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藏書家の話
内藤湖南
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清朝はその初頃から有名な藏書家が多く、錢謙益及その族孫錢曾、又は季振宜などは、順治より康煕の初年に有名であるが、併し藏書家の最盛期は乾隆の中頃以後にあるので、乾隆の末から嘉慶を經て、道光の初頃まで居つた蘇州の黄丕烈は最も有名で、殆ど清朝を通じて第一の藏書家と言つてよいのである。
黄丕烈は宋版の本百餘種を得て、百宋一廛と號した。この頃の藏書家は、單に收藏の多きに誇るのみでなく、又多く古版の本を得ることを努めて、而もその上に古版を以て通行の本を校勘することを努めた。この黄丕烈は、その點に於ても最も名高い人であるが、この人の刻した士禮居叢書は、多くは宋版その他古版の本を飜刻して、精巧を極めたので、清朝に出版された叢書の中でも最も善い本と言はれ、今日に於てはその値の高きことも、殆ど古版の本に匹敵するほどで、我國に傳來したものは恐らく二部位に過ぎない。
この人達は又藏書の事に就て色々の趣味あることを企て、百宋一廛については、當時古書の校勘に於て第一人者と稱せられた顧廣圻は、百宋一廛賦といふものを作つてその藏書の富んでゐることを褒め立てなどしたので、當時の藏書家の間にもてはやされた事であるが、黄丕烈は又嘉慶年間に、十年ほど引續いて祭書といふことを始めた。即ち黄氏には讀未見書齋といふ書齋があつたが、其處で祭書をやつた。その後になつて、士禮居で祭書をしたこともある。その祭をする毎に必ず圖を作り、その友人なる學者達に、圖説を作らせたのであるが、前に言つた顧廣圻も、士禮居祭書の詩といふものがあつて、今に傳つてゐる。昔唐の賈島は、年の終に、一年間作つた詩を自ら祭つたといふ事が傳へられて、一つの文壇の佳話となつてゐるが、祭書といふことを始めたのは黄丕烈からで、これも文壇の佳話に相違ない。この人の藏書は、その後展轉して今日支那・日本に於ける藏書家の中にも傳はつてゐるものがあるが、これはその人が死んだ後に散亂したのは勿論なるも、死んだ後ばかりでなく、其人の生存中に既に人手に渡つたものもあるのである。支那人の藏書などを好む人は、多くは黄丕烈の如く讀書家で、又校勘の好きな人であつて、日本などの如く、金があつて、讀めない本を澤山蒐めるのとは違つてゐるので、多少財産のある人でも、全力を擧げて書籍を蒐める結果、晩年には多く貧乏になつて、自然に書籍を賣らねばならなくなる。黄丕烈なども、五十歳以後は大分金に窮したらしく、當時(嘉慶の末頃に)新に起つて來た藏書家、汪士鐘に色々な珍本を賣つたことがその年譜に見えてゐ、後に自分が賣つた本を、汪士鐘から借りて校勘したりなどしてゐる。勿論然うかといつて、古書を蒐めることを絶對に止めてゐるのではないが、一方賣りながら、一方買ひ集めてゐるのである。ごく晩年(道光五年)その六十三歳の時には、自分で本屋を開店してゐるが、到頭この年に亡くなつた。
前に言つた汪士鐘は、黄丕烈に引續いて有名な藏書家であるが、これも儀禮單疏を刻して世に弘めたので、今日でも吾々は、それがために非常な便宜を得てゐる。此人は元來は呉服屋であつて非常な金持であつたが、此人の藏書も間もなく散じた。この人の藏書の處は、藝芸書舍というたが、その散じた本は、常熟の瞿氏と、聊城の楊氏とに入つたので、此二家は今日支那に現存してゐる二大藏書家といはれてゐる。
