青空文庫アーカイブ


ドストエウスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoevski)
森林太郎訳

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新道《しんみち》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|捏《こね》捏ねて、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
-------------------------------------------------------

     一

 己の友達で、同僚で、遠い親類にさへなつてゐる、学者のイワン・マトヱエヰツチユと云ふ男がゐる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然かう云ふ事を言ひ出した。それは此間から新道《しんみち》で見料を取つて見せてゐる大きい鰐《わに》を見に行きたいと云ふのである。夫は外国旅行をする筈で、もう汽車の切符を買つて隠しに入れてゐる。旅行は保養の為めと云ふよりは、寧ろ見聞を広めようと思つて企てたのである。さう云ふわけで、言はゞもう休暇を貰つてゐると看做《みな》しても好いのだから、その日になんの用事もない。そこで細君の願を拒むどころでなく、却て自分までが、この珍らしい物を見たいと云ふ気になつた。
「好い思ひ付きだ。その鰐を一つ行つて見よう。全体外国に出る前に、自分の国と、そこにゐる丈のあらゆる動物とを精《くは》しく見て置くのも悪くはない。」夫は満足らしくかう云つた。
 さて細君に臂を貸して、一しよに新道へ出掛ける事にした。己はいつもの通り跡から付いて出掛けた。己は元から家の友達だつたから。
 この記念すべき日の午前程、イワンが好い機嫌でゐた事はない。これも人間が目前に迫つて来てゐる出来事を前知する事の出来ない一例である。新道へ這入つて見て、イワンはその建物の構造をひどく褒めた。それから、まだこの土地へ来たばかりの、珍らしい動物を見せる場所へ行つた時、己の分の見料をも出して、鰐の持主の手に握らせた。そんな事を頼まれずにした事はこれまで一度もなかつたのである。夫婦と己とは格別広くもない一間に案内せられた。そこには例の鰐の外に、秦吉了《いんこ》や鸚鵡が置いてある。それから壁に食つ付けてある別な籠に猿が幾疋か入れてある。戸を這入つて、直ぐ左の所に、浴槽《ゆぶね》に多少似てゐる、大きいブリツキの盤がある。この盤は上に太い金網が張つてあつて、そこにやつと一寸ばかりの深さに水が入れてある。この浅い水の中に、非常に大きい鰐がゐる。まるで材木を横へたやうに動かずにゐる。多分この国の湿つた、不愉快な気候に出合つて、平生の性質を総て失つてしまつたのだらう。そのせいか、どうもそれを見ても、格別面白くはない。
「これが鰐ですね。わたしこんな物ではないかと思ひましたわ。」細君は殆ど鰐に気の毒がるやうな調子で、詞を長く引いてかう云つた。実は鰐と云ふものが、どんな物だか、少しも考へてはゐなかつたのだらう。
 こんな事を言つてゐる間、この動物の持主たるドイツ人は高慢な、得意な態度で、我々一行を見て居た。
 イワンが己に言つた。「持主が息張《いば》つてゐるのは無理もないね、兎に角ロシアで鰐を持つてゐる人は、目下この人の外ないのだから。」こんな余計な事を言つたのも、好い機嫌でゐたからだらう。なぜと云ふに、イワンは不断人を嫉《そね》む男で、めつたにこんな事を言ふ筈はないからである。
「もし。あなたの鰐は生きてはゐないのでせう。」細君がドイツ人に向つて、愛敬のある微笑を顔に見せて、かう云つたのは、ドイツ人が余り高慢な態度をしてゐるので、その不愛想な性質に、打ち勝つて見ようと思つたのである。女と云ふものは兎角こんな遣方《やりかた》をするものである。
「奥さん。そんな事はありません。」ドイツ人は不束《ふつゝか》なロシア語で答へた。そして直ぐに金網を持ち上げて、棒で鰐の頭を衝いた。
 そこで横着な動物奴は、やつと自分が生きてゐるのを知らせようと決心したと見えて、極少しばかり尻尾を動かした。それから前足を動かした。それから大食ひの嘴を少し持ち上げて、一種の声を出した。ゆつくり鼾《いびき》をかくやうな声である。
「こら。おこるのぢやないぞ。カルルや。」ドイツ人はそれ見たかと云ふ風で、鰐に愛想を言つたのである。
 細君は前より一層人に媚びるやうな調子で云つた。「まあ、厭な獣だこと。動き出したので、わたしほんとにびつくりしましたわ。きつとわたし夢に見てよ。」
「大丈夫です。食ひ付きはしません。」ドイツ人は細君に世辞を言ふ気味で、かう云つた。そして我々一行は少しも笑はないに、自分で自分の詞《ことば》を面白がつて笑つた。
 細君は特別に己の方に向いて云つた。「セミヨン・セミヨンニツチユさん。あつちへ行つて、猿を見ませうね。わたし猿が大好き。中には本当に可哀《かはい》いのがありますわ。鰐は厭ですこと。」
「そんなにこはがる事はないよ。フアラオ王の国に生れた、この眠たげな先生はどうもしやしないらしいから。」イワンは細君の前で、自分の大胆な所を見せ付けるのが愉快だと見えて、猿の方へ歩いて行く細君と己との背後《うしろ》から、かう云つたのである。そして自分はブリツキの盤の側に残つてゐた。そればかりではない。イワンは手袋で鰐の鼻をくすぐつた。後に話したのを聞けば、これはもう一遍鰐に鼾をかかせようとしたのである。動物小屋の持主は、客の中の只一人の夫人として、エレナを尊敬する心持で、鰐より遙かに面白い猿の籠の方へ附いて来た。
 先づこゝまでは万事無事に済んだ。誰一人災難が起つて来ようとは思はずにゐた。細君は大小種々の猿を見て夢中になつて喜んでゐる。そしてあの猿は誰に似てゐる。この猿は彼に似てゐると、我々の交際してゐる人達の名を言つて、折々愉快で溜まらないと見えて、忍笑《しのびわらひ》をしてゐる。実際猿とその人とがひどく似てゐる事もあるので、己も可笑《をか》しくなつた。ところが、小屋の持主は、細君がまるで相手にしないので、自分も一しよになつて笑つて好いか、それとも真面目でゐるが好いか分からなかつた。そしてとう/\不機嫌になつた。
 丁度ドイツ人が不機嫌になつたのに気の付いたと同時に、突然恐ろしい、殆ど不自然だとも云ふべき叫声が小屋の空気を震動させた。何事だか分からずに、己は固くなつて立ち留つた。そのうち細君も一しよに叫び出したので、己は振り返つて見た。なんと云ふ事だらう。気の毒なイワンが※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の恐ろしい口で体の真ん中を横銜《よこくは》へにせられてゐるのである。水平に空中に横はつて、イワンは一しよう懸命手足を動かしてゐたが、それは只一刹那の事で、忽ち姿は見えなくなつた。
 かう云つてしまへばそれまでだが、この記念すべき出来事を、己は詳細に話さうと思ふ。己はその時死物のやうになつて、只目と耳とを働かせてゐたので、一部始終を残らず見てゐた。想ふに、己はあの時程の興味を以て或る出来事を見てゐた事は、生涯又となかつただらう。その間多少の思慮は働いてゐたので、己はこんな事を思つた。「あんな目に逢ふのがイワンでなくて、己だつたらどうだらう。随分困つたわけだ。」それはさうと、己の見たのはかうである。
 ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は先づ横に銜へてゐたイワンを口の中で、一|捏《こね》捏ねて、足の方を吭《のど》へ向けて、物を呑むやうな運動を一度した。イワンの足が腓腸《ふくらはぎ》まで見えなくなつた。それから丁度|翻芻族《はんすうぞく》の獣のやうに、曖気《おくび》をした。そこでイワンの体が又少し吐き出された。イワンは※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の口から飛び出さうと思つて、一しよう懸命盤の縁に両手で搦み付いた。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は二度目に物を呑む運動をした。イワンは腰まで隠れた。又|曖気《おくび》をする。又呑む。それを度々繰り返す。見る見るイワンの体は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹中に這入つて行くのである。とう/\最後の一呑で友人の学者先生が呑み込まれてしまつた。その時※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の体が一個所膨んだ。そしてイワンの体が次第に腹の中へ這入り込んで行くのが見えた。己は叫ばうと思つた。その刹那に運命が今一度不遠慮に我々を愚弄した。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は吭《のど》をふくらませて、又曖気をした。想ふに、餌が少々大き過ぎたと見える。曖気と一しよに恐ろしい口を開くと突然曖気が人の形になつたとでも云ふ風に、イワンの首がちよいと出て又隠れた。極端に恐怖してゐる、イワンの顔が一秒時間我々に見えた。その刹那に※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の下顎の外へ食み出したイワンの鼻から、目金がブリツキの盤の底の、一寸ばかりの深さの水の中へ、ぽちやりと落ちた。なんだか絶望したイワンがわざ/\この世の一切の物を今一度見て暇乞をしたやうに思はれた。併しぐづ/\してゐる隙《ひま》はない。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]はもう元気を快復したと見えて、又呑む運動をした。そしてイワンの頭は永久に見えなくなつた。
 生きた人間の頭が、その時突然現はれて又隠れたのは如何《いか》にも恐ろしかつた、がそれが又同時に非常に可笑しかつた。事が意表に出た為めか、それともその出没の迅速であつた為めか、それとも目金が鼻から落ちた為めか、兎に角非常に可笑しかつた。己は大声で笑つた。無論己も直に気が付いた。どうも一家の友人の資格として、この際笑ふのは穏当でないに相違ない。そこで早速細君の方に向つて、なるべく同情のある調子で云つた。「イワン君は兎に角これでお暇乞ですね。」
 この出来事の間、細君がどれだけ興奮してゐたと云ふ事を話したいが、恨むらくはそれを詳細に言ひ現はす程の伎倆を己が持つてゐない。兎に角細君は、最初一声叫んで、それからは全身が痲痺したやうになつて、ちつとも動かずにゐて、この出来事を、傍観してゐた。余所目《よそめ》には冷淡に見てゐるかと思はれる様子であつたが、唯目だけ大きく見開いて、目玉も少し飛び出してゐたやうであつた。とう/\御亭主の頭が二度目に現はれて、次いで永久に隠れてしまつた時、細君は我に返つて、胸が裂けるやうな声で叫んだ。己は為方《しかた》がないから、細君の両手を取つて、力一ぱい握つてゐた。小屋の持主もこの時我れに返つて、両手で頭を押へて叫んだ。「ああ、内の※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]が。ああ、内の可哀いカルルが。おつ母さん、おつ母さん、おつ母さん。」
 その時奥の戸が開いて、所謂《いはゆる》おつ母さんが現はれた。頬つぺたの赤い年増で、頭に頭巾を着てゐる。その外着物は随分不体裁である。この女は小屋の持主の女房だが、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を子のやうにして、カルルと云つてゐたので、持主がおつ母さんと呼んだと見える。年増は亭主の周章してゐるのを見て、顔色を変へて駆け寄つた。
 そこで大騒が始まつた。細君エレナは嘆願するやうな様子で、小屋の持主の傍に駆け寄つたり、年増の傍に駆け寄つたりして、「切り開けて、切り開けて」と繰り返した。誰が切り開けるのだか、何を切り開けるのだか分からないが、夢中になつて我を忘れて叫んでゐる。
 併し小屋の持主夫婦は細君にも己にも目を掛けずに、ブリツキの盤に引つ付いて、鎖で繋がれた犬のやうに吠えてゐる。
 持主は叫んだ。「助かるまい。もう直ぐにはじけるだらう。人一疋、まるで呑んだのだから。」
 女房も一しよになつて叫んだ。「どうしよう、どうしよう。内の可哀いカルルちやんが死ぬだらう。」
 ドイツ人は又叫んだ。「あなた方は我々夫婦を廃《すた》れものにしておしまひなさる。これで夫婦は食へなくなります。」
「どうしよう、どうしよう」と女房は繰り返す。
「切り開けて、切り開けて。あの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹を切り開けて。」細君は嘆願するやうな、命令するやうな調子で、ドイツ人の上着の裾に絡み付いて、かう云ふのである。
 ドイツ人は叫んだ。「あなたの御亭主が内の※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]をおこらせたのだ。なぜおこらせたのです。もしそれで内のカルルがはじけたら、あなたに辨償して貰はなくてはなりません。裁判に訴へます。わたしの子ですから、一人子ですから。」
 このドイツから帰化した男の利己主義と所謂おつ母さんの冷刻とを見て、随分腹が立つたと云ふ事を、己は白状せずにはゐられない。それにエレナがいつまでも同じ要求を繰り返してゐるのも、己には気になつてゐる。丁度この新道の隣で誰やらが素食論の演説をしてゐる。そいつがこの室へ這入つて来るかも知れないと云ふ心配が、一層己を不安にする。エレナが嘆願するやうな、煩悶するやうな調子で、今のやうな要求を、いつまでも繰り返してゐる所へ、あんな人間が這入つて来ようものなら、どんな間違ひが起るかも知れない。己のかう思つたのが決して杞憂《きいう》でないと云ふ事が間もなく証明せられた。突然この室と帳場とを隔てゝゐる幕を横へ引き開けて、その戸口に、髯男が一人、手に役人の被る帽子を持つて現はれた。この男は室内に這入つては来ない。足は敷居より外を踏んでゐて、上半身を前へ屈めて顔を出してゐる。多分入場料が払ひたくないので、室内に踏み込んで、見せ物の持主に金を取られないやうに用心してゐるのだらう。この髯男の顔を出した時、己は実にぎよつとした。
 髯男は体の平均を失はない用心をしてゐて、かう云つた。「奥さん。あなたの今言つてお出になる事は、どうもあなたの精神上の発展が不足だと云ふ証拠になりさうですね。詰まりあなたの脳髄には燐の量が不足してゐるのです。進歩主義と人道との代表者が発行してゐる諷刺的の雑誌がありますが、その雑誌であなたの只今言つてお出になる事を批評しても、あなたは苦情を言ふわけには行きますまい。そこで。」
 髯男はこの口上をしまひまで饒舌《しやべ》る事が出来なかつた。見せ物の持主は自分の動物を置いてゐる室に、入場料を払はずに、顔を出して、何やら饒舌る人のあるのに気が付いて、ひどく腹を立てゝ飛んで来て、進歩主義と人道との代表者を、聞き苦しいドイツ語で罵りながら、戸の外へ押し出した。何やら戸の外で言ひ合つてゐるのだけが聞える。間もなくドイツ人は室内に帰つて来た。そして髯男を相手に喧嘩をして起した怒《いかり》を、気の毒にもエレナに浴せ掛けた。自分の亭主を助ける為めにドイツ人の可哀がつてゐるカルルに手術をさせようと云ふのが、不都合だと云ふのである。
