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概括的唐宋時代觀
内藤湖南

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(例)二銖四※[#「※」は「參−人−彡+糸」、読みは「るい」、117-17]
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 唐宋時代といふことは普通に用ふる語なるが、歴史特に文化史的に考察すると、實は意味をなさぬ語である。それは唐代は中世の終末に屬し、而して宋代は近世の發端となりて、其間に唐末より五代に至る過渡期を含むを以て、唐と宋とは文化の性質上著しく異りたる點がある。但し從來の歴史家は多く朝代によりて時代を區劃したから、唐宋とか元明清とか一の成語になつて居るが、學術的にはかゝる區劃法を改むる必要がある。但し今は便宜上、普通の歴史區劃に從ひ唐宋時代の名を用ひて、支那の中世より近世に移る間の變化の状態を總括して説いて見ようと思ふ。
 中世と近世との文化の状態は、如何なる點に於て異るかといふに、政治上よりいへば貴族政治が廢頽して君主獨裁政治が起りたる事で、貴族政治は六朝から唐の中世までを最も盛なる時代とした。勿論此貴族政治は、上古の氏族政治とは全く別物で、周代の封建制度とも關係がなく、一種特別のものである。此時代の支那の貴族は、制度として天子から領土人民を與へられたといふのではなく、其家柄が自然に地方の名望家として永續したる關係から生じたるもので、所謂郡望なるものゝ本體がこれである。それ等の家柄は皆系譜を重んじ、其ために當時系譜學が盛んになつた位である。現に存在する諸書の中でも、唐書の宰相世系表は即ち其有樣を示したもの、又、李延壽の南北史の中には、朝代に拘らず各家の人を祖先から子孫まで續けて纏まれる傳を書いたから、人のために家傳を作つた體裁になつたといふ非難を受けたが、これは南北朝時代の實際状態が無意識の裡に歴史の上に現れたのである。
 かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさせたが、第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。南朝に於ても王氏、謝氏などが天子の家柄よりも遙に重んぜられた。是等は皆同階級の貴族の間で結婚をなし、それ等の團體が社會の中心を形成して、最もよき官職は皆此仲間の占むる所となつた。
 この貴族政治は唐末より五代までの過渡期に廢頽して、これに代れるものが君主獨裁政治である。貴族廢頽の結果、君主の位置と人民とが近接し來りて、高い官職につくのにも家柄としての特權がなくなり、全く天子の權力によりて任命せらるゝ事となつた。この制度は宋以後漸次發達して、明清時代は獨裁政治の完全なる形式をつくることゝなり、國家に於ける凡ての權力の根本は天子一人これを有して、他の如何なる大官も全權を有する事なく、君主は決して如何なる官吏にも其職務の全權を委任せず、從て官吏は其職務について完全なる責任を負ふ事なくして、君主一人がこれを負擔する事となつた。
 この二種の政治状態を比較すると、貴族政治時代に於ける君主の位置は、時として實力あるものが階級を超越して占むる事ありても、既に君主となれば貴族階級中の一の機關たる事を免るゝ事が出來ない。即ち君主は貴族階級の共有物で、その政治は貴族の特權を認めた上に實行し得るのであつて、一人で絶對の權力を有することは出來ない。孟子は嘗て卿に異姓の卿と、貴戚の卿とあつて、後者は君主に不都合あればこれを諫め、聽かざればこれを取り換へるといへる事があるが、かゝる事は上代のみならず、中世の貴族政治時代にも屡々實行された。君主は一族即ち外戚從僕までも含める一家の專有物で、從てこれ等一家の意に稱はないと廢立が行はれ、或は弑逆が行はれた。六朝より唐に至るまで、弑逆廢立の多いのは、かゝる事情によるので、この一家の事情は多數の庶民とは殆んど無關係であつた。庶民は國家の要素として何等の重きをなさず、政治とは沒交渉である。
