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輝ける朝
水野仙子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)豪《えら》い人間

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「目+爭」、読みは「みは」、第3水準1-88-85]
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 さうだ、私はそれを忘れないうちに書きとめて置かう。この輝いた喜の消え去らぬうちに、このさわやかな心持のうすれゆかぬうちに……私はこの朝の氣持を、決して忘れる事はないであらうけれども、だからといつて書きとめて置く事の決して無益なことではあるまいと思ふ。却つて私の病に於ける無爲の時間が、その爲に生きこそはしても。
 それは昨夜のことであつた。……いや私は先づいきなりその事に筆を進める前に、ついでだから少し自分のこの頃の状態をも記して置かう。
 日記を怠つてからもう七年になる。もし私がこの世から消え去つたならば、極めて少數の人に送つた手紙以外には、私自身の直接に觸れた生活は、その斷片をも人に窺はれなくなるであらう。(嘗て丹念につけたことのある日記も今はすべて燒いてしまつた。)そしてそれでいゝのだ。私といふ者がないあと、私に關したすべての事は消え去れ! 私は遺して置かなければならぬ何物をも持つてゐないと信じてゐる。そしてそれは一番己を知つた言葉だと思つてゐる。私は別に豪《えら》い人間でも、感心な人物でもない。人は別に私の生ひたちやその履歴を必要としないであらう。だからこそ私は氣安くその日その日を送つてゐられるのだ。
 けれども、それは決して私がうかうかとのんきに日を暮してゐるといふ意味ではない。私とても生きてゐる以上は、何かこの世もしくは人々の上に役に立つことをしたいと思ふ。さうしてある場合その自信を失つた時には、せめて無害な人間でありたいと思つて心を配る。そんな時には一寸廊下のたたずみにも、もしや人の邪魔になりはしないかと、おどおど自分の身をせばめたりする。或は私の良心も病んでいぢけてゐるのかも知れない。で、實をいふと、私位氣をつけてその日その日を送つてゐる者も少いのだ。こんなわけで、その日その日の記録を自分の心一つに疊んでしまふにはあまり惜しいやうな氣のする時もあるけれど、死後には何物をも遺すまいとする心から、それを文字にするといふ事はなるべく避けてゐる。それだのに今日はなぜか私の内部のものがそれを促して止まない。一度書いてまた灰にするとも、それではともかくその私の心の要求に從つて行かう。
 この部屋がどういふ室であるかはあの壁に懸つた體温表が、無言ながら完全にそれを語つてゐる。大分熱は下つて來た、七度の赤い線をまん中にして、青い鉛筆の跡が、ちようど蒲公英《たんぽぽ》の葉の線のやうに延びて行く。親もなく、夫もなく、子もなく、たつた一人の兄弟より外にはなかつた身の、あまり劇しい生の執着とてはなかつたけれども、病氣がかうしてだんだん快くなつて見れば、やつぱり嬉しい。助かつたやうな氣がする。そしてその助かつたやうな氣のするところから、これまでにない命の貴さが感じられる。私はやつぱり生に執着がなかつたわけではなかつたのだらう。たゞあきらめの分子が、他の情實に纒《まと》はられた人よりも幾らか多かつたに過ぎないのであらう。私の鋏が切れ味よかつたわけではなく、私はたゞ切り易い布を持つてゐたに過ぎないのだ。ともあれ私は感謝する。そして私を癒したものゝ前に、私自身の生命を大切に哺《はぐく》んで行かう。
