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白瓜と青瓜
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小作人《こさくにん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)始終|窘《たしな》められて
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり+行」、第3水準1-90-82]菜《あささ》の
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例))よく/\の
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庄次は小作人《こさくにん》の子でありました。彼の家は土着《どちやく》の百姓であります。勿論百姓といふものが一旦落ちついた自分の土地を離れて彷徨《さまよ》ふといふことはよく/\の事情が起らない限りは決してないことであります。自分に土地を所有する力の無いものは他《ひと》の土地を借りて作物《さくもつ》を仕付《しつけ》ます。そして相應に定められた金錢や又は米や麥の收獲の一部を地主《ぢぬし》へ納めるのであります。此が小作料であつて、私の間に授受されて居る租税であります。それで小作人の懷にする處は其の收獲のうちから自分の食料までも減じて見ると、立派な體格を有つた一人の働きが實際何程にも當らないのであります。然し彼等は四季を通じて殆んど田畑の仕事にばかり屈託して居るのですから衣類の節約が極端に行はれて居ます。それから食料というても、第一には鹽を買ふ外には自分の手で作つた物で十分に滿足することが出來ます。それからどんな姿《なり》にでも雨戸が有れば住むに事を缺くことはないのであります。
恁《こ》んな状態でありますから消極的な身の持方をして居れば案外に苦勞のない生活がして行けるのであります。彼等には幸にも非望を懷くものはありません。彼等の身體が鍛錬された鐵のやうである如く、彼等の心にも頑強な或物があつて彼等を抑制して居て呉れるのであります。
庄次も恁《こ》ういふ小作人の仲間で殊に心掛の慥な人間でありました。彼の老《としよ》つた父は毎年夏の仕事には屹度一枚の瓜畑を作りました。其の畑からの收益で一年間の家内の小遣錢に充てるのが例でありました。固より面倒な丹精が要《い》る代りには蔬菜の栽培程百姓の仕事として利益なものはないのであります。其内でも瓜類の栽培は又格別なものであります。前の年の秋からの心掛で麥の間には瓜の種を蒔きつける場所をぽつ/\とあけて置きます。爽かな凉しい風が麥の軟い穗先を吹いて、空氣にも土にも潤ひを帶びて來ると、庄次の家の瓜の種も麥の明間へ二葉を開いて來ます。段々眞直に射し掛ける日光が十分の熱度を與へてくれますし麥はまた周圍から大切に保護してくれます。それでも非常に敏《さと》い赤蠅がそつと來ては軟かな子葉《め》を舐め減すので、爺さんの苦心は容易ではありません。虫を除ける爲に瓜の葉へ灰を掛けて遣つたり、幾度か失敗しつゝ敏捷な蠅を殺したりしてやるのであります。
麥が刈られると周圍はからりとして如何にも晴々とした心持で、瓜の蔓が威勢よくずん/\と伸びて行きます。蔓の先は軟かでそしてすつと頭を擡げて居る處が、見るから心持のいゝものであります。然しそれでも十分監督がないと赤蠅は依然舐めて畢《しま》はうとするのであります。瓜の蔓に處々へ開いて行く葉の間から小さな花がぽつ/\と見える頃になれば、瓜畑はもうだん/\心配がありません。
