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土浦の川口
長塚節

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 冬とはいふものゝまだ霜の下りるのも稀な十一月の十八日、土浦へついたのはその夕方であつた、狹苦しい間口でワカサギの串を裂いて居る爺はあるが、いつもの如く火を煽つてはワカサギを燒いて居るものは一人も見えないので物足らず淋しい川口を一廻りして、舟を泛べるのに便利のよさゝうな家をと思つて見掛けも見憎くゝない三階作りの宿屋へ腰を卸した、導かれて通つたのは三階ではなくて、風呂と便所との脇を行止まりの曲つた中二階のどん底である、なまめいた女が代り/\に出て來る、風呂から上つて窓に吹き込む風に吹かれつゝ居ると、ぢき目の先の青苔の生えた瓦屋根の上からまん丸な月が二三間上つた、案じたやうではなくいかにも冴々として障りになる雲も手を擴げない、命じておいた船が來たといふ知らせに急いで下りて見ると宿の前に繋いである、舳の方には空籠が積んであつて余の坐る所には四布蒲團が一枚乘せてある、舟は川口の狹い流をずん/\進んで二丁も出ればもう霞が浦の入江になるのである、
「旦那寒いからその蒲團へくるまつた方がようがすぜ、冲へ出ると寒いから
 と船頭に注意されたので、余はなんといふことはなしに蒲團にくるまつたが、薄つぺらな而かも強張つた四布蒲團は滿足に體を掩ふことはできない、舟は月に向つて漕いて居るのでばしやり/\とぶつかる波によつて碎かれつゝある月の光は舳にくつゝいて離れない、月の下には怪しげな雲が立つて居る、
「旦那、あのお月さまの中にあるなあ何ンだんべえな、兎が餅を搗いて居るなんて云ふが、俺《おれ》がにやどうも解らねえが
 と船頭は出し拔けに奇問を發した、余はそれは火山の跡であるといふやうなことを平易に話して聞かせたのであるが、彼は解したのか解しないのか默つてしまつた、だん/\進んで見るから茫々たるあたりへ行つた時彼は船底の棹を取つてしばらく突張つて居たが、眞菰の枯れたのが漂ふやうに浮いて居る淺瀬へその棹を突立てゝ舟の小べりを繋いた、さうして彼は足下に疊んであつたどてらを引つ掛けて坐つて仕舞つた、舟は波のために搖られて舳がそろ/\廻轉するので今まで月に向つて居た船頭は背中を向けるやうになつて仕舞つた、舟はもはや舳艫の位置を變じた儘姿勢を保つてゆらり/\と搖れて居る、バツと擦つた燐寸の火で船頭の容貌が見られた。五十ばかりの皺の刻み込んだ丈夫相な親爺である、燐寸の火が吹き消されて水の上に捨てられた時は彼の鼻先に突出した煙管の雁首に一點の紅を認めるのみで相對して默して居た、余は先づ口を開いて彼の常職である所の漁業のことに就いて聞いた、土浦の名物なるワカサギやサクラ蝦は皆土浦から出る船の收獲であるか否かと問ふと、彼は吸殼をふつと掌に拔いてその火によつて再び煙草を吸ひ付けながら云つた、
「どうして/\九分通り外だ、土浦のものなんざアみんな舟で買つて來るんだ、ワカサギかワカサギはダイトクモツコで捕るんだ、地曳のモツコと同じやうなモツコだ、足駄を穿かせてな、麥藁をくつゝけて石を下げるんだ、さうしねえと袋が開かねえからな、石ばかりでもたいした目方だ、岸の方へ船を寄せてな、杭を打つてカグラサンで捲くんだ、五人も六人もして捲くんだぜ、二十尋も三十尋も手繰るんだからな、ヲダなんぞへ引ツ掛つちや酷いぜ、切れツちまふから、ヲダか鯉なんぞ捕るやうに棒杭を打ち込んでおくんだ、そのなかへもぐり込んだのを網を卷いてとるんだ、それへ引つ掛るとひどい話よ、捕れる時にや四斗樽で四五十本宛もとれるんだがことしは捕れねえな、おまけに安いんだ、世間が不景氣だからな
 彼も不景氣のために苦しめられる一人と見える、
「ダイトク網は凪ぎでなくツちや曳かれねえ、風のある日にやまた別な小せえ網だ、艫へつゝけて一里も一里半も流れるんだ、こいつぢやいくらも這入らねえ、けふらも出なくつちやならねえんだがどうして出ねえかよ
 と口不調法なる彼の話は剥き出しである、余はダイトクモツコのことを能く呑み込みたいと思つたのであるが、話下手な彼の口からは到底十分に知ることは難いのである、彼は更に語りついだ、
「向うに明りの見える村な、あすこにもダイトクモツコが一つあるんだ、それからずつと向うの方にも一つあるんだがなか/\土用中澁の二三百兩も呉れなくつちや成らねえんだから手入が屆かねえで、さあると切れるやうなモツコで捕つてるんだ、それにだまされて賣られたりなにつかして駄目よ、網元なんちふ奴等は一晩に三十兩も四十兩も遣つて騷ぐやうなことするからいつでも貧乏だ
 抔といふ話でダイトクモツコのことは明瞭ではなかつたが、どんなものかといふだけは畧解かつた、暫くすると彼は問はれもせぬのに饒舌り出した、
