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旅の日記
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山雉《やまどり》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つて
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例))交る/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
九月一日
金華山から山雉《やまどり》の渡しを鮎川の港までもどつた。汽船で塩竈へ歸らうとしたのである。大分まだ時刻があつたので或旅人宿の一間で待つことにした。宿には二階がある。然し其案内されたのは表の店からつゞいた二間のうちの一間である。他の一間には宿の娘らしい紺飛白の衣物を着た十六七の子が針仕事をして居るのであつた。余は旅裝がみすぼらしいので何處の宿でも屹度待遇は疎末なのである。それでも余の座敷だけは店先からは見えぬやうになつて居る。店先ではとんとんと杵の音がする。余が表の障子をあけて此宿へはひつた時に其障子の蔭で宿の女房らしい女が肌衣一つで下女らしい女を相手に笄のやうな形の丸い杵を持つて小さな臼で白い粉を搗いて居たのである。余は草鞋を解きながらそれはどうするのかと聞くと明日は盆だから佛へ供へる團子にするので米をうるかして置いて搗くのだと其の笄のやうな形の杵を交る/\に打ちおろして居た。其杵の音が聞えるのである。余は座敷へ案内されてからもうるかすといふことが解釋に苦んだ。丁度針仕事をして居る娘は閾一つ隔てたのみであるから娘に聞いて見たらそれは水へ浸しておくといふことなのであつた。顏をあげた所を見ると娘はどことなくぼんやりと冴えないものゝやうである。然し其時はさう思つたまで[#「まで」は底本では「まて」]ゞ別に氣にも止めなかつた。其内に今日は塩竈行の汽船は來ないといふ知せがあつた。殘念だがこゝへどうでも泊らなければならぬことに成つてしまつた。余は鉛筆と手帳とをいぢつて見たが退屈したので新聞を貸してくれといつたら娘は仙臺の河北新報といふのを二三日分持つて來てくれた。それが如何にもはき/\としない態度である。碌に見る所もない新聞だからぢきに不用になつた。それから荷物を枕にして横になつて見た。先刻から茶碗でも茶菓子でも一杯になつて甞めずりまはつて居た蠅が五月蠅く顏をはひまはる。荷物の風呂敷で顏を掩うた。さうして居ると襯衣がひどくしめつぽく不快に感じ出した。かた/″\心持が落付かぬので到底眠ることが出來ない。風呂敷をとつて起きて見ると娘はいつかこちら向になつて肘を枕に横臥して居る。どうしても大儀相な容子である。娘はやがて仕事を捨てゝ去つた。余は娘の仕事をして居た座敷が明るいので座敷をとりかへることにしてもらつた。余は又横に成つてごろ/\して居ると何時の間にか娘はまた余がさつきの座敷の襖の蔭に横になつて居る。粉を舂いて居たのは娘の母と見えてそこへ括り枕を持つて來てそつと掻卷を掛けてやつた。銀杏返しに結つた娘の髮が開け放つた襖の蔭から少し出てすぐ余が眼の前にこちらを向いて居る。盆が來るといふので母が結うてやつたのであらうか油がつや/\として居る。余は此は病身な娘で仕事でも何でも只氣任せにして置くのだらうと思ふとひどく哀れになつて時々娘を見るといつもぢつとして日の暮れるまで動かぬのであつた。