青空文庫アーカイブ

スモーリヌイに翻る赤旗
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)学者生活保全《ツェークーブ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)「|学者の家《ドーム・ウチョーヌイフ》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河
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        レーニングラードへ

 夜十一時。オクチャーブリスキー停車場のプラットフォームに、レーニングラード行の列車が横づけになっている。
 麻袋。樺の木箱に繩でブリキやかん[#「やかん」に傍点]をくくりつけたもの。いろんな服装の群集は必要以上にせき込み、頸をもち上げて前の方ばっかり見ながら押し合った。
 三等車は鋼鉄だ。暗い緑色に塗ってある。プラットフォームの屋根の直ぐ下に列車の黒い屋根があり、あたりはあまり明るくないところへ、並んでるどの車もくすんだ色だから陰気に見えた。
 国立出版所に働いてるナターリアが、
 ――所書なくさないようにね、ああ、それから荷物のそばにきっと一人いるようになさい。
 手と異常に大きい眼とで別れの合図をした。が、それは、すぐ見えなくなってしまった。
 入って見ると、三等車の内部は暗いどころではなかった。ごく清潔な家畜小舎に似てる。黄色くひかっている。坐席は二段になって、上の方でもゆっくり寝られるようになっている。二人の日本女は向いの羽目にろうそくを入れた四角なカンテラの吊ってある隅の坐席におさまった。
 その車はすいていた。
 間もなく一人若い女がやって来て、日本女の前へ席をとった。ソヴェト市民が、その中へパンでも修繕にやる靴でも入れて歩いているところの茶色布張の小鞄一つが彼女の荷物だ。帽子をぬいだら金髪が三等車の隅の明りで見なれぬ美しさにかがやいた。
 その女は旅行なれた風で、暫くするとその小鞄を膝の上で開け、地味な室内着を出して、坐ったまま上から羽織った。脚を揃えて坐席の上へあげ、静かに板の上へ横になった。
 ソヴェトの三等夜行列車では、一組一ルーブル前後で敷布団、毛布、枕が借りられるのだ。しかし、若い女は借りない。二人の日本女は革紐を解いて毛布と布団をとり出した。色の黒い方の日本女は毛布と書類入鞄とを先へ投げあげといてから、傍の柱にうちつけてある鉄の足がかりを伝わって上の段へあがってしまった。
 下の坐席でもう一人の日本女が鞄を足元へ置こうとしたら、綺麗な髪を蔭においてふしながらそれを見ていた若い女が、
 ――枕元へおいた方がいいでしょう。
と注意した。
 ――私どもきっとぐっすり眠っちゃうから、明日の朝まで荷物見るものがないでしょう? だからね。
 そういって笑った。
 鞄を頭の奥へ立て、布団を体にまきつけ、やっと二人目の日本女も横になった。
 レーニングラード、モスクワ間八百六十五キロメートル。車輪の響きは桃色綿繻子の布団をとおして工合よく日本女をゆすぶった。坐席はひろくゆったりしている。南京虫もこれなら出そうもない。――そうだ。
 革命の時代は、三等車かそれとも貨車の中へいきなりわらを敷いて乗って行く方がずっと安全だった。なまじっかビロードなどを張った軟床車よりは。当時シラミは歴史的にふとっていたのだ。シラミはチフス菌を背負って歩いていた。――
 今この三等夜汽車で靴をはいたまんま寝て揺られている旅客の何人かが、一九一七年から二一年までの間にその光栄あるСССРの歴史的シラミを破れ外套の裾にくッつけてあるいていなかったと誰がいえる。さっき、その大きい二つの眼をステーションの雑踏のうちへ吸い込ませた二十五歳のナターリアはその年、中学校の女生徒だった。彼女は貨車へのっかってフィンランドの国境まで行った。貨車を引っぱっていた機関車はとてものろくはしった上、まるで思いがけないところで立往生した。すると若いもの達は貨車の中からとび出して森へ行った。森で彼等は白樺の木を伐った。機関車はそれをたき黒煙をあげてはしり出し彼女等は貨車の真中に煙突を立てているさびた鉄ストーヴで麦粉の挽きかすをドロドロな粥に煮て食った。しかもそれを日に二度だけ皆が食い、食糧委員長をしていたナターリア自身は一度しか食べない時があった。
 一人の日本女がレーニングラード行の夜汽車に寝ていること、零時五分に車掌が天井の電燈を二つ消して車内を一層眠りよく薄暗くして去ったことと、それとの間に何のつながりがあるだろう? 日本女は感じている。彼女の体に響いているレールの継ぎ目一つ一つはかつて「十月」、たとえばナターリアの小さい行跡が記録されないと同じく記録されない革命的プロレタリアートの行跡によって獲得されたものであることを。ペテログラードはレーニングラードに変った。そこにやはり記録されざる個々の行跡の偉大な堆積がある。

