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私も一人の女として
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)俤《おもかげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)自身の妻としての栄子[#「自身の妻としての栄子」に傍点]
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 今私たちの前には、その事件が当事者の愛の純情に発しているという意味で人の心を打った二つの現象が示されている訳ですが、私は松本伝平氏の場合と弓子さんの場合とは、それぞれ別のもので、違った分析がされなければならないものではなかろうかと考えます。
 松本氏が、急になくなられた許婚の愛人栄子さんと岳父の代人で結婚の盃をあげられた行為は、氏の年齢や学歴やその地方での素封家であるというような条件と対照して、私共の注意を一層呼び起したと思われます。「松本氏の年や地位にてらして何という今の世に珍しい純情であろう!」そこに同情と或る感歎が与えられているのだが、私は、その点を大変面白く思いました。何故と云えば、考えて御覧なさい、世間が松本氏の純情を特別な美しいものとしてとりあげた反面には、実に明瞭に、今日の社会で三十越して、金持ちで、博士なんていう男はどうせ女ずれがしている。女房は便利な家庭常備品という位にしか考えていないという一般の通念が反映しているではありませんか。
 現代社会の現実はそのように人間の愛情をも低下させ貧弱なものにしているから、私達は一つの例外な行為として松本氏の栄子さんに対する愛情の表現に目を見張ったのです。
 私は、松本氏がああいうやりかたで自分の真情を吐露されたのは、それで松本氏の気がすみ、生きる力となったのなら、よいではないかと思います。栄子さんもそれを楽しみ、死ぬときも良人としての松本氏の俤《おもかげ》を心に抱いて逝かれたとしたら、松本氏はまじり気なくあの当時の打撃によって、「自身の妻としての栄子[#「自身の妻としての栄子」に傍点]」に対する何か特別な、何か心持を満す表現がほしかったのであろうと察せられます。只、私は、妻に対するそういう謂わば非常に感覚的な苦しい愛情の表現の形式として、松本氏が三々九度の盃というやり方をとられたところに、氏の生活形式の内に根づよくのこされている古風なもの、封建的なものを感じただけです。
 愛情に対してそのようにこまやかな松本氏の性質と地位とが明らかとなった今日では、きっと多くの若い婦人の関心をひいているであろうから、或は却って将来松本氏にとっては幸福な結婚の可能性が増したことになっているかも知れません。
 栄子さんに対してああいう風な形で熱情をうちかけたからと云って、これから松本氏が生涯を独身で送るであろうとか、そうあってこそ本当の純情だとか思う人があったら、私はそれこそ人間の心を安っぽくかたづけるロマンチシズムであると思います。
 或る場合、或る種の人間にとっては、松本氏のような苦しい愛情を経験したとき、その精神的感動と緊張とが深大であればある程、感覚的な放散がなければ生きる抜道がない事さえもある。いずれにせよ、私は卑俗なセンチメンタリズムで松本氏が自繩自縛の偽善に陥られぬよう希望するし、私達の態度としては、こういう人生のめぐり合わせに対して思いやり深く、しかも鋭く明瞭に且つ現実的に事態を省察して、その実際の条件の内から当事者と周囲とを、一番幸福にし得る方法を見出す努力をするように、しっかりとしてひるむことのない生きてであることを希望する次第です。

 弓子さんの場合、私はここにのせられている文章から、何か非現実的な、合点ゆかぬものを感じたのですが、読者諸氏はその点をどう感じられましたろうか。
 例えば、弓子さんの家の経済状態が書かれているようなものであるとすれば、愛人隆氏の病室にも近よらぬということが、日常の生活における実際として果して可能でしょうか。二間か三間の家の中でそんなことをしておられるものでしょうか。
 そして又、後を追って死ぬ程弓子さんの愛情が切ならば、どうして隆氏の世話をせずに、引はなされたままで暮していることに耐えたか。私はそこに多く不自然なものを感じ、若しこのような現実があって弓子さんが死なれたのなら、それは何と愚劣なことであったろうかと残念に思います。
 烈しい愛の感情を、具体的な日常の、そのときどきの事情に応じて必要な形で活かし、あるときは愛情ふかい看護人とし、或る時は活溌な助力的な友達として、或る時はまた美しいけもののように素朴で豊富で、きつく、新鮮な女として生かしてゆくのでなかったら、生きる力としての愛のねうちはどこにあるでしょうか。
