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堺事件
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)明治元年|戊辰《ぼしん》の歳《とし》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)明治元年|戊辰《ぼしん》の歳《とし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)Venus[#「e」はアクサン(´)付き]《ヴェニュス》号
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明治元年|戊辰《ぼしん》の歳《とし》正月、徳川|慶喜《よしのぶ》の軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁《のが》れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜《ひそ》み匿《かく》れ、これ等の都会は一時無政府の状況に陥った。そこで大阪は薩摩《さつま》、兵庫は長門《ながと》、堺は土佐の三藩が、朝命によって取り締ることになった。堺へは二月の初に先ず土佐の六番歩兵隊が這入《はい》り、次いで八番歩兵隊が繰り込んだ。陣所になったのは糸屋町の与力《よりき》屋敷、同心屋敷である。そのうち土佐藩は堺の民政をも預けられたので、大目附杉紀平太、目附|生駒《いこま》静次等が入り込んで大通|櫛屋町《くしやまち》の元総会所に、軍監府を置いた。軍監府では河内《かわち》、大和《やまと》辺から、旧幕府の役人の隠れていたのを、七十三人捜し出して、先例によって事務を取り扱わせた。市中は間もなく秩序を恢復《かいふく》して、一旦|鎖《とざ》された芝居の木戸も、又開かれるようになった。
二月十五日の事である。フランスの兵が大阪から堺へ来ると云うことを、町年寄が聞き出して軍監府へ訴え出た。横浜に碇泊《ていはく》していた外国軍艦十六|艘《そう》が、摂津の天保山沖《てんぽうざんおき》へ来て投錨《とうびょう》した中に、イギリス、アメリカと共に、フランスのもあったのである。杉は六番、八番の両隊長を呼び出して、大和橋へ出張することを命じた。フランスの兵が若《も》し官許を得て通るのなら、前以て外国事務係前宇和島藩主|伊達伊予守宗城《だていよのかみむねき》から通知がある筈であるに、それが無い。よしや通知が間に合わぬにしても、内地を旅行するには免状を持っていなくてはならない。持っていないなら、通すには及ばない。杉は生駒と共に二隊の兵を随《したが》えて大和橋を扼《やく》して待っていた。そこへフランスの兵が来掛かった。その連れて来た通弁に免状の有無を問わせると、持っていない。フランスの兵は小人数なので、土佐の兵に往手《ゆくて》を遮《さえぎ》られて、大阪へ引き返した。
同じ日の暮方になって、大和橋から帰っていた歩兵隊の陣所へ、町人が駆け込んで、港からフランスの水兵が上陸したと訴えた。フランスの軍艦は港から一里ばかりの沖に来て、二十艘の端艇《はしけ》に水兵を載せて上陸させたのである。両歩兵の隊長が出張の用意をさせていると、軍監府から出張の命令が届いた。すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云う廉立《かどだ》った暴行をしてはいない。しかし神社|仏閣《ぶっかく》に不遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉《とら》えて揶揄《からか》う。開港場でない堺の町人は、外国人に慣れぬので、驚き懼《おそ》れて逃げ迷い、戸を閉じて家に籠るものが多い。両隊長は諭《さと》して舟へ返そうと思ったが通弁がいない。手真似で帰れと云っても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にいた水兵を捉えて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。中の一人が、町家の戸口に立て掛けてあった隊旗を奪って駆けて往った。
両隊長は兵卒を率いて追い掛けた。脚《あし》の長い、駆歩《かけあし》に慣れたフランス人にはなかなか及ばない。水兵はもう端艇に乗り移ろうとする。この頃土佐の歩兵隊には鳶《とび》の者が附いていて、市中の廻番をするにも、それを四五人ずつ連れて行くことにしてあった。隊旗を持つのもこの鳶の者の役で、その中に旗持梅吉と云う鳶頭がいた。江戸で火事があって出掛けるのに、早足の馬の跡を一間とは後《おく》れぬという駆歩の達者である。この梅吉が隊の士卒を駆け抜けて、隊旗を奪って行く水兵に追い縋《すが》った。手に持った鳶口は風を切ってかの水兵の脳天に打ち卸《おろ》された。水兵は一声叫んで仰向に倒れた。梅吉は隊旗を取り返した。
これを見て端艇に待っていた水兵が、突然短銃で一斉射撃をした。
両隊長が咄嗟《とっさ》の間に決心して「撃て」と号令した。待ち兼ねていた兵卒は七十余|挺《ちょう》の銃口を並べ、上陸兵を収容している端艇を目当に発射した。六人ばかりの水兵はばらばらと倒れた。負傷して水に落ちたものもある。負傷せぬものも急に水中に飛び込んで、皆片手を端艇の舷《ふなばた》に掛けて足で波を蹴《けっ》て端艇を操りながら、弾丸《たま》が来れば沈んで避け、又浮き上がって汐を吐いた。端艇は次第に遠くなった。フランス水兵の死者は総数十三人で、内一人が下士であった。
そこへ杉が駆け付けた。そして射撃を止めて陣所へ帰れと命じた。両隊が陣所へ引き上げていると、隊長二人を軍監府から呼びに来た。なぜ上司の命令を待たずに射撃したかと杉に問われて、両隊長は火急の場合で命令を待つことが出来なかったと弁明した。勿論《もちろん》端艇から先ず射撃したので、これに応戦したのではあるが、土佐の士卒は初からフランス人に対して悪感情を懐《いだ》いていた。それは土佐人が松山藩を討つために錦旗を賜わって、それを本国へ護送する途中、神戸でフランス人がその一行を遮《さえぎ》り留め、朝廷と幕府との和親を謀《はか》るためだと通弁に云わせ、錦旗を奪おうとしたと云う話が伝わっていたからである。
