青空文庫アーカイブ
支那の書目に就いて
内藤湖南
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佐世《すけよ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、441-9]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\それを仕上げました時は、
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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今日は支那の書目に就いて申上げるのでありますが、第一に申上げたいのは、支那の書目の分類の仕方の變遷でございます。それから其の前に一寸支那の書目といふものは、いつ頃から出來たかといふことを申上げて置きたいと思ひますが、これはもう圖書館の事に御關係の方は、どなたも御承知のことでありまして、現存して居る目録では漢書の藝文志が一番古いといふことになつて居ります。これはいつ頃出來たかと申しますと、漢書の出來ましたのは、後漢の班固が之を作つて、さうして班固の生きて居る間には十分出來上らずして、其の妹の有名な曹大家といふ女の學者が之を完成したといふことになつて居りますから、班固の歿くなりました少し後に出來たものと思はれますが、さうしますと、西洋紀元の一世紀の終り頃であります。しかしこの漢書の藝文志と申しますものは、これは班固が自分で初めから著述したのではなくして、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、441-8]の七略といふものに依つて、其の六略を其の儘に採つて、其の一つの輯略といふものを省いたといふことになつて居ります。
劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、441-10]の七略を作ります來歴は、又其の先代から受繼ぎましたので、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、441-10]の親の劉向、これが漢の宗室で、有名な學者でありまして、漢の成帝の時に目録編纂のことを申付けられました。一體この、目録の出來ますといふことは、大抵、本が散亂した後、それがもう一度集まつて來る、つまり本が散亂するといふ災難と、それから集める苦心とを考へた時に起るやうであります。それで漢の時の目録の編纂は、秦の始皇の時に本を燒いたといふことがありまして、漢の時になつて段々本を集めては見たが、集めて居る間にも段々失つたりなにかするものが出來る。それで漢の成帝の頃に、又使者を方々へ出して本を集めた。其の結果、どうかして保存をしたい、それにつけて目録を編纂したいといふ考が着きまして、遂に其の事を劉向に命ぜられたのでありますが、劉向がそれを命ぜられました時は、丁度西洋紀元の前二十四五年位の時であつたと思ひます、其の時に命ぜられてから、其子の劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、442-4]の時までかゝつて完成したのでありますが、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、442-5]がいよ/\それを仕上げました時は、前漢の哀帝の時代といふことになつて居りますが、哀帝の時代といふのは甚だ短い年數で、五六年しかありませぬ、其の何年に出來上つたかといふことははつきり分りませぬが、兎に角五六年のことでありますから、其の最後の年と之を考へますと、大抵西洋紀元前一年位の時に當ります。兎に角紀元少し前にこの目録が出來上つたのは確かだらうと思ひます。
それから劉向の時は、書籍を校正しますのに、劉向一人でしたのではありませぬ。劉向が校正のことを書きましたものが、戰國策とか列子とか晏子春秋とかの卷首に今でも遺つて居ります。その外、漢書藝文志にも校正の始末が出て居りますが、それによると、やはり學者が數人共同して校正をしたものと見えますが、兎に角全部の書籍の中、半分位までは劉向自身が總裁の資格になつてそれを編纂したものらしく思はれます。其の外の半分は、これは一種の專門に渉る事柄であつて、專門の知識の無い者には一寸出來にくいことであるから、其の專門家を掛りとして調べたやうであります。例へば軍事のことは軍事の掛りで調べる、或は數術と書いてあるが、天文とか暦譜とか卜筮の事などである、これ等の事は各※[#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、442-15]其の專門家が調べる、醫術の事は醫者の方で調べるといふやうなことにして、之を定めたやうであります。其の當時に於ては、最も其の知識を有つた人が、十分な調べをして校正したものと見えます。それが目録の出來始めであつて、其の時に出來ましたものを、劉向の方は之を別録と致しました。即ち劉向が本を見て居る間に、校合をした上に、自分の考によつて各※[#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、442-18]の書籍の大意を論じ、又は誤りをも辯じたものを別録として書いたのであります。それは今日勿論纏まつた書としては遺つて居りません。それから劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、443-1]になつて七略といふものを作りました。其の中、六略だけが本の目録であつて、其の一つの輯略といふものは即ち總評とも謂ふべきものであります。さういふ順序で最初の目録が出來ました。さうして班固が漢書を編纂する時に、殆ど其の儘を採つた。尤も劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、443-4]が歿くなつてから後に出來た本は、新たに書き加へられましたが、しかしこれは僅かなものであります。これで支那最初の目録が出來たのであります。