 別に語る人とてはない田舍の病院の一室に、私はかくて寂しく滿足してゐる。朝な朝な昇る朝日は、そのうららかな影を斜に壁に投げ、暮れて行く日は障子を通し、硝子戸を透してゆふべゆふべに赤く輝く。やがて徐《おもむろ》に夜が來る。さうして靜なる眠の中へ、常に絶えざる「明日は」の希望に導かれて入つて行く。それは吾々の休息といふよりも、或は忘却すべく、或は新なる力の湧出を待つべく、その日その日に下される救である。さて私は時々夕方の檢温の結果などによつて、氣に入つた讃美歌の一くさりを誦《よ》み、ぽつかりと音もなくともる電燈を見つめながら、ベツドの上に四肢をのばしてゐる。こんな時、私の肉體と精神は最も自然に融和し、自己といふものをはつきり意識しなくなるために、時たま私の空虚を覗つて押し寄せる寂寥や、悲哀の念から全く脱却し、無念無想に近い境をさまよつてゐる。そして私はそんな時が非常に好きであつた。また病氣の上にも、それは微妙な好い働を働くに違ないと信じてゐる。
 昨日の夕方もちようどこんな風な状態になつてゐた。そして私は幸福であつた。多くの幸福な人々の知らない、寂しい不幸な人間のみが時々味ひ得る、つゝましやかな自足した幸福さであつた。いつの間にか日はとつぷりと暮れてゐた。電燈は夜の世界から完全にこの一室を占領したのに滿足したらしく、一時自信をもつてその光輝を強めたけれども、やがて彼はその己の仕事になれた。さうして最早一定の動かない光をのみ、十分なる安心と、僅なる倦怠とのうちに發散した、恰も私一人の上にはそれで十分であると見きはめをつけたかの如くに。
 私は無意識に手をのばして枕許にあつた本を取り上げた。それはグリムのお伽噺であつた。そしてやつぱり無意識にぱらぱらと頁を繰つた。ふと扉のはしの方に何か鉛筆で書き込んであるのが目についた。
「奇蹟は信仰の副産物なり――」
 それは確に自分の字であつた。いつ何を感ずつてこんなことを書いたのであるか、今ははつきりしなかつたけれども、とにかくある思想の閃がそのとき私をこんな言葉に驅つたのであらう。私は擽《くすぐ》つたいやうな氣がしながら、やつぱり眞面目になつて、この言葉の内容を吟味しかけた。
 ちようどその時であつた。突然どつと隣室に笑聲が起つた。私はびつくりして眼を※[#「目+爭」、読みは「みは」、第3水準1-88-85]つた。けれども、その笑が何も自分に關係のないのを知ると、また再び靜な自分にかへつて、あてもない瞑想を續けようと身じろぎを愼んだ。
 しかし次の瞬間には、全く思ひもかけず唐突に起つた※[#「ワに濁点」、1-7-82]イオリンの強い絃の音に、われにもなく心をとられて耳を欹《そばだ》てた。私は全くこんな田舍で、かうした樂器の音にめぐりあはうとは思ひもかけなかつた。絃の音ははじめ、一朝にしてすべての聽覺を集めて奮ひたつ如く起り、やがて恥ぢらふやうな躊躇をもつて止んだ。
『やれやれ。』
 一つのだみ聲がそれを促した。
 私は全身の期待を以て耳を欹て、いつも音樂によつて心の奧に隱れてゐるかなしみを引き出され、ひそかに涙するその心持を早くも味ひながら、※[#「ワに濁点」、1-7-82]イオリンの音のむせび出すのを待つた。
 それはやがて起つた。ところが、はつと思ふ間に卑しげな流行歌が得々として彈き出された。しかもそれは、あの都大路を唄ひつゝさすらひ歩く墮落者の肩にあてられた※[#「ワに濁点」、1-7-82]イオリンほどの哀愁もなく、絃の音はその情操のない主人に驅使されることの不遇を悲しむ暇もなく、たゞ義理にうたつてゐた。私はがつかりしてしまつた。
 けれども考へて見ればそんな期待を抱いた私が間違つてゐたのだ。一體あの男は半氣狂のやうな男なのだから……と、私はもう全く自分一人の世界から脱け出してしまつて、頻に隣室の事に氣をとられてゐた。彼は二三日前に一寸した腫物か何かで入院したのであるが、それからといふもの、おだやかな日和の中に襲つて來た狂風のやうに、靜な私の周圍を掻き亂してゐるのであつた。廊下を通る看護婦を呼びとめて、左程必要でもない質問をしてみたり、自分の部屋を間違へていきなり[#「いきなり」は底本では「いきなりう」と誤植]私の部屋に飛び込んだりする。彼はこの近在の物持の息子で、大分この町の所謂上流にも勢力があるらしかつた。いろいろな見舞の客が出入した。そして絶えずひとりぼつちでゐる事の出來ないやうに、必ず二三人の取卷を必要とした。その連中は、若い小學校の教員とか、少し新しがつた事の言ひたい役場の書記とか言つたやうな者達であつた。彼等は毎晩のやうにやつて來た。そしてその金持の息子を圍んで、彼を煽動したり賞讃したりしながら、値の高い葡萄酒などを振舞はせた。
