青空文庫アーカイブ
應仁の亂に就て
内藤湖南
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)武士《サムラヒ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)それが所謂|具注《グチユウ》暦であります。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)屡※[#「※」は「二の字点」、「々」と同じ、第3水準1-2-22、136-4]斯ういふ
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゾロ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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私は應仁の亂に就て申上げることになつて居りますが、私がこんな事をお話するのは一體他流試合と申すもので、一寸も私の專門に關係のないことであります、が大分若い時に本を何といふことなしに無暗に讀んだ時分に、いろいろ此時代のものを讀んだ事がありますので、それを思ひ出して少しばかり申上げることに致しました。それももう少し調べてお話するといゝのですが、一寸も調べる時間がないので、頼りない記憶で申上げるんですから、間違があるかも知れませぬが、それは他流試合だけに御勘辨を願ひます。
兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。
大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだん/″\向上發展して行く記録であると言つていゝのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだん/\向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものゝ日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。
それは單に一通り現はれた所から申しましてもすぐ分ることでありますが、元來日本の社會は、つい近頃まで、地方に多數の貴族、即ち大名があつて、其の各々を中心として作られた集團から成立つて居たのであります。そこで今日多數の華族の中、堂上華族即ち公卿華族を除いた外の大名華族の家といふものは、大部分此の應仁の亂以後に出て來たものであります。今日大名華族の内で、應仁の亂以前から存在した家といふものは至つて少く、割に邊鄙な所に少しばかりあります、例へば九州では島津家だとか、極く小つぽけな伊東家などいふのがそれであります。勿論肥後の細川は前からあつたのでありますが、あの土地に前から居つたのではない、其他秋月鍋島など少しばかり九州土着の大名がありますけれども、其土着の大名にしても、多くは應仁の亂以後に出たのであります。四國中國などは殆ど應仁の亂以前の大名はないと言つていゝ位です。それから東の方では、半分神主で半分大名といふのに信州の諏訪家といふのがずつと前からありましたが、關東ではまづないと言つていゝ位であります。東北に參りますると少しあります、伊達とか南部とか、上杉佐竹とかいふ樣な家は應仁の亂以前からあつた家でありますが、それでさへも應仁の亂以前から其土地に土着して居つたといふのは極く僅かであります。二百六十藩もあつた多數の大名の内でそれ位しか數へられませぬ。
それと同時に、應仁の亂以前にありました家の多數は、皆應仁以後元龜天正の間の爭亂のため悉く滅亡して居ると言つてもいゝのです。昔、極く古くは氏族制度でありましたが、其時分には地方に神主のやうなものが多數ありまして、それらが土地人民を持つて居たのであります。それで今神主として殘つて居りますものに、出雲の千家、肥後の阿蘇、住吉の津守といふやうなのがありますが、皆小さなものになつて大名といふ程の力もなく、昔の面影はありませぬ。
それから源平以後、守護地頭などになりました多くの家も、大抵は皆應仁の亂以後の長い間の爭亂のために潰れてしまひました。それで應仁の亂以後百年ばかりの間といふものは、日本全體の身代の入れ替りであります。其以前にあつた多數の家は殆ど悉く潰れて、それから以後今日迄繼續してゐる家は悉く新しく起つた家であります。斯ういふことから考へると、應仁の亂といふものは全く日本を新しくしてしまつたのであります。近頃改造といふ言葉が流行りますが、應仁の亂ほど大きな改造はありませぬ。この節の勞働爭議などは、あれが改造の緒論のやうに言つて居りますが、あんな事では到底駄目です、改造といふからには應仁の亂のやうに徹底した騒動がなければ問題になりませぬ。それで改造といふ事が結構なら應仁の亂位徹底した騒動を起すがよからうと思ひます。
さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。が併し私は澤山の本を讀んだといふ譯でありませぬから、僅かな材料でお話するのです、その材料も專門の側から見ると又胡散臭い材料があるかも知れませぬが、併しそれも構はぬと思ひます。事實が確かであつても無くても大體其時代においてさういふ風な考、さういふ風な氣分があつたといふ事が判れば澤山でありますから、強ひて事實を穿鑿する必要もありませぬ、唯だ其時分の氣分の判る材料でお話して見ようと思ひます。併し私の材料といふのは要するに是だけ(本を指示して)ですから、是を見ても如何に材料が貧弱であり、極めて平凡なものであるかといふ事が分ります。
私はまづ應仁の亂といふものに就て、若い時分に本を讀み、今でも記憶してゐる事に就て述べます。それは其頃有名だつた一條禪閤兼良といふ人の事であります、此人は應仁の亂の時代の人でありまして、其位地は關白にまで上り、さうして其學才は當時の人に拔出て居りました、いや當時のみならず恐らく日本歴史の關白の内で最も學才のあつた一人であると思ひます。此人の書いたものに「日本紀纂疏」と言つて日本紀神代卷の注を漢文で書いた本があります、此人は又私共のやる支那の學問に就ても非常に博學でありましたが、是に依て、其當時まだ日本にも斯ういふ人々の間には漢籍の材料が隨分あつたといふ事が分るのであります。併しさういふ澤山の材料も應仁の亂と共に亡びたと言つていゝのであります、そこが日本の文明を全く新しくした所以であつて、多數の材料が皆なくなつて了つたといふ事は却て結構であつたかも知れませぬ。
所が今日は此人の「日本紀纂疏」の事をお話するのではありませぬ、極く平凡な本の方をお話するのであります、それは「樵談治要」といふ本でありまして、群書類從に出てゐる本であります。是は應仁の亂の後、將軍でありました足利義尚のために治國の要道を説いたものだといふ事でありまして、極く簡單な本でありますが、併し是で其當時の事が頗るよく分るのであります。尤も此人が治國の要道として説いた議論――此人の經綸とも言ふべきものが偉いといふのではありませぬ。どちらかと言へば此人の經綸は一向詰らないものでありまして、夫程博識な人でありますけれども、此人の經綸といふものは、やはり昔からの貴族政治の習慣に囚はれて少しも新しい事を考へて居りませぬ。のみならず其當時の勢力あるものに幾らか阿附する傾きがあつて、眞に自分の意見を眞直ぐに言つたのではないと思はれる節もあります。其一つを申しますと、其本の中に女が政治を執ることが書いてあるのです、併しそれは今日の所謂女子參政權の問題ぢやありませんから御安心下さい(笑聲起る)、詰りそれは簾中より政治を行ふ事で、將軍家などの奥向から表の政治に喙を入れる事でありますが、それに就て兼良の言つてゐる事は、之に贊成をしてゐるやうな口調であります。即ち女が簾中から政治をするといふことは古來どこでも弊害が多いといふことを言はれて居るのでありますが、兼良は其人さへよければいゝといふやうな頗る曖昧な事を言つてお茶を濁して居ります。是は當時義政の御臺所が大分政令に干與していろ/\な事をし、應仁の亂も實は義政の御臺所が根本であると言はれる位に勢力のあるものであつたからして、其勢力に迎合してさういふことを書いたのではないかと思はれるのであります。さういふ點は此人の最も詰らない點であります。其他何れも舊來の習慣を維持する議論で、何にも新しい議論を考へて居りませぬ。其點になると南北朝時代の北畠親房などは、當時の政治に關して古今の史實を參考して、立派に批評し、且つ從來の政治の外に新しい政治のやり方を考へまして、公卿と武家と一致する、公卿が武家の事をもするといふ新しい意味の事を考へた經綸とは較べ物にならぬのであります。唯詰らない議論でも、又其中に當時の實状を非常によく現はしてゐるところが大切であります。
私が始めて讀んだ時からいつも忘れずに居つた事は「足輕といふ者長く停止せらるべき事」といふ一ヶ條であります、足輕即ち武士《サムラヒ》以下にある所の歩卒が亂暴をするといふ事に就て非常に憤慨してゐるのであります。足輕といふものは舊記などにも書いてないと言ふことですが、塙檢校の調べによると、源平盛衰記、太平記などにも載つて居るさうであります。勿論其時代にはこれがまだ少しも重要な位置には居らなかつたのです、所がこの應仁の亂のため此足輕といふ階級が目立つやうになつたのです。それで
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昔より天下の亂るゝことは侍れど、足輕といふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をことめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來たる足がるは、超過したる惡黨なり、其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし、さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財寶を見さぐる事は、ひとへにひる強盗といふべし、かゝるためしは先代未聞のこと也。