杉は両隊長に言った。とにかくこうなった上は是非がない。軍艦の襲撃があるかも知れぬから、防戦の準備をせいと云った。そして報告のために生駒を外国事務係へ、下横目一人を京都の藩邸へ発足《ほっそく》させた。
両隊長は僅《わず》か二小隊の兵を以て軍艦を防げと云われて当惑したが、海岸へは斥候《せっこう》を出し、台場へは両隊から数人ずつ交代して守備に往くことにした。そこへこの土地に這入った時収容して遣《や》った幕府の敗兵が数十人来て云った。
「若しフランスの軍艦が来るようなら、どうぞわたくし共をお使下さい。砲台には徳川家の時に据《す》え付けた大砲が三十六門あって、今岸和田藩主岡部|筑前守長寛《ちくぜんのかみながひろ》殿の預りになっています。わたくし共はあれで防ぎます。あなた方は上陸して来る奴を撃って下さい」と云った。
両隊長はその人達を砲台へ遣った。そのうち岸和田藩からも砲台へ兵を出して、望遠鏡で兵庫方面を見張っていてくれた。
夜に入って港口へフランスの端艇が来たと云う知らせがあった。しかしその端艇は五六艘で、皆上陸せずに帰った。水兵の死体を捜索したのだろう。実際幾つか死体を捜し得て、載せて帰ったらしいと云うものもあった。
十六日の払暁に、外国事務係の沙汰《さた》で、土佐藩は堺表《さかいおもて》取締を免ぜられ、兵隊を引き払うことになった。軍監府はそれを取り次いで、両隊長に大阪蔵屋敷へ引き上げることを命じた。両隊長はすぐに支度して堺を立った。住吉街道を経て、大阪|御池通《みいけどおり》六丁目の土佐藩なかし商の家に着いたのは、未《ひつじ》の刻頃であった。
堺の軍監府から外国事務係へ報告に往った生駒静次は、口上を一通《ひととおり》聞き取られただけである。次いで外国事務係は堺にある軍監又は隊長の内一名出頭するようにと達した。杉が出頭した。すると大阪の土佐藩邸にいる石川石之助の出した堺事件の届書を返して、更に精《くわ》しく書き替えて出せと云うことである。杉は一応引き取って、両隊長署名の届書を出し、この上|御訊問《ごじんもん》の筋があるなら、本人に出頭させようと言い添えた。
十七日には、前日評議の末、京都の土佐藩邸から、家老山内|隼人《はいと》、大目附林亀吉、目附谷|兎毛《ともう》、下横目数人と長尾太郎兵衛の率いた京都詰の部隊とが大阪へ派遣せられた。この一行は夜に入って大阪に着いて、すぐに林が命令して、杉、生駒と両歩兵隊長とを長堀の土佐藩邸に徙《うつ》らせた。
十八日には、長尾太郎兵衛を以て、両歩兵隊長に勤事控を命じ、配下一同の出門を禁ぜられた。両隊長はこの事件の責を自分達二人で負って、自分達の命令を奉じて働いた配下に煩累《はんるい》を及ぼしたくないと、長尾に申し出た。両隊の兵卒一同は小頭《こがしら》池上|弥三吉《やさきち》、大石甚吉を以て、両隊長に勤事控の見舞を言わせた。両隊長は長尾に申し出た趣意を配下に諭《さと》した。
そのうち京都から土佐藩の歩兵三小隊が到着して、長堀の藩邸を警固して厳重に人の出入を誰何《すいか》することになった。
次いで前土佐藩主山内土佐守|豊信《とよしげ》の名代として、家老深尾|鼎《かなえ》が大目附小南五郎右衛門と共に到着した。これは大阪に碇泊《ていはく》しているフランス軍艦Venus[#「e」はアクサン(´)付き]《ヴェニュス》号から、公使Leon[#「e」はアクサン(´)付き]《レオン》 Roche《ロッシュ》が外国事務係へ損害要償の交渉をしたためである。公使の要求は直ちに朝議の容《い》るるところとなった。土佐藩主が自らヴェニュス号に出向いて謝罪することが一つ。堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、フランス人を殺害《せつがい》した隊の兵卒二十人を、交渉文書が京都に着いた後三日以内に、右の殺害を加えた土地に於《お》いて死刑に処することが二つ。殺害せられたフランス人の家族の扶助《ふじょ》料として、土佐藩主が十五万|弗《どる》を支払うことが三つである。この処置のためには、藩主は自ら大阪に来べきであったが病気のため家老を名代として派遣したのである。
深尾に附いて来た下横目は六番、八番両歩兵隊の士卒七十三人を、一人ずつ呼び出して堺で射撃したか、射撃しなかったかと訊問した。この訊問が殆《ほとん》ど士卒の勇怯《ゆうきょう》を試みると同じ事になったのは、人の弱点の然らしむるところで、実に已《や》むことを得ない。射撃したと答えたものが二十九人ある。六番隊では隊長|箕浦猪之吉《みのうらいのきち》、小頭池上弥三吉、兵卒杉本広五郎、勝賀瀬三六《しょうがせさんろく》、山本哲助、森本茂吉、北代《きただい》健助、稲田|貫之丞《かんのじょう》、柳瀬常七、橋詰愛平《はしづめあいへい》、岡崎栄兵衛、川谷《かわたに》銀太郎、岡崎多四郎、水野万之助、岸田勘平、門田|鷹太郎《たかたろう》、楠瀬《くすせ》保次郎、八番隊では隊長西村左平次、小頭大石甚吉、兵卒竹内民五郎、横田辰五郎、土居徳太郎、金田時治、武内弥三郎、栄田《さかえだ》次右衛門、中城|惇五郎《じゅんごろう》、横田静次郎、田丸勇六郎である。射撃しなかったと答えたものは六番隊の兵卒で浜田友太郎以下二十人、八番隊の兵卒で永野峰吉以下二十一人、計四十一人である。
十九日になって射撃しなかったと答えたものは、夜に入って御池六丁目の商家へ移され、用意が出来次第帰国させると言い渡された。これに反して射撃したと答えたものは銃器弾薬を返上して、預けの名目の下《もと》に、前に大阪に派遣せられた砲兵隊の監視を受けることになり、六番隊は従前の通長堀の本邸に、八番隊は西邸《にしやしき》に入れられた。
二十日には射撃しなかったと答えたものが、長堀藩邸の前から舟に乗った。後にこの人達は丸亀を経て、北山道を土佐に帰り着いた。そして数日間|遠足留《えんそくどめ》を命ぜられていたが、後には平常の通心得べしと云うことになった。射撃したと答えたものの所へは、砲隊組兵卒に下横目が附いて来て、佩刀《はいとう》を取り上げた。この人達の耳にも、死刑になると云う話がもう聞えたので、中には手を束《つか》ねて刃《やいば》を受けるよりは、寧《むしろ》フランス軍艦に切り込んで死のうと云ったものがある。これは八番隊の土居八之助が無謀だと云って留めた。それから一同刺し違えて死のうと云ったものがある。丁度そこへ佩刀を取り上げに来たので、今死なずにしまったら、もう死ぬることが出来まいと、中の数人は手を下そうとさえした。やはり八番隊の竹内民五郎がそれを留めて、思う旨があるから、指図通にするが好いと云いながら「我荷物の中に短刀二本あり」と、畳に指で書いて見せた。一同遂に佩刀を渡してしまった。