 持主は叫んだ。「なんですと。可哀いわたしのカルルの腹を切り開けて貰ひたいと云ふのですか。それよりあなたの御亭主の腹でも切り開けて、お貰ひなさるが好いでせう。一体わたしの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]をなんと思つてゐるのです。わたしの父も※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見せ物にした。祖父も※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見せ物にした。息子も※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見せ物にするでせう。わたしは生きてゐる間※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見せ物にする事を廃めようとは思ひません。わたし共は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見せ物にするのが代々の商売です。わたしの名はヨオロツパ中に知らない者はない。あなたなんぞを、ヨオロツパで誰が知つてゐますか。さう云ふわけですからあなたはわたしに罰金を出さなくてはなりません。分かりましたか。」
 憎らしい目附をした上さんが尻馬に乗つて云つた。「さうだよ/\。可哀いカルルがはじければ、この奥さんを裁判所へ連れて行かずに済まされるものかね。」
 己はエレナを宥《なだ》めて内へ帰らせようと思つて、割合に落ち着いた調子で云つた。「兎に角※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹を切り開けたところで駄目でせう。察するにイワン君はもうとつくに天国に行つてゐるのでせうから。」
 この時思ひ掛けなくイワンの声がしたので、一同はぞつとした。「君、それは間違つてゐるよ。第一この場でどうすれば好いかと云ふに、何より先に区内の警察署に知らせなくては行けない。どうせ警察権を楯にしなくては、そのドイツ人に道理を呑込ませる事は出来ないからね。」
 イワンはこの詞をしつかりした、自信のある声で言つた。この場合でそれが出来たところを見ると、イワンは実に物に慌てない男だと云ふ事を証明してゐる。併し我々の為めには如何にも意外なので、声が耳には聞えても、自分で自分の耳を疑つた。併し我々は兎に角ブリツキの盤の側へ駆け寄つて不審に思ふと同時に敬意を表して、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹中に囚はれてゐる気の毒なイワンの詞を敬聴した。
 この土地では婚礼の前の晩に色々ないたづらをする風習があるが、さう云ふ晩に己は妙な事をするのを見た。河を隔てゝ向河岸《むかうがし》にゐる百姓と話をする百姓の真似をする物真似である。その為方《しかた》は隣の室に隠れて、口の前に布団をあてゝ、精一ぱい大声を出して饒舌《しやべ》るのである。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中でイワンの饒舌るのが、丁度その物真似の声のやうに聞える。
 エレナは体を顫はせて云つた。「イワンさん。そんならあなたはまだ生きてお出なさるのね。」
 例の遠方で叫ぶやうな声をして、イワンは答へた。
「生きてゐるとも。しかも極壮健でゐるのだ。為合せな事には、呑まれる時体に少しも創が付かなかつた。唯一つ気に掛かる事がある。外でもないが己がこんな所に這入り込んでゐるのを、上役が聞いたら、なんと云ふかと云ふのが問題だ。外国旅行の許可を得てゐながら、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中に這入つてぐづ/\してゐると聞いては、どうも気の利いた人間のやうには思はれまいて。」
「あの。人に気が利いてゐると思はれようなんぞと云ふ事はかうなればどうでも好いでせう。それよりか、どうにかして早く外へ引き出してお貰ひなさらなくつてはなりませんわ。」
 ドイツ人は殆ど怒に堪へないやうな語気で云つた。「引き出すのですと。そんな事はわたしが不承知です。かうなつた日には、わたしの見せ物は前の倍位|流行《はや》るに違ひない。これまでは一人前二十五コペエケン貰つてゐるのですが、これからは五十コペエケンに値上げをします。この様子ではカルルもはじけさうにはないのですからね。」
「まあ、好かつたのね」とエレナが云つた。
 イワンは落ち着いて云つた。「持主の云ふ通りだ。どうしても経済的問題が先に立つのだて。」
 己は熱心に、成るたけ大きい声をして云つた。「君。待つてゐ給へ。兎に角僕がこれから急いで君の上役の所へ駆け付けて見よう。どうせ我々がこゝで彼此云つても埒《らち》は明かないから。」
 イワンが云つた。「僕もさう思ふ。ところでこの不景気な時で見れば、どうしても金銭上の辨償をせずに、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹を切り開ける事は出来まいよ。そこでかう云ふ問題が起る。持主が※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の代価として幾ら請求するかと云ふのだ。この問題に次いで、直ぐに第二の問題が起る。その金を誰が払ふかと云ふのだ。君も御承知の通り、僕は富豪ではないからね。」
 己は遠慮勝に云つて見た。「どうだらう。俸給の内から少しづゝ払ふわけには行くまいかね。」
 ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主は急に己の詞を遮つた。「この※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を売る事は絶対的に出来ません。もし売るにしても三千ルウベルからは一文も引かれません。四千ルウベルと云つたつて好いでせう。今に見物が押し掛けて来るのです。五千ルウベルと云つても好いでせう。」
 持主は恐ろしく得意である。目玉が慾で光つてゐる。己は腹の立つのを我慢してイワンに言つた。「そんなら僕は行つて来るよ。」
 エレナが取り逆《のぼ》せたやうな調子で云つた。「まあ、お待ちなさいよ。わたしも一しよに行きますから。わたしはアンドレイ・オシピツチユさんに直きに逢つて泣いて頼んで見ます。さうしたら、あの方だつて気強い事は言つてゐられないでせう。」
「おい。そんな事をしては困るよ。」イワンは急にかう云つた。イワンは余程前から妻《さい》が上役に様子を売つてゐるのを気に掛けてゐる。エレナ奴、泣く時の顔が好く見えるのを承知してゐて、その泣顔をあの男に見せて遣らうと思つてゐるのに違ひない。けしからん事だと、イワンは考へたのである。それから己に言つた。「それから君もだがね。セミヨン君。君も上役の所へ行く事は廃し給へ。どんな事になるか知れないからね。それよりか君の個人の資格で、あのチモフエイ・セミニツチユの所へけふの内に行つてくれ給へ。あれは古風で少し痴鈍なところのある男だが、その代り真面目で、何より好い事には、腹蔵なく物を言ふ質《たち》だ。僕が宜しく言つたと云つて、事情を打ち明けて話してくれ給へ。それから僕はあの男に骨牌《かるた》に負けて、七ルウベル借りてゐるから、立替へて返してくれ給へ。さうしたら此事件を引き受ける気になるかも知れない。兎に角どうして好いかと云ふ筋道だけは立てゝくれさうなものだ。それからね、御迷惑だらうが、妻を内まで送つてくれ給へ。」かう云つて置いて、又妻に言つた。「お前はね何も心配するには及ばないよ。己は余りどなるので草臥《くたびれ》たから、これから一寐入りしなくちやならない。まだ己も体の周囲《まはり》を好く検査しては見ないが、兎に角温かで柔かだから為合せだ。」
「あなた検査して見るなんて、そんなに明るいのですか。」エレナは嬉しさうな顔をして、物珍らしげに云つた。
 気の毒な囚人は答へた。「大違ひだよ。己の周囲は真つ暗だ。だが手捜りで検査して見る積りだ。そんなら又逢ふから、内へ帰るが好い。心配するには及ばないよ。何も己に気兼をして好な事をせずにゐなくても好い。あす又来ておくれ。」イワンは又己に言つた。「君はね御苦労だが、晩にもう一遍来てくれ給へ。君は忘れつぽいから、直にハンケチに結玉《むすびたま》を一つ拵へてくれ給へ。」
 己はこの場を立ち去る事の出来るのが、心の内で嬉しかつた。第一余り長く立つてゐたので足が草臥て来る。それに対話も次第に退屈に感ぜられて来たのである。そこで早速エレナに会釈をして肘を貸して、見せ物部屋を出た。エレナは興奮してゐるので、いつもより美しく見えた。
 背後《うしろ》からドイツ人が声を掛けた。「晩にお出なさる時も、見料は二十五コペエケンお持ちなさいよ。」
「まあ、なんと云ふ慾張根性の強い事でせう。」エレナはかう云つて溜息を衝きながら、新道の見せ窓にある鏡に顔を写して見てゐる。多分自分の顔がいつもより美しく見えるのを知つてゐるのだらう。往来の人も別品だと思ふと見えて、頻りに振り返つて見る。
 己は夫人に肘を貸してゐるので、得意になつて歩きながら云つた。「例の経済上の問題ですね。」
「経済上の問題ですつて。あの時宅が申した事は、まるでわたしには分かりませんでしたの。その問題とか云ふのなんぞはなんの事だか知りませんが、どうせ詰まらない理窟なのでせう。」エレナは媚びるやうな調子で、わざと語気を緩《ゆる》めて云ふのである。
「さうですか。それは僕が直に説明して上げませう。」かう云つて、己は目下の経済では、外債を募るのが一番好結果を得る方法だと云ふ説明を饒舌《しやべ》つた。それは「ペエテルブルク新聞」でけさ読んだのである。
 細君は暫く聞いてゐたが、急に詞を遮つた。「そんなものですかね。妙な理窟です事。だがもうお廃しなさいよ、そんな人困らせの議論なんか。一体あなたけふは下らない事ばかり仰やるのね。あの、わたしの顔は余り赤くはないでせうか。」
「なに。赤くはありません。美しいです。」好機会を得て、お世辞を一つ言ふ積りで、己は云つた。
「まあ、お世辞の好い事。」細君は得意げに云つた。それから少し間を置いて、媚びるやうな態度で、小さい頭を傾けて言つた。「ですけれど宅は可哀さうですね。」それから突然何事をか思ひ出した様子で云つた。
「おや。大変だ。あなたどうお思ひなさるの。宅はお午が食べられないでせう。それに何かいる物があつても、どうもする事が出来ないでせうねえ。」
 己も細君と一しよになつて途方に暮れた。「成程。それは予期してゐない問題ですね。僕もそこまではまだ考へてゐなかつたのです。それに付けても人生のあらゆる問題に対して、どうも婦人の方が男子より着実な思想を持つてゐるやうですね。」
「まあ、どうしてあんな所へ這入つたものでせうね。今では誰と話をする事も出来ないで、ぼんやりして坐つてゐる事でせう。それに真つ暗だと云ふぢやありませんか。ほんとにこんな事があると知つたら、宅に写真を撮らせて置くのでしたつけ。わたし今は一枚も持つてゐませんの。ほんとにかうなつてみれば、わたしは後家さんのやうなものですね。さうぢやありませんか。」人を迷はせるやうな微笑をして云ふのである。細君は自分が未亡人《びばうじん》のやうな身の上になつたと云ふ事に気が付いて、それをひどく興味があるやうに思つてゐるらしい。暫くして細君は云つた。「ですけれど、気の毒な事は気の毒ですわね。」
 細君は続いて色々な事を話した。無理もない。若い美しい奥さんの事だから、別れた亭主を恋しがるのは当り前である。彼此話してゐる内に、我々はイワンの家に来た。細君が午食《ひるしよく》を馳走するので、己は細君を慰めながら馳走になつた。それから六時頃までゐて、コオフイイを一杯飲ませて貰つて、チモフエイの所へ出掛けた。丁度この時刻にはどこの内でも主人は坐つてゐるか横になつてゐるかに極まつてゐると思つたからである。
 これまでは非常な出来事を書く為めに、多少|誇張《くわちやう》した筆法で書いたが、これから先は少し調子を変へて、平穏な文章で自然に近く書く事にしようと思ふ。読者もその積りで読んで貰ひたい。

     二

 チモフエイは妙に忙《せは》しさうな様子をして、己に応接した。なんだか少し慌てゝゐるかとさへ思はれた。先づ小さい書斎に己を連れ込んで、戸を締めてしまつた。「どうも子供がうるさくて行けませんからね」と、心配げに、落ち着かない様子をして云つた。それから手真似で机の傍へ己を坐らせた。自分は楽な椅子に尻を据ゑて、随分古びた綿入の寝衣《ねまき》の裾を膝の上に重ねた。一体この男は己の上役でもなく、イワンの上役でもない。平生は気の置けない同僚で、然も友達として附き合つてゐるのである。それにけふはいやに改まつて、殆ど厳格なやうな顔附をしてゐる。
 己が一都始終を話してしまつた時、主人は云つた。「最初に考へてお貰ひ申さねばならないのですが、全体わたしは上役でもなんでもないのですね。あなたともイワン君とも同等の人間です。して見ればさう云ふ事件が生じたに付いて、何もわたしが立ち入つて彼此申さなくても好いやうなものですね。」
 己は異様に感じた。何より不思議なのは、主人が最初から一切の事を知つてゐるらしいのである。それでも己は念の為め今一度繰り返して、始終の事を話した。二度目には前より委《くは》しく話した。己の調子は熱心であつた。己はイワンの親友として周旋して遣らなくてはならないと思つたからである。併し今度も主人は少しも感動する様子がない。否、寧ろ猜疑の態度で、己の詞を聞いてゐる。
 最後に主人は云つた。「実は早晩《いつか》こんな事が出来はしないかと、疾《と》うから思つてゐましたよ。」
「それはなぜでせう。中々容易に想像の出来ない、非常な事かと思ふのですが。」
「それはあなたの云はれる通りかも知れません。併しあのイワンと云ふ男は役をしてゐる間中見てゐますと、どうもこんな末路に陥りはしないかと懸念せられたのですよ。兎角物事に熱中する癖があつて、どうかすると人を凌駕するやうなところもあつたのです。二言目には進歩と云ふ事を言ふ。それから種々な主義を唱へるのですな。あんな風な思想を持つてゐるとどうなるかと云ふ事が、これで分かるやうなものです。」
「どうもさう仰やつても、この度の事件は実際非常な出来事ですから、それを進歩主義者の末路が好くないと云ふ証拠にするわけには行かないやうに思ふのですが。」
「ところがさうでないですよ。まあ、わたしの言ふ事をお聞きなさい。一体かう云ふ事は余り高等な教育を受けた結果です。それに違ひありません。兎角余り高等な教育を受けると余計な所へ顔を出したくなる。出さないでも好い所へ出すですね。まあ、そんな事はあなたの方が好くお分かりになつてゐるかも知れません。」かう云ひ掛けて、主人は突然不平らしい調子になつた。「わたしなんぞはもう年が寄つたし、それに余り教育も受けてゐないものですから、何事も分かりませんよ。わたしは軍人の子でしてね、下から成り上がつたものです。丁度今年で在職五十年の祝をする事になつてゐるのです。」
「いや/\そんな事はありません。イワンも是非あなたの御意見が伺ひたいと云つてゐました。詰まりあなたの御指導に依つてどうにでも致さうと云ふのです。なんとか云つて戴かうと思つて、そのあなたのお詞を待つてゐるのです。目に涙を浮べて待つてゐるのです。」