其の時の目録の作り方は、七略と申しますが、輯略を除けば即ち六部に分けて居る。第一は六藝略といふのでありまして、これは今の經書であります。第二は諸子略といふので、これは老子とか莊子とか荀子とかいふやうなものでありまして、之を十種に分けて居ります。儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱横家、雜家、農家、小説家の十種であります。第三は詩賦でありまして、これは一番の元祖が屈原の離騒でありまして、即ち今で申すと純文學といふやうなものであります。それから第四は兵家でありまして、其の兵家の中にも四通りに分けて居りますが、其の四通りに分けた工合を見ると、兵の理論に關係したやうなもの、例へば兵の權謀、これが總論で、それから兵の陰陽といふやうなことがありますが、これは日柄の吉凶とか、星の事とか、種々の占の事など、古昔に兵事上に必要と認められた事に關係したもの、それから兵形勢といふのは戰術の書、兵技巧といふのは攻守の器械並びに訓練などの專門の事で、武藝の方にまで關係したことを集めてあります。かういふことは、兵學上の專門のことを知つて居るものでなければ出來ませぬから、これは歩兵校尉の任宏といふ人が調査をして居ります。それから第五が數術となつて居ります。これには天文があり、それから暦譜、五行の事があり、蓍龜即ち占の事があり、其他雜占といふ夢占とか、嚔、耳鳴の占とか、細かい種々の占のことがある。それから形法といふ、これは今の家相、方位のやうなことであります、さういふやうなものを數術と名づけまして、それを第五として居る。それから第六は方技であつて、即ち醫者の事であります。これも醫經、經方、房中、神仙の四通りに分けてあります。さういふのが此の劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、444-1]の分け方でありまして、さうして其の外に輯略といふのを附けて居ります。これは劉向が多くは書物を校正しますのに、天子の御手許にある中書といふのと、それから外から集めた本、其の中には、劉向自身が持つて居る本やら、其の外の編纂官の持つて居る本、又は其の他の者の持つて居る本を集めて校合をして居りますが、一通り校合の總體の事を申しまして、それから其の本の成立ちを論じて居ります。さういふものを一々の本に附けたのでありますが、それを悉く寄せたものが即ちこの輯略であらうといふのであります。輯略は今は遺つて居りませぬから分りませぬが、藝文志に書いてある所を見ると、さういふものであつたらしく思はれる。これが劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、444-7]の目録の作り方の大體でありまして、兎に角此の時は、總論と各目録を寄せて七部に分けてあります。
其の後、支那の目録の作り方が、此の七部の分け方と、其の後に出來ました四部の分け方と、互ひ違ひに行はれて居る。七部の分け方も餘程長い間行はれて居りました。内容は漸々違つて來て居るが、ともかく長く行はれて居つた。それで現在は支那の分類は主もに四部であります。それは經書、歴史、諸子類、詩文集類と四部に分けてあります。此の四部の分け方の始めは、晉の時となつて居りますが、元來三國魏の時に出來た四部の目録がありまして、それに依つて晉の荀※[#「※」は「冒」+「力」、第3水準1-14-70、444-13]が四部の目録を作つた。其の時、これを甲乙丙丁に分けた。其の順序は、經書が第一、諸子類が第二、歴史が第三、詩文集が第四となつて居る。所がそれから後になつて順序を變へた。晉は間もなしに非常な亂世になつて、王室は長江以南に逃げて、其の時に有らゆる本が皆無くなつた。それから江南地方で國を中興して東晉になりますが、此の時代に李充といふ者が四部の目録を作つた。此の時に順序が變つて、今日の如く經書、歴史、諸子、文集といふ順序になりました。此の荀※[#「※」は「冒」+「力」、第3水準1-14-70、444-17]、李充の分け方が今日の四部の目録の始めであります。
しかし此の四部の目録が始まると、其の後皆此の法を採用したかといふとさうではない。後になつて又七部に分ける目録の作り方が行はれて居る。それは南朝の劉宋の時であります。其の時にやはり官の書籍を調べた王儉といふ人が七志といふものを作りました。それで此の分け方は、經典といふのが一つで、これは經書と歴史と一緒になつて居る。これはやはり劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、445-3]の七略の分け方と同樣であります。それから第二が諸子、第三の劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、445-3]の七略の方で詩賦となつて居るのが文翰となつて居ります。第四の兵家と昔云つたのが名前が變つて軍書となつて居る。それから其の次の數術といふのが陰陽となつて居る。其の次の方技といふのが術藝となつて居る。これで大體劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、445-5]の七略の中、六略だけの目録と其の分類が同一であるといふことが分るのでありますが、此の外に第七として圖譜といふものを作つた。即ち地圖とか系譜などを集めて第七に置きました。これは劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、445-7]の如く書物の總解題といふものは無かつたのでありませう。其の外に、此の時は既に佛教道教が行はれて居りましたから、佛教道教の本が附いて居つた。それから劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、445-9]以來の目録に缺けて居る本を特別に擧げて居たといふことでありますが、それはしかし此の部類分けの數には入らぬのであります。兎に角七つに分けて、さういふ附録が附いて居る。これは王儉の目録の分け方でありますが、これも今日は傳はりませぬ。