 かくの如く君主は單に貴族の代表的位置に立つて居つたのは中世の状態なるが、近世に入りて其貴族が沒落すると、君主は直接に臣民全體に對する事となり、臣民全體の公の所有物で、貴族團體の私有物でなくなつた。かくして臣民全體が政治に關係する事となれば、君主は臣民全體の代表となるべき筈のやうであるが、支那にはかゝる場合なかりしために、君主は臣民全體の代表者にあらずして、夫自身が絶對權力の主體となつた。しかし兎も角、君主の位置は貴族時代よりは甚だ安全となり、從て廢立も容易に行はれず、弑逆も殆んどなくなつた事は宋以後の歴史は其然るを證明する。尤も元代のみは頗る異例がある。これは蒙古文化の程度によるので、蒙古の文化は支那の同時代に比較すると甚しく遲れて、却て支那の上古時代と同程度であるのに、支那を征服せるがために、突然に近世的の國家組織の上に君臨したのであるから、其帝室には依然として貴族政治の形骸が殘つて居り、民政の方のみが近世的色彩になつたから、一種の矛盾した状態をあらはしたのである。
 貴族政治の時代には、貴族が權力を握る習慣であるから、隋の文帝・唐の太宗の如き英主が出で、制度の上に於ては貴族の權力を認めぬ事にしても、實際の政治には尚其形式が殘つて、政治は貴族との協議體となつた。勿論この協議體は代議政治ではない。
 唐代に於ける政治上の重要機關は三つあつた。曰く尚書省、曰く中書省、曰く門下省である。その中で中書省は天子の秘書官で、詔勅命令の案を立て、臣下の上奏に對して批答を與へることになつて居るが、この詔勅が確定するまでには門下省の同意を必要とする。門下省は封駁の權を有して、若し中書省の案文が不當と認むるときには、これを駁撃し、これを封還することも出來る。そこで中書と門下とが政事堂で協議して決定する事となる。尚書省はこの決定を受取つて執行する職務である。中書省は天子を代表し、門下省は官吏の輿論、即ち貴族の輿論を代表する形式になつて居るのではあるが、勿論、中書・門下・尚書三省ともに大官は皆貴族の出身であるので、貴族は天子の命令に絶對に服從したのではない。夫故に天子が臣下の上奏に對する批答なども、極めて友誼的で、決して命令的でない。然るに明清時代になりては、批答は全く從僕などに對すると同樣、ぞんざいな言葉遣ひで命令的となり、封駁の權は宋以後益々衰へ、明清に在りては殆んどなくなつた。
 かくの如き變化の結果、宰相の位置は天子を輔佐するものでなくして、殆ど秘書官同樣となりたるが、尚宋代にては唐代の遺風も存在して、宰相は相當の權力を有したるも、明以後には全く宰相の官を置かぬ事になり、事實宰相の仕事をとれるものは殿閣大學士であつて、これは官職の性質としては天子の秘書役、代筆の役で、天子を輔佐し、其責任を分ち、若くは責任を全く負擔する古代の宰相の俤はなくなり、君權のみが無限に發達した。唐の時の宰相は、皆貴族階級の中より出で、一度其位置に到ると、天子と雖も其權力を自由に動かす事が出來ない習慣であつたが、明以後は如何に強大なる權力を有する宰相でも、天子の機嫌を損ねると、忽ち廢黜せられ、一個の平民とせられ、囚人と墜さるゝ。宋代は恰も唐と明清との間に立つので、明清の如く宰相に權力がないといふ譯ではないが、天子の權力を笠に被て居る間は全盛を極めても、天子の背景を失ふと忽ち一匹夫となる。宋の寇準・丁謂、南宋の賈似道などの境遇の變化を見ても分るのである。地方官なども、唐代には、中央の權力と關係して、各地方に於て、殆ど君主同樣の權力を有するもの多き習慣なりしが、宋以後は、如何なるよき位置の地方官も、君主一片の命令で容易に交迭せらるゝ事となつた。宦官は天子の從僕であるが、唐代の宦官は天子の眷族の有力なる部分となつて、定策國老門生天子といふ諺さへ出來たが、後に明の時にも宦官が跋扈せるも、天子の恩寵あるときにのみ權力があつて、恩寵が衰へると其勢力は全くなくなる。唐と明との宦官にかくの如き相違あるは、即ち貴族政治と君主獨裁政治との相違ある結果である。
 それと同時に人民の地位も著しく變化して來た。元來法治國とは違ひ、人民の權力を明らかに認める事はないけれども、人民の地位と財産上の私權とは、貴族政治時代と大に趣を異にするやうになつた。貴族時代には人民は貴族全體の奴隷の如く視られしが、隋唐の代となり、人民を貴族の手から解放して國家の直轄とし、殊に農民を國家の小作人の如く取扱ふ制度が作られたが、事實は政治の權力は貴族にあつたから、君主を擁したる貴族團體の小作人といふ状態であつた。土地の分配制度なども、かくの如き意義と密接の關係があり、殊に租税の性質は其意義を尤もよく現して居る。即ち唐代の租・庸・調の制度は、人民は政府に對して地代を納め、力役に服し、工作品を提供する意味のものであつた。唐の中世から此制度自然に壞れて兩税制度となり、人民の居住が制度上自由に解放さるゝことゝなり、地租などの收納も錢で代納することゝなつたので、人民は土地に拘束せらるゝ奴隷小作人たる位置から、自然に解放さるゝ端緒を開きしが、宋代に至り、王安石の新法によりて、人民の土地所有の意味が益々確實になつて來た。青苗錢の如き低利資金融通法も、人民が土地の收穫を自由に處分する事を認める意味とも解さるゝ。又從來の差役を改めて雇役とし、隨分反對者の攻撃を受けたが、此雇役制度は尤も當時の事情に適せるを以て、後に司馬光が王安石の新法を改めた時に、新法反對論者の中にも、蘇東坡始め、差役を復舊することはこれを否なりとした人が多い。支那は人民の參政權を認むるといふことは全くなかりしも、貴族の階級を消滅せしめて、君主と人民と直接に相對するやうになつたのは、即ち近世的政治の状態となつたのである。