「目に涙を浮べて。ふん。それは多分|所謂《いはゆる》※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の目の涙でせう。なにもそれを真《ま》に受けるには及びません。一体なんだつて外国旅行なんぞを企てたのです。あなたゞつて、それを考へて御覧になるが好い。一体その旅費はどこから出るのです。あの男は財産はないのですからね。」
「いや。旅費だけは貯金してゐたのです。それにたつた三ヶ月間の旅行ですからね。シユワイツへ行くのです。ヰルヘルム・テルの故郷へ行くのです。」己は友達を気の毒がる心持で云つた。
「ヰルヘルム・テルの故郷に行くのですね。ふん。」
「それからナポリへ出て春を迎へようと云ふのでした。博物館を尋ねたり、あつちの風俗を調べたり、変つた動物を見たりしようと云ふのですね。」
「ふん。動物ですか。どうもわたしの察しるところでは、あれは高慢の結果で企てたのですね。動物なんて、どんな動物を見るのでせう。ロシアにだつて、動物は幾らもゐまさあ。それに見せ物もある。動物園もある。駱駝もゐる。熊なんぞはペエテルブルクの直傍《ぢきそば》にもゐる。余計な事を思つて、とう/\自分が動物の腹の中へ這入つたのです。お負けに※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹なんかに。」
「どうぞさう仰やらないで、少しは気の毒だとお思ひなすつて下さい。あの男は不為合《ふしあは》せになつた今日、平生の御交際を思つて、丁度親類中の目上の人に依頼するやうに、あなたに相談相手になつて戴きたいといふのです。それにあなたはあの男を非難してばかりお出になる。せめては女房のエレナにでも御同情なすつて下さいませんか。」
 チモフエイは稍《やゝ》耳を欹《そばだ》てた気味で、愉快げに※[#「鼻+臭」、第4水準2-94-73、88-上-14]煙草《かぎたばこ》を鼻に啜り込んだ。「はあ。あの男の妻《さい》ですか。洒落た女ですね。ちよつとあんな女はゐませんね。かうどことなくふつくりしてゐて、小さい頭をちよつと横に傾《かた》げてゐる所が好いです。好い女です。おとつひもアンドレイ・オシピツチユがあの女の噂をしましたよ。」
「へえ。あの妻君の噂をせられたのですか。」
「さうです、さうです。しかも大層褒めてゐましたよ。胸の格好が好い。目附が好い。それから髪容《かみかたち》が好い。まるで旨い菓子のやうだ。だが女ではないと云つて、笑つたです。まだあの人も若いですからな。」チモフエイはラツパを吹くやうな音をさせて、嚏《くしやみ》をした。そしてかう云つた。「そこでですな。あの御亭主には困りますよ。突然そんな途方もない所へ這入り込んでしまつたとなると。」
「併しどうも不運で非常な事に逢つたのですから。」
「それはさうです。併し。」
「ところでどうしたものでせう。」
「さあ。一体これをわたしがどうすれば好いと云ふのですか。」
「兎に角どうしたら宜しからうか、その辺のお考を仰やつて下さい。御経験のおありになるあなたの事ですから。どう云ふ手続にいたしたら宜しいでせう。上役に申し出たものでせうか、それとも。」
「上役にですか。それは断然行けますまい。」チモフエイの語気は急であつた。「わたしの意見では、先づ成るたけ事を大きくしないで、万事内々で済ますですね。さう云ふ事はどんな嫌疑を受けまいものでもないです。なんにしろ新事実ですからね。これまで例のない事ですからね。その未曾有《みそう》だと云ふ事、先例がないと云ふ事が如何《いか》がはしいです。そこで余程用心をしなくては行けません。先づ暫くその儘にして置くですな。その場にぢつとしてをらせて、暫く時期を待つですな。」
「でもいつまで待つたら宜しいと云ふお見込でせうか。もしその内に窒息でもいたしたら。」
「そんな事はないぢやありませんか。先刻のお話では、至極機嫌好くしてゐると云ふではありませんか。」
 己は前の話を今一度初から繰り返した。
 チモフエイはそれを聞いて、手に※[#「鼻+臭」、第4水準2-94-73、89-下-5]煙草入を持つて、それをくるくる廻しながら思案をした。
「ふん。成程。わたしの考へでは外国なんぞをうろ付き廻るより、暫く現位置にぢつとしてゐた方が好いですな。丁度暇が出来たと云ふものだから当人もゆつくり反省して見たが好からう。無論窒息なぞをしては行けないから、多少の摂生上の注意をするが好いでせう。例之《たと》へば妄《みだ》りに咳なんぞをしないが好いです。その外色々注意の為やうもありませう。さてそのドイツ人ですが、わたしの考ではその男の申立には、十分の理由がありますね。兎に角※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]はその男の所有物です。イワンはその中へ、持主の許可を得ずして入り込んだと云ふものです。これが反対の場合だとさうでもありませんがね。そのドイツ人がイワンの持つてゐる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中へ潜り込んだのだとすれば、場合が違つて来ます。勿論イワンは※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]なんぞは持つてゐなかつたのですがね。兎に角※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は人の所有物ですから、それを妄《みだり》に切り開ける事は出来ません。と申すのはその持主に代価を辨償せずに、切り開ける事は出来ないのです。」
「併し人命を助けるのですから。」
「さやう。併しそれは警察権に関係します。その問題は警察へ持つて行かなくては駄目です。」
「ところでイワンの行方《ゆくへ》が分からないと云ふ事になつたらどうでせう。何かあの人に用事でも出来たと云ふ場合は。」
「あの人にとはイワンにですか。ふん。なに、休暇中の事ですから、どこにゐようと、何をしてゐようと構はぬが好いです。ヨオロツパを遊歴してゐようが、ゐまいが、構ふ事はありません。それは時が立つてから、あの男が帰つて来ないとなると、それは別問題です。その時捜索もし取調べもすれば好いです。」
「それは三月も先の事です。余りあの男に気の毒ではありませんか。」
「されば。どうも自業自得ですからな。一体誰があの男に、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中へもぐり込めと云つたのです。どうにかして遣ると云へば、政府が※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中へ這入つた男に介抱人でも付けなくてはならんと云ふのですか。そんな費用は予算に見込んでありませんからな。それはさうと要点はかうです。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は個人の所有物ですから、所謂経済問題が起るです。何より先に経済問題を考へなくてはなりません。一昨日もルカ・アンドレエヰツチユの宴会の席で、イグナチイ・プロコフイツチユがその点を委しく論じましたつけ。時にイグナチイは御承知ですね。資産家で事業家です。御承知かも知れませんが話上手ですよ。こんな風に云つてゐました。産業を起すのが急務だ。それがロシアでは欠けてゐる。それを起さなくてはならない、新しく生まなくてはならない。それには資本がいる。それには所謂中流社会が先づ成立たなくてはならない。ところで内地にはまだその資本がないから、外国に資本を仰ぐより外ない。現に外人の会社が出来てゐて、盛んに内国の土地を買入れようとしてゐる際だから、彼に十分の利益のあるやうな条件で、土地を買はせて遣るが好い。現在の自治体で、共同工事をしたり、共同財産を持つてゐたりするのは、その所謂財産が無財産と同一だから詰まり毒だ。詰まりロシア人の破産だ。まあ、こんな風に、熱心に云つてゐましたよ。なんにしろ資産家ですから、そんな議論も出来るのですね。官吏なんぞとは違ひますからな。それからかう云ふです。現在の自治体では、工業を起す事も農業を盛んにする事も出来ない。外人の立てゝゐる会社に、出来る事なら全国の土地を買はせるが好い。その上で広い地区を細《こまか》に、細に分割する。分、割と、一字一字力を入れて云つて、手の平で切る真似をしたです。さて細に分割した上で、望の百姓どもにそれを売る。売らなくても好い。貸しても好い。兎に角全国の土地が外人の立てた会社の所有になつてゐる以上は、借地料は幾らにでも極められる。さうなれば百姓が暮して行くには、今の三倍も働かなくてはならない。怠ければ、いつでも貸した土地を取り上げる。さうなれば百姓だつて気を付けて、従順になる。勉強する。まあ、今と同じ報酬で、今の三倍は働く事になる。今の自治体に対する百姓の考はどうだ。どうしてゐたつて、飢渇に迫る虞《おそれ》はないと見抜いてゐるから、怠ける。酒を飲む。さてさう云ふ風にして諸国から金が這入つて来れば、資本が出来る。中流社会が出来る。この間もイギリスのタイムス新聞が、ロシアの財政を論じてゐた。ロシアの財政が好くならないのは、中流社会が成立つてゐないからだ。大資本がないからだ。労働に耐へる細民がないからだと云つてゐた。まあ、こんな風にイグナチイは論じたです。旨いですな。あの男は生れ付きの雄辯家ですよ。只今も意見書をその筋へ出すと云つて書いてゐるさうです。後にはそれを新聞で発表すると云つてゐました。同じ物を書いても、さういふのはイワンの書く詩なんぞとは違ふですな。」
「へえ。併しイワンはどうして遣りませう。」己はチモフエイに十分|饒舌《しやべ》らせた跡で、本問題に帰つて貰はうと思つて、かう云つた。一体チモフエイは何か機会があると、自分が時務に通暁してゐる、時代後の人間にはなつてゐないと云ふ事を証明する為めに饒舌るのである。それで己は饒舌らせて聞いてゐた。
 チモフエイは云つた。「イワンですか。その事をわたしは言つてゐるのです。その※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主の資本が、イワンが腹の中へもぐり込んだ為めに二倍になつた。ところでその機会に乗じて、我々はその外国人を補助して遣るべきである。然るに却てその※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹を切り開けようとするですな。どうです。そんな事をすべきでせうか。わたしの考では、イワンに愛国心がある以上は、自分を犠牲にして、外国人の持つてゐる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の価《あたひ》を二倍三倍にしたのを喜んで、それを自慢して好いではありませんか。外人に資本を投じさせるには、それが第一の条件です。一|人《にん》の外人が成功すれば、それに次いで第二第三の外人が来る。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を三疋も四疋も持つて来る。そこでその周囲《まはり》に資本が集まるですな。そこで中流社会が成立つですな。それを補助して、奨励して行かなくては駄目です。」
「併し如何にも気の毒ですが。どうもあなたの仰やるところでは、あのイワンを犠牲にすると云ふやうになりますが。」
「いや。わたしは何もイワンに要求するところはないのです。先刻も云つた通り、わたしはあの男の上役ではない。ですから、何もあの男にかうしろと云ふ事は出来ない。わたしは只ロシアと云ふ本国の一臣民として云ふのです。或る大新聞の言草とは違ひます。只本国の普通の臣民として云ふのです。それに問題は、誰があの男に頼んで、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹へ這ひ込ませたかと云ふにあるですな。真面目な人間、殊に役人として相当の地位を得た人間が、妻子まで持つてゐながら、突然そんな事をすると云ふ事があるものですか。まあ、あなただつて考へてお見なさるが好い。」
「併し何も好んでしたわけではありません。つひ過つてしたのです。」
「さうですかな。それもどうだか知れたものではありませんね。それにドイツ人に※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の代価を払ふとしたところで、その金はどこから出るです。その辺のお見込が附いてゐますか。」
「どうでございませう。あの男の俸給で差引いては。」
「そんな事で足りますか。」
 己は窮した。「どうも覚束ないです。実はドイツ人も最初※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]がはじけはすまいかと、大層心配しました。併し無事に済んだと見るや否や、ひどく高慢になりました。入場料を倍にする事が出来さうだと云ふので。」
「倍どころではありますまい。三倍にも四倍にも出来るでせう。多分見物が入場券を争ふやうになるでせう。さう云ふ機会を利用する事を知らないほど、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主は愚昧ではありますまい。わたしは繰り返して云ふが、兎に角イワンは差当りぢつとしてゐるですな。何も慌てるには及びません。まあ、あの男が※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中にゐると云ふ事は、自然に世間に知れるとしても、我々は表向知らない顔をして遣るですな。それには外国旅行の許可を得てゐるから、好都合ですよ。もし誰かが来て、あの男が※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中にゐると云つたつて、我々はそれを信用さへしなければ好いです。さうしてゐるのは、造作はありません。要するに時期を待つですな。何も急ぐにも慌てるにも及びません。」
「併しひよつと。」
「なに。心配しないが好いです。あの男は物に堪へる質《たち》ですから。」
「ところが愈《いよ/\》我慢した挙句は。」
「さあ。わたしだつてこの場合が困難な場合だと云ふ事は認めてゐます。思案した位で、解決は付きません。兎に角難渋なのは、これまで似寄の事もないのです。先例がない。もし只の一つでもさう云ふ例があると、どうにも工夫が付きませうがな。どうも如何んとも為様《しやう》がないです。考へれば考へる程むづかしくなりますからね。」
 この時己はふと思ひ付いた事があるので、チモフエイの詞を遮つた。「どうでせう。かうするわけには行きますまいか。兎に角あの男は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中にゐて、その※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の寿命は中々長いと見なくてはなりませんから、あの男の名前で願書を差出して、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中にゐる年月を勤務年月に加算してお貰ひ申す事は出来ますまいか。」
「ふん。さやう。休暇と見做《みな》して、給料は払はずにですな。」
「いいえ。給料も払つて貰ひたいのですが。」
「はてね。なんの理由で。」
