青空文庫アーカイブ

なつかしい仲間
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)級《クラス》

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(例)[#地付き]〔一九四〇年五月〕
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 友達ということを思うと、私の心にきっと甦って来る一つの俤がある。
 村上けい子さんといったあの子は今どんな風に暮しているのだろうか。やっぱり東京にいるのかしら。それとも、どこかの田舎の町にでもいるのかしら、それとももうこの世の中にはいない人になってしまってでもいるのだろうか。そういう風にこの二十何年間のうつりゆきを、まるで絶えている消息のなかに探るのである。私が小学校の六年だったとき、一年したの級《クラス》に村上さんという生徒がいて、紡績の絣の着物と羽織に海老茶の袴をはいて、級《クラス》で一番背が高かったばかりでなく、成績が大変いいのと、成績がいいのに、その組にいる武さんと云った金持の子が何かというといじめるというので、注意をひかれていた。大柄のおとなしい縹緻《きりょう》よしで、受け口のつつましい村上さんに意地わるをする武さんという娘は、その頃珍らしい贅沢な洋服姿の登校であった。襞のどっさりついた短い少女服のスカートをゆさゆささせながら、長い編上げ靴でぴっちりしめた細い脚で廊下から運動場へ出て来る細面の上には、先生の腹のなかも見とおしているような目があった。
 女学校へ入ってからも、弟がその学校にいたので、私は毎日かえりにはそこへ寄る。いつか村上さんと親しくなって、おばあさんが直ぐ近くの藤堂さんという華族の樫林の裏にいるのがわかってからは、互に往き来もし、日に一遍は会わずにいられないようになった。上の学校への入学試験準備はその頃からもうひどくて、六年生は二学期から、放課後もいのこった。村上さんはどこをうけるの? ときくと、受け口の口元をしずかにほころばして、どこをうけるのか知らないわ、と云うのであった。私はおけいちゃんを自分のいる学校へ入れたいと思った。試験が近づくと、うちで一緒に夜も勉強したりした。おけいちゃんの家は酒樽の呑口をこしらえるのが商売であった。
 女学校の試験なんか出来ない筈はないのに、おけいちゃんはどうしてか通らなかった。小学校の卒業のときは、総代で、東京市の優秀児童ばかりを集めた日比谷の表彰式で、市長からの賞品を貰った。そのとき綺羅を飾った少女たちの間に、村上けい子という最優賞の娘は、質素な紡績絣の着物に色の褪せた海老茶の袴という姿で人々を感動させたという新聞の記事が出た。私はその記事を読んで涙をこぼした。けれども、おけいちゃんがどうして受かる筈の試験をはずしたかという苦しい事情の奥底までは、察しる智慧がなかったのであった。
 卒業式がすんでしまうと、裏のおばあさんのところへ何度行ってもおけいちゃんには会えないようになった。ねえ、おばあさん、おけいちゃん何処にいるの、しつこく訊いてもいどころが分らず、何ヵ月か経ったら、ふいと、紅い玉の簪をひきつめて丸めた黒い束髪にさしたおけいちゃんが、遠慮がちにうちへ訊ねて来た。マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわきの自分の小部屋へ入って、膝をつきつけて、どうしたのよ、手紙もよこさないで、と云うと、おけいちゃんは富士額の生えぎわを傾けて、やはりおとなしく御免なさいね、とあやまるのであった。そして、ゆっくりした口調で、私神戸の方へ行っていたの、と云った。それから、ぽつんと、私、初瀬浪子のところに働いていたのよ、と云った。初瀬浪子というのは帝劇の痩せた女優であった。紫のしぼりの襟から真白な頸を見せて、舞台で泣き伏していた女優の姿が目に浮んで、私は、それとおけいちゃんとの結びつきを何となし意外な、おどろいた気がした。女優になるの? そう訊くと、おけいちゃんは袂を膝の上で重ねるようにして、そういうわけじゃないんだけれど、と答えるのであった。
 それからまたおけいちゃんの姿が久しく見えなくなってしまった。その間にどの位の時がへだてられたか今思い出せないけれど、その次に会ったときのおけいちゃんは、下谷の芸者であった。白い縞の博多の半幅帯をちょっとしめて、襟のかかったふだん着に素足で、髪もくるくるとまいたままで、うちへ来てくれた。私より一つ年下のおけいちゃんだが、そのときは何と年上のひとのようであったろう。両方で懐しさときまりわるさが交々であった。池の畔あたりを一緒に歩いて別れた。
 二年ほど経ったとき、父が突然、お前の仲よしで芸者になった人とは何という名かい、ときいた。小菊と云う名よ、と答えた。じゃあ、やっぱりその子かも知れない、と、下谷の若い評判のいい小菊という芸者が、日本で指折りの或る富豪の世話をうけることになったという噂をきかせた。
 おけいちゃんについて噂をきいたのもそれが最後で、きょうまでの月日が流れた。今の私には、おとなしい縹緻よしでものも出来たおけいちゃんが、呑口つくりの娘としてめぐり会わなければならなかった境遇というものを沁々と思いやることが出来る。本当に、今はどうしているだろう。
 昔『若草』という雑誌に「紅い玉」というおけいちゃんの思い出をかいたことがあった。もし、そんなものでもよんで便りをくれはしまいかと、その期待の心もその文章には書きあらわしたが、何のおとさたもなかった。富豪の思いものとなったのが本当なら、もしや、あのおけいちゃんも、粋と富貴をとりまぜた装で私などのわきは、すーと通りすぎてゆく心になって今日を生きているのでもあるだろうか。

