青空文庫アーカイブ

台川
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)爽《さはや》か

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)。割合|肥沃《ひよく》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)河童取りあん[#「ん」は小書き]すた。

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例))もぢゃ/\してゐる。
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〔もうでかけませう。〕たしかに光がうごいてみんな立ちあがる、腰をおろしたみじかい草、かげろふか何かゆれてゐる、かげろふぢゃない、網膜が感じただけのその光だ、
〔さあでかけませう。行きたい人だけ。〕まだ来ないものは仕方ない。さっきからもう二十分も待ったんだ。もっともこのみちばたの青いいろの寄宿舎はゆっくりして爽《さはや》かでよかったが。
 これから又こゝへ一返帰って十一時には向ふの宿へつかなければいけないんだ。「何処さ行ぐのす。」さうだ、釜淵《かまぶち》まで行くといふのを知らないものもあるんだな。〔釜淵まで、一寸《ちょっと》三十分ばかり。〕
 おとなしい新らしい白、緑の中だから、そして外光の中だから大へんいゝんだ。天竺木綿《てんぢくもめん》、その菓子の包みは置いて行ってもいゝ。雑嚢《ざつなう》や何かもこゝの芝へおろして置いていゝ行かないものもあるだらうから。
「私はこゝで待ってますから。」校長だ。校長は肥《ふと》ってまっ黒にいで立ちたしかにゆっくりみちばたの草、林の前に足を開いて投げ出してゐる。
〔はあ、では一寸行って参ります。〕木の青、木の青、空の雲は今日も甘酸っぱく、足なみのゆれと光の波。足なみのゆれと光の波。
 粘土のみちだ。乾いてゐる。黄色だ。みち。粘土。
 小松と林。林の明暗いろいろの緑。それに生徒はみんな新鮮だ。
 そしてさうだ、向ふの崖《がけ》の黒いのはあれだ、明らかにあの黒曜石の dyke だ。こゝからこんなにはっきり見えるとは思はなかったぞ。
 よしうまい。
〔向ふの崖をごらんなさい。黒くて少し浮き出した柱のやうな岩があるでせう。あれは水成岩の割れ目に押し込んで来た火山岩です。黒曜石です。〕ダイクと云はうかな。いゝや岩脈がいゝ。〔あゝいふのを岩脈といひます。〕わかったかな。
〔わかりましたか。向ふの崖に黒い岩が縦に突き出てゐるでせう。
 あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。〕
 ゆれてるゆれてる。光の網。

〔この山は流紋凝灰岩でできてゐます。石英粗面岩の凝灰岩、大へん地味が悪いのです。赤松とちひさな雑木しか生えてゐないでせう。ところがそのへん、麓《ふもと》の緩い傾斜のところには青い立派な闊葉《くゎつえふ》樹が一杯生えてゐるでせう。あすこは古い沖積扇です。運ばれて来たのです。割合|肥沃《ひよく》な土壌を作ってゐます。木の生え工合《ぐあひ》がちがって見えませう。わかりませう。〕わかるだらうさ。けれどもみんな黙って歩いてゐる。これがいつでもかうなんだ。さびしいんだ。けれども何でもないんだ。
 後ろで誰《たれ》かこゞんで石ころを拾ってゐるものもある。小松ばやしだ。混んでゐる。このみちはずうっと上流まで通ってゐるんだ。造林のときは苗や何かを一杯つけた馬がぞろぞろこゝを行くんだぞ。