麥藁が一杯に敷かれて蔓は其褥を這うて居ます。殊に威勢のいゝのは西瓜の蔓で唐草模樣の樣な葉を一杯に開きます。小粒の實が初めは然程《さほど》にもないのに、少し大きく成つたかと思ふと一夜の中にも滅切と太つて幾日も經たないのに抱へて重い程になるので有ます。丁度靜かな沼の水に※[#「くさかんむり/行」、第3水準1-90-82]菜《あささ》の花が泛《う》いて居るやうに黄色な小さな花は甜瓜《まくは》であります。一番に捌けのいゝ西瓜と甜瓜とが餘計に作られてある畑の隅の方に二畝三畝《ふたうねみうね》白い花が此れも靜かな沼の水に泡が泛いたとでもいふやうに、ぽつちりと開きました。其處には白い瓜が成りました。白い瓜と隣合うた畝《うね》には此も地味な花が見えました。そこには深い青みをもつた瓜が成りました。それで孰《どちら》も大きな形を横へましたが、其うちでも青い瓜は一層大きく丈夫相でありました。白い瓜の白い皮の下には白い快《い》い肉が包まれて居ますし、青い瓜の青い皮の下にはほんのりと青い爽かな潤ひを持つて居ます。孰《どちら》も他の西瓜や甜瓜のやうに甘い味を持つて生《なま》の儘稱美されるものではありません。
然し二つに割つて鹽で壓《お》す時には其齒切のいゝことが凉しさを添へるやうで、西瓜や甜瓜のやうにどうかすると飽きられるといふやうなことは嘗《かつ》てないのであります。それから更に酒粕へ上手に蓄へられゝば迚ても西瓜や甜瓜の遠く及ばない價を保つて珍重されるのであります。白いのは白瓜で青いのは青瓜であります。隣合つた青瓜と白瓜とはずん/\手を伸ばして其細いくるくると卷いた髭のやうなもので、互に握り合ふばかりに成りました。
さて隅から隅まで注意を怠らない爺さんは伸ばさうとする蔓の先をみんな穢い爪の先で摘んで棄てゝ畢ひました。青い瓜も白い瓜も伸び出した葉の間に椎の實のやうな瓜の形を見せて、其の側に立てた尻に花が開くと其處から、爺さんは蔓の先を摘んで畢ふのであります。さうすると其の小さな瓜が必ず滿足に生長して行きます。さうでなくて氣儘に任せて置くと小さな瓜はどうかするといゝ加減の大きさに成つてぼろ/\と落ちて畢ふのであります。
瓜はかうして始終|窘《たしな》められて居ますが、一方には又一番必要な肥料といふものが爺さんの周到な用意で幾ら吸うても吸ひ切れない程十分に與へられてあります。それで生氣の衰へない瓜は何處からでも蔓を吹き出します。爺さんは又|根《こん》よくそれを摘んで止《と》めます。かうして白瓜はどこまでも白く、青瓜は油ぎつたつやゝかさを保つて、共につゝましく麥藁の上に横はります。兩《ふたつ》の瓜は唯相隣して互に見合うて居るばかりでありました。爺さんは瓜がいゝ加減の大きさに成れば其瓜を蔓から切り放して粗末な籠へごろ/\と投げ込みます。成熟した兩の瓜はかうして爺さんの無雜作な手によつて毎日數多の結婚が成立して居ました。
暑い日が麥藁の上に横はつて居る瓜の膓《はらわた》までも熱しては、夜の凉しさが冷たく潤しました。瓜畑の周圍に蒔かれた玉蜀黍はすつくりと立つて美しい瓜を守つて居ます。玉蜀黍の莖には横に竹を結んで自然に垣根が造られました。穗先のざらけた玉蜀黍は何事にもざわ/\と騷ぐのであります。瓜畑の隅には疾から小舍が建てられて、小舍には不相應な大きな蚊帳が吊られました。爺さんは毎晩そこへ起臥《おきふし》をするのであります。瓜の番は爺さんの役目で瓜を市場に運ぶのは庄次の日毎の役目であります。闇の夜が續いてそれから月の夜が續きました。或晩爺さんに何かの故障が有つたと見えて庄次が小舍の番をすることに成りました。
瓜小舍に泊るのは何といつても夜は眠い庄次に、適した役目ではありません。然し庄次は眠いからといつて眠ることはしません。彼は瓜が盜まれるのを惜むよりも、若し盜人が踏み込んだとしたならそれを捉へなければなるまいといふのが懸念なのでありました。彼のこゝろは盜人を逐ひ出すのさへ厭なのであります。彼はそれ程穩かな生れた儘の眞直な性質の人間であります。
庄次は血を吸ひに集つて來る蚊を避けて古びた蚊帳の中にぽつねんとして居ました。だぶ/\にたるんだ蚊帳の天井は坐つた彼の頭に觸りました。そして又暑くなると蚊帳から半身を出してぼんやりとして居ます。月は番小屋の短い廂から覗いて居ます。瓜畑は凡てが薄霧で掩はれたやうにほんのりと明るく、且つ白く見えました。其中で殊に白く美しいのが白瓜でありました。庄次は恍惚として白瓜を見て居ました。