 又官吏即ち君主と人民との中間の階級も選擧となつた。勿論この選擧とは、今の代議政治の如く代議的ではなくして、一種の官吏登用の形式を指すものなるが、即ち選擧の方法が貴族的階級からの登用を一變して、試驗登用、即ち科擧となつたのである。六朝時代には天下の官吏を九品中正の方法で選擧し、全く貴族の權力で左右したのであつて、當時の諺に上品無寒門、下品無勢族といふ事があつたが、隋唐以來此弊を破るために科擧を行ふことゝなつた。然し唐代の科擧は其方法が矢張依然として貴族的なりしが、これも宋の王安石時代から一變した。即ち唐代より宋の初期の科擧は帖括と詩賦とを主とした。經書を暗誦する力を試驗するのが帖括で、文學上の創作力を試むるのが詩賦である。夫れ故、其試驗は學科の試驗といふよりは、寧ろ人格試驗と文章草案の力とを試驗するといふ方法であつた。處が王安石の制度では帖括に代ふるに經義を以てし、詩賦に代ふるに策論を以てした。經義は經書の中の義理に關して意見を書かせ、策論は政治上の意見を書かせた。勿論これも後には、經義は單に一時の思ひ付きを以て試驗官を驚かす文章の遊戲と變じ、策論も單に粗末な歴史上の事蹟を概説するに過ぎないものとなつて、實際の政務とは何等の關係もなくなつたが、兎も角これを變ずるだけは、從來の人格主義から實務主義に改むるのが目的である。試驗に應ずるものも、唐代では一ケ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。即ち君主獨裁時代に於て、官吏の地位は一般庶民に分配さるゝことに於て、機會均等を許さるゝ事となつたのである。
 政治の實際の状態に於ても變化を來して、殊に黨派の如きは其性質を一變した。唐の時にも、宋の時にも、朋黨が喧かりしが、唐の朋黨は單に權力の爭ひを專らとする貴族中心のものにして、宋代になりては、著しく政治上の主義が朋黨の上に表はれた。これは政權が貴族の手を離れてから、婚姻や親戚關係から來る黨派が漸次衰へて、政治上の意見が黨派を作る主要なる目的となつたのである。勿論この黨派の弊害は、政治上の主義から來たものでも、漸次貴族時代と類似したものとなつて、明代にては、師弟の關係、出身地方の關係などが重にこれを支配して、所謂君子によりて作られた黨派も其弊害も、小人の黨派と差別がなくなり、明は遂に東林黨のために滅亡したといはるゝに至り、清朝にては甚だしく臣下の黨派を嫌ひ、其ために君主の權力を益々絶對ならしめた。
 經濟上に於ても著しき變化を來した。唐代では有名な開元通寶の鑄造を行ひ、貨幣の鑄造は引續き行はれしも、其流通高は割に少ない。貨幣の流通が盛んになりしは宋代になつてからである。唐代は實物經濟といふ譯ではないけれども、多く物の價値を表はす貨幣の利用を、絹布によりて行つた。然るに宋代にありては、絹布、綿などの代りに銅錢を使用する事となり、更に發達すると紙幣さへ盛んに用ひられた。紙幣は唐代からして已に飛錢といつて、これを用ひたといふ事であるが、宋代に至りては其利用が非常に盛んで、これを交子、會子等と稱し、南宋時代は紙幣の發行高は非常の額に上り、其ために物價の變動も甚しかつた。兎も角充分に利用され、次の元代に於ては殆ど、銅錢鑄造の事なくして、單に紙幣のみを流通せしむることゝなつた。明以後不換紙幣政策が極端に行はれたので、遂に敗滅せるが、要するに宋代に入りて貨幣經濟が非常に盛んになつたといふ事が出來る。銀も此頃よりして漸次貨幣として重要の位置を占むる事となり、北宋時代などは僅かの流通にとゞまりしも、南宋に至りては餘程盛んになりしものらしく、元の伯顏が南宋を滅ぼして北京に歸る時に、南宋の庫から收得した銀を、北京に運ぶために一定の形に鑄造したのが、今日の元寶銀の始めだといはれて居るから、宋末には餘程流通をしたものと見える。明清に至り益々此傾向盛大となり、終に全く銀が紙幣の位置を奪ふに至つた。兎も角、唐宋の代り目が、實物經濟の終期と貨幣經濟の始期と交代する時期に當るので、其間に貨幣の名稱なども自然に變化を來した。昔は錢も兩とか銖とかで稱へられたが、これは勿論重量の名稱にて、昔は一兩が二十四銖と算せられた。宋以後一兩を十錢と計算することゝなり、即ち一錢が二銖四※[#「※」は「參−人−彡+糸」、読みは「るい」、117-17]に當る。元來開元通寶一文が重量二銖四※[#「※」は「參−人−彡+糸」、読みは「るい」、117-17]で、十文が一兩となるのであるから、宋代よりは重量の名稱を廢して錢の箇數であらはすことゝなり、これによりても錢の使用の當時如何に盛大なりしかを知るに足るのである。日本で重量の名稱を一匁(一文目)といふ如きは、支那の錢の名稱を逆に使用したものである。
