青空文庫アーカイブ
隣室の客
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)萵雀《あをじ》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]る
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)伐つても/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
私は品行方正な人間として周囲から待遇されて居る。私が此所にいふやうな秘密を打ち明けても私を知つて居る人の幾分は容易に信じないであらうと思はれる。秘密には罪悪が附随して居る。私がなぜそれを何時までも匿して居ないかといふのに、人は他人の秘密を発くことを痛快とすると同時に自分の隠事をもむき出して見たいやうな心持になることがある。そこには又微かな興味が伴ふのである。
私は山に遠い平野の一部で、利根川の北に僻在して居る小さな村に成長した。村は静かな空気の底に沈んで櫟林に包まれて居る。私の村は瘠地であつたので自然櫟林が造られたのである。丈夫な櫟の木は伐つても/\古い株から幹が立つて忽ちに林相を形つて行く、百姓は皆ひどい貧乏である。だが櫟がずん/\と瘠地に繁茂して行くやうに村には丈夫な子供が殖えて行く。或時は其聚つて騒ぐ声が夕焼の冴えた空に響いて遠く聞えることがある。私は自分の村を好んで居る。さうして櫟林を懐しいものに思つて居る。櫟林は薪に伐るのが目的なので団栗のなるまで捨てゝ置くのは一つもない。それで冬になつて木枯が吹きまくつても梢には赭い枯葉がぴつしりとついて居る。春の日が錯綜した竹の葉の間を透して地上に暖か相な小さな玉を描くやうに成つてすべての草木がけしきばんで来ても、櫟の枯葉は決して落ちまいとしがみついて居る。「ぢい」と細い声を引いて松雀がそこに鳴くやうになれば地上には幾らかの青味を帯びて来る。然し櫟林は依然として居る。四月になつて、春がもう過ぎて畢ふと喚び挂けるやうに窮屈な皮の間から手を出して棕櫚の花が招いても只凝然として死んだやうである。諦めたやうに棕櫚の花がだらけて、春はもうこぼれたやうに残つて居る菜の花にのみ俤を留めて来た時其赭い枯葉を咄嗟に振ひ落して蘇生つたやうになる。さうして僅か四五日のうちに新樹の林になるのである。いつて見れば春といふ季節は櫟林と何等の交渉もない。私は此の植物に同化されたといつていゝのであらうか、私の一身は極めて櫟林の生態に似て居る処がある。さう自覚した時私は櫟林が懐かしくなつた。随つて櫟林に向つていつも注目を怠らない。春雨が浸み透つた梢の赭い葉が、頭を擡げ出した麦の青さと相映じて居るのに見惚れることすらあるのである。然しこんな下等な樹木を好んで居るといふものは恐らく他にはないであらう。
私は櫟林が春と交渉がないといつた。然しながら長い春の間には櫟も他の樹木の如く皮と幹との間から水分を吸収する生理作用を怠らない。私の一身も春といふ期間に於て索莫たる境涯に在つたのである。それでも櫟が窃に水分を吸収して居るやうに、私にも亦隠れた果敢ない事柄がある。私がはじめて此の世の空気を吸うて泣いた声は私の家では四十八年目に聞かれた声であつた。其時母の乳が乏しかつたので普通ならば「さと子」といつて他の家へ託される筈なのであるが、私の為めには特に乳母が抱へられた。どういふものか私の家へ来る乳母の乳が止つて畢つたので前後十一人の乳母が交代された。其頃はそんなことの出来る程私の家には余裕があつたのである。十一人目の乳母が虚弱な私を育てた。乳母は田舎には滅多に無いといはれた位縹緻のいゝ女だといつた。私も幼い時には非常な綺麗な子であつたので、後には女に好かれるといふやうなことを能く見る人がいつた相である。此はずつと後になつてから聞いたのであるが有繋にそれを聞くことは不快ではなかつた。私には又かういふことがあつた。私はふと一人の女を見るのが好になつた。女は私よりも五つ六つ年嵩で、私は十一二であつた。私は其頃近い町の姻戚の家から学校へ通つて居た。稍暑い日に女は蝙蝠傘を翳していつでも同じ時刻に学校の前を往復するのであつた。女は何かの稽古にでも通つて居るらしかつた。私は暇があれば学校の門に立つて見た。唯其女を見るのが好きであつたまでゝある。私が其時少年の身でさうした心持で立つて居ようとは人の知る筈はないのである。其癖私は其頃はまだ他人が女を批評していゝとか悪いとかいふのを聞いても、どんなのがいゝのか悪いのか分らなくてさういふのを不審に思つて居た位なのであつた。それで其女のことは其後久しく忘れて居た。ふと思ひ出してからは屡記憶から喚び返す。すらりとした矢絣の単衣姿で緑の蝙蝠傘をさして居る。日光が仄かに蝙蝠傘を透して化粧した顔が薄らに青く匂ふ。私が最初に思ひ出した時には女の姿はそれ程に明瞭ではなかつた。それがだん/\記憶を反復して居るうちに女の姿がはつきりとかう極つて畢つたのである。私は兎に角こんなことであつたから性情が何等の抑制もなく発達して行つたならば曠野のうちに彷徨ふやうな索莫たるものではなかつたであらう。私は病気の為めに断然廃学せねば成らぬやうになつた。其時私はまだ廿にもならなかつた。私は復た櫟林に没却して此の静かな村の空気を吸はねばならぬことになつた。全く孤独の境涯に移つた。日さへ明ければ田畑に出る百姓は私の相手ではなかつた。心身共に疲労した私と何時までゝも相対して居てくれるものは樹木の外にはないのである。それからといふものは厭だと思つて居た櫟の木もだん/\に好きになつた。私は健康の恢復しかゝるまで数年間徒然として過した。其間女といふ念慮の往来したことはあるが自分ながら明かにどうといつて述べて見る程のこともない。私に妻帯を勧める人もあつたが其噺を運ぶのには私の心は余りに沈んで居た。私が周囲から品行方正な人間として待遇されて居たのも当然である。私が斯ういふ状態を持続して居たのは病気といふ肉体の欠陥と私を挑発する機会が一度も与へられなかつたからとでなければならぬ。私の村に相手になつてくれるものがないといふのは私と百姓との間には生活状態から自然著しい隔てを生じて疏通し難い点が多い為めである。百姓の子でも麦の臭に満ちた畑の中に働いて居る時や、熊手を持つて櫟林の間を落葉掻に行く処をちらりと見た時や其姿が有繋に目を惹くことがないではないが、それは只一瞥した感じに過ぎないので、暫くも私の心を動かすには足らぬのである。私の生涯の春もこんなであつたけれど赭い枯葉を振ひ落したやうに時期が来つて忽ちに変化した。さうして人一倍の陋劣な行為を敢てしたのである。それは私の家に一人の女が来たからであつた。
二
私の村の学校の教師に溝口といふ老人があつた。彼はみじめな残骸をそつちへこつちへ逐ひやられて到頭辺鄙な私の村へ逐ひつめられたのであつた。自ら士族だといつて居たがさういふ俤もあつた。撃剣をしたしるしだといふて皺だらけの手の甲を見せることがあつた。目もどうかするとぎろりと光ることもあつたが生活の圧迫からいつとはなしにさもしい心が出たと見えて酒でもやるとへこ/\と頭を下るのであつた。遅くまで子があつたと見えて夫婦共に七人の家族だといふことを聞いて居た。老朽の教師の俸給で七人の糊口は容易なことでないのだから到底好な酒までには及ばないのである。然し性来の子煩悩と見えて能く生徒の世話をするといふので父兄とは懇意にして居た。そつちこつちと訪ねては酒にありついて居た。さうして其帰りには茄子でも芋でも其季節のものを貰つて提げて行く。自分の小さな風呂敷包を首へ括つて両脇へ大きな南瓜を抱へて行くこともあつた。よろ/\として行く処を見ると遊戯に耽つて居る村の子供が騒ぎながら先生の後に跟いて部落の境まで行く。風呂敷が解けて茄子でも芋でも転げ出すと教師は慌てゝ拾つては袂へ入れる。生徒はわあと先を争うてそれを拾ふ。先生は更に慌てる。生徒は各手柄でもしたやうにそれを先生へ返すのである。斯ういふ教師が其頃まだ世間に存在して居たといふのは不審に思はれるやうであるが、それを馘つて畢ふことが忽ち其一族に悲惨な目を見せなければならないので情実といふものが幸に余命を繋がしめて居たのである。庭に散つた木の葉がそつちこつちと掃き寄せられるやうに自己の運命の終局までには幾多の学校を移つて歩かねばならぬ。然しかういふ教師の役に立たぬ割合には父兄の間には気受がいゝ。それといふのは子煩悩で能く生徒の世話をするのと応対が砕けて居て他の教師のやうなツンとした所がないからである。百姓の目には袴を穿いてる教師の地位は立派なものである。だからさういふ人間から親しい言葉を挂けられるといふことが彼等には満足なのである。私は此の教師を憫むべきものと思つて居た。私の家は父母と私と只三人のみの家族であつたから此の教師の私の家を訪問すべき機会は少なかつた。それでも時々来ることは来た。如何にも控目にして居る容子を見ると私の母は不取敢酒を出さぬ訳には行かなかつた。其帰る時には又野菜の一包が彼の手に在つたのである。或時彼はまた非常に恐縮した容子で私の家へ来た。酒が其元気を恢復した時に私の母へ嘆願があるといひ出した。それはかうであつた。彼の長女で、彼の妻の郷里の知合の人が媒酌で其近村へ娵に行つたのがあつた。それが一年ばかりになるのだがどうしても亭主が厭だといふので遁げて来て畢つた。それが遂近頃のことである。仮令下女奉公をしても酌婦に売られても亭主の側へもどるのが厭だといつて聴かぬ。厭だといふものを無理に逐ひ帰して間違があつたら取り返しのつかぬことである。酌婦に落ちぶれさせることも忍びられない。