〔志戸平《しどたひら》のちかく豊沢川の南の方に杉のよくついた奇麗な山があるでせう。あすことこゝとはとても木の生え工合や較《くら》べにも何にもならないでせう。向ふは安山岩の集塊岩、こっちは流紋凝灰岩です。石灰や加里や植物養料がずうっと少いのです。ここにはとても杉なんか育たないのです。〕うしろでふんふんうなづいてゐるのは藤原《ふぢはら》清作だ。あいつは太田《おほた》だからよくわかってゐるのだ。
〔尤《もっと》も向ふの杉のついてゐるところは北側でこっちは南と東です。その関係もありますがさうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきは生えません。あすこの崖《がけ》で見てもわかります。この山と地質は同じです。たゞ北側なため雑木が少しはよく育ってます。〕いゝや駄目《だめ》だ。おしまひのことを云ったのは結局混雑させただけだ。云はないで置けばよかった。それでもあの崖はほんたうの嫩《わか》い緑や、灰いろの芽や、樺《かば》の木の青やずゐぶん立派だ。佐藤箴《さとうかん》がとなりに並んで歩いてるな。桜羽場《さくらはば》が又凝灰岩を拾ったな。頬《ほほ》がまっ赤で髪も赭《あか》いその小さな子供。
 雲がきれて陽が照るしもう雨は大丈夫だ。さっきも一遍云ったのだがもう一度あの禿《はげ》の所の平べったい松を説明しようかな。平ったくて黒い。影も落ちてゐる、どこかであんなコロタイプを見た。及川《おひかは》やなんか知ってるんだ。よすかな。いゝや。やらう。
〔さあ、いゝですか。あすこに大きな黄色の禿げがあるでせう。あすこの割合上のあたりに松が一本生えてませう。平ったくてまるで潰《つぶ》れた蕈《きのこ》のやうです。どうしてあんなになったんですか。土壌が浅くて少し根をのばすとすぐ岩石でせう。下へ延びようとしても出来ないでせう。横に広がるだけでせう。ところが根と枝は相関現象で似たやうな形になるんです。枝も根のやうに横にひろがります。桜の木なんか植ゑるとき根を束ねるやうにしてまっすぐに下げて植ゑると土から上の方も箒《はうき》のやうに立ちませう。広げれば広がります。〕
「そんだ。林学でおら習った。」何と云ったかな。このせいの高い眼《め》の大きな生徒。
 坂になったな。ごろごろ石が落ちてゐる。
「先生この石何て云ふのす。」どうせきまってる。
〔凝灰岩。流紋凝灰岩だ。凝灰岩の温泉の為《ため》に硅化《けいくゎ》を受けたのだ。〕
 光が網になってゆらゆらする。みんなの足並。小松の密林。
「釜淵《かまぶち》だら俺《おら》ぁ前になんぼがへりも見だ。それでも今日も来た。」
 うしろで云ってゐる。あの顔の赤い、そしていつでも少し眼が血走ってどうかすると泣いてゐるやうに見える、あの生徒だ。五内川《ごないかは》でもないし、何と云ったかな。
 けれどもその語《ことば》はよく分ってゐるぞ。よくわかってゐるとも。
 巨礫《きょれき》がごろごろしてゐる。一つ欠いて見せるかな。うまくいった。パチンといった。〔これは安山岩です。上流《かみ》の方から流れて来たのです。〕
 すっと歩き出せ。関さんだ。「この石は安山岩であります。上流から流れて来たのです。」まねをしてゐる。堀田だな。堀田は赤い毛糸のジャケツを着てゐるんだ。物を言ふ口付きが覚束《おぼつか》なくて眼はどこを見てゐるかはっきりしないで黒くてうるんでゐる。今はそれがうしろの横でちらっと光る。
 そこの松林の中から黒い畑が一枚出て来ます。
(あゝ畑も入ります入ります。遊園地には畑もちゃんと入ります)なんて誰《たれ》だったかな、云ってゐた、あてにならない。こんな畑を云ふんだらう。おれのはもっとずっと上流の北上《きたかみ》川から遠くの東の山地まで見はらせるやうにあの小桜山の下の新らしく墾《ひら》いた広い畑を云ったんだ。