それから其の次は、南朝の齊の時に、官で作つた目録は、やはり四部であります。それから梁の時になつて、それを受繼いで、やはり四部の目録を作りました。其の中に數術に關係した事だけを一つ餘計に入れて、五部に作つたといふ説もあります。しかしこれ等の目録は今日皆傳はりませぬから、どういふ分け方であつたかといふ細かいことは、はつきり分りませぬ。
其の次に、今日では書名の細目は分りませぬが、總序と、本の全體の各部類の總論のやうなものだけ遺つたやうなものがあります。それは阮孝緒の七録といふもので、梁の時代のものであります。これは政府の官吏が作つたのではなくして、民間の學者が篤志を以て作つたのであります。此の阮孝緒の七録といふものは、内外二つに分けてあつて、其の内篇を五つに分け、外篇を二つに分けて居る。此の分け方は七つに分けてあつて七録と申しますが、此の七録の内容は、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、446-2]の七略、宋の王儉の七志などゝは分け方が違つて居る。第一は經典で、これは經書だけであります。第二は紀傳となつて居て、歴史が獨立しております。前には歴史は經書の一部分になつて、獨立をしませんでしたが、こゝに至つて歴史が獨立して居る。第三は子兵と申しまして、諸子類と兵家と一緒にして居る。これは苦しい分け方で、部類を七つにしたい爲に、かういふやうなことをしたものと思ひますが、一方には軍事上の本、即ち昔の弓を射る法とか、いろ/\兵家の特別專門の知識がなければ分らぬ所のものは無くなつてしまつて、兵家の理論だけに關係した所の、孫子とか呉子とかいふものだけが遺つて、諸子類と變らないやうなものになつたから、それでこれは諸子と一緒に合はせて子兵としたのではなからうかと思はれます。即ち分類を七つにする意味もありませうけれども、本の内容にも變化を生じて來たといふ所が現はれて居ります。第四は文集でありまして、第五は術技になつて居ります。之を内篇と致します。此の五つで昔から六つに分けて居つたのを概括してしまつたのであります。劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、446-10]が六略に分けて居つたのを、此の五つで概括をした。即ち諸子と兵家とが一緒になつたから斯うなりました。それから外篇を別に作つたが、これは佛教と道教の二つであります。これで七録として居りますが、其の外に、此の人は其の末へもつて行つて、自分が澤山の本を見て、いろ/\拔き書きをしたりなにかした所、自分の考へのある所を附けたものが見えるのであります。しかし今日ではやはり其の自分の意見を書きました所のものは存在して居りませぬ。これが七つに分ける種類の最後の目録であります。此の時までは七つに分けましたが、此の以後は七つに分ける目録は無くなりました。しかし此の時に七つに分けて居るのは、既に前の劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、446-16]時代の七つの種類とは内容が違つて居つて、大體四部の方に近くなつて居る。内篇の五部に分れて居るのは、梁の時に分けた五部と同じやうな形になつて居つて、それに佛教道教が附いたのでありますから、段々四部の目録に近寄つて來て居る。それでつまり此の部類分けの變遷を申しますと、漢以來六朝までの間に、段々七部の目録からして四部の目録に變りつゝあつたといふことが分ります。これは單に部類分けの仕方の變り方といふばかりではありませぬ。やはり段々本が殖えて來る、その殖え方の意味が其處に現はれて居りまして、どういふ種類の本が殖えて來た爲に、四部に分けなければならぬことになつたかゞ、其の間に現はれて居ります。それ等のことを論じた人もありますが、其のことは後に御紹介するつもりであります。
兎に角こゝでもつて七部の目録が終りを告げて、其の次に出來た有名な目録は、隋書の經籍志であります。これは今日の歴史に載つて居る目録では、漢書の藝文志に次ぐ第二の古いものであります。これには部類分けの總論もありますし、又一部一部の本の名もあります。これは全く四部に分れて居りますので、四部目録の現在一番古いものは隋書經籍志であります。其の後、目録の分け方は、子目と申します小さい部類には多少變遷がありますが、殆どこれ以來變りはないと云つてよいのであります。
これが支那書籍目録の分類の仕方の變遷でありますが、此の分類の仕方、分類の仕方とばかり云ふ譯には參りませぬが、兎に角支那に於て古く出來た目録と新しく出來た目録とは、どういふ點が優つて居つて、どういふ點が劣つて居るかと申しますと、先づ漢書の藝文志、即ち今日遺つて居るもので、その元は即ち劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、447-12]の七略、これは兎に角非常に立派な出來榮であると云ふのであります。其の後の目録は、現存して居りますものでは、隋書の經籍志、四部に分けました目録、此の目録がどうかかうか之に較べることの出來るだけの出來榮になつておりますが、其の以後の目録は、單に目録の學問が墮落したといふことを現はして居るだけのことであります。つまり六部の目録としては漢書の藝文志、それから四部の目録としては隋書の經籍志、尤も七部の目録は其の外に現存して居るものがありませぬから致し方がありませぬが、恐らく七部の目録も、漢書の藝文志以後は、段々墮落に傾いて居るのであらうと思ひます。それで四部の目録としては、隋書の經籍志が出來榮の絶頂に達して居つて、其の以後は墮落して居ります。