さうかといつて自分の家へ置いたのでは其の日/\に困つて畢ふ。どうかあなたの家に暫く預つて下女代にでも使つておいて貰ひたい。針仕事は一人前のことは差支がないからといふのであつた。私の母も気の毒に思つたし、僅に三人の家族のうちでそれも私の父は大概他出して居るので家に在るものは母と私と二人のみで、傭人が寂しい夜をやつと賑はして居たに過ぎない不自由だらけな生活であつたのだから、針仕事の出来るといふのを幸に一時預つてやらうといふことにも成つたのである。私も其時どういふものか私の家に女が一人殖えるといふことが決して悪い心持はしなかつた。それで私は其次の日の夕方それがどんな女か見たいやうな気もしたので行つたこともない教師の寓居へ用をかこつけて行つて見た。ひどい穢い住居であつたがそれでも厭な心持も起さずに帰つて来た。学校は私の家からでは大分隔つて居たので教師の寓居も遠かつた。二三日して母といふのが其女を連れて来た。女の弟といふ小さな子も一緒に手を引かれて来た。母といふのは教師とは大分年齢が違ふやうに見えた。さうして教師の無頓着なのと違つて仲々一癖あり相な容貌であつた。女は其夜から私の家の人になつた。私の情史の第一頁が此れから染められるのである。女は既に男といふものゝ間に築かれてある一重の垣が除かれた身であつたのである。女はおいよさんといつた。二十一だとかいつたが少し大柄であつたので二つ三つは隠して居るかと思はれた。おいよさんにはくつきりと色の白い所が第一の長所であつた。夜になると能く吊しランプの側で髪を束ねた。以前熱病に罹つたことがあつて其後髪の毛が恢復しないのだといつて夜束ねた髪も朝になると耳のあたりへ短い毛が少しこけて居るのであつた。おいよさんには何処といつて格別にいゝ所はなかつたが人の心を惹くのは其涼し相な目であつた。然しぢろりと横を見た時には意地の張つた女であるといふことを思はしめた。それは窮乏な家庭に成長した丈に野卑なさもしい処もありはあつたが、それは極めて冷静に見ていつたことで母も私も同情して居たのであるからそんな欠点を見付けよう抔といふ念慮は其時ちつとも持たなかつたのである。教師の子だけに手紙を書くことが女としては達者であつたのも母の心に投じたのであつた。おいよさんは毎日針仕事と炊事の手伝とをして居た。只時々その大柄なのには似合はず加減が悪いといつては臥せることがあつた。教師はおいよさんが来てから遠い処を能くおとづれた。好きな酒も非常に遠慮して時には遁げるやうにして飲まずに帰ることもあつた。さうしておいよさんが平生から虚弱であつたことをいつて母へ哀訴するやうに頼んで行くのであつた。教師の腰の低い割合においよさんにはツンとした所があつた。我儘に育てられた女であつたのだ。尤も此は私がおいよさんと別れてから母も私も思つたことである。私の病気のために心配した母はおいよさんにも深く同情したのである。障子の蔭で針仕事をしながら
「おいよさんもお弱くて困りますね。それに何だか思はしくないんですつてお父さんも大抵の苦労ぢやないんでせうね。あなたも我慢することは出来ないんですかね」
私の母がいつたことがあつた。
「どうしても私厭なんでございますから」
暫くたつてからおいよさんの声でかういつた。
「それでもあちらでは戻したいといふんぢやありませんか」
「どうでございますか」
「此間あちらから人が来た相でしたね」
「そんなことを父が申して居りましたが」
「籍はまだ送つてないんだつてましたね」
「まだこちらにございますから私さへ戻らなければそれまでなんでございます」
「そんなことを聞いては何ですがそれには訳もあるんでせうがね」
「私どうしても厭なんでございます」
私は襖を隔てゝかういふことを聞いたことがある。私は耳を欹てた。おいよさんは戸籍は送つてないといつたけれど夫のある女である。夫のある女といふものは決して善い感じを与へるものではないのである。然し私に近くおいよさんの居ることは私に少しも不快の感を起させない。おいよさんが私の家に少し落ち付いた頃私は其涼し相な目を見てふと何処かで見たことがありはしないかと思つた。追求の念が絶えず私をそゝつておいよさんの顔を見させたのである。おいよさんは此を何と思つたか、私がおいよさんを見る度においよさんも私を見返すのであつた。
三
其頃からでは余程前のことであつた。或遠方の姻戚に葬式があつたことがあつた。夏といつてもまだ暑いといふ頃ではなかつたが、竹の筒には百合の花が供へられてあつた。藪の草の中などにはまだ山百合が膨れ出しもしなかつた位であつたから、草花の好な私は其白い花が何といふ百合であるかと見て居たのであつた。其土地は私の村とは違つて樹立も稀に只田が闊々として何処にも日が一杯に射して居た。そこらの庭の隅には其白い百合がぎつしりと花を持つて簇生して居るのを見た。田が連つて居る土地だけに私の村のやうではなくどこにも空地といふものは極めて少なかつた。棺が庭へ卸された時見物に集つた村の者と客とが庭にぎつしり詰つた。私は垣根の側に混雑を避けて居た。私の側には見物の女が三四人居た。私はうつかりして居ると其中の一人があれと喫驚したやうにいつた。私に一番接近した十五六の女の子の背負うて居た乳飲児が其女の子の肩へ挂けて白く乳を吐いた。さうして其とばしりが私の紋付の羽織へかゝつたのであつた。女の子は赤い顔をして居る。後へ廻した片手を外して手拭で私の羽織を拭かうとする所であつた。私は手巾を出してそつとふいた。女の子は挨拶のしやうもなく只はら/\して居た。日がすぐに羽織を乾して乳の痕がうすく袂に印された。私はふと又肩の処に褐色の粉がぽちつと附いて居るのに気がついた。指の先で弾いて見てもそれでも微かに粉が残つて居た。其時私の側からもう距つた先刻の女の子を人越しに見た。乳飲児が白い百合の花を持つて居る。其百合の花粉が私の肩に触れたのであつた。女の子は只それだけのことで私の記憶に存して居る程のことはなかつたのである。だから其後更に思ひ出すことも無かつたのであるが、おいよさんを何処かで見たことのある女のやうだと暫く案じて居た末到頭此が記憶から喚び起されたのであつた。おいよさんはさう思つて見ると其時の女の子である。或時私はそれとはなしに其土地に居たことがあるかないか聞いて見た。さうして其子がおいよさんであることを慥めた。それにしても私は其時の女の子と今のおいよさんとの容子が何から何まで変つて居るのには驚いた。私の夏羽織は其儘になつて居た。私のやうな辺鄙の土地に居るものは晴衣の夏羽織を用ゐることはそれは滅多にないことなので幾年でも仕立てた儘に保存されて居るのである。乳の痕が微かに見えて居た。私はおいよさんに見せて目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]るのを見た。かういふ些細な事実がおいよさんと私との間を近くすることを速めた。それからといふものはお互に幾分遠慮がとれて来たのであつた。おいよさんが来たばかりの頃はまだ単衣であつた。風呂敷包一つ持つて近くの叔母の所へ客に行くといつて出た儘遁げて来たのだからといつておいよさんは紺飛白の洗ひ曝しと中形の浴衣と二枚より外持つては居なかつた。浴衣を着て襷挂になるとおいよさんは一寸人目を惹くのであつた。紺絣は柄が不似合なので別人のやうになるのであつた。秋も涼しくなつたのでおいよさんは其紺絣ばかり着るやうに成つた。私はそれを心に不満足に見て居た。だがこれまでも私には妙な一つの癖があつた。一人の女を始終見て居るとすると悪く見えて居る所がなくなつてくれゝばいゝがと思ひながら見ては又見るのである。悪い処が幾らづゝでも私の目に悪く映る度合の減ずるやうに心挂けるのであつた。私は見馴れることに勉めたといへばいへるのである。おいよさんの紺絣の姿もだん/\見づらくないやうになつた。おいよさんは私の冬着の支度に骨折つて居た。或日私が秋草の植込に水を注いで居た。私の村のやうな辺鄙な土地で秋草を作らうといふものは私の外には一人もないのである。私はそれを自慢の一つにして居たのである。
「あなた一寸お出でなすつて下さい」
おいよさんは呼びに来た。座敷へ行つて見ると
「これを通して見て」
縫ひ上げた綿入を二つ襲ねておいよさんは私の後へ廻つた。
「どうするんだい」
どうするか私に分らないことはないのだが、黙つて立つて居るのが極りが悪いやうな気がしたのでかういつたのである。私はどこまでも初心であつた。
「あらまあどうでもようござんすよ」
おいよさんは構はずに衣物を私に引つ挂けさせて、後で膝をついて裾を合せて引張つて見たり、前へ立つて袖を横に引つ張つて見たりして白いしつけ糸をとつて口に入れては歯で噛みながら
「もう何処へ行つてもようござんすよ」
おいよさんは衣物をとりながら私を見て嫣然とした。おいよさんは遠慮がとれると共に私に対してはき/\して来た。私の家庭に於いておいよさんは便利な人になつた。特に私には日常のすべてに於て女といふものゝ便利なことをつく/″\と感ぜしめた。
秋も冷かになつた。教師はよく来たがおいよさんの為めに袷の用意をして来ない。母はどうせ届けてよこす見込はないのだらうと唐桟の袷地を買つてやつた。夜ランプの下でおいよさんが袷地をいぢりながら母へ義理を述べた時には私は心窃にうれしかつた。次の日においよさんは反物の尺を測つて一寸考へて復た測つてそれを裁たうとして居ると、教師からだといつて近所から行く生徒が手紙を持つて来た。おいよさんは反物を拡げた儘すぐに封を切つた。暫く物案じをして居たがすぐに其所を始末して母へ暇を告げて出て行つた。おいよさんは其日は帰らなかつた。次の日も帰らない。おいよさんの針仕事は依然としておいよさんが束ねた儘そつくりと柱の側に置かれてある。私の心は何んだか形容し難い寂しさを感じた。此の時限り私はおいよさんに別れたのではない。それにも拘らず私はおいよさんに対して前後に此の時程果敢ない思をしたことがない。どうしても心が騒いでならないのであつた。おいよさんは三日目の夕方私が跣足で秋草へ水をやつて居る所へ風呂敷包を抱へてもどつて来た。
