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大菩薩峠
竜神の巻
中里介山

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《》:ルビ
(例)勃発《ぼっぱつ》

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(例)松本|奎堂《けいどう》

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(例)※[#「金+延」、第3水準1-93-16]
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         一

 天誅組がいよいよ勃発《ぼっぱつ》したのは、その年の八月のことでありました。十七日には大和《やまと》五条の代官鈴木源内を斬って血祭りにし、その二十八日は、いよいよ総勢五百余人で同国高取の城を攻めた日。その翌日、十津川《とつがわ》へ退いて、都合《つごう》二千余人で立籠《たてこも》った時の勢いは大いに振《ふる》ったもので、この分ならば都へ攻め上り、君を助けて幕府を倒すこと近きにありと勇み立ち、よく戦いもしたけれど、紀州、藤堂、彦根、郡山、四藩の大兵を引受けてみて、力が足りないのは是非もないことでした。
 侍従中山忠光は浪花《なにわ》へ落ち、松本|奎堂《けいどう》、藤本鉄石、吉村寅太郎らの勇士は、或いは戦死し、或いは自殺して、義烈の名をのみ留《とど》めた――十津川の乱の一挙は近世勤王史の花というべく、詳しく書けば、ここにまた一つの物語を見出されようけれども、それはここに必要を認めず。いよいよ、これらの一味の者が散々《ちりぢり》になって、或る者は伊勢路へ、或る者は紀州領へ、或る者は大阪方面を指して、さまざまに姿を変えて落ちた後のことであります。
 鷲家口《わしやぐち》の戦いから落ち延びた十一人の浪士が、木にも草にも心を置いて風屋《かぜや》村というところへさしかかって、
「ああ、水が飲みたい」
「水が欲しい」
 村とはいうものの、ここは十津川|郷《ごう》の真中で名にし負う山また山の間です。十津川の沿岸を伝うて行けばなんのことはないのですけれども、四藩の討手《うって》が、残党一人も洩らすまじと、夜となく日となく草の根を分けている際ですから、それはできませんでした。
 大日《だいにち》ヶ岳《たけ》へ連なる山々を踏みわけて、木の繁みを潜《くぐ》り潜り歩いて行くのだから、水にも遠くなる。水、水というけれども、木莓《きいちご》一株を見つけ出してさえ、十一人の眼の色が変るくらいですから、その腹の応《こた》えは思いやらるるのです。
「川岸まで戻ってみようか」
 眼を見合せて惨澹《さんたん》たる面《かお》の色。
「それはよせ、さいぜん鉄砲の音が聞えた。拙者の考えでは、これをずっと向うへ横に切って、紀州の日高郡をめざすが無事だと思う」
「道程《みちのり》は……」
「風屋――小森――平松――三本磯と行って、紀州日高郡の竜神へ凡そ十三里」
「その間の兵粮《ひょうろう》は……」
「さあ、それが……」
 一同は口を噤《つぐ》んで足が動かない。
「おのおの方、あれを見られよ、煙が棚引《たなび》いている」
 沈んだ声で後ろから言い出したのは、あの時以来、何をしていたか、ともかくここまで傷一つ受けずに来た机竜之助でした。
 翠微《すいび》の間《かん》に一抹《いちまつ》の煙がある――煙の下にはきっと火がある、火の近いところには人があるべきものにきまっています。
「なるほど、煙が立つ、拙者が様子を見て来よう」
 村本伊兵衛というのが出かける。
「よし、我輩《わがはい》も行こう」
 荷田《かだ》重吉がいう。村本と荷田は連れ立って、その煙の方へ行ってみます。あとの九人は、木の根と岩角《いわかど》とに腰をかけて、その斥候《ものみ》を待っています。
「諸君、仕合せよし」
 村本と荷田は欣々として帰って来て、
「山小屋がある、その中には、猟師と見えるのが、炉《ろ》に火を焚いて、何やら獣の肉を煮ている」
「ナニ、獣の肉を?」
 肉と聞いて、うまそうな唾《つば》が口の中から迸《ほとばし》るようであった。
「敵の間者《かんじゃ》ではないか」
「いや、そうではないらしい、たしかに生《は》えぬきの猟師と見受けた」
「おしかけろ」
「行ってみろ」
 村本と荷田は案内する。九人はそれについて行って見ると、山腹のやや平らかなところを程よくこなして、そこにかなり大きな掘立小屋《ほったてごや》があります。
「頼む……」
「うあ……」
 中で妙な調子の返事がある、面を出したのはまさに猟師に違いない。ずっと前に、はじめて三輪の藍玉屋《あいだまや》の不良息子の金蔵に鉄砲を教えた惣太《そうた》でありました。
 惣太は面を出して見ると、都合十一人、筒袖《つつそで》に野袴《のばかま》をつけたのや、籠手《こて》脛当《すねあて》に小袴や、旅人風に糸楯《いとだて》を負ったのや、百姓の蓑笠《みのかさ》をつけたのや、手創《てきず》を布で捲《ま》いたのや、いずれも劇《はげ》しい戦いと餓《うえ》とにやつれた物凄《ものすご》い一団の人でしたから、
「やあ、お前様方は何だ」
「驚くことはない、これから紀州の方へ通る者だが道に迷うた、暫らく休息させてもらいたい」
「へえ、よろしゅうございます、こんな狭苦《せまくる》しいところでございますが」
 惣太は杉板を三枚合せて綴った戸をあけて、中へ一行を招《しょう》じ入れたが、気味の悪いことは夥《おびただ》しい。
「お前様方は、あの天誅組のお方様でございますか」
「何でもよろしい、そこを締めろ」
「へいへい」
「さあ、猟師、何か食うものはないか」
「別に何もございません、なにしろ、この通りの山小屋でございますからな」
「それは何だ」
「これは猪《しし》でございます」
「猪! それは至極《しごく》よろしい、その猪を売ってくれんか」
「お売り申してもよろしゅうございます」
「よしよし、それでは買おう、鍋もそのままにして、味噌か醤油もあるであろうな」
「エエ、ただいま出して上げまする」
 思わぬところで意外の御馳走《ごちそう》。一行は炉の周囲《まわり》をかこんで小舎《こや》いっぱいに拡《ひろ》がって、
「猪の肉とは有難い――猟師、もっと大きな鍋はないか」
「へえ、こちらにございます」
 惣太は、いま炉にかけてあったのより、やや大きい三升焚きぐらいの鍋を押入の中から引張り出して、それから上り口へ寝かしておいた猪の股《もも》のあたりの肉を切りにかかった。
「大きなやつだな、この辺には、こんなのがたくさんいるか」
「へえ、大分いるにやいますがね、近頃は戦争で鉄砲の音がやかましいものですから、みんな紀州筋へ逃げ込んで、やっと五日もかかって、こいつを一つ仕止《しと》めたのでございます」
「そうか、なんにしても有難い、代《だい》はいくらでも取らせるぞ、早く料理をしてくれ」
「では、こうして丸切りにして、鍋の中へぶち込んで、ぐつぐつ煮立てて進ぜましょう」
「それがよかろう、よかろう」
 惣太はよく働いて猪の肉を煮てやります。気味が悪くてたまらないけれども、ぐずぐず言えば、どんな目に逢《あ》うか知れたものでないから、神妙に言われる通りに世話していると、浪士らは寝たり起きたりして肉の煮えるのを待ち構えています。
「おいおい、猟師、黙っていてはいかんぞ、ここに有難いものがある」
 磯崎という浪士が、寝ころんでいた自分の枕許《まくらもと》で見つけ出したのが貧乏徳利《びんぼうどくり》であります。
「やあ、それを見つけられてはたまりませんな」
「何だ、酒か」
 それだけは隠しておきたかった。惣太がいま猪の肉を煮ていたのは、実は取って置きのその濁酒《どぶろく》を一杯やりたかったからであります。肉の方は、いくらでも御用に立てるが、酒の方はかけ換えがないから、それを見つけ出された惣太は苦《にが》い面《かお》をしました。
「うむ、猟師、人が悪いぞ、これを隠して一人でこっそり飲もうなどは不届《ふとど》きだ……一升はしかと認めた、茶碗を出せ、さあ、おのおの」
 肉の煮える間、一升の濁酒は十一人の口を潤《うる》おしている。
 それを傍《はた》で見ている惣太の顔色はない――惣太が、こんな危ない時世に、山奥へわけ入って猛獣を追い廻しているのも、この一升が生命《いのち》なのであります。
 それをみすみす人に飲まれて、自分は指をくわえながら、料理方を承わっている辛《つら》さ口惜《くや》しさというものは容易なものではないのでした。
「猟師、猟師」
 肉の煮えた時分に惣太の姿が見えなくなっていました。
「猟師、どこへ行った」
 呼んでみたけれども返事がない、一同は少しばかり怪しんだけれども、さして気にも留めず、それから寄ってたかって猪の肉を突く。
「猟師はどこへ行った」
「逃げたかな」
「逃げたようじゃ、逃げて訴人《そにん》でもしおると大事じゃ」
「いいや、訴人したとて恐るるに足らん、藤堂の番所までは六里もあるだろう、ゆるゆる腹を拵《こしら》えて出立する暇は充分」
「よし十人二十人の討手が向うたからとて、かくの如く兵糧《ひょうろう》さえ充分なら、何の怖るることはない」
「とかく戦《いくさ》というものは、腹が減ってはいかん」
「古いけれども、それが動かざる道理」
「それにしても、中山侍従殿には首尾よく目的のところへお落ちなされたかな」
「こころもとないことじゃ」
「十津川を脱《ぬ》けて、あの釈迦《しゃか》ヶ岳《たけ》の裏手から間道《かんどう》を通り、吉野川の上流にあたる和田村というに泊ったのが十九日の夜であった」
「その通り」
「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の領袖《りょうしゅう》は、あれから宿駕籠《しゅくかご》で鷲家《わしや》村まで行った、それから伊勢路へ走ると先触れを出しておいて、不意に浪花《なにわ》へ行く策略であったがな」
「彦根の間者が早くもそれと嗅《か》ぎつけて、大軍でおっ取り囲んだ――吉村殿と、安積《あづみ》五郎殿が一手を指揮して後方の敵に向うている間に、藤本、松本の両総裁が前面の敵を斬り開いて、中山卿を守護してあの場を落ち延びたが、さて危ないことであった」
「そこを落ち延びると、忽《たちま》ち紀州勢が現われて藤本殿はあわれ斬死《きりじに》じゃ。悼《いた》ましいことではあるが、その働きぶりは、さながら鬼神のすがたであった」
「その日の夕暮、またも行手に大敵が現われて、松本総裁は牧岡氏《まきおかうじ》と池氏とに後を托《たく》して、中山卿を守りて長州へ落ちよと申し含めて、自身は大敵の中で見事な切死《きりじに》」
「さてさて、天命是非もなし、我々こうして永らえているも、一《いつ》に中山卿の安否が知りたいため」
「それも、どうやら望みが絶えたわい――」
 このなかでは最も重い、組の監察をしていた酒井賢二郎が言い出でた一語は沈痛に響きました。それは絶望の叫びであって同時に覚悟の決定を促《うなが》すように聞えたから、一同は暫らく無言で酒井の面《かお》を見ていると、酒井は、
「それに比べては僭越《せんえつ》であるが、建武《けんむ》の昔、楠正成卿が刀折れ矢尽きて後、湊川《みなとがわ》のほとりなる水車小舎に一族郎党と膝を交えて、七|生《しょう》までと忠義を誓われたその有様がどうやら、この場の風情《ふぜい》と似ているではないか」
「いかにも……」
「もはや、いずこへ落ちたとて袋の鼠、飢え疲れて名もなき者の手にかかり、縄目の恥なんどに遇《お》うて、先輩や同志の名を汚すはこの上もなき不本意、ここらで落着いて、武士らしい最期《さいご》を遂げようではないか」
「尤《もっと》も……」
 一同は更に異存がない、異存らしい面色もない。死すべきところに死ななければ、死せざるに勝《まさ》る恥があるということの分別はいずれも人後《じんご》に落ちないものであったから、彼等は死を争おうとも、それに異議を唱《との》うるものが一人もあるべきはずがない。一座が無言にして沈黙の重きに圧《お》されたのは潔《いさぎよ》き同意の表白であったから、言い出した酒井賢二郎も満足して、
「御同意で忝《かたじけ》ない。ただし、これは強《し》いては申さぬこと、なおまた万死を賭《と》して中山殿の御跡《おんあと》をお慕い申してみたい者は、そのようになさるがよい、国に残る妻子眷族《さいしけんぞく》のことが気にかかるものあらば、それもまたお心任せ」
 酒井賢二郎は一同を見渡して念を押すと、静まり返った中から、
「いかにも酒井氏の申さるること、道理至極、死すべき時に死せざれば死するに勝《まさ》る恥がある。今はとても中山殿のお跡を慕うこともなり難し、いわんやまた、いまさらに妻子眷族に未練《みれん》を残す者もあるまい、ここで腹を切るが最上の武士道と存ずる」
 水野善之助というのがこう申し出でる。自然これが一同の意志を遺憾《いかん》なく代表したことになった時に、
「拙者一人だけは――」
 ヒヤリと剃刀《かみそり》で撫でたような言葉。それはさきほどから隅の方に黙々としていた机竜之助の声でしたから、一同の眼先は箭《や》を合せたように竜之助の面《かお》に注ぐと、
「切腹は御免を蒙《こうむ》る――」
「何と言わしゃる」
「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って落ちてみるつもりじゃ」
「死にたくない?」
 浪士たちの眼から電《いなずま》が発するようですけれど、竜之助の眼は少しく冴《さ》えているばかりで、その面は例の通り蒼白い。
「ふーん、死に怯《おく》れたな」
 ほかの浪士は、憤激と軽蔑《けいべつ》の眼を合せて竜之助を見る。
「拙者は死にたくない」
 竜之助は冷やかなもの。
「忠義を忘れたか!」
 忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が最期《さいご》に似たりと浪士らは血を沸かせている間に、竜之助ばかりはどうしてもそんな気分になれないものと見えます。
「机氏」
 酒井賢二郎は逸《はや》る他の連中を抑え、
「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより強《し》いて死を求むるものではない、しからばこれより落ちるなり、逃げるなり、お心任せになさるがよい、さてその他の諸君」
 酒井はまた一座を見廻して、
「申し遺《のこ》すことなどもあらば、最後の思い出に書き給え」
 彼等は紙と矢立《やたて》を持っていました。
 もはや、机竜之助の方は誰も相手にしなかった。竜之助が、こんなふうにつむじ曲りの人間であることは、この連中がもうよく呑込んでいるものと見えて、一旦は憤激してみたけれど、今は取合いませんでした。
 竜之助は黙って、自分だけは遺書《かきおき》もしなければ辞世もつくらず、介錯《かいしゃく》をしてやろうとも言わず、もとより頼もうと言う者もありませんでした。
 そのうちに、余の十人は、それぞれ辞世の詩歌、妻子へ申し遺すことなどを書いてしまいました。
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水野善之助は、二の腕の創《きず》をよく結び直しながら、
「宮の御鎧《おんよろひ》に立つ所の矢|七筋《ななすぢ》、御頬先《おんほほさき》二の御腕《おんうで》二箇所突かれさせ給ひて、血の流るること滝の如し」
 朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、
「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら大盃《おにさかづき》を三度傾けさせ給へば、木寺相模《きでらさがみ》、四尺三寸の太刀の鋒《きっさき》に敵の首をさし貫いて宮の御前に畏《かしこま》り……」
木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ跳《おど》り出でて、
「戈※[#「金+延」、第3水準1-93-16]剣戟《くわえんけんげき》を降らすこと電光の如くなり、盤石《ばんじゃく》岩をとばすこと春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅《しゅら》かれがために破らると……」
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 大塔宮《だいとうのみや》の昔をしのぶにはちょうどよい土地である。あの時分以来、この十津川郷には南朝忠臣の霊気が残っているはずであります。