二十二日に、大目附小南が来て、六番、八番両隊の兵卒一同に、御隠居様から仰せ渡されることがあるから、すぐに大広間に出るようにと達した。御隠居様とは山内豊信が家督を土佐守|豊範《とよのり》に譲って容堂と名告《なの》った時からの称呼である。隊長、小頭の四人を除いて、二十五人が大広間に居並んだ。そこへ小南以下の役人が出て席に着いた。それから正面の金襖《きんぶすま》を開くと、深尾が出た。一同平伏した。
深尾は云った。
「これは御隠居様がお直《じき》に仰せ渡される筈《はず》であるが、御所労のため拙者が御名代として申し渡す。この度《たび》の堺事件に付、フランス人が朝廷へ逼《せま》り申すにより、下手人二十人差し出すよう仰せ付けられた。御隠居様に於いては甚だ御心痛あらせられる。いずれも穏に性命を差し上げるようとの仰せである」言い畢《おわ》って、深尾は起って内に這入った。
次に小南が藩主豊範の命を伝えた。
「この度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いて好いか分からぬ。一同|稲荷社《いなりしゃ》に詣《まい》って神を拝し、籤引《くじびき》によって生死《しょうし》を定めるが好い。白籤に当ったものは差し除かれる。上裁を受ける籤に当ったものは死刑に処せられる。これから神前へ参れ」と云うのである。
二十五人は御殿から下って稲荷社に往った。社壇の鈴の下に、小南が籤を持って坐る。右手には目附が一人控える。階前には下横目が二人名簿を持って立つ。社壇の前数十歩の所には、京都から来た砲兵隊と歩兵隊とが整列している。小南が指図すると、下横目が名簿を開いて、二十五人の姓名を一人ずつ読む。そこで一人ずつ出て籤を引いて、披《ひら》いて見て、それを下横目に渡す。下横目が点検する。この時|参詣《さんけい》に来合せたものは、初《はじめ》何事かと恠《あやし》み、ようよう籤引の意味を知って、皆ひどく感動し、中には泣いているものもある。
上裁を受ける籤を引いたものは、六番隊で杉本、勝賀瀬、山本、森本、北代、稲田、柳瀬、橋詰、岡崎栄兵衛、川谷の十人、八番隊で竹内、横田辰五郎、土居、垣内《かきうち》、金田、武内の六人、計十六人で、これに隊長、小頭各二人を加えると、二十人になる。白籤を引いたものは六番隊で岡崎多四郎以下五人、八番隊で栄田次右衛門以下四人である。
籤引が済んで一同御殿に引き取ると、白籤組の内、八番隊の栄田次右衛門以下四人、即《すなわ》ち栄田、中城、横田静次郎、田丸が連署の願書を書いて出した。自分等は籤引によって生死の二組に分れたが、初より同腹一心の者だから、一同上裁を受ける籤に当ったと同様の処置を仰せ付けられたいと云うのである。願書は人数が定まっているからと云うので、そのまま却下せられた。
所謂《いわゆる》上裁籤の組十六人は箕浦、西村両隊長、池上、大石両小頭と共に、引き纏《まと》めて本邸に留め置かれることになった。白籤組はすぐに隊籍を除かれて、土佐藩兵隊中に預けられ、別室に置かれた。数日の後に、白籤組には堺表より船牢《ふねろう》を以て国元へ差し下すと云う沙汰があって、下横目が附いて帰国し、各親類預けになったが、間もなく以後別儀なく申し付けると達せられた。
夜に入って上裁籤の組は、皆国元の父母兄弟その他|親戚《しんせき》故旧に当てた遺書を作って、髻《もとどり》を切ってそれに巻き籠め、下横目に差し出した。
そこへ藩邸を警固している五小隊の士官が、酒肴《しゅこう》を持たせて暇乞《いとまごい》に来た。隊長、小頭、兵卒十六人とは、別々に馳走《ちそう》になった。十六人は皆酔い臥《ふ》してしまった。
中に八番隊の土居八之助が一人酒を控えていたが、一同|鼾《いびき》をかき出したのを見て、忽《たちま》ち大声で叫んだ。
「こら。大切な日があすじゃぞ。皆どうして死なせて貰《もら》う積じゃ。打首になっても好いのか」
誰やら一人腹立たしげに答えた。
「黙っておれ。大切な日があすじゃから寐《ね》る」
この男はまだ詞《ことば》の切れぬうちに、又鼾をかき出した。
土居は六番隊の杉本の肩を掴《つか》まえて揺り起した。
「こら。どいつも分からんでも、君には分かるだろう。あすはどうして死ぬる。打首になっても好いのか」
杉本は跳《は》ね起きた。
「うん。好く気が附いた。大切な事じゃ。皆を起して遣ろう」
二人は一同を呼び起した。どうしても起きぬものは、肩を掴まえてこづき廻した。一同目を醒《さ》まして二人の意見を聞いた。誰一人成程と承服せぬものはない。死ぬるのは構わぬ。それは兵卒になって国を立った日から覚悟している。しかし耻辱《ちじょく》を受けて死んではならぬ。そこで是非切腹させて貰おうと云うことに、衆議一決した。
十六人は袴《はかま》を穿《は》き、羽織を着た。そして取次役の詰所へ出掛けて、急用があるから、奉行衆《ぶぎょうしゅう》に御面会を申し入れて貰いたいと云った。
取次役は奥の間へ出入して相談する様子であったが、暫《しばら》くして答えた。
「折角の申出ではあるが、それは相成らぬ。おのおのはお構《かまい》の身分じゃ。夜中に推参して、奉行衆に逢いたいと云うのは宜しくない」と云うのである。十六人はおこった。
「それは怪《け》しからん。お構の身とは何事じゃ。我々は皇国のために明日一命を棄てる者共じゃ。取次をせぬなら、頼まぬ。そこを退け。我々はじきに通る」
一同は畳を蹴立《けた》てて奥の間へ進もうとした。
奥の間から声がした。
「いずれも暫く控えておれ。重役が面会する」と云うのである。
襖《ふすま》をあけて出たのは、小南、林と下横目数人とである。
一同礼をした上で、竹内が発言した。
「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。しかし堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑と云う名目《みょうもく》には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りとうございます」