所でどういふ點が墮落して居るかといふことになりますと、それは最初の目録の作り方、即ち七略の作り方、これは單に書物の目録を列べて檢索の爲に便利にして置くとか、それから唯だ本の名を遺すやうにして置くとか、さういふやうな極めて單純な意味で作つたのではないのであります。劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、448-3]の目録の作り方は、これは全く一種の大著述であります。一體漢の時代まで、著述をするといふ人は、單に人のものを編纂するといふ意味では書きませぬ。自分に何か特色がなければ決して本を書かぬのであります。或は書いたかも知れませぬが、さういふものは劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、448-5]が本を調べた時に無くなつてしまつたかも知れませぬが、今日遺つて居るものでは、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、448-6]以前の本は、何か自分に主義があつて書いたものであります。それで例へば史記といふやうな大部の本でありましても、これは勿論編纂した歴史でありますから、單にこれは古い本を編纂して、自分が文を書き變へでもして、さうして事柄を傳へる爲めにしたのであるかといふに、さういふ譯ではありませぬ。それは劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、448-9]の七略の分け方に依つても明かに分ります。其の時には歴史はまだ目録の一科目を成して居りませぬ。今日でも漢書藝文志では史記は經書の一部分、即ち春秋の一部分に附いて居る。春秋の系統を追うて書いたものといふ意味であります。さうしてそれを書きました時は、一家言として、自分の一己の主張があつて書いたのであります。あれを見ると、どこそこは戰國策に出て居るとか、どこそこは國語に出て居るとかいふやうなことを纏めて出したやうに見えますが、しかし其の全體の總論としては、太史公の自序といふものを作つて置きました。それから處々自分の編纂の趣意を現はして居ります。五帝本紀といふものを書くと、此の材料はどういふ採り方をした、どういふ種類の材料は信用が出來るといふやうなことを明かに斷わつて居る。尤も骨を折つたのは表と八書でありまして、此等は自分に見識があり、主張があつて、それによつて書いたのであります。それで其の外の本紀とか世家とか列傳とかいふものでも、其の事實を書きました間に、自分の議論をも見はして居りますが、しかしこれ等は多くは編纂の方法に於て趣意を見はして居ります。それでつまり史記全體が自分の一家の著述であつて、單に昔の事實を集めたといふ趣意ではないのであります。あれを書けば、昔の孔子以來の諸子などが本を著はしたと同樣な位置に坐るものであるといふ考で書いたものであります。これは一つの例でありますが、凡ての人が本を書くのに、さういふ意味で書いて居ります。
しかしこれも言はゞ漢の頃からの一つの變遷でありまして、其の前の本の書き方は少し違ふのであります。其の前の書き方は、必要に應じた自分の職務々々の記録であります。それが段々變遷して、戰亂の爲に官職といふものが無くなると、昔其の官職に在つて、今は職を失つた人が、其の職務の記録を學問として傳へ、段々と相傳する人が其の上に書きつぐといふやり方で、自分が一人で著述をするといふ意味でなく、その學派の相續の爲に本が出來たのでありますが、漢の時には太史公などは、自分の著述として出すやうになりました。これは太史公に始まつたのではありませぬ。莊子とか荀子とかいふものが出來ました時に、已にさういふ傾きがあつて、莊子とか荀子とかいふ本を集める時に、外の學派を批評して、さうして自分の方がえらいのであると云つて著述して居ります。史記を見ると、いろいろのものを集めて一纏めにして自分の一家言を作るのであると云つて居る。これは一種の著述をしたものであると謂つてよい。
それで劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、449-13]が目録を作るのも、やはりこれと同樣の意味であります。單に本の名目を列べて、さうしてそれに自分の小書きの注がありますが、小書きの注には、何篇あつたものが何篇遺つて居るとか、何處に脱簡があるとか、或は名目だけ遺つて居つて、本が無くなつて居るとかいふことがありますが、それは現在のものを事實に依つて調べてやつたのであります。其の外、今の漢書の藝文志に依つて見ると、一部類一部類に、例へば經書の中の易の所には易の總論があり、皆それ/″\總論がある。其の總論といふものは、其の書の由つて來る所を詳しく論じて、かういふ種類の著述、道家なり儒家なり兵家なり名家なりといふものは、長所が何處にあつて、短所が何處にあるといふことを、必ず一々批評して居る。それが即ち六略でありますが、其の外に輯略といふ一つの總評がある譯であります。總評といふものはどうなりましたか分りませぬ。しかし六略には皆一つ一つに目録を擧げて、さういふ風な部類分けの總論をして居りますけれども、それを又一部一部の著述にも皆してあるのであります。劉向の書きましたので、現在一部の書物の評論の遺つて居るのは、例へば戰國策とか列子とか晏子春秋とかに遺つて居ります。今申上げました三つのものは、體裁は皆一致しておりますが、最初に本の目録を擧げて、さうしてこれだけのものを調べて校正をして出したといふことを斷わつて、其の次に自分等は天子の御手許の本と外の本と參考して、これだけのものを定本として極めましたといふことを斷わつて、其の次に其の本の得失を論じて居ります。