 思ひ出したやうに手に取つた樂器は、また思ひ出したやうに置かれてしまつたらしく、ふつつりとやんでしまつた。
『寒いなあ。』
 誰かゞ火鉢を掻きほじつたらしく、ぱちぱちと炭のはねる音がした。
『神崎は遲いね。』
『いつたい何時頃ですか、もう?』
『……八……時四十七分。』
『時に、君は子供が何人あるんだつけ?』
『三人半です。』
『半とは……?』
『半分だけ出來てるんです、つまり胎生五ケ月でさ。』
『ふゝゝ、君も隨分盛んだねえ、いつも會ふ度に子供が殖えてるぢやないか、子供を作るのをたゞこれ事としてるんだらう。一體君が眞面目くさつた顏をして、修身の講義なぞをしてるのかと思ふとをかしくなるよ。』
『何しろ吾人々類の究極の目的は、アミイバの昔よりたゞ生殖にありですからね。』
『とすると、君は大に人類の目的を果してゐるわけなんだね、はつはゝゝゝ。』
 私はくるりと横を向いて、背をその壁の方に向けた。手に取る如く聞える隣室の話にわづらはされまいとして、顏をしがめたり、目を閉ぢたりして見るけれど、氣にすれば氣にするほど却つて神經はあらはになつて、いつしかまた物音や話聲に觸れて行く。
『今晩は。』
 重い板戸が開いた。
『やあ、遲いぢやないか、まあはひり給へ!』
 廊下の外では着物の袖か何かを拂ふ音がして、
『なんだ、降つて來たのかい?』と、びつくりした聲が中から應じた。
『ちらちらやつて來ましたよ、このこまかい雪の模樣ぢや、本ぶりかもしれないですね。』
『おやおや。』
『道理で何だか寒いと思つた――また明日は大變だぞ。』
 板戸が閉められて、新來の客の席を取るけはひがした。
 私は首を擡《もた》げて、窓の硝子の外をのぞいて見た。けれどもその内側に光る硝子の外はたゞまつ暗で、耳をすましても、雪の降るらしい音も響もなかつた。しかし雪といふ言葉を聞いた刹那から、ひえびえとした寒さが襟元を襲つたやうな氣がした。二月といつても、北國ではまだ冬の最中なのだから。
『僕は今途中でへんな目にあつて來たんですがね――』と、新しい聲がおづおづ何かに氣をとられてゐるやうに言ひ出した。
『何だい、どうしたんだ?』
『僕がこゝに來ようと思つてね、あの專賣局の裏道を來ると、まつ暗い中に一人の女が蹲《うづくま》つてゐるんだ。そして何か獨語《ひとりごと》をいつてるんだ。僕は氣狂だらうと思つて、遠卷に通り過ぎながらよく見ると、泣いてゐるんだね、はてなと思つて暫く立ちどまつて見てゐたんだ……』
 みんなが耳を聳《そばだ》てたらしく、誰も言葉を挾む者がなかつた。
『何だか知れないが獨語《ひとりごと》をいつては泣いてるんだ。三つ位の男の子をおぶつてるんだが、その子供がまた火のついたやうに泣いてるんだ、「あつち! あつち!」と、子供は後の方をゆびさして、一所懸命に手足をじたばたさせながらふんぞりかへつてゐるんだ。その子供の一所懸命な力で、母親は時々倒れさうになるんだけれども、「おゝよしよし、泣くなよ、今にいゝとこさ連れてつてやつからな。」なんて言ひながら、またぶつぶつと獨語をいひ出すんだ。「死んぢまふ、死んぢまふ、さうだ死んぢまふ、何もかもみんな持つてつちまつたんだ、着物一枚、錢一錢だつて殘つてやしない、あんな家さ歸つたつて仕樣がねえ、さうだ死んぢまふ、死んぢまふ、のんだくれて歸つて來て、おらを出て行けだつて、打つたり叩いたり……」こんなことを言つちやあくよくよと泣いてゐるんだ。「父ちやん! 父ちやん!」つて子供が泣くと、「おゝよしよし、あんな父ちやん戀しがんでねえぞ、父ちやんはな、あつちや行つちまつたんだ、おゝ、さう父ちやん父ちやんていふなよ!」そしてまたおろおろと泣き出すんだ……』
『はゝあ、夫婦喧嘩でもして來たんだね。』と、小聲で誰かゞ言葉を挾んだ。
『僕は何だか氣味が惡くなつてね、うつちやつて來るわけにもいかず、ぢつと隱れるやうにして後の方に立つてゐると、やがては女はすたすたと歩き出すんだ、それが裸足でね、そして二三間あつちに行つたかと思ふと、またこつちの方に引き返したりして、しよつちうぶつぶつ口の中で何か言つてるんだ。何でも二三十分間あつちに行つたり、こつちに行つたりしてたらうね……』
