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板ばさみ
オイゲン・チリコフ(Evgenii Nikolaevich Chirikov)
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)周囲《まはり》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)数日|前《ぜん》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「目へん+匡」、第3水準1-88-81、142-下-15]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちら/\する
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 プラトン・アレクセエヰツチユ・セレダは床の中でぢつとしてゐる。死んでゐるかと思はれる程である。鼻は尖つて、干からびた顔の皮は紙のやうになつて、深く陥つた、周囲《まはり》の輪廓のはつきりしてゐる眼窩《がんくわ》は、上下《うえした》の瞼が合はないので、狭い隙間を露《あらは》してゐる。その隙間から、これが死だと云ふやうに、濁つた、どろんとした、硝子《ガラス》めいた眼球《めだま》が見える。
 室内は殆ど真暗である。薄板を繋いだ簾《すだれ》が卸してあるので、そこから漏れて来る日の光が、琥珀のやうな黄を帯びて、一種病的な色をしてゐる。人を悲しませて、同時に人を興奮させる色である。暗い片隅には、聖像の前に燈明が上げてある。このちら/\する赤い火があるために、部屋が寺院にある龕《がん》か、遺骨を納める石窟かと思はれる。
 黒い服を着た、痩せた貴婦人が、苦痛を刻み附けられた顔をして、抜足をして、出たり這入つたりする。これが病人の妻グラフイラ・イワノフナである。女は耳を澄まして、病人の寐息を開く。それから仰向いて、燈明の小さい星のやうに照つてゐる奥の聖像を見る。それから痩せて、骨ばかりになつてゐる両手で、胸をしつかり押へて、唇を微かに動かす。
 折々は大学の制服を着た青年が一人、不安らしい顔をして来て、二三分間閾の上に立つて、中の様子を窺つてゐて、頭を項垂《うなだ》れて行つてしまふ。
 こん度来たのは、脚の苧殻《をがら》のやうに細い、六歳の娘である。お父うさんを見ようと云ふので、抜足をして、そつと病人の足の処まで来て、横目で見た。常は慈愛、温厚、歓喜の色を湛へてゐた父の目が、例の※[#「目へん+匡」、第3水準1-88-81、142-下-15]《まぶた》の隙間から、異様に光つてゐるのを見て、娘は本能的に恐怖心を発した。そしてニノチユカの小さい胸は波立つた。ニノチユカは跡から追ひ掛けられるやうに、暗い室から座鋪《ざしき》へ出た。そこには冬の朝の寒い日が明るく照つてゐて、黄いろいカナリア鳥が面白げに、声高く啼いてゐて、もうこはくもなんともなくなつた。
「お父うさんはまだお目が醒めないかい。」と、母が問うた。
「いゝえ。」
「もう一遍行つて見てお出。」
「こはいわ。お父うさんがこはい顔をしてゐるのだもの。」おもちやにしてゐた毬の手を停めてかう云つたとき、娘の顔は急に真面目になつて、おつ母さんそつくりに見えた。
「馬鹿な事をお言ひなさい。」
「だつて、お父うさんの目丈があたいを見てゐて、お父うさんは動かずにゐるの。」
 子供のかう云ふのを聞いて涙ぐんだので、母は顔を背《そむ》けた。娘はもう父の事を忘れてしまつてゴム毬を衝いてゐる。
 午後一時頃に、門口のベルがあら/\しい音を立てた。誰も彼も足を爪立てて歩いて、小声で物を言つてゐる家の事だから、此音は不似合に、乱暴らしく、無情に響いた。グラフイラ夫人はびつくりして、手で耳を塞ぎさうにした。耳を塞いだら、ベルの方で乱暴をしたのを恥ぢて黙つてしまふだらうとでも思ふらしく、そんなそぶりをした。それから溜息を衝いて、玄関の戸を開けに立つた。来たのが医者だと云ふことは知つてゐるのである。併し学生が一足先きに出て、戸を開けた。
「先生です。」学生は隕星《ゐんせい》のやうに室内を、滑つて歩きながら、かう云つた。
 学生は学士シメオン・グリゴリエヰツチユを信頼してゐる。学生の思ふには、今此家で抜足をせずに歩いて、声高に物を言つて、どうかすると笑つたり、笑談を言つたりすると云ふ権利を有してゐるものは、此学士ばかりである。
 学士は玄関でさう/″\しい音をさせてゐる。ゴム沓《ぐつ》がぎい/\鳴る。咳払の音がする。それからいつもの落ち着いた、平気な、少々不遠慮な声で、かう云ふのが聞えた。
「どうですな。新聞に祟《たゝ》られた御病人は。」
「眠つてゐますが。」
「結構々々。それが一番好い。」
「おや。入らつしやいまし。」戸を開けた学士を見て、夫人がかう云つた。哀訴するやうな声音である。
「いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓の下できゆつきゆと云つてゐます。かう云ふ天気が僕は好きです。列氏の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。」
