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パアテル・セルギウス
レオ・トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi)
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お上《かみ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)無論只|空《くう》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「りっしんべん」に「篋」から「竹」を取ったもの、第3水準1-84-56、339-下-5]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

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     一

 千八百四十何年と云ふ頃であつた。ペエテルブルクに世間の人を皆びつくりさせるやうな出来事があつた。美男子の侯爵で、甲騎兵聯隊からお上《かみ》の護衛に出てゐる大隊の隊長である。この士官は今に侍従武官に任命せられるだらうと皆が評判してゐたのである。侍従武官にすると云ふ事はニコラウス第一世の時代には陸軍の将校として最も名誉ある抜擢であつた。この士官は美貌の女官と結婚する事になつてゐた。女官は皇后陛下に特別に愛せられてゐる女であつた。然るに此士官が予定してあつた結婚の日取の一箇月前に突然辞職した。そして約束した貴婦人との一切の関係を断つて、少しばかりの所領の地面を女きやうだいの手に委ねて置いて、自分はペエテルブルクを去つて出家しにある僧院へ這入つたのである。
 此出来事はその内部の動機を知らぬ人の為めには、非常な、なんとも説明のしやうのない事件であつた。併し当人たる侯爵ステパン・カツサツキイが為めには是非さうしなくてはならぬ事柄で、どうもそれより外にはしやうがないやうに思はれたのである。
 ステパンの父は近衛の大佐まで勤めて引いたものであつた。それが亡くなつたのはステパンが十二歳の時である。父は遺言して、己の死んだ跡では、倅を屋敷で育てゝはならぬ。是非幼年学校に入れてくれと云つて置いた。そこでステパンの母は息子を屋敷から出すのを惜しくは思ひながら、夫の遺言を反古にすることが出来ぬので、已むことを得ず遺言通にした。
 さてステパンが幼年学校に這入ると同時に、未亡人《びばうじん》は娘ワルワラを連れてペエテルブルクに引越して来た。それは息子のゐる学校の近所に住つてゐて、休日には息子に来て貰はうと思つたからである。
 ステパンは幼年学校時代に優等生であつた。それに非常な名誉心を持つてゐた。どの学科も善く出来たが、中にも数学は好きで上手であつた。又前線勤務や乗馬の点数も優等であつた。目立つ程背が高いのに、存外軽捷で、風采が好かつた。品行の上からも、模範的生徒にせられなくてはならぬものであつた。然るに一つの欠点がある。それは激怒を発する癖のある事である。ステパンは酒を飲まない。女に関係しない。それに※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、327-上-11]《うそ》を衝くと云ふ事がない。只此青年の立派な性格に瑕《きず》を付けるのは例の激怒だけである。それが発した時は自分で抑制することがまるで出来なくなつて、猛獣のやうな振舞をする。或時かう云ふ事があつた。ステパンは鉱物の標本を集めて持つてゐた。それを一人の同窓生が見て揶揄《からか》つた。するとステパンが怒つて、今少しでその同窓生を窓から外へ投げ出す所であつた。又今一つかう云ふ事があつた。ステパンの言つた事を、或る士官がに※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、327-下-4]だと云つて、平気でしらを切つた事がある。その時ステパンはその士官に飛び付いて乱暴をした。人の噂では士官の面部を打擲《ちやうちやく》したと云ふことである。兎に角普通なら、この時ステパンは貶黜《べんちつ》せられて兵卒になる所であつた。それを校長が尽力して公にしないで、却てその士官を学校から出してしまつた。
 ステパンは十八歳で士官になつた。そして貴族ばかりから成り立つてゐる近衛聯隊の隊附にせられた。ニコラウス帝はステパンが幼年学校にゐた時から知つてゐて、聯隊に這入つてからも特別に目を掛けて使つてゐた。それで世間ではいづれ侍従武官にせられるものだと予想してゐたのである。
 ステパンも侍従武官になることを熱心に希望してゐた。それは一身の名誉を謀《はか》るばかりではない。幼年学校時代からニコラウス帝を尊信してゐたからである。帝は度々幼年学校へ行幸せられた。背の高い胸の広い体格で、八字髯と、短く苅込んだ頬髯との上に鷲の嘴のやうに曲つた隆い鼻のある帝は、さう云ふ時巌丈な歩き付きをして臨場して、遠くまで響く声で生徒等に挨拶せられた。さう云ふ事のある度に、ステパンはなんとも云へぬ感奮の情を発した。後に人と成つてから、自分の愛する女を見て発する情と同じやうな感奮であつた。否、ステパンが帝に対して懐いてゐた熱情は、後に女に対して感じた情よりは遙に強かつた。どうにかして際限もない尊信の思想が帝に見せて上げたい。何か機会があつたら、帝の為めに何物をでも犠牲にしたい、一命をも捧げたいと思つてゐたのである。帝はこの青年の心持を知つて、わざとその情を煽るやうな言動をせられた。いつも帝は幼年学校で生徒に交つて遊戯をして、生徒の真ん中に立つてゐて、子供らしい、無邪気な事を言つたり、又友達のやうに親切な事を言つたり、又改まつて晴れがましい事を言つたりせられた。ステパンが例の士官を打擲した事件の後に、帝は幼年学校に臨校せられたが、ステパンを見てもなんとも言はずにゐられた。さてステパンが偶然帝の側に来た時、帝は舞台で俳優のするやうな手附をして、ステパンを自分の側から押し除けて、額に皺を寄せて、右の手の指を立てゝ、威《おど》すやうな真似をせられた。それから還御《くわんぎよ》になる時、ステパンに言はれた。「覚えてゐるのだぞ。己は何もかも知つてゐる。併し或る事件は己は決して口に出さない。併しこゝにしまつてあるぞ。」帝はかう云つて胸を指さゝれた。
 ステパンが組の生徒が卒業して、一同帝の前に出た時、帝はステパンの例の事件を忘れたやうに言ひ出さずにゐた。そしていつものやうに、一同に訓示をした。何事があつてもこれからは直接に己に言へ、己とロシアの本国との為めに忠実に働け、己はいつでもお前達の親友であるぞと言つたのである。一同感激した。中にもステパンは自分の失錯の事を思つて、涙を流して、この難有い帝に一身を捧げて勤めようと心に誓つた。
 ステパンが聯隊附になつた時、母は娘を連れてまづモスクワに移つて次いで田舎に引つ込んだ。その時ステパンは財産の半ばを割《さ》いて女きやうだいに遣つた。自分が手元に残して置いた財産は、贅沢な近衛聯隊に勤める入費を支払つて一銭も残らぬだけの金額に過ぎなかつた。
 ステパンと云ふ男は余所目《よそめ》には普通の立派な青年近衛士官で、専念に立身を望んでゐるものとしか見えない。併しその腹の中に立ち入つて見ると、非常に複雑な、緊張した思慮をめぐらしてゐる。その思つてゐる事は子供の時から種々に変化したやうである。それは真に変化したのではない。煎じ詰めて見れば只一つの方針になる。即ち何事に依らず完全に為遂《しと》げて、衆人の賞讃と驚歎とを博せようとするのである。例之《たとへ》ば学科は人に褒められ、模範とせられるまで勉強する。さてその目的を達してしまふと、何か外の方角へ手を出すのである。そんな風で、幼年学校にゐた間、あらゆる学科の最優等生になつてゐた。その頃フランス語の会話が只一つ不得手《ふえて》であつた。そこで非常にフランス語を研究して、とう/\ロシア語と同じやうにフランス語を話すことが出来るまでに為上げた。遊戯の中で将棋なども、習ひ始めてからは、生徒仲間で一番に成るまで息《や》めなかつた。
 此男が士官になつてからは、本務上陛下に仕へ本国の為めに勤務するのは無論である。併しその外にいつも何か一為事《ひとしごと》始めてゐる。然もその副業に全幅の精神を傾注して成功するまでは息めない。どんな詰まらぬ事にもせよ、此流義で為遂げる。そこで其事が成就してしまふと、直ぐにそれを擲《なげう》つて、何か新しい方角に向つて進む。兎に角或る事件を企てる、それを成功して人を凌駕しようとする精神がこの男を支配してゐる。最初に聯隊に這入つた時、ステパンは一つこの勤務と云ふものを飽くまで研究しようと思つた。そこでステパンは間もなく聯隊中の模範将校になつた。併し惜しい事には例の激怒がどうかすると発する。そこで勤務上にも考科に疵を付けるやうな不都合の出来る事があつた。
 ステパンは後に上流社会で交際するやうになつてから自分の普通教育の足りない事に気が付いた。そこでその穴埋をしようと思つて、すぐに種々の書物を買ひ込んだ。そして間もなく目的を達した。次いで交際社会で立派な地位を占めようと思つた。そこで舞踏の稽古をして上手になつた。上流社会で舞踏会や夜会を催す事があると、ステパンはきつと請待《しやうだい》せられる事になつた。ところがそれまでになつたステパンの心中には満足の出来ない事があつた。それはどこへ往つても第一の地位を占めようと思つてゐるのに、実際は中々それどころではなかつたからである。
 その頃の上流社会と云ふものは、大抵左の四種類の人物から成り立つてゐた。多分今でもこれから後でも同じ事だらう。その種類は第一が財産のある貴顕である。第二は貴顕の間に生れて育つたゞけで、財産のない人々である。第三は貴顕の間に割り込まうとしてゐる財産家である。第四は貴顕でもなく、財産家でもないのに、強ひて貴顕や財産家と同じ世渡をしようとしてゐる人達である。
 第一第二の階級には、ステパンは這入る事が出来ない。ステパンは第三第四の仲間から歓迎せられる丈である。さてその仲間に這入つてから、ステパンはまづ貴夫人のどれかに関係を付けようと企てた。併しそれは間もなく出来て、然も余り容易に出来たので我ながら驚いた。
 さて暫くして気が付いて見ると、自分の交際してゐる社会は決して最上流ではない。それより上に別天地がある。その別天地では随分喜んで自分を請待してはくれるが、どうしても他人扱にしてゐる。勿論自分に対してその人々の言つたり、したりする事は丁寧で親密らしくは見える。併し矢張仲間としては取扱つてくれない。そこでステパンはその仲間に入らうと企てた。それには二つの途がある。一つは侍従武官になる事である。これは早晩出来さうに思はれる。今一つは最上流の令嬢と結婚する事である。ステパンはこれをも為遂げようと企てた。
 ステパンの選んだのは絵のやうに美しい令嬢である。それが女官を勤めてゐる。この令嬢は単に最上流の社会に属してゐると云ふばかりではない。最上流の中の極めて高貴な最も勢力のある人達からうるさい程大事にせられてゐる。その令嬢はコロトコフ伯爵の娘である。ステパンがこの人に結婚を申込まうとしたのは、決して最上流の社会に交らうとする手段ばかりではない。その娘が如何にも人好のする質《たち》であつたので、ステパンはそれに接近してから間もなく恋ひ慕ふやうになつてゐた。令嬢は初めはステパンに対して非常に冷淡であつた。それが或る時どうした事か突然態度を一変して、ステパンに優しくするやうになつた。殊に母の伯爵夫人がステパンを屋敷へ引き寄せようとして骨を折るやうになつたのは、不思議な程であつた。
 さてステパンは正式に結婚を申込んだ。申込はすぐに聴き入れられた。ステパンはこれ程の幸運が余り容易に得られたので、我ながら不思議に思つた。それにどうも母と娘との挙動に怪しいところがあるらしく感ぜられた。併しもうその娘に溺れるまでに恋をしてゐたので、目もくらみ耳も鈍くなつてゐて、ペエテルブルク中で知らぬものゝない、此娘の秘密をステパンは知らずにゐた。
 それは伯爵コロトコフの令嬢には、ステパンが結婚の約束をする一年前に、帝のお手が付いたと云ふ一件である。
 式を挙げる日が極まつてからの事である。ステパンはその日の二週間前に伯爵家の別荘に呼ばれて滞留することになつた。別荘はツアルスコエ・セロである。時は五月の暑い日である。ステパンと娘とは花園の中《うち》を散歩して、そこにある菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けた。その日には、白の薄絹の衣裳を着てゐた令嬢マリイがいつもよりも一層美しく見えた。おぼこ娘の初恋と云ふものを人格にして見せたらこんなだらうと思はれる程である。ステパンがこの天使のやうな純潔な処女心《をとめごころ》を、うかとした挙動や言語《げんぎよ》で傷るやうな事があつてはならぬと心配して、特別な優しさと用心深さとを以て話を為掛《しか》けてゐると、マリイは伏目になつたり、又背の高い美男のステパンを仰いで見たりしてゐる。
 千八百四十何年と云ふ頃には、紳士社会に一種の道徳的観念があつた。それは紳士が自分は貞操を守らずにゐても好いものとして、中心に不品行を呪はずにゐて、その癖天上にあるやうな純潔を保つてゐる、理想的の女を妻にしようとしてゐたのである。そしてさう云ふ紳士は自分のゐる社会の処女を、悉《こと/″\》くその天上にあるやうな純潔を保つてゐるものだと極めてゐて、その積りで取扱つてゐたのである。そんな紳士は今は亡い。ところがステパンはその紳士の一人であつた。
 男子と云ふものゝ平気でしてゐる穢《けが》れた行跡の事を思へば、かう云ふ観念には数多《あまた》の誤謬と顛倒とを含んでゐる。此観念は今日の男子が頭から処女を牝として取扱ふのとは非常に相違してゐる。併し作者の考ではこの観念は娘や人妻の為めには利益であつた。さう云ふ天使扱をせられると、娘も多少神々しくならうとして努力するわけである。
 ステパンはさう云ふ道徳的観念を持つてゐた紳士の一人であるから、結婚の約束をしたマリイをもその目で見てゐる。けふはステパンがいつもよりも深く溺れたやうな心持になつてゐて、その癖少しも官能的発動は萌《きざ》してゐない。只如何にも感動したやうな態度で、仰ぎ視るべくして迫り近づくべからざるものゝやうに、娘の姿を眺めてゐる。背の高いステパンは、娘の前に衝つ立つて、両手で軍刀の柄《つか》を押へてゐるのである。
 ステパンは恥かしげに微笑みながら云つた。「わたしは今になつて始めて人間と云ふものゝ受けられる幸福の全範囲が分つたのですね。」夫婦の約束をしてから暫くの間は、もうぞんざいな詞《ことば》を使ふ権利がありながら、まだそれを敢てしないものである。ステパンは今その時期になつてゐて、マリイを尊《たつと》いものゝやうに見上げてゐるので、その天使のやうな処女《をとめ》にお前なんぞと云ふ事は出来にくいのである。ステパンはやうやうの事で語を次いだ。「どうもお前のお蔭でわたしは自己と云ふものが分つたのだね。さて分つて見れば、わたしは最初一人で考へてゐたより、余程善良なのだね。」
「あら。わたくしの方ではそれがとうから分つてゐましたの。だからわたくしあなたが好になつたのでございますわ」
 すぐ側でルスチニア鳥が一声啼いた。そして若葉が風にそよいでゐる。
 ステパンはマリイの手を取つてそれに接吻した。その時目には涙が湧いて来た。
 これはあなたが好になつたと云つた礼だと云ふ事を、マリイは悟つた。
 ステパンは黙つて二三歩の間を往つたり来たりしたが、さてマリイの側に腰を掛けた。「あなたには、いや、お前には分つてゐるだらうね。もうかうなつてしまへばどうでも好いのだ。実はわたしがお前に接近したのはどうも利己主義ではなかつたとは云はれない。なぜと云ふにわたしは上流社会に聯絡を付けようと思つて、交際を求めたのだからね。併し暫く立つとわたしの心持は一変した。そんな目的なんぞはお前と云ふものを手に入れる事に比べるとなんでもなくなつた。それはお前の人柄が分つて来たので、さう云ふ心持になつたのだ。ねえ、さう云ふわけだからと云つて、わたしの事を悪く思つてはくれないだらうね。」
 マリイはそれにはなんの返事もせずに、そつとステパンの手を握つた。
 詞で言つたら、「いゝえ、悪くなんぞは思ひません」と云つたのと同じだと云ふ事が、ステパンに分つた。
「さう。今お前が云つたつけね。」ステパンはかう云ひ掛けたが、ちと言ひ過ぎはせぬかと思つたので、ちよつとためらつた。「お前はわたしが好になつたと云つたつけね。それはさうだらうかとわたしも思つてゐる。だがね、おこつては行けないよ、さう云ふお前の感情の外に、まだお前とわたしとの間に何者かゞあつて、それが二人の中の邪魔にもなるし、又お前に不安を覚えさせてゐるらしく、わたしには見えるがね。あれは一体なんだらうね。」