         二

 猟師の惣太は、薪《たきぎ》を取りに出るふりをしてこの小舎《こや》を逃げ出してしまいました。
 十津川の岸へ出て一散《いっさん》に北へと走《は》せ下る。
「やれやれ怖ろしいことじゃ、命拾いをしたようなもの。しかしこうなってみると、怖《こわ》いところにまた有難いことがある、あれを藤堂様なり紀州様なりに訴人《そにん》をすれば、莫大《ばくだい》な御褒美《ごほうび》にありつける、占《し》め占め」
 もう安心と思った時分に、惣太は汗を拭きながら独言《ひとりごと》を言いました。それでも足の方は休ませずに、なおも流れに沿うて急ぎ下ると忽《たちま》ち行手で人声がする。
「や、また来やがったぞ、待てよ、敵か味方か、ここへひとつ隠れて様子を見てやれ」
 岩と木立の間へ惣太は素早《すばや》く身をひそませると、流れを上ってこちらへ来るのは、都合十人ほどの武士であって、その服装のいかめしいのを見ても落武者《おちむしゃ》でないことは確かです。
「宇津木氏、その机竜之助とやらは、日頃この天誅組の一味に気脈を通じていたような形跡がありましたかな」
「いや左様なことはありませぬ、聞けば江戸へ下る途中、伊賀の上野にて、これらの浪士の一行に加わり、それより吉野へ出で、いったん浪花《なにわ》へ入って、それからまた出直してこの旗上げに加わったように見えまする」
 一行の中の大将分と見えるのと話をしているのは宇津木兵馬でありました。
 藤堂の討手《うって》で藤井新八郎というのがこの大将分で、兵馬はその手に加わって、今この山奥深くたずね入り来《きた》ったのは、たしかに鷲家口から逃れた一隊の浪士の中に机竜之助がいると見定めたからであります。藤井新八郎は頷《うなず》いて、
「この山中へ追い込めばもはや袋の鼠である、いずれへ行っても紀州領、帰れば我々の追手が十重二十重《とえはたえ》、山中に永く迷いおれば食糧はなし」
 こういったような話をしてこの一隊が、心して川の岸を進んで行った時に、
「申し上げます、もしあなた様方は紀州様でございますか、藤堂様でございますか、申し上げます」
 岩蔭から転《ころ》がり出した猟師の惣太。一行は屹《きっ》と足をとどめて、従卒は鉄砲の筒を向けてみましたが、用心するほどの者ではない、賤《いや》しげな木樵《きこり》山がつの類《たぐい》がたった一人。
「その方は何者じゃ」
「猟師でございます、惣太という猟師でございますが、ただいま悪者を見つけましたから御注進申し上げます、ただいま、私共の山小舎《やまごや》へ都合十一人の浪人者が舞い込みましたのでございます」
「ナニ、十一人の浪人?」
「ええ、ただいま、酒を呑み、肉を食って休んでおります」
「よく訴人した、案内せよ」
 惣太を先に打立たせ、やがてその山小舎のあたりへ来た時分に、前後の様子を篤《とく》と見定めた藤井新八郎は、
「惣太」
「へえ」
「気の毒だが、その方の小舎へ火をつけてくれまいか」
「焼くのでございますか」
「そうじゃ、あとで不服のないように普請《ふしん》をして取らせる」
「よろしゅうございます、焼きましょう」
「しからば、これを持って行け」
 新八郎は、腰にさげたやや重味のある袋を出して惣太に取らせる。
「これは何でございます」
「それは火薬である、その方はそれを持って、なにげなき体《てい》で小舎へ帰れ、気取《けど》られぬように、小舎を締め切って程よいところから火を出せ、その火を合図に我々が取囲んで、一人も残さず搦《から》め取る」
「よろしゅうございます、やってみましょう、ずいぶんあぶない仕事ですが、なあに、やってやれないことはござんすまい」
 落武者は十一人と数が知れても、それが死物狂《しにものぐる》いに荒《あば》れる時は危険の程度が測られない、新八郎が惣太に火薬を授けたのは、その辺の遠慮から出た計画と見える。
 藤堂方の討手は小舎を遠巻きにしていると、惣太は心得て、火薬袋を腰にぶらさげて小舎へ戻って来たが、このとき、小舎の中はもう薄暗い。
「皆様方、帰って参りました」
 戸をあけて中へ入ると、
「おお、猟師、どこへ行っていた」
「はい、米が切れたから里へ取りに参りました」
 浪士らは、深くも惣太を怪しまぬようでした。惣太はおそるおそる炉の傍へ寄って、
「今、米を炊《た》いて上げましょうぞ、なんしろ鍋が二つしかございませんから、こいつを洗って、これでお米を炊くと致しましょう」
 いま猪の肉を煮ていた鍋を惣太は取り下ろして、提げ出そうとする途端に、腰に下げていた、さっき新八郎から授けられた火薬袋の紐が解けて火薬はドサリとそこへ落ちました。
「猟師、何か落ちたぞ」
「へえ……」
 惣太の唇の色が変ってしまいます、鍋を持った手がワナワナと顫《ふる》えます。
「これはその……」
 鍋を下に置いて、あわててそれを拾い取ろうとする挙動があまりに仰山《ぎょうさん》なので、荷田重吉が不審に堪えず、
「それは何だ」
「これは――ゴウヤクでございます」
「ゴウヤクとは何だ」
「何でもございません」
 拾い取ろうとする惣太の手首を荷田が押えて、
「ちょっと見せてくれ」
「ええ……御冗談《ごじょうだん》」
「貴様、まだ何か隠しているな、ゴウヤクとは何だ、出して見せろ」
 荷田も、これが火薬袋とは知らないが、惣太の挙動があまり仰山なので、ついついそれを取ってみる気になると、惣太は面《かお》の色を失って荷田の手を押し払って、それを拾い取って懐中へ捻《ね》じ込もうとしますから、いよいよ嫌疑《けんぎ》が深くなるわけです。
「こりゃ猟師、貴様はただいまどこへ行った」
「里へ米を買いに」
「黙れ、この近いところに米を売るようなところはあるまい、貴様は訴人《そにん》に出かけたな、我々の所在《ありか》を敵の討手へ知らせに行ったのであろう」
「ど、どう致しまして」
「その袋が、いよいよ以て怪しい」
 荷田は力を極《きわ》めて袋を引ったくる、惣太は力任せにそれをやるまじとする、その途端《とたん》にころがり出したのが炭団《たどん》ほどな火薬二個。
「やあ、これは火薬じゃ」
「おのれ!」
 一人の浪士は抜打ちに惣太を斬ろうとする。惣太は絶体絶命で、眼の前に転がって来た火薬を一つ掴《つか》むや否や、燃え立っていた炉の中へスポッと抛《ほう》り込みました。
 轟然《ごうぜん》たる爆発。鍋は飛び、炉は砕け、山小屋は寸裂する、十一人のうち、二人即死。面《かお》を半分焼け焦《こが》されたの、手の肉をもぎ取られたの、全身に大火傷《おおやけど》をしたの。肉が飛び血が流れ、唸《うめ》き苦しんで這《は》い廻る上に火がメラメラと燃え上りました。
「ソレ合図だ」
 遠巻きにしていた藤堂の討手は、意外に早く火があがったのを怪しみながら走《は》せつける。
 この場で即死した二人のほか、焼け爛《ただ》れて歩行の自由を失い、藤堂の手で搦《から》められたものが一人、あり合う俵や菰《こも》を引っかぶって逃げ出し、折からの闇に紛《まぎ》れて行方知れずになったものが七人。
 しかし、このうち六人はその翌日《あくるひ》、紀州方面へ逃げて行くところを、紀州勢の見廻りに出会って山の中でつかまってしまいました。
 十一人のうち、十人まではこんなことで運命が定まったに拘《かかわ》らず、どうなったかわからないのがたった一人、それがすなわち机竜之助でありました。

