青空文庫アーカイブ
旅からのはがき
水野葉舟
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)旅舎《やどや》で
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今、花巻に着いた
九時、今、花巻に着いた。目的地の遠野行きの馬車はすぐ出るんだが、道はずいぶん遠いそうだし、それにそういそぐわけではなし、昨晩はろくに眠れなかったから、今日は一日ここで眠ろうと定めた。こんな事なら仙台で降りればよかった、と思ってる。
ここに来て、今、S君に電報を打った。花巻。斉藤旅館にて。
寂しいもんだ
知らぬ土地の旅舎《やどや》で一人ぽつねんとしているってことは寂しいことだ。僕は何だか、とんでもないところに来たような気がするほど寂しい。寂しい。だから君にはがきを書く。一層寝ちまえ? 夜八時、花巻にて、M生。
今、花巻を発つ
午前九時、前の街道《とおり》に馬車が来た。今これからそれに乗って、ここを発つのだ。二三日前、遠野へ行く途中、この馬車が猿ヶ石川の断崖にさしかかるところで転覆したそうだ。それで、今朝も宿屋の人達に道の悪いこと、馬車の危険なことなどを散々に言っておどかされた。
しかし、遠野に行くのには、この馬車に乗るより外に、何の方法もないのだ。人車はあるが、六円の七円のと言ってとても僕等の手に合う筈はない。でも危険だと言われると、さすがに不安だ。旅に出るとよくこんな目に逢う。人の悪い奴等だ。でも馬車に乗るときめた。
そして、この朝からの愚痴を、君に書いたのだ。ちょうど馬車が急に動き出さないものだからね、その間に。……二日、花巻の町はずれにて、M生。
猿ヶ石川の川岸にて
あれから花巻の町はずれで、また北上川を渡った。長い長い船橋だった。今は、猿ヶ石川の岸に沿った断崖の上を通りすぎて、ちょっとした村で馬車がとまった。散々おどかされた途中は、先ず無事だった。
これから、遠野まで六里だそうだ。まだ大分ゆられなくっちゃ目的地には着けないんだ。もううんざりしている。午後二時すぎ、M生。
夜――吹雪
今やっと遠野に着いた。夜の十時半だ。
日はちょうど、宮守と鱒沢との間で暮れた。山の中腹を縫った道を永いあいだ馬車が駆けて行くうちに、四辺《あたり》が次第に暗くなって来た。おまけに雪が降り出した。鱒沢を過ぎる頃にはもう吹雪だ。馬車に腰をかけて肩から上のところは窓、その窓に垂幕があるばかり、外の雪は容赦なく吹き込んでくる。寒さにたえられぬ。僕は外套でしっかりとからだを包んで坐っていた。足の先が切れるかと思うほど冷かった。
その吹雪の中を馬車が鱒沢を出て小一里も来たろう。路傍に並木のあるのが見えるところで止った。すると後の馬車から誰かが降りたらしく、
「お休みなんし!」と言って黒影がちらと見えたと思ったら、どこかに消えてしまった。
僕は何だか不思議なものを見るような気がした。
それからまた一走り、遠野の町にはいると、さすがにどことなく明るい。で今、途中で聞いた遠野で一番だと言う宿屋の高善《たかぜん》と言うのに着いたところだ。何はとも角、今夜は、眠れるんだ。もっと書きたいが、これで御免を蒙る。さよなら。遠野にて、M生。
言葉が通じない
あの翌日、起きるとS君の家を訪ねた。で、すぐそこに移る事にした。S君の家は、宿屋のある町通りから、少し横にはいったところ。
まあ、君にいろいろ報せたいことはあるが、何より第一僕は困ったよ。と言うのはね、あの次の日にS君の家に行くと、S君の阿母《おっか》さんが出てこられたから「このたびは御厄介になります」と言って挨拶をしたんだね。先方でも何か言われたようだが、僕には何と言われたのかよく分らないんだ。先方でも僕の言葉が通じなかったと見えて、変な顔をしておられるのさ。妙だったね。それから、気を付けて聞いて見るんだがここの言葉はいかにも分らない。
それから、実に寒い。まだどこを見ても雪ばかりだ。目が痛いようだ。僕どうしたのか、顔面神経痛にかかったらしい。右の半面が痛んでならない。やはり寒いせいだろう。
いずれ又二三日中に書く。出立は十二日くらい。六日昼、遠野S君方。M生。
底本:「遠野へ」葉舟会
1987(昭和62)年4月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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