青空文庫アーカイブ

龍と詩人
宮澤賢治

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
-------------------------------------------------------

 龍のチャーナタは洞のなかへさして來る上げ潮からからだをうねり出した。
 洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。
 チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のやうにきらきら光る海の水を淺黄いろの天末にかかる火球日天子の座を見た。
(おれはその幾千由旬の海を自由に漕ぎ、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。それだのにおれはここを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛くも外をのぞくことができるに過ぎぬ。)
(聖龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪をお解きください。)
 チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかへり見た。そのとき日光の柱は水のなかの尾鰭に射して青くまた白くぎらぎら反射した。そのとき龍は洞の外で人の若々しい聲が呼ぶのを聽いた。龍は外をのぞいた。
(敬ふべき老いた龍チャーナタよ。朝日の力をかりてわたしはおまへに許しを乞ひに來た。)
 瓔珞をかざり黄金の太刀をはいた一人の立派な青年が外の疊石の青い苔にすわってゐた。
(何を許せといふのか。)
(龍よ。昨日の詩賦の競ひの會に、わたしも出て歌った。そしてみんなは大へんわたしをほめた。いちばん偉い詩人のアルタは座を下りて來て、わたしを禮してじぶんの高い座にのぼせ(三字不明)の草蔓をわたしに被せて、わたしを賞める四句の偈をうたひ、じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓に去った。わたしは車にのせられて、わたしのうたった歌のうつくしさに酒のやうに醉ひ、みんなのほめることばや、わたしを埋める花の雨にわれを忘れて胸を鳴らしてゐたが、夜更けてわたしは長者のルダスの家を辭して、きらきらした草の露を踏みながら、わたしの貧しい母親のもとに戻ってゐたら、俄かに月天子の座に瑪瑙の雲がかかりくらくなったので、わたくしがそれをふり仰いでゐたら、誰かがミルダの森で斯うひそひそ語ってゐるのを聞いた。
[#ここから1字下げ]
(わかもののスールダッタは、洞に封ぜられてゐるチャーナタ老龍の歌をぬすみ聞いて、それを今日歌の競べにうたひ、古い詩人のアルタを東の國に去らせた。)
[#ここで字下げ終わり]
 わたしはどういふわけか足がふるへて思ふやうに歩けなかった。そして昨夜一ばんそこらの草はらに座って悶えた。考へて見るとわたしは、ここにおまへの居るのを知らないで、この洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたは、ある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。そこで老いたる龍のチャーナタよ。わたくしはあしたから灰をかぶって街の廣場に座り、おまへとみんなにわびようと思ふ。あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。)
(東へ去った詩人のアルタは、どういふ偈でおまへをほめたらう。)
(わたしはあまりのことに心が亂れて、あの氣高い韻を覺えなかった。けれども多分は、
[#ここから2字下げ]
風がうたひ
雲が應じ
波が鳴らすそのうたを
ただちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ
陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
あしたの世界に叶ふべき
まことと美との模型をつくり
やがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
設計者スールダッタ
[#ここで字下げ終わり]
とかういふことであったと思ふ。)
(尊敬すべき詩人アルタに幸あれ、
 スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。
 そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。
 詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。
 アルタの語とおまへの語はひとしくなく、おまへの語とわたしの語はひとしくない、韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。)
(おお龍よ。そんならわたしは許されたのか。)
(誰が許して誰が許されるのであらう。われらがひとしく風でまた雲で水であるといふのに。スールダッタよ。もしわたくしが外に出ることができ、おまへが恐れぬならばわたしはおまへを抱きまた撫したいのであるが、いまはそれができないので、わたしはわたしの小さな贈物をだけしよう。ここに手をのばせ。)龍は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。
(その珠は埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
 スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお龍よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか、わたしは何と謝していいかを知らぬ。力ある龍よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を來したために龍王の(數字分空白)から十萬年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔い王に謝する。)
(おお龍よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたならば、すぐ海に入って大經を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おお、人の千年は龍にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで龍よ珠を藏せ。わたしは來れる日ごとにここに來てそらを見、水を見、雲をながめ、新らしい世界の造營の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おお、老いたる龍の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)
(さらば。)
 スールダッタは心あかるく岩をふんで去った。
 龍のチャーナタは洞の奧の深い水にからだを潛めてしづかに懺悔の偈をとなへはじめた。



底本:「宮澤賢治全集第六卷」筑摩書房
   1956(昭和31)年12月20日発行
入力:tucca
校正:高柳典子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