「あの矢張休んでゐます。先程お茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちつとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も片々《かた/\》は好く見えないと申しますが。」
「好うがす、好うがす。何もそんなに心配なさらなくても宜しい。沓がきゆつきゆと云ふには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。」
 学士はカナリア鳥をちよいと見て、ニノチユカの少し濃い明色《めいしよく》の髪を撫でて、かう云つて揶揄《からか》つた。
「どうだい。蜻※[#「虫へん+廷」、第4水準2-87-52、144-下-11]《とんぼ》。旨く飛べるかい。」
「あたい蜻※[#「虫へん+廷」、第4水準2-87-52、144-下-12]なんかぢやなくつてよ。」
「そんなら蚤だ。」
「あたいが蚤なら、あなたは南京虫よ。」不服らしい表情で、頭を俯向けて、かう云つた。
「はゝゝ。」学士は声高に笑つた。
 娘はゴム毬を持つた手を背中に廻して、壁に附いて立つてゐて、口の悪いをぢさんを睨んでゐる。学士は中肉中背の男である。年頃は中年である。顔は人が好ささうで、目は笑つてゐる。性質は静かで、恬澹《てんたん》で、そして立居振舞を、ひどく気を附けて、温和にしてゐる。此人はいつも機嫌が好い。「今一寸御馳走になつて来たところです」とか、「今一寸昼寝をして元気を附けたところです」とか云ふ、その様子が生々してゐて、世を面白く暮す人と受け取られる。病人や、病家の人達に、此人の態度は好影響を及ぼす。新しい希望を生ぜしむる。勿論その希望は空頼《そらだの》めなこともあるが、こんな人達のためには、それが必要なのである。
「あの、宅が目の醒めまするまで、あちらへお出を願つて、何か少し差上げたいのでございますが」と、夫人が云つた。
「いや。丁度今少し御馳走になつて来たところです。酒を一杯。パアテを二つ遣つて来ました。一つは肉を詰めたので、一つはシユウを詰めたのでしたよ。」
「そんならお茶なりとも」と、夫人は泣き出しさうな声で勧めた。
「お茶ですか。なる程、ぢやあ頂戴しませうかな。こんな寒い日には悪くないですな。」
 一同食堂に這入つた。こゝには卓の上に、てら/\光る、気持の好い、腹のふくらんだサモワルがたぎつてゐる。そしてバタ附きのパンの匂がする。明るい居心の好い一間である。どうも主人が病気で、腰が立たないと云ふことなんぞは、此食堂は知らずにゐるらしい。サモワルはいつものやうに、綺麗に手入れがしてあつて、卓に被つてある布《きれ》も雪のやうに白い。パンは柔かさうに褐色《かちいろ》に焼けてゐて、薫が好い。その薫を嗅いでゐるボロニユ産の小狗は、舌を出して口の周囲《まはり》を舐めながら、数日|前《ぜん》に主人にじやれたやうに、学士にじやれる。何もかも不断の通りで、何事もあつたらしくはない。矢張いつものやうに、今持つて来たばかりのポシエホンスキイ・ヘロルド新聞も、卓の上に置いてある。この地方新聞は活版の墨汁《インキ》の匂、湿つた紙の匂、それから何か分からない、或る物の匂がする。一体夫人の言ひ附けで、もう此新聞を目に見える処へ持つて来てはならないことになつてゐるのを、女中が忘れて、つひ此卓の上に置いたのである。
「あら。又新聞を机の上に置いたね。持つて来ておくれでないと云つたぢやないか」と、夫人は囁くやうに云つて、顔をサモワルの蔭に隠した。目が涙ぐんで来たからである。
 学生は一寸肩をゆすつて、新聞を持つて、どこかへ隠しに行つた。そして帰つて来て見ると、母はまだ泣いてゐる。
「あれがお父うさんを殺すのだよ」と、サモワルの蔭から囁きの声が漏れた。そして卓が少しぐら附いて、上に載せてある器《うつは》が触れ合つて鳴つた。
「奥さん。困りますな。お泣きになるにはまだちつと早過ぎます。お歎きになる理由がありません。」学士は匙で茶を掻き交ぜながら、かう云つた。「まだ好くなるかも知れません。足が立つて、目が明かないには限りません。落胆なさつてはいけない。あなたも、御主人も、落ち着いてお出になるのが肝心です。あんまり御心配なさり過ぎる。あの大佐の先生はどうです。両脚ともなくなつてゐますぢやありませんか。泣きなんぞはしない。立派に暮してゐる。上機嫌でさあ。恩給を頂戴して、天帝の徳を称へてゐるのです。」学士はかう語り続けた。
「宅なんぞでは、まだ三年勤めなくては、恩給は戴けません。」サモワルの蔭から、夫人は悲しげな声でかう云つて、涙を拭いた。「それに子供も二人あります。」かう云つて鼻をかんだ。
「二人あつて結構ぢやありませんか。兄いさんは学士になつて、お役人になります。無論出版物検閲官丈は御免を蒙るですな。蜻※[#「虫へん+廷」、第4水準2-87-52、147-上-4]も大きくなつて、およめに行きます。きつとすばらしい、えらい婿さんがありますよ。」
