青空文庫アーカイブ
菜の花
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目切《めつきり》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)花簪を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]して
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
奈良や吉野とめぐつてもどつて見ると、僅か五六日の内に京は目切《めつきり》と淋しく成つて居た。奈良は晴天が持續した。それで此の地方に特有な白く乾燥した土と、一帶に平地を飾る菜の花とが、蒼い天を戴いた地勢と相俟つて見るから朗かで且つ快かつた。京も菜の花で郊外が彩色されて居る。然し周圍の緑が近い爲か陰鬱の氣が身に逼つて感ぜられるのである。余は直ぐに國へ歸らうかと思つた。然し余の好奇心は余を二三日引き留めた。それは太夫の道中といふことを土産噺に見物して行かうとしたからである。其間の二三日、余はそここゝと郊外をぶらついた。何處もさびしかつた。仁和寺の掛茶屋に客を呼ぶ婆さんの白い手拭も佗びしさを添へた。明日は道中のあるといふ日の夕方である。余は市中で桐油と麻繩とを買つてもどつて來た。さうして障子のもとで獨り荷造をした。外套や其の他の不用に成つたものを小包にして故郷へ送る爲めである。黄色な包が結び畢つた時一寸心持が晴々した。さうして暫く立てた膝へ兩手を組んだ儘徒然として狹い室内を見渡した。余の部屋は二階の一間で兩方から汚い唐紙で隔てられてある。飾といつては何もない。隣室はどちらも商人が泊つて居る。折々は帳合するのも聞えるが、商人は能く用達しに出掛けると見えて大抵はひつそりとして居る。今もひつそりである。火鉢の藥鑵が僅に夕方の寂寞の中へ滅入る樣に鳴り出した。ランプが點された。筍と蒲鉾の晩餐も出た。低廉な宿料に當て箝めて料理屋から仕出をとるのだといつて此宿の惣菜はいつもかうと極り切つて居る。軈て夜具も運ばれた。余は例の如くランプを持つて火鉢と一つに窓の障子のもとへ居を移す。夜具は室内を占領して畢つた。疎末な夜具の上には友禪の掛蒲團が一枚載せてある。此の一枚の蒲團が宿の余に對する特別の待遇である。余は障子に倚りかゝつて、つく/″\と佗しさを感じながら其派手な模樣を見詰めて居た。下女が慌しく階子段を昇つて來た。西陣の河井さんから電話で只今伺ひますからといつて來たといつた。此の下女といふのは近在からでも傭はれて居ると見えて、田舍臭い一寸聞きとれぬことをいふ女である。余のいふことも解り憎い所があるとかいうて、自分も解らぬことをいうて能く吹き出した。罪はないが快い女ではなかつた。余は直ぐに夜具を片付けさせた。暫くたつて下女はガラスの皿につまらぬ菓子を持つて來た。さうして此邊には何處にも碌な菓子は無いのだといつて又失笑する。河井さんが來た。河井さんは自分の宅へ連れて行くから此處は直ぐに立てといつた。余は突然なのに驚いた。然し再三の勸誘に、余は其好意に從ふことにした。さうして勘定書を命じた。河井さんは今度ふとしたことで知己に成つた人である。階子段を靜かに昇つて來たのは意外にも春さんといふ女であつた。春さんは直ぐに立つといふのを聞いて、意外な顏をして去つた。さうして暫くして勘定書を持つて來た。春さんは時々帳場に坐つて居るのを見ることがある。宿の縁者であると下女から聞いて居る。十八位な可憐の少女である。余が奈良の地方へ行く前に居たのは下の部屋で、そこは有繋にさつぱりとして居た。