其翌朝は雨がじと/\と降つて居た。蒲團の中でもぢ/\して居るとそここゝでぽん/\と杵の音が聞える。便所へ立つたら隣の家の窓に白い大きな團子の盆に竝べてあるのが見えた。余の座敷の近くにある宿の佛壇を見るとそこにも皿へ團子が堆く供へてある。佛壇にも青笹だの鬼灯だのが飾つてあつて燈明がともつて居る。余は一つは好奇心から宿へ其團子を請求した。昨日の娘が一皿持つて來てくれた。黄粉がふり掛けてあつて其の上から砂糖がばらつと掛けてある。すぐに箸をとつて見る。只臼で搗いた粉はあらかつたと見えて齒切が餘りよくはなかつたがそれでも余は一つも殘さなかつた。皿の底の黄粉まで丁寧にくつゝけてたべてしまつた。皿を持つて來た所をつく/″\見ると娘は眼のまはりが幾らか隈になつて容易ならず貧血して居るのである。何處までも大儀相な果敢ない姿である。しとやかなのも病身故であらうと思ふと又改めて切ない哀れな心持になる。余は身体が惡いのかと聞いたら娘はいゝえと只一言曖昧にいつた。余は更に此の土地にも盆には踊があるかと聞いたらありませんといつた。心持のせいかそれが酷く淋しく聞えた。皿を置いて立つて行く娘の後姿を見たらふと帶の結び目の非常に小いのに氣がついた。拳の大さ程であつた。
二
其日は後に雨が止んだ。降るだけ降つた雨は地上の草木に濕ひを殘して心持よく晴れた。汽船は定刻に先つて港へついて靜かに煙を吐いて居る。昨日から待つて居た乘客はごや/\と渚に集つた。空は一杯に晴れて日がきら/\と射して居る。沖かけて波は平靜である。甲板の上は乘客が一杯になつた。日光を遮るために布が覆うてある。乘客は爭うて席をとる。六七枚の蓆は人數の半ばをも滿足に落付かせることが出來ない。丁度甲板の中央に大きな箱のやうなものが置いてあつて其上に端艇が一つ載せてある。其端艇にはズックが積んである。其隙間へ穢い洋服の男がはひり込んだ。卅五六位な年増の女と十五六の女の子とは其男と一所であると見えてやがて二人の手を執つて引き揚げる。少女は極めて田舍じみた容子できよろ/\と頻りにあたりへ目を配つて居る。男は其髭のある顏へ手拭でぎつと頬冠をした。さうして年増と顏を見合せて笑つた。そこにはまだ一人位の席が明いてるので余もつゞいて端艇へ乘つてそこのズックを廣げて其上へ坐つた。そこは四人でぎつしりに成つた。汽船は徐ろに進行する。鮎川の港に近く相對して横はつた大きな島が網地《あぢ》島でぽつ/\と漁人の家が見える。それから稍小さなのが田代の島でそれから又小さな島を左舷の方に見つゝ行く。こゝらの島には蝮蛇が非常に居ると洋服の男がいつた。蝮蛇の居るといつた其小さな島の近くに小舟が二三艘泛べてあつて浮標のやうなものが丸く水に輪を描いて居る。洋服の男はあれは鮪《しび》の寄りへ大網を掛けた所だと説明する。少女は又其方へ目を配る。其網に近く海中へ丸太で櫓のやうなものが建てゝある。さうして其櫓の上部には薦のやうなものがめぐらしてある。そこには漁夫が乘つて居て鮪のはひつたかはひらぬかの檢査をして居るので漁夫の參謀本部だと彼は又いつた。海は淺いと見える。其淺い海に櫓を建てゝ鮪の群を待つといふ悠長な漁獲の方法に余は驚くと共に此の近海にはどれ程魚族が繁殖するのだろうかと思つた。余等の近くに鐵の赤く塗つた勾欄へ倚りかゝりながら遠くを見て居る印袢纒の一群がある。余はすぐ近くに居た彼等の一人に聞いて見ると彼等は大工職で金華山に無線電信所が建つといふので其普請に傭はれて卅日も前に廿人程で島へ渡つたのだといつた。