聞いているうちに、小南の額には皺《しわ》が寄って来た。小南は土居の詞の畢《おわ》るのを待って、一同を睨《にら》み付けた。
「黙れ。罪科のないものを、なんでお上で死刑に処せられるものか。隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのじゃ」
竹内は少しも屈しない。
「いや。それは大目付のお詞とも覚えませぬ。兵卒が隊長の命令に依って働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人一人理非を考えたら、戦争は出来ますまい」
竹内の背後《うしろ》から一人二人|膝《ひざ》を進めたものがある。
「堺での我々の挙動には、功はあって罪はないと、一同確信しております。どう云う罪に当ると云う思召か。今少し委曲《いきょく》に御示下さい」
「我々も領解《りょうかい》いたし兼ねます」
「我々も」
一同の気色《けしき》は凄《すさま》じくなって来た。
小南は色を和《やわら》げた。
「いや。先の詞は失言であった。一応評議した上で返事をいたすから、暫く控えておれ」
こう云って起って、奥に這入った。
一同奥の間を睨んで待っていたが、小南はなかなか出て来ない。
「どうしたのだろう」
「油断するな」
こんなささやきが座中に聞える。
良《やや》暫くして小南が又出た。そして頗《すこぶ》る荘重な態度で云った。
「只今のおのおのの申条[#「おのおのの申条」は底本では「おのおの申条」と誤記]《もうしじょう》を御名代に申し上げた。それに就いて御沙汰があるから承れ。抑々《そもそも》この度の事件では、お上御両所共非常な御心痛である。太守様は御不例の所を、押して長髪のまま大阪へお越になり、直ちにフランス軍艦へ御挨拶にお出になって、そのまま御帰国なされた。君|辱《はずか》しめらるれば臣死すとも申すではないか。おのおの御沙汰を承った上で、仰せ付けられた通、穏かに振舞ったら宜しかろう。これから御沙汰じゃ。この度堺表の事件に就いては、外国との交際を御一新あらせられる折柄、公法に拠って御処置あらせられる次第である。即ち明日堺表に於て切腹仰せ付けられる。いずれも皇国のためを存じ、難有くお受いたせ。又歴々のお役人、外国公使も臨場せられる事であるから、皇国の士気を顕《あらわ》すよう覚悟いたせ」
小南は沙汰書を取り出して見ながら、こう演説した。太守様と云ったのは、当主土佐守豊範を斥《さ》したのである。
十六人は互に顔を見合せて、微笑を禁じ得なかった。竹内は一同に代って答えた。
「恩命難有くお受いたします。それに就いて今一箇条お願申し上げたい事がございます。これは手順を以て下横目へ申し立つべき筋ではございますが、御重役御出席中の事ゆえ、今生《こんじょう》の思出にお直《じき》に申し上げます。只今の御沙汰によれば、お上に置かせられても、我々の微衷《びちゅう》をお酌取《くみとり》下されたものと存じます。然らば我々一同には今後士分のお取扱いがあるよう、遺言同様の儀なれば、是非共お聞済下さるようにお願いいたします」
小南は暫く考えて云った。
「切腹を仰せ付けられたからは、一応|尤《もっと》もな申分のように存ずる。詮議《せんぎ》の上で沙汰いたすから、暫時《ざんじ》控えておれ」
こう云って再び座を起った。
又良暫くしてから、今度は下横目が出て云った。
「出格の御詮議を以て、一同士分のお取扱いを仰せ付けられる。依って絹服《けんぷく》一重《ひとかさね》ずつ下し置かれる」
こう言って目録を渡した。
一同目録を受け取って下がりしなに、隊長、小頭の所に今夜の首尾を届けに立ち寄った。隊長等も警固隊の士官に馳走せられて快よく酔って寐ていたが、配下の者共が打ち揃《そろ》って来たので、すぐに起きて面会した。十六人は隊長、小頭と引き分けられてから、今夜まで一度も逢う機会がなかったが、大目付との対談の甲斐があって、切腹を許され、士分に取り立てられ、今は誰も行住動作に喙《くちばし》を容れるものがないので、公然立ち寄ることが出来たのである。
隊長、小頭は配下一同の話を聞いて、喜びかつ悲んだ。悲んだのは、四人が自分達の死を覚悟していながら、二十人の死をフランス公使に要求せられたと云うことを聞《きか》せられずにいたので、十六人の運命を始めて知って悲んだのである。喜んだのは、十六人が切腹を許され、士分に取り立てられたのを喜んだのである。隊長、小頭の四人と配下の十六人とは、まだ夜の明けるに間があるから、一寐入《ひとねいり》して起きようと云うので、快よく別れて寝床に這入《はい》った。
二十三日は晴天であった。堺へ往く二十人の護送を命ぜられた細川|越中守慶順《えっちゅうのかみよしゆき》の熊本藩、浅野|安芸守茂長《あきのかみしげなが》の広島藩から、歩兵三百余人が派遣せられて、未明に長堀土佐藩邸の門前に到着した。邸内では二十人に酒肴《しゅこう》を賜わった。両隊長、小頭は大抵新調した衣袴《いこ》を着け、爾余《じよ》の十六人は前夜頂戴した絹服を纏った。佩刀は邸内では渡されない。切腹の場所で渡される筈である。
一同が藩邸の玄関から高足駄《たかあしだ》を踏み鳴らして出ると、細川、浅野両家で用意させた駕籠《かご》二十挺を舁《か》き据えた。一礼してそれに乗り移る。行列係が行列を組み立てる。先手《さきて》は両藩の下役人数人で、次に兵卒数人が続く。次は細川藩の留守居馬場彦右衛門、同藩の隊長山川亀太郎、浅野藩の重役渡辺|競《きそう》の三人である。陣笠|小袴《こばかま》で馬に跨《またが》り、持鑓《もちやり》を竪《た》てさせている。次に兵卒数人が行く。次に大砲二門を挽《ひ》かせて行く。次が二十挺の駕籠である。駕籠一挺毎に、装剣の銃を持った六人の兵が附く。二十挺の前後は、同じく装剣の銃を持った兵が百二十人で囲んでいる。後押《あとおさえ》は銃を負った騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯《たかはりぢょうちん》各十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後に少し距離を取って、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径|凡《およ》そ五丁である。
