青空文庫アーカイブ

祭日ならざる日々
――日本女性の覚悟――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蜿蜒《えんえん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)芳しいさんま[#「さんま」に傍点]を、
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 千人針の女のひとたちが街頭に立っている姿が、今秋の文展には新しい風俗画の分野にとり入れられて並べられている。それらの女のひとたちはみな夏のなりである。このごろは秋もふけて、深夜に外をあるくと、屋根屋根におく露が、明けがたのひとときは霜に凝るかと思うほどしげく瓦やトタンをぬれ光らせている。戦いに年が暮れるのだろうか。
 この間二晩つづけて、東京には提灯行列があった。ある会があって、お濠端の前の建物のバルコンから、その下に蜿蜒《えんえん》と進行する灯の行列を眺め「勝たずば生きてかえらじと」の節の楽隊をきいた。あとになって銀座へ出たら、その提灯行列のながれが、灯った提灯をふりかざしながら幾人も歩いていて、どれも背広姿の若い男たちであった。なかに蹌踉《そうろう》とした足どりの幾組かもあって、バンザーイ、バンザーイといいながら、若い女のひとの顔の前へいきなりひょいと円い赤い行列提灯をつきつけたりしていた。いつよばれるかを知れないような連中なんだね、ああやっているの。と、その様子を眺めながら連れの老齢の男のひとが静かな口調でいった。
 私たち女の心は、こういう街頭の情景にふれても、簡単にただ見ては過ぎかねる動きを感じている。新聞は毎日毎日、勇壮無比な形容詞をくりかえして、前線の将士の善戦をつたえているが、現代の読者が、ああいう大ざっぱで昔風の芝居がかりな勇気というもののいいあらわしかたや、献身というものの表現を、不満なくうけとって、心持にそぐわない何ものをも感じていないとすれば、感受性の鋭さを誇る若い青年男女の心持ちも不思議である。今日の社会の事情は尋常を脱していて、女に求められている力も、女の資質一般ではなく、銃後の力としての女の力である。そして、それは千人針からはじまって、すでに特殊な生産部門に男と代って働く女の力、あるいは複雑な日本の経済条件の日々の負担者としての女の力が呼び出されているのである。
 戦争やその雰囲気にヒロイックな色彩はつきもののように考えられている。銃後の婦人へ与えられる激励の言葉、また、婦人のそれに応える誓の言葉は、最大級の感情を内容とする文字をつかって、今日では一つの形式をこしらえている。白エプロンに斜襷《ななめだすき》の女のひとたちの姿が現れたところ、即ちそこに戦時の気分が撒かれなければならぬようなところがある。最もいつわりのなかるべき芸術の仕事をしている女のひとの感情でさえ、たとえば近頃の岡本かの子氏の時局和歌などをよむと、新聞でつかうとおりの粗大な形容詞の内容のまま、それを三十一文字にかいていられる。北原白秋氏は、観念上の「空爆」を万葉調の長歌にかいていられる。これらすべては、明日になって日本文学史の上に顧みれば、日本文学の弱い部分をなすものであり、各作家の秀抜ならざる作品の典型となるものなのである。いろいろな芸術家が、今日の風雲に応じて題材をとること、テーマを選ぶこと、それが誤りであるというのではない。その努力はされるのが当然であり、いわば今日の日本人の誰一人が、中国の土地の上で流されている貴重な血について無関心であり得よう。私たちすべてが無関心であり得ないからこそ、その関心の持ちよう、関心をもつ切ない心の女の日々の生活のありようについて、深く思いめぐらしたい心持がおさえがたいのである。