すると恰も上手な鍼醫《はりい》が銀の鍼を打つやうに耳の底に浸み透る馬追虫の聲が、庄次の這入つてゐる蚊帳に止まつて鳴きました。月の位置が移るに從つて夜は凉しく沈んで、一體に身にしみじみとして來ました。庄次は到頭蚊帳の中へ身を横へました。何の爲に吠えるのか犬の聲が鋭く聞えます。遠くの方、又近くの方の村落で唄の聲が聞えたり止んだりします。若い村の男等はどうかすると夜はうろ/\と其處らを彷徨うて女を探しに歩くのであります。彼等はそれ相應に女に好かれようとして服裝《みなり》に心を苦しめるのであります。何處の村落にも兵隊歸りが彼等の間に異色を帶びて居ます。それが彼等の風俗を變化させるのであります。
併しながら庄次はさういふ仲間と表面は甚だしい疎遠《ちがい》はなくてもそれに感染《かぶ》れるやうなことは苟且《かり》にもありませんでした。彼は八釜敷い爺さんの躾を受けて幼少の時分から農作に我が趣味の全部を奪はれて居たのであります。
この夜彼れは自分の職業の趣味といふ事を理窟なしに感じて居ました。庄次は番人といふ責任を考へて居たので平生とは違つて眠くはならなかつた。で毎日行く市場のことなどを考へて居ました。夜が深けるに隨つて空氣の凉しさが一しほ沈んで身にせまつて來るかと思ふと、周圍の蜀黍の葉は猶更にこの番人を眠らせまいとするやうに酷くざわ/\と騷ぐのであります。其度毎にだぶ/\の蚊帳の裾が吹きまくられて、時々彼れの頬をさすりました。そして耳がだん/\冴えて來ますと、彼はすぐ自分の小舍に近い木戸口のあたりに何かは知らぬが、こそ/\と音がしては又止むのを聞きました。彼れは心の所爲《せゐ》かとも思ひましたが、さうでもありません。併しその物音は別段に近づいて來るのでもなく、又去らうとするのでもない樣でした。庄次は少し恐ろしく成つて蒲團を被りました。さうして又そつと耳を澄ましました。すると何となくかさ/\といふやうな音が聞えるのであります。暫くたつてそれが止んだと思ふ頃庄次は目を開いて見ました。少し月の光が疎《うと》く成つたと思ふやうでも、まだ瓜畑には一杯の明るさであります。蚊帳越しではありますが彼の目には白い瓜がやつぱり目に映るのでありました。木戸の外は垣根のやうな蜀黍が遮つて何物も見えないのであります。で間もなく夜が明けました。
翌る朝になつて庄次は畑を隈なく見ましたが瓜は一つも盜まれてはありません。次の夜も又番をしましたが、さういふことがありました。庄次には合點が行きません。彼れは人からよく能くいひ觸らされてるやうに貉か狸の惡戲ではないかとまで思ひました。然し誰にもいひはしませんでした。
然るところ其次の夜は元のやうに爺さんが泊りました。木戸口のこそ/\といふ音は爺さんの耳にも響きました。耳敏い爺さんは凝然《じつ》と枕を欹《そばた》てました。これまで數次かうして惡戲好な村落の若者の爲にぢらされた例《ためし》がありましたからか、爺さんはもう非常な怒氣を含みました。窃と蚊帳を捲りながら飛び出しました。棍棒を手にすることは咄嗟の間にも忘れませんでした。然しながら爺さんの驚駭《おどろき》はどんなでしたらう。其處には慥に人が立つて居ましたけれども其人は遁げたり隱れたりしようとは致しません。唯蜀黍の傍に身をよせて居たまでゞあります。固より盜人ではありません。では何人であつたらう。それは爺さんが思ひもよらぬ地主の娘のお杉さんでありました。彼れが絶體の服從を甘んじてゐる地主の娘でありました。
朴訥で罪のないそして自分の權利を守る爲に恐ろしい頑強な力を有つて居る爺さんは、蚊帳から飛び出すと共に、非常に劇しい惡罵の聲を曲者に浴せ掛けたのであります。そして盜賊としてお杉さんを手荒く捉へたのであります。更に爺さんの恐怖《おそれ》がどれ程であつたでせう。其地主に向つては殆んど絶對の服從をすら甘んずるばかりに物堅い爺さんの頭は馴致《なら》されて居るのであります。彼は只管お杉さんに詫びるの外はありませんでした。さうして彼は夜の中にお杉さんを其門に送りました。
彼の正直な狹い一徹の心は昏んでしまひました。彼は夜の明けるのが待遠でたまりません。飛んだ申譯のないことをして呉れたなアといふのが思案に餘る爺さんの口から庄次へ浴びせた強く鋭い小言でありました。
庄次にはそれが何の事であるのかサツパリ解りませんでした。庄次は常にない爺さんの顏色を見てこれは容易なことではないと合點しました。がしかし彼は何にも言はず默つて居ました。さうして自分の務に赴きました。