「全体どごさ行ぐのだべ。」
「なあに先生さ従《つ》いでさぃ行げばいゝんだぢゃ。」又堀田だな。前の通りだ。うしろで黄いろに光ってゐる。みんな躊躇《ちうちょ》してみちをあけた。おれが一番さきになる。こっちもみちはよく知らないがなあにすぐそこなんだ。路《みち》から見えたら下りるだけだ。
 防火線もずうっとうしろになった。
〔あれが小桜山だらう。〕けはしい二つの稜《りょう》を持ち、暗くて雲かげにゐる。少し名前に合はない。けれどもどこかしんとして春の底の樺《かば》の木の気分はあるけれどもそれは偶然性だ。よくわからない。みちが二つに岐《わか》れてゐる。この下のみちがきっと釜淵《かまぶち》に行くんだ。もうきっと間違ひない。
 小松だ。密だ。混んでゐる。それから巨礫がごろごろしてゐる。うすぐろくて安山岩だ。地質調査をするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩石《もの》に鉄槌《かなづち》を加へてはいけないと教へようかな。すぐ眼の前を及川が手拭《てぬぐひ》を首に巻いて黄色の服で急いでゐるし、云はうかな。けれどもこれは必要がない。却《かへ》って混雑するだけだ。とにかくひどく坂になった。こんな工合《ぐあひ》で丁度よく釜淵に下りるんだ。遠くで鳥も鳴いてゐるし。下の方で渓がひどく鳴ってゐる。事によるとこゝらの下が釜淵だ。一寸《ちょっと》のぞいて見よう。
 黒い松の幹とかれくさ。みんなぞろぞろ従《つ》いて来る。渓が見える。水が見える。波や白い泡《あわ》も見える。あゝまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上の滝へ平らになって水がするする急いで行く。それさへずうっと下なのだ。
 この崖《がけ》は急でとても下りられない。下に降りよう。松林だ。みちらしく踏まれたところもある。下りて行かう。藪《やぶ》だ。日陰だ。山吹の青いえだや何かもぢゃ/\してゐる。さきに行くのは大内だ。大内は夏服の上に黄色な実習服を着て結びを腰にさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。
 急にけはしい段がある。木につかまれ木は光る。雑木は二本雑木が光る。
「ぢゃ木さば保《た》ご附くこなしだぢゃぃ。」誰《たれ》かがうしろで叫んでゐる。どういふ意味かな。木にとりつくと弾《は》ね返ってうしろのものを叩《たた》くといふのだらうか。
 光って木がはねかへる。おれはそんなことをしたかな。いやそれはもうよく気をつけたんだ。藪《やぶ》だ。もぢゃもぢゃしてゐる。大内はよくあるく。
 崖《がけ》だ。滝はすぐそこだし、こゝを下りるより仕方ない。さあ降りよう。大内はよく降りて行く。急だぞ。この木は少し太すぎる。灰いろだ。急だぞ、草、この木は細いぞ、青いぞあぶないぞ。なかなか急だ。大丈夫だ。この木は切ってあるぞ。〔ほう、〕そこはあんまり急だ。
 おりるのか。仕方ない。木がめまぐるしいぞ。「一人落ぢればみんな落ぢるぞ。」誰かうしろで叫んでゐる。落ちて来たら全くみんな落ちる。大内がずうっと落ちた。
 河原まで行ってやっととまった。
 おれはとにかく首尾よく降りた。

 少し下へさがり過ぎた。瀑《たき》まで行くみちはない。
 凝灰岩が青じろく崖と波との間に四五寸続いてはゐるけれどもとてもあすこは伝って行けない。それよりはやっぱり水を渉《わた》って向ふへ行くんだ。向ふの河原は可成《かなり》広いし滝までずうっと続いてゐる。