「まだ極りがつかないもんですから人が来たんだつていひました。私はいつだつておなじなんですから駄目ですよ」
かういつて
「それでもね私が置いて来た衣物は二枚ばかりとゞきました。私がこゝへ来て居ることは来た人も知らないんですからね。どこへ行つて居るんだつて頻りに聞いた相ですよ」
おいよさんは淋しく笑つた。どうもはき/\として居ない。おいよさんは又何かいはうとしたが傭人が畑から帰つて来たので私のもとを去つた。私はおいよさんを見てひどく不安に感じた。それでも其夜ランプの下で自分の袷地を裁つて威勢よく箆をつけて居るのを見て少し心がゆつたりしたやうであつた。おいよさんの家からはそれつきり何ともいつて来なかつた。おいよさんは依然として私に便利な人であつた。私は外出する度窃においよさんの用を達してやつた。私は自分から何か欲しいものはないかと聞いてやるのであつた。赤い綿フランネルだのメリンスの半襟だの私はおいよさんの為めに買つて来た。おいよさんのはき/\した態度は初心な私の眼を掩うたのである。
或晩私は便所へ立つた。便所の戸を開けようとした時私はおいよさんの部屋の障子が一杯に明るくなつて居るのに気がついた。便所に近い六畳の間がおいよさんの部屋にあてられてあつたのである。夜はもう何時位であつたか知れなかつたが秋雨が止まず降り注いで居る。廂を掩うて居る桐の木がもう落葉して居るので其落葉へ雨はばしや/\と打ちつける。廂へもじと/\と打ちつける。さうかと思ふと草鞋で歩いて来る足音のやうにしと/\と遠い響が聞えて来る。※[#「虫+車」、第3水準1-91-55]が滅入るやうに鳴いて居る。さういふ錯雑した響の中に夜はしんとして更けつゝあるのを感ぜしめた。便所を出る時にもおいよさんの部屋は障子が一杯に明るくなつ[#底本では「っ」]た儘である。暫く立つて見たが障子の内は只静かである。おいよさんはどうして居るのであらうか、或はうつかり眠つて畢つたのではなからうか、眠つたとすると枕元へ引きつけたランプは危険である。それで私は障子に近づいて外からがた/\と軽く障子を動かして見た。起きて居るならば何とか驚いて声を立てる筈であるのに一向返辞もない。私は有繋に心が咎めながら到頭障子を開けて見た。おいよさんは熟睡して居る。こちらを向いてさうして蒲団の外へ延した右の手から雑誌が披いた儘こけて居た。大縞の浴衣を着たしどけない姿で肩が挂蒲団から脱け出して居た。枕元の二分心のランプは心が一杯に出て油煙が微かにホヤの上に立つて居る。さうして室内はほのかに臭くなつて居た。おいよさんは深夜に障子を開けて私がはひつて来たとは知らない。さうして軽く体に波を打たせながら息づく外に微動もしない。ランプの光はおいよさんの無心な白い顔を見守つて居る。私は立つたまゝ堅くなつたやうになつて見おろした。おいよさんの口もとの筋がどうしたのか少しぴく/\と動いた。私はつとしやがんでランプの心を引つ込めた。裾がおいよさんの手に触れた。おいよさんはぎよつと目を開いた。さうして驚いた機会にすつと一時に息を吸ひ込んで、まあと一声出して打消すやうに手を挙げた。おいよさんは手を引きながらランプのホヤを倒した。おいよさんは慌てゝ身を起しかけた。其時はもう私が火を吹つ消したのでおいよさんの姿は只目前に見えなくなつてしまつた。それと同時に生暖い風がふわりと私の肌に感じた。
四
翌朝目が醒めて見ると秋の日が障子の腰にかつと光を投げ掛けて居た。私は暫くもぢ/\して天井の木理を見つめて居た。以前からどうかすると酷く体がゝつかりして居て唯ぼうつとして時間を過すのが屡であつた。此は私が病気の為であつた。小勢であるだけ私の家はひつそりして居るのであるが今朝はそれが殊更静に感ぜられた。障子の外では庭で傭人が陸稲を扱きはじめたと見えてぼり/\と懶相な音が聞える。又目を瞑つて居ると襖がそつと開いたやうである。ふと見るとおいよさんが私の部屋の外へ塵払と箒とを挂けに来たのである。おいよさんが箒を取りに来た時は私はまだ熟睡して居たらしかつた。襖をそつと締める時おいよさんは冠つて居る白い手拭の下から私を見て嫣然とした。おいよさんが嫣然とする時には屹度口が小さく蹙まつて鼻の処に微かな皺が寄るのであつた。私は身内がだるくなつて居るので其時はおいよさんを見て厭な心持――厭といふ程でもないが――がした。庭先から聞える懶い稲扱の音を聞きながら又うと/\して漸く起きたのは十時近くであつた。毎朝の習慣で私は便所へ立つた。窓の障子を開けて見ると西に聳えた杉森の梢が二尺ばかり間を隔てゝ廂にくつゝかうとして居る。其間から空が見える。夜の降りが強かつたので秋の空は研ぎ出したやうに冴えて見える。杉の木の間から見える空も青く光つて居る。横からも竪からも秋の空が窓を覗いて居るやうである。廂の上に立つた桐の木へ啄木鳥が一羽飛んで来た。丈夫相な爪先で幹にしつかとつかまりながらぼく/\と嘴で叩いては時々きゝと鳴く。さうして幹をめぐりながら上部へのぼつて行く。私は凝然として見て居た。私は以前病気で居る間からぼうつとして畢つて居る時は或物に目をつけると喪心したやうに何時までも見て居るのが癖であつた。其ぼうつとして見て居ることから他へ移る運動が懶くてたまらぬのであつた。其朝もさういふ心持で啄木鳥に見入つたのであつた。威勢のいゝ啄木鳥は赤い腹を出したり黒い脊を見せたりしてぼく/\と幹をつゝいて居る。其姿は赤い半股引を穿いて尻をねぢあげて大形な飛白の羽織を引つ挂けたやうである。さう思つて見るとぐつと後へ首を引いては嘴が痛からうと思ふ程ぼく/\と強く叩く其動作がひどく滑稽で私は思はず興味を持つた。私はぼうつとして何かに興味を持つて来ると先から先へと迷想に耽つて畢ふことが度々であつた。私は足が痺れたので漸く便所を出た。自分の部屋の障子を開けると空はからりとしてすべてが皆きら/\した日光を浴びて居る。傭人は四人で向合になつ[#底本では「っ」]て陸稲を扱いて居る。各左手に積んだ陸稲の束をほぐしてはぶり/\と扱いて居る。女が一人其扱いだ藁を小さな束に拵へて居る。小さな蜻蛉が薄い羽を日にきらめかしながらすい/\と飛びめぐつて居る。庭におりて見ると杉の梢にも蜻蛉の羽がきら/\と光つて見えた。私は水浴をするために楊枝を使ひながら井戸端へ行つた。其所には井戸端を覆うて葉鶏頭が簇生して居る。赤い葉が目に眩きばかり燃え立つて居る。白い手拭を冠つたおいよさんが葉鶏頭の蔭に洗濯をして居る。盥の中には私の衣物がつけてあつた。朝から暖かなのでおいよさんは例の浴衣を着て居た。私が井戸端へ立つと
「汲みませう」
おいよさんは急いで水を一杯汲んでくれた。私はおいよさんのする儘に任せた。釣瓶の水がぼんやり立つて居た私の下駄へざぶりとかゝつた。
「まあ済みません、私が後にようく洗つて干して置いてあげますから」
さういつておいよさんは手拭の下から私をちらりと見た。只水を汲ました丈では何でもないことである。然し私は其時おいよさんに対してどういふものか心が臆したのであつた。おいよさんも言葉遣がいくらか違つて居た。私はふと傭人を見た。二人はこちらに後を見せて居る。二人がこちらを向いて居る。其時陸穂を手にした儘一人がにこ/\しながら私の方を見た。私にはそれが嘲弄されるやうに感じた。だが群つた葉鶏頭は私の方からはすかして見えるけれどずつと離れた庭の中央からでは私等二人は掩はれて見える筈はないのである。彼等同士が唯饒舌つては笑つて居たに過ぎないのであつた。それでも私は其時厭な心持がしたのであつた。水浴をしてから幾らか爽快になつた。私は跣足になつて雨で倒れかゝつた秋草に杖を立てたりした。門の側のカナメ垣の外へいつも来る商人が天秤をおろして近所の百姓と噺をして居るのが私の耳にはひつた。見ると百姓は商人の荷から生薑の束を引き出してまけろというて居る。不作だから不廉いことはないと商人はいつて居る。時節が後れたから筋が堅くてもう不味いといふやうなことを声高にいつて百姓は生薑を買つた。
「生薑位はおめえ只ぶん投げて行くことにしてもいゝんだ」
百姓がいふと
「商人がおめえそれで立ちきれるかい」
と天秤を杖につきながら商人がいつた。
「おめえそれでも今の嚊持つ時にやどうしたつけ」
「又そんなこと、つまんねえことをいふなよ」
「それだつておめえが通つて来る時にや俺はなんぼおめえがことはかばつてやつたか知れめえ。又おめえも能く追出され/\してな」
百姓は暫く笑つたが間を措いて
「あんな時からぢやおめえも年とつたな」
「年もとらな」
二人は戯談半分にこんなことをいつて笑つて居る。かういふ野卑な対話でも私は平生ならば幾分の興味を持つたであらうが其日はいつまでも聞いて居ることが出来なかつた。其日は兎に角私に不快の感を与へることの多い日であつた。おいよさんは洗濯物を葉鶏頭に添うて干した。私は白い衣物を葉鶏頭の側に干すのが好きであつた。おいよさんは私の下駄を洗つて軒下へ干してそれから例の如く針仕事に挂つた。おいよさんの態度は私にはちつとも変つて居るやうに見えなかつた。私も二三日して体の工合か心持がせい/\として来た。さうしてそれから私等二人は屡人目を忍ぶやうになつたのである。数月は経過した。其間おいよさんは私にさへ能くかう平気で居られると思はれる程素振には出さなかつた。後になつて見ると私も随分匿情といふことではおいよさんに劣らなかつたと思はれる。世間に隠さうといふ念慮が私の心に強かつたからである。私は其間どういふものかおいよさんに対して熱烈な情を燃やしては居なかつた。唯おいよさんを遠ざけることは私に悲しかつた。長い月日の間には各欠点が分つて来る。心の遠慮のとれた間柄になつてからはおいよさんに我儘な所もあつた。窮迫した家庭に成長したからだと思はれるだけ野卑な処もあつた。私はすべてを心に承知して居て厭にもならずに関係を続けて居たのである。一種の惰性であつたといはねばならぬ。