        学者の家

 その部屋へ入ったとき日本女は軽くめまいがした。
 旧ウラジーミル大公の家の大きい二つの窓の下をネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河が流れている。はやく流れている。どこを見わたしても船一艘ない水ばかりがひろく、はやく流れている。
 むこうで遠く水に洗われているペテロパヴロスク要塞の灰色の低い石垣が見える。先が尖って、空に消えて見えないような金の尖塔が要塞内からそびえ立っていた。太陽はどっか雲の奥深いところにある。
 窓の真下は冬宮裏の河岸だ。十九世紀ヨーロッパの立派な石の河岸だ。人は通っていない。太い鉄の鎖がどっしり石柱と石柱との間にたれ、わらが数本ちらばっている。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河は絶えずはやく流れ、音なくはやく流れている。――
 静かさはどうだ。
 明けがた汽車の中で目をさましたとき日本女は、窓からもう一つ水の景色を見た。野原で草が茂っていた。初夏の青草だ。どっから来たのかわからない水が浅くひろくその原を浸していた。水づかりの原に壊れて雨風にさらされた牧柵が立っていた。少し行ったら水かさのました川で柳があたまだけ水から出して揺れていた。
 雪解け後は乾ききったモスクワから来るとそういう風景は、水っぽく寂しく、いかにもヨーロッパ北部の感じだった。
 ここにまたネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河が流れている。一九一七年の十月二十五日払暁三時半にはこの河を巡洋艦「アウロラ」がさかのぼって来て、冬宮に砲口を向け碇泊した。それは輝かしい焔の記念だ。が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。
 室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブルがおいてある。二人の日本女は急に静かで頭の芯がジーンとなったような気持で顔を洗った。
 戸を叩いて、
 ――もういいですか?
 停車場まで迎えに来てくれたNが、柔い黒い毛でつつまれ少し鉢のひらいた頭を出した。
 ――さあ、どうぞ。
 するとNは後を振向いてロシア語で「かまわないそうです」といい、道をゆずって一人の大柄な女を室の中へ入れた。
 ――「学者の家」の監督やってる人です、とても親切なんだ。
 それからロシア語で、
 ――御紹介しましょう、こちらがエレーナ・アレクサンドロヴナ。
 ――我等の主婦、ユアサ・サン、チュージョー・サンです。
 ――おめにかかれて本当に愉快です。
 Nが日本語でしゃべっていた間、栗色の目に微笑をたたえてNの顔や二人の日本女の顔を見ていた大柄な中年婦人は、改めてていねいに眼で挨拶し、手を出した。
 ――今日は。
 その手にさわって日本女は変な気がした。というのは、その我等の主婦[#「我等の主婦」に傍点]はまるで札幌にいるイギリスの独身女宣教師みたいに力を入れない握手をしたのだ。まるきり手を握らないことはソヴェトで珍しくない。だがこういう握手――
 ――フランス語おはなしなさいますか?
 まわりがあまり静かすぎるのと一緒に日本女は気がむしゃついた。
 ――私どもなら話しますからどうぞ。
 ――英語は残念ながら私にわかりません。
 エレーナ・アレクサンドロヴナは当然の結果としてロシア語で愛想よくいった。
 ――この「学者の家」へ日本の女のかた、特に作家などを迎えたのはこれがはじめてです。どうぞゆっくりしていらして下さい、室はお気に入りましたか?
 ――ええ、大層、……ありがとう。
 Nはこの主婦[#「主婦」に傍点]にすっかり馴れているらしく、
 ――実際いい室だ、ここは!
 ズンズン窓際へ行って河を眺めた。
 ――こんなに景色のいい室はそうないんだ。僕んとこから要塞なんか見えない。
 ――ね、Nさん!
 エレーナ・アレクサンドロヴナはNを呼んだ。
 ――まだ朝飯あがってないんでしょう?
 ――停車場から真すぐ来たんです。
 ――我々んところの食堂は十二時でないと開かないんですけれど、お湯は台所にいつでも沸いてますから御自由にお茶あがって下さい。
 彼女は、二人の日本女に説明した。
 ――台所もおつかいになっていいんです、皆さんここでは家のようにやってらっしゃるんですから、室の鍵は、お出かけんなるとき台所にある箱の中へかけておおきんなって下さい。
 ソヴェト内閣直属で、学者生活保全《ツェークーブ》委員会というのがある。「|学者の家《ドーム・ウチョーヌイフ》」はその委員会に管理されている。ツェークーブは「学者の家」のほかに附属の病院、診療所、「休みの家」、クラブなどをもっている。
 モスクワ、レーニングラード、ロストフその他少し目ぼしいСССРの都会は、街のどっかにきっと「農民の家」と看板をかかげた建物をもっている。そして遠いか近いか、やっぱり同じ市のどこかに「学者の家」をもっている。社会主義文化建設のための専門技術家である学者達が、会議、見学、ごくたまに私用でその市へやって来る。外国から来る者もある。ホテルに室がなかったり費用がかかりすぎる場合、静かに簡単な何日かの滞在をするため、事情によっては無料でその「学者の家」を利用する便利を与えられている。
 まして外国人である場合、「学者」という定義の解釈が四通八達である実例は、女監督エレーナ・アレクサンドロヴナを母さんと呼びかけそうになじんでここに暮している日本青年Nによって示されている。彼は将来学者にもなるだろう。だが現在のところではNがひどい砂糖ずきである以外学者の徴候は現してない。また、二人の文筆労働者である日本女の滞在によっても証明される。
 日本女は、室の隅におかれた大きな旅行籠の前へひざまずき、ともかく茶を飲むべく、四角な茶カン、二本のアルミニュームの匙、砂糖を出して、古風な更紗張テーブルへおいた。
 アメリカからエジソンがソヴェト見学にやって来たとする。ゴーリキーがソレントから故郷へ客に来たとする。彼等の荷物にもちろんこんなソヴェト市民の旅行籠なんぞないにきまっている。
 時間さえあったらエジソンは「学者の家」を訪問することをこばみはしない。そして、流暢なアメリカ語をしゃべる通弁から、ここが革命までは何という貴族の邸宅であったか、現在は年に何千人の学者に便宜を与えているか、ソヴェト・ロシア文化施設の一端をききとるだろう。が、エジソン自身ここへは泊らぬ。彼の有名な食糧鮭の切身をはかるハカリがないからだけではない。学者でも、エジソンみたいなのは泊らないのだ。
 ゴーリキーにしろ、意味なく帝政時代に室内監禁をくったのではない。ウラジーミル大公の食堂に今日一皿二十カペイキのサラダがトマトと胡瓜の色鮮やかに並び、シベリアの奥で苔の採集を仕事としている背中の丸い白い髯の小学者が妻と木彫のテーブルについているのを眺めることは絶対に不愉快でありえない、しかし、ゴーリキー自身のためには別なところにソヴェトが室を与えるだろう。
 日本女の室がある方の建物の翼は、ウラジーミル大公時代、親戚とか召使の頭とかが住んでいたのだそうである。うねって、暗い廊下だ。どこにも窓のない壁の厚い廊下には、湿っぽい古くさい匂いがある。
 台所は明るい。窓が晴れやかに開いて、その窓際に台があって、薄い色の髪の毛がすきとおるような工合に光線を受け一人の背広をきた中老人がハムを刻んでいる。わきに小鍋と玉子が二つころがっていた。
 むき出しの頑丈そうな腕を大きい胸の上に組んで、白い布をかぶった女が中老学者の家事ぶりを眺めていた。彼女は日本女を見ると珍しそうに目で笑い、だが何にも余計なことをいわず、頼まれただけの湯呑《クルーシュカ》と急須とをゆっくり棚からとってくれた。湯呑《クルーシュカ》の一つに赤旗を背景に麦束をかこんだ鎌と鎚の模様がついていて、黒い文字で「万国のプロレタリアート、結合せよ!」
 ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河のはやいひろい音のない流れでめまいしそうなのは表側――河岸通に向った室だけだった。壁画のある、天井の高い大食堂の窓からは、灰色のうろこ形スレートぶきの小屋根、その頂上の風見の鳩、もと礼拝所であったらしい小さい四角い塔などが狭くかたまって見えた。塔の内に大小三つの鐘があるのも見える。
 ガラス張の屋内温室の、棕梠や仙人掌《サボテン》の間に籐椅子がいくつかあり、その一つの上に外国新聞がおきっぱなしになっている。人がいた様子だけあって、そこいらはしんとしている。
 大階段の大理石の手すりにもたれて下をのぞいたら、表玄関が閉っていてほこらのように薄暗かった。ぼんやりその裏から白と黒との大理石モザイックが見える。
 思いがけない直ぐうしろでかなり乱暴に戸が開いた。派手な紅どんすで張った室内の壁や、椅子や、天井の金色枠が、人の出て来る拍子に見えた。ここにも寝台がいくつか入れられている。その人は、うつむいて気ぜわしそうに眼鏡をかけ直しながら食堂の方へ去った。
 防寒のために荒羅紗を入れ、黒い油布を張った上から鋲をうちつけた、あたりまえのロシアの戸だ。そこが「学者の家」の常用口だ。一番下に「風呂」という札が出ている。風呂はどこになるのか誰のためにその札が出してあるのか分らない。(住んでる者は毎朝風呂の横で顔を洗っているのだから。)
 中庭がある。木煉瓦が一面敷つめてある。中庭の中央に物置小屋みたいなものがあり、横のあき地に赤錆のついた古金網、ねじ曲った鉄棒、寝台の部分品のこわれなどがウンと積まれている。
 半地下室の窓が二つ、その古金物の堆積に向って開いている。女がならんで洗濯している。そこからは石鹸くさい湯気が立ち上り、窓枠の外の石がぬれている。石の隅に青苔がついていた。
 その中庭へ荷馬車が入って来たら蹄の音が高くあたりの鼠色の建物に反響した。
 二人の日本女が歩いてるハルトゥリナ通りにしろ、もとのニェフスキー・プロスペクトにしろ、モスクワとは違ってみんな木煉瓦の鋪装である。蹄の音はそこで柔かく、遠く響く。昼の街のしずかさが一層感じられた。

 鉄門が片扉だけあけはなされている。
 大理石像が壊れて土台の下に落ちている。まわりを埋めて草が茂り、紫のリラの花が咲いている。ベンチに、帽子をかぶらない女があっち向にかけて本を読んでいた。またそのむこうはフランス風の鉄柵だ。河岸通り。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河の流れがその鉄柵をとおして見えた。
 こういう門の中に、レーニングラード対外文化連絡協会《ヴオクス》があるのだ。
 厚い紅い色の絨毯が敷いてある。金塗の椅子やテーブルや鏡がそこの室内にはある。楕円形の大テーブルに、ソヴェト内地旅行案内のパンフレットや対外文化連絡協会の週刊雑誌などがきちんとならべてあった。
 СССР地図を後にして一人のソヴェト的紳士がかけている。室の真ん中にタイプライターが一台おいてあり、それに向ってほっそりした、これもごく教養的な女が膝を行儀よく揃えて坐り二人の日本女のために幾通かの紹介状をうってくれた。
 出て来た時には、リラの木の下のベンチにもう誰もいず、門の前の歩道を犬をつれた男が散歩していた。ステッキをその男はゆうゆうついている。ほほう!
(モスクワ第一大学の建物は黄色い。横の歩道へ立って午後そこへ現れて来るステッキを見ろ。ステッキの持主はみんな革命の市街戦で脚のどっかを工合わるくしたものばかりだ。)