 けれども脚はやっぱりぬれる。折角ぬらさない為《ため》にまはり道して上から来たのだ、飛石を一つこさへてやるかな。二つはそのまゝ使へるしもう四つだけころがせばいゝ、まづおれは靴《くつ》をぬがう。ゴム靴によごれた青の靴下か。〔一寸《ちょっと》待って、今渡るやうにしますから。〕
 この石は動かせるかな。流紋岩だかなりの比重だ。動くだらう。水の中だし、アルキメデス、水の中だし、動く動く。うまく行った。波、これも大丈夫だ。大丈夫。引率の教師が飛石をつくるのもをかしいが又えらい。やっぱりをかしい。ありがたい。うまく行った。
 ひとりが渡る。ぐらぐらする。あぶなく渡る、二人がわたる。
 もう一つはどれにするかな、もう四人だけ渡ってゐる。飛石の上に両あしを揃《そろ》へてきちんと立って四人つゞいて待ってゐるのは面白い。向ふの河原のを動かさう。影のある石だ。
 持てるかな。持てる。けれども一番波の強いところだ。恐らく少し小さいぞ。小さい。波が昆布《こんぶ》だ、越して行く。もう一つ持って来よう。こいつは苔《こけ》でぬるぬるしてゐる。これで二つだ。まだぐらぐらだ。も一つ要る。小さいけれども台にはなる。大丈夫だ。
 おれははだしで行かうかな。いゝややっぱり靴ははかう。面倒くさい靴下はポケットへ押し込め、ポケットがふくれて気持ちがいゝぞ。
 素あしにゴム靴でぴちゃぴちゃ水をわたる。これはよっぽどいゝことになってゐる。前にも一ぺんどこかでこんなことがあった。去年の秋だ。腐植質《フイウマス》の野原のたまり水だったかもしれない。向ふに黒いみちがある。崖《がけ》の茂みにはひって行く。これが羽山を越えて台に出るのかもわからない。帰りに登るとしようかな。いゝや。だめだ。曖昧《あいまい》だしそれにみんなも越えれまい。
「先生、この石何す。」一かけひろって持ってゐる。〔ふん。何だと思ひます。〕「何だべな。」〔凝灰岩です。こゝらはみんなさうですよ。浮岩質の凝灰岩。〕
 みんなさっきはあしをぬらすまいとしたんだが日が照るし水はきれいだし自分でも気がつかず川にはひったんだ。
 もうずんずん瀑《たき》をのぼって行く。cascade だ。こんな広い平らな明るい瀑はありがたい。上へ行ったらもっと平らで明るいだらう。けれども壷穴《つぼあな》の標本を見せるつもりだったが思ったくらゐはっきりはしてゐないな。多少失望だ。岩は何といふ円くなめらかに削られたもんだらう。水苔《みづごけ》も生えてゐる。滑るだらうか。滑らない。ゴム靴《ぐつ》の底のざりざりの摩擦がはっきり知れる。滑らない。大丈夫だ。さらさら水が落ちてゐる。靴はビチャビチャ云ってゐる。みんないゝ。それにみんなは後からついて来る。
 苔がきれいにはえてゐる。実に円く柔らかに水がこの瀑のところを削ったもんだ。この浸蝕の柔らかさ。
 もう平らだ。さうだ。いつかもこゝを溯《のぼ》って行った。いゝや、此処《ここ》ぢゃない。けれどもずゐぶんよく似てゐるぞ。川の広さも両岸の崖、ところどころの洲《す》の青草。もう平らだ。みんな大分溯ったな。
〔こゝをごらんなさい。岩石の裂け目に沿って赤く色が変ってゐるでせう。裂け目のないところにも赤い条《すぢ》の通ってゐるところがあるでせう。この裂け目を温泉が通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。こゝがずうっとつちの底だったときですよ。わかりますか。〕
 だまってゐる。波がうごき波が足をたゝく。日光が降る。この水を渉《わた》ることの快さ。菅木《すがき》がゐるな。いつものやうにじっとひとの目をみつめてゐる。
