質《たち》のよい方で、性質の悪いのになると人の秘密をさぐり、それを種にうまい汁を吸おうとする。
 折助に向って、これは内密《ないしょ》だがねと言って話をすれば、得たり賢しとそれを吹聴《ふいちょう》する。また人の内密、ことに情事関係などを探るにはぜひとも折助でなければならない働きがあるので、旗本の用人などが、これを利用してお妾《めかけ》の身持ちなどを探らせる。お妾の方でも、それをまた逆に利用して、材料を提供する。そういう場合が折助の得意の場合で、時とするとそれを踏台に、折助には過ぎた出世をすることがあるのです。
 場合によっては折助が、士分の者の前へあぐらをかいてタンカを切るようなことがあります。また地道《じみち》の商人やその他の平民に向って、折助は士分面をして威張り散らすことがあります。そうして折助は、大手を振って手柄顔をすることがあります。
 誰も折助を相手に喧嘩をしたくないから、それで避けている。そこに折助存在の理由があるので、うまく利用すれば、また相当の使い道もあるのです。うまく利用するというのは、意気でもなく然諾《ぜんだく》でもなく、ただこれ銭《ぜに》。
 銭も現金でなければ決して彼等を動かすことはできません。大した金は要らない、一杯飲むだけの銭を現金で握らせさえすれば、その酒の醒《さ》めない間は大抵の御用はする。その酒が醒めてしまえば、別に注ぎ足しをしない限り御用をつとめることはしないのです。
 有為《ゆうい》の士を心服させることのできないものが、この折助を使用する。歴然《れっき》とした旗本でありながら神尾主膳は折助を使用して、人を陥《おとしい》れなければならなくなったとは浅ましいことです。甲府勤番に落ちたことは、どうも仕方がないけれど、折助を使用して人の内密を探り、それを種に小策を弄《ろう》することは、よくよく見下げた心になったものです。
 しかしながら、ここへ神尾主膳の仮面《めん》を被《かぶ》って来た折助の権六は大得意でありました。彼は勤番支配にでもなりすました心で今、その威権のありたけを示しているところへ、不意に水戸の人、山崎譲というものが尋ねて来たと聞いて少しく狼狽《ろうばい》しました。
「ナニ、水戸の人で、山崎なにがし?」
 眼をパチパチさせてみたが、本人の神尾主膳はその人を知っているかも知れないけれども、権六の神尾はそんな人を知らない。
「今は忙しいから、後刻面会を致す、いずれかへ無礼なきように御案内申しておけ」
「委細、承知致しました」
「水戸の山崎……お前は知っているか」
 権六は、少しく不安心になってきたものだから、後ろの席でこれも擬《まが》い勤番の木村に尋ねると、権六とは負けず劣らずの代物《しろもの》で、岡引《おかっぴき》を勤めていた男。
「お前は知らねえのか、ついこの間お邸に見えた藤崎周水という易者《えきしゃ》がよ、あれが実は水戸の人で山崎譲という人だ」
「そうか、あの易者か。あれがまたなんだってこんな山へ来て、こちとらに会いてえというんだろう」
「あれは易者を看板にしているが本当は易者じゃねえんだ、もとは水戸の士《さむらい》よ。御三家の侍だから、こちとらとは格が違わあ。それで本名が山崎譲、うちの旦那の神尾様とは前からのお知己《ちかづき》だ」
「それで、こっちが神尾主膳でここへ乗込んで来たことを聞いて、拵《こしら》えものとは知らねえものだから、いい幸いで会いに来たのだろう、悪いところへ碌《ろく》でもねえ奴が来やがった」
「けれどもなんとか始末をしなくちゃあならねえ、せっかくここまで漕ぎつけたところで、ここで化《ばけ》の皮《かわ》が剥げたんじゃあ、宝の山へ入って馬の皮を持たせられるようなものだ。なんと同役、とてものことにその山崎という奴を、うまく賺《すか》して押片付けてしまおうじゃねえか」
「そいつは駄目だ」
 同役の木村は、せっかく太く結い上げて来た髷《まげ》を惜気《おしげ》もなく左右に振り立てる。
「駄目だとは?」
「とてもとても。その山崎という奴は、こちとらが三人や四人、束になってかかったからとて歯も立つものではない」
