青空文庫アーカイブ

栗毛虫
長塚節

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 風邪でも引いたかといふ鹽梅に頭がはつきりしないので一旦目は醒めたがまた寢込んでしまつた、恐らく眠りも不足であつたのらしい、みんなはもう野らへ出たのであらう家の内はまことにひツそりして居る、
 霖雨つゞきの空は依然として曇つて居るが、いつもよりは稍明るいのであるから一日は降らないかも知れぬと思ひながらぼんやりと眺めて居つた、
「サブリだもの屹度後には雨だよ、どんな旱でも今日明日と降らなかつたことは無いのだから
 と母はいつた、そんなことも有るものか知らんと自分は只聞き流した、この頃のやうに鬱陶しい時は頭が惡くなつて困る、することがみんな懶い、自分でもこれでは成らんと思つてもやつぱりぼんやりして居る、こんな時には隨分馬鹿々々しいこともやつて見ることがある、少し寒けがするので襯衣を着込む足袋を穿くして居るうちに栗毛虫でも叩き落してやらうと云ふ氣になつた、この栗毛虫といふのは栗の木へ付く虫なのであるが、門のはだかの木(百日紅)へも年々たかつてしやうがない、長さが三寸もあつて白く稍々青みを帶びた肌へ房々とした白毛を生じて居るのだから毛虫嫌のものには見た計でも心持がよくないだらうと思ふ、はだかの樹は自分がやつと覺えて居る頃植移したので、その頃でも珍らしい樹であつたのださうであるが、今では蘗でさへも立派な花を持つやうになつたのである、しかしこんな大きな毛虫に荒されるのであるから隨分枝が淋しくなつてしまふ、掃いても掃いても樹の下は毛虫の糞が眞黒である、どうしても叩き落して踏み潰してやらなければならない、
 蘗の方は枝が低いので竹竿を持つて行つては折々攻め付けるので大概亡びてしまつた、大きな木になると竹竿ではなか/\屆かないのみならず裏葉の色と毛虫の色とはまがい易いので下からでは容易に分らない、梯子を掛けて登つた、片手には布袋竹の小竿を持つて居るのに足袋を穿いたりしたので、うるほひのあるはだかの樹は滑かで登りにくかつたが漸く頂上まで辿りついた、門の畑はぢき目の下に見えて茄子も瓜も豆の這つたのもよく分かる、畑のさきの林から隣村の竹まで見える、いま/\しい栗毛虫はそこにもこゝにもぢつとして動かないで居る、いきなり叩いてやるとぢきに落ちる奴もあるが、大概尻のところでつかまつた儘ぶらつと下る、二つ三つ續けざまに叩くとボタと音がして落ちる、枝から枝へ引き攀ぢては叩き落し/\打ち落してしまつた、毛虫は動くことも出來ず木の下一面に散らばつて居る、打つちぎれた小枝も毛虫の糞の上に散らばつて居る、
 四五十匹もある毛虫を潰すのも穢い、どうしたものかと毛虫を掻き寄せながら考へた、この虫の體から立派な糸が引き出せるといふことを聞いたことがあつたがどうすればよいのかと思つて居ると隣の家の婆さんが通り掛つた、自分は婆さんにその方法を尋ねると婆さんは一向知らないといふことであつた、この婆さん酒を飮むことだけは達者だが、こんなたしなみはないと見える、すると突然うしろから
「婆ア
 と呼びかけたのは婆さんの孫で四つ位になる兒である、ぢき筋向ひの分家の木戸から出て來たのである、豆を一杯にもつた汁椀を持つてあぶな相に歩いて居る、婆さんにこ/\しながら振り返つて
「この野郎なに貰つて來たハハハ……
 といひ乍ら自分を見て笑ひつゝ豆の椀をうけとつて孫の手を引いて行つて仕舞つた、
 この婆さんのまた隣の婆さんは物知りである、その婆さんならば屹度分るだらうと自分は態々聞きに行つた、上り鼻の火鉢の脇にごろりとやつて居た婆さんはむつくり起き上つて目を擦りながら澁りがちにいつた、
「ヘエーかう二つに裂いて酢で引き出すんでがす、ヘエー背中ンとこに糸があるんでがす、なんでも釣糸にすると強えなんて、せんの頃は言ひ/\しつけがなあに誰だつて取れあんすともせ
 わけもないことだといふのであるから自分もやつて見やうと思つたが生憎に酢がない、買ひに遣つても五六町はある、それも品切になつた日には河を渡つて買つて來なければならぬ、それも面倒でたまらぬ、妹が庭の隅へ圍ひをして鶩を飼つて置くから、鶩の餌にしてしまふことにした、
 鶩を飼つてある柵は井戸の側の梅の木の下である、漸く羽の生えかゝつた鶩が十羽放してある、鶩は非常に食慾の強いもので喉までつまるまでは餌を貪る、それも僅かの時間が立てばがあ/\いつて求めて止まない、自分が栗毛虫を投げ込んだ時に饑に向つて居つたので柵中の騷擾は非常である、眞先に立つた奴が喙へて隅の方へ逃げて行くと忽ち五六羽その跡を追ひ掛ける、ずるい奴が横合からふんだくる、取られた奴がやつきになつて奪ひ返す、互にかく爭ひ合つてやつと各餌にありついたと思ふとそこがまた可笑しい、鶩は凡てが丸呑みであるがまだ十分に生長しない彼等の喉では大きな栗毛虫は容易に通らない、曲つても通らない、くねつても通らない、あせりにあせつた揚句やうやく胃袋に落付いたといふ鹽梅にずうつと首を延長した儘しばらくは立つて居る、その姿勢のぶざまなことは夥しい、一つ呑み込んでは水鉢の側へ行つて嘴をくしや/\やつてはまた元のやうに活動する、足下に轉がつて居る毛虫には目も呉れないで他の喙へたのを奪ひ取らうとする、水を飮んでは騷ぎ廻り飮んでは騷ぎ廻るので地面はだん/\濕つてくる、不格恰な鶩の體はともすれば辷つて倒れかゝる、この騷ぎは苟も餌のある内は決して止まぬのである、十羽の鶩は不時の珍味のためにやゝ安じたといふ鹽梅で今は悉くありもせぬ羽をのばして羽叩いて居る、
 兎角する程に正午に近くなつた、野らへ出たものも戻つて來た、雨はぽつ/\降つて來た、
 井戸の方では頻りにみんなが笑つて居るのでなにごとかと思つたら妹が鶩を内へ入れるのだと首の所を持つて十羽一遍に引き揚げたのを可笑しいといふのであつた、
 しばらくして雨はざあ/\と降つて來た、今日は舊暦では五月の二十七日明日は虎が雨といふのであるさうだ、[#地から1字上げ](明治三十六年十月十三日發行、馬醉木 第五號所載)



底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2000年5月10日作成
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