〔こゝをごらんなさい。岩に裂け目があるでせう。こゝを温泉が通って岩を変質させたのです。風化のためにも斯《か》う云ふ赤い縞《しま》はできます。けれどもこゝではほかのことから温泉の作用といふことがわかるのです。〕
 ずゐぶん上流まで行った。実際|斯《こ》んなに川床が平らで水もきれいだし山の中の第一流の道路だ。どこまでものぼりたいのはあたりまへだ。
 向ふの岸の方にうつらう。
「先生この岩何す。」千葉だな。お父さんによく似てゐる。〔何に似てます。何でできてますか。〕だまってゐる。〔わかりませんか。礫岩《れきがん》です。礫岩です。凝灰質礫岩。〕
 及川だな。〔いゝですか。これは温泉の作用ですよ。この裂け目を通った温泉のために凝灰岩が変質を受けたんです。〕
 みんなわかるんだな。これは。向ふにも一つ滝があるらしい。うすぐろい岩の。みんなそこまで行かうと云ふのか。草原があって春木も積んである。ずゐぶん溯《のぼ》ったぞ。こゝは小さな段だ。
「あゝ云ふ岩のすき間のごと何て云ふのだたべな。習ったたんとも。」
〔やっぱり裂け目です。裂け目でいゝんです。〕習ったといふのは節理だな。節理なら多面節理、これを節理と云ふわけにはいかない。裂罅《れっか》だ。やっぱり裂け目でいゝんだ。
 壷穴《つぼあな》のいゝのがなくて困るな。少し細長いけれどもこれで説明しようか。elongated pot-hole〔こゝがどうしてかう掘れるかわかりますか。石ころ、礫《こいし》がこれを掘るのです。そら、水のために礫がごろごろするでせう。だんだん岩を掘るでせう。深いところが一層深くなる筈《はず》です。もっと大きなのもあります。〕
 日光の波日光の波、光の網と、水の網。
「ほこの穴こまん円けぢゃ。先生。」
 あゝいゝ、これはいゝ標本だ。こいつなら持って来いだ。
〔さあ、見て下さい。これはいゝ標本です。そら。この中に石ころが入ってませう。みんな円くなってるでせう。水ががりがり擦《こす》ったんです。そら。〕
 実にいゝ礫だ。まっ白だ。まん円だ水でぬれてゐる。取ってしまった。誰《たれ》かが又|掻《か》き廻す。もうない。あとは茶色だし少し角もある。あゝいゝな。こんなありがたい。
 あんまり溯る。もう帰らう。校長もあの路の岐《わか》れ目で待ってゐる。
〔ほお。戻れ。ほお。〕向ふの崖《がけ》は明るいし声はよく出ない。聞えないやうだ。市野川やぐんぐんのぼって行く。〔ほお、〕「戻れど。お。」「戻れ。」
 向いた向いた。一人向けばもういゝ。川を戻るよりはこゝからさっきの道へのぼった方がいゝ、傾斜もゆるく丁度のぼれさうだ。〔みんなそこからあの道へ出ろ。〕
 手を振った方がわかるな。わかったわかったわかったやうだ。市の川が崖の上のみちを見てゐる。
 うしろの滝の上で誰か叫んでゐる。大竹だ。「おら荷物置いで来たがらこっちがら行ぐ。」よからう。〔よおし。〕もう大竹が滝をおりて行く。すばやいやつだ。二三人又ついて行く。それからも一人おくれてひどく心配さうに背中をかゞめて下りて行く。斉藤《さいとう》貞一かな。一寸《ちょっと》こっちを見たところには栗鼠《りす》の軽さもある。ほんたうに心配なんだ。かあいさう。
 市野川やみんながぞろぞろ崖をみちの方へ上って行くらしい。
 さうすればおれはやっぱり川を下った方がいゝんだ。もしも誰か途中で止ってゐてはわるい。尤《もっと》も靴下《くつした》もポケットに入ってゐるし必ず下らなければならないといふことはない、けれどもやっぱりこっちを行かう。あゝいゝ気持だ。鉄槌《かなづち》を斯《こ》んなに大きく振って川をあるくことはもう何年ぶりだらう。波が足をあらひ水はつめたく陽《ひ》は射《さ》してゐる。
「先生ぁ、ずゐぶん足ぁ早いな。」富手かな、菅木かな、あんなことを云ってゐる。足が早いといふのは道をあるくときの話だ。こゝも平らで上等の歩道なのだ。たゞ水があるばかり。