         三

 紀伊の国、竜神村の温泉場で今宵《こよい》は烈しく犬が吠《ほ》えます。
 山村とは言いながら、客には慣れたはずのこの里で、こんなに犬の吠えるのは珍らしいことです。
 時はもう秋に入るのであるから、爽《さわや》かなるはずであるべき天候が、まだなんとなく雲を持って、桶《おけ》の底のようなこの土地を、ひたひたと上から押してくるようなので、湯の客人もなんだか、近いうちに暴風雨《あらし》でもなければよいがと言っていました。
 犬も、それを心配して空に向って徒《いたず》らに吠えているのかとも思われます。
「犬が吠えてますなあ」
「そうでございます、よく吠えますなあ」
 上方《かみがた》の客と見える頭の禿《は》げた隠居と、和歌山あたりの商人《あきんど》と見えるのと、二人で湯槽《ゆぶね》の中で話していました。
 竜神村は、日高川の源、山と山との間、東西二里、南北五里がほどに二三十町ずつを隔てて、八カ所に家がある。その八カ所のうちのここは湯本といって、温泉宿が今では十九軒もある。その十九軒のうちの室町屋《むろまちや》というのが、この家でありました。
 もう少したつと客がドッと多くなるが、今のところは、夏と秋との移り変りであるのと、近国に戦乱があるのと、そんなこんなであまり客はないのです。
「まだ吠えてますなあ」
「あちらでも、こちらでも、吠え立ておるわい、どうしたものじゃろう」
 二人の客は湯槽から這い上って、隠居の方は軽石で踵《かかと》をこすりながら、
「何か、悪い獣が山から出てうせはせんかな、狼か、山犬か、猪《しし》かむじな[#「むじな」に傍点]か」
「近頃は、トンと左様な噂《うわさ》も聞きませぬ。なんにしても、こう吠えられては物騒《ぶっそう》でなりませんな」
 二人が犬の吠えるのを頻《しき》りに気にしていると、浴室の戸をガタと開いて、一人の女中が面《かお》を出し、
「もし、お客様、恐れ入りますが、急にお湯をお上りなすってくださいまし、あの、お調べのお役人が参りましたから」
「ナニ、お調べのお役人が――」
 二人は面を見合せて、
「わしらは、別に調べられるような筋はごわせんが……」
 湯から上って、もう寝ようとする今時分に事改めて、調べの役人が向うなどとは、今までに例のないことで気味の悪い話です。二人は面を見合せて、
「何でごわすな、いったいお調べというは」
「はい、あの十津川筋とやらから、こちらへ悪者が落ちて参りましたそうで、それがため夜中《やちゅう》のお調べでございます」
「ああ、天誅組の落人《おちうど》か」
 犬の遠吠えもそれでわかった。

 この晩、調べに来た役人というのは仰々《ぎょうぎょう》しいものでありました。いずれも物の具に身を固めた兵士《つわもの》で、十津川から来たものと、紀州家の兵とが一緒になって、竜神村へ逃げ込んだ天誅組の余類《よるい》を探そうというのであります。
 それがために、温泉宿とお客とは大迷惑で、入浴中を引き出されたり寝込みを叩き起されたり――それが引取ってしまうと、大風の吹いたあとのように、胸を撫《な》で卸《おろ》しながら床について、やがて、犬の吠えるのも静まり返った時分のことであります。室町屋の帳場で帳合《ちょうあい》をしていたこの家の若い女房――まだ眉を落さないが、よく見れば、それは、二月ほど前に、初瀬河原から藍玉屋の金蔵につれられて逃げたお豊であることは意外のようで、実は意外でも何でもありません。してみれば、ここはいつぞや金蔵が話した通り、その親たちがはじめた温泉宿である。金蔵は今も見えないし、役人の来た時も出て来なかったから、たぶん不在《るす》なのでありましょう。
 お豊がこうして帳場へ納まっているからには、もう相場がきまったものと見てよろしい――お豊は帳合をしてしまうと、行燈《あんどん》の火影《ほかげ》に疲れた眼をやって、ホッと息をつきましたが、すぐにまた帳場のわきへ置いた人相書に眼がつきます。さきの役人が置いて行った人相書――もし、これに似た客が来たら遠慮なく申し出でろ、人違いでも咎《とが》めはないが、届けを怠ると重い罪だと厳《きび》しく申し渡されたものであります。ざっと見て捨てておいたのを、仕事が済んで、また取り上げて、はじめから読んでみます。
[#ここから1字下げ]
「年齢三十三四――
痩形《やせがた》の方、身の丈《たけ》尋常、
顔色蒼白く、
鼻筋通り、
眼は長く切れて……白き光あり……」
お豊はハッとしたのでありましたが、
「甲源一刀流の達人――」
[#ここで字下げ終わり]
「あ!」
 人相書を持った手が顫《ふる》えたようでしたが、さきに飛ばして読んだ名前のところへ、ひたと眼が舞いもどる。
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「元新撰組――机竜之助」
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 机竜之助……これでよかった。違う。しかし気にかかるは竜という文字……お豊の胸には急に熱鉄が流れるのでありました。
 また犬が吠えて、この家の前で足音が止まる。
 いま締めたばかりの表の戸をトントンと叩いて、
「もしもし、室町屋さん」
「はい」
 お豊は返事をする。
「済みません、夜更けになって」
 殿貝《とのがい》というこの温泉村の世話役の声でありますから、
「ただいまあけますから」
 あいにく誰もいなかったから、お豊が立って戸をあけると、殿貝老人が提灯《ちょうちん》をつけて入って来て、
「今晩は、どうもはや、度々お騒がせ申してお気の毒だが、お内儀《かみ》さん、このお方のお宿をひとつ」
 後ろを顧みて老人は、
「十津川からお越しのお武家様でござります」
 お豊は愛想《あいそ》よく、
「はい、よろしゅうございますとも、どうぞこれへ」
「さあ、お武家様、どうぞこれへお入り下さいまして」
 老人が丁寧に案内すると、
「御免」
と言って入って来たのは、太刀を横たえ、陣羽織をつけた厳《いか》めしい身ごしらえですけれども、歳はまだよほど若いように見えます。
「あの、これは藤堂様の御家中《ごかちゅう》でな、どうか御粗相《ごそそう》のないように」
「見苦しいところでございまして、それにこんな山家《やまが》のことでございますから行届き兼ねまするが、どうぞごゆっくりお泊りを願いまする……お鶴や、お鶴さん」
 お豊は入って来た武士のために敷物を取ってすすめながら、女中を呼び、
「お洗足《すすぎ》を差上げ申して、それからあの、お食事を」
「いや、食事はもう済みました、湯に入れてもらい、直ぐに休むと致しましょう」
 若い武士は上《あが》り端《はな》に腰かけて草鞋《わらじ》の紐を解く。
「お内儀さん、金蔵どのはまだ帰らぬかな、えらい永逗留《ながとうりゅう》じゃ」
「まだ二三日は、帰るまいと思われますのでございます」
「そうか。なにしろ近国では、あのような騒ぎ故、早く帰ってくれないと困る」
「左様でございます」
「では、お頼み申しましたよ。それから、あのな、御如才《ごじょさい》もあるまいが、先刻《さっき》の人相書、あれはよくよく気をつけてな、何の遠慮はいらぬから、怪しいのが見えたら、早速、わしがところなり組合の衆なりへ申し出てもらいたい……いや、こちらのこのお武家様に直接《じか》に申し上げてもよろしい、頼みましたぞよ」
「ええもう、委細承知致しました」
 この時、若い侍は草鞋を解き足を洗い終る。
「さあ、どうぞ、これへ」
 お豊は、さきに立って案内する時、いままでは蔭であった行燈の光でよく見れば、まだ前髪立ちの少年で、これは申すまでもなく宇津木兵馬でありますけれど、お豊は、まだこの人には近づきがなかったのであります。

         四

 温泉寺の鐘が九ツを打つ。
 兵馬は、いま枕について、まず頭にうつるものは、いま自分を案内してくれたこの宿屋の若い女房のことでありました。思いなしか、自分がいったん姉と慕ったお浜の面《おも》ざしにそっくりです。お浜は憎むべき女である。兄の身にとっては、竜之助よりはお浜の方がいっそう罪が重いかも知れぬ――竜之助を憎む兵馬には、お浜はなお悪いものでなければならぬはずですけれど、兵馬にはそれが心から憎くなれないのです。故郷へ帰った時は、よく世話をしてくれて、江戸にいる時は着物を送ってくれたり、土地のみやげを送ってくれたり、よく修行してえらい人になってくれと励ましてくれたこともある。芝の松原で、惨《むご》たらしい殺され方を見た時、その遺書《かきおき》を繰返して見た時、不貞の女の当然の報いを眼前に見せられても、なおその女が憎いとは兵馬には思えないで、やっぱり親切な姉の気持が離れないのでありました。
 兄の無念を思いやって、歯を咬《か》み鳴らす時も、嫂《あによめ》の面影は、やっぱり優しい人にうつる。竜之助を憎み悪《にく》む心が火のように燃えても、お浜を慕わしく哀れに思う心は消えないのです。
 兵馬は純良な少年である――まだ世の塵《ちり》にけがれない真白い頭へうつった優しい人の影は、消して消せない、あんな気立てのよい姉上が、なんと心が狂って、竜之助のような奴に欺《だま》されたことだ。
 取返しがつかない、悔やんでも及ばない。兵馬は、これが浅ましくてたまらないのです。憎い者の罪は憎めるけれど、憎めない者の犯した罪はどう憎んでよいかわからぬ。兵馬は常にお浜のために、その罪を憎まんとしてかえってその人のために泣きたくなるのです。
 兵馬には、女の心の浅ましさがわからない。けれども要するに、自分の身の廻りの言わん方なき苦しき紛紜《ふんうん》は、一《いつ》にお浜の心から来ていると、思えば思えるのである。人の一念こそ真に怖るべし、ちょっとした心の狂いは、無限に糸を引いて、それからそれとからみつくものである、その人が亡くなったとて、その一念の糸はなくなるものでない。
 今、自分の枕元へ丸い行燈を据《す》えて、燈心を程よく掻《か》きなして行ってくれたこの宿の若い女房の姿を思い浮べると、胸から乳へかけて真白な肌に血のかたまりが!
 そんなものがあるわけはないが、兵馬は、あの芝の松原の、お浜の酷《ひど》い殺され方を思いやって身の毛が竦《よだ》つのでありました。
 竜神村の夜は静かで、犬も煩悩《ぼんのう》を忘れて眠るのに、兵馬は思いに募《つの》ることばかり。
 お豊は兵馬を二階の座敷へ案内して、廊下を渡って来ましたが、かの人相書のことがどうも気になってならぬ。
 帰りがけに、梯子《はしご》わきの戸締りがほんとうでないから、ちょっと手をかけてみたが容易《たやす》くは動かないので、一旦あけ直して見ると、眼の下は、夜に眠る温泉村。
 夜更けての温泉村の風景は、土地に住み慣れた人をさえうっとり[#「うっとり」に傍点]させる。今は草木も眠る丑三時《うしみつどき》、竜神八所に立籠めた水蒸気はうすものの精が迷うているようであります。
 なんの気もなく空を見れば、鉾尖《ほこさき》ヶ岳《たけ》と白馬《しらま》ヶ岳《たけ》との間に、やや赤味を帯びた雲が一流れ、切れてはつづき、つづいては切れて、ほかの大空はいっぱいに金砂子《きんすなご》を蒔《ま》いた星の夜でありました。
 東から西に流れる雲、或いは西から東へ流れる雲。それが細長くつづきさえすれば、赤であっても、白であっても、ほかのどんな色でも、色合いにはかまわず、土地の人は一体にそれを「清姫《きよひめ》の帯」と呼びます。
 いま、お豊が見たのも、その「清姫の帯」であって、牟婁郡《むろごおり》から来て有田郡《ありたごおり》の方へ流れているのであります。
 お豊は、この土地へ来て、「清姫の帯」を見るのはこれがはじめてですから、ただ、まあ珍らしく細長い雲と思ったばかりですけれども、もしこの土地に永く住み慣れた人ならば、面《かお》の色を変えて、戸を立て切り、明朝《あす》とも言わずに竜神の社へ駈けつけて、祈祷《きとう》と護摩《ごま》とを頼むに相違ないのであります。
 ことに、東、鉾尖ヶ岳から、西、白馬ヶ岳までつづく「清姫の帯」は、土地の人にいちばん怖れられています。
 三年に一度あるか、五年に一度あるか、とにかく、「清姫の帯」が現われることはあっても、この二つの山までつづくということは滅多《めった》になく、もしそれがあった日には、土地の人は総出で竜神の社へ集まり、お祓《はら》いをし、物忌《ものい》みをし、重い謹慎をして畏《おそ》れる。最初にそれを見つけた人は、その歳のうちに生命《いのち》にかかわる災難があるのだということでありました。
 今、土地の人はみんな眠っている。おそらくこれを見たのは、お豊一人であろう――お豊の、そんな言い伝えを知らないことは、この村の今夜のためには平和である。しかし実際は、同じ夜の同じ時に、この怪しい雲を見た者が、この竜神村においてお豊のほかに、まだ一人あるにはあったのであります。