長堀を出発して暫く進んでから、山川亀太郎が駕籠に就いて一人々々に挨拶して、箕浦の駕籠に戻ってからこう云った。
「狭い駕籠で、定めて窮屈でありましょう。その上長途の事ゆえ、簾《すだれ》を垂れたままでは、鬱陶《うっとう》しく思われるでありましょう。簾を捲かせましょうか」と云った。
「御厚意|忝《かたじけの》う存じます。差構《さしかまい》ない事なら、さよう願いましょう」と、箕浦が答えた。
そこで駕籠の簾は総て捲き上げられた。
又暫く進むと、山川が一人々々の駕籠に就いて、
「茶菓の用意をしていますから、お望の方に差し上げたい」と云った。
両藩の二十人に対する取扱は、万事非常に鄭重《ていちょう》なものである。
住吉|新慶町《しんけいまち》辺に来ると、兼《かね》て六番、八番の両隊が舎営していたことがあるので、路傍に待ち受けて別《わかれ》を惜むものがある。堺の町に入れば、道の両側に人山《ひとやま》を築いて、その中から往々|欷歔《すすりなき》の声が聞える。群集を離れて駕籠に駆け寄って、警固の兵卒に叱られるものもある。
切腹の場所と定められたのは妙国寺《みょうこくじ》である。山門には菊御紋の幕を張り、寺内には総て細川、浅野両家の紋を染めた幕を引き繞《めぐ》らし、切腹の場所は山内家の紋を染めた幕で囲んである。門内に張った天幕の内には、新しい筵《むしろ》が敷き詰めてある。
行列が妙国寺門前に着くと、駕籠を門内天幕の中に舁き入れて、筵の上に立て並べた。次いで両藩士が案内して、駕籠は内庭へ舁き入れられ、本堂の縁に横付にせられた。
二十人は駕籠を出て、本堂に居並んだ。座の周囲《まわり》には、両藩の士卒が数百人詰めていて、二十人の中一人が座を起てば、四人が取り巻いて行く。二十人は皆平常のように談笑して、時刻の来るのを待っていた。
この時両藩の士の中に筆紙墨《ひっしぼく》を用意していたものがある。それが二十人の首席にいる箕浦の前に来て、後日の記念に何か一筆願いたいといった。
元六番歩兵隊長箕浦猪之吉は、源姓《みなもとせい》、名は元章《げんしょう》、仙山《せんざん》と号している。土佐国土佐郡|潮江《うしおえ》村に住んで五人扶持、十五石を受ける扈従格《こじゅうかく》の家に、弘化元年十一月十一日に生れた。当年二十五歳である。祖父忠平、父を万次郎と云う。母は依田氏、名は梅である。安政四年に江戸に遊学し、万延元年には江戸で容堂侯の侍読になり、同じ年に帰国して文館の助教に任ぜられた。次いで容堂侯の扈従を勤めて、七八年経過し、馬廻格《うままわりかく》に進んだ。それが藩の歩兵小隊司令を命ぜられたのは、慶応三年十一月で、僅《わず》か三箇月勤めているうちに、堺の事件が起った。そういう履歴の人だから、箕浦は詩歌の嗜《たしみ》もあり、書は草書を立派に書いた。
文房具を前に置かれた時、箕浦は、
「甚だ見苦しゅうはございまするが」と挨拶して、腹稾《ふっこう》[#底本では「稾」の「禾」の部分が「木」、昭和60年5月20日36刷改版から「稾」をそのまま使用しているため、このまま「稾」を採用]の七絶を書いた。
「除却妖氛答国恩《ようふんをじょきゃくしこくおんにこたう》。決然豈可省人言《けつぜんあにじんげんをせいすべけんや》。唯教大義伝千載《ただたいぎをしてせんざいにつたえしむ》。一死元来不足論《いっしがんらいろんずるにたらず》」攘夷はまだこの男の本領であったのである。
二十人が暫《しばら》く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓《ざっとう》である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂《かねつきどう》には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。
「坊様達、少し退《の》いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間《なかま》には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木《しゅもく》を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋《すが》った。
「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」
「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」
垣内と僧侶とは揉《も》み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。
「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。
「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷《や》める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。垣内を留めた中間の一人が懐《ふところ》を探って、
「ここに少し金がある、もはや用のない物じゃ、死んだ跡にお世話になるお前様方に献じましょう」と云って、僧侶に金をわたした。垣内と僧侶との争論を聞き付けて、次第に集って来た中間が、
「ここにもある」
「ここにも」と云いながら、持っていただけの金銭を出して、皆僧侶の前に置いた。中には、
「拙者は冥福《みょうふく》を願うのではないが」と、条件を附けて置くものもあった。僧侶は金を受けて鐘撞堂を下った。
人々は鐘撞堂を降りて、
「さあ、これから切腹の場所を拝見して置こうか」と、幔幕《まんまく》で囲んだ中へ這入り掛けた。細川藩の番士が、
「それはお越《こし》にならぬ方が宜しゅうございましょう」と云って留めた。
「いや、御心配御無用、決して御迷惑は掛けません」と言い放って、一同幕の中に這入った。
場所は本堂の前の広庭である。山内家の紋を染めた幕を引き廻した中に、四本の竹竿《たけざお》を竪《た》てて、上に苫《とま》が葺《ふ》いてある。地面には荒筵《あらむしろ》二枚の上に、新しい畳二枚を裏がえしに敷き、それを白木綿で覆《おお》い、更に毛氈《もうせん》一枚を襲《かさ》ねてある。傍に毛氈が畳んだままに積み上げてあるのは、一人々々取り替えるためであろう。入口の側に卓《つくえ》があって、大小が幾組も載せてある。近づいて見れば、長堀の邸《やしき》で取り上げられた大小である。