給料はよし處は變つて居るし初めのうちはいゝと思つて居たが其内に不自由だらけで明けても暮れても海ばかり見て居るのだからもうよく/\厭になつてしまつた。それで愈昨日の午後に暇が出たとなつたら一刻も我慢が仕切れなくなつてすぐ鮎川まで歸つたのである。然し其時は渡船の時間が切れてしまつたから非常の時に打つべき筈の鐘を鳴らして山雉《やまどり》の渡しの船を呼んだのだといつた。さうして彼は又仙臺へ歸つたら少し身躰の養生をしなくちやならねえと獨言をいつた。牡鹿半島は一望晴朗としてテーブルへ掛けた絨布の如く平らかで且つ青い海の上に低く長く連つて其先端にとがつた金華山が聳えて見える。其聳えた下のあたりに鮎川の港はあるのであらうがもう遙かに隔つてわからぬ。大工の棟梁らしい男が其牡鹿半島を一々弟子共に指し示して居る。あれが石の卷だといふ所に白帆が二つ三つ見える。そこには日和山の杉であるべき筈の木立が小さく然かも鬱然として居る。余は二日もかゝつて歩いた土地を安坐して一目に見るのであるからそれが非常に嬉しかつた。忽ちあれ/\と人々が騷ぐ。汽船の右舷に近く一區域をなして平靜な波に更に小波を立てゝ水の動いて居る所がある。洋服の男はあれは魚の群だといつた。時々尾が出たり頭が出たりする。少女はあれ/\と我を忘れて延びあがるやうにして見入る。年増の女はあぶないというて制する。汽船の進行するに連れてそつちにもこつちにも此の魚族の群が目につく。甲板には乘客が一杯であるだけ魚族の群に對する騷ぎが大きい。少女は其度毎に我を忘れて見入る。汽船は日覆の布の上から煙を遙か後の波の上に吐き落しながらずん/\と進行する。松島の外側へさしかゝつた。奇巖亂礁の島々に接近して行く。其時波は稍動いて船体が幾らか搖れて來た。沖遠く吹きおくる凉しい風に日覆の布がばさ/\とふれる。今まできよろ/\と目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つて騷いで居た少女は急にうつ伏しに成つてしまつた。見ると此の少女の帶の結び目も漸く拳大さに過ぎないのであつた。代《よ》が崎《さき》を過ぎて塩竈の杉の稍が遙かに見えて籬が島が舳にあらはれた時には船体の動搖は止んだ。さうして平らな蒼い水を蹴つて行く汽船の舷に近く白い泡が碎けて消える。年増の女はうつ伏しに成つて居る少女を見てお前はまあどうしたのだといつた。さうして私は船が大好きだ。あのずつと白い泡の立つ所はラムネのやうで胸がすきるといつた。余は此の奇拔の言に意外な思をした。籬が島のあなたからは塩竈を出た小舟が白帆を揚げて走つて行く。白帆を揚げた小舟は又それと行き違ひに塩竈をさして籬が島のあなたへはひる。熟練な舟子共は軟風を其三角の白帆に受けて小舟は己が欲する方向に走らしむるのである。乘客は皆愉快げに甲板に立つた。只少女は余が眼の前に帶の小さな結び目をあらはした儘汽船のつくまでうつぶしになつて居た。
三
九月四日
仙臺から西すれば山形街道である。余は此の街道を行くのである。時々足もとに深い溪があらはれてそこに廣瀬川の水が白く見える。水は仙臺へ落ちて青葉城のもとを洗つて行くのである。溪から溪へ自然の道筋をたどつて水は大なる迂廻をせねばならぬので力の限り急いで行く。淙々として遙に且つ明かに聞ゆるものは其水が急ぐ足の響ともいひうるであらう。街道は平らかである。疎らな芒に交つて松虫草の花がびつしりと連つて居る。或村へはひる少し前で一人の女と道連に成つた。此の女は余が後から追ひ拔かうとした時に足をはやめて余の後へ跟いて來たのである。