「お月さまの下のあたりはひどいぜ雲が、どこかしぐれてるんだ、それから今夜はこんなに寒いんだが、ことしの冬は寒くねえな、ゆんべらのぬくかつたことは酷かつたぜ、俺らゆんべワカサギ燒くのでよつぴて寢ねえつちまつたけれど……ことしは西風が少ねえが一西吹いたら寒かんべえよ、こなひだナラエが一遍吹いたので霜が降つたつけ、ナラエが筑波山の方から吹いてくるんだ
 彼はかく語つてどてらに包まつた儘ごろつと横になつた、余もずりこけて居た四布蒲團を肩のあたりへ引きあげた、振り返つて見ると筑波の山は月の光によつてうすらに見える。彼は首を擡げて
「旦那、旦那はどこだね、ぶしつけだが
 と問うた、余は鬼怒川の沿岸であるといふと
「俺ア十二三に水海道に居たことがあつたつけ、鬼怒川では鮭が捕れたな、甘かつたな鬼怒川の鮭は、土浦なんぞへも鬼怒川の鮭だなんて賣りに來るがみんな那珂川だ、鬼怒川のがなんぞ持つて來たつて賣り切れやしねえから駄目だ、ヤマベも捕れたな、ヤマベは霞が浦でも捕れるが喰ひ手がねえや不味くつて、それでも櫻川へのぼつたのを釣つたないくらか甘めえ相だ、俺がなあ、一遍|宗道《そうだう》へ行つたところがな、皿へヤマベを付けて出したから、ヤマベなんぞ出してひでえ所だと思つたが折角出したんだからと思つて一箸くつて見たら甘えんで魂消た、百にいくらだつて聞いたら八匹だとか九匹だとかいふから、それぢや俺らが方のヤマベ持つてきて賣つたらよかんべ百に二十匹位するんだなんて云つたら、おめえ等の方のヤマベなんざア喰ふものがあるもんかつて笑らあれたつけ
 と彼れにしては不似合な愛嬌話である、
 寒さが身に浸みてきたので余はもう皈らうと思つたから右手に見える蘆の所へ舟をつけさして見た、蘆の間からは遙かに向うの停車場のともし灯が輝いて見える、蘆の内側は停車場まで一帶の水田になつて居る、船頭はまた煙管を取り上げてつまつた脂を吹いては小べりへこつ/\と雁首を叩いて語り出した、
「俺らもこゝを作つて居たが取れる時にや十二俵どれの所で四俵の年貢だから七八俵ものこるんだが、ことしのやうに水ばかり冠つちや一粒も取れやしねえ、七八年このかたいつでも不作だ、出來る年にや馬鹿に出來るんだが出來過ぎてぶつ倒れつちまふんだからこれも仕やうがねえんだ、それから俺ら今ぢやこゝらあ作らねえで上の方ばかりだ
 といふ所を見ると彼は百姓もするのである、
 丈は一丈もある蘆が淋しくさら/\と靡いて居るが月の光に照されて居る枯穗がくろずんで見えるので怪しんで問うて見ると水が出た時汚れたんだらうといふことであつた、八月末の暴風雨の折には殆んど海嘯のやうに波浪が押し寄せたのでこの沿岸の人家も非常な損害を受けたのであつたが彼の家などもその時既に危かつたとのことである、
「三味線屋の三階もあぶなく吹つ倒されるんだつけがそんでもいゝ鹽梅に大工が駈けつけてそつちへ棒をかつたりこつちへ棒をかつたりしてやつと助かつたんだ、俺れが知つてる男があの時死んちまつた、なんでも逃げ出したのを戻つて行つたら舟がひつくる返つて死んだんだ相だ、跡で見たら往來だつけとよ
 ともう横には成らなかつた、余は計らず彼の口から自分の泊つた宿屋が三味線屋といふのであることを知つた、彼はまた思ひ出したかのやうに
「旦那、松が關ツちふ相撲知つてるかね
 と問うたので余は囘向院の相撲で嘗て見たことを話すと彼は乘地になつたといふ鹽梅で
「ありやなんだ石岡の酒藏に米搗をして居たんだがとう/\相撲になつちまつた、それから土浦へ來た時なんざあ石岡の旦那等が大變だつけ、小錦等もそん時三味線屋へ泊つたんだ
 彼の思ひの外なる饒舌を聞いて居るうちに月はずん/\上つて怪しげな雲も漸く手を擴げてきたので余はもういゝ加減に舟を返すべく命じた、船頭は頗る相撲好きと見えて櫓を押すのにも口をやめない、
「土浦にも部屋があつたんだ、なか/\たいしたものよそりや、三段目位な奴等はみんなぶつこまれたんだからな、宮の森なんちふのは躰はねえが手どりでななか/\能くとれたぜ、俺らが知つたのぢやあんでも鐵嵐ら一しきりとれたな、出羽から強えのがきたつけが鐵嵐のこたあなんとしても動かなかつたな、あれでも腹袋はたいしたもんだつけな、荷車で引つ張つてあるかなくつちや唯の車ぢやへえらねえつちんだからな
 余はよき程に挨拶をして居るうちに舟は恙なく三味線屋の店先についた、店先はひつそりして居た、便所に向つた梯子段の下に女が五六人
「お二階の南京さんにからかつてやりましよう
 と云つて居た、[#地から1字上げ](明治三十七年二月二十七日發行、馬醉木 第九號所載)



底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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