『一體君がそこにゐるのを女は知つてたのかい?』
『さあ、あたり前なら氣付かない筈はないんだが、どうですかね、併しどつちにしろそんな事はあの女に取つて別に問題ぢやないんでせう……』
『まあ、それからどうしたんだい?』
『暫くそんな事をしてましたがね、今度は突然すたすたと歩き出した。僕はぎよつとしましたね、何だか汽車道の方を目指して行くのらしいんだ。子供は聲を嗄《から》して一層烈しく、「いやあいやあ、あつち! あつち!」とひつくりかへる、それでも女はすたすたと、今度は後も見ずに歩いて行くんだ。僕は仕方なしにやつぱり後について行つた……女はどんどんと怖いものを知らないやうに闇の中に突進して行く。子供の泣き叫ぶ聲がだんだん嗄れて來て、雪はちらついて來る……僕は何だか怖くなつて來た。ぐるりを見廻すとまつ暗だし、女の足の早さといつたら、はじめは確に二三間離れてゐたんだのに、子供の聲がだんだんだんだん遠くなつて行くんだ。僕は誰か人が通つたら、その人にわけを話して一所に行つて貰はうと思ふんだけれど、生憎誰も通らないんだね、そのうちに不意と闇の中に提燈が見えた。まあよかつたと思つて行き合ふのを待つてゐると、それはいゝ加減なおやぢだつたがね、前に行き合つた女のたゞならぬ容子に驚いたものと見えて、ちらり僕と見合したその顏といつたら、非常に物怖《ものおじ》をしてゐんだ、そして僕が話しかけようと躊躇してる間に、遁げるやうにして行き過ぎてしまつた……それから僕はますます氣味惡くなつて引き返して來てしまつたんだ……』
『女はどうしたんだい?』
『あの道を一直線に歩いて行つたんだから、やつぱり踏切の方に行くつもりなんでせうね。』
『今の事なんだね?』
『うん今の事さ、僕はまつすぐにやつて來たんだから……今頃はもう行きついてるよ、踏切に……』
 一寸の間ひつそりとなつて、誰も口を出す者がなかつた。
 氣がついてみると、私は全身耳のやうになつて息を潜めてゐるのであつた。體が石のやうにつめたく固くなつてゐた。
 一體誰もその女を助けようとはしないのだらうか?
『汽車に轢かれるつもりかも知れないね。』と、暫くして一人が云ふ。
『なあに、大丈夫だよ、そんなに滅多に死なれるもんか!』
『併しどうだかわからないよ、何しろ笑談ぢやあんなところをうろついてゐられないからね。』と、それを振り捨てゝ來た男の聲は言つた。
『なあに、それあ死なうと思つてるのはほんたうかも知れないが[#「ないが」は底本では「ないか」と誤植]、幾らさう思つたつて、さう造作なく死なれるもんぢやなあいよ[#「なあいよ」はママ]。汽車がごうとやつて來て見給へ、恐しくなつて急に目がさめてしまふよ、打つちやつて置いたつて大丈夫さ、誰だつて命の惜しくない者はないからね、いざとなるとやつぱり考へるよ。』
『考へたら勿論死ねないさ。併し、ほんとに死ねる時には、そんな考へるなんて事がないんぢやないのかね、女なんか殊に思ひつめて飛び込むんぢやないのかなあ。』
『そんなのはよつぽど死神にとつつかれてゐるんだ、そしてそんな奴は生きてたつて仕樣がない、どんどん死んぢまつていゝんだ!』
『何しろ今に十時の上りが來るよ!』
 そして人々は變に乾いたわらひ聲をあげた。
『いつか……二三年前の事だつたが、公園の後の鐵道に男が一人ひつかゝつたんですね、無論自殺です。その時あとでその男が麥畑の中にしやがんでゐたのを見たといふ者があつて、そこに行つて見ると、煙草の吸殻が十本ばかり落ちてゐたつていふんですな。こんなのを見ると、いよいよとなつて飛び込む前に、隨分死なうか死ぬまいかと考へるものらしいつて、その時立ち會つた巡査が言つてましたよ。何しろ……』
『あ! 汽車ぢやないか?……』と、誰かゞ言つた。
 人々は默つて耳を欹てた。
『風の音だよ!』
 いかにも、少し風が出たらしく、地上に大きく轉んで立木に當る音が、やがてさらさらと音をたてゝ引いて行つた。
 吾等、死の傍觀者たち[#「たち」は底本では「だち」と誤植]!