「そんなに腕の利《き》いた奴か」
「腕が利いたにもなんにも、香取流《かとりりゅう》の棒を使わせたら、天狗のような腕利《うできき》だ」
「棒を使うのかい」
「先日も、神尾様のところへ二三日|逗留《とうりゅう》している間、殿様が冗談半分《じょうだんはんぶん》に、山崎、この盤へひとつ印をつけてみろとおっしゃると、よし来たと言って笑いながら、仲間《ちゅうげん》の持っていた六尺棒を借りて、一振り振って碁盤へ当てると、どうだろう、その碁盤の上が棒形に筋を引いて凹《くぼ》んでしまった。恐ろしい腕前だ、あの棒が一当り当ったら、こちとらのなまくらはボロリと折れて、腕節《うでっぷし》でも首の骨でも一堪《ひとたま》りもあるもんじゃねえ」
「いやな奴だな」
「全くいやな奴だ」
「そんないやな奴がこの時勢に易者の真似なんぞをして、この山の中までブラブラやって来る気が知れねえ」
「山の中へ来るのは、やっぱり仕事があって来るんだ、あいつは新徴組《しんちょうぐみ》だよ」
「新徴組か」
「今は上方《かみがた》で新撰組となって、近藤勇が大将だ」
「新徴組じゃあ、こちとらの歯には合わねえ」
「弱ったな」
「勤番の役人様が、今度はあべこべに、油を絞られて突放《つっぱな》されるという図になってはやりきれねえ」
「いやな奴が来やがった」
「全くいやな奴だ」
 二人は膝を組み合せて、折助言葉に砕いて話し合っているところへ、
「御免下さいまし、あの、山崎様が、御用済み次第お目にかかりたいとお使でございました、もしお役人様のお席にお差支えがござりますれば、望月様のお邸がお広うございますから、失礼ながらあちらへお運び下さるよう申し上げてみろとの仰せでござりまする」
「やかましい、用が済んだらこっちから出向いて行くと、そう申せ」
「ハッ」
「弱ったな」
「全く弱った、その山崎という奴がここへ来て、大勢のいる前で面《つら》の皮を剥《む》かれた日には恥の上塗《うわぬ》りだ」
「だから、こっちから行くと言ってやったのだ」
「向うへ行って、向うで面の皮を剥かれたって好い心持はしねえ」
「どっちへ向いても面の皮を剥かれるのは楽なものではあるまい、なんとかいい工夫はねえかなあ」
「敵を見掛けて夜逃げをするわけにもゆくめえから、どうだ一番、乗るか外《そ》るか二人でおしかけて、その山崎にぶつかってみよう」
「そうさな」
「もとよりこっちだって、殿様御承知の上で仕組んだ狂言だ、バレかかったら神尾主膳実はその代理ということで、うまくお茶を濁してしまおうじゃねえか」
「まあ、そういうことでやってみよう、まかり間違ったら拝み倒しよ。なに、山崎だってずいぶん殿様のお世話にはなっているんだから、まるっきり話のわからねえこともあるまいよ」
「今夜は、ゆっくり休んではかりごとを考えて、明朝早く望月のところへ出かけるとしよう」
 それで二人は寝ようと思っていると、
「申し上げます、山崎様がただいまこれへお越しになりました」
「ナニ、山崎が来た?」
「ハイ、お役人様にお見せ申すものがあると申しまして、おひとりでこれへおいでになりました」
「明朝こちらが参ると申したではないか」
「でも、山崎様が急の御用とおっしゃいまして」
「山崎の急用は私のことだ、こちらの用は公儀の御用だぞ」
「恐れ入りまする」
「早く追い返せ」
「あれ、もう廊下をあの通り、ひとりで歩いておいでになりまする」
「ナニ、ひとりで歩いて来る? それは困った、ここへ来られては困る、ここへ来てはいけない」
「それでも、あの通り槍をお持ちになって、無理にお通りでござりまする」
「ナニ、槍を持って来た?」
 二人の擬《まが》い勤番《きんばん》は、障子をあけて外を見ると、長い廊下の向うから、人が一人、闇の中を静かに歩いて来ると、そのあとから追いかけるように一人の女が雪洞《ぼんぼり》を差し出しています。
「神尾殿、神尾主膳殿」
 廊下を歩いて来る人は、二間も三間も隔たった向うから神尾の名を呼ぶ。そのくせ、廊下を歩く足どりはゆっくりしたものです。
「チェッ、来やがったな。それにしても、あの声は……」