自分は佛參りに行くのだがお蔭で道が捗どるといつて息をはづませながら跟いて來る。年増のまづいさうして日に燒けた顏の女である。髮をてか/\光らして白い足袋を穿いて居る。余は好ましい道連でないと思つたからうつちやらうとすると女は汗を垂らしながら跟いて來る。村へはひつた時に女は郷六《がうろく》といふ所だと獨言のやうにいつた。仙臺の市へ行くのであらうと思ふ荷馬車が繭を山のやうに積んで二臺三臺と埃を立てゝ行き過ぎる。薪を負うた女が三人五人と揃つて來る。皆襤褸で厚い板のやうに拵へたチャン/\を着て居る。薪といふのがみし/\と肩へこたへ相な大きな束であるからそれでこんな襤褸の厚板を工夫して着て居るのだらうと思つた。道連の女に此は何といふものかと聞いたら此はケラといふものだといつた。それでまだ此から先の山になると隨分をかしなことをいふと女がいふからどうおかしいかと聞くと笊はフゴといふチヤといふやうにいつた。訛りの所がはつきり分らないが斯う聞えた。笊のことをフゴと呼ぶのだといふことである。途切れ/\に人家のある愛子《あいし》[#「愛子」に「ママ」の注記]といふ村へかゝる。此村は端から端までゞは二里もあるといひながら女は負けずに跟いて來る。もうゝつちやつたかと思ふと二十間か三十間あとから依然として汗を垂らしながら跟いて來る。人家の漸く途切れた所で余はつと草を苅つた趾のある草原へそれた。女はさつさと先へ行き過ぎた。余は其草原で辨當を開いた。さうしてそこへ暫く横にならうとしたがうつかり木蔭のないところであつたからすぐ又歩き出した。余は毎日辨當が濟めば屹度そこに横臥する。それは身體がのび/\としていふべからざる愉快を感ずるからである。徒歩の旅行を苦んで續けて居るものでなければ此の味は解らぬであらう。又人家のある處を過ぎるとそこには鬱蒼たる松林がつゞいて居るので余はたまらず身を投げ倒すやうにして松の根がたへ横臥した。さうして居ると後から大きな聲で賑かに笑ひながら來るものがある。其中にさつきの女が居る。穢い百姓の老夫と此も百姓の穢い衣物で古い藁草履を穿いた年頃の女の子と三人である。女は余が歩き掛けた時に追ひついて復た一所になつた。女はさつき何處へ引つ掛つたと余に聞いた。それからそつちへ引つ掛りこつちへ引つ掛り丁度おれとおなじだ。おれは酒を飮んで來たところだと女は頗る元氣である。女の顏は赤くなつて居る。百姓の老夫は足もとがふら/\としながら少し涎の垂れ相なだらしのない口を開いて時々只はゝアと哄笑するのである。女の子は小麥藁の苞を荒繩で背負つて居る。藁のすいた所からよく見るとそれは鮪のしつぽであつた。其小麥藁の苞の一尺下には珍らしい小さな帶の結び目が拵へてある。それが女の繻子の帶と對照して一層みじめなものに見える。やがて三人は松林の中のある岐道から入つて行つた。其時おらあ此所でおめえと分れだと女がいつた。さうして百姓の老夫は故もなく余を見てはゝアと哄笑した。余はそれからは獨でポツ/\と街道を運ぶ。作並《さくなみ》といふ村へかゝる。左右の山が迫つて廣瀬川はもう見違へる程狹く且つ淺い流になつて近く姿をあらはして居る。作並の長い村も既に盡きるころになると行手を遮つて峻嶺が聳えて見える。此は出羽と天然の境界を形つて居る關山峠である。此の峻嶺を擁して作並の温泉宿があるのである。余は店先から聲をかけた宿引に止められて此の温泉で一日の疲勞を醫することにした。小女が濯ぎを汲んで來る。小女は筒袖である。余は穢い一室へ案内された。やがて別の女が來て浴槽へ案内するからといふので其女の後へ跟いて行く。