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學變臆説
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#「土へん+侯」、読みは「こう」、第4水準2-5-1、352-2]
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天運は循環するか、意ふに其の循る所の環は、完全なる圓環にあらずして、寧ろ無窮なる螺旋形を爲す者たらんか、何となれば一個の中心點より開展して三のダイメンシヨンある空間を填充すべき一條線は、須らく無限に支派して螺形に纏繞する所の者たらざるべからざれば也。地球は三百六十五日五時餘を以て太陽を一周す、已に一周し畢れば、必ずや再び故路を行かざるべからず、但だ太陽は其の行星に對せる位置こそ定住不變には見ゆれ、太陽より大なる星界の大中心に對しては、彼も亦轉々として周旋已まざれば、則ち地球が行く所の故路なる者も、亦唯だ太陽に對する關係に於て故たるに近きのみ、其實は年々歳々未だ經ざる大宇宙間を旋轉して進行する者ならざるを得ず、故に其の軌道は環形ならずして、螺旋形なることを知るべし。唯夫れ單一なる螺旋の一端より中心を徹して他端を見るときは、其の宛轉たる各節は盡く重沓して、其の目に觸るゝは、圓環と異なることなかるべし、意ふに地球の行程は複雜無窮の螺旋環たるべくして、固より單一なることを得べからずと雖も、其の人類が知識せる短距離の間に在ては、單一なる者と大差なく見ゆるが故に、螺旋環の無窮なる新行程を經る者も、旋轉の次、復た故路に復るの觀あることは、故なきの謬想とせず、是れ知る、限なき時間を經過する歴史的變遷、所謂天運が、唯是れ循環と看做さるゝことの亦復一理あることを。既に天運循環なる語のやゝ眞理の一偏を得たるを認めんには、無智妄信の一致が、研究解釋の分裂を經て、解悟心證の一致に歸するに當り、終の始と性質は則ち異なるも、其の所謂一致と云ふ者が、相類同するの當然なるも、亦因て知られん。唯だ一流の學者に在ては、專ら此理を智識の一途に求めて、道義若くは美妙の發達も亦然るを省せず、應用の範圍、小局に偏するの失を致せるを憾む。今若し之を擴充して、眞善美三つの者の極粹に達すべき路程の※[#「土へん+侯」、読みは「こう」、第4水準2-5-1、352-2]樹を※[#「手へん+僉」、読みは「けん」、第3水準1-84-94、352-2]し來らんには、其間無限の興味あり、至大の作用あることを發明し得べし、且らく吾が學變に就て立言する所を聽け。
歐洲思想變遷の史蹟を鑑みるに、羅馬統一以前は、別に是れ一個の世界にして、其の循環に於ても、亦國各々特に一期を始終して、全局の他期と相關かること少ければ、姑らく此に論ぜず。羅馬帝國の統一は、實に基督の教、プラト、アリストートルの學と融和して、思想世界を統一すべき準備たりしが若し、故に神聖帝國が土崩瓦解せし後に至りても、教權の高大は少しくも損傷せずして、新たに生ぜる諸國民の思想を一に繋ぎしこと久しきに渉れり。固より此時に當りて、氣運の然らしむる所、教權の統一も亦政權の統一の若く、專制獨裁の状態たり、專ら人の精神を支配することを勉めずして、驀地に其の外形の儀式文爲を是れ整ふるの弊は免れざる所なりしと雖も、教法の任に當る者が宗教經綸の觀念に神旺して、其職を以て有形無形すべての現象を統紀すべき者と信じ、而して其法を以て此職を盡さしむるに足る者と信ぜしこと、一般の氣風たりしに疑なきなり。故に地球を以て天體の中心とし、人類を以て動植の中心とし、中心を求むるの氣習は、此時代の理論に於て、到る所皆然り。その宗教統一を原因として、他の諸現象を結果とせんは、獨斷に過ぐるの恐れあらん、その共に同一氣運に薫熟されたる同根の枝葉とし、而して宗教を以てその大幹に近き者とせんは、蓋し至當なるを知る。既にして希臘古文學の復活、東洋サラセン智識の輸入あり、氣運漸く斡旋して、自由思想の發達を致すや、宗教革命は先づ人心に大變動を與へて、教權統一の形勢此に破れ、信仰自由の説は、啻に政教の關係より定められたるにあらずして、實は信念分裂の一現象として出でたるのみ。神なるものあり、實に宗教が由て建つ所なり、然るに彼の認むる所は必ずしも此の認むる所ならず、我の神は我の神のみ、汝の神は汝の神のみ、經典が僧侶傳授の解釋に局促せずして、人々自由の理會に放任せられしより、この勢遏むべからざるを致せり。教法の統一、既に得べからず、而して列國割據の勢は、是より先に現はれて今に至りて全く止まず。此に於て諸科の學術も亦派生岐分して、益々以て瑣に渉り微に入る、地球中心の説より、以て諸恆星各中心たるの説に變じ、人類中心の説は廢して、吾人は下りて哺乳動物の一列に就かざるを得ず、君主中心の説は廢して、民權自由の論盛に行はるゝに至る、亦た盡く是れ同一氣運の薫熟する所たり。分業の氣風、日月に發達して、唯一經緯の想念は全く衰へたれば、農工商の實業、理化動植の諸科が各單獨孤立して相關せざるは勿論、有形の人を統一すべき政法、無形の人を統一すべき宗教を講ずる者に在ても、その職を以て全社會を經緯するの任とせず、その言ふ所自ら守りて相犯さざるを之れ主とし、政教分離といひ、三權鼎立といふが若き極端に走るに至れり、四五百年來、今代に通じて社會人心を支配するの大勢力なる者は、實に此の分裂の現象なり。