 此詞を聞いた時、打ち明ければ今だ。今言はずにしまへば、言ふ時がないと云ふ事が女の意識を掠めて過ぎた。女は思案した。「どうせ自分が黙つてゐたつて、此事が夫の耳に入《い》らずには済まない。もうかうなつて見れば、打ち明けたところで、此人に棄てられる気遣はない。併しこれまでになつたのは、ほんに嬉しい。若し此人に棄てられる事があるやうでは、わたしに取つては大変だから」と思案した。そして優しい目附でステパンが姿を見た。背の高い立派な巌丈な体である。女は今では此男を帝よりも愛してゐる。若しそれが帝でなかつたら、十人位此男の代りに人にくれて遣つても好いと思つてゐる。そこでかう言ひ出した。「あなたにお話いたして置かなくてはならないのでございますがね。わたくしあなたに隠し立をいたしては済みませんから。わたくし何もかも言つてしまひますわ。どんな事を言ふのだとお思ひなさいませうね。実はわたくし一度恋をしたことがございますの。」かう云つて女は又自分の手をステパンの手の上に載せて歎願するやうに顔を見た。
 ステパンは黙つてゐた。
「あなた相手は誰だとお思ひなさいますの。あの陛下でございます。」
「それは陛下を愛すると云ふことは、あなたにしろわたし共にしろ、皆してゐるのです。女学校にお出の時の話でせう。」
「いゝえ、それより後の事でございます。無論只|空《くう》にお慕ひ申してゐたので、暫く立つと、なんでもなくなつてしまひましたのですが、お話いたして置かなくてはならないのは。」
「そこで。」
「いゝえ。それが只プラトオニツクマンにお慕ひ申したと云ふばかりではございませんでしたから。」
 言ひ放つて、女は両手で顔を隠した。
「なんですと。あなた身をお任せになつたのですか。」
 女は黙つてゐた。
 ステパンは跳り上つた。顔の色は真つ蒼になつて表情筋《へうじやうきん》の痙攣を起してゐる。此時ステパンが思ひ出したのはネウスキイで帝に拝謁した時、帝が此女と自分との約束が出来たのを聞かれて、ひどく喜ばしげに祝詞を述べられたことである。
「あゝ。ステパンさん。わたくしは飛んだ事を申し上げましたね。」
「どうぞもうわたくしに障《さは》らないで下さい。障らないで下さい。あゝ。実になんともかとも言はれない苦痛です。」かう云つて、ステパンはくるりと背中を向けて帰り掛けた。
 そこへ母親が来掛かつた。「侯爵。どうなされたのです。」かう云ひ掛けたが、ステパンの顔色を見て詞を続けることが出来なかつた。
 ステパンの両方の頬には忽然《こつぜん》血が漲つて来たのである。「あなたは御承知でしたね。御承知でわたくしを世間の目を隠す道具にお使になりましたね。あゝ。若しあなたが貴夫人でなかつたら。」最後の詞を叫ぶやうに言つたのである。それと同時にステパンは節榑立《ふしくれだ》つた拳を握り固めて夫人の顔の前で振つた。そしてくるりと背中を向けて駆け出した。
 ステパンは許嫁《いひなづけ》の女の情夫が、若し帝でなくて、外の誰かであつたら、きつと殺さずには置かなかつただらう。ところがそれが帝である。自分の神のやうに敬つてゐる帝である。
 ステパンは翌日すぐに休暇願と辞表とを一しよに出した。そして病気だと云つて一切の面会を謝絶した。それから間もなくペエテルブルクを立つて荘園に引つ込んだ。
 夏の間中掛かつて、ステパンは身上の事を整理した。夏が過ぎ去つてしまふと、再びペエテルブルクに帰らずに、僧になつて僧院に這入つた。
 マリイの母は此様子を聞いて、余り極端な処置を取らせまいと思つて手紙を遣つた。併しステパンは只自分は神の使命の儘にするので、その使命の重大な為めに、何事も顧る事が出来ないのだと云ふ返事をした。ステパンが此時の心持を領解してゐたのは、同じやうに自信のある、名誉心の強い同胞《どうはう》のワルワラ一人であつた。
 ワルワラはステパンの心を洞察してゐた。ステパンは僧院に這入ると同時に、世間の人が難有く思つてゐる一切の事、自分も奉公をしてゐる間矢張難有く思つてゐた一切の事を抛《なげう》つたのである。ステパンはこれまで自分の羨んでゐる人々を眼下に見下《みくだ》すやうな、高い地位に身を置いたのである。併しステパンが僧になつた動機はこればかりではない。これより外に、ワルワラの理解し得ない動機がある。これは此男が真に宗教上の感情を有してゐたのである。此感情が自信や名誉心と交錯して一しよになつて、此男の動作を左右してゐるのである。崇拝してゐたマリイに騙されて、非常な侮辱を蒙つたと思ふと同時に、ステパンは一時絶望の境遇に陥つた。そして子供の時から心の底に忘れずに持つてゐた信仰に立ち戻つて神にたよることになつたのである。

     二

 ステパンが僧院に入《い》つたのは、ロシアでポクロフと云ふ聖母の恩赦の日である。此日にステパンは平生自分を凌いでゐた人々の上に超絶した僧侶生活に入つたのである。
 僧院の長老は上品な老人で、貴族と学者と文士とを兼ねてゐた。長老はルメニアから起つた寺院の組合に属してゐて、此組合は宗門の師匠に対して絶対の服従をしてゐるのである。
 此長老の師匠は名高いアンブロジウスである。アンブロジウスの師匠はマカリウスである。マカリウスの師匠はレオニダスである。レオニダスの師匠はパイジウス・ヱリチユコウスキイである。
 ステパンは此長老の徒弟になつた。併しこゝでもステパンは人に傲《おご》る癖を出さずにはゐられなかつた。僧院内では誰よりもえらいと思つたのである。それからどんな場所で働く時にもさうであつたが、ステパンはこゝでも自分の内生活を出来るだけ完全にしようと企てゝ、さてその目的に向いて進む努力に面白みを感じてゐるやうになつた。
 前にも話した通に、ステパンは聯隊にゐた時、模範的士官であつた。そしてそれに満足しないで、何か任務を命ぜられると、それを十二分に遂行せずには置かなかつた。詰り軍隊に於ける実務の能力に、ステパンは新しいレコオドを作つたのである。さて今僧院に入つたところで、ステパンはこゝでも同じやうに成功しようと思つた。そこでいつも勉強する。慎深くする。謙遜する。柔和に振舞ふ。行為の上では勿論、思想の上でも色慾を制する。それから何事に依らず服従する。
 中にもこの服従と云ふものが、ステパンの為めには、僧院内の生活を余程|容易《たやす》くしてくれる媒《なかだち》になつた。宮城のある都に近い僧院で、参詣する人の数も多いのだから、ステパンがさせられる用向にも、随分迷惑千万な事が少くない。さう云ふ時にステパンは何事にも服従しなくてはならぬと云ふ立場からその用向を辨ずることにしてゐる。宝物の番人をさせられても、唱歌の群に加へられても、客僧を泊らせる宿舎の帳面附をさせられても、ステパンは己は何事に付けても文句を言ふべき身の上ではない、服従しなくてはならないのだと、自分で自分を戒めて働いてゐる。それから何事に付けても懐疑の心が起りさうになると、これも師匠と定めた長老に対する服従と云ふところから防ぎ止めてしまふ。若しこの服従と云ふことがなかつたら、ステパンは日々《にち/\》の勤行《ごんぎやう》の単調で退屈なのに難儀したり、参詣人の雑沓をうるさがつたり、同宿の不行儀なのを苦に病んだりした事だらう。
 然るにステパンは服従を旨としてゐるので、さう云ふ一切の困難を平気で、嬉しげに身に受けてゐる。そればかりではない。その迷惑をするのが却て慰藉《なぐさめ》になり、たよりになるのである。ステパンはこんな独語《ひとりごと》を言つてゐる。「毎日何遍となく同じ祈祷の文句を聞かなくてはならぬのはどうしたわけだか、己には分らない。併し兎に角さうしなくてはならないのだ。だから己にはそれが難有い」と云つてゐる。或る時師匠がステパンに言つて聞かせた。「人間は体を養ふ為めに飲食をすると同じ事で、心を養ふ為めに心の飲食をしなくてはならぬ。それが寺院での祈祷だ」と云ふのである。ステパンはそれを聞いて信用した。そこで朝早く眠たいのに床から起されて勤行に出て往つても、それがステパンの為めに慰安になり、又それに依つて歓喜を生ずることになるのである。その外自分が誰にでも謙遜してゐると云ふ意識も、師匠たる長老に命ぜられて自分のするだけの事が一々規律に※[#「りっしんべん」に「篋」から「竹」を取ったもの、第3水準1-84-56、339-下-5]《かな》つて無瑕瑾《むかきん》だと云ふ自信も、ステパンに歓喜を生ぜさせるのである。
 ステパンはこんな風に自分の意思を抑制する事、自分の謙徳を増長する事などに次第に力を籠めてゐたが、それだけでは満足する事が出来なかつた。ステパンはその外一切のクリスト教の徳義を実行しようとした。そして最初にはそれが格別困難ではないやうに思はれた。
 ステパンは財産を挙げて僧院に贈与した。そしてそれを惜しいとも思はなかつた。懶惰と云ふものは生来知らない。自分より眼下《めした》になつてゐる人に対して謙遜するのは、造作もないばかりではなく、却て嬉しかつた。一歩進んで金銭上の利慾と、肉慾とを剋伏《こくふく》することも、余り骨は折れなかつた。中にも肉慾は長老がひどく恐ろしいものだと云つて戒めてくれたのに、自分が平気でそれを絶つてゐられるのが嬉しかつた。只|許嫁《いひなづけ》のマリイの事を思ひ出すと煩悶する。只マリイと云ふ人の事を思ふのがつらいばかりではない。若しあの話を聞かずに結婚したら、その後どうなつたゞらうと考へて見ると、その想像が意外にも自分の遁世を大早計《だいさうけい》であつたかの如く思はせるのである。ステパンは不随意に陛下の或るおもひものゝ成行を考へ出す。その女は後に人の女房になつて家庭を作つてから、妻としても母としても立派なものであつた。その夫は顕要の地位にをつて人に尊敬せられ、そして前の過を悔いる為めに珍らしい善人になつた女房を持つてゐたのである。
 時としてはステパンの心が冷静になつて、そんな妄想《まうざう》が跡を絶つてしまふ。そんな時に前に言つたやうな妄想を思ひ出して見ると、自分がそれに負けずに、誘惑に打ち勝つたのが嬉しくなる。
 それかと思ふと、ステパンが為めには又悪い日が来ることがある。その時ステパンは今の身の上で生涯の目的にしてゐる信仰を忘れはしないが、どうも今日《こんにち》僧院でしてゐる事が興味のないものになつてしまふ。そんな時には自分の信仰の内容を現前《げんぜん》せしめようとしてもそれが出来ない。その代りに悲しい記憶が呼び出されて来る。そして自分の遁世したのを後悔するやうになつて来る。
 そんな時にはステパンは服従と労作と祈祷との三つを唯一の活路とするより外はない。そんな時の祈祷には額を土に付けるやうにして、又常よりも長い間文句を唱へてゐる。その癖只口で唱へるだけで、霊は余所《よそ》に逸《そ》れてゐる。そんな時が一日か二日かあつて、そのうち自然に過ぎ去つてしまふ。その一日か二日がステパンが為めには恐ろしくてならない。なぜと云ふに自分の意志の下にも立たず、神の威力の下にも立つてゐず、何物とも知れぬ不思議な威力が自分を支配してゐるらしく思はれるからである。さてさう云ふ日にはどうしようかと、自分で考へて見たり、又長老に意見を問うて見たりしたが、詰り長老の指図に従つて専ら自分で自分を制して、別に何事をも行はず、時の過ぎ去るのを待つてゐるより外ない。そんな時にはステパンは自分の意志に従つて生活せずに、長老の意思に従つて生活するやうに思つてゐる。そしてそこに慰安を得てゐるのである。
 先づこんな工合で、ステパンは最初に身を投じた僧院に七年間ゐた。その間で、第三年の末に院僧の列に加へられて、セルギウスと云ふ法号を貰つた。此時の儀式がセルギウスの為めには、内生活の上の重大な出来事として感ぜられた。それまでにもセルギウスは聖餐を戴く度に慰安を得て心が清くなる様に思つたが、今院僧になつて自分で神に仕へる事になつて見ると、贄卓《にへづくゑ》に贄を捧げる時、深い感動と興奮とを覚えて来るのである。然るにさう云ふ感じが時の立つに連れて次第に鈍くなつた。今度は例の悪い日が来て、精神の抑圧に逢つて、ふと此贄を捧げる時の感動と興奮とが、いつか消え失せてしまふだらうと思つた。果して暫くするうちに、尊《たつと》い儀式をする時の感じが次第に弱くなつた末に、とう/\只の習慣で贄を捧げてしまふやうになつた。
 僧院に入《い》つてから七年目になつた時である。セルギウスは万事に付けて退屈を覚えて来た。学ぶだけの事は皆学んでしまつた。達せられるだけの境界には総て達してしまつた。もう何もして見る事がなくなつたのである。
 その代りにステパンは世間を脱離したと云ふ感じが次第に強くなつた。丁度その頃母の死んだ訃音《ふいん》と、マリイが人と結婚した通知とに接したが、ステパンはそれにも動かされなかつた。只内生活に関してのみ注意し、又利害を感じてゐるのである。
 院僧になつてから四年立つた時、当宗の管長から、度々優遇せられたことがある。そのうち長老からこんな噂を聞かせられた。それは若し上役に昇進させられるやうな事があつても辞退してはならぬと云ふ事であつた。此時僧侶の間で最も忌むべき顕栄を干《もと》める念が始めてステパンの心の中《うち》に萌《きざ》した。間もなくステパンは矢張都に近い或る僧院に栄転して一段高い役を勤めることを命ぜられた。ステパンは一応辞退しようとしたが、長老が強ひて承諾させた。ステパンはとう/\服従して、長老に暇乞をして新しい僧院に移つた。
 都に近い新しい僧院に引き越したのは、ステパンの為めには重大な出来事であつた。それは種々の誘惑が身に迫つて来て、ステパンは極力それに抗抵しなくてはならなかつたからである。
 前の僧院にゐた時は、女色《ぢよしよく》の誘惑を受けると云ふことはめつたになかつた。然るに今度の僧院に入《い》るや否や、この誘惑が恐ろしい勢力を以て肉迫して来て、然も具体的に目前に現はれたのである。
 その頃品行上評判の好くない、有名な貴夫人があつた。それがセルギウスに近づかうと試みた。セルギウスに詞を掛け、遂に自分の屋敷へ請待《しやうだい》した。セルギウスはそれをきつぱり断つた。併しその時自分の心の底にその女に近づきたい欲望が不遠慮に起つたので、我ながら浅ましく又恐ろしく思つた。セルギウスは余りの恐ろしさにその顛末を前の僧院の長老に打ち明けて、どうぞ力になつて自分を堕落させないやうにして貰ひたいと頼んだ。セルギウスはそれだけではまだ不安心のやうに思つたので、自分に付けられてゐる見習の僧を呼んで、それに恥を忍んで自分の情慾の事を打ち明けて、どうぞこれからは己が勤行に往くのと、それから懺悔に往くのとの外、決してどこへも往かぬやうに、側で見張つてゐてくれと言ひ含めた。
 新しい僧院に入つてから、セルギウスは今一つの難儀に出逢つた。それは今度の僧院の長老が自分の為めにひどく虫の好かぬ男だと云ふことである。此長老は頗る世間的な思想を持つてゐる、敏捷な男である。そして常に僧侶仲間の顕要な地位を得ようと心掛けてゐる。セルギウスはどうかして自分の心を入れ替へて今の長老を嫌はぬやうになりたいと努力した。その結果セルギウスは表面的には平気で交際することが出来るやうになつた。併しどうしても心の底では憎まずにはゐられない。そして或る時この憎悪の情がとう/\爆発してしまつた。
 それは此僧院に来てからもう二年立つた時の事であつた。聖母の恩赦の祭日に本堂で夜のミサが執行《しゆぎやう》せられた。参詣人は夥《おびたゞ》しかつた。そこで長老が儀式をした。セルギウスは自分の持場に席を占めて祈祷をしてゐた。いつもかう云ふ場合にはセルギウスは一種の内生活の争闘を閲《けみ》してゐる。殊に本堂で勤行をするとなると、その争闘を強く起してゐる。争闘と云ふのは別ではない。参詣人の中の上流社会、就中《なかんづく》貴夫人を見て、セルギウスは激怒を発する。なぜかと云ふにさう云ふ上流の人達が僧院に入《い》り込んで来る時には、兵卒が護衛して来て、それが賤民を押し退ける。それから貴夫人達はどれかの僧侶に指さしをして囁き交す。大抵指さゝれるのは自分と、今一人の美男の評判のある僧とである。そんな事を見るのが嫌なので、セルギウスは周囲の出来事に対して、総て目を閉ぢて見ずにゐようとする。セルギウスは譬へば馬車の馬に目隠しをするやうに、贄卓の蝋燭の光と、聖者の画像と、それから祈祷をしてゐる人々との外は何物をも見まいとする。それから耳にも讃美歌の声と祈祷の文句との外には何物をも聞くまいとする。又意識の上でも、いつも自分が聞き馴れた祈祷の詞を聞いたり、又繰り返して唱へたりする時、きつと起つて来る一種の感じ、即ち任務を尽してゐると自覚した時に起る忘我の感じの外、何物をも感じまいとしてゐる。
 けふもセルギウスはいつものやうに持場に立つてゐた。額を土に付けるやうに身を屈めた。手で十字を切つた。そして例の怒が起りさうになると、それを剋伏しようとして努力した。或は冷静に自ら戒めて見たり、或は故意に自分の思想や感情をぼかしてゐようとしたりするのである。
 そこへ同宿のニコデムスと云ふ院僧が歩み寄つた。ニコデムスは僧院の会計主任である。これも兎角セルギウスに怒《いかり》を起させる傾《かたむき》があるので、セルギウスは不断恐しい誘惑の一つとして感じてゐたのである。なぜかと云ふにセルギウスが目にはどうも、ニコデムスは長老に媚び諂《へつら》つてゐるやうに見えてならない。さてそのニコデムスが側へ来て、叮嚀に礼をして云つた。長老様の仰せですが、ちよつと贄卓のある為切《しきり》まで御足労を願ひたいと云つたのである。
 セルギウスは法衣《はふえ》の領《えり》を正し、僧帽を被《かぶ》つて、そろ/\群集の間を分けて歩き出した。
 〔Lise, regarde a` droite, c'est lui!〕《リイズ ルガルト ア ドロアト セ エ リユイ》(リイズさん。右の方を御覧よ。あの人よ。)かう云ふ女の声が耳に入つた。