藏書家の中で最も悲慘な運命に出遇つたのは、張金吾といふ人である。此人も乾隆の末年に生れ、道光八年に僅か四十二歳で亡くなつた人であるが、この張氏はその親族に藏書家多く、金吾の從父張海鵬はことに多くの書籍を刻せるを以て有名で、學津討原・墨海金壺、又は借月山房彙鈔などの大部の書籍を出版した人であるが、張金吾はこの一族として、若い時から既にその先代からの藏書に加ふるに、自己の蒐集したものを以てして、八萬餘卷を藏してゐたと言はれ、此人はその夫人も亦學問のある人で、夫婦ともに書を愛し、學問に力め、隨分著述も多いが、悉くは出版されてをらぬ。此人は三十三歳の年に、活字を十萬餘り買入れて、それを以て大部の書籍を出版した。その一つは續資治通鑑長編であつて、これは二年に亙つて五百二十卷の本を二百部印刷したので、今日もその本は歴史家に非常に珍重されてゐる。此人の藏書の處は、愛日精廬と稱し、最初その藏書志を四卷作つたが、後になつてだん/\増補して、愛日精廬藏書志四十卷を作つて、自分の家に藏してゐる書籍の最もよいものを解題したので、これは矢張活字で印刷した。其本が今日に至るまで藏書家に非常に珍重されてゐる。ところが此人にとりて最も不運な事は、その藏書志が出來上つたのは四十一の年であるが、其前年に悉く其藏書を失ふことになつたことである。それは從子の張渙といふ者が張金吾に貸した金があるといふので、其の藏書十萬四千卷を盡く取上げてしまつたことである。張金吾はこの事を非常に悲しんで、「二十年間蒐めるに骨を折つて、散ずる時は全く一日一夜で失くしてしまつた、雲煙過眼遂にかくの如く速かなり」と言つた。そして「從來藏書家で水火の難に遇つた者もあり、兵亂に失つた者もあり、子孫が守ることが出來ずに、鼠穴蠹腹に失つた者もある。併し泥棒に強奪され、しかもそれが自分の親類から斯くの如き不心得の者の出たといふ事は、古來嘗て聞かぬことである。併しこの書籍の集散は常であつて、達觀者は必ずしも斯ういふ事を心にかけない。況や書目を作つて後世に傳へてをれば、その散じた書も矢張自分の書と同じ事だ。自分の目前にあつて、人の手にあるも自分の手にあるも、そんな事はかまはない。唯自分の從子の張渙は、本も讀み、詩文も作り、自分の土地でも自分の家は讀書家といはれ、從子も其中で眞面目な者といはれてゐたのに、どうしてこんな驚くべき無法の事をしたのか、それとも前から自分の本に思をかけてゐて、自分の本を奪ふつもりであつたのか、但し本が失くなつても藏書志が出來たら幸である」と書いてゐる。張金吾は不幸にも其翌年最愛の妻を失つた。張金吾は元來相當の財産を持つてゐたが、これらの事ですつかり貧乏になり、妻を失つた翌々年自分も到頭夭死をしたが、妻を失つた後は手づから金剛經を寫して、半年以上も日々それを讀誦してゐたが、間もなく自分も沒したのである。
藏書家の中で張金吾は最も晩年不幸になつた一人であるが、大體藏書家といふ者は、自ら好んで讀み、且蒐める人に限りて、支那でも數代相續した人の殆どないといふ事、それから又讀みもしない藏書家は、却て數代相續してゐるといふ事は、一種の非常なる皮肉なことである。併し前にも言つた如く、支那人は自分の好むところを滿足しさへすれば、そのために財産を失はうが、晩年藏書が散亂しようが、そんなことを豫め考へずに、全力をつくして集め、藏書志を作り、或は又善本を飜刻し、藏書の效力を後世に貽すといふ事は、むしろ藏書家としての本望に叶つた事かも知れぬ。かういふ不思議の趣味は、近代の支那に於て發達したところであるが、日本に於ける藏書の趣味も、斯ういふ風に發達することを希望して善いか惡いかは別問題として、吾々が目前見るところでも、最近藏書の集散が激しくなるところから考へると、矢張支那の近代の跡を追ふものと考へられない事もない。(談話筆記)
(昭和二年十一月「書物の趣味」第一册)[#地より1字上げ]
底本:「内藤湖南全集 第十二巻」筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日発行
1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「目睹書譚」弘文堂
1948(昭和23)年9月発行
初出:「書物の趣味 第一冊」
1926(昭和2)年11月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年8月30日公開
2001年10月20日修正
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