 二人は廊下の闇を微かな雪洞《ぼんぼり》の光をたよりに山崎の様子をうかがうと、どうやら人が違うようです。
 碁盤へ印をつけた山崎はもっと太った男であった。甲府へ来た時の山崎はあんな士風《さむらいふう》ではなく、易者のような恰好《かっこう》をしていたし、その山崎の声は、もっと太くて力のある声。いま呼びかけた声は低くて沈んで病人のような声です。
「あれが山崎か」
「左様でございます」
「何だ、山崎は病人か」
「お目が御不自由で、それゆえ失礼ながらこのままとおっしゃって、槍を杖に突いて、おいででござりまする」
「そりゃ訝《おか》しいぞ」
 二人は面《かお》を見合せていた時に、廊下を渡って来た人、黒の紋付を着流して腰に両刀、それで九尺柄の槍の石突《いしづき》で軽く廊下の板を突き鳴らしながら、
「珍らしいところで神尾主膳殿、拙者は山崎でござる、山崎譲、山崎譲」
 槍を杖《つ》いて来たのは机竜之助で、
「神尾殿、神尾主膳殿、珍らしいところでお目にかかる」
 早やその部屋近くまで来たから擬《まが》いの神尾主膳は、
「山崎、あの、御身が山崎譲殿に相違ないのか」
「いかにも山崎譲、先日は失礼致した、御免あれよ」
 竜之助はこう言って、槍を携えたままで彼等の部屋の中へ入ってしまいました。
「いつぞや御所望《ごしょもう》になった道具、幸い、この山の中でぶらぶら遊んでいる間に、この通り手に入れた。この上の望月という家にあった槍、拙者はこの通り眼が見えないが、天正以前の作と覚えて申し分がない、柄は竹を合せて作ったもの、賤《しず》ヶ岳《たけ》七本槍の時、あの連中が使った槍に竹の柄があった、竹を削って菊の花形に組合せて漆《うるし》を塗る、見たところでは樫《かし》の柄と少しも変らぬのだが、間違っても折れることはない、結構なものを手に入れた。近いうちに甲府へ行って献上しようと思うていたところへ、貴殿がここへおいであったというは幸い、それでこの通りに押して参上」
 抜身《ぬきみ》の槍を抱えて竜之助は程よいところへ坐り、穂先をズッと燈火《あかり》の方へ向けたから、擬いの勤番連は煙《けむ》に捲かれて、
「なるほど、うむ、その槍が……」
「こういう品は今時《いまどき》、この山国でもなければ滅多には出て来ないわい、いざ神尾殿、よく穂先から込《こみ》の具合まで、鑑定《めきき》して御覧あれ」
 竜之助はその槍の穂先を、擬いの神尾主膳の方へ突きつける。
「なるほど、これは見事な槍、近頃の掘出し物、なるほど」
「御所望とあらば進上致す」
「いかにも珍らしい槍、頂戴して甲府へのみやげにしたい」
「それはお安いこと、進上致そう。その前に一応の鑑定《めきき》が所望」
「いや、我々には目が届かぬ、貴殿の御鑑定では?」
「目のあいた神尾殿に鑑定の届かぬものを、目のない拙者になんで鑑定ができよう」
「しからばこのまま頂戴致す、誰かこの槍を頂戴して床の間へ飾れ」
 擬《まが》いの神尾主膳に附添いの者共はみな集まって来たし、この家の主人や婢僕《ひぼく》までもみな廊下のところに、そっと様子を見に来ている。その向うには、望月家を初め、土地の古老たちまで面《かお》を並べて怖る怖るこちらを見ています。
「いや、神尾殿、槍は貴殿に進上致すが、貴殿の方から拙者も頂戴致したいものがある、なんとお引替え下さるまいか」
「この槍と引替えに何を御所望かな」
「拙者には別に望みはないが、もとこの槍は望月家秘蔵の槍、よって望月家へ相当の謝礼をしてもらいたい」
「望月家へ謝礼とは?」
「もとより金銭に望みはない、先刻お引連れになった望月家の若主人、これは望月家にとって槍よりも大切な品、それとこの槍とお引替えが願いたい、その仲人《ちゅうにん》は山崎譲」
「ナニ」
「この槍と望月の若主人とを引替えてもらいたい」
「黙らっしゃい」
「黙れとは?」
「言わせておけば方図《ほうず》もない、いったい貴様は何者だ、山崎譲の名を騙《かた》って拙者共の部屋へ案内もなく推参する不届者《ふとどきもの》、拙者共の知っている山崎は貴様のような盲目《めくら》ではない、病人ではない、このうえ無礼を申すと手は見せぬぞ」