 〔Ou`, ou`?《ウウ ウウ》 Il n'est pas tellement beau!《イル ネ エ パア テルマン ボオ》〕(どこ、どこ。あの人はそんなに好い男ぢやないわ。)今一人の女のかう云ふのが聞えた。
 セルギウスは自分の事を言ふのだと知つてゐる。それで今の対話を聞くや否や、いつも誘惑に出逢ふ度に繰り返す詞を口に唱へた。「而して我等を誘惑に導き給ふな」と云ふ詞である。セルギウスはそれを唱へながら項《うなじ》を垂れ、伏目になつて進んだ。贄卓の前の一段高い所を廻つて、讃美歌の発唱の群を除けて進んだ。発唱の群は丁度聖者の画像のある壁の所に出てゐたのである。セルギウスはやう/\贄卓の為切の北口から進み入つた。この口から這入る時は、敬礼をするのが式である。セルギウスは式に依つて聖像の前で頭を低く下げた。さて顔を上げて、体は動かさずに、長老の横顔を伺つた。その時長老は今一人の光り輝く男と並んで立つてゐた。
 長老は式の法衣を着て壁の側に立つてゐる。ミサの上衣のはづれから肥え太つた手と短い指とを出して、それを便々たる腹の上に重ねてゐた。セルギウスが横から見た時、長老は微笑みながら右の手で法衣の流蘇《ふさ》をいぢつて、相手の男と話をし出した。その男は隊外将官の軍服を被てゐる。セルギウスは軍人であつたから服装を見ることは馴れてゐる。そこで肩章や記章の文字をすぐに見分ける事が出来た。この将官は自分の付いてゐた聯隊で聯隊長をしてゐた男である。今は定めて余程高い地位に陞《のぼ》つてゐることだらう。
 セルギウスは一目見てかう云ふ事を悟つた。それはこの高級武官が自分の昔の上官であつたと云ふ事を、長老が知つてゐて、それで長老の肥え太つた赤ら顔と禿頭《はげあたま》とが喜に赫いてゐると云ふ事である。
 セルギウスはそれだけでも侮辱せられたやうに感じた。そこで長老が何を言ふかと思ふと、只その将官が見たいと云ふので呼んだのだと云つた。「昔聯隊で同僚であつたあなたに逢ひたいと云はれたので」と、長老は将官の詞を取り次いだ。此時セルギウスは一層強烈に侮辱を感ぜずにはゐられなかつた。
 将官は右の手をセルギウスが前に伸した。
「久し振りでお目に掛かりますね。あなたが法衣をお着になつたところを見るのは、意外の幸です。昔の同僚をお忘にはなりますまいね。」
 白髪で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がつてゐるやうに見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂、その頬髯からは葉巻煙草の匂がする。総て此等の事を、セルギウスは鞭で打たれるやうに感じた。
 セルギウスは長老に向つて再び敬礼した。そして云つた。「長老様のわたくしをお呼になつた御用は。」かう云つた時のセルギウスが顔と目との表情には「なぜか」と云ふ問が現はれてゐた。
 長老は答へた。「なに。只閣下があなたを見たいと云はれたからですよ。」
 セルギウスの顔は真つ蒼になつて、物を言ふ時唇が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思つてそれで社会から身を引いたのでございます。それに只今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくやうにお取計らひになりましたか。」
 長老の顔は火のやうになつて、額に皺が寄つた。「もう宜しいから、持場へお帰なさい。」
 その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密《こゝろひそか》に決するところがあつて、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕慢を詫びたのである。それと同時にセルギウスは此僧院を去ることにして、前にゐた僧院の長老に手紙を遣つて、自分が帰つて往くから引き取つて貰ひたいと頼んだ。手紙にはこんな事が書いてあつた。自分は志が堅固でなくて、とてもお師匠様なしには、誘惑と戦つて行くわけに行かない。それに罪の深い驕慢の心が起つたのを悔いると云つてあつた。
 折り返しての便に長老の返書が来た。如何にも此度の事件はおもにお前の驕慢から生じてゐるに相違ない。お前のおこつた動機を察するにかうである。お前は地位を進めて遣らうと云つた時辞退した。あれなども神を思つての謙遜からでなくて、自尊の心からである。「見てくれ。己はどんな人間だと思ふ。己はなんにも欲しがりはしない」と云ふ心持である。そんな心持でゐるから新しい僧院の長老の所作を見た時、平気でゐることが出来なかつたのである。「己は神の栄誉の為めに一切の物を擲つた。それにこゝでは己を珍らしい獣のやうに見せ物にする」と思つたのだ。お前が真に神の栄誉の為めに、一切の世間の名聞《みやうもん》を棄てゝゐるなら、その位の事に逢つたつて、平気でゐられる筈である。お前の心にはまだ世間の驕慢が消え失せずにゐる。わたしはお前の事を委《くは》しく考へて見た。そしてお前の為めに祈祷をした。そこでわたしの得た神のお告はかうだ。これまでのやうに暮してゐて、身を屈するが好いと云ふのである。それと同時に己は外の報告を得た。それは山に隠れてゐた僧のイルラリオンが聖なる生涯を閲《けみ》し尽して草庵の中《うち》で亡くなつたと云ふのである。イルラリオンは草庵に十八年住んでゐた。あの山の首座が己に訃音を知らせると同時に、あの跡を引き受けて草庵に住んでくれるやうな僧はあるまいかと問ひ合せてよこした。丁度そのところへお前の手紙が来たのだ。そこで己はタムビノ僧院のバイシウス首座に手紙の返事を遣つた。お前の名を紹介して置いた。お前は今からバイシウス長老の所へ往つて、イルラリオンの跡の草庵に住まふやうに願ふが好い。これはイルラリオンのやうな清浄な人の代になるお前だと云ふのではない。あんな寂《さみ》しい所にゐたら、お前がその驕慢を棄てることが出来ようかと思ふのである。わたしはどうぞ神がお前を祝福して下さるやうにと祈つてゐる。
 セルギウスは前の僧院の長老の詞に従つた。そして今の僧院の長老に右の手紙を見せて、転宿の許可を得た。それからこれまで自分の住んでゐた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
 山の首座は素《もと》商人で遁世した人である。此人がセルギウスを引見して、なんの変つた扱をもせずに、只あたり前の事のやうに寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云ふのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなつた先住イルラリオンもそこに葬つてある。即ち洞窟の一番奥の龕《がん》が墓になつてゐて、その隣の龕が後住《ごぢう》の寝間になつてゐるのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸すことが出来るやうにしてある。その扉の外面にも棚が吊つてあつて、これは毎日一度づゝ僧院から食事を持つて来て載せて置いてくれる棚である。
 セルギウスはとう/\山籠《やまごもり》の人になつてしまつた。

     三

 セルギウスが山籠をしてから六年目のことであつた。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云つて一週間バタや玉子を食べて肉を断つてゐることがある。そのモステニツアに、タムビノに近い或る都会で、富有な男女の人々が集つて会食をした。此連中が食後に橇に乗つて近郊へ遊びに行かうと云ふことになつた。その人々は辯護士が二人、富有な地主が一人、士官が一人、それに貴夫人が四人であつた。夫人の一人は士官の妻《さい》で、今一人は地主の妻である。三人目の女は地主の同胞《どうはう》で未婚の娘である。さて四人目の女が一度離婚したことのある人で、器量が好くて財産がある。そしていつも常軌を逸した事をして市中の人を驚かしてゐるのである。
 その日は上天気で、橇に乗つて往く道は好い。市中を離れて十ヱルストばかりの所に来て、一同休んだ。その時こゝから引き返さうか、もつと先まで往かうかと云ふ評議があつた。
「一体此道はどこまで行かれる道ですか」とマスコフキナが問うた。例の離婚した事のある美人である。
「これからもう十二ヱルスト行けばタムビノです」と辯護士の一人が答へた。これは平生マスコフキナの機嫌を取つてゐる男である。
「さう。それから先は。」
「それから先はL市に往くのです。タムビノの僧院の側を通つて往くのです。」
「そんならその僧院はあのセルギウスと云ふ坊さんのゐる所ですね。」
「さうです。」
「あれはステパン・カツサツキイと云つた士官の出家したのでしたね。評判の美男ですわ。」
「その男です。」
「皆さん、御一しよにカツサツキイさんの所まで此橇で往きませうね。そのタムビノと云ふ所で休んで何か食べることにいたしませうね。」
「そんなことをすると日が暮れるまでに内へ帰ることは出来ませんよ。」
「構ふもんですか。日が暮れゝばカツサツキイさんの所で泊りますわ。」
「それは泊るとなれば草庵なんぞに寝なくても好いのです。あそこの僧院には宿泊所があります。而も却々《なか/\》立派な宿泊所です。わたしはあのマキンと云ふ男の辯護をした時、一度あそこで泊りましたよ。」
「いゝえ。わたくしはステパン・カツサツキイさんの所で泊ります。」
「それはあなたが幾ら男を迷はすことがお上手でもむづかしさうです。」
「あなたさうお思なすつて。何を賭けます。」
「宜しい。賭をしませう。あなたがあの坊さんの所でお泊りになつたら、なんでもお望の物を献じませう。」
「〔A discre'tion〕《ア ヂスクレシヨン》」(内証ですよ。)
「あなたの方でも秘密をお守でせうね。宜しい。そんならタムビノまで往くとしませう。」
 この対話の後に一同は持つて来た生菓子やその外甘い物を食べて酒を飲んだ。それから骨を折らせる馭者にもヲドカを飲ませた。貴夫人達は皆白い毛皮を着た。馭者仲間では、誰が先頭に立つかと云ふので喧嘩が始まつた。とう/\一人の若い馭者が大胆に橇を横に向けて、長い鞭を鳴しながら掛声をするかと思ふと、自分より前に止つてゐた橇を乗り越して走り出した。鐸《すゞ》が鳴る。橇の底木の下で雪が軋《きし》る。
 橇は殆ど音も立てずに滑つて行く。副馬《ふくば》は平等《へいとう》な駆歩を蹈んで橇の脇を進んで行く。高く縛り上げた馬の尾が金物で飾つた繋駕具《けいかぐ》の上の方に見えてゐる。平坦な道が自分で橇の下を背後《うしろ》へ滑つて逃げるやうに見える。馭者は力強く麻綱を動かしてゐる。
 貴夫人マスコフキナと向き合つて腰を掛けてゐるのは辯護士の一人と士官とである。二人はいつものやうな誇張《くわちやう》した自慢話をしてゐる。マスコフキナは毛皮に深く身を埋めて動かずに坐つてゐる。そして心の中《うち》ではこんな事を思つてゐる。「此人達の様子を見てゐれば、いつも同じ事だ。同じやうに厭な挙動で厭な話をしてゐる。顔は赤くなつて、てら/\光つて、口からは酒と煙草の臭がする。口から出る詞もいつも同じやうで、その思想は只一つの穢《けが》らはしい中心点の周囲をうろついてゐる。かう云ふ人は皆自己に対する満足を感じてゐる。世の中はかうしたものだと思つてゐる。自分が死ぬるまでかうしてゐるのを別に不思議だとは思はない。わたしはこんな人達を傍《はた》で見てゐるのにもう飽々した。わたしは退屈でならない。わたしはどうしてもこんな平凡極まる境界《きやうがい》を脱して、新しい境界に蹈み込んで見ずにはゐられない。たしかサラトフでの出来事であつたかと思ふ。遊山《ゆさん》に出た一組が凍え死んだ事がある。若し此人達がそんな場合に出逢つたら、どんな事をするだらう。どんな態度を取るだらう。言ふまでもなく狗《いぬ》にも劣つた卑劣な挙動をするだらう。どいつもどいつも自分の事ばかり考へて身を免れようとするだらう。とは云ふものゝ、わたしだつて同じやうな卑劣な事をするだらう。それはさうだが、わたしは此人達より優れた所が一つある。兎に角わたしは器量が好い。それだけは此人達が皆認めてゐて、わたしに一歩譲つてゐるのだ。そこで例の坊さんだが、あの人はどうだらう。此わたしの器量の好い所が、あの坊さんには分らないだらうか。いや/\。それは分るに違ひない。男と云ふものに一人としてそれの分らない男はない。どの男をも通じて、それだけの認識力は持つてゐる。去年の秋の頃だつけ。あの士官生徒は本当に可笑《をか》しかつた。あんな馬鹿な小僧つてありやしない。」
 こんな事を考へてゐたマスコフキナ夫人は向うにゐる男の一人に声を掛けた。「イワン・ニコライエヰツチユさん。」
「なんですか。」
「あの人は幾つでせう。」
「あの人とは誰ですか。」
「ステパン・カツサツキイです。」
「さうですね。四十を越してゐませうよ。」
「さう。誰にでも面会しますか。」
「えゝ。だがいつでも逢ふと云ふわけでもないでせう。」
「あなた御苦労様ながら、わたしの足にもつとケツトを掛けて頂戴な。さうするのぢやありませんよ。ほんとにあなたはとんまですこと。もつと巻き付けるのですよ。もつとですよ。それで好うございます。あら。なにもわたしの足なんぞをいぢらなくたつて好うございます。」
 連中はこんな風で山籠の人のゐる森まで来た。
 その時マスコフキナ夫人は一人だけ橇を下りて、外の人達にはその儘もつと先まで乗つて往けと云つた。一同夫人を抑留しようとしたが、夫人は不機嫌になつて、どうぞ自分にだけは構はないで貰ひたいと言ひ放つた。
     ――――――――――――
 セルギウスが山籠をしてからもう六年経つてゐる。セルギウスは当年四十九歳になつてゐる。山籠の暮しは却々《なか/\》つらい。断食をしたり、祈祷をしたりするのがつらいのではない。そんなことはセルギウスの為めには造作《ぞうさ》はない。つらいのは、思も掛けぬ精神上の煩悶があるからである。それに二様の原因がある。その一つは懐疑で、その一つは色慾である。
 セルギウスは此二つのものを、二人の敵だと思つてゐる。その実は只一つで、懐疑の剋伏《こくふく》せられた瞬間には色慾も起らない。併しセルギウスは兎に角悪魔二人を相手にして戦ふ積りで、別々に対抗するやうにしてゐる。
 その癖二人の敵はいつも聯合して襲つて来るのである。
 セルギウスはこんな事を思つてゐる。「あゝ。主よ。なぜあなたはわたくしに信仰を授けて下さいませんか。色慾なんぞは、聖者アントニウス、その外の人々も奮闘して剋伏しようとしたのです。併し信仰だけは聖者達が皆持つてゐました。それにわたくしは或る数分間、乃至或る数時間、甚だしきに至つては或る数日間、全く信仰と云ふものを無くしてゐます。世界がどんなに美しく出来てゐたつて、それが罪の深いものであつて、それを脱離しなくてはならないものである限は、なんの役に立ちますか。主よ。あなたはなんの為めにそんな誘惑を拵へました。あゝ。誘惑と云ふものも考へて見れば分らなくなります。わたくしが今世界の快楽を棄てゝ、彼岸に何物かを貯へようとしますのに、その彼岸に若し何物も無かつた時は、これも恐しい誘惑ではございませんか。」こんな風に考へてゐるうちに、セルギウスは自分で自分が気味が悪く、厭になつて来た。「えゝ。己は人非人だ。これで聖者にならうなぞと思つてゐるのは何事だ。」セルギウスはかう云つて自分を嘲《あざけ》つた。そして祈祷をし始めた。
 ところがセルギウスは祈祷の最初の文句を口に唱へるや否や、心に自分の姿が浮んだ。それは前に僧院にゐた時の姿である。法衣《はふえ》を着て、僧帽を被《かぶ》つた威厳のある立派な姿である。セルギウスは頭を掉《ふ》つた。
「いや/\。これは間違つてゐる。これは迷だ。人を欺くことなら出来もしようが、自ら欺くことは出来ぬ。又主を欺くことも出来ぬ。なんの己に威厳なぞがあるものか。己は卑い人間だ。」かう思つてセルギウスは法衣の裾をまくつて、下穿《したばき》に包まれてゐる痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切つたり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「此|床《とこ》我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くやうに思はれた。「独寝《ひとりね》の床は矢張墓だ、虚偽だ」と云ふ囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しよになつてゐた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震をしてこの想像を斥けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清規《せいき》を読んだ。それが済んで福音書を手に取つて開いた。すると丁度度々繰り返したので、諳誦する事の出来るやうになつてゐる文句が目の前に出た。「あゝ、主よ。我は信ず。我が不品行を救はせ給へ」と云ふ文句である。