此女も筒袖である。女は梯子段のやうに拵へた階段をおりる。幾らかうねり/\下へ/\と行く。板葦屋根が覆うて居てそれがもう古くなつて朽ち掛けたりした所もあるので地底の坑内へでもはひるやうな心持である。女は髮へ白いリボンを插して居る。こんな僻地でも街道に當つて居るだけにかういふ裝飾品も行はれて居るのであらう。それにしてもどれ程此のリボンが女の心を惹いたことであらうかと思ふと其不調和な處に懷しいやうなところもある。それから女は極めて狹い帶を締めて臀には漸く拳位ともいひたいやうな小さな結び目を拵へて居る。余は此滑稽な程小さな結び目と白いリボンとを見ながら段をおりて行く。だん/\行くと遙かな底の方に人の聲が聞える。楷段が竭きるとそこに浴槽がある。近所の山のものらしい人物が五六人浴槽の側にぐつたりと茹つたやうになつて只手拭をしめしては少しづゝ身体へ掛けて居る。浴槽の外は直に溪流で狹い水が僅かに巖にせかれて落ちて行く。廣瀬川がこんなに成つたのかと思ふと驚く程の變化である。斷崖からは緑樹が掩ひかぶさつて藤の大きな蔓が緑樹の枝から垂れて居る。下流は兩岸相迫つて薄闇い。子供等が四五人でがや/\と騷ぎながら此溪流の淀みに泳いて居る。余は此の楷段はどの位あるかと女に聞いて見たら何でも百四五十はあるだらうといつた。女は浴槽に一々手をさし入れて加減を見てあるく。余はすぐに衣物をとつて浴槽へ一寸飛び込んだ。さうして子供と一つになつて泳いで見た。少し流の急になつた所へ行くと身体が恐ろしい勢でぐつと突き返される。女は裾をかゝげて浴槽の側の石へ乘つてひた/\水に足を洗つて居る。さうして其水に立ちながら余等が泳ぐのを見て居る。余は溪流にひたつた儘見ると宿は遙かに高い岸の上に建てられてあつて浴槽へ通ずる楷段はうねりくねつた長い妙な箱が斜に釣り下げてあるやうなものである。つまり箱の内部を人が一つ/\と運んで往復するのである。余は冷たくなつたから復た浴槽へ飛び込んだ。女はかゝげた裾を外して濡れた足のあとを板の上に印しながら楷段を昇つて行く。だん/\リボンを插した髮が隱れて小さな帶の結び目が隱れて最後に足のうらがちらりと見えて姿は全く其洞穴のやうな楷段の上方に隱れてしまつた。
四
九月五日
雨戸ががら/\と開くと共に余は起きた。まだしら/\明である。前夜の女がいひつけておいた辨當を持つて來て、こんな山の中で何も菜がないから生卵などではどうかと聞く。辨當の菜に生卵は少し困つたことだと思つたが、女の濁つたやうな太い訛つた聲で然かも膝をついて丁寧にいふのが氣に入つたから余は即座にそれでもいゝといつた。女はやつぱり狹い帶をしめて居る。卵はつぶれぬやうに紙へ包んでそれを手拭の端へ括つて兵兒帶へくつゝけた。
夜は全く明け放れた。時計を見るとまだ五時半にならぬ。空は晴れて淡紅色を含んだ灰色である。行手の峻嶺が頂上僅かに日光をうけてほつかりと赤くなつて居る。路傍の芒の穗はさま/″\な草の花と共にしつとりと露を宿して居る。溪流について行く。即ち此も廣瀬川の水である。溪流はずん/\狹くなつて街道が高くなるのに氣がつく。峻嶺の緑が身に迫つて來る。余は此の朝の空氣に包まれて秋の冷かさが薄い單衣を透してしみ/″\と身にしみこむやうに感じた。歩いて居るあたりまではまだ日は射さぬ。峻嶺の頂は段々下の方まで日光が射し掛けて來る。それと共にさつきの赤い光は薄らいだ。山腹をうねつて行くと所々山のはざまを漏れて日光が路傍の草村へきら/\と射してることがある。