「それはかうです。まあ、今ゐる所へ派遣せられたと見做しまして。」
「なんですと。どこへ派遣せられたと云ふのです。」
「無論※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中へ派遣せられたと見做すのです。謂《い》はば実地に付いて研究する為に派遣せられたと看做したいのです。無論それは例のない事でせうが、これも進歩的の事件で、それに人智開発の一端でせうから。」
 チモフエイは暫く思案した。「どうも官吏を※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中へ、特別な任務を帯びさせて派遣すると云ふのは、わたしの意見では無意義です。そんな予算はありませんからな。それにその任務がどうも。」
「さやうですね。学術上に実地検査をさせるとしては如何でせう。当世自然科学が盛んに行はれてゐますから。本人が現在の位置に生活してゐて報告いたしたら宜しいではありますまいか。例之《たと》へば消化の経過を実地に観察して報告するとか云ふやうなわけには行きますまいか。事実の材料を集める目的で。」
「成程。して見るとそれは一種の分析的統計と云ふやうなものですな。一体そんな事はわたしには好く分からない。わたしは哲学者ではない。併しあなたは事実の材料と云ふ事を云はれたが、それでなくても我々は目下事実の多きに堪へないで、その処置に困る程です。それに統計と云ふものも随分危険なもので。」
「どうして統計が。」
「危険ですとも。それにイワンに報告をさせるにしても、その報告は横に寝てゐてするのでせう。一体横に寝てゐて勤めると云ふ事がありますか。それなんぞも頗る危険な新事実です。それにどうも先例のないのに困りますよ。何か只の一つでも似寄つた事があつたのを、あなたでも御承知なら、それはそんな所へ派遣すると云ふ事も出来るかも知れませんが。」
「併しどうも生きた※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は今日《こんにち》までロシアにゐなかつたのですから。」
 チモフエイは暫く思案した。「ふん。成程。その点は反駁の理由として有力だとしても好い。それに依つてこの事件をなんとか処分する基礎が成り立つとしても好い。ところで一方から見ると、次第に生きた※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]が入り込んで来る。その腹の中は温かで、居心が好いので、役人が段々もぐり込むとなつたらどうです。とんだ悪例を開くと云ふものではありますまいか。誰も彼もその例に倣《なら》つて、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中に隠居して骨折らずに、月給を取るとなつたら、国家が立ち行きますまい。」
「併し兎に角気の毒なわけですから、お詞添《ことばぞへ》だけは願ひたいのですが。それからイワンが申しましたが、骨牌《かるた》の時あなたに七ルウベル借用した事がありますさうで。それを御返済いたすやうに、わたしに申しましたが。」
「さやう、さやう。それは先頃ニキフオル・ニキフオオリツチユの所で、あの男が負けたのです。上機嫌で、洒落を言つたり、笑つたりしてゐたのですが、飛んだ事になつたものですな。」主人は感動した様子である。
「そんならどうぞお詞添を。」
「いや。承知しました。まあ、そつと其筋の意図を捜つて見ませう。ところで一体持主は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の代を幾ら欲しいと云つてゐるか、それを内々聞いてお貰ひ申すわけには行きませんかな。」チモフエイは余程機嫌が好くなつてゐる。
 己は嬉しくなつて云つた。「それは是非問ひ合せて見ます。いづれ分かり次第、申し上げに出ませう。」
「そこであの細君は今一人で留守宅にゐるでせうね。さぞ退屈して。」
「お暇に見舞つてお遣りになる事は出来ますまいか。」
「出来ますとも。実はきのふもちよつと見舞はうかと思つた位です。それにかう云ふ好機会が出来ましたからな。ああ。なんだつてあの男は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]なんぞを見に行つたのですかな。それはさうとわたしも一度は見たいものだが。」
「ええ。気の毒ですからイワンをも一度お見舞ひ下さいまし。」
「好いです。無論わたしが行つたとしても、それを意味のあるやうに取つては困ります。只個人として行くのですからな。そこでわたしはこれで御免蒙ります。今日もちよつとニキフオオルの所へ参る筈ですから。あなたはお出なさらんですか。」
「いいえ。わたくしはもう一遍※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の所へ参らなくてはなりません。」
「成程。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の所へ。まあ、なんと云ふ軽はずみな事をしたものでせうな。」
 己はチモフエイに暇乞をして出た。頭の中には種々の考が輻湊してゐる。併し此時己は思つた。「兎に角チモフエイは正直な善人である。あの男が今年在職五十年の祝をするのは結構だ。さう云ふ風に勤める男は当世珍らしいから。」
 己は急いで新道へ出掛けた。経験のあるチモフエイとの対話を、イワンに伝へようと思つて出掛けたのである。それには無論どうなつてゐるかと云ふ物見高い心持も交つてゐて、己の足を早めたのである。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中にどんなにして居着いたか、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中で人間がどうして暮して行かれるか知りたいと思ふ心持も交つたのである。己は歩いてゐて、時々は夢を見てゐるのではないかと云ふ考をも起した。さう云ふ考はあの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふ動物が化物じみた動物だから、一層起り易いのである。

     三

 併しそれが夢ではなくて、争ふべからざる事実である。さうでなかつたら、己だつてこんな事をしないだらう。兎に角その後を話すとしよう。
 新道に行き着いたのは、もう大ぶ遅かつた。彼此九時頃であつただらう。持主がもう見せ物をしまつてゐたので、己はやつと裏口から小屋に這入つた。持主は古い、汚れた上着を着てゐるが、世の中にも満足し、自分にも満足してゐるらしい様子で、小屋の部屋々々を歩き廻つてゐた。なんの心配も無いと云ふ事、夕方にも見物が大勢這入つたと云ふ事が一目この男の態度を見れば、察せられる。例のおつ母さんと云ふ女は、余程後になつてから現はれて来た。その様子が己を監視する為めに出たやうに見えた。夫婦は度々鉢合せをするやうにして囁き合つてゐる。もう見せ物はしまつてゐたのに、己には定めの二十五コペエケンを払はせた。一体物事を余り極端に厳重にすると云ふものは厭なものだ。
「どうぞこれからもお出なさる度に間違ひのないやうに御勘定をしてお貰ひ申しませう。普通のお客からは一人前一ルウベルの割で払つて貰ふのですが、あなただけは二十五コペエケン出して下されば好いのです。あなたはあの先生の御親友ですからな。わたしだつて友誼と云ふものを尊重すること位知つてゐますよ。」
「まだ生きてゐますか、あの男は」と、己は大声で云つて置いて、持主のドイツ人に構はずに、急いで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の側へ行つて見た。己が大声でそんな事を言つたのは、その声がイワンに聞えたら、イワンが自分の事を思つてくれると信じて、喜ぶだらうと、内々考へて言つたのである。
 かう思つたのは徒事《いたづらごと》ではなかつた。
「生きてゐるよ、而《しか》も達者で」と、どこか家の奥の方から言ふやうにも思はれ、又布団を頭から被つて言ふやうにも思はれる声がした。その癖己はもう※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の側まで駆け付けてゐたのである。その声が又かう云つた。「だがそんな事は跡でも好い。どんな様子だね。」
 己はイワンの問を聞かないやうな風をして、忙しげに親切らしく、却て己の方から種々な事を聞いて見た。気分はどんなだか、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中はどんなだか、胃の中には外にまだどんな物が這入つてゐるかと云ふやうな事である。こんな事を問ふのは、友人に対する礼儀として当然の事だと信じたからである。
 併しイワンは腹立たしげに、強情に、己の詞を遮るやうにして云つた。「一体どんな様子だね。」その声は声を嗄《から》して叫ぶやうで、号令に疲れた隊長が、腹を立てゝ何か云ふやうに聞えた。己はちよつと不愉快に思つた。元来己に対してこんな命令のやうな声をして物を言ふのは、平生からこの男の癖である。
 己は腹の立つのを我慢して、チモフエイの言つた事を委《くは》しく話して聞かせた。併しイワンが己の声の調子で己が侮辱せられたやうに感じてゐると云ふ事だけは察するやうに努めて饒舌《しやべ》つたのである。
 イワンはいつも己と話す時の癖で、手短に云つた。「ふん。親爺の言つた事はそれだけか。用事は用事できちんと話す人間が好きだ。センチメンタルないく地なしは、見ても癪に障る。併し今の身の上を、職務上こゝへ派遣せられてゐるものとして取り扱つて貰ひたいと君の云つたのは、全然無意義でないと云ふ事だけは認めても好い。報告をして好い事なら、学問上にも風俗上にも、幾らも新事実を挙げる事が出来るよ。併し今になつて見ると、事件が意外な方向に発展して来たから、もう俸給の多寡なんぞを論じてはゐられない。まあ注意して聞いてくれ給へ。君、腰を掛けてゐるかい。」
「いや。僕は立つてゐるのです。」
「そんならどこかそこらへ腰を掛け給へ。なんにもないなら、為方《しかた》がないから、地の上にでも坐り給へ。そしてこつちの云ふ事を注意して聞き給へ。」
 己は癪に障つたから、側にあつた椅子を掴んで、椅子の脚ががたりと大きい音をするやうに置いて、腰を掛けた。
 イワンは矢張り命令するやうな調子で云つた。「聞いてゐるかね。そこでけふの見物は非常に雑鬧《ざつたう》したよ。夕方になつた頃には、押し掛けて来る人数を、皆入場させる事が出来ない位だつた。巡査が来て人を制して、やつと秩序を恢復した位だ。持主のドイツ人が見せ物をしまつたのは、彼此八時頃でもあつただらう。いつもよりは余程早かつたのださうだ。さうしたのは、第一に見料の上高《あがりだか》を早く勘定して見たかつたのだ。それから第二にはあすの準備を十分にしようと思つたのだ。この様子ではあすはまるで市が立つたやうになるだらう。先づ予測するのにこの様子では市中の教育のある人間は皆来る事になるに違ひない。上流の貴婦人連も来るだらう。外国の大使や公使は勿論、大使館公使館の書記官達も来るだらう。判事検事辯護士なんぞも来るだらう。そればかりではない。いづれこのロシアと云ふ物見高い大国のあらゆる県から、地方人民が争つて、この不思議を見に出掛けて来るだらう。さうなつて見ると、顔を見せて遣る事は出来ないが、兎に角非常に有名な人物になるに極まつてゐる。この機会を利用して、世間のなまけ者共を教育して遣りたいと思ふ。こんな珍しい経験をしたのだから、人間が運命の前には自ら抑へて謙徳を守るべきものだと云ふ模範になつて見せて遣らうと思ふ。詰まり形容して言へば、教壇の上に立つて、世間の人を諭して遣る事が出来るのだ。早い話が、単にこの住家になつてゐる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふ動物の事に就いて、自然学上の事実を話すばかりでも、世間の為めにどの位有益だか分からない。さう云ふわけだから、こんな所へ這入つて来た運命を歎くに及ばないことは無論で、却てこの偶然のお蔭で、非常な出世をすると云つても好いのだ。」
 己はこの長談義を聞いてしまつて、無愛想な調子で云つた。「併し君、退屈になつて困りさへしなければ好いがね。」一番己の癪に障つたのは、イワンがいつも云ふ「僕」と云ふ事をまるで省いて、代名詞なしに自分の事を饒舌《しやべ》つてゐるのである。これは非常に傲慢な物の言ひやうである。イワンはそんな調子で饒舌るのだが、己の方で考へて見れば、イワンの態度は、実に以ての外だと云はなくてはならない。一体馬鹿奴が途方もない己惚《うぬぼれ》を出したものだ。泣いても好い位な境遇にゐながら、大言をすると云ふ事があるものか。
 退屈さへしなければ好いがと、己が云ふのを聞いて、無愛想にイワンは云つた。「退屈なんぞをするものか。なぜと云ふにこの胸には偉大な思想が一ぱいになつてゐる。やつと今度|隙《ひま》になつたので、人間生活の要素をどう改良したら好いかと云ふ事を考へて見る事が出来る。いづれ今後世界に向つて真理と光明とがこの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]から発表せられる事になるだらう。遠からず経済上の新しい理論を建設する事が出来るに違ひない。天下に対して誇つても好い理論が出来るだらう。これまでは簿書《ぼしよ》の堆裏《たいり》に没頭してゐたり、平凡な世間の娯楽に時間を費したりしてゐたので、それが出来なかつたのだ。古い議論は悉《こと/″\》く反駁して遣る。反証を挙げて遣る。詰まり新しいシヤアル・フウリエエが世に出ると云ふものだ。時に君、チモフエイに七ルウベル返してくれたかね。」
「たしかに返したから、さう思つてくれ給へ。僕のポケツトから返したから。」自分の銭で、イワンの借財を返したと云ふ事を、はつきり聞かせるやうに、己は答へた。
 イワンは高慢な声で云つた。「それは今に君に返すよ。いづれ遠からず俸給が一等だけ上がるだらう。かう云ふ場合に進級させないやうでは、誰を進級させる事も出来まいからなあ。これからこつちはどの位世間に利益を与へて遣るか分からない。それはさうと、妻《さい》はどうしたね。」
「エレナさんが機嫌好く暮してゐるかどうか、聞きたいと云ふのかね。」
「妻だよ。妻はどうしたと云ふのだ。」その声はまるで婆あさんが小言を言ふやうである。
 己はどうも為方がないから、心中では歯咬《はが》みをしながら、おとなしく話した。エレナを留守宅まで連れて行つて、そこで別れたと云つたのである。