 その晩、お豊のほかに「清姫の帯」を見たものというのは、ほかではない、この竜神の社に籠る修験者《しゅげんじゃ》でありました。
 この修験者は、三年ほど前から、ここへ来ていました。それがお豊と同じ時刻に水を浴びて、護摩壇《ごまだん》へ戻る時に、ちょうど、この「清姫の帯」を見たのであります。
 竜神の社があるところは、お豊のいる温泉場よりずっと高い――修験者は雲の起るところから終るところを仔細《しさい》にながめて、その雲がいずれへ流れていずれで消えるかをまでよく見ておいて、それから眼の下に群がる竜神の温泉場を見下ろしたのであります。
 日高川の源《みなもと》が社の下を蜒《うね》って流れて、村の谷間《たにあい》をかくれて行く。小半時《こはんとき》も村の方を見下ろしていたが、村では別に誰も騒ぐものがない。それで、修験者は扉をあけて社の中へ入ってしまいます。お豊は、もうずっと前に戸を締めてしまいました。
 修験者が扉をあけて社の中へ身を隠してしまった時分には「清姫の帯」は全く消えて、わずかに切れぎれになった笠ほどのが三つばかり、白馬ヶ岳の上あたりに漂《ただよ》うのみでした。
 仮りにこの「清姫の帯」を、お豊でないほかの村の人が見たことならば、それこそ大騒ぎで、さきの修験者が小半時も村の方を見下ろしていた時分に、ほとんど総出で、この社へつめかけて来ねばならぬはずのところを、今まで来ないくらいだから、誰も見た者はないにきまっています。
 そうすれば、誰も知らない間に、怖ろしい災禍《わざわい》がこの竜神村を襲うて来るに違いない。その災禍の来ない前に、その災禍を鎮《しず》める力のあるように信ぜられているのは、この竜神の社の修験者であります。
 修験者は、村の人に頼まるれば、村の人のためにあらたかな修法《しゅほう》をして、風か雨か、火か水か、とにかく、来《きた》るべき災禍を鎮めてやるに違いないのだけれど、困ったことには、いくら修験者にその力があっても、それを最初に見た村の人から頼みに来なければその法のききめがないということでありました。
 さあ、伝説が真実であったら、この村の頭の上に大悪魔が手を出しているわけであります。それを知っているのは修験者一人、知って知らないのはお豊一人――修験者は天地が八つ裂きになろうとも自分からこうとは言い出さぬ。いまや竜神村の安否はお豊の口一つにかかっているはずなのに、そのお豊は怖ろしい言い伝えの前には無智であるだけに、それだけに大胆でありました。「清姫の帯」は念頭になく、ただ人相書が気になって眠れないのでありました。

         五

 その次の日の宵の口、室町屋の店先には、竜神街道や蟻腰越《ありこしご》えをする馬子《まご》駕丁《かごかき》と、それに村の人などが、二三人集まって声高く話をしています。
「今年も、よくよく御難《ごなん》な年だ、十津川騒動さえ始まらなければ、こんなことはないのだが、湯の客は少ないし、薬種《やくしゅ》を買いに来る商人も見えず、その上に、今日も明日も厳《きび》しい落人詮議《おちうどせんぎ》で追い廻される、たまったことじゃないわ」
 全くその通りで、十津川騒動の余波を受けた竜神温泉の不景気たらない。
 温泉のほかに、この土地では薬種が採れる、瓜《うり》の根から粉がとれる、名物の檜笠《ひのきがさ》と白箸《しろはし》とは土地の有力なる物産である、それから山で茸類《たけるい》がとれる――温泉とこれらの産物によって土地の人は活計を立てているのでありました。戦乱のために湯の客が少なくなっても、直ちに生活にさしひびくというようなことはないが、弱らされるのは天誅組の余類が、この竜神村のどこかに隠れているという嫌疑《けんぎ》で、昨夜から引続いて、探索のあることであります。
 世話役は引っぱり出され、人足は駆り出され、宿屋宿屋には厳しいお触れがある――馬子や駕丁もうっかり客を載せられぬ。
「ねえ、お内儀さん、こちらにおいでなさる、藤堂様の御家中だとかおっしゃるお若いお方は、まだお帰りになりますまいね」
 これは檜笠作《ひのきがさづく》りの六助で、店にいたお豊を見て問いかけたのであります。
「ええ、朝早くおでかけになったきり……」
「殿貝の旦那から聞くと、こちらへお泊りになった若いお侍は、あれは敵《かたき》をさがしにおいでなすったんだとさ」
「敵を?」
「そうですよ、親の仇《かたき》が天誅組から逃げて、たしかにこの竜神村へ入り込んだといって探しにおいでなすったんだとさ」
「はあ、親の敵、なるほど。まだお若いに豪《えら》いものじゃな」
「豪いものじゃ。早く見つけ出して、立派に討たせて上げたいものじゃな」
「なるほど、十津川からこの竜神へは、落ちて来そうなところじゃ。しかし竜神といっても、人家はこれ僅かなものにしてからが、あの山、この谷をさがすとしたら容易なものじゃあるまい」
「まあ、当分は御用心のことじゃ。落人じゃとて一人に限ったものでもあるまい、どこにどんな人が幾人かくれていることか、なんにしても今年は災難な年じゃ」
「でもまあ、よく『清姫の帯』がお出ましにならないことよ」
「左様さ、これで清姫様の帯でもお出ましになったら、それこそ竜神村の世の終りだ」
「左様でござんすなあ、清姫様の帯も、もうここ五年がところもお出ましにならぬが、なにぶんにも、このままで無事に済んで下さればなあ」
「いや、もう大丈夫ですよ、清姫様の帯が出るのは、おおかた夏にきまってますからな、もう早や秋の分だから心配はない」
「そうでがすなあ」
 しきりに「清姫の帯」、「清姫の帯」という。それが帳場にいたお豊の耳へは妙にひっかかって、今までの無駄話のように聞き捨てておけない気持になりました。
「あの、皆さん」
 お豊は帳場の方から言葉をかけて、
「何でございます、その清姫様の帯と申しますのは」
 集まっていた無駄話の連中は、一斉にお豊の方を向いて、
「清姫様の帯とは何だとお聞きなさる……なるほど、お前様はこの土地ッ子では無え」
 六助はいま更《あらた》めて、お豊が他国人、ついこのごろ来た人であるかのように合点《がてん》して、
「それでこそ、そうお聞きなさるも無理はない。清姫様というのはね、それ、能狂言にある道成寺《どうじょうじ》……安珍清姫《あんちんきよひめ》というあの清姫さまでございますよ」
「ああ、そうでございますか」
 その清姫ならば、どんな他国者でも大抵《たいてい》は知っている、それはずっと昔のこと。その帯がどうしたとか、こうしたとか、それがわからないことです。
「その清姫様の帯が、どうしたのでございます」
 六助は話し好きです。今日は人足に駆り立てられて半日をつぶし、エエあとの半日もつぶしてしまえと、ここで無駄話をしているくらいですから、お豊から因縁《いんねん》を問われてみれば渡りに舟で、
「それは、こういうわけなんでございますよ」
 六助は煙管《きせる》の皿を掃除にかかった。
「ようございますか、お内儀《かみ》さん……お前さんは江州生《ごうしゅううま》れとかおっしゃったな。江州女のことは存じませんが、この紀州の女というものは、なかなかその、執念《しゅうねん》の強いものでございますよ」
「まあ、それは怖《こわ》いことでございます」
 六助が、あまり力を入れて話すので、お豊は少し笑いかけると、
「いや、笑い事じゃござんせん、全く以て昔から今まで紀州の女は、執念深いで評判じゃ、いったん思い込むと、それ鬼になった、蛇《じゃ》になった」
 六助は額《ひたい》のところへ指を出して、蛇になった恰好《かっこう》をして見せますから、なおおかしいので、お豊は、
「ホホ、それでは紀州の娘さんは、お女房《かみ》さんには持てませんね」
「それは男の出様次第さ、なんでもかでも蛇になるというわけではございませんよ」
「そうでしょうとも、そういちいち鬼になったり蛇になったりされてはたまりませんね」
「そうとも、そうとも、みんな男の出様次第なんだよ。つまり、そのくらい執念が強いのだから、可愛がられると、また無茶苦茶に可愛がられる」
「それも危のうございますね」
「ナニ、この危ない方は、ずいぶん危なくなってもよろしいのでございます」
「ハハ、わしらもそんな危ない目に遭ってみたい」
 聞いていたものは一度に笑い出したが、六助だけは大まじめ、
「笑っちゃいけない、大事のことだ、つまり男の出様一つで、鬼にもなれば蛇にもなる」
 六助の話しぶりで一座に花が咲いたので、六助も得意です。
「お内儀さん、お前さんの前だが、女というものは受身で、男と比べたら一枚も二枚も割が悪い」
「さようでございます」
「女に欺《だま》される野郎が多いか、女を欺す男が多いか、そこんところはよくわかりませんがね、なんにしても、欺される野郎は間抜けで欺す男は罪だ」
 本問題の帯の説明はどこへか飛んで、六助の序論はなかなか大したものです。
「それが証拠にはね、女に欺された野郎は、どうにかこうにかウダツが上るがね、男に欺された女は、どうもまあ十人が九人まで浮む瀬がないね」
「なるほど」
「だから、怨念《おんねん》はどうしても女の方に残る、化《ば》けて出たとか腫《は》れて出たとかいうのは、大抵は女にきまっている」
「なるほど」
「清姫様などがそれだ。つまり清姫様が悪いのじゃない、男の方が悪いのだ。女に実《じつ》があるほど、男に実がないのだから、捨てられた女の一念が鬼になったり、蛇になったり、薄情な男にとりついたり祟《たた》ったりする」
「やあ、わしらがうちでも、引っ掻いたり、噛みついたり、毎日、清姫様の祟りでとてもやりきれねえ」
 夫婦喧嘩をすることにおいて有名な駕丁《かごや》の松が茶々を入れる、一同がまたドッと笑い出す。それにもかかわらず六助は大まじめで、
「笑い事じゃない、わたしは実地に、女の怨霊《おんりょう》というものを見たからそういうのだよ」
「お化けを見たのかい、女の」
「ああ、見たよ、女のお化けを眼《ま》のあたり見届けたことがある」
「どこで見たい、聞きたいね」
「わしが、和歌山の御城下のさる御大家《ごたいけ》に御奉公している時分のこと……」
 お化けの話。浮《うわ》ついていた者が六助の面《かお》を見ると、嘘ではない、ホントにお化けを見たような面をしているので、ちょっと茶化しにくいのである。
「その御大家に一人のお嬢様がおありなすった……それはそれは、よい御容貌《ごきりょう》でな、すごいほどの美しさだ。そのお嬢様が、お年は十九の春……」
 六助は、自分で凄《すご》いような身ぶりをして、せりふ[#「せりふ」に傍点]にくぎりをつけたが、まるきり芝居気《しばいっけ》で話すのではない。
「紀三井寺《きみいでら》の入相《いりあい》の鐘がゴーンと鳴る時分に、和歌浦《わかのうら》の深みへ身を投げて死んでおしまいなすった」
 紀三井寺の入相の鐘の音《ね》というところに妙に節をつけて――つまり鳴物入《なりものい》りで話にまた相当の凄味《すごみ》がついた。
 お豊は六助の話を、あんまり身を入れては聞いていなかったが、この時、総身《そうみ》に水をかけられるような気持になりました。
 聞いていたほかの連中も、なんだかこう、少しものすごくなってくる。
「六助さん、まあ、そんな怖い話はよして、今の帯の謂《いわ》れを聞かして下さいな」
 お豊は、言葉をはさんで、和歌山の大家の娘が入水《じゅすい》したという怪談を打消そうとしたのでした。
「なるほど、ではそのお嬢様の幽霊話はあとにして、清姫様の帯の謂《いわ》れ因縁《いんねん》から説き明かすことに致しましょう」
 ようやく話は本問題に入るのである。
「まず――紀州|牟婁郡真砂《むろごおりまさご》の里に清次《きよつぐ》の庄司《しょうじ》という方がおありなすったと思召《おぼしめ》せ」
「なるほど」
 六助の物語に拍子《ひょうし》を入れるのは、例の駕丁《かごや》の松であります。
「その庄司のお嬢様を清姫という――一説にはお嬢様ではない、まだ水々しい若い綺麗《きれい》な後家《ごけ》さんであったとも申します」
「お嬢様と後家さんでは少し違う」
「なにしろ、人皇《にんのう》第六十代|醍醐《だいご》天皇様の御世《みよ》の出来事だから、人別《にんべつ》のところに少しの狂いはあるかも知れないけれども、どっちにしても綺麗な女の方に間違いはない。さてここに、鞍馬寺《くらまでら》の山伏《やまぶし》で安珍《あんちん》というのがあった」
「安珍――清姫」
「その安珍がまた、山伏のくせにばかに好い男なのだ、そうして熊野|参詣《さんけい》の道すがら、清姫様のところで一夜の宿を借りたと思いなさい」
「それが間違いのもとだ」
「清姫様が、スッカリこの安珍殿に打込んでしまいなすった。さあ、そこが紀州女の執念で、食いついたら放すことじゃない」
「やれやれ」
「ところが、その安珍殿というのが、この上なしの野暮《やぼ》で、一向《いっこう》お感じがない、感じないわけでもあるまいが、そこは信心堅固の山伏だ、仏法の手前があるから逃げる、姫様は離れない、寝るから起きるまで、食付《くいつ》き通しで離れない」
「それは大変だ」
「そこで、安珍殿も弱りきって、ぜひなく、清姫様を諭《さと》して言うことには、わしはこれから熊野権現《くまのごんげん》へ行く身だから穢《けが》れてはならぬ、その代り帰りには、きっとお前の望みを叶《かな》えて上げるから、日数《ひかず》を数えて待っていて下さいと」
「なるほど」
「そうしておいて安珍殿は熊野へ参詣を済まし、その帰りには、この家の前を笠で面《かお》を隠して、素早《すばや》く通りぬけてしまった」
「泊ればよかったに」
「清姫様は蔭膳《かげぜん》を据《す》えて待ちに待ち焦《こが》れておいでなさるが、日限《ひぎり》がたっても安珍殿の姿が見えない、気が気ではない、門前を通る熊野帰りの旅僧にたずねてみると、その人ならば、もう二日も前にここを通り過ぎたはずだと教えられて髪の毛がニューッと逆さに立った」
「うむ、うむ」
「角が二本……雪の膚《はだえ》にはみるみる鱗《うろこ》が生えて、丹花《たんか》の唇は耳まで裂けた」
「鬼になった、蛇になった」
「角が生えた、毛が生えた」
「そうして、この日高郡をめざして一散《いっさん》に安珍殿を追いかけたものだ」
「なるほど」
「それから安珍殿が、道成寺の大鐘の下へかくされる、追っかけて来た清姫様は、もうこの時は本当の蛇におなりなすった、鐘のまわりをキリキリと巻き上げて、尾でもって鐘を敲《たた》くと、炎《ほのお》が燃え上る――寺の坊さんたちは頭をかかえて逃げ出したが、程経《ほどへ》て帰って見ると、鐘はもとのままだが、蛇はいない、熱くて鐘の傍へは近寄れない――遠くから鐘を押し倒して見ると、安珍殿はいない、骨もない形もない、ただ灰がちっとばかり残って……」
 これで、安珍清姫様の物語のあらすじは一通りわかったから、今度は帯である。
「六助さん、そしてその清姫様の帯というのが、まだどこかに残っているのですか」
「ああ、それそれ、その清姫さまの帯というのは、それとは全く別の話だ。まあ、いま話したようなことは、能狂言を見たり物の本でも見た人は大概《たいがい》知ってますがね、その清姫の帯というのはこの土地の人に限る、近頃おいでなすったお前さんに、それがわからないのは無理はない」
 お豊の聞こうとする本題は、ここまで来てやっと緒《いとぐち》が解けた。
「それはね、帯というたとて、金襴《きんらん》や緞子《どんす》でこしらえた帯ではない、天にある雲のことですよ」
「雲のこと……」
「それだけでは、まだわかりますまいね。なにしろ、それぐらいの執念ですから、この日高川の上、日高郡一帯には、まだ清姫様の怨霊《おんりょう》が残っているのですね」
「怖いことでございます」
「その怨霊が雲になって、この日高郡の空へ現われる、それ、あちらに見える鉾尖《ほこさき》ヶ岳《たけ》から、こちらに遠く白馬《しらま》ヶ岳《たけ》まで、一筋の雲がずーっと長く引いた時は大変だ、それが今いう、清姫様の帯だ」
「まあ、鉾尖ヶ岳から、白馬ヶ岳まで……」
「そうそう滅多にそんなことはないがね、五年に一度とか、十年目とかに、それが現われる」
「それが現われると、どうなるのでございます」
「それが現われたら、大変だ、この竜神村一帯に大災難が起る」
「それはホントでございますか」
「ホントにも嘘にも、昔からの言い伝えで、その時は、村中の御祓《おはら》い、御祈祷《ごきとう》、お慎《つつし》みをするのだ」
「その雲は夜でも……」
「夜でも昼でも、それが現われたが最後じゃ……それをいちばん初めに見た者が、あの竜神様へお告げ申して、お祈りをする、それを隠してでもいようものなら、その人には、きっと清姫様の怨霊がたたって、生きながら蛇になる」
「そんなことがあるものでしょうか」
「あるかないか、昔からの言い伝えじゃ。お内儀《かみ》さん、お前さんもこの土地に居着《いつ》きなさるものなら、よく覚えておおきなさい、鉾尖ヶ岳から白馬ヶ岳まで一筋の雲……」