 セルギウスは頭を擡《もた》げてあらゆる誘惑を払ひ除けようとした。譬へばぐらついてゐる物を固定して、均勢を失はせないやうにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬやうに、そつと身を引いた。いつもの馬の目隠しのやうなものが、又自分の限界を狭《せば》めてくれた。それでセルギウスは強ひて自ら安んずる事が出来た。
 セルギウスが口には子供の時に唱へてゐた祈祷の詞が上つて来た。「あゝ。愛する主よ。我御身に願ふ」と云ふ詞である。此時セルギウスの胸が開けて、歓喜の情が起つて来た。そこで十字を切つて幅の狭いベンチの上に横になつた。これは安息の時の台にするベンチで、枕には夏の法衣を脱いでまろめて当てるのである。
 セルギウスはうと/\した。夢現《ゆめうつゝ》の境で、橇の鐸《すゞ》の音が聞えたやうに思つたが、それが実際に聞えたのだか、そんな夢を見たのだか分らなかつた。そのうち忽ち草庵の扉を叩く音がしたので、はつきり目が覚めた。それでも自分で自分の耳を疑つて、身を起して傾聴した。その時又扉を叩いた。ぢき側の扉である。それと同時に女の声がした。
「あゝ。聖者達の伝記で度々読んだ事があるが、悪魔が女の姿になつて出て来ると云ふのは本当か知らん。たしかに今のは女の声だ。しかもなんと云ふ優しい遠慮深い可哀《かはい》らしい声だらう。えゝ。」セルギウスは唾をした。「いや。あれは只己にさう思はれるのだ。」かう云つて、セルギウスは居間の隅へ歩いて往つた。そこには祈祷をする台が据ゑてある。セルギウスはいつも為馴《しな》れてゐる儀式通りに膝を衝いた。体を此格好にしたゞけでも、もう慰藉《なぐさめ》になり歓喜を生ずるのである。セルギウスは俯伏《うつふし》になつた。髪の毛が顔に掛かつた。もう大分髪の毛のまばらになつた額際《ひたひぎは》を、湿つて冷たい床に押し当てた。そして同宿であつた老僧ビイメンの教へてくれた、悪魔除の頌《じゆ》を読み始めた。それから筋張つた脛で、痩て軽くなつた体を支へて起き上つて、跡を読み続けようとした。併しまだ跡を読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳を聳《そばだ》てた。
 四隣|闃《げき》として物音がない。草庵の隅に据ゑてある小さい桶の中へ、いつものやうに点滴が落ちてゐる。外は霧が籠めて真つ闇になつてゐて雪も見えない。墓穴の中のやうな静けさである。
 その時忽ち何物かゞさら/\と窓に触れて、はつきりした女の声が聞えた。目で見ないでも、美人だと云ふことが分るやうな声である。
「どうぞクリスト様に懸けてお願申します。戸をお開けなすつて。」
 セルギウスは全身の血が悉《こと/″\》く心の臓に流れ戻つて、そこに淀んだやうな気がした。息が詰つた。やう/\の事で、「而して主は復活し給ふべし、敵を折伏し給ふべし」と唱へた。地獄から現れた悪霊を払ひ除けようと思つたのである。
「わたくしは悪魔なんぞではございません。只あたりまへの罪の深い女でございます。あたりまへの意味で申しても、又形容して申しても、道に踏み迷つた女でございます。」初め言ひ出した時から、なんだかその詞を出す唇は笑つてゐるらしかつたが、とう/\こゝまで言つて噴き出した。それからかう云つた。
「わたくしは寒くて凍えさうになつてゐますのですよ。どうぞあなたの所にお入れなすつて下さいまし。」
 セルギウスは顔を窓硝子《まどガラス》に当てた。併し室内の燈火《ともしび》の光が強く反射してゐて、外は少しも見えなかつた。そこで両手で目を囲つて覗いて見た。外は霧と闇と森とである。少し右の方を見ると、成程女が立つてゐる。女は毛の長い、白い毛皮を着て、頭には鳥打帽子のやうな帽子を被つてゐる。その下から見えてゐる顔は非常に可哀らしい、人の好さゝうな、物に驚いてゐるやうな顔である。それがずつと窓の近くへ寄つて首を屈《かが》めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云ふのではない。二人はこれまで一度も逢つた事がないのである。併し目を見交《みかは》した所で、互に相手の心が知れたのである。殊にセルギウスの方で女の心が知れた。只一目見たばかりで、悪魔ではないかと云ふ疑は晴れた。只の、人の好い、可哀らしい、臆病な女だと云ふことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
 女は我儘らしい口吻《こうふん》で答へた。「兎に角戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えてゐるのでございますよ。道に迷つたのだと云ふことは、さつき云つたぢやありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。こゝに世を遁れて住んでゐるのです。」
「だつて好いぢやありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵《いほり》の窓の外で、あなたが御祈祷をして入らつしやる最中に、凍え死んでも宜しいのですか。」
「併しこゝへ這入つてどうしようと。」
「わたくしあなたに食ひ付きはいたしません。どうぞお開けなすつて。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言つてゐるうちに、女は実際気味が悪くなつたと見えて、しまひは殆ど泣声になつてゐる。
 セルギウスは窓から引つ込んだ。そして荊《いばら》の冠《かんむり》を戴いてゐるクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」かう云つて指で十字を切つて額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探に鉤《かぎ》のある所を捜して鉤をいぢつてゐた。
 その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
 セルギウスは女が檐下《のきした》の雨落《あまおち》に足を踏み込んだと云ふ事を知つた。手に握つてゐる戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すつたつても好いぢやありませんか。わたくしはぐつしより濡れて、凍えさうになつてゐます。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考へて入らつしやるうちに、わたくしはこゝで凍え死ぬかも知れませんよ。」
 セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱つた時の呼吸が計らず出たのであつた。
 女は此詞を聞いて微笑《ほゝゑ》んだ。「これは思つたよりは話せる人らしい」と心の中《うち》に思つたのである。「ようございますよ。ようございますよ。」かう云ひながら、女はセルギウスの側を摩《す》り抜けるやうにして中に這入つた。「あなたには誠に済みません。こんな事を思ひ切つていたす筈ではないのですが、実は意外な目に逢ひましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云つた。暫く嗅いだ事のない上等の香水の匂が鼻をくすぐつた。
 女は前房を通り抜けて、庵室に這入つた。
 セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女の跡から帰つて来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便《ふびん》なる罪人《つみびと》に赦し給へ。主よ不便なる罪人に赦し給へ。」こんな唱事《となへごと》を続け様《さま》にしてゐる。心の中《うち》でしてゐるばかりでなく、唇まで動いてゐる。それから「どうぞ」と女に言つた。
 女は室の真ん中に立つてゐる。着物から水が点滴《あまだれ》のやうに垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中《うち》に笑を見せてゐる。「御免なさいよ。あなたのかうして行ひ澄ましてお出なさる所へお邪魔に来まして済みませんね。でも御覧のやうな目に逢ひましたのですから、為方《しかた》がございません。実は町から橇に乗つて遊山に出ましたの。そのうちわたくし皆と賭をして、ヲロビエフスカから町まで歩いて帰ることになりましたの。ところが道に迷つてしまひましてね。わたくし若しあなたの御庵室の前に出て来なかつたら、それこそどうなりましたか。」女はこんな※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、358-下-3]《うそ》を衝いてゐる。饒舌《しやべ》りながらセルギウスの顔を見てゐるうちに、間が悪くなつて黙つてしまつた。女はセルギウスと云ふ僧を心にゑがいてゐたが、実物は大分違つてゐる。予期した程の美男ではない。併し矢張立派な男には相違ない。頒白《はんぱく》の髪の毛と頬髯とが綺麗に波を打つてゐる。鼻は正しい恰好をして、美しい曲線をゑがいてゐる。目は、真つ直に前を見てゐる時、おこつた炭火のやうに赫いてゐる。兎に角全体が強烈な印象を与へるのである。
 セルギウスは女が※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、358-下-13]を衝くのを看破してゐる。「は、さうですか」と女を一目見て、それから視線を床の上に落して云つた。「わたくしはこれからあちらへ這入ります。どうぞこゝでお楽になさりませ。」かう云つてセルギウスは壁に懸けてあるランプを卸して、一本の蝋燭に火を移した。そして女の前で叮嚀に礼をして、奥の小部屋に引つ込んだ。小部屋は板囲の中になつてゐる。
 女はセルギウスが何やらあちこち動かし始めたのを聞いてゐる。「わたしとの間の交通遮断をするのだな」と思つて、女は微笑んだ。さて白の毛皮を脱いで、髪の毛の引つ掛かつてゐる帽子を脱いだ。それから帽子の下に巻いてゐた刺繍《ぬひとり》のある巾《きれ》を除《の》けた。女は窓の外へ来た時、実はそんなに濡れてはゐなかつた。さも濡れたらしい様子をして、草庵に入れて貰はうとしたのである。それから戸口へ廻る時、実際|行潦《ぬかるみ》へ左の足を腓腸《ふくらはぎ》まで蹈み込んだ。靴に一ぱい水が這入つた。女は今|氈《かも》一枚で覆つてあるベンチのやうな寝台《ねだい》に腰を掛けて、靴を脱ぎ始めた。そして此庵室を見廻して、却々好い所だと思つた。間口が三尺、奥行が四尺位しかない、小さい一間で、まるで人形の部屋のやうに清潔にしてある。自分の腰を掛けてゐる寝台の外には、壁に取り付けた書棚と祈祷の時|跪《ひざまづ》く台とがあるばかりである。戸の側の壁に釘が二三本打つてあつて、それに毛皮と僧の着る上衣とが懸けてある。祈祷の台の側には荊の冠を戴いたクリストの画像を懸けて、その前に小さい燈火《ともしび》を点《てん》じてある。室内には油と汗と土との臭が充ちてゐる。女には室内の一切の物が気に入つた。此臭までが気に入つた。女の一番気にしてゐるのは足の濡れたのである。中にも行潦に蹈み込んだ左の足は殊にひどく濡れてゐるので、女は早く靴を脱がうとしてあせつてゐる。女は靴をいぢりながら絶えず微笑んでゐる。自分の企てた事をこゝまで運ばせたのを喜んでゐるばかりではない。あの丈夫さうな、異様な、好いたらしい男をちよいと困らせたのが愉快なのである。「わたしがいろんな事を言つたのに、ろくに返事もしてくれなかつたが、まあ、それはどうでも好い」と心の中に女は思つた。そしてすぐに声を出して云つた。「セルギウスさん。セルギウスさん。あなたのお名はさう仰やるのでしたね。」
「何か御用ですか」と小声で答へた。
「御免なさいよ。こんなにわざと寂しくして暮してお出なさる所へ、お邪魔に出て済みません。ですけれど実際どうにもしやうがなかつたのです。もう少しあんなにしてゐると、わたくしきつと病気になつてしまひました。どういたして宜しいか分らなかつたのですもの。わたくしぐつしより濡れてゐますの。それに足が両方とも氷のやうに冷たくて。」
「どうぞ御免下さい。どうもわたくしはどうにもしてお上げ申す事が出来ません。」又小声でかう答へた。
「いゝえ。決してあなたにお手数は掛ません。只明るくなるまで、こゝにゐさせて戴きます。」
 もうセルギウスは返事をしない。女の耳には何かつぶやく声が聞えた。多分祈祷してゐるのだらう。
 女は微笑みながらかう云つた。「あなたこゝへ出て入らつしやるやうな事はございますまいね。わたくしこゝで着物を脱いで体を拭かなくてはなりませんが。」
 セルギウスは答へなかつた。矢張今までのやうに小さい声で祈祷の詞を唱へてゐる。
 女は濡れた靴を強ひて脱ぎ掛けて、「あゝした男なのだな」と考へた。靴は引つ張つても引つ張つても脱がれぬので、女は可笑しくなつて来た。そして殆ど声を出さずに笑つた。それから自分が笑つたら、庵主がそれを聞くだらうと思つた。又それが聞えた時自分の希望する通りの功能があるだらうと思つた。そこで今度は声を立てゝ笑つた。快活な、自然な、人の好さゝうな笑である。実際此笑声は女の希望した通りの作用をセルギウスの上に起したのである。女は思つた。「あんな風な男なら、随分好いて遣る事が出来さうだ。まあ、なんと云ふ目だらう。それに幾ら祈祷の文句を唱へたつて、なんと云ふ打ち明けたやうな、上品な、そして情熱のある顔だらう。わたし達のやうな女には皆分る。あの人はあの窓硝子に顔を押し付けてわたしを見た時、あの時もうわたしの事が分つて、わたしがどんな女だと云ふ事を見抜いたのだ。あの人の目はその時赫いた。あの人はその時わたしの姿を深く心に刻んだ。あの人はもうわたしに恋をしたのだ、惚れたのだ。さうだ。たしかに惚れたのだ。」こゝまで思つて見た時、靴がやつと脱げた。それから女は靴足袋を脱ぎに掛かつた。上の端がゴム紐で留めてある、長い靴足袋を脱ぐには、裳《も》をまくらなくてはならない。流石《さすが》に間を悪く思つて、女は小声で云つた。「あの、今こちらへ入らつしやつては困りますよ。」
 板為切《いたじきり》の向側からは返事が聞えない。矢張単調な祈祷の声がしてゐる。それと慌《あわたゞ》しげに立ち振舞ふ物音がするだけである。
 女は思つた。「きつと今額を土に付けて礼をしてゐるのだらう。だけれどもそれがなんになるものか。丁度わたしがこつちであの人の事を思つてゐるやうに、あの人はあつちでわたしの事を思つてゐるのだもの。わたしがあの人の姿を思つてゐるやうに、あの人はわたしの此脚の事を思つてゐるのだもの。」とう/\女は濡れた靴足袋を脱いでしまつた。それから素足で寝台の上を歩いて見て、しまひにはその上に胡座《あぐら》を掻いた。それから暫く両手で膝頭を抱いて、前の方を見詰めて、物を案じてゐた。「ほんにこゝは、沙漠の中も同じ事だ。こゝで何をしたつて、誰にも分りやあしない。」
 女は身を起した。そして靴足袋を手に持つて、炉の側へ往つて煙突の上に置いた。それから素足で床を軽く蹈んで、寝台へ戻つて来て、又その上で胡座を掻いた。
 板為切の向側ではまるで物音がしなくなつた。女は頸に掛けてゐた、小さい時計を見た。もう二時になつてゐる。「三時頃には連の人達が此庵の前に来る筈だ」と女は思つた。もうそれまでには一時間しかないのである。「えゝ。詰らない。こゝにかうして一人で坐つてゐて溜まるものか。馬鹿。わたしともあるものがそんな目に逢ふ筈がない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はかう思つて呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエヰツチユさん。カツサツキイ侯爵。」
 戸の奥はひつそりしてゐる。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございませう。わたくしはあなたをお呼申さないで済むことなら、お呼申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激してゐる。「あゝ。あゝ。」女はうめいた。そして頭を音のするやうに寝台の上に投げた。不思議な事には、実際此時|脱力《だつりよく》したやうな、体中が痛むやうな、熱がして寒けがするやうな心持になつたのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。あゝ。あゝ。」かう云つて女は上衣の前のボタンをはづして胸を出して、肘までまくつた腕を背後《うしろ》へひろげた。「あゝ。あゝ。」
