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商機
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雀斑《そばかす》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](制作年月日不詳)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぽつ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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汽車から降りると寒さが一段身に染みる。埓の側に植ゑた櫻の枯木が強い西風に鳴つて居る。彼は思はず首を引つこませた。さうして小さな手荷物を砂利の上に卸して毛糸の白い襟卷を擴げて顎から口へ掛けて包んだ。彼の乘つた上り列車が停車場へついた時に待つて居た下り列車が煙突から白く蒸氣を吐いて徐ろに出て行つた。停車場を出ると埃が吹つ立つて居る。遙か先の立場からがたくり馬車の喇叭が頻りと聞えて來る。汽車から下りた客は人力車に乘るものぽつ/\と蹙かまつて歩くもの大抵は町の方へと急ぐ。彼は今水戸から來たので此處から或町へ行く目的である。預て定期の馬車が出るといふことを知つて居たのですぐに喇叭の鳴る方へ行つた。革の手綱を執つて馭者臺に喇叭を吹いて居た馭者は近づく彼の姿を見て
「さあ出ますよ」
ぱか/\と蹄の音をさせてる馬をぐつと引き締めながら催し立てる。然し彼はちつとも慌てなかつた。彼の容子を見ると心に何か蟠りがあるやうでもあるが其活々した底力のある容貌は決して愁あるものではないといふことを知らしめる。八人乘の馬車にはもう客が七人詰つて居る。彼はやつと身を割り込んだ。さうして手荷物を膝に載せて白い毛糸の襟卷を捲き直して鳥打帽を少し前へ引いた。馭者は舌を上へ捲いてキツ/\キと口の中で妙な聲をさせて革の手綱を緩めると馬は首を前へのめす樣にして蹄を立てゝ二足三足と重相に歩き出した。其時小豆色の頭巾をかぶつた若い女が小さな荷物を手に提げて安物の塗下駄をぽか/\と叩き付けながら
「乘せておくれよ」
と駈けて來た。馭者は
「もう一杯ですよ」
「何だね人を、知らない振して」
女は意外にも叱り付けるやうにいつた
「いゝから別嬪なら乘せてやれえ」
乘客の一人がいつた。
「お客さん方それぢやどうぞもつとこつちへお詰めなすつて、もう一人乘るんですからね、そつち側の方です、ええこつちは私が乘つてますからこつちへ乘ると片荷に成つて車の運びが惡くていけませんからね」
馭者はズツクをまくつて客の方へ顏を半ば表はしていつた。ズツクは寒さを防ぐ爲に三方へ垂れて馬車の中を薄闇くして居る。後だけは括つた儘である。
「あなたこつちへ臀を持つて來て……さうです、さうすればいくらでも掛りますから」
馭者は臺の右の端へ臀を据ゑて居る。其左の空席へ掛けて斜に一番鼻の客を掛けさせた。四人の客は懶相に身體を動かす。女は漸くのことで乘り込んだ。
「どうも皆さんお氣の毒さま」
いひながら二三度顏をしがめて据らぬ臀を動かした。さうして左の袂を引つこぬく樣にして膝へ持つて來た。女はそれから頭巾をとつて車臺の外へ出して埃をぱさ/\と叩いて復たかぶつた。口が稍弓なりに上へ反つて顎のがつしりとした勝氣らしい顏である。少し雀斑《そばかす》はあるが色白な一寸人目を惹く。端の明るい處に掛けてるので小豆色の頭巾姿が引つ立つて見えた。それに人を人臭いとも思はぬげな態度は殊に車中の注目を値した。八人乘へ九人も詰め込まれたのだけれど客には若者が多いので女といふことが却て一同に興味を起させた。馭者はぴしりと一鞭當てた。馬車が急にぐらりと搖れる。