さうして給仕番は春さんであつた。春さんは膳を運ぶ前に必ず余の都合を聞きに來た。其時は障子をそつと開けて、一寸首をかしげて物をいふのであつた。春さんは木綿着物で袖口が幾らか擦れて居た。海老茶の疎い絞りの帶を締めて、萠黄メリンスの前垂をして居る。髮はいつもちやんとして居た。春さんが朝枕元の火鉢へ火を持つて來る時に余は屹度眠から醒めた。其時春さんは能く市中の女に見るやうな紺飛白の筒袖を上張りにして居た。余はぼんやりした眼にいつも其つやゝかな髮を見上げるのであつた。宿には盲目の男の子があつて、能く電話口で大きな聲をして居るのを見た。或晩余は帳場へ用があつて行つた時、其子が頻りに主婦さんにせがんでは春さんの手に縋つて居た。春さんと風呂にはひりたいといつて居る。忙しいからといつても聞かずにせがんで居る。春さんはまだお給仕が濟まぬといつて當惑らしかつた。余が春さんといふ名を知つたのは此の時である。奈良から戻つて見ると余の部屋には何處かの商人がはひつて居た。さうして余は此の二階の汚い一間に案内されたのである。余は變な厭な心持がした。春さんは以前の姿で働いて居た。然しもう余の部屋へは再び出なくなつた。余は更に此の宿が佗びしかつたのである。春さんは今其風情ある首のかしげやうをして勘定書を出した。春さんが去る時河井さんは合乘を一挺とつてくれといつた。又階子段に足音がする。春さんかと思つたらそれは春さんではなくて宿の主婦さんが剩錢を持つて來たのであつた。河井さんと余とは別に噺もなくて幾分かたつた。車が來た。余は河井さんの後から立つた。さうしてわびしかつた部屋を一遍ふりかへつて見た。二人は臺所を拔けて店先へ出る。帳場に居た主人が土間へおりて挨拶をする。下女も出る。春さんも襷を外して兩手の先に絡みながら時儀をする。河井さんの太つた體は車に隙間をなくした。余の風呂敷包と蝙蝠傘とを春さんが出してくれる。河井さんが一言島原といつた。車夫はへえと首肯いて梶棒をあげる。車が軋り出した時に後に三四人の挨拶の聲が聞えた。斯くして余は烏丸五條の佗びしかつた商人宿を立つた。然し自分ながら余りに突然であつたので何だか殘り惜しいやうな落付かぬ心持もした。外は闇夜である。車は威勢よく東本願寺の前へ出て、廣い通を停車場の方へと走るやうであつた。
二
車は更にぐる/\と廻り/\行くやうであつた。暫くするうちに容子の變つた處へ出たやうに思はれた。それでそこもひつそりとして居た。河井さんが一寸車夫に掛聲をすると車は少し威勢が出た。さうして轍ががら/\と敷石を軋つたと思つたら直ぐに輓棒がおろされた。玄關へ上る。余は車夫が出して呉れた風呂敷包と洋傘とを手にした儘立つた。一人の婆さんが出て河井さんと何かいうた。河井さんは直ぐに左手の大きな間へはひる。余も後からはひる。荷物を入口へ置いて中腰に坐つた。其處はがらんとした大きな部屋である。一帶に煤びて居る。明りがきら/\と光るにも拘らずぼんやりとして居る程煤びた大きな部屋である。向うの隅の方には菰かぶりの酒樽が立てならべてある。中央でさうして一方の壁に近く非常に太い柱がある。余はすぐに其柱の蔭に派手な衣物のなまめかしい女が一人坐つて居るのを見た。河井さんは太夫を見たことは無いかといつた。余はないといふと河井さんはつと立つて其女の手を執つた。女は片手を執られた儘時儀をするやうにしとやかに前へ屈んだ。幾ら手を曳いても立たうとしない。柱の蔭に成つて居た髮が前へ屈む度にともし灯の光に觸れる。さうしてきら/\と白く光る。一杯に花簪を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]して居たのである。