五
おいよさんの父なる教師の身には必然の運命が来た。其職を罷められたのである。憐むべき教師は自分の妻の郷里に身を落ち付けるといふことになつた。私の母へはくれ/″\もおいよさんを頼んだ。おいよさんの一身は私の家でどんなにしても処理してくれるやうにといふのであつた。其後もおいよさんは別段変つたこともなく私の家に在つた。季節はだん/\寒くなつた。葉鶏頭も其他の秋草も霜でぐつたりとして畢つた。落葉が喬木の梢から飛んでどこの庭にも散らばつた。干藁や籾の筵にも夕日の射す頃には小さな欅の葉が軽く転がつて居る。落葉が大抵掃き竭されて秋草は刈り去られて冬らしくなつた庭が蒼い空のもとにからりとして来た。世間は改まつた。おいよさんは自分の家から持つて来た古い綿入羽織を引つ挂けて居た。私の母から与へられた唐桟の袷の上へ其古ぼけた羽織を着るのは不恰好で又憐れげであつた。私の母はまた羽織の材料を見つけてやつた。それが仕立て上げられた時おいよさんの容子がきりゝとなつた。櫟林には到る処藁が吊された。此は落葉を猥りに採るなといふ印である。萵雀《あをじ》が其乾いた落葉を軽く踏んで冬は村へ行き渡つた。おいよさんと私との間には人知れず苦悩が起つた。おいよさんの身体の工合が変に成つたといふのである。半信半疑のうちに一ケ月待つて見た。どうしても懐胎したらしいとおいよさんも心配な顔をして私に語つた。私も自分の身の破綻であるやうに思はれて窃に其処分を考究した。おいよさんは時々朝から臥せることがある。私は心配になるからだらうと思つてそつと枕元に行つて見るとおいよさんは其一塊肉のために私に訴へるのであつた。さうしてかうなるのもあなたが悪いのだと私を責めることもあつた。けれどもおいよさんの臥せつて居ることは例の加減が悪いからだらうと人は思つて居るのだからそんな疑を抱かれることはないと私は思つて居た。私はそれとはなしにそこらで懐胎した女の思ひ切つた身の処分法を聞いた。其度毎に私はおいよさんに告げて其ぢつと目を据ゑて身にしみた聞きやうをするのを見た。一ケ月はまた経過した。けれどもおいよさんの体は常態には復さなかつた。其内に田舎の正月が近づいて来た。おいよさんは正月になつたら母の郷里へ行つて来たいといつた。おいよさんは或日人の居らぬ処で私に銭をくれといつた。それは小遣としては少し多過ぎた請求であつたが、衣服一枚拵へたいのだといふのを聞いてそれにしては余りに少ないのではないかと思つた。私はせがまれては快くはなかつた。然し物蔭に立つてぢつとおいよさんの目を見る時は変な心持になつて畢ふので私は此の請求もすぐに容れたのであつた。おいよさんは近いといつても河を渡つて行かなければならぬ或町へ反物を買ひに行つ[#底本では「っ」]た。私はおいよさんが行くことに就いて苦心した。さうして口実を授けた。私にもずるい考が起るのであつた。おいよさんの妹で看護婦に成つて居るのがあつてそれが遠くへ行つて居る。其妹から数日前に封状が届いて居る。それで其中に封じてあつた為替を取りに行くのだと私の母へはいつて行けとかう教へたのであつた。おいよさんの反物は柄は絣であつたが翳せば先が見え透くやうな安物であつた。おいよさんは仕立を近所の少しは針仕事の出来る女へ頼んだ。これが二人の間を疑はしめる材料を提供したのであつた。おいよさんには冬衣のさつぱりしたものは一枚もなかつた。有繋によごれた着物で郷里へ行くことを羞ぢたのであつた。おいよさんは正月の上旬に霜の解けないうちといつて未明に人力車で出て行つた。おいよさんが行つてからも私はひどく不安の念に駆られて居た。おいよさんは出て行く前に私の腹は私がどうにかします、私も知つて居ますからといふのであつた。どうする積かと私は聞いて見たら、知合の女に窃に処分をしたものがある。其女の家へ客に行つてどうとか思案を借りて見る積だといつた。私は悪いことだとは思つたが、どうにかそれが人知れずに葬つて畢へるならばと有繋に思はぬ訳には行かなかつ[#底本では「っ」]た。世間へどうしても知らしたくないといふ念慮が先に立つて私はそれを抑制する言葉が私の喉から出なかつたのである。おいよさんが行つてから心は少しも安まらなかつたが、此の前おいよさんが其家へ行つた時程は淋しい心を抱かせなかつた。
おいよさんが行つて幾日かたつてから私が茶の間の火鉢の側で新聞紙を見て居ると母は静に私へいつた。あたりには人は居なかつた。母はかういつた。それは能く聞いて見ねば分らぬことではあるが、おいよさんの針仕事をした女の窃に耳打する所によると二人の間は疑はれて居る。外にどうといふことはないが近頃おいよさんが其の女に逢ふと懐胎した時はどうしたらいゝだらうといふやうなことをよく聞くのである。一度や二度のことではないのでそれがどうも変である。尤も懐胎したとすれば顔のつやが善過ぎるからしかとはいはれぬが、大事をとるならばおいよさんは再び戻さぬ方がよいかも知れぬといつたといふのであつた。母はそれで其女に二人の間は人目につくやうなことでもあつたかと聞いて見ると何にも別にないといつた。それでは決して人には語つてくれるな、私もさういふことがあらうとは思はずに居たのだから能く聞いて見るからと其女の口止をしたのであつたといつた。私は其時只無言で家蔭の霜柱がほろりと崩れるのを見て居た。無言の自白は母の心を和げた。さうなれば私にも思案はあると母はいつた。私の隠れた悪才が窮策を運らした。欺きおほせるだけ人を欺かうとしたのである。一つにはおいよさんがそれ程欲しい女ではないが此儘別れて畢ふのも惜いし、身体の容子も聞いて見たいしそこには色々あつたのである。それで私は母にかういつた。窃においよさんの家へ行つて身体の容子がどうであるかを見て貰ひたい。さうして別に変つたことがなかつたら、まだ針仕事をして貰ひたいからどうとも其処はいひやうがあらうから再び私の家へ来るやうにいつて見て貰ひたい。連れて来て二三ケ月も置いたならば近所の人の疑も薄らぐに相違ない。耳打した女へは或はさうかとも思ふから又連れて来て二人の容子も能く見たいと思ふのだとかういつて置けば其内に慥にさうと疑を容れることも出来まいからと私は母へ迫つた。私の母は怜悧な女であつたけれども私のこんな浅猿しいことを聴いた。私はそれでもう決しておいよさんと関係はせぬといふことを母へ誓つた。母は窃においよさんの家へ行つておいよさんを喚び寄せることにした。おいよさんは風邪を引いたといつて臥せつて居たけれど別に変つたことはなかつたと母はいつた。私はそれを聞いて胸を痛めた。さうして更に安心した。おいよさんと私との間はまた以前に戻つてしまつた。それを私の母は疑はない。母は私にのみは尊い盲目であつた。私は情を通じて居たけれども私の理性の強い抑制は以前よりも冷静な関係を持続させたのである。私はもとからおいよさんに執着しては居なかつた。人目の蔭でおいよさんの目を見る時は私の心は変になるのであつたが、私はどこまでも隠匿しようといふ念慮が強く働いて居た。二人は到底別れねばならぬ筈に極つて居るのだから、愈別れとなつた時は決して私に思を残してはならぬといふことまで数次おいよさんに断つて置いたのである。さういふ口の下から私は其関係を続けて居たのである。此が凡人の浅猿しさである。
櫟林にも春の光が射し透すやうになつた。私はおいよさんを返す気になつた。私の情が冷かであつたから随つておいよさんにも余所々々しいところが出て来た。さうすればまた私の心にはおいよさんに不快な所が見えて来る。我儘に育つたと思ふやうな所も明かに分かるやうになつたのである。母は後の憂のないやうと窃に貯へて置いた手切の金を私に渡した。私の母は何処までも知らぬ分で其金も私の苦心から出たことにした。別れ噺も私から持ち出した。一ケ月たつうちにおいよさんも其積りになつた。私の家へ来てからおいよさんには衣物が殖えた。いよ/\帰ることになると衣物を包む風呂敷もない。私は他出した時萌黄の木綿を一反買つて来てやつた。おいよさんは一心にそれを縫つた。大きな包がおいよさんの部屋に置かれた。噺がすつかり極つて畢ふと何となく又心が惹かされた。無理に逐ひやるのが気の毒のやうにもあつたのである。私はおいよさんの部屋に忍ぶことを抑制し得なかつた。加之私は手切のことでまだ噺があるからと母を欺いて遠慮もなくおいよさんの部屋へ行つた。其頃おいよさんは加減が悪いからといつては部屋に籠つて居た。私の母は有繋に気が揉めるのだらうといつた。最終の日が来た。雨の降る日であつた。おいよさんはしをらしく母へ挨拶した。母も叮嚀に時儀をした。私は側にそれを見て居た。車の幌を挂けて出たので村の人々には私の村を離れて行くおいよさんの姿は見られなかつた。おいよさんとはそれつ切り逢つたことがない。然しおいよさんの噺はまだ少し残つて居る。其後おいよさんから手紙が来た。封筒には私の友人の名が書いてある。私は心もとなく封を切つて見た。又懐胎したやうに思はれる。先のは幸にこつそりと始末した。此度はもう引き続き身体が悪いので危険なことを冒すことは出来ぬ。それにしても今一度相談がしたいから、こつちへ来て逢つてくれと媾曳の場所まで書いてあつた。私も困却して畢つた。逢つてやらねばなるまいかと思つたが、何だか闇い深い穴へでもはひるやうな気がして恐怖心が私を躊躇させた。手紙がまた来た。一旦手は切つたけれど、其時はかういふ体になつて居ようとは思はなかつた。それをすげなく扱ふのは無情だといつて散々に怨んだ手紙である。私も思案のしようがないので母へ打ち明けた。母も非常に心配した。深い溜息をついた。私は母の容子を見るのがつらかつた。母は幾度も手紙へ目を通した。然しまだ考へやうもある。此の手紙には一旦手を切つたと書いてある。此も後の証拠に保存して置かねばならぬ。それからあれの母といふのが尋常ではないらしいし、又どんな奴が智恵を貸さぬものでもない。能く容子を探つてからにしなければならぬ。それにしても家に居ない方が却ていゝかも知れぬ。何処かの海岸へでも行つて保養かた/″\暫く居て来たがいゝと私の母はいふのであつた。私はそれから常陸の平潟の港へ身を避けた。私はそこで又一人の女を見た。