         六

 竜神の社《やしろ》の石段は、数えてみると九十八級あります。
 幅が狭いだけに勾配《こうばい》が急に見える。別に女坂というのはないのですから、お豊はこの石段の上に立って見上げていると、十日ほどの月影が杉の木の間を洩れて、木《こ》の下闇《したやみ》では虫が鳴く。
「おや、お豊ではないか」
「まあ、金蔵さん」
 金蔵は旅の姿である、今どこからか帰って来たばかりである。そうしてここへ通りかかったものであります。
「お前、一人でどこへ行くのじゃ」
「竜神さまへ参詣に参りました」
「なんと思って、こんな夜分――まあ信心はどうでもよい、わしと一緒に帰ろう」
「はい……あの」
「お前を喜ばせようと思って、これこの通り和歌山の御城下から、お土産《みやげ》を買い込んで来たわい、さあ、早く一緒に帰りましょう」
 金蔵には恋女房である、この女一人を喜ばさんがためにはどんなことでもする、土産をひろげて女の喜ぶ面《かお》を早く見たい。手をとって連れて帰ろうとするのにも無理はない。
「金蔵さん……」
「何だ」
「わたし、この竜神さまへ心願をかけましたから、どうぞ、参詣をさして下さい」
「心願をかけたと……何か願いがあるのかい、何か不足があるのかい」
「いいえ、そういうわけではありませんけれど、急に信心ごころが出ました」
「そうかい、せっかくの信心ごころを止《と》めても悪かろう。それでは、わしも一緒に行こう、ついでだから、一緒にこの竜神さまへ上って拝んで行きましょう」
 金蔵は何でもお豊の言う通りです。
「けれども金蔵さん、神仏への信心は、ついででは罰が当ります、わたし一人で参りますから」
「なるほど、ついでの信心ごころはよくないかな。それでは、お前の拝むのを傍で見ていよう。さ、手をお出し、手を引いてこの石段を上らせて上げよう」
 金蔵は手をとって、お豊を引き上げてやろうとするのです。
「ようございますよ、わたしは一人で参詣をして参ります、人に助けてもらっては信心になりませぬ」
「それもそうだ。それでは、わしはここで待っていよう。早く、いや、ゆっくりでもよい、お前の思い通り信心をしてくるがよい、夜明けまででも、わしはここで待っている」
 金蔵は、旗幟《はたのぼり》を立てる大きな石の柱の下にうずくまって、振分《ふりわ》けの荷物を膝の上に取下ろし、お豊の面をさも嬉しそうに見ています。
「そんなら、待っていて下さい、御参詣をして参ります」
 お豊は石段をカタカタと踏んで竜神の社へのぼり行く。金蔵は我を忘れて見上げ見恍《みと》れていました。
 竜神の社には八大竜王のうち、難陀竜王《なんだりゅうおう》が祀《まつ》ってあります。
 こんな山奥に竜神を祀ることが、奇妙といえば奇妙である――今を去ること幾百年の昔、この地に竜神|和泉守《いずみのかみ》という豪族が住んでいた。その屋敷跡は、今もあるということであります。
 竜神の姓はその人以前からあったものか、その人が来て、竜神の社の名によってその姓をつけたものか、その辺はハッキリしません。ハッキリしないところに竜神の秘密がいろいろと附け加えられました。
 八大竜王の八という数が、ちょうどこの竜神村の字《あざ》の数と同じことになる、そうして、この湯本《ゆもと》の竜王社には王の中の王たる難陀竜王を祀ってある、野垣内《のがい》、湯の野、大熊、殿垣内《とのがい》、小森、五百原《いおはら》、高水《こうすい》の七所に、あとの僧鉢羅竜王《そうばちらりゅうおう》までが一つずつ潜《ひそ》んでいるということでありました。
 天にもし清姫の帯が現われた時は、遠からずこの八つの竜王が、八所の谷から、悉《ことごと》く荒《あば》れ出して、雲を呼び雨を降らす――さればこそ竜神の社は、竜神村八所の鎮《しず》めの神で、そこに籠《こも》る修験者《しゅげんじゃ》に人間以上の力があり、一村の安否の鍵がそこに預けられてあるように信ぜられているのであります。
 お豊は事実、清姫の帯を見た――聞いてみれば怖ろしいことである。どうやらその怖ろしいものを見たのは、自分一人だけであるらしい。
 お豊が今ここへやって来たのは、その修験者に向って、自分の見たところを逐一《ちくいち》白状するつもりであることに疑いはないのです。
 修験者のいる所は本社の右手の高い森の中で、そこまではまだ八町ほどある、そこへ行くまでに大師堂を左にと下れば御禊《みそぎ》の滝があるのであります。
 大した滝ではありません。幅が五寸に高さが二丈もあるか、それが岩の間から落ちて一|泓《おう》の池となり、池のほとりには弁財天の小さな祠《ほこら》があって、そのわきの細いところから、こっそりと逃げて水は日高川へ落ちる。この池を御禊の池といって、椎《しい》の木が二本、門柱でもあるかのように前に立って、それに注連《しめ》が張り渡してありました。護摩壇《ごまだん》へ懺悔《ざんげ》に行くものは、きっとここの滝へ来て、まず水垢離《みずごり》をとるのが習わしでありました。
 それでお豊は、すぐに修験者のいる護摩壇へは行かないで、その大師堂を左にと御禊の滝まで来かかったわけでありましょう。
 月もあるにはある、夜も更けたわけではない。それでも、このところ、この道は決して気味のよいものではありませんでした――草叢《くさむら》でガサと音がする、木の間でバサと音がする。お豊は、もう一歩も歩けないように足をとめたことが幾度《いくたび》、それでも早や、滝壺に近いところまで来ていました。檜笠作りの六助の口占《くちうら》を引いて、よく聞いておいたこと――懺悔する前には、水垢離の必要がある、護摩壇へ行く前には、御禊の池をおとずれねばならぬ。
 お豊は、その通りにここまで来てみると、もうかなり勇気が出て、注連《しめ》を張った木に手をおいて、中をのぞぎ込んでは四辺《あたり》を見廻してみました。
 人に見られてはいけぬ、人に見せるべきものではない――しかし、そんな心配はてんで無用、ここへは決して人が来ないのである。
 お豊は滝の傍へ進んで、かの水が日高川へ逃げて行く弁財天の小さな祠《ほこら》へ来て、その前で手を合せた。それから静かに自分の締めていた帯を解きかかる。クルクルと帯を解いたが、さて、それを置くべきところがない、草の葉も木の葉も、じめじめと水気がたっぷりで、地の上にも水が滲《にじ》む。お豊はちょっと当惑したが、すぐに気のついたのは、弁財天の祠の土台のところから根を張って、ほとんど樹身の三分の二を水の方へさし出した一幹《ひともと》の柳でありました。その柳の、ちょうど程よい枝ぶりのところへ帯をかけて……それから着物と襦袢《じゅばん》とを一度に……脱ぎかけると、お豊は自分の肌の半身が誰もいない闇の中で、あまりに白かったのに怖れたようでありました。思い切って水に浸《つか》っているうちに、不思議なもので、お豊は何とも知れない心強さを感じてくるのであります――この冷たい水の中に、尤《もっと》もまだ秋のはじめで、水が苦になる時でないとはいえ、今までの怖ろしかった心が、だんだんに消えて行って、水の肌に滲《し》み込む気持が何とも言えぬ清々《すがすが》しさになってゆくのでありました。
 頭の中で、ごっちゃになっていた血の筋が、一すじずつに解けて、すんなりと下にさがって来る、いつまでもこの水につかっていたい――こんな気持になるくらいですから、頭の上の木の梢《こずえ》で怪しげな鳥が啼《な》こうとも、滝の水が横にしぶいて頭までかかろうとも、とんと気のつかないくらいにまで心が鎮まってゆきました。
 こうして後、森の中の修験者へ行って逐一《ちくいち》にその身の上を語る。雲のことを語る。そうすれば自分は生れ更《かわ》った身になれることのように思われてきました。
 その時分、この滝壺へ、また左の方のきわめて細い道、この道を伝わって行っても護摩壇へは行けるのであるが、これはここに籠る修験者のほか滅多《めった》に通わない細道から、こちらへ徐々《そろそろ》と下りて来る者がありました。
 白衣《びゃくえ》を着ていることが闇でもよくわかるから、人間には相違ないが、暗い中を手さぐりで、ようようとこっちの方へ向いて来ます。
 そうして、前の弁財天の傍《かたわら》の、ごく細い道のところまで辿《たど》って来たのを、よく見ると、手には何やら杖をついて、面は六部《ろくぶ》のような深い笠でかくし、着物は修験者が着る白衣の、それもそんなに新しいものではないこともわかります。
 この人は、やっと細道を辿って来たのが、ここはやや平らになったので、杖で行手をさぐりさぐり歩みはじめました。
 お豊は、この時も一心ですから、少しもこの人に気がつきませんでした。