簪はひら/\と搖れながらきら/\と光る。能く見ると女の衣物は赤と青との思ひ切つた大きなだんだらの絞りである。さうして臀から包んだ扱帶の端がふさ/\と餘してある。河井さんが立つてこちらへ戻つた時、女は扱帶と袂とを膝へ乘せてもとの如く柱の蔭にしやんとして畢つた。余は女が太夫であることを悟つた。それと共に余は遊女といふものゝ女らしいしとやかさを意外に感じた。暫くして二階へ案内された。先刻の婆さんが余の荷物と洋傘とを持つて踉いて來る。大廣間である。表の窓の障子に近く燭臺が二つ置かれて蝋燭がともされてある。手焙が一つ傍にある。燭臺も手焙も古い朱塗である。婆さんは余の荷物を部屋に相應した其大きな違棚へ乘せた。蝙蝠傘も棚へ立て挂けた。汚い風呂敷包の荷物が不調和に感ぜられた。室内はうつすらと煤びて居る。蝋燭の烟が僅に立つて居るのを見ると其烟の爲めに煤けたのに相違ない。それにしても蝋燭がどれ程こゝにともされたことであらうかと驚かれる。河井さんは此所は緞子の間であるといつた。建具には皆緞子が張つてある。さうして此も皆ほんのりと時代を帶びて居る。地味な支度の卅恰好の女が出て挨拶をした。河井さんは此がおゑんさんというて別嬪の仲居だといつた。女は仄かに嫣然として打ち消すやうに輕く手を擧げた。鼻筋の透つたきりゝとした女である。酒が運ばれた。小さな手提げのやうな器が共に運ばれた。女は其器から小皿を出した。河井さんは此の人が明日道中を見物に來るから能く注意してくれと余を紹介した。女はさうどつかというて小皿を出した手を止めもせず、丼のかき餠をさらりと十ばかりづゝ盛つて河井さんと余との前へ置いた。此が肴であるとすると其あつさりしたのに驚かれる。河井さんは一二杯より外は傾けぬ。余も一杯を過す事は出來ない。河井さんは意外に無言の人である。大廣間は只しんとしすぎて居る。其の上周圍のどこにも爪彈の聲だに聞えぬ。拍子拔のやうな心持で居ると、窓のすぐ下でバタ/\と戸板を手の平で叩くやうな音がした。余は耳を峙てた。今太夫が此の家へ來るのだと河井さんがいつた。さうして太夫の長持を舁ぎ込む時にあゝいふ音をさせるのだといつた。どうしてさういふ音がするのか其説明は余には十分には了解されなかつた。余は後の障子を開けて外を見た。往來を隔てゝ高くアーク燈が立つて居る。其丸いホヤから四方へ投げ出す強い光であたりが煌々として居る。アーク燈の傍に大きな柳が一株すつと立つて枝を垂れて居る。樹は嫩葉を以てふつくりと包まれて居る。ホヤに觸れるばかり近い枝は強い光の爲に少し白つぽく見える。陰翳をなして居る所が却て青い。さうして總てが刺繍の如き光を有して居る。アーク燈の光を翳して見る闇い空は天鵞絨の如く滑かに見える。余は其形容し難い空の色彩に見惚れた。河井さんは此の空の色を葡萄紫だといつた。蛙の聲が錯雜して遠いやうに且つ近いやうに響いて空に浮んで聞えて居る。仲居のおゑんさんが階子段から呼ばれて去つた後に別な仲居が代つた。おゑんさんよりも年は少いが痘痕のある品下つた女である。おせいさんといつた。おせいさんは騷ぐ方の女である。ふと聞くとしんとした往來から下駄を引き摺るやうな響が輕くからり/\と聞えて來る。快い響である。河井さんは太夫が來たのだといつた。余は表を見下した。格子に遮られて能くは見おろせなかつた。きら/\と光るのは花簪である。アーク燈の光を一杯に下から反射する花簪は柱の蔭に居た太夫のよりも立派に見えた。からり/\といふ輕い響と共に花簪が移り行く。さうしてすぐに廂に隱れてしまつた。