六
其頃は時候も梅雨期の終に属して居たので世間が鬱陶しかつた。障子の紙がゆるんで雨がしと/\と降つて居た。転地した二三日はひどく落付かなかつた。それでも変つた土地の状況がだん/\私を紛らせた。平坦な土地のみを見て居た私にはすべてが目を惹いた。海岸は皆一帯の丘阜である。其丘阜を丸鑿で刳りとつたやうな小さな入江が穿たれてある。入江に添うて港の人家が建てられてあるのである。人工を加へた一筋の街道が此港と丘の後の村々との間を僅に継いで居る。港の町の大部分は其窮屈な海岸から遁げ出したやうに延び出して其街道を挟んで居る。宿は此小さな入江を一目にした三階建であつた。私の案内されたのは二階の中の間である。座敷の障子を開けておけば雨の入江が勾欄から見える。然し小さな入江は窮屈に見えた。入江を抱へた丘の一端は拳のやうに一段高い。其処に立つて居る一簇の老松の梢には夕方になれば鴉が四方から聚つて鬱陶しい雨に打たれながら騒ぐ。梢に棲みつくまでは飛び交し/\騒いで居る。二三日の間は此の鴉の騒ぎが私の心を引き立てた位であつた。一日空の模様がよくなり挂けたので私はすぐに散歩に出た。入江の岸を伝うて臭い漁師町を越して丘の間を小径の導くまゝに行つた。小径は貝殻の白く散らばつた畑の間の窪みである。ぽつ/\と穴が明いたやうに空には青い所が見えて来た。丘の間からところ/″\行手に青い煙の立つて居るのが見える。其煙は空へ明いた穴に吸はれるやうに真直に立ち騰つて行く。空の穴は心持よくずん/\と拡がつて行く。煙がすぐ近くに見えて小径がめぐつたと思つたら丘の上へ出た。畑がひろ/″\と見渡される。目の前には穢い衣物を着た女が其火を燃やして居るのを見た。それは麦の束であつた。穂先へ火のついた麦束を片手に翳して燃やしながら、片手に別の束をとつて其燃やして居る穂先から火を移す。めろ/\と燃えはじめたかと思ふと焦げた麦の穂がぼろ/\と落ちる。短くなつた燃えさしの麦束はぽつと傍へ投げ棄てる。そこにも煙はうすく立つ。女は燃やしては棄て/\非常に忙しげに手を動かして居る。私はふと燃えさしの麦束の散らばつたあたりに地にひつゝいて白い花の簇がつて居るのを見た。それは野茨の花であつた。軟かな長い枝がつやゝかな緑の葉をつけてすつと偃ひ出して居る。燃えさしの火が白い花を焦して居た。高低のある丘にはそこにもこゝにも麦を焼く煙が穏かな空気に浮んで行く。畑の女はたま/\の晴を見定めて麦の仕納をして畢はうといふのらしい。私はかういふ農事の仕方を此時はじめて見た。私は珍らしさに暫く立つて見て居た。空は一杯に晴れた。有繋に日は暑く照つて来た。私は爽快な丘の上を歩いた。海が丘の先に見え出した。海は一足毎に前に拡がつて来る。蟠屈した松が断崖に臨んで居る。私は好奇心から松の枝を攀ぢて見た。瞰おろすと波は唯白い泡である。岸に立つて見る波は大きいのも小さいのも必ず立ちあがつて来る。瞰おろす波は唯白い泡がざわ/\と動いて四方へ拡がるのみである。私は暫く其綺麗な白い泡の変化を見て居た。遠くを見ると褐色の断崖が連つて沖に相対して居る。打ちつける波が描く白い一線が水陸を画して居る。そこを去る時私はふと枝の間から近くに船の泛いてるのを見た。麦を焼いてる女に聞いて見たらそれは松魚船だといつた。こんな所で松魚が釣れるのかといつたら、そこでは松魚を釣る餌にする鰯を網ですくつて居るのだといつた。此から松魚が運ばれるのだと私は心に勇んだ。浜はこれまで不漁であつた。私は此の日はすべてが快かつた。さうしてもう帰らうと思つて見ると一段低い畑に婀娜な女が立つて居た。此の女が沖を遠く見て居たのである。私が小径へおりた時女も畑からおりて来た。私は此の女が私の隣座敷の客であつたことに気がついた。さうして女がどうしてこんな所へ来たものかと不審に思つた。だが私が窮屈な宿の座敷を出て散歩したことの愉快であつたことを思つた時その不審は晴れた。女も退屈まぎれに出たのだらうと思つた。女は私に近よつた時急に両手の袖を重ねて胸を掩うた。さうして余所を向いた。私は其日から隣座敷に心をおいて見るやうになつた。私の座敷は前にもいつたやうに二階の中の間で女の座敷は突き止りであつた。襖一枚が二つの座敷を隔てゝ居る。私は宿へついた時から隣座敷に女の客があることを知つて居た。只婀娜な女だと思つて居た。丘の畑で逢つてから急に私の注意が促されたのである。
其次の日から空がまた六かしくなつた。私は湿つぽい室にばかり籠つて居た。身体がだるくなつて半日位うと/\と横になつて居ることもあつた。隣座敷の女も滅多に障子の外へさへ出ない。それでふつゝりと音沙汰もない。大方此も臥せつて居るのだらうと思はれるが私には女の座敷を覗く機会がない。一つの柱が両方の座敷を境してどちらの障子も其柱に建てつけてある。私は其柱から先へ理由もないのに一歩でも越えることは出来ない。越えて行つて見たとしても隣の座敷はひつそりと障子が閉てゝあるのであつた。それでも女が二階をおりて用達しに行くのには私の座敷の前を通らねばならぬ。其の時女は屹度袖で胸を掩うて居る。隣の障子がそつと開いた時いつでも私は目を欹てる。どうかすると女は障子を開けた儘私の座敷の前を通らぬことがある。私が障子の外へ出て見ると勾欄に両手をついて入江を見て居たのが障子をはたと締めて引つ込んで畢ふ。其時でも屹度衣物で胸を掩ふのである。散歩から帰つて見ると女は帳場の脇で新聞紙を見て居ることがある。女は隣座敷に只一人である。女一人で居るといふことがどうも私の腑に落ちぬ所であつた。さうかといつて女は決して厭らしい点はなくしをらしい容子であつた。或日隣の座敷では何かさら/\と巻紙でも巻いて居るやうな音が微かに聞えた。やがてばちりと筆を擱く音がしてそれからかたりと硯箱の蓋を落す音がした。ひつそりとした隣の座敷からは茶碗へ湯を汲む音さへはつきりと私の耳に響くのであつた。私の懐疑心は隣の座敷に対して神経を鋭敏にして居たのであつた。やがて女は一封の手紙らしいものを持つて、衣物で胸を掩ひながら私の座敷の前を通つて二階をおりて行つた。二三日たつてから私は少しの雨間を見て散歩に出た。復た此の間の畑へ行つて見た。青い煙も立つて居らなければ百姓の女も見えぬ。燃やして棄てた麦束は此の間の儘ぐつしよりと湿つて居る。僅かの間に白い野茨の花もなくなつた。懶げな海と相接して空がどんよりと低く垂れて居る。私は寂しさに堪へなかつた。宿へもどつたのは正午少し過ぎであつた。隣の座敷には草履が二足脱いであつてひそ/\と噺をして居るのが聞えた。私が自分の座敷の障子を開けてはひつた時噺は少し途切れたやうであつた。軈て又以前よりもひそ/\と語りはじめたやうである。女中が私へ昼餐を持つて来た時、隣の障子が開いて女は一人のお婆さんと階子段をおりて行つた。お婆さんは私の座敷をちらりと見て会釈して行つた。田舎の人としては品のいゝ怜悧相な人であつた。髪は油が乗つて居たが半分程は白いやうであつた。私はあのお婆さんは今日はじめて来た客かと女中に聞いて見た。女中はもう二三度来たことがあるので、隣の女もあのお婆さんが連れて来たのである。女はもう三週間ばかり隣の座敷に居るのである。さうしてお婆さんが来るといつでも此所の主人とお婆さんとで頻りに相談をして居るのだといつた。まだ海水浴といふ時節でもないから客も少ない此の港の宿に保養であるとしてもあの女は不思議である。私は箸をとりながら尚女中に聞いて見た。唯手持無沙汰にして聞くよりもかうして膳に向いて聞くのは私には張合があつた。
「私もよくは知りませんがね、あの方はお気の毒なんですと」
女中は丸盆を膝に立てゝかういつた。
「お前知つてるかいそれを」
私は聞かないわけには行かなかつた。
「本当はね、私知らないんですがね、さういふこといつてますんですよ」
「誰がいつてるんだい」
「此所の且那さんが他人でないんですつて、旦那さんがねあのお婆さんと噺しちや困つたなんていつていますよ、それだけですよ」
私は土瓶から注いだ茶を一杯に飲み干した。
「あの方あれで廿四ですつて、別嬪でさあね」