此の學はどういふ所から出來て來て、この宗旨にはどういふ利益があり、どういふ弊害があるといふことを論じて居ります。それは戰國策も列子も晏子春秋も同一でありますが、こゝに一寸お斷りして置きたいのは、其の中の晏子春秋であります。現在に行はれて居るものには目録が無くなつて居りますが、七八十年前に支那で元板から覆刻した晏子春秋に、劉向の書いた目録の附いて居るのがありまして、それに依ると、内篇とか外篇とか分けて居りますが、其の中で面白いのは、外篇になつて、重複して異るものといふ一項を擧げて居る。前のと同じ事が重複してあるけれども、文章が違つて居るものといふのを擧げて居る。最も面白いのは、外篇の中に、經術に合はざるものといふことを載せて居る。晏子春秋の中に、劉向の見識でもつて、これは晏子の言ではなからうと爲し、道理に合はないものを特に擧げて居る。これが最も劉向が其の當時目録を編纂した體裁と意味とを現はして居るものでありまして、僅かに數行でありますけれども、それだけの事が書いてあるので、劉向が校合を十分に丁寧にして、單に校合のみならず、自分の見識によつて、いろ/\本の批評をしたといふことが、明かに現はれるのであります。しかしさういふ風に、自分の見識で、これは多分晏子の言ではなからうと疑ふ所のものでありましても、それを削るといふことはしませぬ。さういふものはやはり一篇として遺して置くといふことを斷わつてあります。これは多分後世の辯士の僞造であらうけれども、兎も角遺して置くといふことを斷わつて居る。かういふ所で、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、451-2]の書物を校正する法則といふものが、今日でも分るのであります。
これは七略のやり方、即ち本の目録を作つて部類分けの總論を書く、其の總論には、書物の由つて來る所を部類によつて之を分け、さうして何々派の學者はどういふ所から出て來たが、其の流れはどういふ風になり、其の利益はどういふ所にあつて、其の缺點はどういふ所にあるといふやうな評をすること、それから又一々の本に就いて一々に批評をすること、さういふことを以て一種の目録を大成するといふ考が、此の七略のやり方でありますが、此の方法はやはり隋書の經籍志までは明かに遺つて居ります。隋書の經籍志は、前に申します通り、七部の目録を四部の目録に變へて居りますけれども、其の四部の目録としての總評を、一々部類分けにして附けて居つて、其の總評の仕方は、今日の目から見ると、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、451-6]が本の由來を論じ、得失を論じた如く徹底した考はありませぬ。しかし漢の時に目録を作つて、隋までの間に種々變つて居る、それ等のことを總評に於て大體現はして居る。それ等のことは隋書經籍志に於て遺つて居るのであります。隋書經籍志を作る時に、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、451-11]に及ばなかつたのは、一々の本に就いて批評が無かつた點であります。それは大事業であつて、なか/\えらいことでありますが、それが出來なかつた。これだけでも、隋書經籍志は、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、451-13]の七略に較ぶれば墮落をして居るのであります。
それで其の次に出來て來たのは舊唐書の經籍志であります。尤も其の間にもう一つ入れゝば入れられるものがあります。それは日本に遺つて居る日本國現在書目録であります。これは日本にある本とは申しながら、悉く支那の本であつて、冷然院といふ皇室の藏書所が燒けて、さうして又本を集めるといふことになつた時に、藤氏の南家の儒者の佐世《すけよ》と申す人が作つたといふことであります。これには總評も序論も何もありませぬ。けれども兎に角、本の目録を列べたものとしては、隋書の經籍志と舊唐書の經籍志の間に入るものであります。これは有益なものでありまして、古いものを調べる時には引出されるものであります。しかしこれは唯だ日本に其の當時あります本を、支那風の目録にして書いたといふだけでありまして、これには著述の意味は無いといふことであります。其の次に出來て來た舊唐書の經籍志になると、一つの墮落を來しましたのは、それは各部類に対する評論がなくなりました。これは勿論其の編輯をする人の力量に依りますことで、隋書の經籍志を書きました時は、まだ/″\唐の初めに有名な學者が居りまして、隋書の諸志類といふものは、隋書の志とは申しますものゝ、漢書の志の以後を書かうといふつもりで、五代の志類を集めたのであります。それ位でありますから、すぐれた學者達があつて、有名な魏徴なども關係して居ります。又特別の事に就ては、特別の知識を有つた人がやつて居ります。暦術に就ては、李淳風といふ當時の暦法家が關係して居ります。所が舊唐書の時になりますと、編纂をする人の力量は遙かに隋書の時に及びませぬ。それで段々書物の聚散して來た由來を書いたゞけで、何の評もありませぬ。しかしまだ舊唐書の經籍志に取り所のありますのは、舊唐書は唐一代の歴史でありますが、その經籍志は、玄宗皇帝の開元年間に政府の庫にしまつて居つた本だけの目録であります。それが大變善い所であります。其の當時庫にこれだけの本が現存して居つたといふことが明かに分る目録であります。それが目録の活きて居る所でありますが、もう既に評を書くといふことは無論出來ませぬ。恐らく開元の時から二百年も經つて書いた本でありますから、其の時にあつた本でも、もはや見ることが出來ないやうな譯でもありましたのでせう。開元より以前百年ばかりの間の本が載つて居るので、其の以後のものは載つて居りませぬ。