其時衣物のだんだらであるのがちらりと目に着いた。河井さんは太夫の下駄はこんなに大きなのだと手で形を造つた。此の位はありますと仲居のおせいさんも手で形を造つて見せた。太夫が客の前へ坐つて裲襠をすつと脱ぐ處は風情のあるものだと河井さんはいつた。それから先刻の太夫のはあれは略裝だといつた。春の夜はまだふけなかつた。然し其夜はそれで歸つて來た。おせいさんが余の荷物を持つてくれた。車は二臺であつた。下駄が爪先を揃へてある。荷物を蹴込へ入れた時はじめて荷物が自分へ返つたやうな心持がした。車は又闇夜を走つた。余は今夜の家が揚屋といふものであつたことや夜の淺いにも拘らず土地柄にも似合はずしんとして居たことの不審なことや、ちらりと見た二人の遊女のことや思ひ挂けなかつたことを心に描きながら闇夜の間を運ばれた。二條の城であらうと思はれる白壁が見えて軈て車は何處も同じ樣な町の或軒下へ着いた。
三
翌日河井さんは余の爲めに車をとつて呉れた。自分は河内國から來る商人を待合せる約束なので遺憾ながら行けないといふのであつた。さうして角屋《すみや》というて尋ねて行けといつた。西陣を出たのは午頃であつた。二條の城の附近をめぐつて、場末の汚い溝のほとりを過ぎたりして島原までは長い道程であつた。大門の前にはもう乘り捨てた人力車がごた/\して居る。大門といふのは瓦葺の古い建物で大きなものではない。其前の空地も隨つて狹いので後から/\と車は込み合うた。巡査が邪險に車夫を叱る。大門をくゞると兩側の家屋の前には棧敷が作られて道が狹められてある。棧敷は大凡余が腰のあたりまでしか無いといふ程低い。東國に生長して宮角力などに能く造られた二間梯子を挂ける棧敷ばかりを棧敷と思つた目には一寸異樣に感ぜられた。赤い毛布で飾られてもう席に就いて居る人々もある。席に就かうとする人々もある。棧敷の後の店には膳や碗や皿を忙し相に取扱つて居る店がある。それでも何處にも喧囂の響を聞かぬ。棧敷の前には更に道を狹くして低い牡丹櫻が植ゑならべられてある。花はもう過ぎかけて居る。人がぞろ/\と繰り込んで來る。余は大門から突き當つて左へ曲つていつた。角屋の玄關には印半纏の男が二三人で下足を預つて居る。客はぞろ/\と上る。余は仲居のおゑんさんを尋ねた。昨夜の婆さんがごた/\と忙しいなかを低い聲でおゑんどん/\と呼んで行つた。少時立つた儘待つて居ると婆さんは余を一室へ導いた。室の外まで行くとおゑんさんは急ぎ足で出て來た。濃い紅をした口に帶止を銜へて兩手を後へ廻して居る。一寸會釋をして帶を締め畢つた。それから帶止をぱちんと合せた。おゑんさんは地味な焦茶色の衣物である。能く見ると胸には仄かに白い紋が二つ浮んで居る。おゑんさんの白粉は極めてよく施されてある。其巧な化粧はおゑんさんを一層美しくした。おゑんさんは一寸其所を外したと思つたら、小さな盆へお茶を持つて來た。十枚ばかりの煎餠が添へられてある。余は茶を一杯啜つて何處か見物するのに善い處はないかと聞くとおゑんさんは思ひ立つたやうに余を表の大廣間へ案内した。そこには人がもう大分詰つて居る。おゑんさんは何處でもそこらに居て呉れといつて只あたふたとして居る。さうしてほんまに辛氣臭うおまつせといひ捨てゝ去つた。見物の人は余の前に四側ばかり席に就いて居る。余は暫時暇取つて居るうちに人に席をとられて畢つたのである。後から/\と席が塞つた。大廣間の後に立てられた金屏風も取拂はれた。表には丁度肘を凭れさせる位の高さに閾があつてそこには勾欄が造られてある。余の側に居た二人の男が惜いことに此所では太夫の足が見えないといふ樣なことをいつて居る。どこかの商店の手代らしい男である。