女中は盆を立てた儘いつた。其噺は要領を得なかつたが此の宿が女と姻戚の間柄であるといふのを聞いて私は女が一人で身を託すことの出来る理由を知つた。隣の座敷へは其夜お婆さんが泊つた。其次の日もお婆さんは帰らなかつた。隣の座敷ではよくひそ/\と噺をした。私はお婆さんが帳場で主人と噺をして居るのも見た。其時お婆さんも主人も只煙草の烟を吹いて居るものゝ如くであつた。私は鬱陶しい宿の退屈に堪へないので思ひ切つて雨の中をそこからでは遠くもないといふ炭坑を見に出挂けた。二日ばかりで雨は晴れた。私は山の途中から光る海を見た。山を出て宿へついたのは日が後の丘に傾きつゝある時であつた。小さな入江には松魚船が五六艘泛んで居る。船は皆帆を張つたやうに建てた檣へ網を干してある。入江を抱へた岡の松にはもう鴉が塒を求めて騒いで居る。岡の出鼻から突然船が現れた。裸の漁師が挂声をしながら艪を押して居る。船は船と船との間を矢の如く入江にはひる。艪の手が止ると船は惰力を以てずうつと汀まで進む。汀には港の人が集つて居る。浜の子供が幾十人となく人々に交つて居る。私は暑いので荷物にして来た衣物を宿の店先へ投げて浜へ駆けつけた。やがて船からは松魚をぽん/\と浅い水に投げる。船からおりた漁師が裸のまゝ松魚の尻尾を攫んで砂の上へ運ぶ。幾十人の浜の子は水にひたりながら先を争うて松魚を運ぶ。松魚は十づゝ其頭を揃へて砂の上にならべられる。人々が騒々しく其松魚を囲んで立ち塞がる。幾十人の子供は裸のまゝ一斉に声を立てゝ叫びはじめた。「くなんしよ/\」と叫ぶ。後には只「なんしよ/\」と声を限りに叫ぶ。手伝つた賃銭に松魚を呉れと叫ぶのである。立ち塞つた人々は其叫声には頓着なしに松魚の処分をしてずん/\外へ運んで行く。やがて一尾の松魚が子供の一人の手へ渡された。子供は直ちに走つていつてしまつた。私が宿へもどる時彼等は松魚を銭に換へたと見えて各一文二文と分配しつゝある所であつた。数日前とは異なつて港は何となく活々として来た。私は再び宿へもどつて来た時、宿の前には何かの肉であらうと思はれる綿のやうな黄色な然かも大きなものゝ浮んで居るのを見た。半ば岸へ揚げられて波にゆられて居る。それが酷い臭気を放つて居た。
「どちらの方へ、はあ炭坑へお出でになりましたか」
主人は私へ挨拶する。私は帳場の前へ一寸坐る。此の間のお婆さんはまだ帰らなかつたと見えて帳場の側に坐つて居た。お婆さんは自分の前の煙草盆を私の方へ移して軽く時儀をした。
「大分浜らしくなつて来ましたね」
私も主人へ挨拶した。
「えゝこの塩梅ぢや此からよからうと思ふんですがね、これで少し続いてくれなくちや困りますからね」
「馬鹿に臭いですな」
と私がいつた時主人は机の上に披いてあつた帳簿をはたと閉ぢて
「今も其噺をした所ですが、此は鯨の肉ですがね、どうも日数がたつて居ますからすつかり腐つて居るんです。そこらに浮いて居たのを引つ張つて来たんですが肥料ですな」
主人はかういつて更に
「どうぞまあ、お二階で御ゆつくり」
といつた。又た威勢のいゝ挂声がして松魚船がはひつて来た。私はつと店先へ立つて松魚の人だかりを見た。
「此の臭が厭だつていふんだからね」
お婆さんが主人に向つていつてるのを聞いた。
隣座敷はひつそりとして居る。女中が茶を持つて来たので、私は黙つて隣の座敷を指して肘を頭へあてゝ、女は寝て居るかと聞いた。
「しよつちふなんですよ、それに今日はね、此の臭が厭だつてね、吐いたんですよ。本当に此の臭は厭ですわね」
女中はこつそりとかういつた。私はふと女が懐胎して居るんぢやないかと思つた。さう思ふと酷く人に身を避けて居るやうなのが思ひ合される。
「此ぢやないか」
と私は手で腹を描いて女中に聞いた。女中は冷かに微笑しながら
「そんなこといふと旦那に叱られますがね、本当にをかしんですよ、それだがまだ見た処ぢや分りませんわね」
私へすりよつて小声でいつた。
お婆さんが階子段を昇つて来たので女中は慌てゝ行つて畢つた。
「只今はどうも」
とお婆さんは私に挨拶した。隣の座敷ではお婆さんの低い声が聞えた。
「どうだね、お前まだいけないかい。それぢやあつちの都合もあるから私は行くからね……」
あとの方は能く聞えなかつた。更に低く女の声がしたやうであつたがそれはちつとも分らなかつた。やがてお婆さんは小さな包を持つて出た。
「またお目にかゝります」
とお婆さんは私に挨拶して行つた。私は障子を開けて入江を見て居るとやがてお婆さんの車が威勢よくがら/\と走つて行つた。
其夜私は目が冴えてまぢ/\と雑念に駆られたのであつた。隣座敷の女が懐胎して居ると気がついた時私はおいよさんに対する心配が募つて来た。手紙にあるのが本当であればおいよさんの身体にはもう変化が起りかける時期である。おいよさんも隣座敷の女のやうに陰気にならねばならぬであらう。平生から虚弱な身体ではましてさうなければなるまい。おいよさんは正月に行つた時も懐胎して居た。さうして人知れず恐ろしい罪を犯して身軽になつた。ほつと息をつく間もなく又懐胎して畢つたのである。私等はよく/\運も悪いのであつた。おいよさんはもう此度は身体が恐ろしくてそんなことは出来ないというて独で苦しんで居るのである。隣座敷の女はどんな事情が纏綿して居るであらうか。おいよさんのやうな境遇に在るのではなからうかと私には思はれてならぬ。さうしておいよさんのしたやうな罪を犯す念慮もなく又さういふ方法も知らず只沈んで居るのであらう。それを思ふと私は窃に愧ぢ入らねばならぬ。然しおいよさんの心持になつて見ると私は一概においよさんを貶して畢ふ気にはなれぬ。おいよさんは夫を嫌つて遁げて来たのである。それが一家の事情から今では其夫の村に近く住まねばならなくなつた。懐胎してはもう私の家には居られないのである。そこはどういふことにしても体面上私の家ではおいよさんを置く訳に行かないからである。さうかといつておいよさんは耻を曝して嫌つた夫の近くに居ることが出来ようか。さうして思案の末に嘗て自分が知合であつたといふ女を訪ねる気になつたのである。おいよさんはそれつ切り私の家に来なかつたならばもう心配を招くことはなかつたのである。然し私も喚んで見たかつたし、おいよさんも来ることが厭でなかつたばかりに更に又苦労の種が播かれたのである。おいよさんは私の冷かな情に弄ばれたのである。私は到底陋劣である。私の母は能く穿鑿して見ねば容易な判断は下せないといつたが私はどうしてもおいよさんを信じて私も亦十分に苦んでやらなければおいよさんに済まぬ。私はいつそおいよさんが逢ひたいといつた場所で逢つてやればよかつたとかういふ塩梅に私は此の夜いつになくおいよさんに同情が湧いた。私は港へ来てからもおいよさんとの交渉がどうなつたか思案しない日はなかつた。私の鬱して居た心は余計に雨を厭うたのであつた。私はおいよさんの身の始末に思ひ到ると隣座敷の女に対してどういふものか微かな恐怖心を抱くやうになつた。
七
次の朝私は疲れたやうになつて起きられなかつた。漸く眼が醒めた頃女は障子の外を通るやうであつたがそれからはひつそりとして居るか居ないか分らぬやうであつた。私が起きた時女中は隣の座敷へ来て女の容子を聞いて居る様であつた。軈て女中は階子段から番頭を喚ぶと番頭は小綺麗な蒲団を抱えて上つて来た。隣の座敷では番頭と女中とが其蒲団を敷き換へて居る様であつた。私が障子の外へ出て見た時女は座敷を出て勾欄に近く入江を見て立つて居た。寝くたれた浴衣に肉色の扱帯をしどけなく垂れて居る。髪もさらりと耳のあたりへこけていつもより顔が蒼味を帯びて見えた。私を見て慌てゝ座敷へもどつて障子の蔭へあちら向に立つた。しどけない姿が少し障子の外へ出て見えて居た。番頭はお世辞をいうて居る。
「昨日はあの臭ひで大分お困りでござんしたらう。酷いものでござんすからね。それでも夜のうちに片付けて畢ひましたからもう臭いやうなことはありません。今日は海も凪がようござんすから誠にせい/\致して居ります。此分では後に又松魚船が参ります」
女はそれに対して何とかいうて居るがそれが極めて低い声である。私は耳を峙てゝ聞くのであるが、いつでも女のいふことが能く分つたことはない。丁度私は磁石に吸はれたやうに隔ての襖へ耳をつけ聞いても聞きとれぬ程女は静にものいふのである。私はいつでもぢれつたい心持になるのであつた。番頭は威勢よくものをいふ。蔭で聞いて居ても女の気を引き立てゝやらうといふのらしかつた。
「先頃こゝへ鯨があがりましてね。それが鯱に攻められたんですがね、此時は大騒ぎでした」
女中は私の座敷の前で柱へつかまりながら勾欄へ腰を挂けた。
「港の船は残らず出払ひです。この沖で見つけたんですから私も乗つて行つて見ました、が其時は鯨はまだ死にきりませんでした。鯨といふ奴はあれでみじめなもので何も防ぎ道具といふ物がないんですから、鯱に攻められた日にやどうすることも出来ないんですね。只まあ遁げる丈けなんですね。鯱の方は何百匹だか分りやしません。斯う背中に角のやうな鰭があるんですがそいつを水の上に出して一杯に鯨を取巻いて居るんです。あれを見ちや鯱もなか/\大きなもんです。鯱鉾とは丸つきり違ひまさあね。其内に潜水器をかぶつてむぐつて見た奴があるんですが、鯱はみんな鯨の頭の方へばかり聚つて居て鯨の肉を食ひ取るんだ相です。それで尻尾の方へは決して行かないんですからね。尻尾で一つ弾かれたら何でもまた堪りませんから鯱もそれは知つてるんですね。そこは漁師ですからね、到頭鯨へ綱を挂けて、そいつを船へ継いで曳いて来たんです。鯱も人間には構はなかつたさうです。もう此の港の口へ近づいて来たとなつたらそれでも鯱はすうつと沖へ引つ返して行きました。さうかと思つて居ると其中の一番大きなのが二三匹角を立てゝ戻つて来ましてね、残念だといふんでせう、鯨を一食ひ食ひ取つて行きました。此にはみんな驚きましたね。何しろ鯨といふ奴は大きいものですから、港へはひらないので其儘置いたのですが、それがあなた明日の朝見ると夜鯱が来たと見えて鯨の肉がしたゝか噛じられて居るんです。一口に百五六十貫づゝも食ひ取るんですからね。さうかといつてそこらに其肉が浮いてるんですから食つて畢ふ訳でもないんです。一体鯱といふのは酷い奴ですね。そこら一杯水は赤くなりましてね。その時の騒ぎはお目に挂けたいやうでしたな」