 燈柱の堂々たる橋がある。

 公園だ。十月革命の犠牲者の記念がある。三色菫《イワンダマリヤ》の花盛りだ。赤っぽい小砂利が綺麗にしきつめられ、遠くの木立まですきとおる静寂が占めている。木立の上で、緑、黄、卵色をよりまぜた有平糖細工みたいなビザンチン式教会のふくらんだ屋根が、アジア的な線でヨーロッパ風な空をつんざいている。
 掘割に沿って電車が走って行く。

 再び公園だ。菩提樹のなかにロシアのイソップ・クルイロフの銅像がある。ひろい斜面に花や草で模様花壇がつくられていた。赤や緑の唐草模様だ。モスクワ劇場広場の大花壇のように星形でも、鎌と鎚とでもない。

 ピーター大帝は曲馬場横の妙な細長い広場で永遠にはね上る馬を御しつづけ、十二月二十五日通りの野菜食堂では、アルミニュームの食器の代りに、白い金ぶちの瀬戸の器をつかっている。ドイツ語の小形の詩の本をよみながら黒い装いをした一人の婆さんがその野菜食堂の階子段の横に腰かけ片手を通行人にさし出していた。レーニングラードの乞食女である。

 兵営がある。兵営の下は黒っぽい水のゆるやかに流れる掘割だ。上衣の襟フックをはずした赤衛兵が一つの窓に腰かけてまとまりなく手風琴《ガルモシュカ》を鳴らしている。ソヴェト・ロシアの兵士は、ソヴェトに選挙された時、二種の委員をかねる権利を与えられている。入営まで職についていれば除隊後新たに就職するまで失業手当を支給される。親が例えば選挙権をもたないでも息子が赤衛兵ならば集団農場に加入を許される。
 手風琴を鳴らして赤衛兵が腰かけている窓の下の掘割を、ボートが一艘漕いで来た。ボートの中には二列に赤衛兵がつまって四人がオールを握っている。一人がギターを抱えている。
 その掘割は、牛乳なんかを入れる素焼壺をたくさん婆さんが並べて売っている橋の下を通り、冬宮わきからネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河へ通じた。

