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月見の夕
長塚節

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)知合《しりあひ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+墨」、第4水準2-84-59]まり

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例))そこ/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 うちからの出が非常に遲かツたものだから、そこ/\に用は足したが、知合《しりあひ》の店先で「イヤ今夜は冴えましようぜこれでは、けさからの鹽梅ではどうも六かしいと思つてましたが、まあこれぢや麥がとれましよう、十五夜が冴えりやあ麥は大丈夫とれるといふんですから、どうかさうしたいものでなどゝいふ主人の話を聞いたりして居たので、水海道を出たのは五時過ぎになツてしまつた、
 尻を十分にまくし揚げてせツせと歩るく、落ちかけた日が斜に照しかけるので、自分のかげはひよろ/\とした尖つた頭になツて、野菊の花や蓼の花を突ツ越して蕎麥畑へ映る、それから粟畑、それから芋畑とだん/\に移つて行く、小山戸を通り拔けて中妻《なかづま》へかゝる、速力はずん/\加はツてくる、かうして歩いて居る間に、少くとも三四人、六七人位の連中が男女混合でよた/\とやツてくるのにでツかはせる、大抵は若い同志で、いづれも草鞋ごしらへである、それがたえずでツかはせる、これらのものはみな大寶《たいはう》がへりなので往復にしては十三四里もあるのだから、少しはびツこ引くのも仕方がないが、草臥れてしまツたといふ鹽梅は多少の滑稽を交へて居る、
 五十恰好のあばた面の婆さんが、これはたんだ一人で左の手でへげ皮の饅頭かなにかの包を持つて頻りに頬張りながらやつて來る、
「八の野郎げ呉れべと思ツて買ツてきたが、小腹が減ツてしやうがねえから一つくひ二つくひ、はあ無くなツちやツた、野郎コンコ奴の假面《めん》欲しがツてだから、これやりせえすりや、よさあいゝが、そこらでまた二百がとこも買ツてくべえ
 などゝ思ツて居るのらしい、
 若い衆のなかへ交ツて殊に疲れたといふやうすの娘がある、お納戸の羽織で尻の大なのがいくらか隱れて居る、
「おらへのおツかも解らねえでしやうがねえ、自分のことべえ見て居て、自分で行きたがらねえツたツて、いつでも/\けツかりやがらあなんて怒ツて居やがツて、隣のお稻さんらあ帶までこせえたのに、おらほんとに泣きたくなツちやツたツけや、ゆんべらもいくら粟ぶち忙しいツて、晩くまでやらせて、とう/\あたま結はねツちやツた、けさら闇えに起きたツてあたまゆつたりなにつかしたんで、みんな等に待つてられてせか/\してしやうなかツた、そんでもおらへのおつかはわれが野呂間だからなんて怒つてばかし居やがツて、ゆんべ碌に寢ねえから今日はねむくツてしやうがねえ
 こんなことを思ひつゝ歩行いてるのではないかなどゝ考へるうちに遠くへ行き過ぎてしまふ、
「けふは降られねえで助かツた、お米さんが單衣物借りてきたんで、汚しちや大變だと思つてなんぼ心配したか知れやしねえ
 といひ相なのや
「おらゆんべら、あたまおツこはしちや仕やうねえと思つて夜ツぴてうつぶになツて寢て居たんで、けさら目ぶちが腫れぼツたかツた
 といふのや
「足うツちやりたくなツちやツた
 といふのやいろ/\が、いづれも澁紙のやうな顏へ思ひ切ツて白粉をこて/\となすり付けて居る、なすり付けたといふよりも、こすり込んだといひたい、さうしてそれが汗をかいて白粉が剥げたといふよりは、すべり落ちたといふ顏つきをして居る、
 日の入るのははやいもので、柿の木や樫の木の間からきら/\と光つて見えた光が、中妻を出拔けると、さわ/\と西へ向いて靡いてる芒の穗にかゝつて見える、もう月が出さうなものだなと思つて見ると、いままでは異形な雲に隱れてゞも居たものか、その雲が崩れかゝつて位置をかへると、まんまるな月は三四間も上つて、遙かさきの杉の木のてツぺんに淡い光を放ツてるのであツた、やがて雲はどこへ行つたか無くなツて、月の光はやゝ黄色味を含んで、いさゝか青みを帶びてきた、それと共に芒の穗にかゝつた夕日は穗から葉に、さうして見えなくなツてしまツた、しかしまだ世間はあかるい、その明るい世間が赤く黄色いやうな色に變化して、空の際が一層燒けて、それがだん/\に褪めて、足もとの乾き切つた土が、しら/\と明るいと思ふやうになれば、月の光はうつくしいのである、
 草鞋ごしらへの連中も通らなくなる、おしまひに十三四位な小供が二人でよぼ/\やつて來た、
「はやくうちに成ればいゝなあといふ顏をして歩いてる、
