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人間の道義
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愧《は》ずべき

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)古参婦人指導者[#「指導者」に傍点]たちの堕落を、
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          一

 婦人の生活が頽廃しているということがいわれはじめて、暫くになった。性的な面で、特に大都市の婦女子の生活が不規則になり、崩れているということについて注目されて来ている。それは私たちが現に目撃している様々の現象を綜合して結論されることでもある。同じ女の一人として、切なく、苦しく、視線をそらすような場面もあるのである。
 けれども、そのような若い女性の生活の崩壊は、どういうところより起って来ているのだろうか。その点にこそ最も深く真面目な探求が向けられるべきではなかろうかと思う。現れた結果だけつかまえて、是非を論ずる方法は、現実的でもなければ、人間らしい方法でもない。
 世界の歴史は、被うところなく告げている。戦敗後のインフレーションと食糧危機に当って、その国の無産婦女子の生活が惨憺たるものにならなかった例は、ほとんど皆無であることを。
 さらに、世界の現実は、はっきりと示している。一般失業問題が深刻化して来ると、その中でも女子失業者の日々は実に言葉につくせぬ辛苦に充たされるものだということを。
 今日、日本には、この二つの重大条件がきっちり組み合って、女の肩にのしかかっている。民主の声はおこっていても、まだ封建の霧は晴れやらず、支配者はその霧を幸にわが責任の所在をかくして「女子失業者は家庭へ帰るもの」と推定して、現状を糊塗しているのである。けれども、戦争に男たちを召集して、第一番に家庭を破壊したのは、誰であったろう。外部の力に無判断に屈従する習慣を、熱心に日本人民の第二の天性としようとしたのは、何者であっただろうか。今日、婦人のモラルの失墜を嘆くならば、その根本の原因をなした此等の戦争犯罪支配者こそ、先ずきびしく人民の批判を受けるべきである。

          二

 婦人の生活から道義がすたれたというとき、とかくその焦点は女性の性的問題におかれる。
 考えてみれば、女性の問題といえば先ずその性にばかり重点をおく風習は、一つの封建遺風ではなかろうか。
 婦人参政に関しても、道義というものは当然あるわけだ。それがすたれ、或は穢されるということのあり得る事実も明白である。
 進歩党は、過般、築地の待合金田中へ、数人のお歴々女史を招待した。そして、参集した何人かの女史に、党内の重要な椅子を提供した。
 金田中といえば待合政治の根城として、誰知らぬ者はない。女も古参女史になれば男と同等、政治談合を待合でやって冷汗も掻かなくなるものかと、笑ってすぎることであろうか。
 戦争の惨禍と、人民生活の犠牲。なかでも弱い女の蒙っている打撃の致命的な深刻さを痛切に理解し、一刻も早い適切な処置を思うなら、戦犯で潰れた反動政党へ、どうして女が入られよう。家庭を奪い、愛する男たちを殺し、傷け、今日の日本をもたらした、その戦犯の仲間に、女である、という唯一つの理由からだけでも、入ることを愧《は》ずべき十分の根拠がある。
 フランスの婦人が参政権を得たのはつい先頃のことであった。三十数名の婦人代議士が選出されたなかに多くの未亡人がある。これら喪服をつけて立つ婦人代議士は、再び戦争というもののない世界のために協力し、参加しようとして立っている。裂かれた胸と血涙とをとおして、平和をもたらす決心かたく、女性の叫びとして立ったのである。
 手にとったばかりの参政権を、使うより前によごしてしまう今日の古参婦人指導者[#「指導者」に傍点]たちの堕落を、生活のよりどころなさから性的に失墜した無産婦人の悲劇と見較べたとき、人は、いずれを真の堕落と呼ぶであろうか。

          三

 モラトリアムがはじまった。それが人民の幸福の建設に避けがたい道であるというならば、泥濘も私たち人民は歩き終せるだけの勇気をもっている。
 ところが、きょうの新聞に奇怪な投書が掲載された。モラトリアム発表前の十六日、正金銀行で、課長以上の行員たちが殆ど全部現金を五円札に代え、前交易営団総務課長は、二十万円の金を五円札で引き出したという事実である。おそらく、現にその手で事務を取らざるを得なかった同じ銀行の者が、その投書をかいている。
 私の財布には、偶然もち合わした、よれよれの五円札が二枚あるぎりである。狐の誑し遊びのように、ちょいと形を代えて細かい札にさえすれば、何十万円という金が、脱税出来るからくりとは知らなかった。インフレーションで悲鳴をあげているのは、実直な勤労生活者であり、モラトリアムで大いにあわてるのは「資本主義のからくり」に精通しないその犠牲者である。深海に波立たずいつもしーんとして重く悠々たるのは、金庫の中にその生活を深く沈めている人々である。
 女のモラルという、目立つのが一倍損というような社会現象をとりあげて語るならば、私たちは、その頽廃を導き出し、放置し、更に救いがたくしてゆくような、今日の社会の諸矛盾にこそ触れたい。病源をこそ、きわめたい。そして膿の湧き出す腫物そのものを直して、清潔な人間らしい艷のある皮膚にしたいと希うのである。
 浄らかな人間生活は、浄らかなり得る現実条件があり、或は少くともその可能が存在する社会事情がなければ営まれようもない。権力者らの、眼にあまる大きい堕落は、大きすぎて私たちに一目で見きわめかねるからとて、抵抗力ない女の罪を喧々囂々《けんけんごうごう》することで、自分を義人と感じるには、私たち女の経て来た苦労は厳粛すぎるのである。[#地付き]〔一九四六年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「民報」
   1946(昭和21)年3月26〜28日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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