「それはどうか取り留めて戴きまして、恩給の戴けるやうになるまで、もう三年お勤をいたして、そこでお役を罷めるのなら、宜しうございますが。いゝえ。どうもそんな都合の好い事にはなりますまいと存じます。あんなに弱り切つてゐますからね。まあ、なんと云ふ厭な新聞でせう。わたくし共一|家《け》が立ち行かなくなるのは、あの新聞のお蔭でございます。宅は検閲官といふものになりました、あの日から不為合《ふしあは》せになつたのでございます。毎日々々喧嘩があります。大声を立てる。訴訟沙汰や、面倒な事が出来る。それで宅は気が苛々いたしてまゐりまして、物をおいしく戴くことが出来なくなりますし、夜もおち/\休むことが出来なくなりましたのでございます。段々にかう気が鬱してまゐりまして、自分が悪人で人が自分を掴まへて為置《しお》きにでもいたさうとして、網を張つてゐるやうな心持になりまして、此二三年といふものは、気抜けがしたやうに、ぶら/\してゐましたのでございます。そしてとう/\あんな風になりまして。」初めは少し気が晴れた様子で、深い息をして言ひ出したのが、しまひには又悲しげになつて、とう/\ハンカチイフを出して目を押へた。「とう/\あんな風になりまして」と、二度目に繰り返す声は、聞き取りにくい程微かであつた。
「成行を考へて見ますと悲しうございます」と、夫人は病気の顛末を話した。
 プラトンは、多くも少くもない、中等の俸給を貰つてゐる役人の常として、これまで始終控へ目勝ちに、平穏な生活をしてゐた。困窮もしないが、贅沢にも陥いらない。心に明るい印象を受けず、深い感じも起さずに、灰色の歓喜、灰色の苦労から成り立つた灰色の生活をしてゐた。此人の幸福は無智な、狭隘《けいふあい》な人物の幸福であつた。此人は善良なるハアトを持つてゐた。併しその鼓動は余り高まることが無い。それに家族以外の事には感動しないハアトなのである。此人の精神上の地平線は、自分が参事官の下級から上級まで歴昇《へのぼ》つた地方庁と、骨牌《かるた》遊びをする、緑色の切れの掛けてある卓《つくゑ》を中心にした倶楽部との外に出でない。一切の事物が平穏に経過して行く。譬へば軌道の上を走るやうな生活である。極まつた年限を勤めるごとに、きちんと進級する。一度は珍らしくスタニスラウスの三等勲章を貰つたこともある。家族が殖えると同時に、俸給が増す。
 高等学校に入れてある倅は、好い成績も得ないが、それだと云つて、進歩の悪い方でもない。足で蹴られる小桶のやうに、下の級から上の級へ押し遣られてゐる。娘ニノチユカは段々大きくなる。カナリア鳥は囀る。イイスタア祭になると、賞与を貰ふ。
 春夏秋冬が交る/″\過ぎて、幾年にかなつた。相応な年配になると、病気が出る。痔が起る。頭が禿げる。顔の皺が段々繁くなる。とう/\プラトンは五十八歳になつた。
 プラトンは年齢の割には丈夫である。外の人はまだ下級参事官でゐるうちに、標本のやうに干からびたり、考古学の参考品のやうな形になつたりする。プラトンばかりは、奥さんの詞で言へば、「まだ御用に立つ男」である。当人ももう生涯が残り少なくなつて、程なく窮屈な箱に入れて、最終の届先へ遣られようと云ふ立場に到着する筈でありながら、そんな事は思はずに、未来に望を属してゐた。
 市へ新しい地方長官が来た。公民の進歩派が多年発行したがつてゐる新聞紙を、これまでの長官は抑へて出させずにゐたのに、新長官は一般の為めに有益だと云つて、出させることにした。多年の希望は実現せられた。市は始て輿論の機関を得た。題号はポシエホンスキイ・ヘロルドと云ふのである。
 地方には副長官といふものがある。併し現に此職にゐる人は断えず旅行してゐる。冬はクリムにゐる。夏はカウカズスにゐる。旅行してゐない時はきつと病気である。そこで新聞紙の検閲官の役を、最古参の参事官即ちプラトンが担任することになつた。
 さて発行認許がいよ/\下がつたと云ふことになると、市中のものが讙呼《くわんこ》して喜んだ。道に逢ふものが祝賀を言ひ交してゐる。これからは市の生活が一変するだらうと思つたのである。大通りの家に金めつきの看板が掛かつて、それに「ヘロルド編輯局」と書いてある。初号を出す時には、例の如く会堂でお祭をした。新聞に関係のある人達が大勢集つて祈祷をして、長官の万歳を唱へた。編輯長以下新聞社員一同これに和した。プラトンも臨席してゐたが、誰も構つてくれないので、頗る不平であつた。長官が演説をした。華やかな、山のある演説であつたので、一同拍手して、心から敬服した。プラトンも拍手した。併しヂアコヌスの背後《うしろ》で、余り際立たないやうに、謂《い》はば二本指を打ち合せるやうな拍手をしたのである。それは拍手なんぞをして、長官が喜ぶか、おこるか、分からなかつたからである。一体長官が此演説のやうな趣意の事を言つたのを、プラトンはこれまで聞いたことがない。長官はかう云つた。新聞紙は一の権威である。従来他の地方で発行してゐる新聞紙が、社会に利益を与へたことは非常である。先づこんな風に称讃するのを、プラトンは聞いてゐて、なる程「記者」諸君といふものは、そんなにえらいものか、就中《なかんづく》編輯長ミハイル・イワノヰツチユ君はそんな大人物かと、転《うた》た景慕の念に勝《た》へなかつた。さて此ヘロルド新聞も従来他の地方に行はれてゐる、有益なる新聞と比肩するに至らんことを希望すると云ふとき、ふいとプラトンが気が附くと、長官は自分の顔を見てゐたのである。プラトンは慌てゝ、何か自分の服装に間違つた処でもないかと、自分の体を偸《ぬす》み視たが、なんにも間違つてはゐない。そのうち長官の考が分かつた。長官は突然きつとプラトンと顔を見合せて、かう云つた。