        スモーリヌイ

 ある日、一人の百姓婆さんが電車へのって来た。更紗の布《プラトーク》を三角に頭へかぶり、ひろい裾《ユーブカ》の下から先の四角い編上げ靴を出して、婆さんは、若い女車掌に訊いた。
 ――サドーワヤへはどう行ったらよかろかね?
 ――十月二十五日通りをのってって三月十八日で降りなさい。
 ――へ? 十月二十五日から三月十八日※[#疑問感嘆符、1-8-77] おらおっちぬよ、そんけ乗ったら、この年で……
 これは、革命後ロシアではいろんな町名が変えられ、それが大抵世界のプロレタリアート革命運動に関係のある年月日、人名などを揶揄ったレーニングラード人の笑話である。
 冬宮は、その旧ニェフスキー・プロスペクト・十月二十五日通りとネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河との間にある。
 革命第十一年目、六月の或る朝。朝日がまんべんなく冬宮前の広場にさしている。まだちっとも暑くない。軽い朝日を受けてこっち、ハルトゥリナ通りの方から一人、黒い書類入鞄を下げた女が急ぎ足で旧参謀本部、今のレーニングラード・ソヴェト行政部わきのアーチへ向って歩いて行く。そっち、十月二十五日通りから入って来て、斜に広場をネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河の岸へ横切って行く者がある。ひどい速力で印刷用紙を積んだトラックが行政部の前を疾走して来て右手の公園の方角へ消えた。
 人通りが半分ほど途絶える。
 辻馬車が、国営衣服裁縫所製のココア色レイン・コートを幾枚も束にして膝へ抱え込んでいる若者をのせてやって来た。まいたように人の姿が黒く広場の反対のはずれに現れ、いそがしそうに各方面に散らばった。広場の上ではひとりでに大きい星形を描いて通行人が通っている。
 若い赤衛兵が一人銃をもって、冬宮の車寄のところへ立番しながら気持よさそうに、そういう広場の朝の景色を眺めている。
 一九〇五年の一月ガーポン僧正は大仕掛な民衆売渡しページェントをこの広場でやったのだ。ペトログラードの民衆はガーポン僧正を先に聖旗をなびかせ、「父なる皇帝よ」を唱いながら皇帝へ哀訴にやって来た。群衆の中には無数の女子供があった。彼らがひざまずいて祈りはじめ哀号しはじめると、皇帝ニコライは慈愛深い父たる挨拶として無警告の一斉射撃を命じた。灰色の官給長外套を着たプロレタリアートの子が命令の意味を理解せず山羊皮外套を着たプロレタリアートの子を射った。「血の日曜日」である。
 血は無駄に冬宮前の雪に浸みこんだのではなかった。「十月」が来た。
 すべての権力をソヴェトへ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
 餓えた農民と労働者は不決断な臨時政府がついにブルジョアの手先で彼らのものでないことを理解し、兵士は塹壕から、フロックコートを着てやって来る社会民主主義の煽動者をぼいこくった。ケレンスキーが、星条旗のひるがえるアメリカ大使館用自動車――四つのタイヤに支えられた数平方メートル内の治外法権を利用してガッチナへ遁走した。二十五日の夜中、三十五発の砲弾がこの広場の上を飛び、一七六八年このかた、初めて冬宮の「黄金の広間」「アレクサンドロフスカヤ広間」の床が、プロレタリアート群の重い靴の下で鳴った。
 冬宮を占領したボルシェヴィキーは、密集した列をつくって壮麗な広間へと通り抜けた。歴史的瞬間であった。誰かが手をのばして広間に飾ってある置時計を盗んだ。すぐ続いて次の手、次の手、たちまち熱く叫ぶ声が前方からおちて来た。
 ――タワーリシチ! 何にもさわるな! 取るな! みんな民衆の財産だ!
 広間から広間へ進むにつれ叫びはあっちこっちから絶えず聞えた。
 ――革命の規律! 革命の規律を守れ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
 ――タワーリシチ! 俺たちプロレタリアート・ボルシェヴィキーが盗人でも乞食でもないことを見せてやれ!
 赤布を平服の腕へ巻つけた労働者赤衛兵はピストルを片手に、冬宮を引揚げる時全同志の身体検査をした。ポケットに入れられたものはどんな小さいものもとり上げそれを記入した。(中にはマッチの箱、ローソクの燃えかけという記念品[#「記念品」に傍点]もあった。)そべてそれらは、プロレタリア革命の名誉のためになされたのである。
 赤衛兵は、日にやけた屈托のない若い顔で、広場を眺め立っている。冬宮は今博物館となっている。
 日本女はゆっくりその広場を横切り、十月二十五日通りへ出た。家並の揃った、展望のきく間色の明るい街を、電車は額に照明鏡を立てたドクトルみたいなかっこうで走っている。
 年経た、幹の太い楡の木がある。その濃い枝の下に、新聞雑誌の売店《キオスク》、赤い果物汁飲料《クワス》のガラス瓶。
 古いくり形飾を窓枠につけたロシア風な小家。それを曲って、わきの空地に馬糞がある。蠅がとんでいる。――町はずれである。
 二人の日本女は、右手に見える白い大|拱門《アーチ》を入って行った。非常な興味を顔に現わして、正面に見える建物の破風や、手前にある夏草のたけ高く茂った庭へ置いてある緑色ベンチなどを見ながら、通って行った。
 日本女は、一九一七年十月の夜、ここからどんな勢が、旧ペトログラード市中央に向って流れ出したかを知っている。スモーリヌイはもと、華族女学校だった。ケレンスキーがそれを全露労働者兵卒ソヴェト中央執行委員会に貸した。二十五日の夜、徹宵この敷石道の上をオートバイが疾走し篝火《かがりび》がたかれ、正面階段の柱の間には装弾した機関銃が赤きコサック兵に守られて砲口を拱門《アーチ》へ向けていた。軍事革命委員会の本部だったのである。
 今スモーリヌイには、レーニングラード・ソヴェト中央委員会、中央執行委員会がある。太い柱列《コラム》のガラス戸はしずかに六月はじめの日光をてりかえし、白い巨大な建物全体が青空から浮き出ている。
 日本女は前後して石段をのぼって行った。
 ガラス戸をあけて入ったところは広く、左手に鎌と槌を様式化したスタンドがあり国立出版所《ゴスイズダート》が本を売っている。
 もう一重ガラス戸。
 奥は廊下だ。工業化公債募集のビラ。会議の布告。国防飛行協会《オソアビアヒム》クラブ主催屋外音楽会の広告ベンチがいくつも壁にそって並んでいる。
 赤い布《プラトーク》で頭を包んだ婦人郵便配達が、ベンチの上へパンパンに書附類の入った黒鞄をひろげいそがしそうに何か探している。太い脚を黒い編あげ靴がキュッとしめている。
 いそぎ足でいろんな人間が廊下をとおった。みんな、この大きな建物内にある無数な室それぞれの場所、職務をよく知っているらしい様子である。
 日本女は右手の受付へ行った。
 ――百二十四番の室の許可証を下さい。
 ゴム印をおし、番号を書いた紙片を貰って、さらにもう一枚ガラス戸をあけて、表階段をのぼって行った。
 二階の壁に、絵入りのスモーリヌイ勤労者壁新聞が張り出してある。
 スモーリヌイの外観は快活である。そのように内部も清潔で、白い。極めてさっぱりしている。
 三階の廊下へ入るところに、赤衛兵が番をしている。許可証を赤衛兵にわたした。婦人部《ジェノトデェール》[#「婦人部《ジェノトデェール》」は枠囲い]金文字の札が出ている。戸がかたい。うんと力を入れて開けたら日本女がびっくりした程ひどい音がした。
 事務机。二つの電話。大きな紙屑籠、重ねあげられた書類、ひとり女が仕事している。
 ――御用ですか?
 赤鉛筆で何か書類に棒をひきながら、
 ――対外文化連絡協会から電話があったろうと思いますが……日本から来たものです。
 ――ああ。
 顔をあげて、並んでいる二人の日本女を見た。
 ――わかってます、一寸待って下さい。
 引込んだその女について、すらりとした、黒っぽい服装の若い女が奥の室から出て来た。彼女は、軽く、直線的に日本女に向って歩いて来ながら手をさし出した。
 ――こんにちは、ロシア語おわかりでしょう?
 ――大抵のことはわかるつもりです。
 ――それ以上何がいりましょう?
 先に立って、自身出て来たとは反対側の戸をあけた、そこも一つの室で、今は空だ。ローザ・ルクセンブルグの写真がかかっている。椅子が二つしかなかった。
 ――ちょっと待って下さい、すぐとって来ますから。
 婦人部の事業は全部女によってされているのだ。
 ――何からお話したらいいかしらん、……きりょうのいい婦人党員は二人の日本女を見くらべながら笑った。
 ――革命前と革命後の女の生活の変化といったら、全くそれを経験しないものには理解するのさえ困難なくらいです。どこが変ったと訊かれれば、何もかにも変ったと答えるしかないんです。我々のところで、旧いブルジョアの社会組織は、ばらばらにこわれて誰の役にも立たないものになってしまった。新しい生産関係の上に社会主義社会が新らしく組み立てなおされた。一九一七年から二一年までСССРの人間は随分辛いところを切りぬけて来たんです。御承知の通り、イギリスやチェックは白軍と連合してどんどん侵入して来るし……。
  第一「十月」革命当時、ブルジョア・インテリゲンチアの社会民主主義者連はボルシェヴィキーに対して何といったと思います? こういってたんです。「パリ・コンミューンは、あれでも二月と二日続いた。が、ボルシェヴィキーの政府は三日もちゃしない。やらせて見るのもよかろう。そして、今わいわいいってる民衆自身が、ボルシェヴィキーには政府を組織する実力なんぞないことを知るのもよかろうさ!」
  社会民主主義者連はボルシェヴィキーを自分たちと同じに考えていたんです。
  われわれのところにはレーニンがいた――
 しばらく黙った。それから婦人党員は訊いた。
 ――日本でレーニンはどのくらい知られています?
 ――どの位って……知らない者より知ってる者の数が多い、そして知ってる者はおのおのの立場でそうあらねばならないように知っている――つまり、或るものは知って、愛している。或るものは恐怖して憎んでいるでしょう。
 日本女は、笑ってつけ加えた。
 ――そしてリベラリストは、いつもこういってるんです。レーニンは少くとも偉大な革命の指導者だった。しかし、日本にはまだレーニンがいないからね。
 婦人党員は愉快そうに、よく揃った歯なみを見せて笑った。
 ――ボルシェヴィキーが十月革命のとき、全国の積極的な革命的プロレタリアートによってどんなに支持されていたか、どんなにボルシェヴィキーはプロレタリアート自身の党であるか、ブルジョア社会民主主義者は理解しなかったんです、ロシアのプロレタリアートは「十月」までに「一九〇五年」を経験しているんですからね、男も女も自分の血のねうちは知っている。
 ――大事なことはね。
 熱心に、輝く眼で日本女の眼を見ながら、婦人党員が、言葉に力をこめていった。
 ――われわれんところで、婦人解放が、革命を通し、改められた生産と労働との関係をとおして日常の実践のなかからおこなわれて来たことです、革命当時、どの女にとっても新しい一日は新しい一世紀みたいだった、仕事はうんとある、人が足りない、今までは引こんでいた女が場所につく、直ぐ新しい仕事に自分を馴らし、刻々推移する事情を判断し、自身いる場所の任務をはたさなければならない、女は戦線へも行ったし委員《コミサール》にもなったし市街戦のバリケードこしらえもやったんです、生と死の間で男とともにやらないことはなかった、その間に、女は今まで自身知らなかった能力を自分のうちに発見し、必要を発見し、それを整理していった。
  だから、現在われわれの持ってるどんな女のための法令一つだって実際の困難と必要との経験を徹して作られなかったものはないんですよ。
  たとえばソヴェトでは女でも十八歳から選挙権をもっている、ブルジョア国の政治家は、若すぎるという、果して若すぎるでしょうか? 資本主義生産は十三歳の幼年工を何時間働かしています? 若すぎるといって夜業をさせないでしょうか?
  プロレタリアートは永い経験によって、プロレタリアートの十八歳の女は、職場で立派に一人前の生産単位であることを知っています。十八歳の娘が、集会で意見を述べ、また述べるべき実際的な意見をもってることを知っている。だから、彼女らに選挙権があるのは当然なことなんです。
 印刷した統計表をもって来て、婦人党員は日本女に示した。
 ――御覧なさい。ソヴェト同盟に約三百二十万人勤労婦人がいます、三百万余人が職業組合員です、ソヴェトの指導的任務についているのが三十万千百人、そして十六万七千六人の婦人党員のうち五七・四パーセントは労働婦人です。

