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支那古典學の研究法に就きて
内藤湖南

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 支那を解釋するには、支那人が是迄積み上げた事業と云ふ者を十分に研究して見なければならぬ。其の事業は一口に言へば文化であるが、その中には、政治もあれば、文學もあり、藝術もあり、乃至は土工の遺物もあつて、迚も一人の力の窮め得べからざる所であるが、予は其の立場として、支那民族發展の跡を繹ねて、その文化を刔剔し、之を理解する爲めの古典學研究について、茲に自己の經驗から得た方法を説明して見ようと思ふ。
 支那の古典學は、第一は經學であるが、それにも漢魏以來明清に至る各時代には、その時代々々の特色があつたが、大體に於て古典學の研究は唐宋から起つたと云つても宜い。漢人は學問に家法を重んじ、儒林の間には各家の師法と云ふ者があつて、弟子を以て師に紹ぐと云ふのだから、從つて新意を出すと云ふ樣なこともあまりなかつた。次いで六朝人と唐人とは所謂箋疏の學問で、漢人師法の學問について、その意義を鮮明にするに努めたが、經書を分剖解析すると云ふ樣なことは一向なかつたのである。尤も漢代には特出せる評論家があつた。それは有名なる劉向、其の子※[#「音+欠」、読みは「きん」、第3水準1-86-32、159-11]の二人である。劉向は漢の王孫で、現今存在して居る漢以前の古典と云ふ者は大抵向※[#「音+欠」、読みは「きん」、第3水準1-86-32、159-11]父子の校訂に成つたものである。處が向※[#「音+欠」、読みは「きん」、第3水準1-86-32、159-12]父子の歿後はこの評論家と云ふ者が絶えてしまつた。
 唐人に至りて始めて經典に疑問を挾むの風が起り、宋に至つて盛んになつた。殊に朱子の一派の人などに至りては、經典の改竄までも敢てする樣になつたのである。勿論その頃の研究は、まだ學問の組織が十分に發達して居なかつた爲めに、その改竄といふものも常識で判斷して居る丈のことで、尚書に補訂をしても、其他禮記の改竄などに至りても、殆んど古本と面目を改める樣になつたが、その改竄の理由は何等の根據があつた爲めでなく、單に常識に訴へて、古書の意味を成さないと思つた處を武斷的に刪補したが、併しその反動の結果として、清朝の漢學派を生ずるに至つたのであるから、これも輕々に看過してはならぬ。
 宋人の餘弊とも見るべきは明人で、彼等は自分の心を師として、濫りに古典を改竄し、本文の増減をも心の儘にしたのである。清朝人は宋以來古書改竄の餘毒に懲りて、漢學派と云ふ者が起り、つとめて舊文を墨守する方向に傾き、殊に經書に至りては少しも改竄しないと云ふ立場から研究した爲めに、研究法も非常に完備して、近來西洋でする科學的古典學の研究と全く同樣になつたのである。それ程完備したに拘らず、その效果の割合に少なかつたのは、茲に一の越ゆべからざる限度を立て、一切の經文を疑はぬと云ふ墨守の弊が、又之を爲さしめたのである。
 清人が經典の文辭を疑はぬと云ふことは、宋人に比して謹愼と云へば謹愼である。けれども、その説を立てる上に於いて、何時も撞着するのは、その限度である。之が爲めに、窮經上より見れば、幾らか退歩の傾があつたと云つて宜い。經書を疑はぬと云ふ規矩は殊に古代史の研究に一方ならぬ支障を來したのである。即ち歴史の研究法から見れば、どうしても疑はねばならぬことも、經書に明文があると云つて、其の疑惑をその儘に存置すると云ふのが、清人の學弊である。
 併し近代になつてからは、公羊學が盛になつて、その結果として從來許鄭の學を根柢として、經書の解釋に於いて、其説を疑はぬことにして居た家法を破つて、公羊學の流行した西漢の後までは疑つても宜いと云ふことになつた。これは支那古典學の一進歩であるが、今一歩進んで公羊學のまだ盛にならぬ時代、即ち儒家が學問を統一しない時の學問を根柢として西漢の學を疑ふ樣になれば、茲に第二の進歩が生ずる譯である。最近に於いては多少さう云ふ傾向を持つた者もある。
 古典に對する研究が大體以上の傾向をもつて進んで居る處へ、一面に於いて、金文の研究が盛になつてからは、それに據つて經文に疑問を挾む人も出來たのである。けれども、この派の學問はまだ十分に盛大を極むべき運に向つて居ないが、近來殷墟の發掘によりて其の遺物から推して、新しい研究法を發見し、それを經學の準據とする人が出る樣になつた。これもまだ十分ではないが、併し大體に於いて、從來研究法の發達から考へて、その歸著すべき場所が明かに解る樣になつた。
 即ち從來の研究を概括すれば、乾隆嘉慶の間は許鄭の學が盛んであり、道光以後は公羊學に進み、さうして今後進むべき道は、先秦古典の研究から、金文、殷墟の遺物の研究に進むであらうといふことが明かである。この方法を以て新しい研究法を組み立てたならば、始めて支那古典學と云ふ者が、所謂科學的に進歩し得る者と思ふ。