「おゝ怖い」
態とらしく女はいつた。其途端に女の小さな荷物が馬車の外へ落ちた。
「あらまあ、どうするんだらう」
顏には左程の驚もなく然かも聲高に不遠慮にいつた。こんな時は馬丁がすぐに飛び降りる筈であるが横着な馭者は此日馬丁を伴はなかつた。白い襟卷をした彼は
「馬車屋さん少し待つておくんなさい」
ゆつたりと底力のある聲で馬車を留めさせた。さうして馬車から降りて其荷物をとつてやつた。女は有繋に頭巾へ一寸手を掛けて頭をさげた。さうして荷物の埃を叩いた。
「土産物でせうが壞れやしませんかね」
「何なら落した序に少し毒見しませうかね」
先刻から女の反對の側に居て其容子ばかり見て居た三人連の電信工夫が斯う揶揄ひ出した。
「おやまあそれには及びませんよ、誰かにたんと持つて行つてあげたらようござんせうよ」
女は濟したものである。客と客との膝はぎつしりと押しつけてあるので幾らかならず痛い。
「こりや酷いや松葉つなぎでもいゝね、姉さんとなら此上なしだが」
工夫の一人がいつた。
「そんだがぎつしり成つてつと暖ツたかでがんすがね」
五十格恰の手拭で頬冠をした百姓らしいのがいつた。
「それに旦那たんと乘ると車臺ががたつかねえでようがすぜ、なんちつても此の街道もまあだ砂利がのめらねえかんね」
馭者はズツクの外から口を出す。
「私だつて隨分辛らいんですよ」
此度は女がいつた。
「そんならいつそのことみんなの膝の上へ横に成つたらどうですね、私らあ手の平へでも何でも乘せて置きますぜ」
「其方がお互に樂だね」
電信工夫は口々にいふ。
「横に成つたら頭の處は私の膝へ持つて來てくれなくちや厭ですね」
一番鼻の工夫がいつた。
「さうすると私等は脚の番ですね、こりやちつと割負がしますね」
女の隣の小商人らしいのまでが遂相槌打つて乘り出した。車中は俄にどつと笑つた。女も一緒に笑つた。さうしてすぐ平氣になつて袂から敷島を出して燐寸を五六本無駄にして吸ひはじめた。
女と相對して襟卷へ深く顎を沒して居た彼は左の手を膝の荷物に掛けて右の手を黒羅紗の前垂の下へ差し込んで凝然として居る。彼は水戸の或通りへ近く洋物店を開く計畫を成就した。其傍酒と醤油を商ふことに極めた。彼は今廿四歳の青年である。暫く奉公をして年季の明けたのは廿二の暮であつた。それからは年の若いのと運が向かないのとで家へ歸つた儘そここゝと彷徨つて別に目に立つことも無くて過ぎた。然し二年間の境遇は悲慘であつた。境遇から彼は年齡よりもふけて見えた。客氣に驅られた彼は其間少なからず其心を苛立てた。彼の一家は以前から衰頽に傾いて居た。此の家運を挽回しようといふ希望は常に彼の心を往來して居た。廿四といふ今漸く彼を信じてくれる人が出來て或事情から閉店した洋物店を見つけてくれた。それは彼の老いたる父の世話に成つたことがあつて現に相應の地位にある人なので、舊恩に報ずる厚意であつた。資金の一部も其人の手を煩はしたので、加之後見までもしてくれるといふのである。彼は踴躍した。洋物は全く彼には無經驗であるが彼はそんなことを顧慮する暇さへ無かつた。それから彼の奉公したのは大きな小賣酒屋であつたので經驗のある酒醤油も併せてやることにした。一つには比較的大きな店に十分の洋物を仕込むのは資本の不足をも告げたのである。店の飾り方とか店を維持して行く方法とかよりも此を土臺に家運を挽囘しようといふのが彼の總べてを支配して居る。それでも譬へば老人に對したら女に對したらといふ客の待遇方法といふ樣な小さなことにも彼は頭を惱す。さうしては唯もう客にはお世辭をよくするまでのことだといふ簡單なことに考は何時も歸着してしまふのである。そんな心持からさつき女の荷物も態々とつてやつた譯で彷徨つて居た二ヶ月前の彼とは全く異つて居た。今此の極月の末といふに開店して初荷の賣出しを樂まうといふ手筈で店の方は大抵極りもついたし、彼は此を老いたる父母に告げようとして一先づ其家へ歸りつゝあるのである。