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と斯う書いてあります。一體應仁の亂に實際京都で戰爭があつたのは僅か三四年の間であります。十年間も續いた亂であると申しましても、京都に戰爭のあつたのは三四年間でありますが、其三四年間ばかりの間に洛中洛外の公卿門跡が悉く燒き拂はれたのであります。而もそれが悉く足輕の所行でありましたので、其事が樵談治要に出てゐるのであります。そして敵の立て籠つた所は仕方がないにしても、さうでもない所を打ち壞し又は火を掛けて燒き拂ひ或は財寶を掠め歩くといふ事は偏へにひる強盗といふべしと言つて居ります。そして是を取締らないといふと政治が出來んといふ事を言つてゐますが、是は即ち貴族階級の人から見た最も痛切な感じであつたに違ひないのであります。當時應仁の亂を見て貴族階級の人が痛切に感じた事は實際さういふ事であつたのであります。
さういふ風に足輕が亂妨し跋扈したといふ事に就てはまだ面白いことが書いてあります。私は此前に日本の肖像畫の事を話したことがありまして、それは「歴史と地理」の鎌倉時代の文化の所に出て居りますが、それに私は足利時代は亂世である、亂世の時には時々個人の能力あるものが非常に現はれるものであるが、足利時代は亂世であるに拘らず一向天才が現はれない、個人の能力のすぐれた者が頭を出さない時代であつたといふ事を申しました。勿論是は大體から考へて言つた事で、一々證據を擧げる段になると多少の取除を生ずることは勿論でありますが、しかしながら樵談治要を見ると、當時の人が又さういふ事を感じて居つたといふ事が分りまして非常に面白く思ふのであります。即ち足輕の事を説いて居る所に引きつづき、
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是はしかしながら武藝のすたるゝ所に、かゝる事は出來れり。名ある侍の戰ふべき所を、かれらにぬきゝせたるゆへなるべし。されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして、當座の恥辱のみならず、末代までの瑕瑾を殘せるたぐひもありとぞ聞えし。
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と斯ういふ事が書いてあります、其當時の武士といふものには優れたるものが無く、唯だ足輕が數が多いか腕つ節が強いかといふ事に依て無暗に跋扈し、さうして勢ひに任せて亂妨狼藉をしてゐたのであります。詰り武士がだん/\修養がなくなつて人材が乏しくなり、さうして一番階級の下な修養のない腕つ節の強い者が勢ひを得るやうになつて來たのであります。それを一條禪閤兼良なども當時さういふ風に感じて居たのであります。
足利時代は全く天才のなかつた時代であつたから、應仁以後百年間といふものは爭亂の收まる時期がなく、戰亂が相續いて居つたのですが、是は歴史上屡※[#「※」は「二の字点」、「々」と同じ、第3水準1-2-22、136-4]斯ういふ事があるものであります。支那でも唐の時代から五代の末頃迄がてうど斯ういふ時代で、恐らく今日の支那もさういふ風になつてゐると思ひます。今日の騒亂は大した騒亂でもないが少しも統一されないのは、個人のすぐれた能力を持つた人がないからで、夫でいつ迄も騒亂が收まらぬのであります、併し乍ら斯ういふ時代には時としてどうかすると最後に非常にすぐれた人が出て來るものであります。兎に角一條禪閤兼良といふ人は舊來の階級をやかましく言つて統一の出來て居つた時代から見るので、この足輕の亂妨がよほど心外に思はれたものと見えます。それで「左もこそ下剋上の世ならめ」と書いてゐますが、近頃どうかすると國史をやる人の間に、此の下剋上の意味を勘違ひして居る人があるやうで、それが教科書などにもその誤つた見方のままに書いてあるのがありますが、下剋上といふことを、足利の下に細川、畠山の管領が跋扈して居り、其細川の下に三好、三好の下に松永が跋扈するといふ風に、下の者が順々に上を抑へ付けて行くのを下剋上といふやうに考へるものがあります。無論それも下剋上であるには違ひありますまいが、一條禪閤兼良が感じた下剋上はそんな生温いものではありませぬ。世の中を一時に暗黒にして了はうといふ程の時代を直接に見て感じた下剋上であるから、それは單に足利の下に細川、細川の下に三好といふ風に順々に下の者が跋扈して行くといふやうな、そんな生温いことを考へて居つたのではありませぬ。最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つたのであるが、此の事に限らず、日本の歴史家は深刻な事を平凡に解釋することが歴史家の職務であるやうに考へてゐるやうです(笑聲起る)。これらが他流試合で、又惡口を言ふと反動が怖しいからやめます(笑聲起る)。