 此間始終セルギウスは板為切の奥に立つて祈祷してゐた。とう/\晩に唱へるだけの祈祷の文句を皆唱へてしまつて、しまひには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立つてゐて、「イエス・クリストよ、神の子よ、我に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ」と繰り返してゐた。セルギウスの耳には何もかも聞えてゐる。女が着物を脱いだ時、絹のさら/\と鳴る音も聞えた。セルギウスは気が遠くなるのを感じた。次の一刹那には堕落してしまふかも知れぬやうな気がした。そこで暫くも祈祷を絶やさなかつた。此時のセルギウスの感情は、昔話の主人公が、背後《うしろ》を振り返つて見ずに、前へ前へと歩いて往かなくてはならぬ時の感情と同じ事だらう。セルギウスには身の周囲に危険があり害毒があるのが分つてゐる。そしてその方を一目も見ずにゐるのが、唯一の活路だと云ふことが分つてゐる。それに突然、どうしてもあつちの方を見なくてはゐられないと云ふ不可抗力のやうな慾望が起つた。それと同時に女の声がした。「お聞きなさいよ。あなたそれでは人道にはづれてお出なさいますよ。わたくしは死んでしまふかも知れません。」
「好いわ。己はあいつの所へ往つて遣らう。併し昔の名僧は片手を火入《ひいれ》の中へ差込んで、片手で女の体を押へたと云ふことだ。己もさうしよう。だがこゝには火入はない。」セルギウスは四辺《あたり》を見廻した。そしてランプが目に付いた。セルギウスは指をランプの火の上に翳《かざ》して額に皺を寄せて、いつまでも痛を忍んでゐようと思つた。最初はなんの感じもしなかつた。それから指がたしかに痛むとか、又どれだけ痛むとか云ふことが、まだはつきり知れぬうちに、セルギウスは痙攣のやうな運動を以て手を引いた。そして手の先を振り廻した。「いや、これは己には出来ない」と、セルギウスは諦めた。
「神様に掛けてお願します。ほんにどうぞ来て下さいまし。わたくしは死にます。あゝ。」
「己はとう/\堕落してしまはんではならぬのか。いや/\。断じてさうはなりたくない。今すぐに往きます。」かう云つてセルギウスは扉を開いた。そして女の方を見ずに寝台の側を通つて前房へ出た。そこにはいつも薪を割る木の台がある。セルギウスは手探でその台の所へ往つた。それから壁に寄せ掛けてある斧を手に取つた。セルギウスは「只今」と声高く答へて、左の手の示指《ひとさしゆび》を薪割台の上に置いて、右の手に斧の柄《え》を握つて、斧を高く振り上げて、示指の中の節《ふし》を狙つて打ち下した。指はいつもの薪よりは容易《たやす》く切れて、いつもの薪と同じやうに翻筋斗《とんぼがへり》をして台の縁に中《あた》つて土間に落ちた。指の痛をまだ感ぜないうちに、指の地に落ちた音が聞えた。併しまだ気の落ち着かぬうちに灼《や》くやうな痛がし出して、たら/\流れる血の温みを覚えた。セルギウスは血の滴る指の切口を法衣の裾に巻いて、手をしつかり腰に押し付けた。そして庵室の中に這入つて、女の前に立つた。「どこかお悪いのですか。」声は静であつた。
 女はセルギウスの蒼ざめた顔を仰ぎ視た。僧の左の頬は痙攣を起してゐる。女は何故《なにゆゑ》ともなく、急に恥しくなつて、飛び上つて、毛皮を引き寄せて、堅く体に巻き付けた。「わたくし大変に気分が悪くなりましたものですから。きつと風を引いたのでございませう。あの。セルギウスさん。わたくしは。」
 セルギウスはひそやかな歓喜に赫く目を挙げて女を見た。そして云つた。「姉妹よ。あなたはなぜ御自分の不滅の霊魂を穢《けが》さうとなすつたのですか。世の中には誘惑のない所はありません。併し自分の身から誘惑の出て行くもの程傷ましいものはありますまい。どうぞあなたも祈祷をなすつて下さい。主が我々にお恵をお垂下さるやうに。」
 女は此詞を聞きながら、セルギウスの顔を見てゐた。そのうちなんだかぽた/\と水のやうな物が床の上に落ちる音がした。女は下の方を見た。そしてセルギウスの左の手から法衣をつたつて血の滴つてゐるのを見付けた。「あなたお手をどうなすつたのです。」口でかう云つた時、女はさつき前房で物音のした事を思ひ出した。そこで忙《いそが》はしくランプを手に持つて、前房へ見に出た。床の上には血まぶれになつた指が落ちてゐた。女はさつきのセルギウスの顔よりも蒼い顔をして、引き返して来て、セルギウスに物を言はうとした。
 セルギウスは黙つて板為切の中へ這入つて、内から戸を締めた。
 女は云つた。「どうぞ御免なすつて下さいまし。まあ、わたくしはどういたして此罪を贖《あがな》つたら宜しいでせう。」
「どうぞ此場をお立ち退き下さい。」
「でもせめてそのお創に繃帯でもいたしてお上申したうございますが。」
「いや。どうぞお帰り下さい。」
 女は慌《あわたゞ》しげに、無言で衣物を着た。そして毛皮を羽織つて寝台に腰を掛けた。
 その時森の方角から橇の鐸《すゞ》の音がした。
「セルギウスさん。どうぞ御勘辨なすつて下さいまし。」
「宜しいからお帰り下さい。主があなたの罪をお赦し下さるでせう。」
「セルギウスさん。わたくしはこれから身持を改めます。どうぞわたくしをお見棄下さらないで。」
「宜しいからお帰り下さい。」
「どうぞ御勘辨なすつて、わたくしを祝福して下さいまし。」
 板為切の奥から声がした。「父の名、御子《みこ》の名、精霊の名を以て祝福します。お帰りなさい。」
 女は欷歔《すゝりなき》をして立ち上つて庵室を出た。
 外にはいつも此女に附き纏つてゐる辯護士が来て待つてゐた。「とう/\わたしが賭に負けましたね。どうも為方《しかた》がありません。どつちの方にお掛けですか。」
「どちらでも。」女は橇に乗つた。
 女は帰途《かへりみち》に一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
 一年立つてからマスコフキナ夫人は尼になつた。矢張|山籠《やまごもり》をしてゐるアルセニイと云ふ僧の監督を受けて、折々此人に手紙で教を授けて貰つて、厳重な僧尼の生活を営んだ。

     四

 セルギウスはその上七年間程山籠をしてゐた。最初は人が何か持つて来てくれると、それを貰つた。茶だの、砂糖だの、白パンだの、牛乳だの、又薪や衣類などである。併し次第に時が立つに連れて、セルギウスは自分で厳重な規則を立てゝそれを守つて行くやうになつた。何品《なにしな》に依らず万已むを得ない物の外は、人が持つて来ても拒絶した。とう/\一週間に一度貰ふ黒パンの外には何品をも受けぬやうになつた。よしや人が物を持つて来ても、悉《こと/″\》く草庵に尋ねて来る貧乏人に分配して遣つてしまふ。
 セルギウスはいつも庵室内で暮らしてゐる。祈祷をしたり客と話をしたりしてゐるのである。その客の数が次第に殖えて来た。寺院に詣《まゐ》るのは一年に三度だけである。その外《ほか》で庵室から出るのは、木を樵《こ》る時と水を汲む時とに限つてゐる。こんな生活を五年間続けてゐた後に、前段に話したマスコフキナ夫人との出来事があつたのである。此出来事は程なく世間に広く聞えた。夫人が夜庵室に来た事、それから女の身持が変つた事、尼になつた事が聞えたのである。
 此時からセルギウスの評判が次第に高くなつた。尋ねて来る人の数が次第に殖えた。僧侶で草庵の側に来て住むものが出来て来た。側に宿泊所をさへ建てることになつた。世間の習慣で何事をも誇張するために、セルギウスのした事は大した事のやうになつて、その高徳の評判は人の耳目を驚かすやうになつた。客が遠方から来る。病人を連れて来る。世評に依れば、その病人が皆セルギウスの祈祷で直ると云ふことになつた。
 病人の直つた最初の事蹟はセルギウスが山籠をしてから八年目にあつたのである。一人の女が十四歳になる息子を連れて来て、セルギウスに、どうぞ息子の頭に手を載せて貰ひたいと頼んだ。セルギウスは自分が病人を直さうのなんのと思つてはゐなかつた。若しそこに気が付いたら、セルギウスはそんな考を罪の深い事と思ひ、又神を涜《けが》すことゝ思つたゞらう。併し息子を連れて来た母は歎願することを已めない。セルギウスの前に伏して、外の人を直して遣りながら、なぜ自分の息子だけを直してくれぬかと責め、クリストの名に掛けて頼むと云つた。人の病気を直すと云ふ事は、それは神でなくては出来ないと、セルギウスは云つた。いや、只子供の頭に手を載せて祈祷をして貰へば好いのだと女は繰り返した。セルギウスはそれを謝絶して、庵室に這入つた。翌朝水を汲みに庵室から出て見ると、きのふの女がゐる。十四歳の色の蒼い息子を連れて同じ願を繰り返すのである。其頃は秋で、夜は寒い。それに親子はまだゐたのである。其時セルギウスは不正な裁判者の譬を思ひ出した。最初は此女の願を拒むのが正当だと確信してゐたのに、此時になつて、その拒絶したのが果して正当であつたかと云ふ疑惑を生じた。そこで間違のない処置をする積で、跪《ひざまづ》いて祈祷した。その祈祷の間に心中で解決が熟して来た。その解決はかうである。これは女の願を聴き入れて遣るが好い。若し息子の病気が直つたら、それは母の信仰の力で直るのである。此場合には、自分は只神に選まれた、無意味な道具に過ぎぬのである。
 セルギウスは庵室の外に出て女に逢つた。それから息子の頭に手を載せて祈祷し始めた。
 祈祷が済んでから母は息子を連れて帰つて行つた。帰つてから一月立つと、息子の病気は直つてしまつた。
 山籠の信者が不思議の力で病気を直したと云ふ評判がその近所で高くなつた。それから少くも一週間に一度位病人が尋ねて来たり、又は人に連れられて来たりする。既に一人に祈祷をして遣つたので、今更跡から来る人を拒む事は出来ない。そこで病人の頭に手を載せて直るものが多人数である。セルギウスの評判は次第に高くなるばかりである。
 セルギウスは僧院にゐたことが七年で、山籠をしてからが十三年になつた。その容貌も次第に隠遁者らしくなつた。鬚は長く伸びて白くなつた。併し頭の髪は稀《うす》くなつたゞけで、まだ黒くて波を打つてゐる。

     五

 数週間|此方《このかた》セルギウスは思案にくれてゐる。今のやうな地位に自分がなつたのは、果して正しい行であらうかと思案するのである。勿論これは故意にしたのではない。後には管長や院主が手を出して今のやうな地位にしてくれたのである。最初は十四歳の童《わらべ》の病気の直つた時である。その時から此方の事を回顧して見れば、自分は一月は一月より、一週は一週より、一日は一日より内生活を破壊せられて内生活の代りに只の外生活が出来て来たのである。譬へば自分の内心を強ひて外へ向けて引つ繰り返されたやうなものである。
 自分で気が付いて見れば、自分は今僧院の囮にせられてゐる。僧院ではなるたけ客の多いやうに、喜捨をしてくれる人の多いやうにと努めてゐる。僧院の事務所では、セルギウスを種にして、なるたけ多く利益を得ようと努めてゐる。例之《たとへ》ばセルギウスには最早一切|身体《しんたい》の労働をさせない。日常の暮しにいるだけの物は悉《こと/″\》く給与してくれる。セルギウスは只客を祝福して遣るだけで好い事になつてゐる。此頃はセルギウスの便宜を計つて客に面会する日が極つてゐる。男の客の為めには待合室が出来た。セルギウスが立つてゐて、客を祝福する座席は欄《てすり》で囲んである。これは兎角女の客が縋り付くので座席から引き卸される虞《おそれ》があるからである。人は自分にかう云つてゐる。客は皆自分に用があつて来るのだ。来る客の望を※[#「りっしんべん」に「篋」から「竹」を取ったもの、第3水準1-84-56、369-上-7]《かな》へるのは、クリストの意志を充《みた》す所以《ゆゑん》であるから、拒んではならない。折角来た客に隠れて逢はないでは残酷である。こんな風に云はれて見れば、一々道理はある。併しその云ふが儘になつてゐて見ると、一切の内生活が外面に転じてしまふことを免れない。自己の内面にあつた生命の水源が涸れてしまふ。自分のしてゐる事が次第に人間の為めにするばかりで、神の為めにするのではなくなる。客に教を説いて聞かせたり、客を祝福して遣つたり、病人の為めに祈祷したり、客に問はれてどんな生活をするが好いと言つて聞かせたり、不思議に病気が直つたとか、又受けた教の功能があつたとか云ふ礼を聞いたりする時、セルギウスはそれを嬉しがらずにはゐられない。又自分が人間の性命の上に影響することの出来るのを、価値のある事のやうに思はずにはゐられない。セルギウスには自分が人間世界の光明のやうに思はれる。併し此心情を明白に思ひ浮べて見ると、曾《かつ》て我内面に燃えてゐた真理の神々しい光明が、次第に暗くなつて消えて行くのだと云ふ事が、はつきりして来る。「己のしてゐる事がどれだけ神の為めで、又どれだけ人間の為めだらうか。」此問題が絶えずセルギウスを責める。セルギウスにはこれに答へる勇気がない。そして心の底では、こんな風に神の為めにする行《おこなひ》の代りに人間の為めにする行を授けたのは、悪魔の所為《しよゐ》だらうと思はれる。その証拠には昔は山籠の住家《すみか》へ人の尋ねて来るのがうるさかつたのに、今では人が来ないと寂しくてならない。今は人の来るのがうるさくないでもなく、又その為めに自分が疲れもするが、矢張心中では人が来て自分を讃め称へてくれるのが嬉しくなつてゐるのである。
 或る時セルギウスは此土地を立ち退いて、どこかへ身を隠してしまはうかと思つた。そんな時に何から何まで工夫して百姓の着る襦袢、上衣、ずぼん、帽子などまで用意した事がある。人には自分で着るのではなくて、自分を尋ねて来る貧乏人に遣るのだと云つた。さてその出来上つた品々をしまつて置いて考へた。あれを着て、長くなつた髪を切つて、立ち退けば好いのである。此土地を離れるには、まづ汽車に乗るとしよう。三百ヱルストばかりも遠ざかつたら好からう。それから汽車を降りて村落の間を歩かうと考へた。そこで或る時廃兵の乞食が来たのにいろ/\な事を問うた。村落を歩くにはどうして歩くか。どうして合力《がふりき》をして貰ふか。どうして宿を借るかと云ふのである。廃兵はどんな人が多分の合力をしてくれるものだとか、宿を借るにはどうして借るものだとか、話して聞かせた。セルギウスはそれを聞いて、自分もその通りにしようと思つた。或る夜とう/\例の衣服を出して身に着けて、これから出掛けようとまで思つた。併しその時になつて、去留《きよりう》いづれが好からうかと、今一応思案した。暫くの間はどちらにも極める事が出来なかつた。そのうち次第に意志が一方に傾いて来て、とう/\出掛けるのを廃《よ》して、悪魔のするが儘になつて留《と》まる事にした。只その時拵へた百姓の衣類が、こんな事を考へたり、感じたりした事があると云ふ記念品になつて残つてゐるだけである。
 毎日客の数が殖えて、セルギウスは祈祷をしたり、心の修養を謀つたりする時間が少くなつた。稀《まれ》に心の明るくなつた刹那が来ると、セルギウスは自分を地から湧く泉に此べて見る。自分は最初から水の湧く力の弱い泉ではあつたが、兎に角生きた水が噴き出してゐた。静に底から洩いて来て、外へ溢れてゐた。その泉のやうに、自分は素《も》と真《しん》の生活をしてゐたのだ。そこへあの女が来た。今では尼になつてアグニアと呼ばれてゐる女である。あれが来てゐた一晩の間、自分はあれが事を思ひ続けてゐたが、それと同じやうに今でもあれが事は心に刻まれて残つてゐる。あの女は自分が真の生活をしてゐる時、自分を誘惑しに来たのだ。そしてその清い泉の一口を飲んだ。それから後はもう自分の泉には水がたんとは溜まらない。そこへ咽のかわく人が大勢来てせぎ合つて、互に押し退けようとしてゐる。その人達の足で、昔の泉は踏み躪《にじ》られて跡には汚い泥が残つてゐる。セルギウスは稀に心の明るくなつた刹那には、こんな風に考へてゐる。併しそれは稀の事で、不断は疲れてゐる。そして自分の疲れた有様を見て独りで感動してゐる。
 春の事であつた。ロシアでクリスト復活祭の第四週の水曜日にする寺院の祭がある。その祭の前日であつた。セルギウスは草庵の小さい龕《がん》の前で晩のミサを読んだ。草庵には這入られるだけの人が這入つてゐた。二十人位もゐたゞらう。皆位の高い人や金持である。一体セルギウスは誰をでも草庵に入れる事にしてゐるが、いつもセルギウスに付けられてゐる僧と、日々《にち/\》僧院から草庵へ派遣する事になつてゐる当番の僧とで、人を選《え》り分る。草庵の外には群衆が押し合つてゐる。巡礼者が八十人許もゐて、それには女も多く交つてゐる。それ等が皆戸口の前にかたまつてゐて、セルギウスの出るのを待つて、祝福をして貰はうと思つてゐる。
 ミサは済んだ。セルギウスは歌を歌ひながら草庵を出て、先住の墓に参らうとした。併し門口を出ると、よろけて倒れさうになつた。するとすぐ背後《うしろ》に立つてゐた商人と寺番の役をしてゐる僧とが支へた。
「どうなさいました。セルギウス様。あゝ。わたし驚いてしまつた。まるで布のやうな白い色におなりなすつたのだもの。」かう云つたのは女の声である。
 セルギウスはすぐに気を取り直した。そしてまだ顔の色の真つ蒼なのに、商人と寺番とを脇へ押し退けて、前の歌の続きを歌つた。此時三人の人がセルギウスにけふのお勤をお廃めになつたら宜しからうと云つて諫《いさ》めた。一人はセラビオンと云ふ寺番で、今一人は寺男である。今一人はソフイア・イワノフナと云ふ貴夫人で、此女はセルギウスの草庵の側へ来て住んでゐて、始終セルギウスの跡を付いて歩くのである。