「最後に一|言《げん》附け加へて置きたい事がある。兎角我国では、検閲官は新聞紙の敵だと云ふ想像が伝播せられてゐる。諸君。此の如きは時代精神と背馳してゐます。既に過去の観念に属してゐます。総ての進歩的思想の人が、新聞紙の良友であるが如く、検閲官も亦新聞紙の良友である筈であります。わたくしは特にプラトン・アレクセエヰツチユに望んで置きます。君は必ずや事を解する検閲官となられて、世間から圧制家を以て目せられるやうなことの無いことを望んで置きます。」
「決してさやうな事はいたしません。閣下の御趣意通りにいたします。」慌てて、汗を流してゐるプラトンは、震ふ声でかう云ふと同時に突然両眼に涙を浮べた。これは長官の仰せの通りに、新聞紙の良友にならうと、熱心に思つて、何か分からないながら、称讃に価するやうな、或る衝動に、突然襲はれて、その劇烈な感情の発作の結果として、目に涙が湧いたのであつた。
 長官は演説の結末にかう云つた。「諸君。どうぞ相互に良友となつて、助け合つて、手を携へて、真理の光明に向つて進まれたいものです。どうぞ極端に奔《はし》られないやうにいたしたいものです。いかなる企業も、極端に奔れば有害になるのでありますが、就中印刷せられたる言論程、極端に奔つて危険を生ずるものはありますまい。」かう云つて置いて、一同に会釈をして、門へ出て、馬車に乗つて行つてしまつた。跡に残つた新聞紙の良友一同は、長官の進歩思想、人道思想に感激して已まなかつた。
 それから午餐会があつた。我国では儀式とか祭とか葬《とむらひ》とか云へば、午餐会がなくてはならないからである。会は賑かで、さう/″\しく、愉快であつた。いろ/\の演説があつた。なる丈人道的に立論したいと、互に競ふらしかつた。料理の品数が多くて、果てしがないやうに思はれた。
 新に生れた新聞の代表者達が、プラトンを特別に待遇した。プラトンは間もなく、さつき式場で万歳を唱へた時、自分が除けものゝ様に扱はれたことを忘れた。プラトンが席の一方には編輯長ミハイルが据わつてゐる。他の一方には発行を請け負つた書肆の主人がゐる。書肆は旁《かたは》ら立派な果物罐詰類の店を出してゐる、進歩思想の商人である。此二人がプラトンに種々《いろ/\》の葡萄酒や焼酎を勧めて、プラトンは応接に遑《いとま》あらずと云ふ工合である。酒には一々新聞の欄になぞらへた仇名が附けてある。并《なみ》の焼酎を「社説」と云ふ。コニヤツクを「電報」と云ふ。葡萄酒を「外国通信」と云ふなどの類である。
「どうです、プラトン・アレクセエヰツチユさん、最近の通信をもう一杯」と編輯長が侑《すゝ》める。
「もう行けません。目が廻りさうです。」
「そんならこの「雑報」の方にしませう。どうです。これなら、強過ぎはしないでせう。」
 大勢の人の声が入り乱れて聞えるので、プラトンは気がぼうつとなつた。目の前には「記者」誰彼の顔が見えたり見えなくなつたりする。プラトンは総ての新聞社員を、通信員、校正掛まで皆記者だと思つてゐる。どれも/\引き合せられはしたが、何の誰やら、どんな為事《しごと》をする人やら、こんがらかつて分からなくなつてゐるのである。
 プラトンは一人の男に問うた。「あなたのお受持ちはなんでしたつけね。外国通信でしたね。」
 隣の編輯長が代りに答へる。「違ひますよ。隅にゐる先生は社説を受け持つてゐるのです。」
「外国通信の方《はう》はどなたでしたつけね。」
「それ、あそこの椅子に居眠をしてゐるでせう。あの男です」と、編輯長が云つた。
「本当のロシア人ですか」と、プラトンは書肆の耳に口を寄せて聞いた。
「さうですとも。正真正銘のロシア人です。」書肆は笑ひながら答へて、同時に一杯の「近事片々」を侑《すゝ》めた。近事片々とはリキヨオルの事である。
 新聞社員は総てプラトンに親しくした。どの人も大ぶ飲んでゐる。外国通信記者がプラトンの傍へ来て腰を掛けて、プラトンの膝を叩いて、かう云つた。
「一体外国には盛んな事がありますね。」
「あなたは外国にお出の事がありましたか。」
「そんな事はどうでも好いです。行つて見るに及ぶもんですか。要するに外国での出来事は模範です。活きた歴史です。」叫ぶやうにかう云つて、人さし指で空中を掻き廻して、気味悪く光る目で、遠い処を見詰めてゐる。歴史その物の蘊奥《うんあう》を見てゞもゐるやうに。
「さうですとも。さうですとも。」プラトンは頻りに合点々々をしてかう云つた。そして非常に愉快に感じた。なんだか自分が長官にでもなつたやうである。新聞社がひどく自分を尊崇してくれるやうである。自分が手を出して補助して遣る、此新聞事業といふものが、ひどく重大なものゝやうに思はれるのである。
 演説が頻りにある。その声が次第に大きくなる。文章としての組立が次第にだらしなくなる。しまひにはとう/\意味のない饒舌になる。ナイフやフオオクの皿に当る音が次第に高くなる。瓶の栓を抜く音がする。烟草の烟が客の頭の上に棚引く。
 外国通信記者がプラトン・アレクセエヰツチユの為めに頌徳《しようとく》演説をした。一同プラトンの処へ、杯を打ち合せに来た。そして万歳を唱へた。唯社説記者ポトリヤソウスキイ丈は、顔を蹙《しか》めて隅の方に据わつた儘、起つて杯を打ち合せに来ようともしない。その上ちよつと編輯長を睨んで、少し唇を動かした。それから一同の騒ぎが鎮まるのを待つて、起ち上がつて、波を打つた髪を額から背後《うしろ》へ掻き上げて「理想」の詩といふものを歌ひ出した。