「先生、あの崖《がけ》のどご色変ってるのぁ何してす。」簡だ。崖の色か。
〔あれは向ふだけは土が落ちたんです。滑って。〕
 うん。あるある。これが裂罅《れっか》を温泉の通った証拠だ。玻璃蛋白石《はりたんぱくせき》の脈だ。
〔こゝをごらんなさい。岩のさけ目に白いものがつまってゐるでせう。これは温泉から沈澱《ちんでん》したのです。石英です。岩のさけ目を白いものが埋めてゐるでせう。いゝ標本です。〕みんなが囲む。水の中だ。
「取らへなぃがべが。」「いゝや、此処《ここ》このまんまの標本だ。」
「それでも取らへなぃがべが。」〔取って見ますか。取れます。〕
 中々面倒だ。
「先生こっちにもっと大きなのあるんす。」あるある。これならネストと云ってもいゝ。これなら取れる。ハムマアの尖《とが》った方ではだめだ。平たい方は……。
 水がぴちゃぴちゃはねる。そっちの方のものが逃げる、ふん。
〔水がはねますか。やっぱりこっちでやるかな。〕
 白く岩に傷がついた。二所《ふたところ》ついた。
 とれる。とれた。うまい。新鮮だ。青白い。
 緑簾石《りょくれんせき》もついてゐる。さうぢゃないこれは苔《こけ》だ。〔いゝですか。これは玻璃蛋白石です。温泉から沈澱したのです。晶洞もあります。小さな石英の結晶です。持っておいでなさい。〕
 誰《たれ》だ崖の上で叫んでゐるのは。
「先生。おら河童《かっぱ》捕りしたもや。河童捕り。」藤原健太郎だ。黒の制服を着て雑嚢《ざつなう》をさげ、ひどくはしゃいで笑ってゐる。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。
「先生。下りで行ぐべがな。先生。よし、下りで行ぐぞ。」
〔うん。大丈夫。大丈夫だ。〕おりるおりる。がりがりやって来るんだな。たゞそのおしまひの一足だけがあぶないぞ。裸の青い岩だし急だ。
〔おゝい。もう少し斜におりろ。〕おりるおりる。どんどん下りる。もう水へ入った。〔どうしたのです。〕「先生。河童取りあん[#「ん」は小書き]すた。ガバンも何も、すっかりぬらすたも。」〔どこで。……〕
 もう下らう。滝に来た。下りてゐるものもある。水の流れる所は苔は青く流れない所は褐色《かっしょく》だ。みんなこはごは下りて来る。水の流れる所は大丈夫滑らないんだ。〔水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいゝんです。〕
 あれは葛丸《くずまる》川だ。足をさらはれて淵《ふち》に入ったのは。いゝや葛丸川ぢゃない。空想のときの暗い谷だ。どっちでもいゝ。水がさあさあ云ってゐる。「いゝな。あそごの水の跳ね返る処よ。」
 うん、いゝ、早池峯《はやちね》山の七折の滝だってこんなのの大きなだけだらう。
 もうみんなおりる。おれもおりる。たった一人あとからやって来る人がある。こはさうだ。
〔水の流れるところをあるくんです。水の流れる所を歩くんですよ。〕
 さうだ。さうだ。いゝ気持ちだ。



底本:「新修宮沢賢治全集 第十四巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年5月15日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年1月20日初版第4刷発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年4月2日作成
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