それは缺點でありますが、しかし開元の時に書庫に現存して居つたものであります。それが同じ唐書でも新唐書になると、更に墮落しております。新唐書の藝文志は、今日でも珍重されるものでありますが、信用の出來ぬ點がある。それは開元までの間は、舊唐書の目録に依つて書いた。それが五萬幾千卷の書目であります。それは開元の目録に依つて書きました。其の以後更に二萬何千卷の書物を載せた。それは何處の書庫にあつたといふことでもなし、又目録を書いた人が見たといふでもなし、唯だ誰の著述があつたといふ事柄によつて書いた。それで新唐書の目録は、本の數の列んで居る所から見ると、都合がよく出來て居りますが、しかし出來上つたものは、それは何れの時に何れの場所にそれがあつたかといふことが確かまらない目録であります。何の證據にもならぬ目録であります。あとの二萬何千卷は、實物を見ずに勝手に加へたものであります。さうして見ると、唯だ唐の時にこんな著述があつたといふ噂の記録であるだけで、果してそれが行はれて居つたかどうかは分りませぬ。これは目録を作る上に於て非常な失敗であります。
其の後になりますと、益※[#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、453-6]さういふ傾きがありますが、尤も其の前にも多少さういふことが無いではありませぬ。阮孝緒といふ學者が作つた目録は、これは官の目録ではありませぬ、私の目録でありますから、其の時の記録に依つて作つたものに過ぎないのでありますが、正史に載せてある目録としては、舊唐書の經籍志までは、兎に角何れかの時に、何れかの處にあつたものに依つて書いたのであります。それは隋書の經籍志でもさうであります。けれどもそれは隋の時にあつた目録ではなくして、唐の時に現存したものを目録として書いたのであります。必ず何處かに現存したものを書くのが法則であるが、新唐書に至つてそれを崩して、必ずしも現存してないものを目録に書きました。これは非常な墮落であります。さういふことは、すべて古い目録より新らしい目録の方がぞんざいになつて居ります。
其の後、益※[#「※」は二の字点、第3水準1-2-22、453-12]目録の作り方が惡くなりました。それは宋史の藝文志、明史の藝文志、これは皆あることはありますが、これも亦何れの時に何れの處に現存したといふことの證據がない。其の中、宋史の藝文志には、各部目の序論といふものがない。明史の藝文志に至つて、目録は又一變して斷代の目録となりました。即ち明代の人だけの著述の目録である。それも所在も存否も確かめずに、唯だ何かに書いてあるものを其の儘載せた。明史の藝文志は黄虞稷の千頃堂書目に據つたといはれて居るが、それは編纂の事實がさうでも、主義はさうでない。即ち現存の本の目録ではなくして、聞き傳への目録である。これが目録を作る上に於て非常に衰へた所以であります。
これは古代の目録と近代の目録との比較の相違でありますが、書名だけ擧げたものとしては、明の時の文淵閣書目に至つて、復た故に返つて、文淵閣の書庫に現存したものであります。又清朝の四庫全書の目録、皆其の時の現存の目録を擧げて、文淵閣に鈔寫して保存した本、即ち著録本と、名目だけ留めた本、即ち存目本と兩方書いてありますが、兩方とも其の當時、本を集める人は全部目を通したもので、これは全く信用の出來るものであります。宋以後は、實際目を通した目録は、宋の時の朝廷でやつた崇文總目と此の四庫全書の二つのみでありますが、民間の藏書家の目録は段々發達して來ました。それは自分の藏書の目録であるから、皆信ずることの出來るものであります。さういふのは、陳振孫の直齋書録解題とか、或は晁公武の郡齋讀書志とかいふものが其の種類に屬します。要するに明の文淵閣書目と乾隆の四庫全書總目に至つて、現存の書に依つて目録を作るといふことが復興し、又四庫全書總目提要によつて、書物を一々批評するといふ劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、454-9]以來の廢れて居つた方法を恢復したのであります。清朝の四庫全書總目提要だけは、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、454-10]以來の立派なる目録と謂つて差支ないのであります。これは勿論内容に立入つて、其の批評の仕方を、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、454-11]と同樣の價値を以て見ることが出來るかといふと、これには種々議論があつて、それは或る點は昔のものより勝れて居る所がありませう、又或る點は學問上偏狹になつて居る所があるといふやうなこともありませう。しかし兎に角目録を立派に取扱ふといふ方から申しますれば、清朝の四庫全書總目提要といふものは、昔の目録に立返つて立派なものが出來たと謂つてよい。
これは大體の變遷でありますが、段々細かいことになると、其の間に又種々變遷があります。それは漢書の藝文志若しくは隋書の經籍志などに、一つの特長がありますのは、亡くなつた本の目録を書くといふことで、漢書の藝文志は、大體書名として亡くなつたものを書いては居りませぬが、其の篇數など内容に就きましては、どの篇が脱けて居るとか、どの篇が遺つて居るとかいふことを現はして居ります。隋書の經籍志に至ると、單に隋代の目録ではなくして、其の前五代の目録を作つたのでありますから、即ち唐の初めには既に亡くなつて居りましても、梁の時の目録にあつたといふものが一々注にそれを書きつけてある。何々の本は梁の目録にあつたが今日は亡くなつた、何々の本は梁の時は何卷であつたが今日は何卷しか遺らないとかいふことが書いてある。