「自由の生みし理想なり。
よしや鎖に繋ぐとも、
理想は死なじ、とこしへに。」
 社説記者は歌ひ罷んで、「理想は死なない。決して死なないぞ。諸君」と云つて、一人で万歳を叫んだ。
 これには誰も異論はない。そこで万歳に和して、又杯を打ち合せた。プラトンの処へも打ち合せに来た。その時社説記者は、プラトンの傍へずつと寄つて来て、顔を蹙めてかう云つた。
「おい。ホレエシヨ君。(シエエクスピイアのハムレツト中の人物。)君は厭に黙り込んでゐるね。君は我輩共と飲んで丈はくれる。だがね、それでは僕は満足しない。一つ演説を願はう。君の信仰箇条を打ち明け給へ。君のProfession de foiをね。」
「何を言へと云ふのです。」
「君のプログラムさ。我輩共の新聞に対して、君はどんな態度を取らうと思つてゐるのだ。僕は頂天立地的の好漢だ。厭に黙つてゐる奴は嫌ひだ。おい。どうだね。」
「遣り給へ。遣り給へ、プラトン・アレクセエヰツチユ君。」
「東西、東西。」
 プラトンは酒を一ぱい注がれた杯を持つて起つた。手が震ふので、注いである「外国通信」が翻《こぼ》れた。頭が変になつてゐる。生れてから演説といふものをしたことがないので、なんと云つて好いか分からない。
 社説記者はプラトンが、まだみんなが黙らないので、口を開かないのだと思つて、雷のやうな大声で「東西」と叫んだ。
「東西。」
「諸君」と丈は、プラトンが先づ云つて、杯を持つた手を少し前へ出した。「わたくしは」と続けたが、さあ、跡をなんと云つて好いか分からなくなつた。とう/\かう云つた。「わたくしは当新聞の編輯長ミハイル・イワノヰツチユ君に対して、将来永く親交を継続いたさうと存じてをります。随て当新聞に対して、好意を有する積りであります。而《しか》して。えへん。而して。諸君。わたくしは編輯長と当新聞との為めに祝して、この杯を傾けます。」
 社説記者は大声で叫んだ。「なんだ。丸で内容が無いぢやないか。おい。そんなら僕の方から問うて遣る。言論は不朽だと詩人が云つてゐるなあ。君はそれを信ずるか、どうだ。それを我輩共に対して明言してくれ給へ。言を左右に托せないで、はつきりと云つてくれ給へ。」
「不朽です、不朽です」と、プラトンは同意して、直ぐに腰を落した。なんだか体が下へ引つ張られるやうで、足が鉛のやうでならなかつたのである。
 併し腰を落したかと思ふとたんに、大勢が来て掴まへた。そして胴上げをした。その時のプラトンの心持は、忽然《こつぜん》羽が生えて、空中を飛んでゐるやうであつた。熱した体に、涼しい風が当つて、好い工合に寐入られるやうであつた。
「諸君。先生は御安眠です。」プラトンの体を下に置く時、かう叫んだのは、矢張社説記者ポトリヤソウスキイであつた。
「そんなら校正室のソフアの上に寝かして遣り給へ」と云つたのは、書肆であつた。
 プラトンはソフアへ担がれて行きながら、「不朽です、不朽です」と、目を瞑《ねむ》つて囁いでゐたが、ソフアの上に置かれる時、手で遮るやうな挙動をした。
 最初は旨く行つた。プラトンは一年三百ルウブルの増俸を貰つて、新聞といふものは結構なものだと思つてゐた。
「これで毎月二十五ルウブルはある。ペチヤアがペテルブルクで修行する丈の入費はこれから出る。」かう思つて喜んでゐる。編輯長も書肆の主人も好い人である。時々プラトンの内を訪問する。プラトンも先方へ訪問に行く。編輯長の母がグラフイラ夫人と近附きになつて、仲が好い。どちらもおとなしい、上品な貴婦人で、いつも黒い服を着て、同じやうな髪の束ねかたをしてゐる。編輯長の内には、死んだ兄の娘で、リユボチユカといふのを育てゝゐる。それがプラトンの娘のニノチユカと年配が同じ位なので、これも検閲と新聞とを、結び附ける鎖の一つとなつた。
 編輯長はなか/\気の利いた男なので、プラトンは次第に尊敬するやうになつた。殊に次の事実があつてからは、一層尊敬するのである。それはなんだと云ふと、或る時、編輯長はいつもの通り原稿を纏めて持つて来て、かう云つた。
「どうでせう。こいつはあんまりひどい様だから、除けませうか。」
「どんな記事ですか。」かう云つて、プラトンは少し不安な顔をして、ペンを赤インキの壷に插し込んだ。
「なんと云ふこともないですが、わたくしだつてごた/\の起るやうな事は厭ですからなあ。妙な檄文のやうなものですよ。」
「はゝあ。そんなら除けたが好いでせう。好くさう云つて下すつた。どうもわたくしは無経験なもんですから。どうかこれからも気を附けて下さい。」かう云つて、赤インキで消して、欄外へ「不認可」と大きく書いて、それへ二重圏点を附けた。
 それからは編輯長が自身に原稿を持つて来ると、こんな工合に処置することになつてゐる。
「急ぎの原稿ですね。なんにもいかゞはしいものはありますまいね。」
「ありません。」
「大丈夫ですね。」かう念を押して、弛んで下へ落ち掛かつた目金の上から、編輯長の顔を見る。
「ないですよ。」しつかりした声で答へる。
 プラトンは大きい字で「認可」と書いて渡してしまふ。それからかう云ふ。