所が一方には又下剋上――下の階級の方から此時代に對して考へる其感想を現はしたものがあるのであります。其事の載つて居る本は同じ時代の著述ではなく、もう少し後の時代のものでありませう、しかし其中に書いてあることは、同じ應仁頃の事として書いてあります。天文、永禄頃の本とかいふのに「塵塚《チリヅカ》物語」といふ本があります。其終りの處に山名宗全が或る大臣と面談したといふことが書いてありますが、是は大變面白いのです。山名宗全が應仁の亂の頃或る大臣家に參つてさうして亂世のため諸人が苦しむさまなど樣々物語りした其時に其大臣がいろ/\古い例を引出した。是はてうど一條禪閤兼良のやうな人でありませう。『さま/″\賢く申されけるに宗全は臆したる色もなく』あなたの言ふのは一應尤もであるが例を引かれるのはいけない、『例といふ文字をば向後時といふ文字にかへて御心得あるべし』といふ意味の事を言つて居ります。昔の事を例に言つてゐるが、例といふものは實際變つてゐるものである、例へば即位式は大極殿で執り行ふといふのが例だといふ事になつて居るが、大極殿がなくなると仕方なしに別殿で行ふ、別殿もなくなると又何か其時々に相應した處で行はなければならぬ。それで大法不易の政道は例を引いてもいゝが、時々に變り、時に應じてやるべきものは例にしてはいけない、時を知らないからいけないといふことを書いてあります。
是は事實あつたことかどうか分りませぬで……或は嘘の話かも知れませぬ、假令嘘でも構ひませぬ、當時の人にさういふ考があつたといふことは是で分ります。即ち從來の嚴重なる階級制度に對し、制度といふものは時勢に連れて變化すべきものだといふ考のあつた事が分るのであります。唯山名宗全に言はしたのがよほど面白いのであつて、宗全が更に言ふことに、自分如き匹夫があなたの所へ來て斯うして話しするといふ事も例のないことだが、今日はそれが出來るではないか、それが時なるべしと言つてゐるのでありまして、そこらが餘程皮肉に出來て居つて、當時の状態をよく現はして居ります。是は樵談治要と共に當時の状態相應の政治に對する意見であつて、さういふ意見が當時の人にあつた事が分るのであります。
それで此の塵塚物語といふ本にかいてある事は本當か嘘か分らないですが、餘程面白い事の澤山ある本でありまして、足利時代殊に應仁前後に非常に博奕が流行つたといふ事を書いてある所など餘程面白く、近頃の支那を其儘見るやうであります。今でこそ日本は支那などに對して非常に秩序の立つた偉い立派な國のやうに言つて居りますが、矢張り時に依ては支那同樣の事が隨分あつたのであります。此の文中、博奕の事の中にも、當時足利時代に有名な徳政――即ち何年間に一遍凡ての貸借を帳消にしてしまふといふ政治の行はれた事なども書いてありますが、兎に角非常に博奕が盛んでありました。始めの間は武士《サムラヒ》など自分の甲冑を質に置いてやつたものです、それでどうかすると甲だけを持つて冑を持たないといふやうな武士もあつて、隨分見つともない話であつたが、戰爭で高名をする者は却てそのやうな者に多かつたといつてある。それが後に應仁の亂の時分になると、自分のものを質において博奕をやるのでは詰らないといふので、他《ヒト》の財産を賭けて博奕をやるやうになりました。どこそこの寺には大變寶物があるらしいからそれを賭けてやるといふのでありまして、是はよほど進歩した博奕のやり方であります(笑聲起る)。この位共産主義のいゝ例はないと思ひます。共産主義もこゝまで徹底しなければ駄目です(笑聲起る)。斯ういふ時代といふものは、全く下剋上と同時に他《ヒト》のもの自分のものゝ見境がつかないといふ面白い現象が起つて居るといふことが分るのであります。
詰らない事を言つて居ると話が長くなりますが、そんな事が當時の状態であつたのでありまして、是が當時の文化にどういふ關係があつたかと言ひまするに、一條禪閤兼良といふ人は殊に舊い文化の滅亡に就て非常に慨嘆した人であります。それは一條家には非常に澤山の書籍記録などがありましたが、應仁の亂の時に、自分の家などは勿論燒かれるといふことを前から覺悟して居りましたから、自分が京都を立退いて暫く隱れる時に、それは覺悟の前で立退き、藏だけは番人を置いて立ち退いたのです。所が果して大變な騒動になりました。それで屋敷位はどうしても燒かれるだらうが藏だけは殘るだらうと思つて居りました所が、一條家の家來共の智慧は禪閤以上に出て、藏にはいゝ物があるに違ひないといふので皆引出して、書物が貴いとか舊記が大事だといふやうな事にはお構ひなく、さういふものを皆どうかしてしまつたのです。當時の記録によれば、一條家の文書七百合が街路に散亂したといふことで、それを非常に悲んだといふことでありますが、樵談治要の著述などもさういふ所から來てゐるのでありませう。又斯ういふ人の事でありますから、古い文化を如何にしてか後に傳へたいといふ考が、燒き打ちをされてなくなる際においてもあつたに違ひないのであります。