 併し皆まで聞かずに、イワンは苛々した調子で己の詞を遮つた。「あいつの事も考へてゐるて。こつちがこゝで名高くなれば、あいつも内で名高くなつてくれなくてはならん。午前《ひるまへ》に妻はこゝへ来てこつちの話を聞く。それから晩にサロンへ客を呼び迎へる。あらゆる科学者、詩人、哲学者、動物学者が集まつて来る。内国のも外国のも来る。あらゆる政治家も来る。そして午前に聞いた事を、妻が話すのだ。来週からは毎晩サロンを開いて客を迎へるが好い。いづれ入費は掛かるだらうが、俸給が倍になれば、その位な事は出来よう。さう云ふ席では茶を飲ませさへすれば好いから、茶の代と執事を雇ふ代とさへあれば好い。別に費用問題に面倒はいらん。さうなればこゝでも留守宅でも、人はこつちの事しか言はない。どうもこれまで何かの機会があつたら、人がこつちの噂をするやうにしようと思つたが、その望が叶はなかつた。詰まり下級官吏の位置と資格とに縛せられてゐたのだ。どうも不思議だよ。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]奴が気まぐれに呑んでくれたので、多年の宿望が一時に達せられたと云ふものだ。何かこの口で饒舌れば、人がそれを直ぐに筆記する。その内容を批評する。人口に膾炙《くわいしや》する。印刷する。世間に啓示《けいし》して遣るのだ。どれだけの才能を放棄して置いて、危く※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腸《はらわた》に葬つてしまふところであつたと云ふ事を、世間の奴等が理解するだらう。これ程の人物なら、大臣にでもすれば好かつたとか、国王にでも封《ほう》ずれば好かつたとか云ふだらう。君だつて考へて見給へ。例のガルニエエ・パジエエだなんぞと云ふ人間に、こつちがどれだけ劣つてゐると云ふのだ。まあ、妻とこつちとで相呼応して遣るのだ。こつちは智慧で光る。妻は美貌と愛敬とで光ると云ふわけだ。成程、あんな優れた貴夫人だから、あの人の奥さんになつたのだらうと云ふものもある。いや、あの人の奥さんだから、あんな優れた貴夫人に見えるのだと、その詞を修正するものもある。兎に角君、妻にさう云つてくれ給へ。アンドレイ・クラエウスキイの編纂した百科辞典があるから、あれをあす早速買ふが好い。何事が話に出て来ても、差支へなく返事をしなくてはならんからね。それから是非毎日サント・ペエテルブルク通信の社説を読んで、それをヲロス新聞の社説と比べて見なくては行けない。その辺も好く言つて聞かせて置いてくれ給へ。多分こゝの持主が承諾して時々は妻のサロンへ、この※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を持出すやうになるかと思ふ。さうなれば立派な座敷の真ん中に、このブリツキの盤を据ゑさせて、こつちは※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中から気の利いた事を饒舌るのだ。無論朝の内から腹稿《ふくかう》をして置く事も出来るからね。政治家が相手になれば、政策上の意見を聞かせて遣る。詩人が相手になれば韻文で饒舌つて遣る。貴夫人が相手になれば対話の巧妙な所と興味のある所を見せ付けて遣る。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中にゐれば、嫌疑を蒙る虞《おそれ》はないから、十分伎倆を発揮する事が出来ると云ふものだ。普通の人間に対しては、模範になつて遣る。神の摂理の下に意志を屈すると云ふ謙徳を見せて遣る。妻は立派な文藝家に為立《した》てゝ遣る。そしてその作を公衆に説明して聞かせて遣る。こつちが妻にしてゐる以上は余程の長所がなくてはならん。世間でアンドレイ・アレクサンドロヰツチユをロシアのド・ミユツセエだと云ふのが尤《もつとも》なら、妻はロシアのユウジエニイ・ツウルだと云はれなくてはならん。」
 イワンは随分無意味な事を饒舌る男ではあつたが、この長談義を聞いた時は、どうもひどい病気にでもなつてゐはすまいかと、正直を言へば、己は思つた。少くも熱が高くて譫語《うはこと》を言つてゐるやうに思はれた。実は不断のイワンだつて、こんな調子な所があるのだが、只、なんと云つたら好からう、顕微鏡で二十倍位に廓大して見るやうであつた。
 己は成るべく優しい声で云つた。「君、そんな風にしてゐて長生が出来ると思つてゐるかね。一体君、たしかに健康でゐるのかい。何を食べてゐるね。寝られるかね。息は出来るかね。いろんな事を聞くやうだが、実に非常な場合だから、友人の立場として聞いて見たいのだがね。」
 イワンは腹立たしげに答へた。「それは君、全く余計な好奇心と云ふものだよ。それ以上になんの意味もない質問だ。併しそれに拘らず言つて聞かせよう。君はこの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中でどうしてゐるかと問ふのだね。第一に意外なのは、この※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものは体の中がまるで空虚なのだ。それ、あのモルスカヤだの、ゴロホワヤだの、それから僕の覚え違へでないなら、あのヲスネツセンスキイ区にもあるが、好く大きな店の窓に飾つてあるゴム細工があるね。あの大きい空虚な袋のやうな工合だよ。さうでなかつたら、君、考へて見たつて分かるだらうが、かうしてゐられたものではないからね。」
 己は不思議に思はずにはゐられなかつた。
「さうかねえ、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものはそんなにからつぽなものかね。」
 イワンは厳格な調子で、詞に力を入れて云つた。「全然空虚だよ。而も察するにそれが自然の法則で、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものはさうしたものなのだらう。そこで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものは、あの鋭い牙の植ゑてある、大きな顎と、長い尾とから成立つてゐる。それが※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の全体だと云つても好いのだ。そこでその二つの部分の中間には、大なる空隙がある。それが硬ゴムに類した物質で包まれてゐるのだ。事に依つたら実際硬ゴムから成り立つてゐるかも知れんよ。」
 己は殆ど自分を侮辱せられたやうに感じて、イワンの詞を遮つた。「併し君、肋《あばら》はあるだらう。胃だの腸だの肝臓だの心臓だのもあるだらう。」
「そんな物はこゝにはない。絶無だ。察するに昔からそんな物がこゝにあつた事はないだらう。そんな物があるやうに言つたのは、軽卒な旅人《りよじん》が漫《みだり》に空想を弄《もてあそ》んで、無中に有を生じたのだらう。丁度ゴムで拵へた枕をふくらますやうに、僕は今この※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]をふくらます事が出来るのだ。この※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中は実に想像の出来ないほど伸縮自在だからね。君に好意があつて、僕の無聊を慰めてくれようと思ふなら、直ぐにこゝへ這入つて貰ふだけの場所は楽にあるのだよ。実は万止むを得ない場合には、内のエレナにこゝへ来て貰はうかとも考へて見たよ。兎に角※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の内部がこんな風に空虚になつてゐると云ふ事は、学問上の記載に一致してゐるやうだ。まあ、仮に君でも頼まれて、新に※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものを製造しなくてはならないと云ふ場合を考へて見給へ。その時第一に起る問題は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の生活の目的はなんであるかと云ふ問題だらう。そこでその答は明白だ。人間を呑むのが目的である。さうして見ると※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]が自己の性命に危険を及ぼさずに、人間を呑む事が出来るやうに拵へなくてはならない。それには※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の内部をどうしたら好いかと云ふ事になる。その答は前の答より一層容易だね。即ち内部を空虚にすれば好いのだ。ところが君も御承知の通り自然は空虚と云ふものの存在を許さない。それは理学が証明してゐる。そこで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を空虚に製造して置けば、自然がそれを空虚の儘で置く事を許さないから、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の功用が生じて来る。空虚なものを、空虚の儘で置く事は、自然の単純な法則が許さないから、そこへ何物かが這入つて来なくてはならない。そこで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]はなんでも手当り次第に呑まなくてはゐられない事になる。どうだね、分かるかね。さう云ふわけで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は人間を呑むのだ。詰まり空虚の功用の法則だと云つても好い。この法則は無論あらゆる生物に適用すると云ふわけには行かない。例之《たとへ》ば人間なんぞはそんな風に出来てはゐない。人間の頭は、空虚なれば空虚なだけ、物をその中へ入れようと云ふ要求を感じない。併しそんなのは破格と見做《みな》さなくてはならないのだね。こんな道理は、僕には今火を観るよりも明かになつてゐる。今僕が君に話して聞かせる事は、皆僕の智恵で発明したのだ。僕が自然の臓腑の中に這入つてゐて、自然の秘密の淵源に溯つてゐて、自然の脈搏を聞きながら自分で考へ出したのだ。語源学上に考へて見ても、僕の意見に一致してゐる所がある。この動物の名だがね、これは大食と云ふ意味に相違ない。クロコヂルと云ふ語は多分イタリア語のクロコヂルロから来てゐるだらう。このイタリア語はフアラオ王がエジプトを領してゐた時代のイタリア語だらうと思ふ。語源を調べて見たら、多分フランス語のクロケエと云ふ語と同じ来歴を持つてゐるだらう。今君に話しただけの事は、この盤をエレナの夜会の座敷へ運ばせた時、最初の講演として、公衆に向つて話す積りだ。」
 己は「これは熱病だ、余程熱度が高いに相違ない」と思つて心配でならないので、覚えずかう云つた。「君、何か少し気の鎮まるやうな薬を飲まうとは思はないかね。」
 イワンはひどく己を馬鹿にしたやうな調子で、答へた。「馬鹿な。それに仮に下剤なんぞを用ゐるとした所で、どうもこの場合でそれが利いてくれては少し困るよ。まあ、君の事だから、その位な智慧を出すだらうと、僕も予期してゐたのだ。」
「それはさうと薬にしろ食物《たべもの》にしろ、君はどうして有り付く事が出来るね。けふなんぞも午食《ひるしよく》はしたかね。」
「午食なんぞはしない。併し僕はちつとも腹はへつてゐない。多分今後もなんにも食はなくても済みさうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体が※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の内部を全然充実させてゐるのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云ふ事はないのだ。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]だつてもこれから先|餌《ゑ》を遣るには及ぶまい。詰まり※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の方では僕を呑んでゐて満足してゐるし、僕の方では又※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の体からあらゆる滋養を取つてゐるわけだね。君は話に聞いてゐるかどうか知らないが、器量自慢の女は或る方法を以て自分の容貌を養ふものだ。それはどうするのだと云ふに、晩に寝る時体中に生肉を食つ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入つて綺麗に洗ひ落す。さうするとさつぱりして、力が付いて、しなやかになつて、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の滋養になつてやるから、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の方から滋養物を己に戻してくれる。詰まり互に養ひ合つてゐるのだ。無論僕のやうな体格の人間を消化すると云ふ事は出来ないから、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]も多少胃が重いやうには感じてゐるだらう。胃は無いのだがね。それはまあどうでも好い。そこを考へて僕はこゝで余り運動をしないやうにしてゐる。なに、運動しようと思へば、勝手だがね。僕は唯人道の考から運動せずにゐて遣るのだ。併し兎に角勝手に動かずにゐるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云へば、先この点位が思はしくないのだ。だからチモフエイが僕の事を窮境に陥つてゐると云つたのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。かう云つたからと云つて僕が困つてゐると思ふと違ふよ。僕はこれでもゐながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云ふ事を証明して見せる積りだ。全体当節の新聞や雑誌に出てゐる、あらゆる大議論や新思想と云ふものは、あれは皆窮境に陥つてゐる人間が吐き出してゐるのだ。だからさう云ふ議論を褒めるには、動かない議論だと云ふぢやないか。まあ、それはなんと云つても好いとして、僕はこれから全然新しい系統を立てる積りだ。それがどの位造作もないと云ふ事が、君には想像が付くまいね。新しい系統を立てるには、誰でも世間の交通を断つて、どこかへ引つ込めば好い。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中に這入つても好い。そこで目を瞑《ねむ》つて考へると、直ぐに人類の楽園を造り出す事が出来る。さつき君がこゝから出て行つた跡で、僕は直ぐに発明に取り掛かつたが、午後の中に系統を三つ立てた。今丁度四つ目を考へてゐた所だ。無論現存してゐる一切の物は抛棄しなくてはならない。なんでも構ふ事はないから破壊するのだね。そんな事は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中から遣ると造作はないよ。万事※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中から見れば、外で見るより好く見えるよ。それはさうと僕の今の境遇にも、贅沢を云へば多少遺憾な点はあるさ。なに、けちな事なのだがね。先こゝは少し湿つてゐて、それからねと/\してゐる。それに少しゴムの匂がする。丁度去年まで僕の穿いてゐた脚絆のやうな匂だ。苦情を云つたところでそんなもので、それ以上には困る事はないよ。」
 己は友人の詞を遮るやうにして云つた。「君ちよつと待つてくれ給へ。君の今云つてゐる事は、僕には実に不思議で、自分で自分の耳を疑ふ位だよ。そこで少くもこれだけの事を僕に聞かせてくれ給へ。君はもうなんにも食はずにゐる積りかね。」