 入ったところから、もう机だ。長い机が四かわに、並んでいる。それを左右からぎっしり、いろんな年配の女がとりかこんでいる。首を横にしてそっちを眺めるような位置に、一人、男の教師がいて、椅子にかけている。教壇も何もない。机が彼の前に一つあるぎりだ。一番戸に近い側の女たちは、後の本棚と机との狭い間できゅうくつそうに床几にかけ、しかもそんなことには頓着しない風で、一生懸命手帳に何か書いている。
 質素な服装。がっしりした肩つきだ。若いの、中年の、いれまじった顔は、どれも自分たちの思考力を鉛筆の先へつかまえておくために本気である。
 地味な、断髪の女が机と机との間をしずかに歩いている。肩ごしに女たちの手帳をのぞき、時々必要な注意を与えている。日本女のすぐそばまで来た時、二十七八の女の手帳をのぞき低い声で、
 ――これは間違ってる。
 注意を与えた。
 ――これは質問です。あんたが書かなけりゃならないのは、これの答えです。
 いわれた女は、ちょいと顎を出して、大きく合点した。そして顔を赤くした。
 ソヴェト・ロシアにおいては、さっき三階の、ローザ・ルクセンブルグの肖像画のかかった室で、婦人党員が説明したように、実践をとおして獲得した女の公民権を十分に行使する者の率が年々素晴らしく増して来た。たとえば農村においてさえ、ソヴェト選挙のとき活動する女の率が、
   一九二四年    二五パーセント
   一九二五年    三十パーセント
   一九二六年   七十三パーセント
という飛躍ぶりだ。農村ソヴェトの指導的位置について働いている女さえすでに数千人いる。СССРが、農村の集団化、集団農場を中心として社会主義的建て直しをやろうとしている時、農村ソヴェトの進退は、重大な意味をもっている。その農村ソヴェト選挙に当って活動する農村の女が、では農村ソヴェトの実際的な使命をどう理解しているかということが、従ってまた重大な関係を持っているのは当然である。
 帝政時代、農村の女はひどく暮した。今、彼女らは解放された。しかし、社会主義社会建設のための任務を、十人が十人同じように理解しているだろうか。そうだとは決していえぬ。
 そこで、スモーリヌイのレーニングラード・ソヴェト婦人部は文化部の事業として、この農村ソヴェト選挙準備のための夏期講習会を組織した。
 期間。二ヵ月。
 課目。ソヴェト政権とはなにか。世界の経済。党史。数学。ロシア語。
 今ここで、勉強している農婦、妻であり、母である彼女たちは、講習をすまして田舎へかえれば、それぞれの村で直接、農村ソヴェトに関する活動の指導者として働かなければならないのだ。
 いつの間にか入って来て、日本女のうしろに立っていた、若い、麻の仕事着をきた女が小さい声でいった。
 ――この中には現に村ソヴェトの書記をしているひともあるんです。……みんな遠いところから来た。子供三人「子供の家」へたのんでまで来ているひともあります。
 彼女らは、一つずつの課題に対して力をこめて大きく鉛筆をはこび、それを書くのに永い時間かかった。
 ――ごらんなさい、ときどき授業はかなりむずかしいんです、馴れていないんです、机の前に坐って自分の考えを纏めたり、書いたりするのに。でも、御覧なさい、みんな、どんなに熱心にその困難を征服しようとしているか。
 日本女は、その、麻の仕事着をきた若い婦人党員をさそって廊下へ出た。
 ――あのひとたち、一日何時間ずつ課業があるんです?
 ――四時間から、日によっては六時間です。
 ブラブラ明るい階段の方へ向って歩きながら、答えた。
 ――あの人たち、みんなここの寄宿舎に暮しているんです。汽車賃を貰って来て、無料で勉強して、十五ルーブリくらいずつ小遣いを支給されています。……きのう、私ども、あの人たちと美術館(エルミタージ)見学に行きましたよ。
 ――大抵、党員なんですか?
 ――いいえ、いいえ!
 薄い繭紬みたいな布《プラトーク》で頭をつつんだ血色のいい婦人党員は、つよく否定した。
 ――みんな党外の婦人です、党は、党外の人々の助力なしに何も出来ない。……ああ、あなた、暇ですか?
 百二十四番の室へ、来なければならなかった。
 ――じゃ丁度いい、今日あの人たちあなたと話す時間がないが、きっと、それを希望しているだろうと思います。もう一遍よってくれませんか?
 勿論、異議のあろうはずはない。だが、このひとはいつ休むのだろうか? 日本女は、
 ――あなた、休暇もうすんだんですか?
と繭紬の布《プラトーク》にきいた。
 ――これから、……この講習がすんでから。
 彼女は二十五だ。共産主義大学を来年卒業するところである。共産主義大学の生徒は、他のソヴェトの専門学校と同じく、夏の休みを必ず実習につかう。彼女もここで休みの一部をそういう目的に費している。
 ――……私、小さい娘がいるんですよ、十一ヵ月の。
 ふと、あたたかく微笑みながら元気な彼女がいった。
 ――今は、彼女の父親と田舎に暮しているけれども……

 後の窓からぱっとさし込む明るい光が、いろんな色の髪の毛を照している。(約束した、明後日という日のことだ。)なかにたった一つ、黒い黒い髪がある。それは日本女のである。
 彼女は、立って、いっている。
 ――タワーリシチ・クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]が、私に何か話せといいました。だけれど、私のロシア語は下手だから、みなさん、知りたいと思うこと私にきいてくれませんか? 私の知っていることなら答えたいと思います。
 日本女は、まるで柔かい発音で、
 ――私のいうこと、わかりますか?
 と問いながら、まわりに重なっている婦人講習会員の顔を見まわした。
 ――わかる!
 ――わかります。
 ――心配しなさるな!
 クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]は今日も繭紬の布《プラトーク》だ。たっぷりした胸つきで、みんなの横に立っている。日本女に向って鼓舞するように頭をふった。
 ――…………
 ――あの――日本に……日本では女が参政権を持ってるんでしょうか?
 二重に重なった頭の奥からのびあがって第一に質問したのは、白ブラウズを着た髪の赤い女だ。
 日本女は、持ってないと返事した。日本では全国労働者総数の五十一パーセント、女が占めている。けれどもそのおびただしい女のほとんど大多数は男の半額の賃銀で搾取されているだけで、選挙権などは持ってないのだ。
 前列の机に両肱かけて坐っていた若い女が、
 ――御覧!
 よこに並んでいる年上の仲間に、怒ったように低い声でいった。
 ――そいで、あすこは、どんな村でも電燈をつけて、文明国だって!
 それから日本女に向って、高い声で訊いた。
 ――女は結婚や離婚の自由をもってるんでしょうか?
 誰かが小さい声で、
 ――あすこじゃ、籠に入れて女の子を売るんだって……
といった。
 ――八つで結婚させるって。
 クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]が声のした方を見た。そして訂正した。
 ――それは支那やインドのことで、今の日本のことではありません。
 質問はつづいた。
 小学校は共学か?
 女は男の大学や専門学校へ入れるか?
 農村の女の生活状態――労働はどんなか?
 日本の農村の主な生産はなにか?
 日本に組合があるか?
 共産党はあるか?
 都会の工場のストライキのとき農村は実際的の助けをすることを許されるか?
 託児所、健康相談所はどのくらい発達しているか?
 日本女は、婦人講習会員たちの質問に深い興味を感じた。熱心に知っているかぎり説明した。箇条を見てわかるように、彼女たちは、農村ソヴェトのために活動する者としてのはっきりした立場から問いを出している。(市町村ソヴェトは上級ソヴェトと同様内部に文化部、衛生部、政治部その他専門部をもっている。ソヴェト員のあるものは、文化部員となる、或るものは衛生部員となる。各部はべつべつに集まり、ある問題を決議する。決議を一般集会のとき持ちよるのである。)
 相当しゃべって、ひとりでにみんなが黙った。突然、
 ――日本にも、女房をなぐる亭主が沢山いるでしょうか?
 思わず笑った、一同が。質問した女はどっかへ頭をひっこめている。笑いながら、みんなも日本女も、馬鹿な質問したとは感じなかった。古いロシアの農民はうんと女房をなぐった。亭主のそれが情愛だといってなぐった。そういう時代はもちろん去った。けれどもモスクワ発行の『労働者新聞』の「自己批判」の投書に、こういうのが出ることがある。
[#ここから1字下げ]
 パウマン区何々通五八番地、室《クワルティーラ》十五号に住んでいる某々工場の職工イワン・ボルコフは、一週間に少くとも三遍は酔ぱらって夜中に帰って来る。彼は室の戸を先ずうんと叩いて近所を起こす。次に女房をなぐって、騒動で近所の子供の目まで覚させる。イワン・ボルコフは工場委員会に働いている。労働通信員。
[#ここで字下げ終わり]
「亭主は女房をなぐる権利をもっているのでしょうか?」
 やっぱりこのスモーリヌイの婦人部の仕事で、農村の女を目標にいろんな講話会が開かれた。
 これはそのとき送られた質問の一つだ。