 私の心はひどくくるしめられてゐた。
 今一人の女が、暗い闇の中を、吹雪の中を、死と生との不確實な境界線を彷徨してゐる。彼女の夢心地を僅に現實にかへすものは、その背に泣き叫ぶ子供の聲であるけれども、しかも彼女はその痛さに刺戟されて、ますます夢の中に己の取らうとしてゐる道を固執する。誰も彼女を見てゐる者がない、そして誰も救を求むる子供の聲に耳を藉《か》す者がない。よしや彼女の覺悟が一時の思ひつきであるとしても、はづみはどんな完全な機會をその死に與へようとも限らないではないか。
 吾々は人が決して生きる事が不可能でないのに死なうとしてゐる時、もしくは死ぬかも知れない時、十分に人力の及ぶ範圍を持ちながら袖手傍觀してゐていゝものであらうか。或は人の運命といふものは、私達の盲目な力によつて左右され得るものではないかも知れないけれども、また大きな運命の繰る道具として、ある一つの運命にかゝりあふことがないとも限らない。よしんばその己の役目でもない役目に飛び出したとして、「お前の知つたこつちやない!」と、不可知の力から叱りつけられ嘲笑はれた場合には、その時こそ初めて首を垂れて引き下ればいいわけではないだらうか。初めから「どうならうと私の知つたことではない。」とすましてゐるのは、謙遜には似て、却つて運命の意志を忖度し、窺ふことである、そしてそれは何といふつめたい態度であらう!
 私はこんなことを考へてゐた。それは私の良心に打つ早鐘であつた。そしてひとりで、隣室の誰一人もがその助力に取りかゝらうとしないのに腹をたてゝ焦慮した。けれども、それはやがて正當に己にかへるべき自責であつた。人はともあれ、もしそれ程切實に一つの生命を尊ぶならば、汝の愛がそれほど深い愛であるならば、自分こそは何物をも措いて彼女の後を追ふべきである。そしてその事は決して一刻も猶豫すべきではない。
 けれども私は病氣であつた。併し歩けない程ではないと私の良心はいふけれども、それでも長い長い間の辛棒の揚句、やつとこの頃になつて院内の散歩を許されるやうになつたのだのに、どうして夜中、しかもこんな吹雪の中を出かける事が出來よう、明日からまた早速發熱のために苦しまなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」と誤植]ならないではないか。そしてそれが何にならう、たゞそれは折角私を癒した者への、この上もない忘恩の仕業に過ぎないではないか?
 またある心はいふ。それは或はさうかも知れない、けれども奇蹟が信仰によつて生じる事をお前が眞實に信ずるならば、今の場合何もその結果を想像して心配するには當らないではないか、お前が一つの生命を尊び、それを救ふために爲す行爲は、また必ずお前の生命をも尊び救ふであらう。お前の良心は歌でも唄ふやうに理想を語るけれども、恰も當然の如くにその實行を避けるのだ。
 全く、どうしたといふのだらう、私の體は千斤のおもりでもつけられたやうに重く、生きながら死んだやうに、身じろき一つしないのである。私はたゞ死馬を鞭つやうに自分を責めさいなむ。もしも私がほんたうに健康の體であつたならば……そしたら恐らくはそつとこゝを脱け出して、恐怖におびえつゝも、ともかくそこらを搜し廻つたであらう。けれども、さう思ふことは要するに今のこの怠惰な心の辯解に過ぎない、私はやつぱり現在の自分を十分に責め得る。持たでもいゝ良心ゆゑに私は責められる。凡そ人が道義の念に燃え、そしてその事に正しい肯定と喜悦とを感じながらそれを實行に移す時、かくも私の如く臆劫で、そしてその事に、ある羞耻の念すらも感ずるものだらうか?