「いやはや。そんな事を気にしてゐると思ふと、君なんぞは気楽な人間と云ふものだね。実に浅薄極まるぢやないか。僕が偉大な思想を語つてゐるのに君はどうだい。君には分からないから云つて聞かせるが、偉大な思想は僕を※[#上部は「厭」下部は「食」、第4水準2-92-73、109-上-9]飫《えんよく》させる。そして僕の体の周囲《まはり》の闇を昼の如くに照らしてゐるのだよ。さう云ふわけだから、実はどうでも好いのだが、御承知の※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主は、存外好人物で、あの人の好いおつ母さんと云ふ女と相談して、これから毎朝《まいてう》※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の吭《のど》へ曲つた金属の管《くだ》を插してその中からコオフイイや茶やスウプや柔かにしたパンを入れてくれると云ふ事になつた。もうその金属の管も註文した様子だ。なんでもこの近所に住つてゐる同国人が拵へてくれるさうだ。ドイツ人だね。併し実は無用の贅沢物さ。一体※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と云ふものは千年生きると云ふ事だが、それが本当なら、僕も千年生きる積りだ。あゝ。さうだつけ。もう少しで忘れるところだつた。君に頼んで置くがね、あしたで好いから誰かの博物書を調べて見てくれ給へ。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は何年生きるかと云ふ問題に就いてだね。事に依ると僕は何か洪水以前の古い獣と間違へて考へてゐるかも知れないからね。唯僕にも多少懸念がない事もないよ。御承知の通り僕は服を着てゐる。ロシア製の羅紗で裁縫した服だね。それから足には長靴を穿いてゐる。どうもそのせいで※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]が僕を消化する事が出来ないらしい。それに僕は生きてゐて、意志の力を以て消化に反抗してゐるのだ。なぜと云ふにあらゆる食物《くひもの》が消化せられた後になんになると云ふ事を、君だつて考へて見給へ。僕がさう云ふ末路を取りたくないのも、無理はあるまい。さうなつては僕の恥辱だからね。そこで僕の懸念と云ふのは、どうもこの服の地質が千年持たないだらうと云ふのだ。それがロシア製の下等羅紗と来てゐるから、猶更早く朽ちてしまふかも知れない。そこでこの外部の防禦物がなくなつてしまふと、如何に意思を以て反抗して見ても、とう/\かなはなくなつて、消化せられてしまひはすまいかと思ふのだ。まあ、昼の内は飽くまで意志を緊張して、消化せられずにゐるとしても、夜になつて眠つてゐる内に僕の体が馬鈴藷《じやがいも》や挽肉と同一な運命に陥るまいものでもない。万一さう云ふ事があるまいものでもないと云ふ唯それだけの考が、実に不愉快だよ。これに附けても、政府は是非税率を改正しなくてはならない。さうして英国製の羅紗の輸入を奨励するのだね。英国製の羅紗なら、ロシア製の物より堅牢だから、又誰かが服を着て※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中へ這入つて来た時、その服が自然の悪影響に抗抵して長く持つだらうと云ふものだ。何《いづ》れ僕は税率改正の意見を然るべき政治家に話す積りだ。無論同時に二三の新聞の記者にも話して遣る。彼等に敷衍《ふえん》させて遣るのだね。新聞記者の僕の議論を賛成する事は独り税率問題ばかりではあるまいと思ふ。何れこれからは毎朝《まいてう》新聞記者が群をなして来て、このブリツキの盤の周囲《まはり》を取り巻いて、最近の海外電報に対する僕の意見を聞くだらう。まあ、僕の一言一句を、彼等が争つて書き留めると云ふ風になるに相違ないね。要するに僕の前途は光明で満たされてゐるよ。」
 己は腹の中で、「譫語《うはこと》だ譫語だ」と思ひ続けてゐる。暫くして己は友人に聞いて見た。「ところで君、自由に就いてはどう考へてゐるね。兎に角君は今真つ暗い所に囚はれてゐるぢやないか。人間と云ふものは自由を得て始めて満足すべきものだとは思はないかね。」
 イワンは意外にもかう云つた。「君は馬鹿だよ。自由だの独立だのと云ふ事は、それは野蛮人の愛するものだ。智者は秩序を愛するね。もし秩序がないとなると。」
「君、それは」と、己はイワンの詞を遮らうとした。
 イワンは己の喙《くちばし》を挾《さしはさ》んだのを不快に思つたと見えて、叫ぶやうに云つた。「まあ、黙つて聞き給へ。僕の精神が今のやうに高尚に活動した事はこれまでにないのだ。唯この狭い住家にゐて、僕が多少気にしてゐるのは、諸新聞の文学欄の批評と、それから諷刺的の雑誌の記事と、この二つだね。こゝへ見に来る人間の中にも軽はずみの奴が交つてゐる。馬鹿がゐる。焼餅焼がゐる。一言これを掩へば虚無主義者がゐる。さう云ふ奴が滑稽の方へ僕を引き付けるかも知れない。併し僕にはこれに対する手段があるよ。兎に角僕は輿論が早く聞きたい。新聞がなんと云ふか早く見たい。君、あす来る時は諸新聞を揃へて持つて来てくれ給へ。」
「それは揃へて持つて来るよ。」
「併し実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあらうと期待するのは少し無理だ。大抵このロシアでは新事件の論評は、四日目位立つてからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給へ。君に僕の書記を勤めて貰ふ積りだからね。君が持つて来た新聞を読んで聞かせてくれる。さうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないやうに持つて来給へよ。最近のヨオロツパの電信だね。それは是非毎日いるよ。まあ、けふはこれだけにして置かう、君ももう眠たくなつただらうから。もうそれで好いから君は帰り給へ。そしてさつき僕の言つた批評の事を好く考へて見てくれ給へ。実は僕はさほど批評をこはがつてはゐない。批評家だつて皆窮境にゐるのだからね。兎に角こつちに智慧があつて、それで品行を好くしてゐればあいつ等が持ち上げてくれるに極まつてゐる。まあ、ソクラテエスでなければ、ヂオゲネスと来るのだ。或ひは両方を兼ねたやうな風にするが好いかも知れない。まあ、将来人類の為めに働くには、僕はさう云ふ立場にゐて働く積りだ。」
 女が年を取つていく地がなくなると秘密と云ふものを守る事が出来ないと云ふが、イワンの軽卒に、相手がなんと思つても構はずに、自分の議論を急いで話さうとする様子は、丁度その女のやうに思はれた。なんでも余程高い熱が出てゐさうである。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の内部の構造に就いて、イワンの言つた事なぞは、殊に怪しい。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]だつて胃も心の臓も肺も無いと云ふ事は受け取りにくい。あんな事を言ふのは、人に誇る為めに出たらめを言ふのではあるまいか。事に依つたら、己をへこます為めに言ふ気味もあるかも知れない。併しイワンは病気に相違ない。病人は大事に取り扱つて遣らなくてはならない。かうは思ふものゝ正直を言へば己は昔からイワンと云ふ男を気に食はなく思つてゐた。己は子供の時から、この男に見くびられて、余計な世話ばかり焼かれてゐた。一その事絶交してしまはうかと思つた事は何度だか知れない。それでもとう/\今まで附き合つてゐるが、それにはいつも返報をして遣る時期が来るかも知れないと、心の奥で殆ど無意識に思つてゐるらしくも見える。実にイワンと己との交際は不思議だと云はなくてはならない。なんだか二人の間の交誼の十分の九は忿懣から成立つてゐるとでも云ひたい位である。それに拘はらず己はこの晩にはイワンに優しく別を告げた。
 ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主のドイツ人は己の側へ歩み寄つて、「あなたのお友達は豪《えら》い人ですね」と云ひながら、己を見せ物場の外へ送つて出た。ドイツ人は己とイワンとの対話を始終注意して聞いてゐたのである。
 己はドイツ人のまだ何か言ひさうにしてゐるのを遮つて聞いて見た。「それはさうと忘れない内にあなたに聞いて置きたいのですが、もしあの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を買ひ取るものがあつたら、幾ら位で手放して下さるでせうか。」
 己のこの問を発したのを、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中にゐるイワンも聞いて、己よりも熱心にドイツ人の答を待つてゐるらしかつた。察するにイワンの心では、ドイツ人に余り低い価《あたひ》を要求して貰ひたくはなかつたゞらう。兎に角己が問を発した跡で、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中から、豚のうなるやうな、一種特別な謦咳《しはぶき》が聞えた。
 ドイツ人は己の問に答へたくない様子であつた。そんな事を問うて貰ひたくはないと、腹を立てたらしかつた。顔が※[#「火へん+(世/木)」、第3水準1-87-56、113-上-15]《ゆ》でた鰕《えび》のやうに赤くなつて、彼奴《きやつ》は叫んだ。「わたしが売らうと思はない以上は、誰だつてわたしの所有物を買ひ取る事は出来ませんよ。そこでこの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を売ると云ふ気はわたしには無いのです。よしやあなたが百万タアレル出すと云つても、わたしは売りません。けふなんぞは見料が百三十タアレル取れたのです。あしたは一万タアレル取れるかも知れない。追々毎日十万タアレルも取れるやうになるかも知れない。いつまでも売るわけには行きませんよ。」
 ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中でイワンが愉快げに笑ひ始めた。
 己は腹の立つのを我慢して、成るべく冷静な態度を装《よそほ》つてこの気の変になつたドイツ人に道理を説いて聞かせた。その要点はかうである。お前の思案は好くあるまい。今一度考へ直して見るが好からう。殊に今の計算はどうも事実に背いてゐるやうだ。もし一日に十万タアレルの見料が這入るとすると、四日目には此ペエテルブルクの人民が皆来てしまはなくてはならない。皆来てしまへば、それから先には収入が無くなる筈だ。その上|生《しやう》あるものは神の思召次第で、いつ死ぬるかも知れない。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]だつてどうかしてはじけまいものでもない。中に這入つてゐるイワン君だつて病気になる事もあらう。死なないにも限らない。まづざつとこんな事を言つた。
 ドイツ人は十分考へたらしく、とう/\かう云つた。「いやわたしは薬店《やくてん》から薬を買つて※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]に飲ませて、死なないやうにしますよ。」
「薬が利けば好いが、それは受け合はれないでせう。それはどうでも好いとして、あなたは警察や裁判所から彼此言はれる事があるかも知れない。そこを考へて見ましたか。早い話があの腹の中にゐるイワン君には、御承知の通り法律上立派な細君がありますよ。あの細君が法廷に訴へて夫の返却を請求したらどうです。あなたは収入の事ばかり考へて、金持になる料簡でゐるやうですが、イワン君の細君に償金を出すとか、恩給を仕払ふとか云ふ事を考へて見ましたか。」
 ドイツ人はきつぱり答へた。「いや、そんな事は考へてゐません。」
 所謂《いはゆる》おつ母さんが側から、意地悪げな調子で相槌を打つた。
「そんな事を考へて溜まるもんですか。」
「さうでせう。さうして見るとあなた方の考は周到だと云はれますまい。未来がどうなるか分からないのに、うか/\としてゐるよりは、今の内に一度に金を手に入れた方が好くはないでせうか。金高《かねだか》は小さくても、確実に手に入れる事が出来たら、その方が好いでせう。無論こんな事をわたしが言ふのは、唯個人の物好で言ふに過ぎないのですから、誤解しては行けませんよ。」
 ドイツ人は所謂おつ母さんを引つ張つて、見せ物場の一番奥の隅の所に連れて行つた。一番大きい、一番醜い猿の籠に入れてある所である。そこで二人は囁き合つてゐた。
 イワンは意味ありげな調子で己に言つた。「まあ、どうなるか見てゐ給へ。」
 己はうんとドイツ人をなぐつて遣りたかつた。それから所謂おつ母さんを、亭主よりも一層ひどくなぐつて遣りたかつた。最後に所謂おつ母さんよりも一層ひどくなぐつて遣りたかつたのは、高慢なイワンである。
 まだドイツ人の返事を聞かないうちに、己はその位に思つてゐたが、貪慾なドイツ人の返事は又想像より甚しかつた。ドイツ人は上さんと十分相談したものと見えて、見せ物場の隅から出て来てかう云ふ請求をした。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の代価としては五万ルウベルを最近の内国債証券で払つて貰ひたい。それからゴロホワヤの石造の家屋を一軒貰ひたい。但しその家屋には薬局が一つ付いてゐなくてはならない。それから今一つは自分をロシアの陸軍大佐にして貰ひたいと云ふのである。
 イワンが凱歌を奏するやうに叫んだ。「それ見給へ。僕の思つた通りだ。陸軍大佐に任じて貰はうと云ふのは行はれない事だが、その外の要求は至当な事だよ。中々わけの分かつた男で、自分の所有品の値踏をする事は心得てゐるね。兎に角何事に依らず経済問題が先に立つのだて。」
 己は腹を立てゝドイツ人に言つた。「一体あなたは陸軍大佐になつてどうしようと云ふのですか。それにそんな上級の軍人にならうと云ふには、これまでどんな履歴があるのですか。どんな軍功を立てたのですか。どこの戦争に参与して、ロシアの本国の為めにどんな手柄をしてゐますか。まさか気が変になつてゐるのではないでせうね。」
 ドイツ人はさも侮辱せられたと云ふやうな態度で答へた。
「わたしを狂人だと云ふのですか。わたしは狂人どころではない。普通よりも気がしつかりしてゐるのだ。さう云ふあなたこそどうかしてゐると見えます。まあ、考へて御覧なさいよ。腹の中に生きた官吏を入れてゐる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を持つてゐて、人に見せる事の出来る人間なら、大佐位にしたつて好いです。このロシアに一人でも生きた官吏を腹に入れてゐる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を持つてゐて、人に見せる事の出来るものがありますか。わたし位智慧があれば、大佐になるには十分です。」
 己は体が震ふほど腹が立つたので、「イワン君、さやうなら」と言ひ放つて、見せ物場を駆け出した。己は殆ど我慢がし切れなくなつてゐた。ドイツ人もドイツ人だが、イワンもイワンである。二人とも途方もない夢を見てゐるではないか。それを考へると、どうも我慢がし切れないのである。