 學術文藝の性質も著しく變化して來た。假に之を經學文學で説いて見れば、經學の性質は唐代に於て已に變化の兆候をあらはした。唐の初期までは、漢魏六朝の風を傳へて、經學は家法若くは師法を重んじた。昔から傳へ來つた説を以てこれを敷衍する事は許されたが、師説を變じて新説を立てる事は一般に許されなかつた。勿論其間には、種々の拔道を考へて、幾度も舊説を變じたるも、公然とかくの如き試みをする事は出來ない事であつた。其結果、當時の著述は義疏を以て主とした。義疏とは經書の注に對して細かい解説をしたので、これが原則としては疏不破注といふ事になつて居る。然るに唐の中頃から古來の注疏に疑を挾み、一己の意見を立てる事が行はれた。其尤も早いのは春秋に關する新説である。其後宋代になると此傾向が極端に發達して、學者は千古不傳の遺義を遺經から發見したと稱し、凡て自己の見解で新解釋を施すのが一般の風となつた。文學の中でも、文は六朝以來唐まで四六文が流行したが、唐の中頃から韓柳諸家が起り、所謂古文體を復興し、凡ての文が散文體になつて來た、即ち形式的の文が自由な表現法の文に變つて來た。詩の方では六朝までは五言の詩で、選體即ち文選風のものが盛んであつたが、盛唐の頃から其風一變し、李杜以下の大家が出て、益々從來の形式を破る事につとめた。唐末からは又詩の外に、詩餘即ち詞が發達して來て、五言・七言の形式を破り、頗る自由な形式に變化し、音樂的に特に完全に發達して來た。其結果、宋から元代にかけて曲の發達を來し、從來の短い形式の敍情的のものから、複雜な形式の劇となつて來た。其詞なども典故ある古語を主とせずして、俗語を以て自由に表現するやうに變つた。これがために一時は貴族的の文學が一變して、庶民的のものにならんとした。
 又、藝術の方では、六朝・唐代までは壁畫が盛に行はれ、主として彩色を主としたが、盛唐の頃から白描水墨の新派が盛んになつたけれども、唐代を通じては新派が舊派を壓倒する譯には行かなかつた。然るに五代から宋にかけて、壁畫が漸次屏障畫と變じて、金碧の山水は衰へ、墨繪が益々發達した。五代を中心として、以前の畫は、大體は傳統的の風格を重んじ、畫は事件の説明として意味あるものにすぎざりしが、新らしき水墨畫は、自己の意志を表現する自由な方法をとり、從來貴族の道具として、宏壯なる建築物の裝飾として用ゐられたものが、卷軸が盛んに行はれる事となり、庶民的といふ譯ではないが、平民より出身した官吏が、流寓する中にも、これを携帶して樂しむ事が出來る種類のものに變化した。
 音樂も唐代は舞樂が主で、即ち音を主として、それに舞の動作を附屬さしたもので、樂律も形式的であり、動作に物眞似などの意味は少くして、ことに貴族的な儀式に相應せるものなりしが、宋以後、雜劇の流行につれて、物眞似の如き卑近の藝術が盛んになり、其動作も比較的複雜になつて、品位に於ては古代の音樂より下れるも、單純に低級な平民の趣味にあふ樣に變化した。其尤も著しき發達を表はしたのは南宋時代である。
 以上の如く、唐と宋との時代に於て、あらゆる文化的生活が變化を來したので、此他にも微細に個人的生活を觀察すると、其何れもの點に、此時代に於ける變化の表れたことを認むるが、今はかくの如き微細の點を述べる事は避ける。
 要するに支那に於ける中世・近世の一大轉換の時期が、唐宋の間にある事は、歴史を讀むものゝ尤も注意すべき所である。
(大正十一年五月發行「歴史と地理」第九卷第五號)[#地付き]



底本:「内藤湖南全集 第八巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1976(昭和51)10月10日第2刷
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月発行
初出:「歴史と地理」
   1922(大正11)年5月発行、第九巻第五号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月27日公開
2003年5月25日修正
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