         七

 歩んで来た白衣の人は、しばらく、弁財天の小祠《ほこら》の傍に棒のように突立っていました。
 闇の中に白衣ですから、うすら鮮《あざ》やかというほどによくわかります。
「あれ――」
 ようやくに気のついたお豊は狼狽《ろうばい》しました。
「誰かいる――」
 白衣の人は、ほとんど聞えぬくらいの小さな声で呟《つぶや》きました。
 してみると、今までお豊がここにいたことは気がつかなかったので、お豊が狼狽《あわ》てて着物をとりかかろうとしたから、はじめて人のここにいることを感づいたらしいのです。
「誰かいる――」
と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて徐《しず》かに大師堂の方へ小道を辿って行きます。
 お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の襟《えり》を直してその人の後ろ影を見送るのでありましたが、やっぱり、これはこの山に住む修験者か山伏のなかの一人――自分が今たずねて行こうとする修験者のお弟子かも知れぬ、或いはその修験者かも知れぬ。只人《ただびと》ではない、里の人でないにきまっているけれど、それにしても困ったことであります。
「水垢離《みずごり》の現場を人に見られたら、その功力《くりき》が亡びる」
 これは、やっぱり六助がそう言った。
 そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを睨《にら》まえて歯噛《はが》みをしたのでした。水につかっていた時の心強さも清々《すがすが》しさも無残に塗りつぶされた業《ごう》のつきない身体《からだ》。清浄に返る懺悔を妨げに来た天魔と、白衣の人を、お豊としては怖ろしいほどの形相《ぎょうそう》で見つめていると、気のせいか、その笠から洩れる背丈《せたけ》、恰好《かっこう》、ことに肩つきや、身の聳《そび》え、たしかに覚えのある姿であります。
 この時、お豊の頭脳《あたま》のなかにきらめ[#「きらめ」に傍点]いたものは、ほかでもない人相書。あの人相書のことを忘れていたのは、いま水につかっていた間ぐらいのものです。
 その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として醒《さ》め来《きた》ったお豊の眼に展開さるるは机竜之助。いや、机竜之助の名は知らない、その変名の吉田竜太郎で、頭蓋《あたま》の上から踵《かかと》の下まで貫くほどに覚えている。
 お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、
「もし――」
「ナニ……」
 先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。
「あの、あなた様は……」
 お豊は、白衣の人の突いた杖にすがるほどに近寄って、下から笠の中をのぞき込むくらいに見ましたが、
「護摩壇《ごまだん》の修験者様ではござりませぬか」
 吉田とも竜太郎ともたずねてみなかったのは、もう一ぺん、声音《こえ》を聞いてみたかったからです。
「いいや、修験者ではない」
 もう充分である、修験者でなくてもよい、誰でなくても、その声の持主であればよいのである。
「それでは、あの吉田様……」
「吉田?」
 かぶっていた笠がこころもち揺《ゆら》ぎます。
「竜太郎様――」
「竜太郎?」
「あの三輪の植田丹後守様においでになった――」
「三輪の植田丹後守?」
「間違いはござんすまい」
 お豊は、その白衣の袂《たもと》に縋《すが》らんばかりに取付いたのでしたが、白衣の人は動かず。
「違う、拙者は吉田竜太郎とやら、そんな人は知らぬ」
「まあ、知らぬとおっしゃいますか――」
 疑うべからざるものを疑う、お豊は、しばし取付端《とりつきば》に迷いました。
「そなたは女子《おなご》のようじゃが、誰じゃ、どなたでござる」
「お忘れになりましたか、豊でございます。三輪の薬屋におりました……」
「豊……お豊……」
 白衣の人の姿勢はこの時くずれた。
「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」
「ああ、左様でござんしたか」
 お豊は、その人にすがりつくように身をその足許《あしもと》に投げたのを、白衣の人、すなわち机竜之助は、徐《しず》かにその手で受けたが、二人が面《かお》を見合すべく、木《こ》の下闇《したやみ》は暗いし、よし日と月がかがやき渡っても、竜之助はおそらく昔の眼でこの女を見ることはできまい。
「まあ、あなたは……」
 お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。
 竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、遽《にわ》かに振り放つようにして、
「危ない、このまま別れよう」
 背を向けて、そうして杖で徐《しず》かに地を叩いて歩み出そうとします。
「どうぞ、お待ち下さい」
 お豊は、あわててその袂を捉《とら》えて、
「なぜ、そのように情《つれ》なくなさいます、あなた様のお身の上もお聞き申さねばならず、私の身の上もお話し申し上げねばなりませぬ」
 それでも竜之助は振返らない。
「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊どの、お前の身も」
 相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の腸《はらわた》に沁《し》み込むようです。
「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」
「うむ――」
「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」
「…………」
「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」
「それが、どうして知れた」
「もう、人相書が廻っておりまする」
「人相書が?」
「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」
「それ故、あぶないと申すのじゃ」
 竜之助はまた杖を取り直します。
「まあ、待って下さい」
 お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、
「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して覘《ねら》っているお方がありまする」
「兄の仇? そんなことは……」
 なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、
「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」
「江戸へ逃げたい?」
 竜之助の面《かお》の表情は、笠でまるきり知れないけれども、その声は、キリキリと厚い氷を錐《きり》で揉《も》み込むような鋭い嘲《あざけ》りをも含んでいるのであります。
「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」
「ええ……」
 お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、先《せん》を打たれて驚き且《か》つ狼狽しました。
「それは余儀ない事情でございます……」
「余儀ない事情?」
「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」
「わからぬ」
「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」
 お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、
「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございます、その悪者のために、わたしは自由にされているのでございます……口惜《くや》しゅうございます。それはみんな、伯父のためや、植田様のためでございます。わたしが自由にならなければ、あの乱暴者は伯父様や植田様まで鏖殺《みなごろし》にし、三輪の町を焼き亡ぼすと言っているのでございます……竜之助様、どうぞ、人のために忍びきれない恥を忍んでいる私をかわいそうだと思って下さいまし、一目、わたしを見てやって下さい、わたしにも、あなたのお面《かお》を見せて下さいまし」
「見えない、見えない」
 竜太郎は面をそむけて、
「拙者の眼は見えない」
「エエ!」
 お豊は、それを真事《まこと》として聞かなかったが、この時、
「お豊――お豊――」
 遥かに呼ぶ声は、階段の下に待たしておいた金蔵の声であります。

         八

 宇津木兵馬もまた、この夜、宿を出て、ただひとりこの竜神の社内へ出て来たのであります。
 今日で、この地に留まること三日、まだ机竜之助の在所《ありか》がわからない。
 十津川で山小舎《やまごや》が爆発した後、中にいた十人の浪士の運命は悉くきまったけれども、竜之助一人の行方だけがわかりませんでした。しかし、落ち行くところは必ずや紀州竜神――竜神は昔から落人《おちうど》の落ち行くによい所であります。
 源三位頼政《げんざんみよりまさ》の後裔《こうえい》もここに落ちて来た。熊野で入水《じゅすい》したという平維盛《たいらのこれもり》もこの地へ落ちて来た。ずっと後の世になっても、乱を避け世を逃れた人の言い伝えが土地の古老の話に聞くと幾つも残っているのであります。
 兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の杣《そま》に聞くとこんなことを言いました――ある夜、一人の武士が、この山間《やまあい》の水の流れで頻《しき》りに眼を洗っていた。最初は水を飲んでいるのかと思って、よく見たら、幾度も幾度も眼を洗っていたのであった。杣と聞いて安心し、竜神へ出る道をよくたずねて、覚束《おぼつか》ない足どりで出かけて行った……
 たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた――かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。
 兵馬はこれに力を得て、息もつかず竜神まで追いかけ、さまざまの人の手を借りて、今日まで三日さがしたけれども、更にその行方が知れないのであります。
 竜神八所を隈《くま》なく探すというのは容易なことではないが――これより遠くへは落ちられないわけがあるから、兵馬は必ずや、この附近で竜之助を見出し得るものと思うています。
 そうしてかの七兵衛は、お松をつれて近いうち、ここへ来るはずになっていました。
 兵馬は、尋ねあぐんでもなお気を落さない。今宵も、この境内を抜けてみようとするのは気散《きさん》じのためのみではありませんでした。
「お豊、おお、そこにいたか」
といって、いま思案に耽《ふけ》りながら神社の境内を歩いて行く兵馬を、階段の方から呼びかけたものがありました。見れば、旅の風《なり》をした若い町人です。
「おや、これは違いました。はて、お豊はどこへ行ったろう」
 その旅の男は、兵馬を尋ねる人でないと知って、手持無沙汰《てもちぶさた》にあちらへ摺《す》り抜けてしまいます。
 兵馬は、それに拘《かか》わらず、社内の奥をめざして行こうとして、ちょうどかの大師堂の方へ足をはこぶと、その細道から、意外にもまた一つの人影が出て来ました。それは女でありました。
「おや、宇津木様ではござりませぬか」
 女の方から言葉をかけたので、
「おお、これは室町屋の御内儀《ごないぎ》」
 その女はお豊でありました。
「どちらへお越しでございます」
「いや、どこというあてもなく、この社内をぶらぶらと、あの奥の森の方まで行ってみようと思います」
 兵馬が指したのは、護摩壇《ごまだん》のある修験者の籠る森のことであります。
 お豊は、やはり森の方を見上げて、急に不安の色が面《おもて》にかかり、
「あの護摩壇へでございますか。あれは、あそこへは、おいでにならぬがよろしゅうございます」
「何故に?」
「あれは、この土地で、きつい信心をなさる修験者がおりまして」
「修験者が?」
「はい、その修験者が、あれで護摩を焚《た》いておいでなさいます。それ故、あそこへはおいでにならぬがよろしゅうございます」
「修験者が護摩を焚いているから行くなと言われるか」
「はい」
「修法《しゅほう》の邪魔さえ致さねば、近寄っても苦しゅうはあるまいと思う」
「いや、それがこの土地の習いで。強《た》ってあなた様があれへお越しになりたいと思召《おぼしめ》すなら、これから少し参りますると、御禊《みそぎ》の滝というのがございます、その滝壺で水垢離《みずごり》をおとりになって、その後でなければあれへ参れぬことになっておりまする」
「水垢離をとった上で?」
 兵馬は小首を傾けて、
「それほどまでにして信心にも及ぶまい」
 彼は、その護摩堂へ行くことを思い止ったものらしい。
 お豊は挨拶をして、かの階段を下りて行きました。
 兵馬は、またそぞろ歩きをはじめたが、ふと思うよう、あの女は、たった一人で何しに、この淋しいところへ来たものであろう――さいぜんの自分を呼びかけた旅の男は、お豊、お豊と、女の名を呼んでいた、或る種の女にはよくある迷信じみた信心から、ここへ夜詣《よまい》りに来たものであろう。
 兵馬はこんなことを考えて、社殿の前へ来ました。そこで社殿の背後を見上げるとかの護摩壇の森。そこへは、行ってはならない、行かないがよいと戒《いまし》められてみると、どうも、それだけに不思議があるようだ。そうだ、自分が、この附近で、まだ足を踏み入れぬのはあの護摩壇の森――よしよし、なにほどのこともあるまい、上ってみよう。
 兵馬は一文字に森をめがけて進んで行くのでした。無論、かの御禊の滝の水垢離などには頓着せずに――