人々は切腹の場所を出て、序《ついで》に宝珠院《ほうじゅいん》の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶《おおがめ》が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼《は》ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。
「君と僕とは生前にも寝食を倶《とも》にしていたが、見れば瓶《かめ》も並べてある。死んでからも隣同士話が出来そうじゃ」と云った。
土居は忽ち身を跳《おど》らせて瓶の中に這入って叫んだ。
「横田君々々々。なかなか好い工合じゃ」
竹内が云った。
「気の早い男じゃ。そう急がんでも、じきに人が入れてくれる。早く出て来い」
土居は瓶から出ようとするが、這入る時とは違って、瓶の縁は高し、内面はすべるので、なかなか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。
二十人は本堂に帰った。そこには細川、浅野両藩で用意した酒肴《しゅこう》が置き並べてある。給仕には町から手伝人が数十人来ている。一同挨拶して杯を挙げた。前に箕浦に詩を貰った人を羨《うらや》んで、両藩の士卒が争って詩歌を求め、或は記念として身に附いた品を所望する。人々はかわるがわる筆を把《と》った。又記念に遣る物がないので、襟《えり》や袖《そで》を切り取った。
切腹はいよいよ午《うま》の刻からと定められた。
幕の内へは先ず介錯人《かいしゃくにん》が詰めた。これは前晩大阪長堀の藩邸で、警固の士卒が二十人のものに馳走をした時、各相談して取り極《き》めたのである。介錯人の姓名は、元六番隊の方で箕浦のが馬淵《まぶち》〔馬場〕桃太郎[#24刷時点では「〔場〕桃太郎」だが、63刷時点では「〔馬場〕桃太郎」に修正されている]、池上のが北川礼平、杉本のが池七助、勝賀瀬のが吉村材吉、山本のが森常馬、森本のが野口喜久馬、北代のが武市助吾、稲田のが江原源之助、柳瀬のが近藤茂之助、橋詰のが山田安之助、岡崎のが土方要五郎、川谷のが竹本謙之助、元八番隊の方で、西村のが小坂乾、大石のが落合源六、竹内のが楠瀬柳平、横田のが松田八平次、土居のが池七助、垣内のが公文左平、金田のが谷川新次、武内のが北森貫之助である。中で池七助は杉本と土居との二人を介錯する筈である。いずれも刀の下緒《さげお》を襷《たすき》にして、切腹の座の背後《うしろ》に控えた。
幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。
臨検の席には外国事務総裁|山階宮《やましなのみや》を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几《しょうぎ》に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随《したが》えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡《いなば》、備前《びぜん》等の諸藩からも役人が列席している。
用意の整ったことを、細川、浅野の藩士が二十人のものに告げる。二十人のものは本堂の縁から駕籠に乗り移る。駕籠の両側には途中と同じ護衛が附く。駕籠は幕の外に立てられる。呼出の役人が名簿を繰り開いて、今首席のものの名を読み上げようとする。
この時天が俄《にわか》に曇って、大雨が降って来た。寺の内外に満ちていた人民は騒ぎ立って、檐下《のきした》木蔭に走り寄ろうとする。非常な雑沓である。
切腹は一時見合せとなって、総裁宮始、一同屋内に雨を避けた。雨は未《ひつじ》の刻に歇《や》んだ。再度の用意は申《さる》の刻に整った。
呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮《しずま》った。箕浦は黒羅紗《くろらしゃ》の羽織に小袴《こばかま》を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手《めて》に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己《おれ》は汝等《うぬら》のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手《さかて》に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口《きずぐち》は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、184-4]し込んで、大網《だいもう》を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨《にら》み付けた。
馬場が刀を抜いて項《うなじ》を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
馬場の二の太刀は頸椎《けいつい》を断って、かっと音がした。
箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭《きょうがい》と畏怖《いふ》とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所《おきどころ》に迷った。
馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜《おと》した。
次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同《うじあつ》。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕《ぼたん》を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩《ゆるや》かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌《あわ》てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。