 女学校時代の友達というものも、おけいちゃんとはちがう形ではあるけれども、やっぱり夫々境遇というものに支配されて、昔の四人組も、思い出のなかのものとなってしまっている。やはり文学がすきで、作文のなかに漱石もどきに、菫ほどの小さき人云々と書いたりしていた高嶺さん。ショルツについて分教場でピアノを勉強していたこの友達は、独特なシントーイストの妻となって、小説を書く女とのつき合いなどは良人であるひとからとめられている様子である。この四人組の一人であった千枝子さんという友達の白山御殿町の家へ、五年生の夏休みの或る夜、私が書きあげたばかりの小説をもって夢中になってかけつけて行った心持も、思い出せばほほ笑まれる。
 世間でいう相当の家庭の娘たちを集めていた女学校などというものは、結婚も所謂相当なところにされ、そのひとたちの生活が全くその規律のうちに運ばれ、やがては憔悴して、儚いところがある。同じ年の卒業生は一つの組で三十二人ほどであったが、そのなかで現在何か仕事をもって生きている人というのは、あるかしら。
 却って、その時代には先生であった方のうち、二人ほどの方々が今も私の先輩として、友達として、つき合いも保たれ、生活感情も流れあっているのは、女の生活に反映してくる社会性の意味で興味ふかいことだと思う。その一人の方には最近清少納言研究の面白い著作がある。女の生活の現実でもやはり仕事が友情を育て保ってゆくところが、私たちをよろこばせもし、また考えさせもするところではないだろうか。
 目白の女子大にいたのは、ほんの一学期であったが、ここで知った網野菊子さんは、今も私の誠意ある友達の一人である。野上彌生子さんその他何人かの友達も、やはり文学を中心としてその歴史をさかのぼり、今日まで流れすすんで来たりした過程にめぐりあった友達である。
 ロシヤ語の専門であった湯浅芳子さんとは何年も一緒に暮し、外国旅行もし、丁度私の生涯の一つの転換時代であったから、互の感情生活も極めて複雑であった。友だちとのいきさつでも、つきつめたところは全人格のぶつけ合いである点、時にはなかなか激烈な人間交渉を生じる。精いっぱい、自分が人間としての全力をひきしぼらなければならないような場合が、千変万化の形であらわれて、友情にも、クリシスがある。
 社会的な動的な性質がその友情のなかに多くこもっていればいるほど、歴史の波や個人の事情が二重に映り作用して、誠実な人の心と心との間では、夫婦の間におこるとはおのずから異りながら、おのずから同じところもある発展の道ゆきがあるのではないだろうか。

 窪川稲子さん、壺井栄さんなどとの互の心持の関係は、友情もひととおりのものでなく、そういうところまで行っているのだと思う。そして、めいめいの良人に対する友情も、謂わば互の心にある妻としての情愛を互に理解した上でのようなところがあって、友達としての良人たちに対する直接の友情にもう一つ女としての微妙なニュアンスを加えているところも面白い。みんな文学の仕事をしていて、それぞれがそれぞれにちがう作風をもっていて、そこまで成長して来た生活の出発は、故郷がちがう以上まるで互に異っている。その三人が、東京が首府だから自然そこに落ちあったというばかりではない歴史の動きにめぐり合いの機会を与えられたということも、女同士の友情、また婦人作者たちの間にある友情として、やはり新しい性質を含んでいるのだと思われる。
 女同士の友情なんてあてにならず、あるかないかも分らないものとされたのは、女が自分の生活の主人でなくて、受け身におこる様々の悲喜を全く自分一個の幸不幸の範囲でだけ感じていた時代のことではないだろうか。女の友情も、今では現実の社会感情としての本質のなかに男が友を得るのと同じ、己を知ってくれる者を知るという要素が多くなって来ていると思う。女の友情の地盤もそれを思えば随分ひろげられもし強くもされて来ているのだ。
 考えてみると、私は本当にいい友達を持っていて、それはありがたいことだと思う。男の友達でも、幾人か親身のつき合いのひとがあり、それぞれ家庭の友だちとなっているのもうれしい。
 二十五六歳ごろまで、私はどっちかというと友達のない淋しさをつよく感じながら生きていた。この十年ばかりは、友達の価値を全幅的に知りながらの生活である。そして、そのような十年ばかりの間に、古い昔のおだやかな友情にも、一味新たな内容が加えられて、どこやらゆたかに咲きかえった有様であることも、まことに興味ふかい。
 それに私は、境遇の関係からきっとよけい友だちを大切に感じるところもあるのだろう。仲間というもののよさ。男の人たちが終生仲間は離せなくて、漫画の親爺教育のジグスのあわれおかしき仲間恋いの心持は、もう私たちの心にももちものとなっているかと思う。
 家庭生活をやってゆく、仕事をしてゆく、その心持のバランスの一方が我も知らずに、仲間への心持のなかにおかれているようなところも、今日ではあながち男だけの心でもないらしい。栄さん、稲子さん、私、三人仲間がもっともっと年をとって、いろんな思いを互に経て、益々その老いて若き仲間ぶりを発揮したら、さぞや愉快なことであろうと思う。
 私たちぐらいの年ごろの者が友達について語るといえば、今日の友達、世間のひとも面白く思いそうな逸話など男ならひとりでに書くのだろうが、こうして、友達というもののうつりかわりやそれに反映する女の生きかたの推移が心の前面を占めるところも、決して偶然といえないものがあるのだと思われる。
[#地付き]〔一九四〇年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「新女苑」
   1940(昭和15)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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