 近頃のデパートの飾窓を眺めてみると、日本服の染模様が実に近年にない飛躍をしていることに誰しも心づく。いずれも緑、黄、朱、赤、と原色に近い強烈な色調で、桃山時代模様と称される華美、闊達な大模様が染められている。この着物をきて、さらにどんな帯をしめるのであろうかと思わずにいられない華やかさ強烈さである。ひところ、一反百円という女物の衣類は、ごく特殊なものにかぎられていた。ところが、昨今は珍らしくなくなった。百円をこしているものも珍らしくはない。まことに、これらの流行色調は絢爛をきわめ、富貴をほこるものであるが、これを見る私たちの一方の目は、冬に向うのに純粋の毛織物は十一月から日本で生産されない。メリヤスもなくなる。木綿も節約せよ。食糧も代用食に訓練しておけ。子供の弁当に大豆類を多くせよ、などの警報にひかれている。今日の日本の財政のまかない手である蔵相はラジオで放送して、銃後の民の心がけというものをとかれた。輸入品の節約をするように。国産品も節約をするように。だが酒、煙草、絹はどうか遠慮なくつかうようにと。
 私たちは学校の家事でも、節約ということの目標を、酒、煙草、絹の衣類においてこれまで教えられて来た。乃木夫人、東郷夫人の貞烈と節倹とは、これらの上流夫人が身を持するにかたく、常に木綿の衣類で通していられたということを、重要な心がけとしてとかれた。
 酒と煙草を未成年者に各国とも禁じているのはなぜであろうか。酒ものまず、煙草ものまずということは男にあってやはり道徳的に意味のあることのように今日までは見られて来た。国民の体位向上の問題はやかましい関心をひきおこしているのであるが、酒、煙草に対する寛大さの結果は、体位をはたして向上させるものであろうか。国民消費としてひっくるめていえば、人口には女も入って、女の酒、女の煙草も、これまで内務省や文部省が保健と精神規律の上からそれを眺めていたとは異った角度でながめられようというのであろうか。
 銃後の婦人に求められている緊張、活動とその性質と、これらの消耗品との性質を対比したとき、私たち女の胸に快き納得を実感することはいささかむずかしいのである。晩秋に芳しいさんま[#「さんま」に傍点]を、豆にかえて、戦場の人々を偲びながら子供らに食べさせる物価騰貴時代の主婦の耳に、酒、タバコ、絹は十分につかえと聞いても、何かそこには日々の生活のやりくりとは離れた遠い、だが苦しい響があるのである。
 ヒロイックな生きかたにひかれる心は、微妙なものである。たとえば、火事場の焔をくぐって火花を体じゅうに浴びながら、一人の子供をたすけ出し、再び身をひるがえしてその母を救う消防夫の行動は、実に美しさを感じるほど英雄的であるに違いない。彼が、仕事を終って、一同の感謝と称讚にこたえて、謙遜に満足そうに笑うとき、拍手を制せられない感動をひとに与えると思う。だが、そのひとが、まさに火中に身を投じて、必死の活躍をしている時、何を考えていたろう。一途に救けようとしているものを救け出すことしか考えていなかったことは確かである。その目的にしたがい、日頃の訓練によって刻々の危険から身をかわしつつ、最大の科学性と敏捷と果断によって行動して、英雄的な成果をあげ得た。英雄的《ヒロイック》なものに対する感動はそのときむしろ手をつかねて傍観していた人々の心持を湧き立たすのであって、その消防夫の努力をたやすくしようとしてバケツ一つの水でも走って運んでいる者には、感情と行動の極度の緊張、節約があるだけである。
 私たちは、人間を切に切に愛する。生命を愛する。その一個たりとも無駄に破壊されることに対して冷淡であり得ない。人間の生みてである女の奥にひそむ母性の感情の深い根はそこにある。現実は、しかし、望むと望まないにかかわらず、ある時の義務としてその生命を捨てることを必要とする。一つの人間の命の最大能力を発揮する必要が、ある場合の結果として一人の人間を何の華々しささえない死へ無言で入らせる。
 銃後に漲る英雄的《ヒロイック》な気分の何割かが、避けがたい必要に求められて生命の危険を賭しつつある若い男、あるいは中年の男たちの感情へまで切実に迫って行っているであろうか。
