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舞姫
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)熾熱燈《しねつとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)豫備|黌《くわう》に
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]《まど》に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すが/\しくも
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石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌《かるた》仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。
五年前の事なりしが、平生《ひごろ》の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで來し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、當時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉《をさな》き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記《にき》ものせむとて買ひし册子もまだ白紙のまゝなるは、獨逸にて物學びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の氣象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
げに東《ひんがし》に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感觸を、筆に寫して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
嗚呼、フリンヂイシイの港を出でゝより、早や二十日あまりを經ぬ。世の常ならば生面の客にさへ交を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習なるに、微恙《びやう》にことよせて房《へや》の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭のみ惱ましたればなり。此恨は初め一抹の雲の如く我心を掠めて、瑞西《スヰス》の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸《はらわた》日ごとに九廻すともいふべき慘痛をわれに負はせ、今は心の奧に凝り固まりて、一點の翳とのみなりたれど、文讀むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、聲に應ずる響の如く、限なき懷舊の情を喚び起して、幾度となく我心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨を銷《せう》せむ。若し外の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すが/\しくもなりなむ。これのみは餘りに深く我心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴の來て電氣線の鍵を捩るには猶程もあるべければ、いで、其概略を文に綴りて見む。
余は幼き比《ころ》より嚴しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、學問の荒み衰ふることなく、舊藩の學館にありし日も、東京に出でゝ豫備|黌《くわう》に通ひしときも、大學法學部に入りし後も、太田豐太郎といふ名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には學士の稱を受けて、大學の立ちてよりその頃までにまたなき名譽なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、樂しき年を送ること三とせばかり、官長の覺え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰《こ》えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々と家を離れてベルリンの都に來ぬ。
余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉《ヰルヘルム》一世の街に臨める※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]《まど》に倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍《かほよ》き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青《チヤン》の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多《あまた》の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑《いとま》なきも宜《うべ》なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。
余が鈴索《すずなは》を引き鳴らして謁を通じ、おほやけの紹介状を出だして東來の意を告げし普魯西《プロシヤ》の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく濟みたらましかば、何事にもあれ、教へもし傳へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里にて、獨逸、佛蘭西の語を學びしことなり。彼らは始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは學び得つると問はぬことなかりき。
さて官事の暇あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大學に入りて政治學を修めむと、名を簿册に記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも濟みて、取調も次第に捗り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば寫し留めて、つひには幾卷をかなしけむ。大學のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵《かうえん》に列ることにおもひ定めて、謝金を收め、往きて聽きつ。
かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時來れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に從ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず學びし時より、官長の善き働き手を得たりと奬《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大學の風に當りたればにや、心の中なにとなく妥《おだやか》ならず、奧深く潜みたりしまことの我は、やう/\表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳《そらん》じて獄を斷ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
余は私《ひそか》に思ふやう、我母は余を活きたる辭書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辭書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目に※[#「てへん+勾」、第3水準1-84-72]《かかづら》ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼《か》む境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比《ひごろ》伯林《ベルリン》の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。
彼人々は余が倶に麥酒の杯をも擧げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに歸して、且は嘲り且は嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歡《ねむ》といふ木の葉に似て、物觸れば縮みて避けんとす。我心は處女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ。餘所に心の亂れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇氣ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有爲の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横濱を離るゝまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纒ひ、珈琲店に坐して客を延《ひ》く女を見ては、往きてこれに就かん勇氣なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇氣なし。此等の勇氣なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の疎きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。これぞ余が寃罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閲《けみ》し盡す媒《なかだち》なりける。
或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄《おばしま》に干したる敷布、襦袢《はだぎ》などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太《ユダヤ》教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯《はしご》は直ちに樓《たかどの》に達し、他の梯は窖《あなぐら》住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目《まみ》の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
彼は料《はか》らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覺えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人《よそひと》は、却りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大膽なるに呆れたり。
彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が眞率なる心や色に形《あら》はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。
「我を救ひ玉へ、君。わが耻なき人とならんを。母はわが彼の言葉に從はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56]《かな》はぬに、家に一錢の貯だになし。」
跡は欷歔《ききよ》の聲のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項《うなじ》にのみ注がれたり。
「君が家に送り行かんに、先づ心を鎭め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覺えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。
人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、缺け損じたる石の梯《はしご》あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。少女は※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]《さ》びたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯《しはが》れたる老媼《おうな》の聲して、「誰《た》ぞ」と問ふ。エリス歸りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髮、惡しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獸綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。エリスの余に會釋して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。