「どうもわたくしも一々読んで見ることは出来ませんからな。一体本職の方も相応に急がしいのです。とても時間がないのです。それにあなたゞから、正直を言ひますが、わたくしはもう大ぶ年が寄つたものですから、何か少し考へると、直ぐに頭痛がしましてね。これで昔は多少教育も受けたのですが、もう何もかもすつかり忘れてしまひました。どうも此頃は健忘とでも云ふ様な事があつて、上役に挨拶をする時、間違つた事を言つてなりません。こなひだも皇族にお目通りをして、閣下と云つてしまつたですなあ。皇族ですよ。あはゝ、なんだか、折々かう精神錯乱と云ふやうな風になるのですよ。それに目も段々悪くなります。新聞なんぞは、かう云ふ風に、遠い処へ持つて行かないと、読めないですなあ。さうすると手が草臥《くたび》れるです。一つ見台のやうなものを拵へさせて、その上に置いて読んで見ようかとも思ふのです。あの、それ、音楽家が譜を載せるやうなものですなあ。」
「楽譜架ですか。」
「それです、それです。」
 こんな風な交際が二箇月ばかりも続いた。さて第一の衝突は外交問題で生じた。それはこんな工合であつた。
「もし/\、プラトン・アレクセエヰツチユさんですか。お呼びになりましたか。」
「さうです、さうです。」電話口でかう云ひながら、心配げな顔をしてゐる。
「何か御命令がございますか。」
「なに。わたくしはあなたに命令をいたすことは出来ないですが、少し願ひたい事があるのです。どうもわたくしは好く忘れてなりませんが、あなたの方で外交の事を書いてゐるのは。」
「クリユキンです。」
「ロシアの臣民ですな。」
「何事ですか。」
「いゝえ、なに。格別な事ではありません。無論お呼び立て申したのは、少しわけがあるのですが、どうもどう申して宜しいか。兎に角、御交際は御交際、公務は公務といたさなくてはなりませんが。」
「そこでどうしたと仰やるのですか。要点丈は一寸お示し下さらなくては、わたくしの方でも判断が附きません。」
「実はそのクリユキンさんですか、其方がいつも革命々々と云ふ事をお書きになるですな。なんだかかう、その革命と云ふものを掴まへて、引つ張つて来たいと云ふ風に見えるですな。」
「はゝあ。いや。それは、お考へ違ひですよ。」顔に驚きの表情をして微笑んでゐる。
「いや。さうでないです。わたくしの申すことは間違つてはゐないやうですがなあ。一体これはあなたに申す筈ではないのですが、実はわたくしが読んで見て、発見いたしたのではありません。或るその筋の。」
「ふん。なる、なる。それはクリユキンの文章に革命と云ふ詞があるかも知れませんが、あつたつて差支なささうなものですがなあ。フランス革命と云ふやうな、歴史上の事実は、誰だつて言ひも書きもしますからなあ。どの新聞でも、雑誌でも御覧になるが好い。革命と云ふ字の丸で書いてないのは、一号だつてありますまい。何も差支なささうなものですが。」
「さあ。差支ないと云へば、ないやうなものですが、どうでせう、よさせるわけには行きませんかなあ。お互の為めですが。実は今見てゐる原稿にも、革命何事ぞ、顧みずして可なりと云ふやうな文句があるです。クリユキンといふ先生は、なぜ不用心な物の言ひやうをするのでせう。」手に持つてゐる原稿を振り廻してかう云つてゐる。
 二人は暫く言ひ争つてゐたが、なか/\妥協が出来なかつた。しまひにプラトンがかう云つた。
「なる程、革命といふものが事実有つて見れば、その事を丸で言はないわけには行かないかも知れませんね。併し老人が折り入つて願ふのですから、どうにか御都合は出来ますまいかなあ。詰まりなんとか別な詞で言ふわけには行きますまいかなあ。」
 かう云ひ出したので、此対話の終には、将来革命といふ詞の代りに、カタストロフエといふ詞を使はせようと相談した。此詞も万已むを得ざる場合に限つて使はせようと云ふのである。
 さて此対話の跡で、双方に多少の不満足が残つた。交際が次第に冷かになつた。終には毎日衝突をする。誤解が重《かさ》なる。とう/\本物のカタストロフエが来たのである。
「どうも困ますなあ。なぜ外国通信の欄のフランスの部丈全文をお削りになつたのですか。」
「いや。もう好い加減にして貰ひたいですからなあ。」説明を拒むやうな、不愉快な口吻《こうふん》である。
「どうも全文削除となつて見ると、理由が伺ひたいのですが。」
「全文悪いです。」
「どう悪いですか。」
「実は昨日フランスの記事で。いや。詰まり、好くないです。」
「それは行けません。」
「いや。わたくしはかう遣ります。一体フランスなんぞはどうなつたつて好いぢやありませんか。フランスのお蔭で、ろくな事はありやあしない。」不愉快げに横に向いて云つた。
「どうも分かりませんな。」
「わたくしだつて分かりません。」強情らしく云つた。
 それから後は、フランスの事は悉《こと/″\》く削除してしまふ。なぜかと云つても、説明はしない。或る日編輯長が云つた。
「どうも已むを得ませんから、其筋へ上申して見ようかと思ひます。御職権外の事をなさるやうですから。」詞に廉《かど》を立てゝ云つたのである。
「併しあなただつてわたくしが丸で理由なしに、こんな事をし出したのだとは思はないでせうが。」
「それは御辯解が出来るなら、其筋でなさつたら好いでせう。」
「わたくしが何もフランスにしろ、外の国にしろ、余所の国に対して、どうと云ふ考のないことは、あなただつてお分かりでせうがなあ。」