 擬いの神尾主膳は堪《たま》り兼ねて刀を押取《おっと》ると、附添いの者合せて十余人がみな同じようにして竜之助を取捲く。
 その時の竜之助の冷笑は、やはりこんなやつらを相手に、我ながら大人げないという冷笑で、彼等を嘲《あざけ》るのではない、自分を嘲るような冷笑でありました。
「申すまでもない山崎譲は偽名、拙者には別に本名がある。しかし山崎は拙者の友人、その名前を騙《かた》っても別に障《さわ》りもあるまいから、ちょっと融通してみた」
「無礼者め! 本名を名乗って、早く謝罪《あやま》って引込め、さもない時は手討ちにする」
「本名はそちらから名乗ってみるがよい、今は知らず、神尾主膳はもと三千石の旗本、もう少し睨《にら》みの利いた男であったはず」
 こう言いながら竜之助は、片手で持っていた槍を、両手で持って折敷《おりし》きのような形に身体《からだ》を立て直すと、その槍の穂先が擬いの神尾主膳の咽喉元へピタリ。
「これ、何をする」
 擬いの神尾は驚き慌《あわ》てる。周囲の者共はどよみ渡る。
「本物の山崎は棒をよく使ったが、拙者はあり合せの槍。おのおの騒ぐな、騒いで刀が鞘走《さやばし》るようなことがあると、拙者の眼は盲《めし》いたれど、この槍の先には眼がある」
 刀の柄《つか》へ手をかけて立ち上った擬《まが》いの神尾主膳は、竜之助の槍の穂先で咽喉《のど》を押えられて動きが取れなくなってしまった。動けばブツリと咽喉へ入る、反身《そりみ》になって外《はず》そうとすれば、穂先はひたひたとつけ入る。赤くなり蒼くなって、とうとう床柱へピタリと押しつけられてしまいました。
「無礼者、無礼者」
 床柱へ押しつけられて苦しみもがく擬いの神尾主膳。
 あたりに見ていた者共も、この奇怪なる盲目の武士の振舞に怖れをなして手出しをすることができない、手出しをすれば擬いの神尾が殺《や》られる。山崎の名を騙《かた》って来たように、ワザと盲目の真似をして来た者、手剛《てごわ》い敵、手が出せぬ。それで、一同も眼を白黒としていると、蒼くなり赤くなっている擬いの神尾主膳、
「槍を引け! 槍を引いてくれ給え」
 苦しい声。
「槍はいつでも進上致す、その代り引替えの品」
「引替えの品、承知」
「承知致したか、望月の若主人を戻すか、戻してこの槍と引替えに帰らっしゃるか」
「いかにも、槍と引替えに」
「よし、しからば誰か、望月の若主人をこれへ。遠慮は要《い》らぬ、縄目を解いてやってくれ」
 次の間から連れ出された望月の若主人、
「どうも有難うござりまする、なんともお礼の申し上げようがござりませぬ」
 竜之助の前に跪《ひざまず》く。
「早く縄を解いて上げろ」
「へえ、もう縄を解いていただきました」
「では、一刻も早く、おうちへお帰りなされ。誰かこのお方をつれてこの場をお引取りなさるがよい」
「有難うござりまする」
 望月一家の人たちは、若主人を擁《よう》して大急ぎでこの場を出て行ってしまいましたが、この時もまだ竜之助は、擬いの神尾主膳の咽喉元へ突きつけた槍をはなそうともしないで、
「さて、引替えの品は確かに頂戴した、槍はこのまま進上致す、受取らっしゃれ」
「呀《あっ》!」
 擬いの神尾主膳は絶叫して、両手を高く挙げて虚空《こくう》を掴《つか》む。
「呀!」
 一座の者が敵となく味方となく仰天《ぎょうてん》したのは、槍を手元へ引かないで、机竜之助が、擬いの神尾主膳の咽喉元を一突きに突き刺して、その穂先は床柱へ深く、人間もろともに縫い附けてしまったからです。縫いつけられて一旦、虚空を掴んで苦しがった擬いの神尾主膳、創口《きずぐち》から矢のように迸《ほとばし》る血まみれの槍の柄を両手に掴んで、苦しまぎれに抜こうとしたが抜くことができません。



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年6月2日公開
2004年3月6日修正
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