それからやはり群書類從の中にあります本で、兼良の作の「小夜の寝覺」といふものがあります、其當時現存の書籍が出來上る迄の來歴を書いたものでありますが、それには昔の修業の仕方をも書いてあります、詰り昔の文化を傳へる爲に書いたのであります。殊に私の感じたのは樂人豐原統秋といふ人の書いた體源抄といふ本でありまして、此の體源抄の體源は其の横に豐原の文字のある文字を用ゐて書名の中に豐原といふことを現はしたのであります。此家は代々笙の家でありまして、今でも其末孫が豐《ブンノ》某と言つて在りますが、此の豐原といふ人が體源抄を書いた序文を見ますと、其當時の戰爭が應仁元年正月上御霊の戰爭の頃からだん/\烈しくなつて來て、さうして天子も室町の足利の第に行幸される、それは足利に行幸されたと申しまするが、實は細川勝元が何かの時に自分の都合のために臨時行幸を仰いで取り込めておいたのであります。さういふ事からして非常に世の中が騒動になつて、樂人の秘傳などを傳へることが却々難儀でありましたが、其間において兎に角自分で非常に難儀して先祖代々の秘傳を傳へたといふことがそれに委しく書いてあります。さうして體源抄といふのはよほど大部の著述でありますけれども、それが單に音樂の秘傳を傳へるといふことばかりでなしに、何んでも自分が覺えただけのことは皆書込んで居るのであります。そして此人は法華經の信者で何かといふとすぐ南無妙法蓮華經を書いて居ります。今日から見れば殆ど著述の體裁をなさぬと言つてもいゝ位でありますけれども、實際應仁の亂に會つた人の考から見ると、少しでも昔から傳はつたものは、何んでものちに傳へたいといふ所から何も彼も書き込んだものと思はれます。兎に角騒亂の時に方つて古代文化の一端でも後に傳へたいといふ考が當時の人にあつたのでありませう。
尤も其後になりまして後陽成天皇の時、即ち豐臣秀吉の時代になつて天下が治まるといふと、舊儀復興が盛んになりまして、さういふ僅かに傳へられて居つた本などを根據として凡ての朝廷の儀式を復興しました。勿論昔のやうに完全に復古は出來ないけれども、是等の事は皆斯ういふ人が骨折つて古代の文化を殘さうといふ努力をした效能が現はれたのであります。
併し當時の全體の傾きはそれと違ひまして、凡ての文化といふものが大體特別な階級即ち當時迄政治に勢力のあつた貴族の階級から一般の階級に普及するといふのが、當時の實際の模樣であつたと思ひます。それは一つは自然に已むを得ざる所から來た點もありますが、それらの事を一二の例を擧げて申しますると、まづ伊勢の大神宮の維持法であります。伊勢の大神宮といふものは御承知の通り日本天子の宗廟でありまして大變大切なものであるから、昔から伊勢の大神宮と言へば一般の人民には參拜を許されてなかつたのであります、それで延暦の儀式帳などにも、人民の拜禮のことはないといふことであります。此時分には朝廷より十分の御保護があつて、神宮に仕ふる家々も何不足なく暮して居つたのですが、鎌倉足利と引き續き朝廷がだん/″\衰微して來るといふと、伊勢の大神宮にいろ/\差上げる貢物がだん/″\出來なくなつて來たのです、さうして最も烈しい打撃は應仁の亂の前後から起て來たのであります。所がさういふ時には又其時相應な智慧が出るものでありまして、京都吉田山へ伊勢の大神宮が特別に飛移られたといふことを、吉田の神主が唱へ出した。うまい處へ付け込んだもので、さうすると朝廷でも大いに負擔を免れて結構な事であるから、已に之に從はんとせられたが、伊勢の禰宜たちからやかましく訴訟して、飛移り一件は消滅したけれども、此頃から神宮は益々維持費を得ることが困難になつて來たので、そこで考へられたのが御師《オシ》等が維持策としての伊勢の講中と唱へるものであります。即ち神宮へ參詣する講であります。是は平田篤胤などの國學者の説では、佛家の方の講のしかたを應用して伊勢の講中が出來たのだといふことを言つて居りますが多分さうでせう。其講中が出來ると、朝廷から保護を受けることの代りに日本の一般人民から受けるといふことになりますので、御師が一般參拜人の取次をして誰でも參拜せしめる仕掛にしたのであります。
尚是等の事に就ては、平田の前から尾張東照宮の神主で吉見幸和といふ人があり、伊勢の外宮の神主などが唱へる妄説の由來を研究しまして、平田なども是に依つたのであります。元來内宮は天照大神、外宮は豐受大神でありますが、豐受大神といふのは言ふ迄もなく天照大神のお供へ物、――召上る物を掌る神といふ事で、位の低いものであります。所が其位の低い外宮の神主が内宮の神主に對抗して同等なものといふことにするため、いろ/\古くから理窟を作ることを考へました。さうして神道に關する著述も外宮の神主、度會家行などから起つたのでありまして、低い地位に居つた外宮の神主の方が智慧も早く發達して、外部に對し信者を得るといふことを考へました。それで御師も外宮の方が盛んであつたといふことであります。兎に角日本國民一般の參拜を認めてそれに依て維持しようといふことになりました、御師は何國何村は自分の持分といふ風に分けて得意を持つて居りました。それで時々どこの講中を賣買するとか、何百人を讓渡すとかいふやうな證文が今日でも伊勢の神宮文庫の中に所藏されて居ります。