         九

 机竜之助が隠れているところこそ、その護摩壇のうしろでありました。
 それを隠しておくのは、かの修験者であります。
「御浪人、眼はどうじゃ、眼は」
 窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、
「うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ」
 机竜之助は、肱《ひじ》を枕に、破れた畳の上に身を横たえて、傍《かたわら》には両刀を置いて、こう答えたが、燭台の光で見ると、例の蒼白い面《かお》がいっそう蒼白く、両眼は閉じて――左の眼のふちにはうっすら[#「うっすら」に傍点]と痣《あざ》がある。
「それはいかん、滝の水で洗うて来たか」
 修験者は言う。竜之助は答えて、
「さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た」
「ナニ、人がいた? 滝に人がいたか」
「うむ、一人の女が滝を浴びていた」
「女が? 滝を?」
 修験者は言葉をきって、何やら考えているようです。
「修験者殿、雨が降って来たようじゃな」
「左様、雨じゃ」
「なんとなく、木の葉も騒ぐようだ、風も出て来たと見ゆるわ」
「おお、風も出て来た」
 しばらく静かであって、室外はポツリポツリと雨の音がする、サーッと風の騒ぐ音もする。
「さて、修験者殿……」
 竜之助は、やや改まった声で、
「いつまでもこうして御厄介《ごやっかい》になってはおられぬ、拙者は立退こうと思う」
「待て待て、その眼を充分に癒《なお》してからにするがよいぞ」
「治《なお》るかよ、この眼が」
「治る、信心一つじゃ」
「うむ――」
 竜之助は、また黙った。
「しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは憖《なま》じい治さんがよかろうと思う」
 竜之助は独言《ひとりごと》のように言う、修験者はこれについて返事がない。竜之助が独言のように言った時は、修験者はもう護摩壇に上っていて、それを聞かなかったものらしい。
「眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」
 竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。
 心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと夢裡《ゆめ》に入る。
 ちょうどこの時分は、金蔵とお豊も室町屋へ帰っていようし、宇津木兵馬は、お豊の言い分も肯《き》かず、このほとりへ上って来たはずであるが、雨に恐れて引返したことであろうと思われる。

 竜之助は肱《ひじ》を枕に夢に入る――
「おお、何を泣いている、お前はどこの子じゃ」
 いたいけな男の子、道の真中に立ち迷うて、さめざめと泣いているのを、竜之助は傍に寄って、その頭を撫《な》でながら、
「泣くでない、お前はよい子じゃ」
 竜之助の眼はハッキリとこの子供を見ることができるのを、自分ながら不思議に堪えないで、
「もう、日も暮れる。さ、わしが送って行って上げる、お前の家はどこじゃ」
「坊には家がない……」
 子供はしゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて言う。
「家がない? では、お父さんはどこにいる、父親は……」
「知らない……」
 子供はやっぱり面《かお》を上げないのです。
「知らない? お母さんは、母親はどこにいる」
「知らない、知らない」
「はて、お前には、家もない、父も母もないのか」
 竜之助は、この迷子《まいご》を、どのように扱うてよいのか当惑して、空《むな》しく頭を撫でながら、
「坊や、では、どうしてお前はここへ来た、誰につれられてここへ来た」
「知らない……」
「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、拙者《わし》が里まで連れて行って上げよう、さ、おじさんに抱かれてみろ」
「いやだ、おじさんは怖《こわ》い」
「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」
「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」
「嫌い? では誰がよいのじゃ」
「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」
「ナニ、与八さん?」
 竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。
「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」
「坊の名は郁太郎《いくたろう》……」
「ナニ、郁太郎?」
 竜之助は摺《す》り寄って、子供の面《かお》に当てた紅葉《もみじ》のような手を振り払ってその面を覗《のぞ》き込もうとすると、
「いや! いや!」
 子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。
「お待ち……坊や、お待ち……」
 竜之助はそのあとを追いかけて、
「郁太郎……お前の父親はここにいる」
 竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、
「嘘《うそ》! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」
 小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
 どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
 憐《あわ》れむべし、この子、己《おの》れが実の親を厭《いと》うて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。
 竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
 竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方《かた》を見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。
「おうい、郁坊やあい」
 その声は田舎訛《いなかなま》りの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、
「与八さあん――」
 父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐《なつ》かしさでこの太った男に抱きついてしまいました。
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
 温かい手で、すぐ抱き取って、頬《ほお》ずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光《ごこう》がさして来るようです。泣いていた子供も晴々《はればれ》して、ふいとこちらを向きましたが、竜之助を見ると泣きそうな面をして、
「怖《こわ》い人――あそこに怖い人がいる」
 指《ゆびさ》して示すと、抱いていた肥った男は慈愛にかがやく面をこちらに向けて、
「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」
「嘘だ!」
 子供は、どうしても承知しません。
「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」
「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」
「父親《てておや》のない子があるものか……坊やにも、お父さんもあれば、お母さんもあるだよ」
「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」
「それはなあ……」
「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」
「うむうむ、つれて行くとも」
 抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の面《かお》を向けて、あちらへ行ってしまおうとするから、
「与八――」
 竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。
「与八――待ってくれ」
 足が動かない――
「与八――郁太郎」
 声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、光明《こうみょう》の雲が、あたりいっぱいにかがやく。
「与八――郁太郎」
 咽喉《のど》が裂けたと思われる時に、夢は覚めた――眠っていた時にありありと見えた人の面が、覚めては見えない。

「誰だ、そこへ来たのは何者だ!」
 修験者の地を突《つ》き貫《ぬ》くような叫び。竜之助は何事が起ったのかと思う――誰かこの夜中に、ここへ来たものがあるらしい。雨も風も歇《や》みはしないのに。

         十

「誰だい、誰だい――おお痛っ」
 金蔵は、しばらく起き上れないで、腰のあたりをさすると、兵馬は丁寧に介抱《かいほう》して、
「お怪我《けが》はないか」
「いや、もう大丈夫。お前さんは……お豊ではなかったね」
 起き上れないうちから、もうお豊のことです。
 兵馬は傘《かさ》を拾ってやると、金蔵は立ち上って面をしかめ、
「これはどうも――ナニ、もう大丈夫でございます」
 お礼もろくろくに述べず、傘を受取ってまたも石段をめがけて上りはじめようとしたが、
「あの、もし、あなた様、この社《やしろ》の中で女の姿をお見かけになりませんでしたか」
「女の姿を?」
「はい、この室町屋の女房のお豊という女を」
「ああ、お豊どのならば」
「はい」
「さきほど、この石段を下へおりて行きました」
「石段を下へでございますか」
「いかにも」
「そんなら、行違いに家へ帰っておりはせんか」
 金蔵は上りかけた足を石段から引いて、
「それでは、帰ってみましょう」
 もと来た方へ引返して大急ぎで駈けて行きます。
 兵馬は、そのあわただしさに笑いを禁じ得なかったが、そんなことは別に兵馬の気にかかることではない、気にかかるのはあの護摩壇のことだ――堂の傍へ近寄ると、中から修験者の声で、
「何者だ!」
と呼ばれたが、強《し》いて土地の人が神聖と立てる修法《しゅほう》を妨げるのもよくないと、帰っては来たが、なんとなくあの護摩壇に心が残るようだ。よし、改めて修験者に会ってみよう。
 こう心をきめて室町屋まで帰って来ると、家は思いのほかヒッソリしていました。雨が降っているから、障子を立て通しにしてあったのをあけて入ると、帳場のわきに金蔵が苦《にが》り切って坐っている、その傍には番頭がピリピリして跪《かしこ》まっている。
「お帰りなさいまし」
と言ったが張合いのない声でした。苦り切った金蔵と兵馬とは、ふと面を見合せると、兵馬は、いま石段から転げ落ちた人が、どうやらこの人らしいと思ったが、そのままにして、自分は己《おの》れの部屋へ入ってしまいます。
 床を展《の》べに来た女中に聞いてみると、お内儀《かみ》さんが、さっき出たまま、まだ帰らないので、旦那様が焦《じ》れて怒っているのだと言いました。そんなことは兵馬が聞いたって別に心配することではありませんでした。
 兵馬が二階へ上った時分、金蔵の眼が一層|険《けわ》しくなって、天井を睨《にら》みつけたようでしたが、
「喜六、今のはありゃ、うちのお客か」
「へえ、左様でございます」
「いつごろから来た」
「旦那様が、和歌山へお出かけになって間もなく」
「そうか……」
 金蔵は番頭からこれだけ聞いて、また兵馬の通って行ったあとを睨みつけて、
「一人か」
「へえ、お一人でございます」
「侍のようだな」
「左様でございます、十津川騒ぎからこちらへお越しになりました、藤堂様の組だそうでございます」
「何しに来たのだ」
「兄様《にいさま》の仇《かたき》をたずねておいでだそうでございます」
「兄の仇?」
 金蔵は、また苦り切って押黙《おしだま》ったが、
「聞いて来い、今のあの若侍に聞いて来い」
 突然、猛《たけ》るような大きな声でこう言い出したので、番頭は、
「何でございます、何をお聞き申すのでございます」
「あの若侍が知っている、お豊の行きどころを知っている」
「あの方がでございますか。あの方がお内儀さんの……」
「知っている、聞いて来い」
 金蔵は、怒鳴《どな》りつけて番頭を立たせました。
 番頭は、何のことだか一向わからないけれど、まあ言われる通りに聞いてみようと、怖る怖る兵馬の部屋をさして出かけて行きます。
「そうだ、それに違いない――」
 金蔵は、ひとりで歯噛みをしています。
「前髪立ちの若衆《わかしゅう》と、三十前の年増《としま》だ……年上の女に可愛がられていい気でいる奴もあれば、ずんと年下の男を滅法界《めっぽうかい》に好く女もあらあ――油断《ゆだん》がなるものか。第一、こちらからお豊のやつが上って行く、上から若侍が下りて来る、ほかに誰がいた、証拠を押えたようなもんだ――お豊を隠しやがったな、あの若いのが」
 金蔵の眼は、みるみる火のように燃えてゆきます。
 金蔵は英雄でも偉人でもないけれど執念深い――執念のためには命を投げ出して悔いない男である。思い込むと蛇のように執拗《しつこ》くなる男であります。飛んでもない、人もあろうに宇津木兵馬は、この男の怨《うら》みの的《まと》となってしまいました。お豊と兵馬とは金蔵の留守の間に不義をした――と思い込んでしまった金蔵の怨みは、もう、誰がなんと言っても解けません。
「覚えてやがれ!」
 この二月《ふたつき》ほど真人間《まにんげん》に返って、驚くほど堅気《かたぎ》になり、真黒くなって家業に精を出し、和歌山へ行ったのも宿屋の実地調べで、これからますます家業へ身を入れようとした金蔵の心が、またもがらり[#「がらり」に傍点]と変って、もとの無頼漢になるのです。