余は立膝をして覗いて見たが成程往來の土は見えない。往來の向側は板塀で青竹の埒が造られてある。そこにも見物人が立つて居る。塀からすつくり立つたアーク燈の丸いホヤが白く冷た相に見える。昨夜見たのである。其傍に柳は南風を受けてふわり/\と枝が亂れて居る。南風は漸く柳の枝に吹き募つて來る。埃が立ちはじめた。埒の内には人が殖えて來た。座敷の客も殆んど一杯に成つた。後から強い力を以て壓されるので後を見ると人々が皆立つて居る。室内はだん/\騷々敷なつて來た。余の前には幼兒を抱いた一人の女が居た。幼兒は人々の騷々しさにおびえたと見えて火の付いた樣に泣き出した。女は恐ろしく心配さうな顏をしてやつとのこと後へ出て行つた。余は其空席へ進んだ。漸く往來の土が見えるやうに成つた。後から壓す力が強く成るので前の客も立たねばならなくなつた。立つては復た坐る。其度に余は段々前へ進んだ。前が立てば勢ひ後ろから罵る不平の聲が少しく出る。余は立つた時に何か頭へ障つたことを感じた。見るとずつと後に居る印半纏の男が竹の短い竿を二本繼いで其先へ白い手拭をつけて人の頭をそつちこつちと撫でるのであつた。一時はそれでも落付いた。さうして又立つた。ぼく/\と頭へ當るものがある。驚いて見ると隣に居た男がひよつと頭を引つ込ませて此も不思議相に後を見る所であつた。風呂場の掃除をするタワシでもあらうか、竹の先へ棕櫚の毛を束ねたのを以て以前の印半纏の男が立つてる人々の頭を端から端へと叩くのであつた。拍子木の音が遠くやがて近く往來から響いて來た。室内が靜まつた。余の肩へそつと觸れるものがあるので見ると、仲居のおゑんさんが折つた紙を渡さうとするのであつた。おゑんさんは愛嬌作つて會釋しながら人を分け/\出て行つた。何かと思つて開いて見ると薄墨の木版刷で太夫の名が連ねられてある。上下二段である。余の側の手代らしい男が覗き込んで上の段だけが道中に出るのだといつた。拍子木が復た遠くから近くへ響いて來た。客は更にひつそりと成つた。空は曇つて南風は愈吹き募る。冷然として居るアーク燈の白いホヤを、しどろに亂れかゝる柳の枝が長い手で時々抱かうとして居る。客は皆退屈相に成つた。それでも向うの埒の内の見物人は極めておとなしく立つて居る。其なかに年増の主婦さんらしいのが一人居る。最初から極めてつゝましく立つて居る。室内の騷々しさをすぐ眼前に見て微笑することも無くつゝましくして居たのである。尤も此の主婦さんの身にとつたならば埒の内に立ち盡して居ることが多勢の前に曝されて居るやうな心持であるかも知れぬ。余は其つゝましい主婦さんと、其頭の上に縺れて居る柳の枝とを見守つた。余が坐に就いてから時計を見ると三時間も過ぎ去つた。三度目の拍子木が近く響いた。もうすぐだと手代らしいのが囁いた。表の勾欄の左の端にすつと人物が現れた。此の廓の藝子といふのが七八人、紅白の綱で、造花の山のやうに盛つた花籠の車を曳いて來たのである。極めて徐ろに足を運ぶ。花籠は表の勾欄の上を微動しながら過ぎて行く。此が先驅であつた。間が暫く途切れる。勾欄の外れへ小さな禿が二人ならんで現れた。態とらしい化粧と懷手をして左の肘を張つて足もと危く然かも勿體らしく歩を運ぶ處とは滑稽で又可憐である。禿が座敷の前へ來ると、勾欄の端に太夫の姿が現れた。前で結んで兩方へ張つた錦襴の大きな帶と、刺繍の裲襠とが目を射る。萠黄の法被を着た老人が後から長柄の傘をさし挂けて居る。傘には太夫の定紋が大きく描かれてある。傘の下には極端に裝飾された太夫の首が造り付けられた樣に前面を正視して居る。思ひ切つて大きく結うた髮には鼈甲の大きな簪が十七本、下へ向け上へ向け左右から刺されてある。