さういふ風に却々うまい具合に考へまして、朝廷からの保護がなくなると一般人民に依て維持することを考へたのであります。併し是は伊勢ばかりでもありませぬ。寺でもさうでありまして高野山にもあります。高野山の塔頭《タツチユウ》で何々[#原文は「何何」、改行のため]の國は何々院が持てゐるといふ風にして、高野聖といふものが國々を勸化して維持したのであります。さういふ譯で當時朝廷とか主なる貴族即ち藤原氏といふやうなものから保護されて居つたのが、亂世になつてそれが頼まれぬ處から、一般人民の力に依て維持されるやうになつたのは、應仁を中心にした足利時代の一般の状態であります。是に對しては平田篤胤などもよほど面白い解釋をして居りまして、元來昔は制度としては出來ない筈であつたのが、一般にさういふ風に大神宮へ物を奉るやうになり、家毎に神の棚をしつらへて祭りをするといふのは、偏へに神の御心でかやうに成り來つたること申すまでもないと言つて居ります。詰り耶蘇教でいふ神の攝理とでもいふやうなものでありませうが(笑聲起る)是はよほど面白い見方でありまして、貴族時代の信仰から一般の信仰に移りゆくさまをうまく言ひ表してあります。
それから伊勢で暦を作りました、是は假名で極く分り易く書いた暦であります、元來暦といふものは、京都の賀茂、安倍の家が特權を持つて居つた所のものであります。其家で作る特別の暦は天子を始め貴族の人々のために何部かを作つて配るだけで、それが所謂|具注《グチユウ》暦であります。此具注暦は其中に日記を書く例になつて居ります、詰り職務のある人が日記を書くために暦が作られたのであります。所が伊勢の町人が祭主の藤浪家に頼んで、安倍氏の土御門家から暦の寫本を貰ひ、それを假名暦にして御師の土産として配つたのが、しまひには商賣になつて金さへ出せば誰でも買ふことが出來るといふやうに、暦の頒布が平民的となつたのであります。是は神さまの信仰を擴めるに就ての副業でありますが、副業でも何でも平民的の傾きを帶びて來て居るといふことが此時代の特色であります。
下剋上の世の中でありまして、下の者が跋扈して上の者が屏息するといふのですから、日本の一番大事な尊王といふやうな事には果してどういふ影響を及ぼしたかと言ひますと、當時は皇室の式微の時代であつて、戰國時代の末には御所の中で子供が遊んで居つたといふ程ですから衰微して居つたには間違ありませぬ。けれども其一面においてさういふ風な神さまの信仰――天子の宗廟に對する信仰が朝廷の保護から離れて人民の信仰となつたがために、却て一種の神秘的尊王心を養つたことは非常なものであります。そして其後の日本の尊王心の歴史から申しましても、此間に一般人民の胸裡に染み込んだ敬神の念と共に養はれた尊王心は非常なものであると思ひます。それで一時朝廷が衰へたといふ事は、日本の尊王心の根本には殆ど影響しないのであつて、寧ろ其のために尊王心を一部貴族の占有から離して一般人民の間に普及さしたといふ效能があるのであります。斯ういふ事が當時の一つの現象であります。
其他やはり其當時の一種の信仰目的とでも申しますか、兎に角日本の道徳の經典といふやうなものが組織せられ掛けて來た事實があります。即ちかの菅公は和魂漢才と申されたと言ひますが、昔の貴族政治時代以來澤山ある學藝を、どれもこれも凡てを修養しなければ一人前の公卿なり縉紳なりになれない譯ですが、斯ういふ亂世で面倒な修養が出來なくなるに從つて、さういふものが或る一部分に偏る傾きが生じて來ました。即ち其當時最も盛んに研究された――研究されたといふよりは寧ろ信仰の目的になつた本は何かといふと、日本紀の神代の卷であります。一條禪閤兼良の日本紀纂疏といふのも神代の卷だけの註を書いたもので、是は有ゆる和漢の例を引いて非常な博識を以て書いて居りますが、其目的はやはり日本紀の神代の卷を尊い經典にするため書いたのであります。此傾きは必ずしも一條禪閤兼良から來た譯ではなく、もう少し前からでありますが、それはやはり蒙古襲來などがよほど大きな影響を持つてゐるやうであります。そしてその蒙古襲來の時、國難が救はれたのは全く神の力だといふ考が一般に起つて來ましたが、南北朝頃から北畠親房、忌部正通など「日本は神國なり」といふやうなことを云ひ出しました。其後徳川の時代になつて林道春が「神社考」を書いた時にも、日本は神國なりと言ふことを書いて居ります。さういふ譯で應仁の亂頃にも外に對しては南北朝以來の思想が續いて來て居りまして、日本紀の神代の卷は立派な經典となり、支那の四書五經といふやうな考になりました。是は日本といふ國が如何なる騒亂の間に年が經ちましても、皇室はちやんと存在して、いつ迄も日本の眞の状態といふものは變らない、一定不變のものがあるといふことを主張する代りに、日本紀の神代の卷といふものが立派な一つの經典となつたのであります。是等は當時の信仰状態の變化といはれないが、從來不確實だつた信仰状態が、此時代に於て確定することになつて來たと言つていゝのであります。此應仁時代は亂世でありますけれども、さういふ國民の思想統一の上には非常に效果があつたと言へるのであります。
