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「女の一生」と志賀暁子の場合
宮本百合子

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(例)[#地付き]〔一九三六年十一月〕
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 先だっての新聞は元新興キネマの女優であった志賀暁子が嬰児遺棄致死の事件で、公判に附せられ、検事は実刑二年を求刑した記事で賑わいました。出廷する暁子として、写真も大きく載せられ、裁判所は此一人の女優の生涯に起った悲しい出来事の公判のために、傍聴券を出しました。検事の論告は暁子が母性を失っている、母たる資格を持たぬ女であると云う事から二年を求刑し、母性の典型として山本有三氏の小説「女の一生」を例に引きました。公判廷で検事が文学作品を例に論告を進めたと云う事は珍しい事で、人間らしい潤いを公判廷に与えたであろうと云う事が想像されます。
 検事は「女の一生」の主人公が私生児を育てる為に此の世の波と戦い抜いた姿こそ母性の尊い姿である、暁子にはそれが無いと云う事を論ぜられたようでした。法律的な立場から見て嬰児を死に到らしめた処置が制裁される事は誰しもとやかく云うべきでない事は知っています。然し女であるものの心持からすると、この場合に云われている母性というものの解釈が何かぴったりしない所があります。山本有三氏が自身の作品を特殊な場合の引例に供せられた事につき、某新聞の文芸欄で感想を述べておられます中に今日の社会生活の情勢では、母になりたくてもなり得ない事情に置かれている女が何人いるであろうか、と云う意味の事を云って居られます。感想は未完でありますから山本氏の云われる事は結論まで明かではありませんけれども、私ども常識を持った一読者として「女の一生」をみた場合、作者は検事があの作品から引き出して来られたような形で母性を讚えたのではなくて、そのような自然な母の愛が此の世への出生をいため傷つけた私生児と云うものに対する従来の社会的偏見に反省を促されたものであったと思われます。私生児を育て抜いた所に重点があるよりは、むしろ社会的の束縛から愛する者との間の子を、私生児としての形でしか持てなかった事、更にその子を育てる上に日夜世間の古い型の考えと戦わねばならなかった事、ここに作者は人間性への広い訴えをこめていたのではなかったでしょうか。
 暁子が年齢の若さや教育の不足や境遇の悪さから落ち入った罪は彼女一人のものではありますまい、検事もその点には一応触れて居られます。傍聴券が出されたと云う事も彼女一つの例を以て、多くの他の場合を戒めるという意味であったのでしょうが、暁子が若し心の底から自分の境遇と結果について述べる力を持っていたならば、彼女の云いたかった事は何でありましょう。私共は此の事を考えて見ないでは居られません。罪は一方的に課せられ、相手の男は地位と金をもって現在の社会で十分保護されながら、法律の上では何の苦痛をも受けていません。然し実際の社会を見れば、斯う云う法律によっては罰せられない罪人とも云うべきものが、果して阿部豊一人でありましょうか。また年も若く無智な暁子がその様ないきさつに這入った事には、今日の映画会社の経営方法、スターの製作法、給金は少いのに派出にばかり振舞わなければならない映画会社での無理、その他実に多くの今日の社会の矛盾や、片手落ちが暁子の例の中に集約されています。
 私共女は暁子の様な場合をもとより是とするのではありません。法律的制裁を否定するのではもとよりありません。然し人間的なまた社会的な悲劇の一つの典型と見た場合、法律の及ぶ範囲が必ずしも人間の悲劇、特に今日の社会で経済的にも精神的にも防衛の少い若い女の誠に落ち入り易い悲惨事の原因までを取り除く事が出来にくいと云う事を残念に思う次第です。また作者としての立場から云えば、法律家が今後益々人間を理解する材料として、文学的作品を広く作品そのものが訴えんとしている所をそのまま理解してゆかれる事を希望するわけです。
[#地付き]〔一九三六年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「国民新聞」
   1936(昭和11)年11月23日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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