 見せ物場の外へ出て、冷たい夕暮の空気に触れたので、己の腹の立つのが少し直つた。己は唾《つばき》を一つして、荒々しい声で辻馬車を呼んで、それに飛び乗つて内へ帰つた。そして直ぐに着物を脱いで床に這入つた。
 横になつてからつく/″\考へて見ると、イワンが己を書記に使ふと言つた時、己はそれに反対しなかつた。さうして見ると、もう書記になる事を承諾したも同じ事である。これから先毎晩あの見せ物小屋へ出掛けて行つて、あいつの饒舌る事を書くのだらうか。その苦みをする報に何があるかと云ふと、唯友人の為めに尽すと云ふ満足を感ずるだけの事である。己は腹が立つて、自分で自分をなぐりたくなつた。実際己はランプを吹き消して、掛布団を掛けた跡で拳骨《げんこつ》で自分の頭や体中をこつ/\打つた。十分打つてしまふと、少し気が鎮まつたので、己は寐入つた。疲れ切つてゐるのでぐつすり寐たのである。それから何疋とも知れない猿共が体の周囲《まはり》に飛び廻つてゐる夢を見た。尤も明方になつてからは別なゆめになつた。それはエレナの夢であつた。

     四

 猿の夢を見たのは前日に見せ物小屋で、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]と一しよに飼つてある猿を見たからである。それとは違つて、イワンの妻君エレナを夢に見たには、別にわけがある。
 己はこの場で正直に言つてしまふ。己はあの女を愛してゐる。かう云つても、己の詞を誤解して貰つては困る。己があの女を愛すると云ふのは、親父が娘を愛すると同じである。どうしてあの女を愛してゐると云ふ事が己に分かつたかと云ふに、己は度々あの女の小さい頭を引き寄せて、接吻をして遣りたく思つたのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふつくりした桃色の頬つぺたでも好いと思つた。併し己はそんな事を実行した事はない。白状の序《ついで》に今一歩進んで言へば、己はあの唇に接吻する事も厭ではなかつた。実にあの唇は可哀《かはい》らしい。どうかしてにつこり笑ふと、赤い唇の間から、すぐつた真珠のやうな歯が二列に並んで見える。見えるのではない。上手に見せるのである。あの女は随分好く笑ふ女だ。イワンはあいつを甘やかして「可哀いノンセンス」と云ふが実に適当な評だと云はなくてはならない。あの女は菓子である。ボンボンである。それ以上のものではない。そんな女であるのに、イワンが突然それをロシアのユウジエニイ・ツウルにして見ようとするのはわけが分からない。それはどうでも好いとして、己の夢は、猿だけは別として、愉快な印象を残した。そこで前日の出来事を一々繰り返して考へて見て、それからけふは役所の出掛けに、エレナを訪問しようと決心した。家の友達たる資格を持つてゐる己だから訪問するのが義務だと云つても好いのである。
 エレナは所謂《いはゆる》「小さいサロン」にゐた。これは夫婦の寝間の前にある小部屋の名である。小さいサロンと云ふからには、別に大きいサロンがあるかと思へばさうではない。今一つのサロンも矢張小部屋である。エレナはふわりとした寝巻を着て小さい長椅子に腰を掛けて、前に矢張小さい卓を構へて、矢張小さい茶碗でコオフイイを飲んでゐた。コオフイイの中へは小さいビスケツトの切をくづし入れて飲むのである。エレナは相変らず様子が好いが、けさは少し物案じをしてゐるらしく見える。
 己の這入つて来たのを見て、気の散つてゐる様子で微笑《ほゝゑ》んで云つた。「おや。あなたですか。あなた親切気のない方ね。まあ、そこへお掛けなさい。そしてコオフイイでもお上がんなさい。あなたきのふはどこへ入らつしやつたの。晩にはどこにお出なさいましたの。仮装舞踏へは入らつしやらなかつたのね。」
「それではあなたはきのふ仮装舞踏にお出でしたか。一体僕は舞踏会には行かない流義です。それにゆうべは俘《とりこ》になつてゐる人の所にゐなくてはならなかつたのです。」かう云つて己は溜息を衝きながら、面白くない表情をして茶碗を受け取つた。
「どこですと。誰の所に入らつしやつたのですと。俘になつてゐるとは誰の手ですの。ああ、さうさう。あの人の事ですか。何をしてゐましたの。退屈だと云つてゐましたか。それはさうとわたしあなたに伺ひたい事があつてよ。どうでせう。わたし今の身の上で離婚の訴訟を起す事は出来ないでせうか。」
「離婚ですと。」かう云つた己の手からは茶碗があぶなく落る所であつた。そして腹の中では「あの髭黒奴《ひげくろめ》がそんな考を出させるのだな」と思つて胸を悪くした。
 髭黒と云ふ男がある。八字髭が黒いから、己がさう云ふ名を付けてゐる。この男は建築局の役人で、近頃頻にエレナの所へ尋ねて来る。それがエレナに頗る気に入つてゐるらしい。察するに髭黒奴は昨晩どこかでエレナに逢つただらう。舞踏会ででも出逢つたか、それともこの部屋に来て話をしたのかも知れない。兎に角ゆうべあたり入智慧をしたのだなと思ふと、己は腹が立つてならなかつた。
 エレナは急にじれつたいやうな様子をして言ひ出した。「だつてあなた考へて御覧なさいな。どう云ふものでせう。あの人は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中にゐて、事に依つたら生涯帰つて来ないかも知れないでせう。それなのにわたしがこゝに此儘ぢつとしてゐて待ぼけにならなくてはならないのでせうか。一体夫と云ふものは内にゐる筈のものではないでせうか。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中なんぞに澄ましてゐて好いでせうか。」
 この詞は己にはなんだか人が言つて聞かせたのを受売をしてゐるやうに聞えた。そこで己は少し激して云つた。「そんな事を仰やつても、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]に呑まれたのは予期すべからざる偶然の出来事ではありませんか。」
 己が反対しさうになつたのを見て、細君も腹立たしげに己の詞を遮るやうに饒舌《しやべ》り出した。「あら、さうぢやなくつてよ。どうぞ黙つてゐて下さい。わたしそんな事は聞きたくないのですからね。ほんとにあなたのやうな方もないものです。いつでもわたしに反対ばかりなさるのね。あなたのやうに相談相手にならない方つてありませんわ。わたしに好い智慧を貸して下すつた事はないぢやありませんか。まるで縁のない人でも、かう云ふ場合には離婚の理由が十分成り立つものだと云つて聞かせましたわ。宅が月給を取らないだけでも十分の理由になるさうぢやありませんか。」
 己は殆ど荘重な語気で云つた。「エレナさん。一体今のお詞はたしかにあなたの口から出たのでせうか。どこかの悪党があなたに入智慧をしたのではないでせうか。それに俸給が出なくなる位な事実が、離婚の理由なんぞになるものですか。まあ、考へて御覧なさい。イワン君はあなたの事を思つて病気にもなり兼ねない様子ですよ。気の毒ではありませんか。ゆうべも、あなたの方では舞踏会なんぞへ行つて楽んでゐたのに、イワン君はさう云つてゐました。万已むを得ざる場合には、正妻たるあなたの事だから、一しよに※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中に住つて貰ふやうにしようかと云つてゐました。それは※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹が存外手広で、二人どころではない、三人でもゐられさうだからと云ふのです。」かう云つて、己は序《ついで》だから、昨晩の対話の概略を話して聞かせた。
 細君は不思議がつて聞いてしまつて云つた。「おやおや、まあ。あなた真面目でわたしにもあの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中へ這ひ込めと仰やるの。あの中に宅と一しよにゐろと仰やるの。まあ、御親切様ね。どうしてそんな事が出来ると、お思ひなさるの。帽子を被つて、わたしの着てゐるやうな馬の毛の這入つた裳《も》を付けて、あの中へ這入られませうか。思つても馬鹿げてゐますわ。それに這入つて行く様子はどんなでせう。見られたものではありますまい。誰か見てゐようものならどんなでせう。厭なこと。それにあの中で何が食べられますの。それにもしあの中で。あゝ、馬鹿馬鹿しい。あなたも本とに途方もない事を考へてゐる方ね。それにあの※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の中で何か慰みになる事があるでせうか。芝居も見られませんわ。それにゴムの匂がするのですつて。溜らないぢやありませんか。それからあの中で宅と喧嘩をし出かしたらどうでせう。喧嘩をしても、引つ付いてゐなくてはなりませんのね。おう、厭だ。」
 己は細君の詞を急に遮つた。誰でも人と争つて、自分の方が道理だと思ふと、人の詞を聞いてはゐられないものである。
「分かりました、分かりました。併しあなたは只一つ大切な事を忘れて入らつしやるのです。それをなんだと云ふと、イワン君がどう云ふ場合にあなたをあそこへ引き取るかと云ふ事です。イワン君が万已むを得ざる場合と云つたのは、もうあなたに逢はずには生きてゐられないと云ふ時期の来た場合ですよ。それは恋愛の為めにさうなるのです。熱烈な、誠実な恋愛ですよ。あなたは恋愛と云ふ事を忘れてお出なさるのです。」
 細君は小さい、可哀《かはい》らしい手を振つて、さも厭だと云ふ様子をして、己の前を遮つた。たつた今ブラシで掃除して鑢《やすり》を掛けた爪には、薄赤い血が透き通つて見えてゐる。「わたし厭だわ。厭だわ、厭だわ、厭だわ。もうそんな事を仰やつては厭。ほんとに厭な方ね。今にあなたはわたしを泣かせてしまつてよ。あなたそんなに※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹の中がお好きなら、御自分で這ひ込んで入らつしやるが好いわ。あなた宅のお友達でせう。恋愛の為めに這ひ込むのが義務なら、友誼の為めに這ひ込むのも義務でせうから、あなたが這ひ込んで、生涯宅と一しよにゐて、たんと喧嘩をなさるとも、いつもの退屈な学問のお話をなさるともなさるが好いわ。」
 己は細君の余り思慮のないのを窘《たしな》めるやうに、成るたけ威厳を保つやうに云つた。「あなたは笑談のやうにそんな事を言つて入らつしやるやうですが、その事もイワン君は言つてゐました。イワン君は僕にも来ないかと云ひました。無論あなたの方は義務で行かなくてはならないのですが、僕が行けば、好意で行くのです。イワン君はさう云つたんですよ。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の体は非常に伸縮自在だから、二人には限らない、三人でもゐられると云つたのです。それはあなたと僕とを引き取る事も出来ると云ふ意味でせう。」
 妻君は呆れた様子で、妙な目をして己の顔を見た。「三人一しよに這入つてゐるのですつて。まあ、どんな工合でせう。あの、宅とわたしとあなたと三人ですね。おほゝゝ。まあ、宅も宅だが、あなたもとぼけて入らつしやる事ね。おほゝゝ。さうなれば、わたしのべつにあなたをつねつてゐてよ。ようございますか。おほゝゝ。」余程|可笑《をか》しいと見えて、細君は体を前へ乗り出して笑つてゐたが、とう/\目から涙が出た。
 その細君の笑つて涙を飜《こぼ》す様子が如何にも可哀らしかつたので、己は我慢が出来なくなつて、細君の小さい手を握つて、手の甲に接吻した。
 細君は別に厭がる様子もなく、接吻させてゐたが、しまひに和睦の印とでも云ふわけか、己の耳を指で撮《つま》んで引つ張つた。
 己は妻君の機嫌の直つたのを見てきのふイワンの話した将来の計画を委《くは》しく話し出した。立派な夜会を開いて、すぐつた客を招くと云ふ計画は細君の耳にも頗る快く聞き取られた。
 細君は熱心に云つた。「さうなりますと、着物がいろ/\入りますわね。あなたさう云つて下さいな。さうするには是非成るたけお金をたんとよこさなくては駄目だと、さう云つて下さいな。それは好いが。」妻君は物案じをする様子で語調を緩《ゆる》めた。「それは好いが、あのブリツキの入物を座敷に持ち込むには、どうしたものでせうね。少し変ですわ。わたしの夫をあんな箱なんぞへ入れて座敷へ持ち込まれるのは厭ですわ。お客に対して間が悪いではありませんか。どう思つて見ても、それは駄目ですわ。」
「それはさうと、僕は忘れてゐた事があります。きのふチモフエイさんはあなたの所へ来やしませんか。」
「えゝえゝ。参りましたの。わたしを慰めてくれるのだと云つて、参りましたの。そして長い間トランプをして帰りましたわ。あの方が負けるとボン/\入をくれますの。わたしが負けると手にキスをさせて上げますの。可笑しいぢやありませんか。も少しで一しよに舞踏会へ来る所でしたの。可笑しいぢやありませんかねえ。」
「それはあなたに迷はされたのです。誰だつてあなたに迷はされないものはありません。あなたは魔女《まをんな》ですね。」
「またお世辞を仰やるのね。わたし為返《しかへ》しをしてよ。お帰りになる前につねつて上げますわ。痛い事よ。それからなんでしたつけ。さうさう。あの宅がきのふいろ/\わたしの事を申しましたのですつて。」
「なに、そんなにいろ/\な事は言はれませんでした。わたしの見た所では、イワン君はおもに人類一般の運命と云ふやうな事を考へてゐるのです。」
「さう。そんな事を幾らでも考へるのが好うございます。もう伺はなくつても沢山。いづれひどく退屈してゐますのね。いつかわたしもちよつと行つて見て遣りませう。事に依つたら、あすでも参つて見ませう。けふは駄目ですわ。わたし頭痛がするのですから。それに沢山見物人が寄つてゐる事でせうね。大勢で、あれがあの人の女房だと云つて、わたしに指ざしをするかも知れませんのね。わたし厭だわ。そんなら又入らつしやいな。晩には宅の所へ入らつしやいますの。」
「無論です。新聞を持つて行く筈ですから。」
「ほんとに御親切です事ね。新聞を持つて入らつしやつたら、少しの間《ま》側にゐて、読んで聞かせて下さいましな。それからけふはもうわたしの所へはお出なさらなくつても好くつてよ。わたし少し頭痛がしますし、事に依つたら誰かの所へ遊びに行くかも知れませんの。まだ分かりませんけれど。そんなら、さやうなら。あなた浮気をなさるのぢやありませんよ。」
「ははあ、今夜は髭黒が来るのだな」と腹の中で己は思つた。
 役所では己は誰にも気取られないやうにしてゐた。世間に心配と云ふものがあるか知らと云ふやうな顔をしてゐたのである。そのうちふと気が付いて見ると、けふに限つて或る進歩派の新聞が忙しげに手から手へ渡されてゐる。そして同僚が皆厭に真面目な顔をしてそれを読んでゐる。最初に己の手に渡つたのはリストツク新聞である。この小新聞はどの政党の機関と云ふでもなく、広く人道を本として議論をすると云ふ風である。さう云ふわけで同僚はいつも馬鹿にしてゐるが、其癖読まずには置かない。己はリストツク新聞に次の記事のあるのを見出した。
