青空文庫アーカイブ

譲原昌子さんについて
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)民主的になってゆくはず[#「民主的になってゆくはず」に傍点]
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 三月十五日に発行された文学新聞に、無名戦士の墓へ合葬された人々の氏名が発表されていた。そのなかに、譲原昌子という名をみたとき、わたしははげしいショックをうけた。今年の一月十二日に亡くなられたと書いてある。一人の家族もなくて、遺骨の処置が新日本文学会に相談されたと書いてある。譲原さんが死んだ。わたしが深いショックを感じたのは、去年の一月、二人でNHKから民主的文学について対談を放送したことがあったからであった。それから去年の夏、わたしが身体をわるくして東京にいられなかった間に、譲原さんから手紙がきていて、その返事をうちの人が出しておいてくれた。そういうことがあったからだった。譲原さんというと、わたしにはNHKで会ったとき、あの人の着ていた紫っぽいちりめんの羽織を想い出す。それから録音にとりかかる前、二人で話しあっていたあいだに、びっしょり汗をかいた譲原さんを想い出す。その時、譲原さんがどんなに身体がわるいかということは誰も知らなかった。あんまり譲原さんが汗をかくので、わたしもその時の担当者であった江上さんも心配になって、いきなりではあんまり無理らしいからと、四、五日さきに録音をのばした。わたしたちは皆単に、譲原さんはひどく疲れている上に馴れない、放送局のなかは不自然に暖かいからそれでそんなに汗がでるのだろうと思っていた。わたしも羽織をぬぐほどその狭くるしい放送室は、あつくて息苦しかったから。二人で往来へ出て、田村町の停留場のところでちょっと立ち話した。譲原さんは、やっと汗のおさまった顔をして、今度は放送の日までに一遍わたしのところへ来て、打合せをしておこうという話になった。
 うちへ来てくれた日は、寒い日だったけれども、譲原さんはやっぱり小鼻に汗を出していた。その時もわたしは、譲原さんの病気がどんなに悪いかは知らなかった。譲原さんは自分の病気のことをちょっと話して、何しろ少しでも栄養をとろうと思えば、住む場所をえらぶゆとりがなくなるから、今いる田村町のアパートも身体にわるい条件なのは分っているけれども、なかなか動けないといった。それを譲原さんは、あっさりとした口調で、わたしたちみんながこの日頃のやりくりについて話すときと同じように話した。感傷を訴えもしなかった。だからわたしは、その日も譲原さんの身体のことよりも、放送に気をつかわせまいとして、お互いにらくな気分で話しましょうよということを強調してわかれた。
 この放送は、譲原さんが自由にしっかりとよく話して、好評だった。
 それっきり、わたしは譲原さんに会わずにしまった。去年の夏から自分も具合がわるくて、暮から正月へかけては非常によくない状態におちいった。ときどき譲原さんはどうしているだろうと思っていたところへ、無名戦士の墓へ葬むられた譲原さんのことを知って、自分が病気なだけにわたしのうけた衝撃ははなはだしかった。
 無名戦士の墓には、わたしにとって忘れられないひとびとがいる。今野大力、今村恒夫、本庄陸男、黒島伝治など。とくに今野大力と今村恒夫は、一九三〇年から三三年にかけてのプロレタリア文学運動のなかで、ふかく日常的にもつながりあった仲間であった。譲原さんは、この人々との関係からみれば、たった二度だけ会った友達だった。だけれども、日本が民主的になってゆくはず[#「民主的になってゆくはず」に傍点]のこんにちに、やっぱり譲原さんがこのようにして死んだということは、わたしに限りない思いを与える。今村恒夫、今野大力、これらの人たちは、直接その身体にうけた拷問が原因で死んだ。譲原さんの身体に今野大力の耳のうしろに残っていたような傷はなかったろう。しかしこれらの人々がもっと生きられるいのちを、もっと育つ才能を半ばで野蛮な力に殺されたということに、ひとつのちがいもない。
 譲原さんの遺稿として新日本文学に「朝鮮やき」がのっている。みじかい作品だけれども感銘がふかい。北海道の鉱山に働きながら朝鮮の独立運動のために闘っていた一家を中心としてかかれている物語りである。緊密によくかかれている。そして最後は敗戦後の東京で目撃した朝鮮人の解放のよろこびの姿で終っている。譲原さんが清瀬療養所に入院してから書いたものらしい。絶望的な病状におちいりながら、ああいう作品をかいて、ああいう歓喜の状況をむすびとした譲原さんの気持をつらぬいていたのは、解放へのますます激しい欲望であり、生きることへの要求であったことがしみじみとうけとれる。そして彼女のそれらの要求は全く正しいものだった。譲原さんを知っている人は多勢ではないかもしれない。けれども、彼女は、彼女を知っている人の心に決して消えることのない人の一人である、と感じている。
[#地付き]〔一九四九年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「民情通信」第11号
   1949(昭和24)年4月譲原昌子追悼号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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