次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立った大男である。先ず両手で腹を二三度|撫《な》でた。それから刀を取って、右手で左の脇腹を突き刺し、左手《ゆんで》で刀背《とうはい》を押して切り下げ、右手に左手を添えて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至った時、更に左手で刀背を押して切り上げた。それから刀を座右に置いて、両手を張って、「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損《しそん》じて、七太刀目に首を墜した。切腹の刀の運びがするすると渋滞なく、手際の最も立派であったのは、この大石である。
これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので腸《はらわた》が創口から溢《あふ》れて出た。
次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺《あたり》が昏《くら》くなって、本堂には燈明が附いた。
フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執《と》って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉《ことごと》く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁《ほうよう》した兵卒は駆歩《かけあし》に移って港口へ走った。
切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細《しさい》を話した。
とても死ぬるものなら、一思《ひとおもい》に死んでしまいたいと云う情に、九人が皆支配せられている。留められてもどかしいと感ずると共に、その留めた人に打《ぶ》っ附かって何か言いたい。理由を問うて見たい。一同小南の控所に往って、橋詰が口を開いた。
「我々が朝命によって切腹いたすのを、何故にお差留になりましたか。それを承りに出ました」
小南は答えた。
「その疑は一応|尤《もっとも》であるが切腹にはフランス人が立ち会う筈《はず》である。それが退席したから、中止せんではならぬ。只今薩摩、長門、因幡、備前、肥後、安芸七藩の家老方がフランス軍艦に出向かわれた。姑《しばら》く元の席に帰って吉左右《きっそう》を待たれい」
九人は是非なく本堂に引き取った。細川、浅野両藩の士《さむらい》が夕食の膳を出して、食事をする気にはなられぬと云う人々に、強《し》いて箸《はし》を取らせ、次いで寝具を出して枕に就かせた。子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳《は》ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概《おおむ》ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質《ただ》した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹《さんたん》たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。明朝は伊達少将の手を経て朝旨《ちょうし》を伺うことになるだろう。いずれも軽挙|妄動《もうどう》することなく、何分の御沙汰を待たれいと云うのである。九人は謹んで承服した。
中一日置いて二十五日に、両藩の士が来て、九人が大阪表へ引上げることになったこと、それから六番隊の橋詰、岡崎、川谷は安芸藩へ、八番隊の竹内、横田、土居、垣内、金田、武内は肥後藩へ預けられたことを伝えた。九挺の駕籠は寺の広庭に舁《か》き据えられた。一同駕籠に乗ろうとする時、橋詰が自ら舌を咬《か》み切って、口角から血を流して倒れた。同僚の潔く死んだ後に、自分の番になって故障の起ったのを遺憾だと思ったのである。幸に舌の創は生命を危くする程のものではなかったが、浅野家のものは再び変事の起らぬうちに、早く大阪まで引き上げようと思って、橋詰以下三人の乗った駕籠を、早追の如くに急がせた。細川家のものが声を掛けて、歩度を緩《ゆる》めさせようとしたが、浅野家のものは耳にも掛けない。とうとう細川家のものも駆足になった。
大阪に着くと、九挺の駕籠が一旦長堀の土佐藩邸の前に停められた。小南が門前に出て、橋詰に説諭した。そこから両藩のものが引き分れて、各《おのおの》預けられた人達を連れて帰った。橋詰には医者が附けられ、又土佐藩から看護人が差し添えられた。
九人のものは細川、浅野両家で非常に優待せられた。中にも細川家では、元禄年中に赤穂浪人を預り、万延元年に井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を刺した水戸浪人を預り、今度で三度目の名誉ある御用を勤めるのだと云って、鄭重《ていちょう》の上にも鄭重にした。新調した縞《しま》の袷《あわせ》を寝衣《ねまき》として渡す。夜具は三枚布団で、足軽が敷畳をする。隔日に据風呂《すえふろ》が立つ。手拭と白紙とを渡す。三度の食事に必ず焼物付の料理が出て、隊長が毒見をする。午後に重詰の菓子で茶を出す。果物が折々出る。便用には徒士《かち》二三人が縁側に出張る。手水《ちょうず》の柄杓《ひしゃく》は徒士が取る。夜は不寝番《ねずばん》が附く。挨拶に来るものは縁板に頭を附ける。書物を貸して読ませる。病気の時は医者を出して、目前で調合し、目前で煎《せん》じさせる。凡そこう云う扱振である。
三月二日に、死刑を免じて国元へ指返《さしかえ》すと云う達しがあった。三日に土佐藩の隊長が兵卒を連れて、細川、浅野両藩にいる九人のものを受取りに廻った。両藩共|七菜《しちさい》二《に》の膳附の饗応《きょうおう》をして別を惜んだ。十四日に、九人のものは下横目一人宰領二人を附けられて、木津川口から舟に乗り込み、十五日に、千本松を出帆し、十六日の夜なかに浦戸《うらど》の港に着いた。十七日に、南会所をさして行くに、松が鼻から西、帯屋町までの道筋は、堺事件の人達を見に出た群集で一ぱいになっている。南会所で、下横目が九人のものを支配方に引き渡し、支配方は受け取って各自の親族に預けた。九人のものはこの時一旦|遺書《ゆいしょ》遺髪《ゆいはつ》を送って遣《や》った父母妻子に、久し振の面会をした。