それから一つは其當時の公卿などの生活状態から來たのでありますが、公卿の生活状態が困難な處からして、神社とか寺院とかゞ一般の信仰に依つて維持される事を考へたと同じやうに、公卿も何か自分の家業に依て生活する道を考へるやうになつて、そこにいろ/\な傳授をするといふことが起りました。例へば古今集などの傳授をする事によつて生活するやうになつたのでありまして、是はよほど面白い考であります。それは今日やつてもきつと面白いと思ひます、詰り智識階級の自衞法であります(笑聲起る)。いつでも騒動があると――近頃も少し世の中がをかしくなると一方に資本家一方に勞働者があつて騒ぎ出し、其間でいつも困つてゐるのは智識階級である、こゝに集つてゐる諸君も僕等もさうでありますが、智識階級はいつでも板挾みになります。がそれを如何にして維持するかといふことに就て少しもいゝ智慧を出した奴がない。然るに足利時代のものは之を考へて傳授といふことをやつたのです。詰り傳授に依らなければ凡ての智識が不正確といふことになつて、陰陽道は土御門家がやり、歌を詠むことは二條家、冷泉家がやるといふことになつて、何をするにも傳授に依らなければならないといふことになつて來ました。尤も是は日本ばかりではなく西洋でも中世の加特力[#《カトリック》]教の坊さんなんどがやつぱりさういふ智慧を出して、人間を天國にやる鍵は坊さんが握つてゐる、坊さんに頼まなければ天國に行けないといふやうなことにしてしまつたのです。是は智識階級を維持しようとする時に出て來る智慧でありまして、大學の學問なども是は秘密にして傳授すべきものかも知れぬと思ひます(笑聲起る)。さうすれば斯ういふ處で講演などするのは間違です(笑聲起る)。大學の學問を秘密にして傳授でやり、故なく他人には教へないといふ事にすると智識階級の維持が出來ます(笑聲起る)、で足利時代の傳授はよく其邊の秘訣を心得たもので、凡ての學問が傳授でやつてゐました、歌の方なら古今集中に大切なことを拵へてそれを傳授するといふことになつたのであります。
それから源氏物語が大變尊重されました。是は藤原時代の小説でありまして、殊に男女の關係について當時の風習を隨分無遠慮に書いた本ですが、是が經國經綸の書として當時の人に尊重されました。詰り神祇や皇室を尊ぶ方の經典としては日本紀の神代の卷でありますが、源氏物語は一般の人情を知り、藝術の神髄を解するための經典として考へられました。足利の末年から豐臣、徳川の頃まで居つた人で有名な細川幽齋といふ人があります。是は戰國時代から古今集の傳授を傳へて居つた唯一の人で、關ヶ原合戰に丹後田邊の城に立て籠つた時にも、古今傳授が絶えるから殺してはならぬと朝廷から御使者を遣はされて戰爭をやめさせた位の人であります。其幽齋が門人の宮本孝庸の問に答へた事として
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ある時に孝庸玄旨法印に世間の便になる書は何をか第一と仕るべきと尋ねさせければ、源氏物語と答へたまひし。又歌學の博學に第一のものはと問はれば同じく源氏と答へさせたまふ。何もかも源氏にてすみぬる事と承りぬ、源氏を百遍つぶさに見たるものは歌學の成就なりとのたまふよし孝庸の説と云々
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何もかも源氏物語で濟む、當時の學問といふものは源氏物語一つあればそれでいゝといふので、源氏は詰りよく一般の世態を知つて世の中を經綸するために唯一の大事な經典であるとされて居つたのであります。源氏物語を以て國民思想を統一するなどといふことは今日の文部省などの思ひもよらぬ所であります(笑聲起る)。一般には亂世で政治上殆ど何等統一などのなかつた時代に、何か或る者で統一しようといふ考が一般の人に出來て參りまして、此等の傳授によつて其の秘訣に達することが、文化的に世の中を統一すべき智識を得る所以であると思つてゐたのですが、そこらはよほど面白い所であります。是は即ち日本の亂れた時代に於ても尚且是を統一に導く所の素因が出來て居つたといふことを示すものであります。
尚智識普及に於て一つ例を言ひ殘しました。それは私共漢學の方でありますが、漢學の方も其當時に於て一つの變化を示しました。即ち漢學といふものもやはり貴族の學問から一般の學問になる一つの段階を作つたのであります。漢學の一つの大きな變化といふのは、昔は古注の學問、其頃は四書五經とは申しませぬから五經でありますが、其古注即ち漢唐以來の注を用ゐて居つたのが朝廷の學問であります。それが徳川時代に宋以後の朱子の學問が行はれまして一般に擴まりましたが、古注の學問は貴族の學問であり、新注の學問は一般國民の學問であります。此新注の學問が應仁の亂の頃から弗々起つて來ました。後醍醐天皇の時に玄惠法印が新注の講釋をしたと言はれてゐますが、後醍醐天皇のお考は、單に凡ての古來の習慣を打破しようといふのであつて、其御考は失敗に終りましたが、さういふ御考へ、即ち古來の習慣を打破しようとされた御遺志が應仁の亂の上に現はれてゐると言つていゝのであります。