 愛は死ではない。貫く生の力です。
 弓子さんの死が、死に到るまでそのような実行力のない実際生活で導かれたとすれば、死は、受身に受身に内屈せられた感情の破局として全くマイナスの社会的意味しか持たないと信じます。
 私たちが弓子さんの現実から汲みとり得る唯一の教訓は、弓子さんのように生きるなと云うことであって、破局の形式に衝撃されて、全く浪費されてしまった若い一婦人の生命に対して私たちの感じる健康な憤りを、純情などという砂糖をかけた言葉で包むことは、愚かなことです。

 私は、自身一人の妻として、複雑な現実の間に良人に対する一筋の情熱をもって生きている女としてこれらのことを書きながら、心に或るつよい疑問をよびさまされました。
 現代の社会では殆ど国際的に何故このように所謂《いわゆる》純情が探索され、憧憬され、しかもその純情なるものが社会発展の歴史から見た場合、消極的な意味を多くもつ形態で発露されたときにだけ、様々の感歎の的になるのであろうか。疑問というのはそのことなのです。
 例えば、世評の高かった映画「夢見る唇」の魅力はどこにあったでしょう。「にんじん」は、挫かれひしがれた純情で観客の心を打ったのではなかったろうか? 何故、若者の心はそのようなものに惹きつけられるのでしょう。
 今日、社会の機構が我々の純情をすらりと活かしきれないものとなって来ていることは、生活の根本的不安をかもす経済事情の悪化を見ても、明瞭です。
 娘、愛人、妻として生きる女の今日の一生は種々の不如意に制約され、一人の女が自分のもつすべての魅力、智慧、真率さをそのまま愛するものを愛して幸福に生きたいという欲望の実現に生かし切ることは、非常に大きい割合で不可能になって来ている。
 その悲しみはすべての男女の心にある。もし私達が、現実の重みに屈せず、生きる権利とともに初発的な人類の権利であるより幸福な人間らしい生活への具体的探求をつづけ、その探求を生活で行為してゆくとすれば、それは形態として、何等かの意味での闘争でなければならないでしょう。私共は生きる以上、生物として先ず気温との闘争からはじまる、諸種の社会生活における闘争を無自覚ながらやっている。それが、上にのべた場合には自覚され、目的のきめられた闘争として考えられ、行動に組織されるようにならざるを得ないのです。
 ところで、ここに到ると、私はもう数万の読者の間にある認めがたい、微妙なざわめきの起るのを感じます。それは、私だって幸福は求めるけれど――だって……。ねえ。ざわめきの内容はそう私語している。
 私には、この囁きがよく聴える。だから、自身生かしきれぬ純な情感に苦しむとき、その無力と躊躇と昏迷した考えをてきぱきと解明して、後からつよく押し出すものよりは、音楽にしろ、映画にしろ、小説にしろ、あるままの生活の感情を認めて、一緒にたゆたって、ほのかになって、眠らしてくれるものの方が抵抗力の弱いものには楽です。そして、それ等の作品の土台となる社会の現実の多様な面から、そのような傾向性を強調し、とり出して来ようとする。
 楽な方向へクッションのある方へ方へと体をずりこますことで、一層日の光にも堪えぬものとなってゆくのです。
 私は賢しこい読者に多くを云わず、或る方々は全集の装幀が華やかだから購読なさるであろうバルザックの作品の中から、一つの文句をとり出そうと思います。バルザックはこういう意味を結論した。「民衆と女とは、吾々の平和のために圧えておかなければならぬものだ。そのために女に美衣を惜しんではならず、民衆には宗教を与える必要がある」と。[#地付き]〔一九三四年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
   1934(昭和9)年12月号
※「東京朝日新聞」1934年10月23日号に、「純情美談」と題して掲載された二つの事件に対する見解。「婦人画報」編集部の求めによる。
一つは、許嫁の死後、遺体に晴れ着を着せて結婚式を挙げた「事件」。「夫」は、博士論文提出中の、医大助手であった。
もう一件は、肺病で逝った恋仲の従弟を、初七日に追った、少女の自殺事件。事業に失敗していた父は、同居する無名画家の従弟の部屋に、娘が入ることを許さなかった。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月26日作成
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