障子の外へ膝をついて番頭は語つた。私も閾の所までずり出して其噺を聞いた。
「番頭さん見たやうなことをいつてどうしたもんだ」
女中はすぐにかういつた。
「何だい私行つたぢやないか交ぜつ返しちやいけないよ」
「それだつて番頭さんは船に弱いんだつて帰つた時は真蒼でしたよ。ようく御覧になつたのはうちの旦那さんでさね。おゝ厭な番頭さんだ」
女中はかういつて笑ひながら遁げて行つた。
「本当に口の悪いおきんどんでしやうがない」
番頭も笑ひながら
「まあどうぞ御ゆつくり」
といつて立つた。
「大分お暑くなつて参りましたな」
私へもお世辞をいうて去つた。それから隣の座敷には別に変つた事もなく女は矢張り滅多に座敷の外へ出ないのであつた。尤も空がすつかり切上つて夏の日が急に暑く照すやうに成つてからは女の座敷も障子が開けてあつた。私は女の座敷を一目見たいと思つたが遂に一足も境の柱を越した事がない。まして障子が開け放しになつてからは私は自分の座敷の前の勾欄から海を見て居る時僅に其座敷を振り返つて見る事にさへ恐怖心を抱いて居た。女は日に幾度も私の座敷の前を通る。女の前には私の座敷は少しの隠す所もない。隣の座敷は私の為めには全く秘密である。私はしをらしい其女が心憎かつた。私は宿の女中にも戯談すらいはなかつた。私は隣の座敷へひどく気兼があつたからである。私にそれだけの慎んだ態度がなかつたならば女は隣の座敷を移したかも知れぬ。私は其時に人目を避けたがる女を他へ追はなかつた程静粛な客であつた。私は隣の女が余りにひつそりとして居るので却つて私の心が刺戟された。私は夜になつて眼を瞑るといろいろと雑念が起つておいよさんのことを考へ出さずには居られなかつた。私はおいよさんに就いては困つては居たのだけれど此の宿へ来て、ひそりとした隣の座敷が私をそゝるやうになつてから一層恐怖心が増して来た。私の心はひどく弱くなつたのである。
或日の午後であつた。私は麦藁帽子一つで散歩に出た。宿の店先から左へとつて行くと後の丘の続きが崖を造つて立ち塞つて居る。そこには洞門があつて街道が通じてある。洞門をくゞつて行くと平潟の入江に似て更に小さな入江がある。小さな入江のほとりには漁師が小さな村を形つて居る。街道の端には「コマセ」といふ微細な蝦のやうなものが干してある。「コマセ」の臭気が鼻を衝いた。此の漁村は九面《こくづら》といつてもう国が異つて居る。短い洞門をくゞれば直ぐに磐城の国であるといふことが散歩の度に私の興味を湧かせるのであつた。又洞門が暗い口を向けて居る。そこを出るとからりと海が見渡される。此から私は坂路を勿来の関の跡へ行つたことがある。此の日は街道に従つて海岸を行つた。関田の浜が弓なりに私の前に展開して来た。小さな溝のやうな流が浜豌豆の花が簇がつて咲いて居る砂にしみ込んで末のなくなつて居るあたりから下駄を手にして汀を歩いた。ばしやりと砕ける波の白い泡が幾らか勾配をなして居る砂浜の上をさら/\と軽く走りのぼる。土地の人は此所を「ウタレ」というて居る。足が時々冷たい泡にひたる。私がぶら/\と歩いて居ると私の後から「ウタレ」を伝うて来るものがある。此は白い泡に従つて行つたり来たりしつゝこちらへ走つて来る。私は立つて待つて居た。竹を弓のやうに曲げて弦を張つたやうに網が張つてある。其異様な網で泡立つた浅い水をすくつて其水と共に走る。右の手ですくつて左の手の笊のやうなものへ叩く。私は近かよつて笊の中を覗いて見たら小さな蝦のやうなものが跳ねて居た。此もコマセといつて此は人間が喰べるのである。あの船で捕るのが沖コマセといつて糠のやうにこまかなさうしてそれが肥料に成るコマセだといつた。汀に近く五六艘の小舟が平らな波に乗つて白帆を張つて居る。見ると「ウタレ」に近い暗礁の上に一人釣をして居るものがある。波が其巌を越えてざらりと白い糸を懸ける。それが落ち切らぬ内に又あとの波が越える。釣する人は波の越える度に片足を揚げると波は其足の下を越える。巌越す波に攫はれぬ様にかうするのだらうと思ひつゝ絶えず然かもゆつたりと波を避けつゝある其様子を見乍ら暫く立つて居た。波はゆら/\とゆるく私の眼の前に膨れて更にそれが低くなつて汀にばしやりと白い泡を砕く。膨れあがつた波の面には更に幾つもの小さな波が動いて一度必ずきら/\と暑い日光を反射する。弓なりの網を持つた人はもう遥かに「ウタレ」を走りつゝ小さくなつて居る。其先には平潟の入江の口から遥かに遠く横はつて見える小名浜あたり一帯の土地が手を出したやうに突出して居る。私は磯を伝うて尚ほ進んだ。だん/\行くと「ウタレ」に近く大きな棚があつた。それが此の空闊な浜にたつた一つぽつりと立つて居る。以前塩をとつたことがあつたと見えて棚には麁朶が載せてある。此の浜を往来する人が盗むこともないと見えて麁朶はそつくりとしてあるやうに見える。雀が棚に聚つて騒がしく囀つて居る。雀がどうしてこんな所に鳴いて居るのであらうか、雀は蛇が乾いた砂を渡らぬことを知つてさうして此の棚に其子を育てやうと云ふのであらうか。雀は便利な人の檐端を恐ろしい蛇の為めに追はれたのである。それにしてもどうして此の棚が棄て去られたのであらうか。恐らく失敗のなごりであらう。私は砂を攫んで投げて見た。雀は一斉にばあと飛んで松原を越えて行つた。此の空闊な浜を控へて後には一帯の松原が濃い緑を染めて居る。日がいつかぼんやりとなつて薄い雲を透して見えながら雨がはら/\と落ちて来た。私はざくり/\と踏み止りのない砂の上を松原へ駈け込んだ。さうして私は松の根方に一人の女の俯伏して居るのを見て喫驚した。只凝然として見て居たが服装もしやんとしたどうも見たことがあると思つたら慥に私の隣座敷の客であつた。女はどうしてこんな所に来たものであつたかと狐につままれたやうに思つた。女は大儀相である。私はそれを見棄て去ることが出来なかつた。
「どうかしましたか」
と私は聞いた。暫くたつて女は私の声を聞いて顔をあげた。いつもより蒼白い女も、喫驚したやうであるがそれでもしをらしく落付いて居つた。
「いゝえ、どうも致しませんが、少し……」
と云ひ淀んで居る。
「それでもどうかなすつたんでせう」
私は下手な聞き様をしたものである。
「少し気分が悪るうございまして」
女はいつものやうに低い声である。
「脳貧血でも起したんぢやないか」
私は独でかう呟いた。
「胸が少しいけませんでしたが、もう落付きました」
「どうです少し背中でも叩きませうか」
「いゝえもう決して」
女はかういつてそつと首を擡げた。どうしたものか女の眼は涙でうるんで居る。女が固辞するので私は只立つて見て居た。私は女が更にひどく悶えて居ても実際は女の体へ手を触れることが出来ないで只はら/\して居たかも知れぬ。私は此の女にひどく恐怖心を持つて居たからである。女は起ちあがつた。単衣の砂を叩いて前を合せた。さうしてほつれた髪を両手で掻き上げた。雨はいつか晴れて居た。雨の粒ははら/\と乾いた砂の上にまぶれて畢つた位に過ぎなかつた。あたりにはみやこ草の花が砂にひつゝいて黄色にさいて居る。こぼれ松葉がみやこ草にもぱらりと散つて居る。女は立つて蝙蝠傘を杖づいて歩き出した。私も無言の儘女の先に立つて歩いた。私は漸く小径を求めて松原から街道へ出た。小径の雑草が衣物の裾にさはる。月見草が私等二人を見て居るやうにところ/″\雑草の中から首を擡げて居た。私は車夫が空車を曳いて来るのがあつたら女を乗せて帰さうと思つたが街道の途中に車はなかつた。少し行くうちに幸藁屋の小さな茶店があつたので私はそこへ女を休ませた。私は茶店の婆さんから清心丹を貰つて女へやつた。暫くたつ内に女の顔色も恢復して来た。私は婆さんへ少しばかりの心づけをして茶店を立つた。女は有繋に帯の間から銭入を出したのであつたが私は無理にもどさせた。やつとのことで勿来の停車場へついた。上りの列車を待つ間私は態と女と離れて居た。女も凝然と腰挂けた儘いつまでも俯伏して居た。列車の窓から見ると日は青草の茂つた丘のあなたに隠れて其光を沖一杯に投げて居る。海の水は深い碧である。沖の小さい白帆が目に眩きばかり夕日の光を反射して居る。列車に乗つたかと思つたらもう関本の停車場である。私は人力車を呼んで女を乗せた。此の時女はもう余程恢復して居た。私は女の後から徒歩で急いだ。女の車が田甫を遥かに越えて丘の間に隠れるまで私は速い歩調を止めなかつた。
八