「吾人は昨日帝都中に一種の不可思議なる風聞あるを耳にせしが、幾ばくもなくして、その風聞の事実なる事を確認したり。都下知名の紳士にして料理通を以て聞ゆる某氏は有名なる某倶楽部の割烹にも満足せざるらしく、昨日午後突然外国より輸入して、同所に於て公衆に示す事となり居る※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を見るや否や、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主の承諾をも経ず、即座にその※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を食《くら》ひ始めたり。初めは生きながら※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の体の柔かき所を選びて、ナイフにて切り取り、漸次に食ひて、終に※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の全体を食ひ尽したり。想ふに某氏は猶飽かずして見せ物師をも食はんとしたるならん。何となれば※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を嗜《たしな》む[#底本では「嗜《たし》む」]ものは人肉をも嗜まざる理由なければなり。元来※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の旨味《しみ》あるは、既に数年前より外国の料理通の賞賛する所なれば、吾人と雖※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を食ふ事を排斥すべきにあらず。否、吾人はこの旨味ある新食品の愈々盛んに我国に輸入せられん事を希望して息《や》まざるものなり。古来英国の貴族及び旅人《りよじん》は埃及《エジプト》に於て※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を捕へて食する事我国人の熊を捕へて食ふと異る事なし。聞く所に依れば、英人は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]猟の組合を組織して※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を捕へ、その背肉《はいにく》をビイフステエキの如く調理し、芥《からし》、ソオスを加へ、馬鈴薯《じやがいも》と共に食ふと云ふ。又仏人は彼の有名なるフエルヂナン・レセツプス氏の埃及に入りしより以来※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を嗜み、英人の背肉を食ふに反して、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の短く且太き脚の肉を食ふと云ふ。一説に依れば仏人の脚肉《きやくにく》を食ふは、故《ことさ》らに英人の風習に従ふを屑《いさぎよし》とせざる意気を粧ふに過ぎず。故に仏人の熱灰《ねつくわい》上に※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の脚を炙《あぶ》るを見て、英人は冷笑すと。想ふに将来我国人は背肉をも脚肉をも食するならん。吾人は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]肉《がくにく》輸入の有望なる事業たるを認め歓迎に吝《やぶさか》ならざるものなり。実に我国に於て未だ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]肉食用の行はれざるは大欠点と云ふべし。既に食※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]《しよくがく》の端緒は開かれたるを以て、数百疋の※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の輸入せらるゝ時期もまた恐らくは一年を出でざるべし。且将来我国に於ても※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を繁殖せしむる事必ずしも不可能にあらざるべし。縦令《たとへ》ネワ河水にして、この南国動物の為めに寒冷なるに過ぎたりとせんも、帝都の区内|池沼《ちせう》に乏しからず。市街にも又適当なる河川及び沼沢なきにあらず。例之《たとへ》ばパウロウスク又はバルゴロヲ等に飼養し、若くはモスクワのプレツスネンスキイ湖に飼養するも可ならん。斯《かく》の如くする時は啻《たゞ》に料理通の旨味にして滋養に富める食品を得るのみならず、湖畔を逍遙する貴夫人も又※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の游泳するを見て楽む事を得べく、少年児童は早く熱帯動物に関する知識を得る便あるべし。食用に供したる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の皮革は種々の製作の原料となる。例之ば行李、巻煙草入、折鞄その他種々の容器となす事を得べし。吾人は現今商家の為めに尊重せらるゝ旧紙幣の千ルウベルを※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]革の札入より取り出すを見る時期の遠からざるを想はずんばあらず。吾人は時期を見て更にこの問題に関して論ずる事あるべし。」
 己はどんな事が書いてあつても驚かない積りで読んだのだが、この文章には少からず驚いた。己の右左にゐる役人には、意見を交換するに適当な人物がゐないので、己は向側に坐つてゐるプロホル・サヰツチユの方を見た。ところがプロホルの顔は余程前から己の様子を覗つてゐたと見えて、手にはヲロス新聞を持つてゐて、己のが済んだら取換て見ようとしてゐる。己に顔を見られると、プロホルは黙つてリストツク新聞を受け取つて、代りにヲロス新聞を渡したが、渡す時指の尖《さき》で或る記事を押へて、そこを読めと云ふ意味を知らせたのである。プロホルは一体妙な男で、平生|詞数《ことばかず》を言はず、年を取つても独者《ひとりもの》で暮し、誰とも交際しない。こんな役所で一しよに勤めてゐれば、どうしても詞を交さずにはゐられないのに、この男は黙つてゐて、何事に付けても特別な意見を持つてゐて、それを誰にも明さない。自分の内へ同僚を来させた事もない。只寂しく暮してゐると云ふ評判を聞くだけである。ヲロス新聞には次の記事が出てゐた。
「吾人は進歩主義を奉じ、人道的に云為《うんゐ》し、西欧諸国の人士の下《もと》に立たざらんと欲するものにして、これ世人の夙《つと》に認むる所ならん。本紙の希望と努力とは斯の如くなるに拘はらず、吾人は不幸にして我が同胞の未だ成熟の域に達せざるを発見せり。昨日新道に於て認められたる事実は、実にこれを証するに余りあるものとす。吾人は遺憾ながら斯の如き事実の早晩現出すべきを予言したる事あり。曩日《なうじつ》一外人ありて帝都に生きたる※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を携へ来り、新道に於て公衆に示す事とせり。斯の如き有益にして人智開発上|裨補《ひほ》する所ある営業の代表者の来りて、帝都に開店したるを見て、吾人は直ちに賛成の意を表したり。然るに両三日前午後五時頃一人の肥胖漢《ひはんかん》あり。酒気を帯びて新道の店に来り、入場料を払ひて場内に入りしが、突然彼の※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]を飼養しあるブリツキ盤に近づき、傍人《ぼうじん》に一語を交へずして※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の口内に闖入せり。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]はその儘彼の人物を口内に置く時は窒息すべきを以て、自営上止むを得ず彼の人物を嚥下《えんげ》せり。然るに彼の氏名未詳の人物は※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の胃中に入りてこゝに住居を卜し、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の持主の嘆願を容れず、数多《すうた》の不幸なる家族の悲鳴を省ず、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の胃中に滞留せり。警察の力を借りて退去を命ぜんと威嚇するものありしが、該人物は依然聴許せず。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の胃中よりは笑声洩れ聞え、又※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の腹を切開せんと脅迫するに至る。憫むべき※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は斯の如き長大なる物を呑みたる為め頻に落涙しをれり。我国の古諺《こげん》に曰く。速《まね》かざる客は韃靼人《だつたんじん》よりも忌《い》まると。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は縦令《たとへ》落涙すとも、胃中の寄住者を如何《いかん》ともする事能はざるなり。寄住者は永久に退去するを肯《がへん》ぜざるものゝ如し。吾人はこの人物の何故に斯の如き蛮行を敢てしたるかを説明する事能はずと雖、この事実の我が同胞の未だ成熟せざるを証明し、外侮《ぐわいぶ》を招くべきを見て遺憾なき能はず。我国人に放縦《はうじゆう》の悪性質あるは、吾人の平素痛嘆する所なるが、この新事実は明かにこの性質を表示するものとす。試に問はん。彼の速かざる客はこの行為を以て何の目的を達せんとしたるか。温暖にして安楽なる住所を得んと欲せしか。果して然りとせば、彼の人物は何故に市中に就いて適当なる借家を捜索せざりしか。本市には廉価にして美麗に且便利なる借家少からず。ネワ河水を鉄管にて引きたる上水あり。瓦斯燈《がすとう》の装置あり。その完全なる物に至つては門衛をも家主《いへぬし》の支辨にて雇ひ入れあるにあらずや。吾人は最期に読者の注意を乞はんと欲する一事あり。即ち動物虐待の問題これなり。彼の肥胖漢を消化するは※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]の為めには非常に困難なるべき事論なし。※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]は長大なる物を腹中に貯へ、寸毫も身を動かすこと能はずして盤中に横り、今将《いまゝさ》に悶死せんとすと云ふ。西欧諸国に於ては動物虐待者は一々法律上処罰せらるゝものなり。独り我が同胞は既に瓦斯燈を設け、人道車道を区別し、新式の家屋を建設すと雖、今に至るまで依然として蒙昧粗笨《まうまいそほん》の域を脱せざるなり。グリボエドツフの曰く。吾人の家屋は新なりと雖、吾人の成心《せいしん》は古しと。吾人はこの語の猶事実に合せざるを遺憾とす。なんとなれば吾人の家屋はその梯《はしご》を新にしたるのみにて実は古きなり。本紙は既に屡々注意を与へたるに拘はらず、ペエテルブルク町の商家ルキアノツフ氏の住宅には、庖厨より居室に通ずる階段の既に久しく腐朽せるものあり。右の階段は今|終《つひ》に陥落したり。而して同家に使役せらるゝ兵卒の妻アフイミア・スカピダロワは彼の階段を上下《じやうか》する毎に非常なる危険を冒せり。殊に水若くは薪を運搬する時を然りとす。昨夕《さくせき》八時三十分アフイミアは汁を盛れる瓶《へい》を持ちて彼の階段を通過する際、終に倒れて下肢《かし》骨折をなせり。吾人は不幸にして未だルキアノツフ氏の該階段を修繕せしむるに意ありや否やを詳《つまびらか》にせず。由来我国人の悟性は遅鈍なり。吾人は只この遅鈍の犠牲たる憫《あは》れむべき女子の既に病院に送られたる事を報道し得るのみ。因《ちなみ》に謂《い》ふヰルブルク町の木造人道の塵芥を掃除する奉公人は何故に往来人の靴を汚染する事を省みざるや。外国の例の如く塵芥は一所に堆積する如く掃き寄するに何の困難もなきにあらずや。」
 己は呆《あきれ》てプロホルの顔を見て云つた。「これは何の事でせう。」
「なにが。」
「どうも※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]に呑まれたイワンに同情せずに、却て呑んだ※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]に同情してゐるぢやありませんか。」
「それが不思議ですか。動物にまで同情するのです。理性のない動物にまで同情するのです。これでは西欧諸国にも負けてゐませんね。あつちもそんな風ですから。へゝゝゝ。」変物《かはりもの》の老人はかう云つた切り、取り扱つてゐる書類の方に目を向けて、跡は無言でゐた。
 己は二枚の新聞をポツケツトに捻ぢ込んで序にペエテルブルク新報やヲロスの外の日のをも集めて持つて、この日にはいつもより早く役所を出た。まだ約束の時刻までには、大ぶ時間があるが、己は急いで新道に往つて、せめて遠方からなりとも、※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]とイワンとの様子を見たり、見物人の話してゐる事を聞いて、人心の観察をしたりしようと思つたのである。いづれ見物人の数は多からうと思つたので、己は用心の為め外套の領《えり》を立てた。なぜだか知らないが、人に顔を見られるのが恥かしいやうな気がしたのである。一体我々は人中に出る事に慣れてゐないのだ。こんな事は言ふものゝ、友人が非常な運命に陥つてゐるのを思へば、己の平凡な感想なぞを彼此言ふのは済まない事だ。



底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55] 明治四五年五―六月「新日本」二ノ五―六
原題(独訳):〔Das Krokodil. Eine aus&ergewo:hnliche Begebenheit oder eine Passage in der Passage.〕
原作者:Fyodor Mikhailovich Dostoevski, 1821-81.
翻訳原本:F. M. Dostojewski: 〔Sa:mtliche〕 Werke. 2. Abteilung, 17. Band. Onkelchens Traum und andere Humoresken. (Onkelchens Traum. Die fremde Frau und der Mann unter dem Bett. Das Krokodil.) Deutsch von E. K. Rahsin. 〔Mu:nchen〕 und Leipzig, Verlag von R. Piper u. Co. 1909.
※底本では題名に「※[#「魚」+「王」の中の空白部に「口」が四つ、第3水準1-94-55]」が用いられている。
※「細君」と「妻君」の混在は底本のママ。
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年1月16日公開
2003年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