 ある気分に煽られている自分の心持に知らず知らず乗っていて、しかもその浅い亢奮のために現実の生活のあらゆる面にその裂けめを出している矛盾にさえ眼がつかず、「勝たずば生きてかえらじ」と、鳴る太鼓の音を空にきき流しつつ、軍国調モードを、どんなにシークにステープルファイバアからつくり出そうかと思案しているのが、今日の若い女のその日ぐらしの姿であるとしたら、若い婦人たちの誰が、その愚劣な一人として自分を描かれることに承知しよう。
 女性の真の人間らしさ、やさしさ、敏感さは、今日かえって、憤りの中にあらわれるかもしれないのである。自分は飽食し、安穏に良人と召使とにかしずかれ、眉をかいた細君が、一種の自己陶酔の中で高々とうたい上げる祝詞《のりと》のような皇軍の歌のかげに、生きて、食っているもののいいようのない脂のこさ、残酷さを感じる心は、決して銃後の女のまじめさと心やさしさに反するものではない。
 女のやさしさというものも、愛の感情がそうであるとおり、抽象的なものではなく現実の内容を持ったものである。日本の女がこれまでの社会の歴史から負わされているさまざまの微妙な荷は、きょう決して雲散霧消しているのではない。そのものはあるいは新聞紙上によみがえり闊歩している徳川時代の形容詞とともに、かえって強まっているかもしれない。ある役所にタイピストが十何人か働いていた。戦争と共に、戦争に関係のふかいその役所では仕事が非常にいそがしくなって来た。それと同時に、この非常時に女が洋装をしていることは望ましくない。和服で通勤せよ、ということになった。それは真夏のことであった。タイピストたちは、今年はことに激しかった猛暑の中で大汗になり、袂を肩へかつぎあげて、残業で働いている。そういう話をきいた。今日、その事情がどうかわって来ているかはしらないけれども、この小さい一つの例は、忘れられない強さで、女がその活動の場面においてさえ、負わされている一つの男とちがう負担のあることを告げている。非常時だからと和服になった男たちは、少くとも筋のとおった社会的な活動をしている男の間にはないのである。
 現実は、その複雑さで、私たち女をも激しく揉む。揉まれながら、一家の生活を負担し、今やますます広汎に生産の一部をも負担している女は、生活経験によって実力を靭《つよ》められ、逞しくされながら、その間に自分たちの内と外とにのこされている社会的なマイナス、おくれている要素を高めつつ進まなければならないのである。私たち一人一人の置かれている境遇と、そこにある人間的な努力を通じて、婦人全体としての進みが考えられなければならない。兵士への慰問というときにも、女というものが、酒、煙草、絹の概念で、添えられるもう一品(林房雄、「戦のひま」)に止っているということに、私たちの心持は満足しない。私たち女の心にある慰問は、もっと歴史の相貌に根ざしたところから惻々と発しているのである。また、女自身が、兵士への慰問というと、たちまちある型で女らしさと考えられている感情の習慣的な面だけで、少女小説的に受動的にだけポーズするのも、まことにたよりない。そういう女の甘さや感傷が、自身は暖い炉辺で慰問靴下をあみつつ、美食家のエネルギーで戦線の英雄的行動をしゃべり、スリルを味っている女たちに対する憎悪とともに、どのくらい深刻に思慮ある男、現実の艱苦《かんく》の中にある男の感情を索漠とさせるものであるか。ヨーロッパ大戦ののち書かれた多くの代表的文学作品は、塹壕から帰休する毎に深められて行く男のこの憎悪の感情と寂寞の感情にふれていないものはない。
 日本の兵士たちは、地理の関係から、一たん故国をはなれてしまうと、骨になってかえるか、凱旋する日まで生きるか、どちらかである。ここにはまたこことして、思いやるべき幾多のことがあるのである。[#地付き]〔一九三七年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
   1937(昭和12)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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