次の日女は一日座敷を出なかつた。尤も朝の内私の座敷の外へ来て昨日の義理を述べた。白地の絣の上に帯はきりゝと締めて居た。大抵の女はかういふ場合には笑顔を作つて挨拶をするのであるが、女はいつものやうに沈んで居る。もとより慌てた態度はなくしつとりと落付いて居る。私は却て此の女に対して心がおづ/\として居た。さうして私は別に何にもいはなかつた。何とか女に重い口を開かせるだけのことが出来たのだと後には思はれるのであるが其時は只堅くなつて居た。其日散歩に出て見た時浜で搗布《かちめ》を焼いて居る煙が重相に靡いて居た。穢い漁師の女房等は海から搗布を刈つて来てはぶつ/\と火で焼く。其灰が沃度の原料である。空の模様が幾らか変になつたやうに思はれた。夜に成つたら入江のうちには船が一杯に詰つた。宵の口どの船からも小さな松明の火がともされた。舳に立つた漁師が手に翳してぐる/\と廻転させてやがて其火を水に投じた。其夜は闇かつた。空には幾らか雲が飛ぶやうに見えた。沖は「シケ」であるといつていつもよりどう/\と騒がしい響をおくつて来る。入江の口に打ちつける波が只白く見えた。私はランプの下にごろりと成つた儘大地の底からゆすつて鳴る様な濤の響を聞いて居た。ふと表にがや/\と人声がしてやがて遠くなつて畢ふのを聞いた。帳場へおりて見ると主人は居なかつた。何でも難船があつたといふのである。店先を人が忙しく走せ違つて居る。どこがどうして居るのか私にはちつとも分らなかつた。暫く店先を出て立つて居ると港の磯にどつと篝が燃えあがつた。然し篝は其光の及ぶ範囲内に動いて居る人々を明かに見せる丈で一向にあてどもない。篝に近く行つて見た時船が一艘おろされるやうであつた。私は漁師町の方へ駈けて行つて見た。行き止りが闇くなつて居るばかりでそこには何の容子もない。引つ返して駈けて来ると提灯が洞門の方へ向つて走せる。洞門からも提灯が走つて来る。提灯と提灯と何か罵るやうにいつて走せ違つた。私も洞門に向つて進んだ。下駄の音が洞門の内側に響いてこん/\と鳴るのを聞いた。九面の漁村へ出た。白い波が窮屈な入江の口から押し込んで来るのが見えた。がや/\と人声が騒がしい。ほつかりと火の光が空へぬけて居る。私は凸凹の道を曲折しつゝ漁師の家の間を過ぎて行つた。闇のなかに人とぶつからうとする。行つて見ると庭に篝が焚いてあつて人が一杯に其火を取り捲いてがや/\と騒いで居る。人越しに見ると裸になつて居る四五人が筵の上に腰をおろして慄へ乍ら焚火に手を翳して居る。難破船の漁師が此所へ救はれたのだといつた。其なかに十三四の男の子が交つて居る。焚火に手を翳しながら哀れな顔をして周囲の人だかりを見まはして居る。他の漁師共はさまで驚いた容子もない。皆茜の褌をしめて居る。私は意外に感じた。私の側に立つて居る漁師の女房らしい女が噺をして居る。土地に特有な荒い言葉で罵るやうに語つて居る。私もそこへ口を出して聞いて見た。これは小名浜から今朝船を出した漁師であつた。平潟の港にはひらうとしたのであつたが夕方から波が荒かつたしそれに闇かつたので遂船底が暗礁へさはつた。船は暗礁へ障つたらもうすぐにばら/\に成つて畢ふ。漁師はそれでも皆板子を持つて波に突きのめされつゝ泳いだ。一人やつと上陸したので此村からも救ひの船が出た。声をたよつて救ひ上げた。皆救はれたが只一人見えぬ。十三四の子でさへ命を拾つたのに其漁師はどうしても此処へ上陸せぬ。平潟へも上陸せぬといふ。波を避け損つて深く捲き込まれたものであるかも知れぬ。其漁師は此の子の父であつた。救はれた時少年は口が聞けなかつた。庭へ焚火をして漸く温めてやつた時彼は頻りに其父のことばかり聞いて居たといふのであつた。焚火には薪が投げられた。焔がばつと燃えあがる。ぼう/\と音をたてゝ燃えあがる。焔の光は周囲に人が描いて居る丸い輪の内側を明かに照して居る。人々の顔が赤く恐ろしげである。私は後に居てさへ顔の熱いのを感じた。私が戻つて来た時平潟の篝は既になくなつて只どう/\と濤の響を聞くのみであつた。主人はまだ帰らぬと見えて宿の帳場も寂しかつた。
座敷へもどつた時女は一枚細目にあけた雨戸の隙間から暗い入江を見て居る所であつた。女は私を振り向いて今夜の模様を聞いた。女はこれまで私と口を聞いたことが一度しかないのであつた。私は其時女に近づいた。さうして悉皆私の見たことを語つた。閾に近いランプの光が浴衣姿の女を美しく見せた。今夜も女はきりゝと帯を締めて居た。
「可哀想な人もあるものでございますね」
女はいつた。女の※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つた目には涙の漲るのを見た。さうして女は暫く横を向いてしまつた儘であつた。難破船の噺ばかりでそんなに悲しくなる筈はないと私は不審に思はれた。私は立つて雨戸の隙間から外を見た。一杯につまつた松魚船が暗の底にぼんやりと眠つて居る外何にも目に入るものがない。私は気がついて自分の座敷へもどらうとした時ふと女の座敷を見た。蒲団の上に枕の倒れて居るのがちらりと見えた。私は此の宿へ来てから一度も女の座敷を覗いたことがなかつたのである。私は何となく心に不安を感じた。夜中にうと/\として居ると一しきりどこともなく人声が騒がしく聞えたやうに思つたが私はそれつきり眠つて畢つた。
明くる朝起きて見ると空は拭つたやうに晴れて居た。港の松魚船はもう一艘も居ない。みんな夜中に漕ぎ出したと見える。がや/\と遠く私の耳にはひつたのは其時の騒ぎであつた。私は洞門をくゞつて又九面まで行つて見た。今朝はもうひつそりとして只干したコマセの臭ひが鼻を衝くばかりであつた。波もさら/\とゆるやかである。散歩からもどつて来ると隣の座敷には客が一人殖えたやうである。聞いたやうな女の声で威勢よく語つては時々笑声も交る。女の声といふのは此の間のお婆さんであつた。女が階子段をおりて行つた時お婆さんは私の座敷の方へ来て
「先日はどうもまあ、あれが飛んだ御厄介になりました相でございまして、どうもねえあなた独りでそんな所迄本当に私もびつくり致しましたよ。どうかするとまあそんな事を致すんでございますから」
お婆さんはかういつて
「あのお立て換へがあります相ですが」
と帯の間から巾着を出さうとする。
「いゝえ決してそんなこと、そりやいけません」
私は無理に押し留めた。
「それぢやどうも相済みませんでございますね」
お婆さんはすぐに
「ですがね、あれも漸く片がつきましてね」
と分らぬことをいうて独で悦んで居るやうである。これまでとは違つてそわ/\して居る。女は階子段を昇つて来た。気がついて見ると今日はきりつと晴衣に着換へて居る。髪にも櫛の目が通されてある。
「車はもう来たかい」
お婆さんは聞いた。
「まだのやうでございますが」
低い声であるがはつきりと女はいつた。がら/\と表に空車の音がして女中はやがて知らせに来た。
「それではどうもなが/\御厄介になりましたが……」
お婆さんは私へ挨拶をする。女も後から挨拶する。女は衣物を着換へたせゐか何となくはき/\していつもより美しく見えた。私が店まで送らうとするとお婆さんはたつてとめる。私は態と遠慮して勾欄に近く立つて居た。翳した二つの蝙蝠傘が軒の下から現れて忽ち他の軒へ隠れて畢つた。私は隣の座敷を覗いて見た。火鉢も茶器もちやんと隅にくつゝけてあつて只からりとして居る。番頭はすぐに塵払と箒とを持つて来て隣の座敷を掃除した。
「旦那、こちらはゆるつとして居ますからこちらのお座敷になすつたらどうでござんす。此からもう海水浴のお客さんがそろ/\参りますから、今のうちいゝ座敷をおとんなすつた方がようござんすぜ」
と番頭は注意してくれた。然し私はそこへ移る気にはなれなかつた。私は女に対して非常に遠慮して居た。座敷にも私は遠慮がない訳には行かなかつた。ひつそりとして居るので隣の座敷は却てまだ女が居るやうな心持がしてならぬ。私は其夜もひどく寂しい隣の座敷を控へてつく/″\と思案した。お婆さんは女の身は片がついたといつて悦んで居た。恐らくもう心配がなくなつたのであらう。女がはき/\として見えたのも其為めではあるまいか。それにしてもおいよさんの方は母がどう運びをつけて居るのであらうか少しも分らないのである。隣の座敷の女に逢つてから私はひどく心が弱くなつておいよさんに対する心配も増して来た。私が遥々此の港まで身を避けて居るのに女は私に苦悶させようとして待つて居たものゝやうであつた。私には他の理由は少しも分らないのに只片がついたといつて悦んで見せて行つて畢つた。私はどこかへ打棄つてしまはれたやうな心持になつた。私は怏々として居た。一日間を隔てゝ母から手紙が届いた。私は心もとなく封を切つた。手紙にはかうあつた。あのことは窃に極りをつけた。帰つて来ても誰に義理をいふ必要もない。只知らぬ顔をして居ればいゝのである。帰りたければ帰るがいゝ、逗留して居たければいつまでゝも居るがいゝといふのであつた。私は此の時つく/″\母の慈愛といふことを感じた。私はすぐに宿を立つことに決心した。其日のうちに上りの列車に乗つたのである。隣の座敷にはまだあとの客は這入らなかつた。
其後おいよさんはどうなつたか知らぬ。私が帰つた時母は私に何も知らないで居れといつた。私は母に強ひて聞く勇気もなかつた。それでも一年許りの間はおいよさんから何とか六かしいことでもいつて来やしないかと懸念がないではなかつた。私はずつと後になつてふと村の内外に当時おいよさんとの噂が立つて居たことを聞いた。実際あつたことでなければ其噂はいつか消滅して畢ふから後になれば分るといふことを人が一般にいつて居る。私の陋劣な手段は私の噂を葬つてしまつた。さうして今では村の内外に私を疑つて居るものがなくなつた。私はおいよさんとの間の行為を罪悪だと知つて居る。然し私はそれを羞ぢるよりも先づうまく匿しおほせて私の身を保ち得たことを心窃に悦ばぬ訳には行かぬ。私は僅に危い刃の先を免れたのであつた。世上を顧みても自分の非行を衷心から悔悟し得るものが果して幾人あるであらう。私はもうおいよさんに未練はない。今日まで思ひ出させては私をぢれつたくさせるのはおいよさんではなくて隣座敷の女である。女はいつまで経つても私には了解が出来ぬ。女は到底解けない謎である。私はうつかり女に手を出すことはもう一度で懲りた。私の心をいつまでもぢらすのはその隣室の客である。
底本:「ふるさと文学館 第九巻【茨城】」ぎょうせい
1995(平成7)年3月15日初版発行
底本の親本:「長塚節全集 増補版2」春陽堂書店
1977(昭和52)年発行
初出:「ホトトギス」
1910(明治43)年9月号
※「一ケ月」「二三ケ月」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2002年12月22日作成
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