康富記といふ有名な記録がありますが、是に清原頼業といふ高倉天皇に侍讀した人の事が出て居ります。清原家は代々經學の家でありますが、此頼業が禮記の中の中庸を非常に重じて是を特別に拔き出して研究されたといふことが、康富記に書いてあります。是が宋の朱子の考と暗合して居るといふので偉いといふ事になつて居つた人でありますが、私は或る時、頼業の事を調べる必要があつて、帝國圖書館にある原本を見まして、どうも可笑しいと思ひました。頼業が果してさういふことを言つて、それが足利時代まで其話が傳はつたといふのであるか、どうも疑はしいと思ひました。是は南北朝時代から新注が流行つて大學中庸といふものが禮記の中から特別に拔き出されて尊重されて、それが清原家の學問にも響いて來た結果、かういふ話が出來たのではなからうかと思ひまして、なくなられた田中義成さんに申しました所が、是は贋せ物だ、當時の人の作り話しだらうといふ田中さんの考でありました。足利時代から大學、中庸に限つて新注を採用したのであります。詰り漢學の上に新思想が行はれて、經書の學問は清原家では古注を用ゐるのが古來の仕來りであるけれども、大學、中庸だけは新注を採用するといふ事になつて、今迄の主義を改めるのに何か理窟がなければならぬために、頼業が斯ういふことを言ひ出したといふ話が作り出されたのだらうかと疑はれます。所で此新注は支那でもさうであるが、殊に日本に於て學問を平民に及ぼした有力なる學派であります。さういふ事が足利時代になりまして漢學の上に於ても貴族から平民に移るべき段階を此時代において開いて居つたのであります。
かくの如く應仁亂の前後は、單に足輕が跋扈して暴力を揮ふといふばかりでなく、思想の上に於ても、其他凡ての智識、趣味において、一般に今迄貴族階級の占有であつたものが、一般に民衆に擴がるといふ傾きを持て来たのであります。是が日本歴史の變り目であります。佛教の信仰に於ても此の變化が著しく現はれて來ました。佛教の中で、其當時に於ても急に發達したのが門徒宗であります。門徒宗は當時に於ては實に立派な危險思想であります(笑聲起る)。一條禪閤兼良なども其點は認めて居るやうでありまして「佛法を尊ぶべき事」と書いてある箇條の中に、「さて出家のともがらも、わが寶を廣めんと思ふ心ざしは有べけれど、無智愚癡の男女をすゝめ入て、はて/\は徒黨をむすび邪法を行ひ、民業を妨げ濫妨をいたす事は佛法の惡魔、王法の怨敵也、」と書いてある。一條禪閤兼良は門徒宗のやうな無暗に愚民の信仰を得てそれを擴める事に反對の意見をもつて居りますが、其當時に於てすでにさういふ現象があつたといふことが分ります。それは兼良が直接さういふ状態を見て居りました處からさう感じたのだと思ひますが、引續き戰國時代に於て門徒の一揆に依て屡々騒動が起り、加賀の富樫など是がため亡んでしまひ、家康公なども危く一向門徒の一揆に亡ぼされる所でありました。單に百姓の集まりが信仰に依て熱烈に動いた結果、立派な大名をも亡ぼすやうになりました。非常に危險なものであつて、門徒宗が實に當時の危險思想の傳播に效力があつたと言つていゝのであります。但し世の中が治まると、危險思想の中にもちやんと秩序が立つて納まり返るもので、今の眞宗では危險思想などゝいふ者が何處にあつたかといふやうな顏をしてゐますが(笑聲起る)却々そんな譯のものではなく、少し藥が利き過ぎると、何處まで行くか分らぬ程の状態でありました。かくの如く應仁の亂といふものは隨分古來の制度習慣を維持しようとして居ります側――一條禪閤兼良などのやうな側から見ると、堪へられない程危險な時代であつたに違ひありませぬ。
それが百年にして元龜天正になつて、世の中が統一され整理されるといふと、其間に養はれた所のいろ/\の思想が後來の日本統一に非常に役に立つ思想になりまして、今日の如く最も統一の觀念の強い國民を形造つて來てゐるのであります。併し此後も騒ぎがある度に必ず統一思想が起るかといふとそれはお受合が出來ませぬ。今日の日本の勞働爭議に就ても保證しろと言はれてもそれは保證しませぬ。唯だ前にはさういふことがあつたといふだけであります。何か騒動があれば其度毎に其結果として何か特別な事が出來るといふ事は確かであります、唯どういふ事が出來るかといふことは分らない。一條禪閤の如きも當時の亂世の後に結構な時代が來るとは豫想しなかつたのであります。歴史家が過去の事によりて將來の事を判斷するといふ事はよほど愼重に考へないと危險な事であります。
兎に角應仁時代といふものは、今日過ぎ去つたあとから見ると、さういふ風ないろ/\の重大な關係を日本全體の上に及ぼし、殊に平民實力の興起において最も肝腎な時代で、平民の方からは最も謳歌すべき時代であると言つていゝ[#原文は「いい」、改行のためと考える]のであります。
それと同時に日本の帝室と言ふやうな日本を統一すべき原動力から言つても、大變價値のある時代であつたといふ事は之を明言して妨げなからうと思ひます、まあ他流試合でありますからこれ位の所で御免を蒙つておきます。
(大正十年八月史學地理學同攻會講演)[#地付き]
底本:「内藤湖南全集 第九巻」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
1930(昭和5)年11月発行
初出:史学地理学同攻会講演
1921(大正10)年8月
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月10日公開
2003年5月25日修正
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