 スモーリヌイでは地階に大食堂がある。
 働いているものが、みんなそこで食事をしたり茶をのんだりした。外から来たものでも四十カペイキでスープと肉・野菜が食える。
 からりと開けはなされた大きい窓から、初夏の木立と花壇で三色菫が咲いているのが見えた。天井も壁も白い。涼しい風がとおる。――日本女は、婦人講習会員の間にかけて、黒パンをたべている。思いついて手提袋から、銀貨と白銅とを少し出した。それは日本のだ。
 ――これは五カペイキにあたるの、それが十カペイキ、そっちのが二十カペイキ……
 手にとりあげて眺めながら、日本女のすぐ隣に坐っている女は黙ってそれを次に渡した。うけとって眺める。まんなかに穴のあいてる十銭を、裏表かえして見て、首をあげ視線をあつめてる仲間を見わたし、一寸肩をすくめるような恰好をして次へわたす。クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]が、
 ――わざわざもって来たんですか?
ときいた。きのう、ここへ来た時やはり文化部で働いてるムイロフが、記念にといってソヴェトの一ルーブル銀貨をくれた。出来たばかりでピカピカ光ったきれいな銀貨だった。そのお礼に、そんなきれいではないがこの日本銀貨をもって来たのである。
 テーブルへ、三十人近い女がついている。日本銀貨は手から手へまわされ、或るものはてのひらの上へのっけて重みをきいた。が、みんな何ともいわぬ。見てしまったものは、勝手に、
 ――この腫れもの、痛んでしようがない。
 ――きのう何故診療部へ行かなかったのさ。
などとしゃべっている。
 農村で外国貨幣を見ることはない。農民はちょっとでも様子の違う金に対しては極度に警戒的なのだ。
「目をくぼませ、埃まみれになりながら何処へかかけて行く人々で廊下は一杯だった。ある室の戸があいていた。そこでは床へ直かに何人かが眠ってた。そばへ銃を置いて」
「十月」のスモーリヌイの廊下を、こうジョン・リードが書いている。
 今、日本女は、同じ廊下で壁新聞をよんでいた。
 ずっといい天気つづきだ。廊下のはずれのあいた戸から、しずかな川が見えた。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河の支流だ。スモーリヌイの裏を流れている。
[#ここから4字下げ、破線枠囲み]
我々は馬じゃない!
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
 鼻の穴をふくらがした馬の面が壁新聞に描いてある。
[#ここから4字下げ、破線枠囲み]
スモーリヌイの食堂のパン切はいつもひどく大きく切ってある。人々はみんな食べない。半分かじって放ったらかしてあるのをちょいちょい見る。我々は馬じゃない。人間の口に適当な大きさのパンきれがいる。それを幾切れでもたべたらいいじゃないか!
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
 壁新聞発行所が主催で、レーニングラード市外の集団農場見学に出かけた記事がある。工業化債権に、スモーリヌイの勤務者が何ルーブル応募したとかいう報告が書かれている。――
 壁新聞は、СССРじゅう至るところの役所、工場の職場、学校で発行されている。大抵、手書きである。漫画、写真をはったの、新聞雑誌からの切りぬきを編輯したもの。印刷の週刊工場新聞をもっているところでも、職場、職場はやっぱり手書きの壁新聞を、生産予定計画表とならべて自分の壁にかけている。
『プラウダ』が刻々にうつりかわるСССР全土の、世界プロレタリアート全体の問題について書いている。工場新聞は、その問題に当面して一工場としての立場から同じ題目をとりあげる。壁新聞は、もう一段こまかくわかれた職場学級内の遠慮ない発言、要求、自己批判の手段として利用されている。だから人は見るだろう、一日の発行部数十数万の『イズヴェスチア』新聞社の正面昇降機の横にまでも、絵入り手書きの『イズヴェスチア』勤労者壁新聞は、いつもぶら下っているのを。
(うち[#「うち」に傍点]のこういう壁新聞や工場新聞および外のいろんな新聞と連絡を保って、社会主義社会の建設に貢献している労働通信員、農村通信員は、ソヴェトに三十万人以上ある。)
 ――こんちは。
 振かえりつつ見るとムイロフだ。白いゆるやかなルバーシカをきて蓋をあけっぱなした書類入鞄をかかえている。
 ――この間は日本の金ありがとう、今日は何です?
 ――レーニングラード市ソヴェト委員会があるんだそうです。
 金網をかぶせた頑丈な自分の腕時計を彼は見た。
 ――まだ二時間近く暇がある、室へ来ませんかね。
 親切な眼をもったレーニングラード・ソヴェト文化部員ムイロフは革命のとき鍛冶屋だった。一九一三年からの党員だ。はじめて会った時、ムイロフは、大きい手へ逆にもった鉛筆をけずりながらあんたの職業はなんだと日本女に訊いた。「私は作家だ」「ふーむ。作家も仕事をもってる」それから丁寧に鉛筆の削り屑を机の下の紙くず籠へすてて「……リベディンスキーの『一週間』というのは日本に知られてるだろうかな?」といった男だ。
 ――あんたがた、レーニンの室見せて貰いましたかね。
 不意にムイロフが訊ねた。
 ――いいえ。
 彼の室へ来ると、
 ――一寸かけて待っててくれ。
 書類入鞄を机の上へほっぽり出して、いそぎ足に出て行った。
 ――見られるんだろうか、レーニンの室って。
 ――さあ、いいな、もしそういう工合になれば。
 じき、帰って来たムイロフが、開いた戸から首をつっこんで二人の日本女を呼んだ。
 ――出かけましょう!
 手に鍵束を下げたムイロフについてまた廊下へ出た。
 少し行って、廊下を左に曲る、日本女が足のはずみでその前を通りすぎそうにしたごくあたり前の或る木の扉のところでとまった。鍵がうまく合わない。プリントをもって後を通りすがった男が、
 ――開かないのか?
 ――うん、ミーシャが今いないんだ。
 その廊下のもう一方の側にもずらりと同じような室が並んでいる。
 戸が開いた。
 が、日本女はいそがず、見るものはみんな覚えておこうとするような顔つきをして室へ入った。ムイロフも一緒にあたりを眺めながら、
 ――レーニンは十月革命のあいだずっとここにいた、……もと、華族女学校の女中部屋だったところですよ。
 なるほど左の壁には、いくつも並んで水道栓と流しがついていた跡がある。細い部屋だ。つき当りに一つしか窓がない。大きい戸棚が左の壁と窓との間に立っている。戸棚には錠がおろされ、赤い封印がついている。
 ――住んでいたのはこっちです。
 三尺の戸がついていて奥の室へ通じる。入口の室の倍ほどの大きさの四角い室だ。どっちにしろごく小さい室だ。むきだしの木の床に粗末な赤ラシャ張りの椅子が三四脚ある。バネがこわれた長椅子がある。机は相当大きいが、ひどいものだ。鉄寝台の、すっかりバネのゆるんで下へたれたのが二つ、たれ幕のうしろに並んでいる。ここは窓が二つだ。が入口はない。どうしても、手前の、水道栓のあとのある室を通って来なければ、こっちへ入れないように出来ている。
 レーニンは十月革命前後から、モスクワへ首府をうつすまで、この一室で、この椅子で、妻のクループスカヤと仕事していたのである。
 レーニンは、外国亡命中にも、いろんな都会や田舎で、いろんな室に住んだ。モスクワのレーニン研究所所属レーニン博物館へ行ったものは、レーニンがウリヤーノフという本名で中学生だったころ、どんなに行状のよい優等生であったかを知るとともに、クレムリンに政府が引越して来てから、レーニンがどんな室に住んでいたかも、見ることが出来る。
 そこには、世界的に流布された『プラウダ』を読むレーニンの写真でなじみの机がある。三つのガラス戸つきの本棚が立っている。皮張椅子が三つ。そして、壁には地図がはられ、もう一つ貼紙がある。「禁煙」。この室に寝台はない。
 だが、レーニンが住んでいた室という写真の他のどれを見ても、机がきっとあると同時にきっと粗末な寝台がうつっている、彼がそれだけ、いつも倹約に生活していたことの証拠だろう。
 ――元、この室にいろんなものが陳列してあったんですが、それはレーニン博物館へ集めてしまった。
 ムイロフが、太い指で粗末な赤ラシャ張の椅子におちてる埃をひろいながらいった。
 ――しかし、家具はもとのまんまです。
 こっちの室も床は木だ。
 ――スモーリヌイには、もっと広い、もっと立派な室がうんとあるんです。お姫さんの学校だったんだから。ところが、レーニンは、ここが好きだ。立派なところに坐ると窮屈だと笑って、ここに暮していた。
 レーニンが、世界の歴史を一転させた十月革命を通して、贅沢どころか一身の休みを考えるひまさえなかったことは、誰にでも分るけれども、質素をきわめたレーニンの室を眺め、窓からスモーリヌイの巨大な建物の裏側の景色を眺めているうちに、日本女は、一枚の地図を思い出した。
 それはやっぱり、モスクワのレーニン博物館にあったものである。ロンドンにレーニンが亡命していた時、同志にある会合の場所を教えてやるため、白い紙きれに書いてやった地図だ。よくかいてある地図だった。非常に、はっきりしている。それでいて、こまかくいろんな横道が万一の時の用心にきっちりかかれている。ロンドンのいりくんだ下街のゴチャゴチャを、外国人のレーニンがああいう風に精密に我ものにしたところに、そして、また地図を書いてやるその書きかたに彼の指導者としての器量をつよく感じた。
 その地図の注意深い、はっきりした黒い線が、このスモーリヌイのレーニン室で、窓からそとの屋根を眺めて、日本女の記憶によみがえって来た。この室の位置、屋根から屋根へのつづき工合、スモーリヌイの裏をまわってゆるやかに流れているネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]河の支流。それらの間に、レーニンは、あのでかい丸い頭のなかできっちり組織的な線をひっぱっていたことを、日本女は感じた。
「いや、ここばかりではない」日本女はそう思った。地球をぐるりと一まわりして、今は組織のつよい一本の線がある。プロレタリアートがヨーロッパ戦争後のひどい階級的重圧と闘いながら次第次第にやき鍛えている一本の、熱い、世界をかこむ線がある。
 奥の室を出たところでムイロフが、
 ――これ、見たことがありますか? と壁の上を指さした。
 ――ああ。知っています!
 十月二十五日の夜臨時政府内閣が捕縛されたときの号外が、そこに貼られていた。