 私は苦しんだ、そして、苦しかつた。自分の良心の不徹底ゆゑに苦しかつた、そしてある瞬間はまた、そんなに苦しむ事が愚しいやうな、一寸笑つてやりたいやうな氣もした。たゞ依然として私の體は重かつた。
 それからどの位の時間が經つたか私は知らない。突然、
『あゝ汽車が來た!』といつた隣室の聲にぎつくりして私は耳をすました。
 今度こそそれは眞實であつた。一寸風の音かともまがふやうであるけれど、ごとごとごとと一つの調子を作つて、ある時は高く、ある時は低く、遠くから近くへ、更けて行く夜の闇の底を縫つて、その物音は走つて來る。しかもなほ天と地は默々として靜である。それは一體極度の傍觀なのであるか、それとも極度の干渉なのであるか?……
 言ひ合せたやうに隣室の話聲がぴつたり止つた。そしてその誰もが、闇を裂いて鳴り渡る非常汽笛の音を恐しく待ち受けるやうに、しいんとした間を作つた。
 私の體は熱くなつた、そしてやがてつめたくなつた。私は固くなつて、たゞ何者にともなく、何事をともなく、祈り願つた。それは、危い一つの命のためによりは、自分の良心の苛責から釋放される事を懇願するためにのやうであつた。
 ……無關心な響を殘して汽車は通り過ぎた。そして何事もなかつた。やつと手足の緊縛を許された罪人のやうに、私は萎えた體を起して、立つて窓を明けた。光は流れて斜に庭の一部分と隔離室の建物の側面とを照した。地は既にほんのりと白くなつてゐた。そして時折風に亂れながら、おとなしく、つゝましく雪が降つてゐた。
『なあんだ!』と、あくびまじりの聲が言つた。
『やつぱり死ねないものとみえるね。』と、惜しい事をしたといはぬばかりの調子の聲が言つた。
『だから僕が言つたぢやなあいか[#「なあいか」はママ]、大丈夫死にやしないよつて、眞面目に考へるだけ馬鹿な話さ!』
『しかし、今はやれなかつたかも知れないが、この次のでやるかも知れないよ。』
『なあに、大丈夫、それ[#「それ」は底本では「それれ」と誤植]よりも今頃は家に歸つて、おゝ寒かつたなんて言つて燒芋でも喰つてるかも知れないよ!』
 そして人々は哄笑した。

 私は昨夜熟睡が出來なかつた。どうやら深い眠に落ちかけた時でも、轟と地を這ふ汽車の響が耳に入ると、おぼろな意識の底からある懸念が頭を擡げた。さうして私は幾度か寢返を打つた。明けがたになつて漸く、短くはあるが眞の眠を眠つたやうであつた。
 今朝になつて、私はほのかな温味の中に、ぽつかりと目を覺した。そして、「たうとう無事に濟んだ!」といふ明な意識は私を非常に幸福にした。私は重荷でも下したやうに身の輕くなつてゐるのを覺えた。部屋の中はまるで紙をはがしたやうに明るく白くなつて、いつの間にか掃除女の入れて行つた火鉢の火がまつ赤に燃え、ある部分は早くもその表面を灰にしながら、部屋の中を暖めてゐた。鐵瓶の湯は煮えたち、かはいらしいおちよぼ口から揚げる湯氣に陽炎がたつてゐる。
 私はつめたい疊を踏んでいきなり窓を開けた。――おゝ、なんといふそれは美しい眺であつたらう! 雪はすつかりあがつてゐた。さうしてあらゆる地と、丘と、草木と、建物とが、この上もなく清く洒した布で蔽はれたやうに、さうして何もかもが清められたやうに、靜に息づいてゐる。その見るかぎりの白さには全く思ひもかけぬ青空が、驚異そのものゝやうに瞬き、さうしてどこからともなくさす朝の日の輝が、やんわりとそれらを包んでゐる。何といふ今朝の、このすべてが清々と美しく輝いてゐることであらう!
 さうだ、それにちがひない、それは昨夜のくるしみによつて贏《か》ち得た朝であるから……でなければ、それは單に雪のあしたの眺に過ぎないであらう……私は奇蹟を見たのだ。


底本:「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」不二出版
   1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷発行
底本の親本:「水野仙子集」叢文閣
   1920(大正9)年5月31日発行
※底本にはほとんどルビがないが、入力時にいくつか補った。
入力:小林徹
校正:丹羽倫子
1998年10月28日公開
2001年11月14日修正
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