これは目録を作る上に於て、一つの大切なる事柄でありまして、これがあるといふと、現在ある本は完全なものか否かといふことが分るのみならず、不完全なものは不完全だといふことを記録して置くと、其の遺つたものがどういふ機會でか現はれ來るべき、其の本を搜す機會を與へるのであります。これは大變に大切なことになつて居りまして、これは隋書經籍志まではありますが、其の以後の目録には無いので、此の點に於ては、其後多少昔の意味を復興しようと考へた人はあります。これは清朝の學者などは、明の代の學者とか本といふと、力めて之を輕んじて見る傾きがありますが、國史經籍志といふ明の萬暦年間に焦※[#「※」は「立」+「宏」−「宀」、よみは「こう」、第4水準2-83-25、455-9]といふ人の書いたものがあります。これは正史の藝文志でも經籍志でもありませぬが、宋以來の目録の作り方と違つた目録、即ち古代風の目録を作りました。それは明の末で分るだけの本の目録を全部作り、それに存佚を皆書きました。これはつまり亡くなつた本の目録を傳へて、之を搜す便りにする方法の或る點を復興したのであります。
それから其の次には、この分類の性質といふものゝ大切なことを論じて居る人があるのであります。分類の性質によつて昔の本の意味をどういふ風に解釋したかといふことの大切な參考になります。手短かに申せば易であります。易は後世の學者によつて之を解釋されまして、あれは單に卜筮をする爲の本である、或はさうでない、あれは其の中に含まれて居る義理が大變に尊いのであつて、單に卜筮をする爲に出來た本ではないといふ爭論があります。所がこれは漢書の藝文志、即ち劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、455-17]の分類の法に依つて、當時の人がどういふやうに解釋して居つたかといふことが分るのであります。さういふことは、目録の分類の仕方に依つて利益を得ることがあります。これはやはり古い目録のやり方の大切な所であります。劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、456-1]の見方に依ると、易はやはりその時代には之を義理の書として考へられて居つたといふことが分ります。それはどういふ譯かといふと、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、456-2]の七略の中には數術といふ部門がありまして、數術といふ中に占ひの本が載つてある。それは筮竹で占ふことも、又は龜の甲を灼いて占ふことも書いてある。易が單に占ひの本であるとすると、數術の方に入るものである。然るに之を數術の方に入れないで、經書の中に入れてあるのは、卜筮の本として用ひたばかりでなく、中に含まれて居る義理を尊んで居るといふ證據になるものと思はれます。さういふ點は、古い分類の仕方が古い書物の解釋の仕方に影響するのであります。後世になりましては、大分其の分類の大切な意味が失はれました。
これが先づ古い目録と新らしい目録との大體の比較のお話でありますが、勿論前にも申します通り、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、456-8]が目録を作りますには、一つの立派な著述としてやつたので、單に編纂した意味でないといふことを申しましたが、よくその意味を考へて行くと、其の時に既に目録學が立派に出來上つて居るのでありますけれども、それが段々支那に於て次第に其の意味が無くなつて墮落して來ました。其の目録の學問を復興した有力な人があります。南宋の時に鄭樵といふ人があります。通志を書いた人で、此の鄭樵が始めて目録學の復興を圖りました。通志には二十略といふものがありますが、其の中に藝文略といふものがありまして、目録のことが書いてあります。又校讐略といふものがありまして、校合することの理論やら方法やらが書いてあります。これで鄭樵が一家の目録學を著はして居るのでありまして、漢書の藝文志の缺點を論じ、それから北宋の時に出來ました崇文總目といふものゝ得失を論じて居ります。それで漢書の藝文志に対しては、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、456-16]のした方法を班固が物が分らずに改變したといふことを頻りに攻撃して居る。兎に角目録の學問に就ては、一家の見識を以ていろ/\の事を考へました。本を集めることから、分類の事、それから分類をするに就て、其の本の目録に小書きの注を書くべきものか書くべからざるものか、解題をすべきものかすべからざるものかといふことを論じて居る。それ等の中には奇拔な論がありまして、今日でも杜撰な解題の本などの弊に中つて居るものがある。例へば百中何々法といふ醫者の本がある。それを解釋して、百中とは病氣が何でも皆治るといふことだなどゝ解釋して居る。そんな解釋はすべからざるものであるといふやうなことを言うて居る。所がどうかすると、今日我邦で行はれて居る解題の本などにも、さういふ解題が折々あります。解題の意味と本の名の意味と重複して、本の名を見れば解題を見なくとも分るものを、強ひて解題して居るものがある。さういふことは、今日の目録の弊にも的中して居る。さういふ點に就ては、此の鄭樵といふ人は頭腦の明敏な人であつたと見えて、今日でも役に立つ説があります。