余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈《ラムプ》の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて余を迎へ入れつ。戸の内は厨にて、右手《めて》の低き※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]に、眞白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手《ゆんで》には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この處は所謂「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき處に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二卷と寫眞帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ價高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞《はぢ》を帶びて立てり。
彼は優れて美なり。乳の如き色の顏は燈火に映じて微紅を潮したり。手足の纖く※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-74]《たをやか》なるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でし跡にて、少女は少し訛りたる言葉にて言ふ。「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬《はふり》、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、早や二年なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を拆きて還し參らせん、縱令《よしや》我身は食はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
我が隱しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね來ん折には價を取らすへきに。」
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辭別《わかれ》のために出したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の背《そびら》に濺ぎつ。
嗚呼、何等の惡因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我僑居に來し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》する我讀書の※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]下に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余を以て色を舞姫の群に漁するものとしたり。われ等二人の間にはまだ癡※[#「馬+埃のつくり」、第3水準1-94-13]《ちがい》なる歡樂のみ存じたりしを。
その名を斥《さ》さんは憚あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡※[#二の字点、1-2-22]芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許に報じつ。さらぬだに余が頗る學問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に傳へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を傳ふる時余に謂ひしは、御身若し即時に郷に歸らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶豫を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤も悲痛を覺えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り來て筆の運を妨ぐればなり。
余とエリスとの交際は、この時までは餘所目に見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに應じて、この耻づかしき業を教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが當世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、晝の温習、夜の舞臺と緊《きび》しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纒へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦|奈何《いかに》ぞや。されば彼等の仲間にて、賤しき限りなる業に墮ちぬは稀なりとぞいふなる。エリスがこれを※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れしは、おとなしき性質と、剛氣ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書《ふみ》を讀みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に關りしを包み隱しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを祕め玉へと云ひぬ。こは母の余が學資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。
嗚呼、委《くはし》くこゝに寫さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横りて、洵《まこと》に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹《そし》る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我|數奇《さくき》を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ。
公使に約せし日も近づき、我命はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、學成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、學資を得べき手だてなし。
此時余を助けしは今我同行の一人なる相澤謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の祕書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治學藝の事などを報道せしむることとなしつ。
社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家をもうつし、午餐《ひるげ》に往く食店《たべものみせ》をもかへたらんには、微なる暮しは立つべし。兎角思案する程に、心の誠を顯はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの收入を合せて、憂きがなかにも樂しき月日を送りぬ。
朝の※[#「口+加」、第3水準1-14-93]※[#「口+非」、第4水準2-4-8]果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を讀み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截《き》り開きたる引※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などゝ臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て來る一盞《ひとつき》の※[#「口+加」、第3水準1-14-93]※[#「口+非」、第4水準2-4-8]の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに挿みたるを、幾種となく掛け聨《つら》ねたるかたへの壁に、いく度となく往來する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。
我學問は荒みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅《いす》に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令條目の枯葉を紙上に掻寄せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文學美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを學びて思を構へ、樣々の文を作りし中にも、引續きて維廉《ヰルヘルム》一世と佛得力《フレデリツク》三世との崩※[#「歹+且」、第3水準1-86-38]《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何などの事に就ては、故らに詳かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ藏書を繙《ひもと》き、舊業をたづぬることも難く、大學の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を收むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聽くことは稀なりき。
我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。
明治廿一年の冬は來にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、※[#「金+挿のつくり」、10-上-12]《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹|坎※[#「土へん+可」、第3水準1-15-40]《かんか》の處は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北歐羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺にて卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、惡阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐵爐の畔に椅子さし寄せて言葉|寡《すくな》し。この時戸口に人の聲して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝも披《ひら》きて讀めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に關する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相澤が、大臣と倶にこゝに來てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かはゆき獨り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が爲めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣を更《あらた》め玉ふを見れば、何となくわが豐太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣《のたま》ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道を※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]の下まで來ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して樓を下りつ。彼は凍れる※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]を明け、亂れし髮を朔風に吹かせて余が乘りし車を見送りぬ。
余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者《かどもり》に祕書官相澤が室の番號を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊《わたどの》をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちゆ》したり。同じく大學に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相澤が、けふは怎《いか》なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相對して見れば、形こそ舊に比ぶれば肥えて逞ましくなりたれ、依然たる快活の氣象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは獨逸語にて記せる文書の急を要するを飜譯せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相澤は跡より來て余と午餐を共にせんといひぬ。