五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は巳《み》の刻、実父又は実子のあるものは、その実父、実子も巳の刻半に出頭すべしと云うのである。南会所では目附の出座があって、下横目が三箇条の達しをした。扶持切米《ふちきりまい》召し放され、渡川限《わたりかわかぎり》西へ流罪《るざい》仰せ付けられる。袴刀《はかまかたな》のままにて罷《まか》り越して好いと云うのが一つ。実子あるものは実子を兵卒に召し抱え、二人扶持切米四石を下し置かれると云うのが二つ。実子のないものは配処に於いて介補《かいほ》として二人扶持を下し置かれ、幡多《はた》中村の蔵から渡し遣《つか》わされると云うのが三つである。九人のものは相談の上、橋詰を以て申し立てた。我々はフランス人の要求によって、国家の為めに死のうとしたものである。それゆえ切腹を許され、士分《さむらいぶん》の取扱を受けた。次いでフランス人が助命を申し出たので、死を宥《なだ》められた。然れば無罪にして士分の取扱をも受くべき筈である。それを何故に流刑に処せられるか、その理由を承らぬうちは、輒《たやす》くお請《うけ》が出来難いと云うのである。目附は当惑の体で云った。不審は最《もっとも》である。しかしこの度の流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる御処分であろう。枉《ま》げてお請をせられたいと云った。九人のものは苦笑して云った。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。その苦痛に準ずると云われては、論弁すべき詞《ことば》がない。一同お請いたすと云った。
九人のものは流人として先例のない袴着帯刀《はかまぎたいとう》の姿で出立したが、久しく蟄居《ちっきょ》して体《からだ》が疲れていたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗った。配所は幡多郡入田村《はたごおりにゅうたむら》である。庄屋|宇賀祐之進《うがすけのしん》の取計《とりはからい》で、初は九人を一人ずつ農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空屋に八人を合宿させた。横田一人は西へ三里隔たった有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取った。
九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会《ほうえ》を行って、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読《そどく》を授け、土居、武内は撃剣を教え、その他の人々も思い思いに諸芸の指南をした。
入田村は夏から秋に掛けて時疫《じえき》の流行する土地である。八月になって川谷、横田、土居の三人が発熱した。土居の妻は香美郡夜須村《かがみごおりやすむら》から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、僅《わず》かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。この二人は次第に恢復《かいふく》に向ったのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期《いちご》として病死した。
十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当《あたられ》、思召帰住御免《おぼしめしきじゅうごめん》之上、兵士|某《なにがし》父に被仰付《おおせつけられ》、以前之年数被継遣之《いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる》」と云う申渡《もうしわたし》があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦《とくしゃ》を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰《さた》は終《つい》に無かった。
妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭《かしら》に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶《おおがめ》が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶《かめ》を「生運様《いきうんさま》」と云って参詣《さんけい》するものが迹《あと》を絶たない。
十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男|楠吉《くすきち》に家名を立てさせ、三等|下席《かせき》に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。
西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父|克平《かつへい》が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族|筧氏《かけいうじ》から養子が来た。
小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日発行
1979(昭和54)年8月15日24刷
入力:j_sekikawa
校正:小林繁雄
2001年3月12日公開
2001年6月30日修正
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