彼はかういふ寒い日に麻の財布を肩にして草鞋穿で掛取に歩かせられたことが數次である。さうして兎に角縁のすれた小倉の角帶へ紺の前垂の紐を結んでぽんとそこを手の平で叩いた時はどう見ても番頭とより外見えぬ丈に其習慣は商人らしい姿に成つて居るのである。隨つて彼の頭は分時も商業を去らないのであるが何といつても年は若いし嘗て自分が主になつて營業したことがないので今一軒の店を持つと成ると身に餘るやうな心持にもなるし、熾な希望と共に何處かに不安の念が蟠つて時には非常な取越苦勞もすることがある。比較的どつしりとはして居ても心の内はそわ/\と落付かないやうで近來は新聞を讀んで居ても酷く身にしみないといふやうな状態で絶えず心の底からむか/\と或物が込み上げて來るやうに感じて居る。顧客はどうしてつくるといふ胸算はあるけれども一人でもまだ定まつては居ない。大きな店の主人に成ることではあるが眞實まだ本當の商人には資格が備らぬ樣な氣もして成らぬのである。然しながら彼の希望は彼の精神を作興し彼を活かしたことは事實である。洋々たる前途を思ふ時彼は何時も身體に力がはひつてぶる/\つと震へる樣に感ずるのである。彼はかうした責任の重い身を水戸から汽車に搖られて來た。さうして野中の道を又馬車に揉まれつゝ行くのである。馬車は停車場からすぐに遠く開けた田甫へ出て南へ走る。刈田を渡る西風は依然として強く、垂れたズツクを飜して吹く。田甫が盡きて小さな坂一つ上れば麥畑へ出る。乾燥した麥畑は埃で霧が立つたやうである。とある村で馬車はとまる。馭者はかじけた手で柄杓の柄を握つて馬の口をしめす。立場の婆さんが煙草の火とそれから九人前の茶を出す。一番端に居る女は盆を受取つて
「さあ皆さんどうです」
盆を先へ廻さうとする。
「まあどうぞさうして」
「どうもあなたの手からの方が甘いやうですから」
抔と例の工夫は戲談を止めない。女はまた左の手に盆を持つた儘敷島に火を點けた。茶碗がみんな盆へもどつて五厘の銅貨が一つ宛茶碗の底にはひつた時女は帶の間から二錢の銅貨を出してぽんと盆へ載せて
「はいお婆さん下げておくんなさいよ」
馬車は又砂利を軋りはじめた。棒のやうに眞直な街道の兩側には桐の枯木が暫く續いて其下にはぽつ/\立つてる枯菊が切な相にゆらついて居る。處々の畑には白い絲のやうな桑の木が立つて居る。桑の木のうらには小鳥でも止まつた樣に落ち殘つた枯葉が一二枚宛しがみついて居るのがある。強い西風は其枯葉を吹き散らさねば止むまいと烈しくゆさぶつて居る。遠くの林は空に吹き立つた埃のためにぼんやりとして居る。馬車は其埃の中を黒い大きな塊の如く動いて行く。此間彼は無言でさうして店のことや老いた父母のことのみ考へつゝあつた。女の卷煙草の灰が彼の顏のあたりへ吹き掛つたので彼は急に我に返つて眉を顰めた。
「まあ本當に不調法しました」
女は氣がついていきなり吸ひかけの煙草を棄てた。煙草は道の端へさうして畑の方へ吹き擢はれつゝ微かに煙を立てる。馬車は其煙に遠ざかつてずん/\と走つて行く。
「まあ御覽なさい」
女は懷から新聞紙を出して彼の荷物の上へ置いた。
「私にはこんなことは信じられませんね」
又かういつて出した新聞紙の一部を開いて見せる。不老不死と標題した賣藥の廣告の處であつた。彼は唯慇懃に會釋した。褪めた唐棧の衣物を着た彼は今大きな店の主人になるものとはどうしても見えない。それでも他の客と異つてどつしりした態度が青年には稀な狎れ難い所があるので不審とでもいふのか女は一寸こんなことを噺しかけて稍情を含んだ眼で時々彼を偸み視た。