丁度熊手のやうであるといへばそれが却て適當した形容であるかも知れぬ。厚化粧は盛り上げの如くである。目は威嚴を保たうとする如く寸毫も他に轉ぜぬ。此も懷手をした左の手が肘を張つて居ると見えて左の袂が突つ張つて居る。右の手は結んだ帶の下へ隱してある。裾はきりつと吊り上げてある。裾からは赤い長襦袢が踵を覆うて垂れて居る。余は立膝をして太夫の足もとを見た。太夫は長襦袢の裾から墨塗の大きな下駄を蹴出す。からりと外から大きく地をすつて立てた足の爪先へ斜に据ゑる。暫く過ぎて眞直に向け直す。又暫く間を置いて別の足を蹴出す。八文字を踏むといふのは此だと余は心に合點した。下駄は二個所斜に鋸を入れてあるので丁度三枚の齒があるやうに見える。手絡にするやうな赤い切の緒で、そこに小さな白い足が乘せてある。蹴出す度に赤い裾から白い足の爪先が三四寸見える。足には足袋を穿いて居ない。坐つた儘見ると太夫は帶から上だけが勾欄の上に出て居る。八文字を踏む毎に、しつかと姿勢を保つた體がゆらりと搖れる。余は勾欄から見るのは丁度山車の人形が車の軋るにつれてゆらぎながら進んで行くやうなものだと思つた。行き過ぎた禿の背には赤地に黒の笹縁をとつた小判形の前垂のやうなものが一杯にさげてある。それには太夫の名が金糸で二重文字に繍つてある。禿が後姿を見せると太夫がゆつたりと現れるのである。一人の太夫を見送つて暫く過ぎると又以前の如き禿が出て太夫が山車の人形の如く我が眼前に勾欄の上を過ぎて行く。一定の間隔をとつて人形の如き太夫は過ぎて又過ぎる。姿勢はどれも同一である。唯髮の結ひやうが違つてきら/\と花簪を一杯に飾つたのがある。化粧は皆胡粉の盛り上げのやうである。余は仲居のおゑんさんの化粧を巧と感服したのであつたが太夫に比しては光を失はねばならぬ。あの支度では體が小さいと支度に負けていかぬ、顏が小さいとあの髮に負けて薩張り引立たぬといふやうなことを余の傍の手代らしい二人が囁いて居る。余は之を聞いてさうかと心に思つた。見物人は皆太夫の姿に見惚れる。向うの埒の内に立つて居る主婦さんは一際つゝましげに見える。空はだん/\低くなつて南風は愈吹募つた。白いホヤを抱かうとする柳の枝が寸時も止まず亂れて居る間に前後十三人の太夫が過ぎた。十三人の次に現はれたのが最後の太夫である。刷物には小太夫と書いてある。此は禿が八人で、八人が皆背に小太夫のしるしをした小判形を垂れて居る。小太夫の髮は獨り異つて後に長く垂れてある。藍色の切で中央を卷いて、赤い裏の厚紙で熨斗形に二個所まで包まれてある。驚く程大きな鼈甲の櫛が只一つ載せてある。此の髮は慥にすべての太夫を壓倒して十分である。帶も裲襠も眩きばかりの錦襴である。五枚の襲ねた衣物の裾が段々に※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1-91-72]を見せて吊り上げられてある。五枚の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1-91-72]が五色である。五色の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1-91-72]には更に裲襠の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1-91-72]が襲ねてある。彼は容貌も態度も他の十三人を壓して見えた。見物人の視線は一齊に小太夫に從つて移つて行く。小太夫が過ぎると後から見物人が船の後を追ふ波の如く道を埋めた。