 兵馬が旅日記を書き終って、いま寝ようとするところへ、金蔵がやって来ました。
「御免下さい」
 言葉が荒っぽく、眼の色が血走って立居《たちい》が穏《おだ》やかでない。
「これは、どなたじゃ」
「へえ、金蔵と申しまして、ここの亭主でございます。お初《はつ》に――いや、さっき竜神の石段でお目にかかったのは、たしか、あなた様でございましたな」
「左様、貴殿が御亭主でござったか、留守中お世話になりました」
「時に、あなた様――」
 金蔵は眼に角《かど》を立てて、口のあたりが引きつり、呂律《ろれつ》が怪しい、よほど飲んで来たものです。
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、御内儀《ごないぎ》が……」
 兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内《やしろうち》でちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」
「いったい、お豊のあま[#「あま」に傍点]は、何のために、この夜中《やちゅう》に、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」
「何のためとは」
 兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨《にら》んだのだ」
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない淋《さび》しいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」
「滅多《めった》なことを言われる」
 兵馬は屹《きっ》となった。見れば酔ってもいるようだが、それにしても聞き捨てならぬ一言である。
「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」
 金蔵は、持って来た脇差《わきざし》を抜いて振りかぶり、大胆にも兵馬をめがけて切ってかかりましたけれど、これは問題にもなんにもなりません、すぐに刃《やいば》は打ち落されて、兵馬の小腕に膝の下へ引据《ひきす》えられ、
「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」
 兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。

 金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、欺《だま》し賺《すか》しつつ引張って行きました。
 父の金六は兵馬の前へ頭を下げて詫《わ》びをする。兵馬は別に深く咎《とが》めるつもりはないが、言いがかりにしても潔《いさぎよ》くない言いがかりだと思いました。
 明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分ある。
 兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから明間《あきま》が多く、蒲団《ふとん》や夜具を抛《ほう》り込んだままのもある――兵馬は足音しずかに行くと、そのうちの一間からふいに飛び出して廊下を横に切って、忍び足にかけ行くものがある。面《かお》は手拭でかくして手には何やら包みを持っています。
 怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の襟首《えりくび》を持って引き下ろしました。
 兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた脆《もろ》いこと、一たまりもなく引き倒されて、
「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」
 賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。
「おお、そなたは……」
「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」
「合点《がてん》のゆかぬこと」
 この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。
「これには深い仔細《しさい》のあることでございます、どうぞ、お情けに何もお聞きなさらず、このままお見のがしを願いまする、あとでわかることでございますから」
 面をかくした手拭をとりもせずにお豊は、一生懸命で兵馬に見のがしてくれと歎願するのです。
「そなたの夫、金蔵殿とやらは、そなたを探しておられますぞ」
「はい、金蔵に知れますと、わたしは殺されてしまいまする、どうぞ、お慈悲に、このままお見のがしを願いまする」
 見逃すべきであるか、捉《とら》えて夫に引渡すべきであるか、兵馬も、しばしその扱いに迷うたのでありましたが、あの無茶な乱暴男、この有様を告げたら、なるほど、この女の言う通り女は殺されてしまうだろう、まあ、この場は見のがしておいた方がよかろうと兵馬も分別《ふんべつ》しました。
「どうぞ、お見のがし下さいませ、決して、あなた様のお身に御迷惑のかかるようなことは致しませぬ、一生の御恩でございます」
 お豊は包みを拾い上げて、戸の外の闇へ飛び下ります。
 兵馬はそれを追いかける気になりませんでした。

         十一

 兵馬はその翌日、宿をかえた――兵馬には、こんなばかばかしいことにかかわっていられない。金蔵が恨もうと、お豊が帰るまいと、別に心に残ることはなかったが、兵馬が去ってから後の室町屋には大変が出来《しゅったい》しました。
 その晩のこと、金蔵が荒《あば》れ出した――その荒れ方も尋常ではない、一室に押込めて、家中総出で警戒していたにもかかわらず、金蔵はついに荒れ出して脇差を抜いた。それでもって、支える奴を縦横無尽に斬り立てた。
 父親の金六も手を負わされた、母のお民も斬られた。
 それから、台所に飛んで出て、火を焚いていたおさんどんを蹴飛《けと》ばして、その火を取って投げ散らした――その火は障子についてめらめら[#「めらめら」に傍点]と燃え上る。
 血に染《にじ》んだ脇差を振り廻して表へ飛んで出た。
 忽《たちま》ちの間に湯元村をひっくり返すほどの騒ぎとなった。
 金蔵が血刀を引っかぶって通りへ飛び出して、
「お豊、兵馬」
と名を呼んで二人を求めんと狂い廻る。兵馬はこの時、こんなこととは知らずに神木屋というのへ宿を替えて、その朝は、昨夜のあの護摩壇《ごまだん》へ行こうとして大師堂の傍まで来たのであったが、不意に火事よという声で振返って見ると、すぐ眼の下の、室町屋のあたりから黒煙が渦《うず》をまく。
 兵馬も宿には大事のものが残してないではない。心にかかるからそのまま引返して湯元へ来ました。
 火事は室町屋から出たので、今しも台所を吹き貫《ぬ》いて、二階の廊下を焼き抜いて、真紅《まっか》の炎《ほのお》がメラメラとのぼる。
 兵馬は神木屋へかけ戻って、店の若い者と一緒に始末をしている。
「室町屋の若主人が、急に気がふれ出した……」
 兵馬は合点した。あの金蔵という奴が荒《あば》れ出したな――こうと知ったら、もう少し手厳《てきび》しく戒《いまし》めておけばよかったと思いました。
 けれども、金蔵は三輪でやらなかったことをここでやるのですから、どのみち金蔵としては、やるべきことをやってしまいました。お豊もまたあの時、金蔵を捨てるはずのを今ここで実行したものですから、お豊がなくなって金蔵の執念が勃発《ぼっぱつ》するのはあたりまえのことでありました。
 兵馬は、それを知らないで、ただ無茶な乱暴男もあればあるものと思っています。

 この火事は人家の方へ出なかったけれども、それより悪いことは、山へうつってしまったことです。人家の火事は消しようがあるが、山の火事は消しようがない――室町屋の裏手へつづく杉林に、それが燃えついたからたまりませんでした。
 目通り何尺、高さ何丈という大木に火のついたほど始末に困るものはありません。登るには登れず、水をかけようにも下からは届かず。
 それを防ぐには、伐り倒すばかりであります、と言って、それほどの大木を苧殻《おがら》を切るようなわけにはゆきません。
 いよいよ杉山に火がうつった時、各字《かくあざ》の者は手を束《つか》ねて、せめて、人家へ焼け出さないように用心するよりほかはありませんでした。
 人が手を束ねて見ていれば、火はいい気になって延びる、この山を焼き抜いてあの山へと、遠慮なく延びる。
 それでも竜王社の方面は消防に力をつくしたために火の手が鎮まったが、これはかえって一方に火勢を追い込んだようなもので、山の手に向う火の手は更に一層の勢いを加えることになりました。木がなくなるところまで焼け抜いておのずから止まるか、そうでなければ、天の池が乾くほどな大雷雨でも来《きた》らぬ限りはこの山火事が続きそうだ。
 人間業《にんげんわざ》でこの火を防ぐはあの護摩壇の法力《ほうりき》あるばかりだと、そこへ気がついた各村の総代は、打揃って裸になって水垢離《みずごり》をとって、かの護摩壇の修験者へ行って鎮火の御祈祷を頼むと、修験者は、
「遅い、遅い」
と冷淡に言ってのけた。
「昨夜、人知れず、御禊《みそぎ》の滝で水を浴びた女をつれて来い……その女が竜神村の禍《わざわ》いじゃ、その女をつれて来い」
 さては、女の身でこの神聖な竜神の霊場をけがした者がある。その女を捉《つか》まえて、人身御供《ひとみごくう》に上げるでなければ、この火は鎮まらぬ、火を消すよりも、その女を求めることが急だ。
 土地の人は血眼《ちまなこ》になって飛ぶ――
 その女というのは誰――火を出した室町屋の女房、昨夜から行方知れずになったというお豊が怪しい。お豊はどこへ行った。室町屋の内儀はどこへ行った。
 兵馬はこの時、ぜひなく神木屋にとどまって火を心配していた――今日あたりは七兵衛お松がこの地へ着くはずであるのに、あの火が道をふさぎはすまいか。
 昨夜から降ったり止んだりしていた雨が、この時分になって、だんだん大降りになってきた。
 その翌朝、山火事はいよいよ盛んに燃えている。雨もどんどんと降りつづいている。お豊を探すべく八方に飛んだ人がまだなんとも報告を齎《もた》らさないうちに、またしても人を驚かす報告が一つ持ち来《きた》された。
「河原に人が殺されている」
 それを見つけたのは里の子供でした。村の人が駈けつけて見ると、昨夜来の雨で日高川の水嵩《みずかさ》が急に増した。蛇籠《じゃかご》にひっかかった一つの体はまだ若い男でありました。
「室町屋の金蔵さんだ!」
「斬られてる!」
 それはたしかに金蔵である、斬られていることも確かである。
 宇津木兵馬は宿の人に頼まれてその検視に行った。
 兵馬が金蔵の死骸《しがい》を見て衷心《ちゅうしん》から驚いたのは、その死にざまが怖ろしいからではない、また彼の身の成る果てを不憫《ふびん》と思いやったからというのでもない、その斬口《きりくち》の鮮《あざや》かさ! 心得ある人より見れば、斬口でその斬った人の手腕がわかる、否《いな》、手腕のみではない、それが何流の剣道に出でてどの程度まで行った人だということもわかるはず。
 右の肩から真直ぐに、それは力任せにやったのでも何でもない――冷笑しきって軽く一振り、曳《えい》とも言わず二つに切って落すべきものを落さずに、いくらか残しておいて刀を鞘《さや》に入れたが、おそらく血は刀に附く遑《いとま》がなかったろう――切ると一緒に高いところから足で蹴落《けおと》して(その証拠には、かすり疵《きず》がいくつもある)、下へ転《ころ》がって行く屍体の音を聞きながら、蚊をつぶしたほどにも思ってはいなかった――兵馬の眼には、斬った人の面影《おもかげ》がありありと浮ぶ。

         十二

 眼の前にあっても、時が来《きた》らねば会えません。竜之助と兵馬とは、山城、大和、伊賀、紀伊の四カ国を、あとになり、先になって、往《ゆ》きつ戻《もど》りつしましたけれど、とうとうそのいずれでも会うことができないのです。竜之助は敢《あえ》て兵馬を怖れて逃げ隠れているのではない。兵馬は目の先に近づいて、それでどうも刃《やいば》を合せることができないのです。
 今、ここに竜神村の災難、七兵衛やお松がどうしてここへ来るかを知らねばなりませんけれど、兵馬はそれを顧みている遑《いとま》がない。
 竜之助の落ちて行く方面は、日高川に沿うて四十余里の屈曲を塩屋の浦まで出て、船でどちらへ行くか、または高野領《こうやりょう》を経て西国筋《さいこくすじ》へでも落ちるか、兵馬はそれを測って単身結束してそのあとを追わねばならぬ。
 兵馬が竜神村を立った時も、まだ竜神村の火は消えませんでした。



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月30日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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