「どうぞお構《かまひ》下《くだ》さるな。なんでもありませんから。」セルギウスは殆ど目に見えぬ程唇の周囲《まはり》を引き吊らせて微笑みながら、かう云つた。そしてその儘|勤行《ごんぎやう》を続けた。「聖者と云ふものはかうするものだ」と、セルギウスは腹の中で思つた。それと同時に「聖者ですね、神のお使はしめですね」と云ふ声が、セルギウスの耳に聞えた。それはソフイア・イワノフナと、さつき倒れさうになつた時支へてくれた商人とである。セルギウスは体を大切にして貰ひたいと云ふ人の諫《いさめ》も聴かずに、勤行を続けた。
 セルギウスが帰つて来ると、群集が又付いて帰つた。龕に通ずる狭い道を押し合ひへし合ひして帰つた。セルギウスは龕の前でミサを読んでしまつた。多少儀式を省略したが、とう/\終まで読んでしまつた。
 勤行が済むと、セルギウスはそこにゐた人々に祝福を授けて、それから洞窟の外に出た。そして戸口に近い楡の木の下に据ゑてあるベンチに腰を掛けて、休息して、新しい空気を吸はうとした。さうしなくてはもう体が続かないと思つたのである。
 併しセルギウスが戸口に出るや否や、人民は飛び付くやうに近寄つて来て祝福を求める。救を求める。種々の相談を持ち掛ける。その中には霊場から霊場へ、草庵から草庵へとさまよひ歩いて、どの霊場でも、どの山籠の僧の前でも、同じやうに身も解《と》けるばかり、感動する性《たち》の巡礼女が幾らもある。この世間に類の多い、甚だ非宗教的な、冷淡な、ありふれた巡礼者の型は、セルギウスも好く知つてゐる。それから又こんな巡礼者がある。それは軍役を免ぜられた兵卒の老人等である。酒が好で、真面目な世渡が出来なくなつてゐるので、僧院から僧院へと押し歩いて、命を繋いでゐるのである。又只の農家の男女もある。それは種々の身勝手な願をしに来たり、極くありふれた事柄を相談しに来る。例へば自分の娘を何の誰に嫁入させようとか、どこへ店を出さうとか、どこで田地を買はうとか云ふ事を持つて来て、可否を問ふのである。又乳を飲ませながら眠つて子供を窒息させたが、その子供の霊が助かるだらうかと尋ねたり、私生児でも救が得られようかと尋ねたりする。
 総《すべ》てこんな事にはセルギウスは聞き飽きてゐる。面白くもなんともない。こんな人達から新しい事を聴くことは決して出来ない。又こんな人達に宗教心を起させようとしても徒労である。それは皆セルギウスには好く分つてゐる。それでもセルギウスは此大勢の人を見るのが厭ではない。此人達は皆自分を尊信して、自分の祝福を受けたり、自分の意見を聞いたりしようと思つて来るのだと思へば憎くもない。そこでセルギウスは此人達をうるさがりながら歓迎してゐるのである。
 番僧セラビオンは群集を追ひ散らさうとした。そして群集に向つて、セルギウス様は疲労してゐられると断つた。併しセルギウスは「子等をして我許に来さしめよ」と云ふ福音書の詞を思つて、自分の挙動に自分でひどく感動しながら、群集を呼び寄せるやうに言ひ付けた。
 セルギウスは身を起して欄《てすり》の所に出た。その外には群集が押し合つて来てゐる。セルギウスは一同に祝福を授けて、それから一人一人物を問ふのに答へ始めた。その自分の声が弱いのに、自分で感動しながら答へ始めた。併しなんと思つても来てゐるだけの人に皆満足を与へることは出来ない。セルギウスは又目の前が暗くなつて、よろけ出した。やう/\手で欄を掴まへて倒れずにゐた。血が頭に寄つて来て、一度顔が蒼くなつて、すぐ火のやうに赤くなるのを感じた。「どうぞ皆さんあしたまで待つて下さい。わたしにはけふはもう御返事が出来ません。」かう云つて置いて、又一同に祝福を授けて、木の下のベンチの方へ帰らうとした。例の商人がすぐに来て手を引いてベンチへ連れて往つて、腰を卸させた。群集の中からはこんな声がする。「セルギウス様。どうぞわたし共を見放さないで下さい。わたし共はあなたに見放されては、もう生きてゐられません。」
 商人はセルギウスを楡の木の下のベンチに連れて往つて置いて、自分は巡査のやうに群集を追ひ散らすことに努力してゐる。自分の声をセルギウスに聞かすまいとして、小声で云つてゐるが、その癖語気は鋭く、脅《おびやか》すやうである。「さあ、退《の》いた退いた。こゝを退くのだ。祝福をして戴いたぢやないか。その上どうして貰はうと云ふのだ。退くのだ。それが厭なら少し寄附でもするが好い。おい、そこにゐるをばさん。お前も退くのだ。どこへ押して来ようと云ふのだ。さつきも聞いた通り、もうけふはおしまひなのだ。又あした来たら、お前も伺ふ事が出来るかも知れない。運次第だ。もうけふは駄目だよ。」
「いゝえ。わたくしは只セルギウス様を、一目拝めば宜しいのです。」かう云つたのは婆あさんである。
「お顔ならすぐに見せて遣る。何を押すのだ。」
 商人が随分群集につらく当るのが、セルギウスに聞えた。セルギウスは庵室の小使を呼んで、あの人に余りひどく人を叱らないやうに言へと命じた。かう云つたつて、商人は矢張追ひ退けるとは、セルギウスにも分つてゐる。自分ももう一人でゐたい、休みたいと思つてゐる。それでも小使を遣つて商人に注意を与へた。これは群集に感動を起させようとしたのである。
 商人は答へた。「好いよ、好いよ。何もわたしは皆を追ひ退けるのではない。只少し抑へるだけだ。打ち遣つて置くと、あの人達は人一人責め殺す位平気なのだ。皆自分の事ばかり考へてゐて、人を気の毒だなんぞとは思はない。行けないよ。退くのだと云つてゐるぢやないか。あす来るのだよ。」とう/\群集が悉く散つてしまふまで、商人は止めなかつた。
 商人がこんなに骨を折るには種々の理由がある。一つは自分が平生秩序を好んでゐるからである。今一つは大勢の人を追ひまくるのが面白いのである。併し今一つ何よりも大事な理由がある。それは自分が一人残つてセルギウスに頼まうと思ふことがあるのである。
 商人は妻を亡くした独りものである。妻の死んだ跡に病気な娘が一人残つてゐる。その娘は病気があるために、人に※[#「女へん+息」、第4水準2-5-70、375-下-7]《よめ》に遣ることが出来ぬのである。商人は此娘を連れて千四百ヱルストの道をわざ/\来た。これは娘の病気をセルギウスに直して貰はうと思ふからである。
 商人の娘はもう病気になつてから二年立つてゐる。その間父は娘を諸方に連れて廻つて、病気を直して貰はうとした。最初には地方の大学の外来診察を受けさせた。併しなんの功もなかつた。それからサマラ領の百姓で、療治の上手なものがあると聞いて、連れて往つた。それは少し利目があつたらしかつた。それからモスクワの医者の所へ連れて往つて、金を沢山取られた。これはなんにもならなかつた。丁度その時セルギウスがなんの病気でも直すと云ふ事を聞いて、とう/\娘をこゝへ連れて来たのである。
 商人は群集を悉く追ひ払つた後に、自分がセルギウスの前に出て、突然跪いて、大声でかう云つた。
「セルギウス様。どうぞわたくしの娘の病気をお直しなさつて下さい。わたくしはかうしてあなたの前に跪いてお願します。」かう云つて丁度皿を二枚重ねるやうに手を重ねた。
 商人の詞や挙動は如何にも自然らしくて、何か習慣や規則でもあつて、それに依つてしてゐるやうである。娘の病気を直して貰ふには、これより外にはしやうがないと云ふ風である。その態度が如何にも知れ切つた事を平気でしてゐるやうなので、セルギウスもそれをあたりまへの事、外にしやうのない事と感ぜずにはゐられなかつた。併しセルギウスは商人に先づ身を起させて、その事柄を委《くは》しく話せと命じた。
 商人は話し出した。娘は当年二十二歳の未婚女《みこんぢよ》である。二年前に突然母が亡くなつて、その時娘も病気になつた。病気になつた時は急に大声で叫んだ。そしてそれ切り健康に戻る事が出来ずにゐる。商人はその娘を連れて千四百ヱルストの道をこゝまで来た。娘は宿泊所に置いてある。セルギウス様がお許なされば、すぐ連れて来る。併し昼間は来られない。娘は明るい所を嫌つて、いつも日が入つてから部屋の外に出るのだと云ふのである。
「ひどく弱つてゐられますか」とセルギウスが問うた。
「いえ。大して弱つてはゐません。体は弱るどころではなくて、ひどく太つてゐます。併しお医者の云はれる通りに娘は神経衰弱になつてゐます。若しお許なさるなら、すぐに連れて参りませう。どうぞお手を娘の頭にお載せ下さつて、御祈祷をなさつて、病気の娘をお救下さい。そして親のわたくしが元気を恢復し、一族が又栄えて行く様になさつて下さい。」商人はかう云つて再びセルギウスの前に跪いて皿のやうに重ねた両手の上に頭を低《た》れて、動かずにゐる。
 セルギウスは商人に再び身を起させた。そして自分のしてゐる業《わざ》の困難な事、困難でも自分がこらへてそれをしなくてはならぬ事を考へた。そして溜息を衝いて、暫く黙つてゐた後に、かう云つた。「宜しい。晩にその娘を連れてお出なさい。祈祷をして上げませう。併し今はわたしは疲れてゐますから、いづれ呼びに上げます。」かう云つて草臥《くたび》れ切つた目を閉ぢた。
 商人は足を爪立てゝその場を立ち退いた。足を爪立てたので、靴の音は猶高く聞えた。
 やう/\の事でセルギウスは一人になつた。セルギウスはいつの日だつて祈祷をすると客に逢ふとだけである。併しけふは格別にむづかしい日であつた。早朝に位階の高い人が来て、長い話をした。その次にはセルギウスを信じてゐる、宗教心の深い母親が、大学教授をしてゐて、信仰のまるでない、若い息子を連れて来て、出来る事なら帰依《きえ》させて貰はうとした。此対話はひどく骨が折れた。若い教授は坊主と辯論がしたくない。多分セルギウスを少し足りないやうに思つてゐるらしい。そこでなんでもセルギウスの言ふことを御尤《ごもつとも》だとばかり云つてゐる。その癖この信仰の無い若い男が安心立命をしてゐると云ふことが、セルギウスに分つた。セルギウスは、不愉快には思ひながら、今その教授との対話を思ひ出してゐる。
 セルギウスに仕へてゐる僧が来て云つた。「何か少し召し上りませんか。」
「はあ。何か持つて来て下さい。」
 僧は庵室の方へ往つた。そこは龕のある洞窟から十歩許隔たつてゐる。
 セルギウスが一人暮しをして、身の周囲《まはり》の事を総《すべ》て一人で取りまかなひ、パンと供物とで命を繋いでゐた時代は遠く過ぎ去つてゐる。今ではセルギウスだつて勝手に体を悪くしても好いと云ふ権利はないと云つて、僧院のものがさつぱりした、然も滋養になる精進物を運んで来る。セルギウスはそれを少しづゝしか食べない。併し前に比べて見ると、余程多く食べる。それに前には物をいや/\食べて、始終何か食べるのを罪を犯すやうに感じてゐたのに、今では旨がつて食べる。けふも少しばかりの粥を食べ、茶を一ぱい飲んで、それから白パンを半分食べた。僧は跡片付をして下つた。セルギウスは一人楡の木の下のベンチに居残つた。
 五月の美しい夕である。白樺、白楊《はくやう》、楡、山※[#「木へん+査」、第3水準1-85-84、378-上-15]子《さんざし》、※[#「木へん+解」、第3水準1-86-22、378-上-16]《かし》などの木が、やつと芽を吹いたばかりである。楡の木の背後《うしろ》には黒樺の花が満開してゐる。ルスチニア鳥が直《ぢ》き側で一羽啼いてゐる。外の二三羽はずつと下の河岸の灌木の中で、優しく人を誘ふやうな、笛の音《ね》に似た声を出してゐる。遠い岸を野らから帰る百姓が、歌を謡つて通る。日は森のあなたに沈んで、ちらばつた光を野の緑の上に投げてゐる。野の一方は明るい緑に見えてゐて、他の一方、楡の木の周囲は暗い蔭になつてゐる。周囲を鞘翅虫《せうしちう》が群り飛んで、木の幹に打《ぶ》つ付かつては地に落ちる。セルギウスは夕食が済んだので、静な祈祷をし始めた。
「イエス・クリストよ。神の子よ。我等に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ。」先づかう唱へて、それから頌《じゆ》を一つ誦《じゆ》した。頌がまだ畢《をは》らぬうちに、どこからか雀が一羽飛んで来て地の上に下りた。それが啼きながらセルギウスの方へ躍つて近づいて来たが、何物にか驚いたらしく、又飛んで逃げた。セルギウスは此時あらゆる現世の物を遠離ける祈祷をした。それから急いで商人の所へ使を遣つて、娘を連れて来いと云はせた。娘の事が気に掛かつてゐるのである。セルギウスが為めには、知らぬ娘の顔を見るのが、慰みになるやうな気がした。それに父親もその娘も自分を聖者のやうに思つてゐて、自分の祈祷に利目《きゝめ》があると信じてゐるのが嬉しかつた。セルギウスは聖者らしく振舞ふ事を、不断|斥《しりぞ》けてはゐるが、心の底では自分でも聖者だと思つてゐるのである。
 折々はどうして自分が、あの昔のステパン・カツサツキイがこんな聖者、こんな奇蹟をする人になつたかと、不審に思ふ事もある。併し自分がさうした人になつてゐると云ふ事には疑を挾《さしはさ》まない。自分の目で見た奇蹟をば、自分も信ぜずにはゐられない。最初に十四歳になる男の子の病気を直した事から、最近に或る老母の目を開けて遣つた事まで、皆自分の祈祷の力のやうに思はれる。如何にも不思議な事ではあるが、事実がさうなつてゐるのである。
 そこで商人の娘に逢ひたく思ふのは、こゝで又奇蹟の力を験《ため》して、今一度名誉を博する機会を得ようと思ふのである。「千ヱルストもある所から、人が己を尋ねて来る。新聞は己の事を書く。帝も己の名を知つてゐられる。宗教心の薄らいだヨオロツパが己の事を評判してゐる。」セルギウスはかう思つた。
 かう思つてゐるうちに、セルギウスは自分の自負心が急に恥かしくなつた。そこで又祈祷をし始めた。
「主よ。天にいます父よ。人間に慰藉《なぐさめ》を給はる父よ。精霊よ。願くはわたくしの此胸にお宿下《やどりくだ》さい。そしてあらゆる罪悪をお癒《いや》し下さつて、わたくしの霊をお救下さい。わたくしの心にみち/\てゐる、いたづらな名聞心《みやうもんしん》をお除き下さい。」セルギウスはかう繰り返した。そしてこれまでも度々こんな祈祷をして、それがいつも無駄であつた事を考へた。自分の祈祷は他人には利目がある。それに自分で自分の事を祈祷して見ると、僅ばかりの名聞心をも除いて貰ふ事が出来ない。セルギウスは自分が初めて山籠をした頃、自分に清浄、謙遜、慈愛を授けて貰ひたいと神に祈つた事を思ひ出した。それから指を切つた時の事を思ひ出した。自分の考では、その時はまだ自分が清浄でゐて、神も自分の訴を聴いて下さつたのである。セルギウスは尖《さき》を切つた指の、皺のある切株に接吻した。あの頃は自分を罪の深いものだと思つてゐて、却て真の謙遜が身に備はつてゐた。それから人間に対する真の愛も、あの時にはまだあつた。酒に酔つた老人の兵卒が金をねだりに来た時も、深く感動して、優しく会釈をして遣つた。あの女をさへ矢張優しくあしらつたのである。それに今はどうだ。一体|今日《こんにち》己に近づいて来る人間のうち、誰かを己は愛してゐるだらうか。あのソフイア・イワノフナ夫人はどうだらう。あの年の寄つたセラビオンはどうだらう。けふ集つて来た大勢の人はどうだらう。その中でもあの学問のある若い教授はどうだらう。己は目下のものに物を教へるやうな口吻であれと話をした。その間いつも己はこんなに賢い、こんなにお前よりは進んだ考をしてゐるぞと、相手に示さうとしてゐた。己は今あの人々の愛を身に受けようとして、その身に受ける愛を味つてゐる。その癖己はあの人々に対して露ばかりも愛を感じてはゐない。どうも己には今は愛と云ふものが無くなつてゐる。随つて謙遜もない。純潔もない。さつきも商人が娘の年を二十二になると云つた時、それを聞いて好い心持がした。そしてその娘が美しいかどうか知りたいと思つた。それから病気の様子を問うた時も、対話の間に、その娘は女性の刺戟があるかないか聞き出さうと思つてゐた。「まあ、己はこんなにまで堕落したのか。天にいます父よ。どうぞわたくしの力になつて下さい。わたくしを正しい道に帰らせて下さい。」かう云つてセルギウスは合掌して、又祈祷をし始めた。
 その時ルスチニア鳥が又森の中から歌の声を響かせた。鞘翅虫が一匹飛んで来て、セルギウスの頭に打つ付かつて、項《うなじ》へ這ひ込んだ。セルギウスはその虫を掴んで地に投げ付けた。「えゝ。一体神と云ふものがあるだらうか。己が何遍門を叩いても、神の殿堂は外から鎖されてゐる。その戸に鑰《ぢやう》が掛かつてゐる。どうかしたらその鑰が己に見えはすまいか。その鑰があのルスチニア鳥、あの鞘翅虫、即ち自然と云ふものであらうか。事に依つたらあの若い教授の言つた事が真理だらうか。」
 セルギウスは声に力を入れて祈祷をし始めた。そして今|萌《きざ》した神を涜《けが》す思想が消えて、心が又落ち着いて来るまで祈祷を続けた。さて鐸《すゞ》を鳴らして僧を呼んで、それに商人と娘とを来させるやうに言付けた。
 商人は娘の手を引いて来て、娘を庵室に入れて、自分はすぐに立ち去つた。
 娘は明色《めいしよく》な髪をした、非常に色の蒼い、太つた子で、骨組は小柄で背が低い。顔は物に驚いたやうな、子供らしい顔である。女に特有な体の部分々々が盛に発育してゐる。娘の来た時、セルギウスは戸の前のベンチに腰を掛けて待ち受けてゐた。娘はその前を通り過ぎて、セルギウスに並んで立ち留まつた。セルギウスは娘を祝福した。その時セルギウスは自分で自分に驚いた。己はなんと云ふ目をして此娘を見てゐるのだ。此娘の体を見てゐるのだと思つたのである。