 大ぶ話の調子が変つてゐるので、夫人は戸の外で立聞をしてゐる。そしてかう思つてゐる。「なんだつて、此頃は二人で喧嘩ばかりしてゐるのだらう。変な事になつたものだ。」とう/\夫人は戸を開けて這入つた。
「あなた、なぜそんなに宅をお困らせなさいますの。こんな年寄りを。」
「好いよ/\、グラツシヤア。お前なんぞが出なくても好いよ。ほんに/\己は気でも違はなければ好いが。」
「ねえ、あなた。ミハイル・イワノヰツチユさん。宅は新聞の事で、随分色々な目に逢つてゐますのですから、どうぞあなたまでが、そんなに仰やらないで。」
「いゝえ、奥さん、どうもそれは違ひますなあ。わたくしが御主人をおいぢめ申すのではありません。御主人がわたくし共をおいぢめになりますので。」
「あら。そんな事を仰やつたつて、わたくし本当だとは思ひません。蠅一匹殺さない宅の事でございますもの。」
 プラトンの出る地方庁の事務室にも、自宅にも電話が掛かつてゐる。役所に出てゐても、内にゐても、ちりん/\と鈴《すゞ》が鳴つては、電話口に呼び出されるのである。
「もし/\。あんな記事をなぜ出させるのですか。」
「あなたはどなたです。」
「鉄道課長です。」
「なんと仰やるのですか。」
「なぜ新聞にあんな記事をお出させになるかと申すので。」
 プラトンは受話器を耳に当てた儘で黙つてゐる。その顔付きは丸で途方にくれたやうである。
「いづれ其筋に申出ます。さやうなら。」電話は切れた。
 プラトンは奮然として受話器を鉤《かぎ》に掛けて、席に復《かへ》つた。それから五分も立たないうちに、又ちりん/\と鳴る。
「どなたです。」
「知事だがね。」
 プラトンはびつくりして顔が凝《こ》り固まつたやうになつた。それから電話口に向いてお辞儀をして、一声聞える毎に、「御意で」「御意で」と云つてゐる。「いえ。存じませんでした。御意で。どうぞ。閣下、御免下さりますやうに。」顔の表情が次第に途方に暮れたやうになつて、鼻の頭に大きな汗の玉が出てゐる。
 電話は切れた。「やれ/\。増俸も何もあつたものではない。こんな目に逢はずに済むことなら、こつちから三百ルウブル出しても好い。」
 或る日編輯長がプラトンの事務室に、慌たゞしく這入つて来て、非常に不平な様子で、議論をし掛けた。
「あんまりひどいぢやありませんか。どう云ふお考だか、わたくしには丸で分かりませんなあ。なぜあの排水工事の記事をお削りになつたのです。」
 此記事が削除せられたには、決して理由がないことはなかつた。それはかうである。先頃新聞に市の経理の記事が出た。プラトンが検閲して通過させたのである。ところが、その中に市の経理の失体を指※[#「てへん+適」、第4水準2-13-57、161-下-11]してゐて、それが誤謬の事実に本づいた立論であつた。そこで市長が、自分を侮辱したものと認めて、長官に訴へた。長官はプラトンを呼んで譴責した。「どうも個人攻撃を遣らせては行かんなあ。あんな当てこすりをするといふことがあるものか。君は読んで見て分からんのか。それでは見ても見ないでも」云々と云ふ小言であつた。それからと云ふものは、プラトンは一しよう懸命に「個人攻撃」を通過させまいと努めてゐる。併しどこまでが言論の自由で、どこからが個人攻撃になると云ふ境界を極めるのが、むづかしくてならないのである。そこでプラトンは編輯長にかう云つた。
「どうも市長の事のある記事は通過させられないのです。侮辱だと云はれますからなあ。こつちがひどい目に逢ふです。いつかもあなたに話した筈ですが。」
「でも此記事には少しも市長を侮辱してゐる処はないぢやありませんか。排水工事の事が言つてある丈で。」
「一体排水工事とはどんな物ですかねえ。」かう云つて、記事を朗読し出した。市内が一般に不潔である。汚物が堆積して、土地に浸潤する。死亡比例が高い。ざつとこんな事が書いてあつて、その結論として、久しく委員の手に附托せられた儘になつてゐる排水工事案を解決して貰ひたいと云つてゐる。朗読を聞いてゐた編輯長が云つた。
「皆事実ぢやありませんか。」
「いゝ、え。事実でないです。」プラトンは臆病な心から、こんな記事を見ると、お上に対して喧嘩を買ふのだ、虚偽の事を書いて、其喧嘩の種にするのだとしか思はれなくなつてゐるのである。プラトンが為めには、市は外の市より清潔で、伝染病の巣窟ではないのである。
「いや。どうもいたし方がありません。其筋へお話をしませう。あまりひどいですから。」
「そんなら御勝手に。」
 編輯長は冷淡に会釈をして、原稿を引つ攫んで行つてしまつた。一時間半程立つと、又非常に不平らしい顔をして、急いで這入つて来た。
「今市長の処へ行つて、全文を読んで貰つたのです。侮辱なんぞにはなつてゐないと云ふのです。これここに、差支なしと書いて貰つて来たですが。」
「市長が差支なくても、わたくしが差支があるです。」プラトンは強情にかう答へた。編輯長は又原稿を引つ掴んで行つた。それから二十分程立つと、電話がちりん/\と鳴つた。
「どなたですか。」
「知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。」
 プラトンの顔は真つ赤になつた。そして目をきよろ/\させて、救を求めるやうに、あたりを見廻した。それから間もなく真つ蒼になつた。そして先頃宴会で胴上げをせられた跡でしたやうな手附きをした。