天運は果して循環するか、今の一致や昔の一致の若きを得べからずと雖も、分裂の形勢が、看々將さに終らんとするは、一致の形勢が將さに來らんとするの徴にあらずして何ぞや。歐洲諸國は封疆の戒嚴昔に加ふるあり、國家主義の流行は寧ろ分裂の形勢を催進するが若しと雖も、是れ實は大に統一せんとするが爲の準備たるに疑なし。春秋の七雄に合して、更に秦に併呑せらるゝが若く、兼并の極は一に歸して已まんには、今日歐洲諸國が其内は歐陸に於て、外は亞細亞、亞弗利加等に於て、相競て兼并大を致す者、必ずや更に大の大なる者を來す階梯たらずといふを得ず、力に合せんか、露は現に列國の深患大敵とする所にあらずや、財に合せんか、支那人、アングロサクソン人の利に趨る、現に坤輿の精液を吸涸せんとするの概あるにあらずや。加ふるに交通の便益々開けて、大勢は遂に東西の隔離を繋紐して、大塊の面を擧て一團と爲さんとするを見る、天運それ果して循環するなり。是に於てか知る、その爭奪の勝敗に決すると、推攘の並存に歸するとを論ぜず、宗教の統一も、亦竟に今後の必至ならざるを得ず、その教義の各殊なる者は、長短相融合して竟に一味に落ちざるを得ざるを、啻に基督教の各派に於て然るのみならず、東西の一致は、實に佛教其他の諸宗教に於ける關係も亦復同一ならざるを得ざらしむ。
東洋古學の研究は、既に諸種の宗教が、其の初め亞細亞中央の高原に於ける拜天教の分派せる者たることを發見せしめて、探蹟の一路より統一の緒を發し、教理の研精、人類理想の歸趨は、探理一路より同一の傾嚮を取ること、既に徴あるの形勢たり。商工の分業が單獨孤立に止まらずして、經濟界一脈の經路は、相繋聯し、相資助せざるを得ざらしむること、今日既に朕兆の認むべきあり、而して諸科の學術が個々に分離せずして、系統的に相係屬せしむべきこと、獨逸哲學者が巧妙の論法に組織せられ、進化論の世に行はれし以來、益々その根基を鞏固にするの傾嚮あり。進化論は一方に於て、人類中心の舊信仰を根柢より破壞し盡し、餘勢の及ぶ所、往古の一致思想を破壞せしこと勝げて數ふべからず、實に一面に於ては、分裂時代思想の後勁たるの觀あれども、他の一面に於ては、反てかの分裂時代の氣運に薫熟せられし個々單立の各科學をして、一致時代に入るの準備を爲さしめし者たり。種類起原の説は、個々の模型より鑄出されしと信ぜられたる動植の各種族を一鏈繋せるのみならずして、更に動と植とを一鏈繋し、動植と鑛とを一鏈繋し、之を應用擴充する者は、此の一鏈繋法を以て、盡く宇宙の萬象を説明せんと試みたり。是れ進化論は實に學術に於て、分裂、一致兩時代の過渡を形成する效ある者と謂ふべし。其れ此の如く今後の氣運は、盡く思想一致の傾向あるものとすれば、その復た人心をして社會統合經緯の想念を發せしむべきや疑を容れず、三權鼎立、個人自由等の説は、既に故紙堆中に葬られ去らんとす、政教分離の妄見、亦尋で逝かん。天體の説明は星霧説ありて、個々中心の分立を統一し、進化説の發達は、漸やく各科學の統一を催し、統一の極、眞を求め、善を求め、美を求むるの念にして、皆歸一する所あり、東西境遇の阻絶より、殊別に養成せられたる偏局の氣風も、銷融和合し去らば、一致の大功或は此に完成することあらん。此の統一や、かの專制の統一にあらずして、個々獨尊の統一たり、枝を以て葉に統べ、幹を以て枝に統ぶるの統一にあらずして、帝釋天網、百千明珠、相照し相映して、融通無碍なるの統一たらん。人々個々自守るの思想は破壞せられて、經緯の想念、油然として生ずと雖も、物を以て己に係くるの僭越なる經緯たらずして、己と物と相係かる平等なる經緯たらん。平和の時は來らん、彼岸遠からじ。
今の形勢は洵に秦皇統一以前の支那の若く、羅馬一統以前の歐土の若く、その思想界は、亦董仲舒未だ出でざる、基督教が未だ羅馬國教たらざる時と匹似せり。則ち匹似せりと雖も、異なる所も亦多し、故に今後の形勢は必らずしも全く秦皇統一、羅馬統一以後の若くならず、今後の思想界は必らずしも全く儒教基督教大一統の世の若くならざるべし、是は則ち螺旋循環の必ず故路を經ざる所以、或者は進化變遷の路を環形と考へ、而して或者は以て直線進行と爲し、兩つながら一偏を執りて相通ぜざる所以なり。吾別に思想界中心變動の説あり、言頗繁に渉る、故に今の所論に在らず。
(明治三十年三月一日「反省雜誌」第一二年二號)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年9月15日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「涙珠唾珠」東華堂
   1897(明治30)年6月28日発行
初出:「反省雜誌」
   1897(明治30)年3月1日、第十二年第二号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
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