 娘は庵室に這入つた。その時セルギウスは蝮《まむし》に螫《さ》されたやうな気がした。娘の顔を見た時、白痴で色慾の強い女だと感じたのである。セルギウスは立ち上つて庵室に這入つた。娘はベンチに掛けて待つてゐた。そしてセルギウスの来たのを見て起つた。「わたしお父う様の所へ往きたいわ。」
「こはがることはない。お前どこが悪いのだね。」
「どこもかしこも悪いの。」かう云つたと思ふと、女の顔に突然晴れやかな微笑が現はれた。
「お前今に好くして遣るからね、御祈祷をおし。」
「なんの御祈祷をしますの。あたしいろんな御祈祷をしましたけれど、皆駄目でしたわ。あなたわたしのつむりにお手を載せて、御祈祷をして下さいな。わたしあなたの事を夢に見てよ。」かう云つて矢張笑つてゐる。
「夢に見たとはどんな夢を見たのかい。」
「あなたがわたしの胸に手を載せて下すつた夢なの。こんな風に。」かう云つてセルギウスの手を取つて、自分の胸に押し付けた。
「こゝの所に。」
 セルギウスは娘のする儘に右の手を胸に当てゝゐた。「お前名はなんと云ふの。」かう云つた時、セルギウスは全身が震えた。そしてもう己は負けた、情慾を抑へる力が、もう己には無いと思つた。
「マリアと云ふの。なぜ聞くの。」かう云つて娘はセルギウスの手を握つて接吻した。それから両腕でセルギウスの体に抱き付いて、しつかり抱き締めた。
「マリア。お前どうするのだい。お前は悪魔だなあ。」
「あら。何を言つてゐるの。こんな事はなんでもありやしないわ。」かう云つていよ/\きつく抱き締めて一しよに床の上に腰を掛けた。
     ――――――――――――
 夜が明けてセルギウスは戸の外へ出た。「一体|昨夕《ゆうべ》の事は事実だらうか。今にあの父親が来るだらう。そしたら娘が何もかも話すだらう。あいつは悪魔だ。まあ、己は何をしたのだらう。あそこには斧がある。己のいつかの時指を切つたのが、あの斧だ」。セルギウスは斧を手に持つて、庵室に帰つた。
 世話をしてゐる僧が出迎へた。「薪をこはしませうか。こはすのなら、その斧を戴きませう。」
 セルギウスは斧を渡した。そして庵室に入つた。娘はまだ横になつたまゝでゐる。眠つてゐる。セルギウスはひどく気味悪く思つて娘を見た。それから兼ねてしまつて置いた百姓の衣類を取り出してそれを着た。それから剪刀《かみそり》を取つて髪を短く切つた。
 セルギウスは庵室を抜け出して、森の中の道を河に沿うて下つて行つた。此河岸をばもう四年|以来《このかた》歩いた事がないのである。
 街道は河の岸にある。それをセルギウスは日が中天に昇るまで歩いた。それから燕麦《からすむぎ》の畑《はた》に蹈み込んでそこに寝て休んだ。
 セルギウスは夕方になつて或る村の畔《ほとり》に来た。併しその村には足を入れずに河の方へ歩いて往つて、懸崖《がけ》の下で夜を明かした。
 目の覚めたのは、翌朝日の出前半時間ばかりの時であつた。どこもかしこも陰気に灰色に見えてゐる。西から冷たい朝風が吹いて来る。「あゝ。己は此辺で始末を付けなくてはならぬ。神と云ふものはない。だが始末はどう付けたものだらう。河に身を投げようか。己は泳ぎを知つてゐるから、溺れないだらう。首を縊らうか。あ。こゝに革紐がある。あの木の枝が丁度好い。」此手段は容易《たやす》く行ふことが出来さうである。手に取られさうに容易いのである。それが為めにセルギウスは却て身震をして身を背後《うしろ》へ引いた。そしていつもこんな絶望の時にしたやうに、祈祷をしようと思つた。併し誰に祈祷をしたらよからう。神と云ふものは無い。セルギウスは横になつて頬杖を衝いてゐた。その時突然非常に眠たくなつた。もう頭を上げてはゐられない。そこで肱を曲げてそれを枕にしてすぐに寐入つた。
 此眠は只一刹那で覚めた。そしてセルギウスの心頭には、半ばは夢のやうに、昔の記念が浮んで来た。
 セルギウスはまだ子供半分の時に、田舎で、母の許にゐた。母衣《ほろ》を掛けて半分隠した馬車が家の前に来て留まつた。馬車の中からはニコライ・セルギエヰツチユをぢさんが出た。恐ろしい黒い鎌鬚の生えた人である。そのをぢさんが痩せた、小さい娘を連れてゐる。名はパシエンカと云つて、大きい優しい目の、はにかんだ顔をしてゐる。パシエンカは我々男の子の仲間に連れて来られたので、我々はその子と一しよに遊ばなくてはならなかつた。その遊がひどく退屈だ。娘が余り馬鹿だからである。とう/\しまひには男の子が皆娘を馬鹿にして、娘に泳げるか泳いで見せろと云つた。娘はこんなに泳げると云つて、土の上に腹這になつて泳ぐ真似をした。男の子等は皆|可笑《をか》しがつて笑つた。娘は馬鹿にせられたのに気が付いて頬の上に大きい真つ赤な斑《ぶち》が出来た。その様子が如何にも際限なく、哀《あはれ》つぽいので、男の子等が却て自分達のした事を恥かしく思つた。そして娘の人の好げな、へり下つた、悲しげな微笑が長く男の子等の記憶に刻み付けられた。
 余程年が立つてから、セルギウスはその娘に再会した事がある。丁度自分の僧院に入るすぐ前であつた。娘は田地持《でんぢもち》の女房になつてゐた。その夫が娘の財産を濫費して、女房を打擲する。もう子が二人出来た。息子一人に娘一人である。息子は生れて間もなく死んだ。此女の如何にも不幸であつた事をセルギウスは思ひ出した。
 それから僧院に入つた後に、セルギウスは此女の後家になつて来たのを見た。女は昔の儘で、矢張馬鹿で、気の利かない粧《よそほひ》をしてゐた。詰らぬ、気の毒なやうな女である。娘とその婿とを連れて来た。その頃一家はすつかり微禄してゐた。
 その後セルギウスは、その女の一家が或る地方の町でひどく貧乏になつて暮してゐるのを聞いた。
「一体己はあの女の事を、今なぜ思ひ出すのだらう」とセルギウスは自ら問うた。併しどうしてもその女の事より外の事を思つて見ることが出来ない。「あの女は今どこにゐるだらう。どうしてゐるだらう。矢張今でも土に腹這つて泳ぐ真似をした時のやうに馬鹿でゐるだらうか。あゝ。なぜ己はあいつの事をこんなに思ふだらう。どうしようと云ふのだらう。己は自分の身の始末を付けなくてはならないのだつけ。」かう思ふと又気味が悪くなる。そこでその気味悪さを忘れようとしては、又パシエンカの事を思ふ。
 こんな風で長い間セルギウスは横になつてゐた。その間始終自分のすぐ死ななくてはならぬ事を思つたり、又パシエンカの事を思つたりしてゐる。そしてどうしてもパシエンカが自分の救の端緒になりさうに思はれるのである。とう/\セルギウスは又眠つた。その時夢に天使が現れて云つた。「パシエンカの所へ往け。そして何をして好いか問へ。お前の罪がどんなもので、お前の救はどこにあるか問へ。」
 セルギウスは覚《さ》めた。そして夢に見た事を神の啓示《けいじ》だと思つた。そして気分が晴やかになつて、夢の中の教の通りにしようと決心することが出来た。セルギウスはパシエンカの住んでゐる町を知つてゐる。ここから三百ヱルスト許の所である。そこでその町へ向いて歩き出した。

     六

 勿論パシエンカはもう疾《と》つくに昔の小娘ではなくなつてゐる。今の名はブラスコヰア・ミハイロフナと云つてゐる。大分年を取つた、乾からびた、皺くちや婆あさんである。堕落した飲んだくれの小役人マフリキエフの為めには姑《しうとめ》である。
 パシエンカは婿が最後に役人をしてゐた地方の町に住んで、そこで手一つで一家族の暮しを立てゝゐる。家族は娘と、神経質になつた、病身の婿と、孫五人とである。パシエンカの収入は近所の商人の娘達に、一時間五十コペエケンで音楽を教へるより外ない。勉強して一日に少くも四時間、どうかすると五時間も授業するので、一箇月六十ルウブル近い収入になる。それをたよりに、右から左へと取つたものを払ひ出して、その日その日を過しながら、いつかは婿が又新しい役目を言ひ付かるだらうと心待に待つてゐる。パシエンカはどうぞ婿を相当な地位に世話をして貰ひたいと、親類や知る人のある限り依頼状を書いて出した。セルギウスにも出した。併しその依頼状はセルギウスが草庵を立ち退いた跡へ届いた。
 土曜日の事である。パシエンカは乾葡萄を入れた生菓子を拵へようと思つて、粉を捏《こ》ねてゐた。これは昔父のゐた時代に置いてゐた料理人が上手に拵へたので、それを見習つてゐるのである。まだ奴隷制度のあつた時で、此料理人は奴隷であつた。パシエンカは此菓子を拵へて、日曜日に孫達に食べさせようと思つてゐる。
 丁度娘マツシヤは一番小さい孫を抱いてゐる。この抱いてゐる子の外の四人《よつたり》の中で、上の方の二人は学校に往つてゐる。その二人は男の子が一人に娘が一人である。婿は昨夜寝なかつたので、昼寝をしてゐる。
 パシエンカも昨夕《ゆうべ》は大分遅くなつて床に這入つた。それは婿のだらしのない事に就いて娘が苦情を云ふのを宥《なだ》めなくてはならなかつたからである。パシエンカの目で見れば、婿は体が弱くなつて次第に衰へて行くばかりで、これから身を持ち直すことが出来さうにはない。幾ら娘が彼此苦情を言つたつて駄目である。そこでパシエンカは極力娘の苦情を抑へて、夫婦の間の平和と安穏とを謀つてゐる。パシエンカは生得《しやうとく》人の不和を平気で見てゐることが出来ない。人が喧嘩をしたつて、それで悪い事が善くなる筈がないと信じてゐるのである。併しそんな事を別段筋を立てゝ考へはしない。人の腹を立つたり、喧嘩をしたりするのを見てゐるのが厭なので、それを止めさせようとしてゐるばかりである。その厭さ加減は臭い匂や荒々しい物音や、又自分の体に中る鞭ほど厭なのである。
 パシエンカが今台所で、粉に酵母《もと》を交ぜて捏ねることを女中のルケリアに教へてゐると、そこへ六つになる孫娘のコリヤが穴の開いた所へ填め足しをした毛糸の靴足袋を、曲つた脛に穿いて、胸に前垂を掛けて、何事にかひどく驚いた様子で駆け付けて来た。「お祖母《ば》あさん。恐ろしいお爺いさんが来て、お祖母あさんにお目に掛かりたいつて。」
 ルケリアが外を覗いて見た。「ほんに巡礼らしい爺いさんが参つてゐます。」
 パシエンカは痩せた臂に付いた粉を落して、手尖の濡れたのを前掛で拭いた。そして部屋に往つて五コペエケンを一つ持つて来て遣らうと思つた。併しふと銭入に十コペエケンより小さいのがなかつた事を思ひ出して、それよりはパンを一切遣る事にしようと思案して、押入の方へ往つた。ところがまだパンを出さぬうちに、少しばかりの銭を惜んだのが恥かしくなつて、パンを切つて遣る事は女中に言ひ付けて置いて、その上に十コペエケンをも取りに往つた。「これが本当に罰が当つたと云ふものだ。ちよいと吝《けち》な考を出したゞけで、遣る物は倍になつた。」パシエンカは心中でかう思つた。
 パシエンカは「余り少しだが」と断を云つて、パンと銭とを巡礼に遣つた。それは巡礼の姿を見ると、如何《いか》にも立派な、品の好い人柄であつたので、初め思つた倍の物を遣りながら、それを息張《いば》つて遣るどころではなく、実際まだこれでは余り少ないと、恥かしく思つたのである。
 セルギウスは三百ヱルストの道を乞食をして来た。痩せた体に襤褸《ぼろ》を纏つて埃だらけになつてゐる。髪は短く切つてある。足には百姓の靴を穿いて、頭には百姓の帽子を着てゐる。それが叮嚀に礼をした。それでも今まで国内の四方から幾人となく来た人を心服させただけの、威厳のある風采は依然としてゐるのである。
 併しパシエンカは此巡礼が昔のステパンだと云ふことを認める事が出来なかつた。大分年を隔てゝゐるのだから無理はない。「若しお腹《なか》がすいてお出なさるなら、何か少し上げませうか。」
 セルギウスは黙つてパンと銭とを受け取つて、パシエンカの詞には答へずにゐる。併しその儘立ち去らうとはしないで、パシエンカの顔をぢつと見てゐる。
 パシエンカは不思議に思つた。
「パシエンカさん。わたしはあなたの所へ尋ねて来たのです。少しお願があつて。」セルギウスはかう云つた。美しい目の黒い瞳は動かずに、物を歎願するやうにパシエンカの顔に注がれてゐる。そのうちその目の中に涙が湧いて来る。そして白くなつた八字髭の下で唇がせつなげに震えて来る。
 パシエンカは痩せた胸を手で押へた。そして口を開いて、目を大きく※[#「目へん+爭」、第3水準1-88-85、388-下-12]《みは》つて、呆れて乞食の顔を見詰めた。「まあ。あんまり※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、388-下-13]のやうですが、あなたでしたか。ステパンさんでせうか。いえ。セルギウス様でせうか。」
「さうですよ。ですがあなたの言つてゐられるその名高いセルギウスではありません。わたしは大いなる罪人《つみびと》ステパン・カツサツキイです。神様に棄てられた、大いなる罪人です。どうぞわたくしを助けて下さい。」
「まあ。どうしてそんな事がわたくしなんぞに出来ませう。なぜあなたそんなにおへり下りなさいますの。まあ、兎に角こちらへ入らつしやいまし。」
 セルギウスはパシエンカの差し伸べた手には障《さは》らずに、跡に付いて上つて来た。
 パシエンカはセルギウスを上らせはしたが、どこへ連れ込まうかと思ひ惑つた。家は小さい。最初此家に来た頃は、ほんの物置のやうな所ではあるが、角《かど》の一間だけ自分の居間にして置いた。併しそれも後に娘に遣つてしまつた。今そこではマツシヤが赤ん坊を抱いて寐入らせようとしてゐるのである。「まあ、こちらへでもお掛下さいまし。」かう云つてパシエンカは台所のベンチを指さした。
 セルギウスはベンチに腰を掛けた。そして背中に負つた袋を、まづ片々《かた/\》の肩からはづして、それから又外の肩からはづした。もう此袋のはづし方には馴れてゐるのである。
「まあ。まあ。尊いあなた様がどうしてそんなにおへり下りなさいますのでせう。あんなに名高くなつてお出なさる方が、出し抜けにそんな。」
 セルギウスは返事をしない。そして優しく微笑みながら、はづした袋を脇に置いた。
 パシエンカは娘を呼んだ。「マツシヤや。此方がどなたゞか、お前知つてゐるかい。」かう云つて置いて娘にセルギウスの身の上を囁いた。
 それから母と娘とは角の部屋から寝台《ねだい》と揺籠《ゆりかご》とを運び出して跡を片付けた。そしてセルギウスをそこへ案内した。「どうぞこゝで御休息なさいまし。わたくしは今から出て参らなくてはなりませんから。」パシエンカがかう云つた。
「どこへお出なさるのです。」
「わたくしは音楽を教へに往きます。まことにお恥かしい事ですが。」
「なに。音楽を教へにお出ですか。結構な事ですね。わたしはたつた一つあなたにお頼み申したい事があるのですが、いつお話が出来ませうか。」
「さやうでございますね。晩にでも伺ひませう。何か御用に立つ事が出来まするやうなら、此上もない為合《しあはせ》でございます。」
「そんならさう願ひませう。それから早速お断をして置きますが、わたしが誰だと云ふことを誰にも話して下さいますな。わたしはあなたにしか身の上が打ち明けたくないのです。まだわたしがどこへ立ち退いたか誰も知らずにゐます。これはさうして置かなくてはならないのです。」
「あら。わたくしつひさつき娘に話してしまひました。」
「なに。それは構ひません。娘さんに人に話さないやうに言つて置いて下さい。」
 セルギウスは靴を脱いで横になつた。前の晩眠らずに、けふ四十ヱルストの道を踏んでゐるので、すぐに寐入つた。
     ――――――――――――
 パシエンカが帰つて来た時、セルギウスはもう目を覚まして待つてゐた。昼食《ひるしよく》は茶の間へ食べに出るやうに勧められても出ずにゐたので、女中のルケリアがスウプと粥とを部屋に運んで食べさせたのである。
 セルギウスはパシエンカの帰つたのを見て云つた。「お約束より早くお帰りでしたね。今お話が出来ませうか。」
「まあ。なんと云ふ難有い事でございませう。あなたのやうなお客様がお出なすつて下さるなんて。わたくしはいつもの稽古を一時間だけ断りました。跡から填合《うめあはせ》をいたせば宜しいのです。わたくしは疾《と》うからあなたの所へ参詣しようと思つてゐました。それからお手紙も上げました。それにあなたの方でお出下さるとは、まあ、なんと云ふ難有い事で。」
「どうぞそんな事を言つて下さるな。それからわたしが今あなたに話す事は懺悔ですよ。死ぬる人が神様の前でするやうな懺悔ですよ。どうぞその積りで聞いて下さい。わたしは聖者ではありません。罪人です。厭な、穢らはしい、迷つた、高慢な罪人です。人間の中で一番悪いものよりもつと悪い人間です。」
 パシエンカは目を大きく※[#「目へん+爭」、第3水準1-88-85、391-上-13]《みひら》いて、セルギウスの詞を聞いてゐる。セルギウスが真実の話をすると云ふ事が、婆あさんには分つてゐるのである。婆あさんはセルギウスの手を取つて、優しく微笑んで云つた。「でもそれはあんまり大業《おほげふ》にお考へなさるのぢやありますまいか。」
「いや。さうでない。わたしはね、色好みで、人殺しで、神を涜した男だ。※[#「言+虚」、第4水準2-88-74、391-下-4]衝きだ。」
「まあ。どうしたと云ふのでせう。」
「それでもわたしは生きてゐなくてはならない。今までわたしは何事をも知り抜いてゐるやうに思つて、人にどうして世の中を渡るが好いと教へて遣つたりなんかした。その癖わたしはなんにも分つてゐないのだ。そこで今あなたに教へて貰はうと思ふのです。」