座敷の人々も息をついた。思ひ/\に立つのも尚どつかと坐して居るのもある。少し茫然としつゝ余も立つた。人々と此の家の一間々々を見て歩いた。余はふと茶盆を持つたおゑんさんを遠くから人越しに見た。おゑんさんは余を見て人の間を掻き分けるやうにして來て余に茶を侑めた。おゑんさんの化粧は矢張り巧で且つ美しいのであつた。漸く人々が歸りかける。余はおゑんさんを尋ねて再び逢つた。壬生寺へ行く道を聞いた。おゑんさんはまだ狂言は見られるだらうと、此處からかう裏門を出て千本通をずつと行けばよいと懇に教へてくれた[#「教へてくれた」は底本では「教へてれた」]。余はおゑんさんのいふ通りに千本通といはれた田甫をずん/\と辿る。廓の外はすぐに田甫である。田甫へ出て外から見ると島原は只時代を帶びた地味な一廓であるに過ぎぬ。菜の花が田甫に近く續いて強い南風にゆさぶれて居る。泣き出し相に低い空が西の山々とくつゝいて薄墨をまけたやうに山々を更にぼんやりとさせて居る。山の間へ狹く平地が走つて居る。菜の花は斷續して其平地の限りにぼんやりと見える。白く乾いた田甫の地は吹き立てられて、菜種の葉が一枚々々皆白く其埃を浴びて居る。足もとの溝には水の上にも埃が浮いて居る。前後に人がぞろ/\と歸りつゝある。田甫の遙か先には菜の花の上に甍が聳えて見える。それが壬生寺であらうと思ひつゝ余は急いだ。余は歩きながら太夫のことを心に浮べた。緞子の間で河井さんは此處へ太夫を坐らせればよいのだといつた。道中の姿を見ると太夫が一人でも徒らに廣い座敷は塞るのだといふことを合點した。太夫は全身人工的に裝飾されて居る。然し只一點素肌を見せるのは足の爪先三四寸である。太夫が肌膚を誇らうとする處はこの三四寸以外にはない。墨塗の大きな下駄に乘せて赤い裾から蹴出す足はくつきりと白く且つ小さく見えねばならぬ。さうして太夫は恐らく常人の思ひ知らぬ程其足の爪先に苦勞するのではあるまいか抔と思ひつゝ歩いた。余の前に噺しながら行く二人連がある。能く見ると先刻の手代である。先代の小太夫はよかつたと一人のいふのがちらりと耳にはひつた。余は道中の最後に出た小太夫のきらびやかな姿を思ひ浮べて且つ其先代の小太夫といふのを想像して見た。壬生寺であらうと思ふ甍がだん/\大きく見えて來た。余はふと切な相にゆさぶられて居る菜の花を後にして路傍に一人の乞食が坐して居るのを見た。老年の男の乞食である。逢々[#「逢々」はママ]として髮が亂れて居る。彼は人の近づくのを見て埃の中へ額をすりつける。逆立つた前髮には埃がついて居る。先へ行く人々は此の乞食に目もくれない。余は何となく哀れつぽくなつて錢入の口を開いて銅貨[#「銅貨」は底本では「銅貧」]を一つ投げてやつた。彼は又埃へ汚い額をすりつける。余は少し歩いて顧みた。後からすぐ女が五六人來挂る。彼は之を見て前へ屈んでは又屈んで燐みを乞うて居る。乞食の前に來た時女は各自に錢入の口を開いた。彼は投げ出された錢を右の手に攫んだ儘女の過ぎ去るにも拘らず更に幾度となく埃へ額をすりつけた。余は之れを見て居て理由もなく只うれしかつた。其瞬間余はなぜだか自分が大きな手柄でもしたやうな心持がした。余は實に此れ程の快感を味ひ得たことは嘗て多く記憶から喚び起されないのである。[#地から1字上げ](明治四十二年八月一日發行、ホトトギス 第十二卷第十一號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2004年1月27日作成
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