「つかないことをお聞き申すやうですがあなたはどちらでしたね、どうもお見掛け申したやうですが」
小商人らしいのが女に聞いた。
「私ですか、私は水戸ですよ」
「はあさうでしたか、其所まで聞いちや何ですが何かなすつてお出でなさるんでせうね」
小商人は工夫等のやうな不作法なことは有繋にいはぬが夫でも少しは戲談の口調でかう尋ねた。
「これでも私は商賣人なんですよ」
商賣人といふ女の返辭は車中の耳目を峙てしめた。商賣人といふことを解釋した工夫等は前よりも遠慮なしに饒舌つた。それでも女を赤面させるには足りなかつた。車中の一切を餘所にして襟卷に顎を埋めて居た彼も水戸と聞いて少し首を擡げた。さうして遂賑かさにひかされて此も耳を峙てた。悲しい時でさへも人は笑ふことを禁じえぬのである。又一度立場へ止つて馬車は目的地の或町へ近づいた。彼は町の入口で降りた。頭はまたすぐに商賣のことが一杯に成つて自分の家へ志した。破れた垣根を見た時には彼は兩眼に涙を催した。さうして一層其心を興奮させた。
強い西風は夕の空を一杯に染めて止んでしまつた。彼は夜深まで靜かな室内に火鉢を擁して老いたる父母の爲に概況を語つた。彼の母は前途を危ぶんでこま/″\と注意を與へた。うつかり呑口をもとからひつこ拔いて酒でもこぼさない樣にといふことまでいつて父と彼とを笑はせた。彼は噺の序に異樣に彼の記憶に殘つた馬車中の女のことを語つた。彼の父は其一端を聞いて想像が出來た。狹い町には此の女の評判は行き渡つて居たのである。その女は町の者で非常なあばずれである。一旦婿をとつたが到頭いやだ/\で通してしまつた。女の家の財産と一皮むけた女の縹緻とは婿の心を強く牽いたのであるが女の我儘には父と雖手がつけられないで遂に離縁といふことに成つてしまつた。女の父は婿の去つた時家の金箱を失つたといつて嘆息した。そんな風で後に東京へ飛び出して勝手に電話の交換局かなどへはひつて遂に有勝な男との失策をして病氣に成つて家へ歸つて來た。療治をして居る間は青褪めた顏をして有繋に悄れ切つて居た。さうすると父も可哀想に成つて本氣に勵まして醫者に通はせた。二ヶ月計で頬には段々紅がさして來てまた以前の身體に成つた。さうすると何時の間にか化粧の仕方を氣にするやうに成つて隣づかりで居た小學校の教員と怪しい仲になつた。それから到頭一緒に遁げて教員の出た水戸の地へ落ちついたのである。父の家業が穀屋であるので此度は辛棒出來るからと父へ泣きついて幾らかの資本を貢いでもらつて小さながらも水戸で穀屋の店を開いて居る。教員といふのは猫のやうな男なのに女は反對の勝氣な性質ではあるし自分が資本を拵へたといふので世帶のことは一切女の切り盛りであるとかいふのであつた。彼は合點が行つた。それと同時に自分が此度開業したら直ぐ手拭の一本も持つて行つて醤油の一樽も買はしてやらなければならぬとかういふ考がふと胸に浮んだ。さうして其瞬間に今まで動搖して居た心が楔子を打ち込んだやうにきつとした。斧の刄から飛ぶ木材の一片が地上に落ちて居たとて何人の注意をも惹かないであらう。然しながら其一片と雖此を楔子に削る時大厦の柱をも堅固にすることが出來る。今彼の胸に浮んだ考は餘りに普通でさうして又餘りに陳腐であつた。けれどもそれが彼の現在に於ては尤も適切で且つ貴いことであつた。彼は此で何だか商買の呼吸といふものを攫へ得たかの如く感じた時腕拱いた儘總身に力がはひつて獨りにつこりと微笑した。[#地から1字上げ](制作年月日不詳)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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