「まあ。何を仰《おつし》やるの。それではわたくしに御笑談《ごぜうだん》を仰やるやうにしか思はれませんね。昔わたくしの小さい時も、好くわたくしを馬鹿にしてお遊びなすつた事がありましたが。」
「なんのわたしがあなたに笑談を云ふものですか。わたしは決してそんな事はしない。どうぞあなたは今どうして日を暮してお出だか、それをわたくしに教へて下さい。」
「あの。わたくしでございますか。それは/\お恥かしい世渡をいたしてをりますの。これは皆神様のお罰《ばち》だと存じます。自分でいたした事の報《むくい》だからいたし方がございません。ほんに/\お恥かしい。」
「あなたは夫をお持ちでしたね。その時のお暮しは。」
「それは恐ろしい世渡でございました。最初には卑しい心から、その人の顔形や様子が好きになりまして夫婦になりました。お父う様は反対せられました。それでもわたくしは道理のある親の詞に背いて夫婦になりました。それから夫婦になつたところで、夫の手助けにならうとはせずに、嫉妬を起して夫を責めてばかりゐました。どうもその嫉妬が止められませんで。」
「あなたの御亭主は酒を上つたさうですね。」
「さやうでございます。それを止めさせるやうにいたす事が、わたくしには出来ませんでした。わたくしは只小言ばかり言つてゐました。夫が酒を飲むのは病気だと云ふ所に気が付かなかつたのでございます。夫は飲まなくてはゐられなかつたのでございます。それをわたくしが無理に止めさせようといたしました。それで恐ろしい喧嘩ばかりいたしました。」かう云つてパシエンカはまだ美しい目に苦痛の色を現してセルギウスを見た。
 セルギウスはパシエンカが夫に打たれてゐたと云ふ話を思ひ出した。そして頸が痩せ細つて耳の背後《うしろ》に太い静脈が出て、茶褐色の髪が白髪になり掛かつて稀《うす》くなつてゐるパシエンカを見て、此女がどうして今までの日を送つて来たかと云ふ事が、自然に分つて来たやうな気がした。
「それからわたくしは財産のない後家になつて、二人の子供を抱へてゐました。」
「あなたは田地を持つてゐなすつたではありませんか。」
「田地はワツシヤが生きてゐるうちに売り払つて、そのお金は使つてしまひました。どうも暮しに掛かりますものですから。若い女は皆さうでございますが、わたくしは何も分りませんでした。わたくしは誰よりも愚《おろか》で、物分りが悪かつたかと存じます。わたくしは有る丈の物を皆使つてしまひました。それからわたくしは子供に物を教へなくてはならないので、やう/\自分にも少し物が分つて参りました。それからもう四学年になつてゐたミチヤが病気になりまして、神様の許へ引き取られてしまひました。それからマツシヤが今の婿のワニヤが好きになりました。ワニヤは善い人でございますが、不為合な事には病気でございます。」
 突然娘が来て母の詞を遮つた。「おつ母さん。ちよいとミツシヤを抱つこして下さい。わたし体を二つに分けて使ふ事は出来ませんから。」
 パシエンカはぎくりとした。そして立ち上つて忙しげに、踵の耗《へ》つた靴を引き摩つて戸の外へ出た。間もなく帰つて来た時、パシエンカは二つになる男の子を抱いてゐた。子は反《そ》り返つて両手でお祖母《ば》あさんの領《えり》に巻いてゐる巾《きれ》を引つ張つてゐた。パシエンカは語を継いだ。「どこまでお話いたしましたつけ。ワニヤは此土地で好いお役をしてゐました。上役の方もまことに善いお方でございました。それにワニヤは辛抱が出来ないで、とう/\辞職いたしました。」
「体はどこが悪いのです。」
「神経衰弱と云ふのださうでございます。まことに厭な病気だと見えます。お医者にどういたしたら宜しいかと聞きますと、どこかへ保養に往けと申されます。でもそんなお金はございません。わたくしの考へでは此儘にいたしてゐても、いつか直るだらうかと存じます。別に苦痛と云つてはないのでございますが。」
 此時「ルケリア」と男の声で呼んだ。肝癪を起してゐるやうな、その癖元気のない声で、婿が呼んだのである。「いつ呼んだつてゐやしない。己の用のある時はいつでも使に出してある。おつ母さん。」
「すぐ往くよ」とパシエンカは返事をした。そしてセルギウスに言つた。「まだ午《ひる》を食べてゐないのでございます。あれはわたくし共とは一しよに食べられませんので。」パシエンカはかう云ひながら立つて、何やら用をした。それから労働の痕のある、痩せた手を前掛で拭きながら、セルギウスの前へ帰つて来た。「まあ、こんな風にして暮してゐるのでございます。わたくしはいつも苦情ばかり申して、万事不足にばかり思つてゐます。その癖孫は皆丈夫で好く育ちますし、どうにかして暮しては行かれますから、本当は神様にお礼を申さないではならないのでございます。それはさうと、ほんに詰らない事ばかり長々と申しまして。」
「一体なんで暮しを立てゝゐるのですか。」
「それはわたくしが少しづつ儲けますのでございます。小さい時稽古をいたしました自分には厭であつた音楽が役に立つてゐますのでございます。」パシエンカは坐つてゐる傍にある箪笥の上に、細つた手を載せて、殆ど無意識にピアノをさらふやうな指の運動を試みてゐる。
「一時間でどの位貰ひますか。」
「それはいろ/\でございます。一ルウブルの事もあり、五十コペエケンの事もあり、又三十コペエケンしか貰はれない事もあります。でもどちらでも優しくいたしてくれますので。」
「そしてその教へて貰ふ子供は出来ますか。」かう云つたセルギウスの目には殆ど認められぬ程の軽い微笑が見えた。
 パシエンカは妙な事を問はれたと不思議に思ふらしく訝《いぶかり》の目をしてセルギウスを見た。「それは出来ますとも。一人なんぞは立派な子でございます。親は肉屋さんですが、それは正直な、可哀らしい娘でございます。ほんにわたしがもつと気が利いてゐましたら、夫には立派な知合がありましたのですから、婿にももつと好い役の出来るやうに世話をして遣る事が出来ましたのでございませうが、なんにも分りませんので、とう/\一家がこんなに落ちぶれてしまひました。」
「成程、成程。」かう云つてセルギウスは頭を項垂《うなだ》れた。「それはさうとお宗旨の方はどうですか。」
「どうぞその方の事は仰やらないで下さいまし。わたくしは本当に不精で、遣り放しでございます。聖餐の時には子供を連れて参りますが、間々《あひだ/\》では一月もお寺に参らずにゐる事がございますの。子供だけは遣りますが。」
「なぜ御自分では往かれないのですか。」
「正直なところを申しますれば、娘や孫の手前が恥かしくてまゐられません。お寺に参るには余り着物が悪くなつてゐます。新しいのは出来ません。それに不精でございますので。」
「そんなら内では御祈祷をなさるのですか。」
「それはいたしますが、実は申訳のないいたしやうでございます。なんの気乗もしないでいたしてゐます。御祈祷はどんなにしていたすものだと云ふ事は存じてゐながら、どうしてもその心持になられません。如何《いか》にも自分が詰らない人間だと承知してをりますので。」パシエンカは顔を赤くした。
「さうさね。どうもさうなり易いものですよ。」セルギウスはさもあらうと思つたらしかつた。
 又婿の声がしたので、パシエンカは「すぐ往くから、お待よ」と返事をして、髪を撫で付けて出て行つた。今度は暫く時間が立つて、火屋《ほや》のないブリツキの小ランプを手に持つて帰つて来た。
 其時セルギウスはさつきの儘の姿勢で、頭を項垂れて膝に肱を衝いてゐた。併し側に置いてあつた袋をいつの間にか背負つてゐる。セルギウスは疲れたやうな、まだ美しい目を挙げて、パシエンカを見て、深い深い溜息を衝いた。
 パシエンカが云つた。「わたくし孫達にはあなたがどなたゞとも申さずに置きました。只昔お心易くした御身分のあるお方で、今巡礼に出て入らつしやるのだと申しました。あちらのお茶の間にお茶が出してありますから、どうぞ入らつしやつて。」
「いえ。もうそれには及びません。」
「そんならこちらへ持つて参りませうか。」
「いえ。それにも及びません。パシエンカさん。あなたのわたくしをもてなして下さつたお礼は、神様がなさるでせう。わたくしはもうお暇《いとま》をします。若しわたくしの事を気の毒だと思つて下さるなら、どうぞ誰にもわたくしに逢つた事を話さずにゐて下さい。神様に掛けて頼むから、誰にも言はないで下さい。本当にわたくしはあなたを難有く思つてゐます。実は土に頭を付けてお礼が言ひたいのですが、さうしたらあなたがお困りでせうから止めます。わたくしの御迷惑を掛けた事は、クリスト様に免じてお恕《ゆる》し下さい。」
「そんならどうぞわたくしに祝福をお授けなすつて。」
「それは神様があなたにお授け下さるでせう。どうぞわたくしの悪かつた事を免《ゆる》して下さい。」かう云つてセルギウスは立ち去らうとした。
 併しパシエンカは引き留めて、食パンや、菓子パンや、バタをセルギウスに遣つた。
 セルギウスは素直にそれを受けて、戸口を出た。外は闇である。家二軒程の先へ歩いて往つた時は、もう姿がパシエンカの目に見えなかつた。
 近く住まつてゐる僧侶の家の犬が吠えた。パシエンカはそれを聞いて、セルギウスがまだ町を出離れない事を知つた。
     ――――――――――――
 セルギウスは考へた。「己の夢はかうしたわけだつた。己はあのパシエンカのやうに暮せば好かつたに、さうしなかつたのだ。己は陽に神の為めに生活すると見せて、陰に人間の為めに生活した。パシエンカはつひ人間の為めに生活する積りでゐて、実は神の為めに生活してゐた。己は人間に種々の利益《りやく》を授けて遣つたやうだが、あんな事をするよりは、難有く思はせようなどと思はずに、水でも一杯人に飲ませた方が増しだつた。ちよいとした善行の方が己の奇蹟よりは好いのだ。その癖己のした事にも、神に仕へると云ふ正直な心が、少しは交つてゐたのだが。」セルギウスはかう考へて、自己を反省して見て、さて云つた。
「成程。その心もないではなかつた。只世間の名聞《みやうもん》を求める心に濁されて、打ち消されてゐたのだ。己のやうに現世の名誉を求めてゐる人間の為めには、神も何もない。己はこれから新に神を尋ねなくてはならない。」
 かう思ひ立つたセルギウスは、山を出てからパシエンカを尋ねたまでと同じやうに、村から村へとさまよつた。一人で歩く時もある。外の巡礼共と一しよに歩く時もある。そしてクリストの御名を唱へて、食を求め、宿を借る。その間には意地の悪い百姓の女房に叱られる事もある。酒に酔つた百姓に嘲《あざけ》られる事もある。併し大抵は飲食にありつき、銭をも貰ふ。セルギウスの風采が立派なので、尊敬してくれるものがあるかと思へば、又どうかするとあんな立派な奴が落ちぶれて、好い気味だと思ふらしいものもある。併し詰りはセルギウスの方で飽くまで優しくするので、どんな人にも打ち勝つて行く。
 どうかして人の家に聖書のあるのを見付けると、その中から一節づつ読んで聞かせる。その度毎に人は皆感動して、驚きの目を※[#「目へん+爭」、第3水準1-88-85、398-上-7]《みは》る。それはセルギウスが読むのを聞けば、今まで好く知つてゐた筈の事も、全く新しい事のやうに聞えるからである。
 どこかで人の相談を受けて智慧を貸して遣つたり、又人の力になる事をして遣つたり、喧嘩の仲裁をして遣つたりする事があつても、セルギウスは人の礼を言ふのを待たずに、その場を立ち退く。さうしてゐるうちに、次第にセルギウスの心に神の啓示が現れて来た。
 或る時セルギウスは婆あさん二人、癈兵一人と連になつて、街道《かいだう》を歩いてゐた。
 すると紳士と貴夫人とが、馬の挽いた橇に乗つて来た。その側には今一人の紳士と今一人の貴夫人とが騎馬で付いてゐた。橇の中の貴夫人は年を取つてゐて、その夫と娘とが馬に乗つて附いてゐるのらしい。橇の中にゐる男は旅中の外国人である。多分フランス人だらう。
 此一行がセルギウス等を見て馬を駐《と》めた。フランス人らしい男に〔les pe`lerins〕《レエ ペルレン》(巡礼)を見せようと云ふのである。巡礼と云ふものは、乞食をして歩くもので、百姓の迷信を利用して生活して行くのだと思つてゐる人達である。一行は巡礼に分らせない積りでフランス語で会話をしてゐる。
 フランス人らしいのが云つた。「〔Demandez leur,《ドマンデエ リヨオル》 s'ils sont bien su^rs de ce que leur pe`lerinage est agre'able a` Dieu〕.《シル ソン ビエン シユウル ド シヨ キヨ リヨオル ペレリナアジユ エエ アグレアアブル ア ヂヨオ》」(あの人達に聞いて御覧なさい。巡礼をすると云ふ事が実際神様の気に入ることだと心から思つてゐるのでせうか。)此詞はロシア語で巡礼に取り次がれた。
 婆あさん達が答へた。「それはどうお思なさらうと、神様次第でございますよ。わたくし共は足でだけは御奉公をいたしてゐますが、胸で御奉公をいたしてゐると申して宜しいやら、そこまでは分りません。」
 次に癈兵が同じ事を問はれた。
 癈兵は答へた。自分は真の独身者で、どこに足を留めてゐると云ふ事も出来ないので、かうしてさまよつてゐるのだと云つたのである。次にセルギウスが問はれた。「神の奴僕《ぬぼく》の一人でござります。」
「Qu'est ce qu'il dit?《ケ エ シヨ キル ヂイ》 〔Il ne re'pont pas.〕《イル ヌ レポン パア》」(あの男はなんと云ひますか。返事にはなつてゐないやうですが。」
「Il dit,《イル ヂイ》 qu'il est un serviteur de Dieu.《キル エエ アン セルヰトヨオル ド ヂヨオ》」(あれは自分が神の奴僕だと云つてゐます。)
「〔Il doit e^tre un fils de pre^tre.〕《イル ドア テエトル アン フイス ド プレエトル》 Il a de la race.《イル ア ド ラ ラアス》 Avez-vous de la petite, monnaie?《アヱエ ヴウ ド ラ プチト モンネエ》」(あの男は司祭の倅かなんかでせう。品が好いですね。あなた小さいのがございますか。)
 フランス人はポツケツトを探つて、小銭を出して、巡礼一人に二十コペエケンづゝ遣つた。「Mais dite leur que ce n'est pas pour les cierges,《メエ ヂツト リヨオル キヨ シヨ ネエ パア プウル レエ シエルジユ》 que je leur donne,《キヨ ジユ リヨオル ドンヌ》 mais pour qu'ils se 〔re'galent〕 de 〔the'〕.《メエ プウル キル ス レガアル ド テエ》」(だがあの人達に言つて聞かせて下さいよ。わたしがあの人達に遣るのは、蝋燭代ではありません。あの人達が一しよにお茶を飲むやうにと思ふのです。)
「お茶だ、お茶だ。Pour vous, mon vieux.《プウル ヴウ モン ヰヨオ》」(お前にだよ。爺いさん)かう言ひ足して、フランス人は笑つて、手袋を嵌めた右の手で、セルギウスの肩を叩いた。
「あなたには神様が報をなさりませう。」セルギウスは帽子を手に持て禿た頭を地まで下げて礼をした。
 セルギウスの為めには、此出会が特別に嬉しかつた。どの位人の思はくを構はずにゐる事が出来るか験して見たのだと思つたからである。セルギウスは人のくれた二十コペエケンを受け取つて仲間の盲人に遣つた。人の思はくを顧みぬやうになればなる程、神の存在を感ずる事が出来て来るのである。
 セルギウスは八箇月の間村から村へさまよつた。九箇月目に或る県の町に出て、合宿所に泊まつてゐると、巡査が来て、旅行券の無い男だと云ふので、外の巡礼仲間と一しよに拘引した。「お前は誰だ。旅行券はないか」と問へば、「わたくしは神の奴僕でございます。旅行券はありません」と答へる。
 セルギウスは無籍者として処分せられて、シベリアへ遣られた。
 シベリアに着いて、セルギウスは或る富有な百姓の地所に住む事になつた。主人の菜園を作つて、旁《かたはら》主人の子供に読書《よみかき》を教へたり、その家の病人を介抱したりしてゐた。
  (一八九〇、一八九一、一八九八作〇一九一三訳)



初出:パアテル・セルギウス 大正二年九月一日「文藝倶楽部」一九ノ一二(初出の題「出家」)
原題(独訳):Vater Sergius.
原作者:Lev Nikolaevich Tolstoi, 1828-1910.
翻訳原本:L. Tolstoy: Nachgelassene Werke in 3 〔Ba:nden〕. Bd. II. Deutsch von August Scholz u. Alexander Stein. Berlin, J. Ladyschnikow Verlag. o. J.

底本:「鴎外選集 第十四巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2001年12月7日公開
2003年9月21日修正
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