        未来の交代者《スメーナ》

 ソヴェト同盟が、この地球でたった一つの社会主義国として自分の国を守り、将来、社会主義的社会をますます完成させて行くためには、どんなに次の時代というものに注意を払っているか分らない。
 革命以来、ソヴェト同盟は、あらゆる法律の力で、生れて来る赤坊の生存権を保護して来た。たとえば、姙娠している労働婦人は出産前後四ヵ月の有給休暇を貰う。出産のための産院は無料だ。赤坊のキモノや何かのための支度金を二十五ルーブリから三十五ルーブリぐらいまで貰い、出産後九ヵ月間は特別に赤坊の哺育料を貰う。「母と子の相談所」と託児所はあらゆる区に配置されている。そして労働法は生後十ヵ月までの子をもつ母親の解雇、姙娠五ヵ月以上の女の解雇をごくごくやむを得ない場合以外は厳禁している。
 小学校、工場附属技術学校、いずれも国庫および職業組合の負担で、プロレタリアートの児童のために開放されている。
 特にピオニェールは、プロレタリア階級の前衛として社会主義社会建設と拡大とのために必要なあらゆる注意のもとに教育されつつあるのだ。
 教育は、決して学校の教室においてばかりされるものではない。それはブルジョアの親方でもよく知っていることだ。ゆえに、革命までの冷いロシアはどうであったか?
 黒い裾をひきずって、長い髪をたらした坊主が、小学校、中学校の教室を初めとして、家庭の内へまでやって来た。そして、十字架を握った冷っこい手を子供の唇へ押しつけて、こわい声でいった。
 ――お前、この世で一番偉い方は誰だか知っているか。
 ――神さまです。
 ――その次には?
 子供は坊主の赤い鼻を見上げて機械的に答える。
 ――ツァー(皇帝)です。
 ――よし。お前は先ず神のおっしゃることを、即ちツァーのおっしゃることに、絶対に服従しなければならぬ。よいか?
 ――ええ。
 坊主は、子供の頭に十字を切ってやって、いう。「神|爾《なんじ》とともに在れ!」
 ブルジョアは自分達の劇場をもっていた。自分達の絵画館をもっていた。働く人間、彼らのいわゆる「黒い町」の住人どもに与えられているのは、ブルジョア国家がその税で富むところの火酒《ウォトカ》と教会と無智であった。(労働者農民の子は大学に入れなかった。兵役につけば終身兵士以上にはなれなかった)。そしてもちろん、ブルジョアが美しい馬にひかせた橇で雪をけたててやって来る劇場へは、入るどころではなかった。(侯爵であったクロポトキンでさえ、学生の制服姿のときはオペラ劇場の天国でやっと音楽をきいたと思い出の中に書いている。)
 十月の革命は、ロシアの支配者をブルジョアからプロレタリアートに代えたと同時に、こういう状態を根本からかえた。オペラ劇場で、今日「ボリス・ゴドノフ」を聴いている聴衆は、昼間工場や役所やで、木綿服で働いている男女の勤労者である。金ピカの棧敷や、赤ビロードで張った座席には、冷たい水で顔を洗い、さっぱり洗濯した白木綿のブラウズをきた女が、音楽をききながら、いい香のロシア・リンゴを前歯でかいては、たべている。
 昔からのブルジョア文化を、プロレタリアートの利用のために獲得したばかりではない。ソヴェト同盟は、世界のプロレタリアート文化の第一線に立って、さらに新しい自分ら独特の劇を、音楽を、キノを製作し、各劇場は、常に座席の一定数だけ、職業組合を通じて、半額以下で一般勤労者に分けている。
 芸術は、階級の武器の一つである。プロレタリアート独裁のソヴェトは、独特なプロレタリアート芸術とその利用法によって、社会主義社会の実生活を表現するとともに、新しい時代に生きるソヴェトの大人と、未来のスメーナである子供とに、いきいきした階級的教育を与えている。
 イギリスのプロレタリアートは、骨ぬきの労働党と二百万の失業者とをもっている。イギリスのプロレタリアートは、こういう子供のための劇場を、いつもつようになるであろうか。
 アメリカは、金持たちの子供を、個人主義の天才養成法、ダルトン・プランで教育する。が、六百万人の失業者、家族人員にする千六百万人もの大人子供が飢えているアメリカのプロレタリアートは、どこにこんな子供の劇場を持っているだろう。
 日本女がつよい感動で思わずそう考えたのは無理ではないのだ。何故なら、日本女はこのレーニングラードが持つ最もよい劇団の一つ「若い観衆の劇場」に、今坐って、幸福な数百の子供にとりまかれている。
 舞台では、「インドの子供」の第二幕が進行中だ。
 インドには、宗派による沢山の階級がある。その階級の差別は極めてやかましく、たとえば、草ぶき小舎にすんでいるヒンドゥースの娘スンダーリは、自分の飲む水を、上の階級ブラマンのものたちが水を汲む泉から決して汲んではいけない。泉に近づいただけでもののしられ、なぐられる。小さい黒い男の子ウペシュは、それを眺めてフンガイするが、どうしよう? ウペシュにも彼をなぐるものがある。イギリスの役人だ。彼は小さいインドの小僧としてそのイギリス人に使われ、字を読むことも知らない。
 いつも哀れなインドのプロレタリアートのために親切な医者として働いているヨーロッパ人のチャンドラナート・パープの息子、ラグナートとウペシュは友達になった。
 舞台は、今チャンドラナート・パープの家だ。二人は同じぐらいの年ごろで、――つまり観衆の子供と同じ十一二歳の子供たちだが、どうだ! ラグナートが、左手の隅のカーテンの中へ一寸入ると、室じゅうが急に真暗になった。
 ――ああ! ラグナート! どこいった? こわいよ! 暗いとこへは悪魔が出るよ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
 ――大丈夫だよ! 大丈夫だよ。僕ここさ。
 だが、なにが初まろうというんだ? 観衆の少年少女はラグナートの緊張を自分の心に感じて息をころしている。
 ――ここを見て御覧。
 ラグナートの声の方を見ていると、細長い箱みたいなところがボーッと明るくなって、人間の形が浮き出たかと思うと、
 ――ヒヤーッ! 助けてくれ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
 インドの子供が悲鳴をあげたのは当り前だ。骸骨だ、そこへ現れたのは。
 観客席はざわめく。
 ――ラグナート! ラグナート!
 泣かんばかりに腰をぬかしたウペシュを照してパッと電燈がついた。骸骨も消えた。
 ラグナートは今度ウペシュをカーテンの中に入れ、
 ――そこんところへ手を出してたまえ。
 電燈が消える、ポーッと現れたのは骨ばっかりの手だ。
 ――イヤダヨーッ! 死ぬのはいやだよッ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
 ――死にゃしないよ。ホラ!
 電気がついて見ると、ウペシュははね上って大悦びした。