ふりかへつて見ると其草村に交つて青い細い莖の先へ白い玉を乘せたやうな星月夜の花から薄く霧が立ち騰る。霧は四五尺のぼつて日光のきらつく中へ消えてしまふ。既に深くなつた溪流の向うの岸の汀から朴の木が存分に葉を廣げて立つて居るのがある。余は小石をとつて朴の木へ投げて見た。幾つかとつて投げた小石の只一つが梢に落ちたと見えて葉が五六枚上の枝から下の枝へひら/\と動いたやうであつた。すぐ近くだと思つた朴の木は余が腕の力では容易に小石が屆かぬのに驚いた。坂路は此の如くにしていつ登るとも知れぬうちに嶺の頂が非常に短くなつて居た。顧ると谿が深く且つ遠くなつてしまつた。稍伏見に見渡す山々は此の谿の底まで一帶に密樹の梢を以て掩はれてある。さうして谿は藥研の底のやうな形をして或度の傾斜を保ちながら遙かに向へ走つて居る。朴の木のもとを洗つて作並の浴槽の側を過ぎ行く水はこゝから見える密樹の根からしぼれ出る雫の聚りである。浴槽の側で昨日女が足を洗うた水は今頃は走り走つて青葉城のめぐりをめぐつて居るかも知れぬ。さうして海へ/\と志して居るのであらう。余は足をやすめながら暫く谿を見おろして立つて居た。幽かな水の響が聞えて來るやうで聞えぬやうで閑寂ないかにも人の心を惹くべき山の趣である。街道はこゝで一切のものを蹙めて山を穿つた洞門へ導く。洞門は闇くして且つ恐ろしく長い。洞門を出るとそこには豁然として壯大な出羽の國が展開する。うんと力を入れて踏ん込んだやうな山の脚に從つてこゝも坂路はゆるやかである。遙かなる空を遮つて聳ゆる連山の間に峰の丸い然かも雄大な山が一つ見える。花崗岩を爆裂させた趾のやうな白い所が幾つも見える。燎原の煙のやうな亂雲が朝の活動を始めたかの如くむら/\と其山から空へ吹き立つて居る。だん/\坂をおりて行くと一人の老婆が二人の若い娘を連れて峠を登つて來るのに逢うた。今朝から此の峠で逢つたものは此の三人連のみである。三人とも連尺《れんじやく》で荷物を負うて居る。老婆はまだ峠は遠いかと聞く。余は老婆の身支度を見るのに始めて此の峠にかゝつたものではない。然し足の疲れた時には自分の知つて居る道程でも屡人に聞いて見たくなるのが余の經驗から明かなので此の老婆も屹度それだらうと思つた。余は懇に教へた。さうしてあの丸い形の山は何だと聞いたら老婆の一足先に立ち止つて杖に兩手を掛けて居た一人の娘があれは月山だといつた。さうしてあの白いのは雪だといつた。老婆も娘も決して賤しいものゝ姿ではない。然し峠といふ天然の一大障礙はこのやうな弱い人々をもかひ/″\しい草鞋穿の姿にいでたゝしむるのである。余は數日來出會うた少女が孰れも皆狹い帶を締めて居たので此時ふつと此の娘等の帶の結び目がどんなであらうかと思つたから荷物を横に搖りながらいた/\しげに登つて行く後姿を一遍見あげた。然し單衣の裾はぐるつとかゝげて帶を掩うて紐で括つてあつたから白いゆもじが目に立つのみで其帶の結び目はそれはかゝげた裾に隱されて見えなかつた。[#地から1字上げ](明治四十二年一月一日發行、アララギ 第一卷第二號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
※「人家のある愛子《あいし》」の「愛子《あいし》」に付したと思われる「ママ」の注記は、底本では「ある」にかかっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
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