食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻數奇《かんかさくき》なるは我身の上なりければなり。
余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡※[#二の字点、1-2-22]驚きしが、なか/\に余を譴《せ》めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢りし時、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素《も》と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活《なりはひ》をなすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れその言《こと》のおほむねなりき。
大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相澤が余に示したる前途の方鍼《ほうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に滿足を與へんも定かならず。貧きが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑《しばら》く友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵《かうてい》すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり。
別れて出づれば風面を撲てり。二重の玻璃※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]《ガラスまど》を緊《きび》しく鎖して、大いなる陶爐に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚《はだへ》粟立つと共に、余は心の中に一種の寒さを覺えき。
飜譯は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比《ちかごろ》故郷にてありしことなどを擧げて余が意見を問ひ、折に觸れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞《ロシア》に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡※[#二の字点、1-2-22]なり。
この日は飜譯の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。
鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き禮服、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
魯國行につきては、何事をか敍すべき。わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に墮したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を圍繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故《ことさ》らに黄蝋の燭を幾つ共なく點したるに、幾星の勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤の工《たくみ》を盡したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西語を最も圓滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を辨ずるものもまた多くは余なりき。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく獨りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝目醒めし時は、猶獨り跡に殘りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計《たつき》に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書《ふみ》の略《あらまし》なり。
又程經てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底《そこひ》をば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしき族《やから》なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。それも※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56]《かな》はで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何處よりか得ん。怎《いか》なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縱令いかなることありとも、我をば努《ゆめ》な棄て玉ひそ。母とはいたく爭ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管《ひたすら》君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが盡したる職分をのみ見き。余はこれに未來の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟《か》。先に友の勸めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍※[#二の字点、1-2-22]これを得たるかと思はるゝに、相澤がこの頃の言葉の端に、本國に歸りて後も倶にかくてあらば云々といひしは、大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が輕卒にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
嗚呼、獨逸に來し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の絲は解くに由なし。曩《さき》にこれを繰つりしは、我某省の官長にて、今はこの絲、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶にベルリンに歸りしは、恰も是れ新年の旦《あした》なりき。停車場に別を告げて、我家をさして車を驅りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、萬戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角《かど》ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐まりぬ。この時※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯《きざはし》を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一聲叫びて我頸を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。
「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絶えなんを。」
我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊|踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちゆ》の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼《どら》の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆《うづたか》く積み上げたれば。
エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓《むつき》なりき。「わが心の樂しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子《ひとみ》をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。
二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪《とぶ》らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。
黒がねの額《ぬか》はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獸苑の傍に出でたり。倒るゝ如くに路の邊の榻《こしかけ》に倚りて、灼くが如く熱し、椎《つち》にて打たるゝ如く響く頭を榻背《たふはい》に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覺えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。
最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鐵道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、兩手にて擦りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
足の運びの捗らねば、クロステル街まで來しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄來し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覺えず。我腦中には唯※[#二の字点、1-2-22]我は免《ゆる》すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ滿ち/\たりき。
四階の屋根裏には、エリスはまだ寢《い》ねずと覺ぼしく、烱然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍《たちま》ち掩はれ、乍ちまた顯れて、風に弄ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覺えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯を登りつ。庖厨《くりや》を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」
驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髮は蓬《おど》ろと亂れて、幾度か道にて跌《つまづ》き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に※[#「さんずい+于」、第3水準1-86-49]《よご》れ、處々は裂けたれば。
余は答へんとすれど聲出でず、膝の頻りに戰かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覺えしが、その儘に地に倒れぬ。
人事を知る程になりしは數週の後なりき。熱劇しくて譫語《うはこと》のみ言ひしを、エリスが慇《ねもごろ》にみとる程に、或日相澤は尋ね來て、余がかれに隱したる顛末を審《つば》らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。余は始めて病牀に侍するエリスを見て、その變りたる姿に驚きぬ。彼はこの數週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相澤の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵《たふ》れぬ。相澤は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髮をむしり、蒲團を噛みなどし、また遽に心づきたる樣にて物を探り討《もと》めたり。母の取りて與ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を與へたるとき、探りみて顏に押しあて、涙を流して泣きぬ。
これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、その痴《おろか》なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。
余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行《ちすぢ》の涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議《はか》りてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。
[#地から2字上げ](明治二十三年一月「國民之友」第六卷六十九號附録)
底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月27日修正
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