 遊び仲間で相談が※[#「糸+墨」、第4水準2-84-59]まり、うしろの竹さんも大寶へ行くツちふから、俺も行つてよかんべえといつたやうなことをおふくろにねだつた末に、單衣物の腰上げをおろして貰ひ、わるさなんぞして汚すんぢやねえぞと戒められて、そうれおとつツあげ隱してやるんだからと白銅一つあとから蝦蟇口へ入れて貰つて、人込みのなかではぐれちやいかねえぞ、二人でようくつかまツて歩行くんだぞといはれたことまで、なんでもうん/\と聞き流して、うれしまぎれに急いで行つて、大蛇の見世物で一錢、ろくろ首の見世物で一錢、輕業で一錢五厘、それから團子を一皿くつてお替りをいふことが出來ずにしまつて、梨子を買つて柿を買つて、芋串を買つて、八幡太郎の繪本を買つて、風船玉も買ひたかツたが無駄なものなんぞ買つて來たら聽かねえからと、うちでいはれてきた爲めにそれは諦めて、よツぱらさんざ遊んでかへつてきたので、途中からよく/\に草臥れてしまひ、けふの面白かツた話も出なくなツて、
「はやくうちに成ればいゝなあ
 と思ひながら行くのであらう、罪のないことだと思つて振り返つて見ると遙かに隔つた、自分の歩行くのがはやいからであらう、
 ひろ/″\としたこの野路の變化し易い夕の景色の面白いのを見ながらまた村へ這入ツた、
「駄目だツちことよ、われがにや
「かつてくんだよう
「水油はわれがにや解らねえからだめだよ
「かつてくうんだツちばよう
「そんだら買つてこうな
 といふのは、いましがた油買ひに行かうとするおふくろの手につかまツて、七八つの小供が好奇心から自分が買つてくるんだといつて聽かない、おふくろが危ぶむ、とう/\小供に負けてしまツたといふ所なのである、こんなことを見ながら村の中を行くとなんだか急に闇くなツた、木立のおひかぶさツてゐるためであらう、がた/\がた/\と唐箕で籾を立てゝ居るのや、とん/\とん/\とふるぢ[#「ふるぢ」に傍点]で粟がらを叩いて居るのや、大かたは忙しいことであるが、庭の中でぽたん/\と※[#「米+參」、第3水準1-89-88]粉をついて居るのは、いまから團子を丸めようといふのであらう、まツくらな家の中にはまだあかりがつかない、稀についたのもランプの心がひツこましてあつてぽツちりと赤い光が見えるだけである、自分の急ぎ足はこんな忙しいなかをば猶更いそぎ足になツた、せツせと歩くと突然、
「勝よう、かつう
 と大きな胴羅聲で呶鳴つた婆さんがある、耳もとで怒鳴られたので自分は非常に驚いた、その調子が一種のせき込んだ恨みを含んだ調子である、家のうちには竈の下にちよろ/\と火が燃えて居るのみで人のけはひもないやうである、
「きさのあま奴が、ねんとし大寶へ行く癖にはやくでもけえればいゝのに、若い衆とでもくれえそべえて居やがるんだんべ、いめえましいあま奴だ、なんにも間に合ひやしねえ、それにかつの餓鬼奴がどこへけつかツてるか、豆腐でも買つてくればいゝのに、寄ツつきやがらねえ、どうしたらよかんべえな
 といふやうなことで、思ひ切つた大きな聲で呶鳴つたのであらうなどゝつまらぬことを考へながら村外れへ出る、五個《ごか》までくれば石下《いしげ》への半分道でこゝからは野路ばかりになる、常に行き馴れた間道なのである、村のなかでは暗かツたのが野らへ出ると明るくなツた、夕燒はもう殆んどあともなくなツて、月の光はいよ/\うつくしくなツた、用水の岸を辿つて行くと水の流はしら/\とひかつて見える、ころ/\ころ/\と蛄螻がしづかな鳴きやうをする、野らは至ツてひろ/″\として隈なき月は更にうつくしさが増すやうである、手近には蕎麥畑が霜の降つたやうに見えて、遙かの先きには筑波山が仄かに見られる、さうしてさツきから嶺に棚引いた白雲は依然として居るのまでがわかる、田のへりへ出ると掛稻のあたりから、鴫でゞもあらう、きゝ/\と鳴いてどこへか飛んで去つた、しばらく歩行いて居るうちにそここゝの森から田を隔てゝぽん/\ぽん/\といふ音が聞え出した、小供らが卷藁を打ち出したのである、自分がまだ幼少の時分によくしたことであるが、手頃に藁を束ねて繩でぎり/\卷いて、そいつを擔いては家々の庭へ行つて力一杯に叩きまはるのである、その叩くと共に、
「大麥小麥、三角畑の蕎麥あたれ
 とみんなで聲を揃へて叫ぶのであつた、卷藁のなかへ芋がらの干したのを入れると音がいゝといつて拵へて貰つたことであつた、今叩いて居る子供等もいかに樂しいことであらうと思ツた、自分はこの卷藁の音が非常に好きで、殊に眩ゆいやうな蕎麥畑の中へ立つてこの卷藁を聞くのはなんとも云へない善い感じがするのである、こんなことを思ひ浮べながら石下へついた、石下の町ではあかりはまツかについて居る、洋燈の下で夕餉をしたゝめて居る家があつた、さうしてその家の表へ供へた机の上の團子を猫がくはへ出して、机の下のくらがりで噛ツて居るを夕餉の人々は知らぬげであつた、
 外は賑かで、月はいよ/\冴えまさツた、
 これでは麥がとれるだらうと思ツた、[#地から1字上げ](明治三十六年十二月二十三日發行、馬醉木 第七號所載)



底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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