「どうも、その、市の事があまり悪く書き過ぎてありますので。」微かな、不慥かな声である。
「なに。ちつとも聞えない。なーぜーはーいーすーゐーこーうーじーのーきーじーをーつーうーくわーさーせーなーいーかーと云ふのだがなあ。」
「余り悪く、実際より悪く書いてありますから。」
「なに。もつと大きな声で言はんか。」
 プラトンは前の詞を今一度繰り返した。そして長官の返事を待つてゐる。受話器を持つてゐる手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出てゐる。顔の表情には非常な恐怖が見えてゐる。長官はなんと云つたか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであらう。受話器を鉤に掛けた時には、常のやうに椅子へ復《かへ》ることが出来ないで、重い荷を負《しよ》はせられて、力の抜けた人のやうに、椅子の上に倒れた。そして目を瞑《ねむ》つて、長い間ぢつとしてゐた。只受話器を持つた左の手がぶる/\慄えてゐる。そして右の目の筋肉が痙攣を起してゐる。
 プラトンは水を一ぱい飲んだ。併し全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が結代《けつたい》する。外貌は定めて余程あぶなく見えたであらう。その室に這入つて来た下級参事官は、もう此人も長くはない。此位置が明くなと思つたさうである。どうも気分が悪くて事務が執れないと云つて、辻馬車に乗つて帰つた。午食《ひるめし》は食べたくないと云つて食はなかつた。晩方印刷所から校正刷を持つた小僧が来た時には、プラトンは少しも見ずに、どの紙にも認可と書いて渡した。そして夫人にかう云つた。
「グラツシヤアや。どうも己はもう駄目らしいよ。」
 電話の鈴《りん》が鳴る度に、プラトンは全身を震はせて、一種の恐怖が熱いものゝやうに心の臓に迫つて来るのを感じた。そして床に起き直つて耳を欹《そばだ》てゝ聞いてゐる。毒々しい声が「なぜ通過させないのだ」「どうして通過させないのだ」と云ふやうに思はれる。それから人事不省になつてゐると、誰やら受話器を持つて来て、無理に耳へ押し当てる。さうすると、こん度は意地の悪い外国通信記者の声がする。これは二三日前に会談をしたのである。それがこんな事を囁く。「どうですか。念の為め今一度承知して置きたいのですがな。どうしてもフランスの記事を一切通過させないと仰やるのですか。」とう/\しまひには、平生仲善しの衛生課長が幻のやうに見えて、顔をくしや/\にして叫んでゐる。
「どうも個人攻撃は行かん。我輩の監督してゐる汚物排除は善く行はれてゐるのに、毎号新聞で悪く言つてある。なぜあんな記事を通過させるのですか。どうも其筋へ言はんでは済まされんです。怪しからん。」
 そのうち体の中で不思議な感じがした。何物かがちぎれて、ちく/\引き吊つて、ぶる/\震えてゐる。それから傍の卓の上にあるコツプの水を取つて飲まうとすると、右の手が言ふことを聞かなくなつてゐた。丸で手ではなくて外の物のやうであつた。
 プラトンはびつくりして、「グラツシヤア」と一声呼んだ。その声が小さくて、咳枯《しやが》れてゐて、別人の声のやうであつた。夫人は隔たつた室にゐたので、此声が聞えなかつた。小さいニノチユカがゴム毬を抱いて走つて来て、すゞしい声で云つた。
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びませうか。」
 夫人が室に這入つた時には、プラトンは泣いてゐた。そして左の手と足とが利かなくなつて、右の目が見えなくなつたのを、容易に打ち明けて言はなかつた。
     ――――――――――――
 夫人の話の済んだ時は二時が鳴つてゐた。
「さあ。もうそろ/\行かなくちやあ。」学士がかう云つた。
「もう目を醒ましてゐるかも知れません。ちよつと見てまゐりませう。」夫人は泣き出しさうな声でかう云つて、病室へ行く。
「どれ。行つて見ませう。」学士は夫人の跡に附いて行く。
 病室に這入つて見ると、プラトンはぢつとして、両眼を大きく※[#「目へん+爭」、第3水準1-88-85、165-下-7]《みひら》いて、意味もなく、しかも苦しげに、聖像の方を見詰めてゐた。



初出:板ばさみ 明治四四年七月一日「三田文学」二ノ七
原題(独訳):Der Zensor.
原作者:Evgenii Nikolaevich Chirikov, 1864-1932.
翻訳原本:Eugen Tschirikow: Erza[#「a」にウムラウト]hlungen. Deutsch von Maximilian Schick. Berlin, Bu[#「u」にウムラウト]hnen und Buchhandlung russischer Autoren, J. Ladyschnikow. o. J.

底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年12月15日公開
青空文庫作成ファイル:
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