爺さんは轉げ込むやうに地主の戸口を跨ぎました。私もこんな年齡《とし》に成りながら、遂そんな心配もあるまいと、迂濶に油斷をした許に取り返しのつかないあなたの娘さんへ傷をつけまして、懲《こら》せと申されゝば野郎は手でも足でも打ち折りますが、どうか此から娘さんの方もお氣をつけなすつてと彼は呼吸も喘々《せか/\》として冷たい汗を流しました。此だけいふのに幾度堅唾を嚥んだか知れません。彼は庄次がお杉さんを誘惑したとばかり思ひ込んで畢つたのでした。お杉さんは昨夜も庄次が居ると思つて瓜畑へ忍んだのだと一も二もなくさう極めて畢つたのであります。
爺さんは只一筋にさうおもひ詰めたのだから、その心には庄次の口から一度どんな姿にも事實を吐かせようとする餘裕さへ起らなかつたのであります。彼は只地主から非常な譴責《しかり》を受けたいのでありました。怪しからぬ事だ、不都合千萬な伜だ、貴樣の仕つけがよろしくないからかういふ事を仕出かしたのだと散々に叱られてさうして自分自身の噪ぐ心を落付けさせたいのでありました。これが爺さんの心の願ひでした。
爺さんの詫言を聞いた地主は有繋にそんなことがあつたかと一度は駭いたのでありましたが、どうか世間に襤褸を出したくないといふ考が第一に其心に湧きました。そこで地主はそつとお杉を呼んで聞いて見ましたが、お杉は俯向いた儘萎れて何にもいひませんでした。爺さんからきつぱりとした噺を聞された地主の心にはもう直ぐに「判斷」がつきました。さうしていつそのこと、そんな事に成つたならお杉は庄次へ嫁に遣らうといふことに極めたのであります。
庄次は見處の有る人間であるといふのが地主の心を動かしたのであります。併しながら今の儘では行つた娘も可哀想だから、どうにか食つて通れる丈の田畑も其身に附けてやらうといふのであります。尤も其の事は其日の内に極つたのではありませんが、段々と家内相談があつて自然とさう成りました。
さてさうなると、まづ第一に爺の意志を確めねばならぬから、招《よ》んでその趣を腹藏なく打あけて相談に及びました。けれども爺さんには今地主から言はれたことがどうしても眞實《まこと》として請取ることが出來ませんでした。律義な爺さんにはどうしても身分が違ふからといふ恐怖が先ち[#「先ち」はママ]ました。併しながら、地主の言ふ事がすつかりと解つた時に爺さんは地主の前に熱い涙を溢して泣きました。
さうして家へ歸るまでは何だか足がふら/\して心はまるで雲の中にでも住んでゐる樣でした。歸つて庄次にこの話をして飛んでもない、此を忘れるやうでは人間ではないからと叱るやうにいつて聞かせて軈てそこでも嬉しいといつて泣きました。
庄次は突然な出來事を聞かされて無垢な青年に通有《ありがち》な一種の慄ひを禁じ得ませんでした。庄次はこれ迄お杉さんと何の關係も無かつた許でなく、彼の心には平常少しの疚しい心をも抱いて居るのではありませんでした。兩人の仲は芽出度取結ばれました。お杉さんは田舍で生れて田舍で成長した女であります。貧しい家の嫁として勞働するのに心から何の不足も訴へません。
事件は恁うして互に僞なき心から無雜作に決定して、あとは再び沼の水のやうな平靜の状態が長く續[#「續」は底本では「績」]きました。夫婦の間には子が幾人か生れました。爺さんの死後二人は依然として瓜を作ることを止めませんでした。瓜畑には毎年沼の水に浮んだやうな地味な小さな花が開きました。荷車を曳いて行く庄次は強健な皮膚《はだ》が暑い日に光りました。それから荷車の後を押して行くお杉さんも白かつた頬が日に燒けて脊には何時でも小さな子が首をくつたりと俛《うなだ》れて眠つて居ました。只夫婦が市場へ曳いて行く籠の中には青瓜が油ぎつたつやゝかさを保つて白瓜が依然として美しい白さを保ちながら微笑《ほゝゑ》んで居ました。
[#地から1字上げ](明治四十五年一月十五日發行、女學世界定期増刊 第拾貮卷第貮號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
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