其の後、かういふ學問をする人は餘りありませぬ。國史經籍志を書いた明の焦※[#「※」は「立」+「宏」−「宀」、よみは「こう」、第4水準2-83-25、457-8]もさういふ心があつたに相違ないが、鄭樵の如く細かな意見をはつきり現はして書いたものはありませぬ。國史經籍志の末にも校合の記録はあるが、目録學として精細な内容に關係して書いたのはありませぬ。清朝で四庫全書總目を作る時になつて、天下の學者を集めて、有名な紀※[#「※」は「韵」−「立」、読みは「いん」、第3水準1-85-12、457-11]といふ人が總裁をして作つたのでありますが、此の時に目録が復興しましたけれども、その學問はまだ興りません。大勢の學者を寄せて編纂をするのでありますから、紀※[#「※」は「韵」−「立」、読みは「いん」、第3水準1-85-12、457-12]其の人の頭の中には立派な意見がありましたのでせうが、其の總論として目録學を形作るやうな、はつきりした著述は現はれて居りませぬ。その頃明かに目録學の意味を現はして、殆ど一つの學問として認められるやうにしたのは章學誠といふ人で、文史通義といふ本を書きましたが、其の外に校讐通義といふものを書いて居る。この校讐通義は單に三卷の微々たる本でありますが、其の中一卷が校讐の總論であつて、第二卷第三卷は漢書藝文志の評論であります。それから鄭樵の意見を評論し、焦※[#「※」は「立」+「宏」−「宀」、よみは「こう」、第4水準2-83-25、457-16]の國史經籍志の意見なども評論して居るが、これが非常に組織的に目録の學問を論じて居る。それで目録の學問といふものは、これは劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、457-18]の昔やつた法則を復興すればよいものである、鄭樵は種々議論を附けて居るが、未だ至らざる所がある、謂はゞ劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、458-1]が書物の評論を爲し、得失を論じ、源流を正して、役に立つやうに批評するといふのが、目録の眞意である、其の通りにすれば眞の目録である、其の外は目録にならぬといふ議論であります。しかしそれだからというて、七略の昔に復さうといふのではない、今日の四部の分け方は、どうしても七略の昔に復せぬ理由がある。それで種々其の理由を擧げて居るが、例へば昔は歴史は經書の一部分であつた、所が其の後になつて、歴史の種類が澤山になると、元のやうに經書の一部分に繰り込む譯にいかぬ。其の外、一種妙な鄙俗な記述でありますが、詩文の評などがある。昔は詩文の評というても、皆源流を論じ、成立ちを論じ、さうして得失を論じて居つたものでありますが、後になつて、それ程の大著述をする力もない人が、ほんの頭の上で自分の面白いと思つた所を批評する、例へば僞物でありませうけれども、蘇老泉が批評をした孟子だとかいふものがある、これ等のものは著述といふ程の價値はないが、何か自分の意見を書いたものであるから、之を全く書目の中から取り去る譯にいかぬ。さういふものが既に新たに出來て來る以上は、どうしても昔の七略の法に復す譯にはいかぬ。今日書物の分類を四部にすることは已むを得ないことであつて、必要に應じてやつたのであるから仕方がない。しかしながら其の目録を作る意味だけは、劉向、劉※[#「※」は「音+欠」、よみは「きん」、第3水準1-86-32、458-12]の昔に復して、さうして其の本の源流を論じ、其の本の得失を論じ、それから何處が亡くなつて居るとか、存在して居るとかいふことを論じてやるべきことで、單に鄭樵のやうに解釋を省いて、書名だけを書いて置けばよいといふやうな議論はいかぬと言つて居る。此の人の議論は勿論鄭樵の議論に刺戟されて出來たのでありますけれども、鄭樵のよりは一段と意見が進歩をしまして、さうして支那の本はどういふやうにして出來上つたか、目録はどういふやうに編纂すべきものであるかといふことまでも根本から論じておりまして、支那の目録に關する意見としては、最も完全に、最も明快なものであります。それで今日に於て支那の目録の學問を知らうといふのには、どうしても此の章學誠の文史通義、殊に校讐通義といふものを讀まなければならぬと思ひます。私がこれまで段々申しました所の大體も、謂はゞ其の全體は校讐通義の敷衍をしたやうなものでありまして、一々特別に自分の考で言つた譯ではありませぬ。しかし何處が章學誠の議論で、何處が私の敷衍した處であるかと言はれると、一寸明かに御答が出來ませぬが、大體私は章學誠の本を平常愛讀して居りまして、常に記憶して居る所に依つて大體お話をいたしました。
つまり支那の目録といふものは如何に變じたか、昔と今との得失はどういふものであるか、目録學はどういふやうに成立つて居るかといふことを、大體申上げたつもりであります。尤も此の外の支那の目録には、佛教の目録が大部分を占めて居ります。さうして佛教の目録は完全に出來て居る。どの點から見ても搜し出せるやうな方法を取つて居る。書名から引出せる、佛教の本は大部分は飜譯でありますから、飜譯者の方からも引出せる、有らゆる方面から引出せるやうに進歩して居る。これは目録學を離れて、檢索の方から申しますと、開元並びに貞元の釋教録などゝいふものは、大變進歩した方法を取つて居ると思ひます。これに就ては、勿論特別に論ずる價値は十分にあります。しかしながら佛教の目録を論ずるといふことは、手數のかゝることでありまして、私はそれに暗いのであります。今日は私の平生承知して居る事柄に依つて、其の大體を茲に申述べた次第であります。長い間清聽を涜しました。
(大正二年大阪府立圖書館に於て圖書館協會大會講演)[#ポイントを下げて地付き]
底本:「内藤湖南全集 第十二巻」筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日発行
1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「支那目録學」京都大学東洋史学科特殊講義
1926(大正15)年4〜6月、未刊
初出:大阪府立図書館における図書館協会大会講演
1913(大正2)年
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2000年12月26日公開
2003年5月25日修正
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