 ――やあ! 死んでないや! 死んでないや!
 見物の子供たちと日本女とはラグナートと一緒にハアハア大笑いし、同時に、実はそっと一安心する。それはレントゲンだったのだ。ここではじめてレントゲンの科学的作用をまのあたり知った子供が観衆の幾割かを占めているのは明らかなことだ。
「|若い観衆《トユーズ》の劇場」は一九二一年、レーニングラード地方ソヴェト文化部管理の下に活動をはじめた。
 日本女と子供たちの手にあるプログラムには「インドの子供」の役割が書いてあるだけではない。やさしい言葉で、インドの社会的事情が前書として説明してある。終りに「何をよむべきか」簡単なインド事情紹介の本の名があげられている。
「|若い観衆《トユーズ》の劇場」は芸術的な演出、特色あるギリシャ式舞台でヨーロッパ各国に知られている。芸術部員は、研究室をもって、舞台装置、衣裳、照明。専門にわかれ、それぞれ最近の様式をとり入れて、劇芸術としての完成を努めている。
 一方、教育部は、いま日本女のとなりに腰かけて、注意深く舞台と若い観衆との間におこる呼吸のメリ、ハリを観察している白い髯の教育部長をはじめ、どうしたら子供をよろこばせ、しかもその間に労働、政治、科学、芸術の訓練をあくまで社会主義的主題の内に統一して与え得るかということを熱心に研究しているのである。
 劇場の入口に一枚大きなビラが貼ってあった。六月十日から二週間の上演順序である。
 十日――十五日。インドの子供。(三年生のために)
 十六、七日。皇子と乞食。(二年生のために)
 十九――二十一日。アンクル・トムの小舎。(四年生のために)
 観衆の年齢に応じて、脚本の内容はだんだん複雑になって来ている。それより日本女を羨ましがらせたのは、その下の「五月二十九日からの切符配分」という表だ。レーニングラード市内各区の、小学校・ピオニェール分隊・児童図書館・子供の家・工場学校は、それぞれきまった日に、この「|若い観衆《トユーズ》の劇場」から無代の切符配分をうける、その予告なのである。
 親たちは大人の劇場へ職業組合からの半額、あるいは無代の切符をもって。子供は子供の属す組織を通じて「|若い観衆《トユーズ》の劇場」へ! ここにソヴェト同盟の劇場の、晴れやかな歓びの源がある。
 たとえ、或るものはまるきり無代でないにしろ、二十七カペイキの切符代で、こんな面白い、そしてためになる芝居が観られる。ソヴェトの子供は、仕合わせだ。――彼らの親、兄、姉が、そのためには血で「十月」を勝ちとったのだ。
(子供のための劇場は、モスクワにも二つある。)
 二幕目がすむと、隣にすわっていた白い髯の教育部長が、
 ――どうです?
 ニコニコ笑って日本女をかえりみた。
 ――退屈じゃないでしょう? 案外。
 日本女は、古典的なマリンスキー劇場で、「眠り姫」を見るよりは遙か面白いと正直にいった。それは、世辞ではない。インドの小娘スンダーリが親たちの迷信の犠牲になって、どっかの寺へ献上されてしまう。ウペシュがそれを知って悲しみ嘆く。「|若い観衆《トユーズ》の劇場」教育部がそこでいおうとしている迷信の力と科学の力との対照は、うまい演劇的表現で、大人をもひきつける面白さである。
 ――これは、割合成功したと我々も思っています。だが、往々大人は子供の心持をかんちがえするのでね。いつも研究が必要です。
 幕あいが十五分ある。日本女は、お爺さん教育部長のうしろについて、廊下へ出た。子供。子供。子供の国だ。
 ――今日は! セミョン・ニコラエヴィッチ!
 赤い襟飾をつけたピオニェール少年が挨拶する。
 ――セミョン・ニコラエヴィッチ! こないだの絵もって来ました。
 そういうのは、そばかすのある女の子だ。
 ――そうか。じゃこっちへ来なさい。
 ――僕も一緒に行っていいですか? セミョン・ニコラエヴィッチ。
 セミョン・ニコラエヴィッチと小さい日本女は、いろんな鼻つきをした子供の群にかこまれて、子供だらけの廊下を行った。賑やかな廊下を歩くのは、むつかしかった。廊下の左右には、ズラリと絵がかかっている。それに子供がたかって見ている。
 ――あれはどういう絵です?
 ――ここで、芝居を見た子供たちが、その印象を描いたものです。
 日本女のわきにくっついて歩いていた女の子が、仲間に、
 ――サーシャの描いたのもあるよ。
 ふりかえっていっている。
 狭い戸をあけて、セミョン・ニコラエヴィッチは廊下の横の小部屋へ日本女と一かたまりの子供たちとを入れた。
 ここのも壁絵だ。廊下にかけてあるのよりは小さい児の絵である。色鉛筆で、目玉ばかりみたいな人間の顔や、四本足のフラフラしたあやつりの馬にのっかった子供の姿などがある。
 ――さあ、子供等これをお客さんに見せてあげなさい。
 太い巻物を、一人のピオニェールに、セミョン・ニコラエヴィッチがわたした。
 ――なに? なに? 見せて!
 ――どけよ。そんなに顔だしちゃ邪魔んなるよ。
 それは、「|若い観衆《トユーズ》の劇場」教育部員が苦心して製作した、児童の心理統計とでもいうものだった。
 ――仮に、この「インドの子供」をはじめて公演したとしますね。
 セミョン・ニコラエヴィッチが説明した。
 ――我々は十分注意してヤマ[#「ヤマ」に傍点]のおきどころ、心持の変化――恐怖、よろこび、好奇心、滑稽などを、教育的な筋の上へ按配するのです。しかし、実際に当って見なければ、どこで子供が拍手するか、大いに熱中するか、はっきり分らない。しかし、それを知ることは極く必要です。だから、御覧なさい。これを平静な感情として、ホラ、ここで笑いがはじまりだんだんこんなに高まっている。この笑いは、消えると一しょに好奇心がうごき出し、緊張した瞬間がこれだけつづく。
 黒いジクザクな線、ゆるやかな曲線。一つの脚本が、はじまってから終るまでの子供の心の反応波調である。
 ――御覧なさい、小さい子供は、あまりひどく笑うと、神経が疲れてこういう反動が来る――そのあと注意はこんなに散漫です。
 机のまわりにかたまっている子供たちは、珍しそうな顔をして、その表を見守った。
 廊下では子供たちが、さっき舞台からきいたインドの子供の歌のふしをうたいながら歩いている。
 舞台裏へ行ったら、これからインドの民衆が、イギリス人とブラマンとに反抗して蜂起する大詰の下拵えでいる。黒いインドの子が、赤い旗をせっせと仲間の手から手へ渡していた。
[#地付き]〔一九三一年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1931(昭和6)年1月5日〜21日号(15日号、19日号を除く)
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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