 從來の研究の缺點、殊に日本の學者の缺點は、その研究法の組織が立たずに、單に或る書籍に就いて、專心に穿穴して、その點については非常に得る所があり、一經貫通の努力と成績とは賞するに餘りあれども、古典學の全體の組織には何等の加ふる所がなかつたのである。若くは寡聞を以て博大なる學問の一部分のみを取つて、その全體を判斷した爲めに、其の結論に於いて大なる誤謬を生じたのである。で、此等の學者の多くは何等の理由もなく漫然と或種の古書に信を置き、それを根柢として其他の書籍の價値を低く見積り、それによりて方法を立てるので、斯る缺點は獨り日本人のみならず、例の有名なる崔述の考信録なども、さう云ふ考によりて出來た者である。即ち尚書左傳など云ふ者を始めから確かな者と信じて、その成書の源委、事歴等に就いて何等の疑ふ所がなく、古史官の書いたものだから、是れ以上確かな者がないと斷じ、それ以外の古書は皆尚書や左傳に引當てゝ、それに合ふ所を事實とし、合はぬ處を否定すると云ふ樣な譯で、斯る研究法はどちらかと云へば、漢代の王充が著した論衡などに比してさへも常識を缺いて居る。論衡の説には、經書は久しく缺けて、その佚文が諸子百家に出て居る。故に諸子を以て經書の缺漏を補ふと云つてあるが、今から考へて見れば、實は經書と云ふ者を順次に晩出の書からして、上代にまで遡つて調べた上、割合に竄亂のない本に根據して、更に一段と舊い處を研究して行く方法を取るでなければ、確實に信憑すべき定論に達することが出來ないのである。古書の竄亂の箇所は、晩出の書によりて判斷することが出來るものである。かういふ考へ方からかりに研究の順序をまとめて述べて見れば、先づ劉向父子の遺著、漢藝文志、それから揚雄の法言、方言、王充の論衡と云ふ樣な、即ち前漢末、後漢初の著述を一の標準として、其の以前の古書がどこまで其の標準よりも古い實質を保存して居るか、又どこまで竄亂があるかと云ふことを一應判斷し、それから今一歩進んで、史記を中心として、同時代の董仲舒、それから今少し前の淮南子、賈誼新書とか云ふ者、即ち秦火の厄に罹つた後、古書が始めて世に出でた時、間もなく著述されたあらゆる本を標準として、その以前の本をしらべ、その竄亂の程度を知り、更に遡つて呂子春秋の如き戰國の著述に及ぶのである。呂子春秋は、その頃の百家の學者を集めて作つたものであるが、之を中心として韓非子、それから今少し上の荀子と云ふ樣な者、更に一段上の孟子、墨子と云ふ樣な者、その前後に關係ある管子、晏子春秋、國語、國策と云ふ樣な本によりて、更にその以前の古書を判斷し、それで始めて多少なりとも戰國の頃まで存在した經典の如何なる者たるかゞ解るのである。
 其れ以上の經典の實體を知らんと欲せば、金文による外ないが、金文はその遺物の眞贋を判斷する爲に茲に一の困難に遭遇する。けれどもその金文と遺物の研究とが相俟つて、次第に歩を進めつゝあることは、近年に於いて著しい傾向である。概略を云ふならば、今日まで現はれた金文の確實なものから推して周初、成王康王當時のものと、西周末夷※[#「がんだれ+萬」、読みは「れい」、第3水準1-14-84、162-17]宣幽時代のものとは確然たる區別がある。即ち成康時代のものは、今日の尚書の周書に類し、西周末のものは詩に類して居る。で、この標準を以て研究すれば、經書の最古最大なる二つ丈は、精細な研究が出來るのである。
 併し其れ丈で滿足することが出來ぬ。即ち前にも云つた如く、殷墟の遺物を標準として、古書の解剖に從事して、漸く支那文化の根原がおぼろげながら明かになるのである。殷墟の遺物によりて、虞夏書又は洪範などの眞僞竄亂を調べて見たならば、必ず發明する所が多い筈である。
 若し一層遡つた時代、即ち殷墟以上の古蹟が發見されたならば、一層信憑するに足る文化史の源泉を繹ねることが出來て、支那研究は一層進歩するであらう。今殷墟の遺物で見れば、その多くは石器、骨器の類であるが、多少銅器が出て居る、それ故支那の文化史はいまだ銅器時代から以上を見ることが出來ないが、此際銅器の全く出ない古蹟が發見さるれば、支那文化の起源が幾千年前にあるか、或は何時代に當るかを研究し得るのであるが、遺憾ながら未だ發見されない。けれども、何處かにさう云ふ古蹟の存在することは疑ふべからざる所で、其の場所も大體どの地方と云ふことが解つて居るから、何時かは發掘しうることゝ信ずる。
 又この外に新しい舊い神話傳説を含んだものを研究する必要がある。たとへば詩、楚辭、山海經と云ふ樣な者、それ等のものが主となり、それによりて緯書その他の研究が、古典學に貢獻することも少なくないだらうと思ふ。
 是の如き研究法は勿論一朝一夕には出來ないのみならず、如何に聰明な人でも、一人や二人の手で出來ることでないが、要するに、研究の方法も定めず、單に部分的の考證を事として居ては、いつまでたつても、信用するに足る結論を得ることが出來ない。殊に今日は清人の如く經書を限界として、それ以上に疑問を挾むものを罪惡とする樣な考へが必要でない。尤も方針のない研究法で、妄りに古書を疑ふのでは何等の利益もないが、少なくとも以上の樣な方針を立てゝ進んで行くならば、研究に多少の確實味を加へ得ると信ずる。然う云ふ方法にして始めて支那古典學の基礎が立ち、古代史の研究も出來るのである。
 これ等の事業は今日に於いては、支那の學者よりも寧ろ日本の學者が着手する方が、自由な便宜があると思ふので、余は同志の人々とさう云ふ方向に進んで行きたいと思ふのである、(口授筆記)
(大正六年二月發行「東方時論」第二卷第二號)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「東方時論」
   1917(大正6)年2月発行、第二巻第二号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月21日公開
2003年5月25日修正
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