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メーデーに歌う
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雪崩《なだ》れ

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(例)[#地付き]〔一九四六年六月〕
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 四月の末だのに、初夏のようにむし暑い。すっかり開けはなして夜の庭に向った座敷のラジオがメーデーの歌の指導をしている。
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きけ、万国の労働者
とどろきわたるメーデーの
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ハイ、と一節ずつ区切って熱心に合唱を教えている。その歌に合わせて、本をよんだり、書きものをしたりしている三人の男たちが、折々一緒にうたっている。足袋つくろいをしながら、若い従妹も小声でそれに合わせている。
 わたしは、いうにいえない思いで、胸いっぱいになりながら、そういう宵の情景の裡にいた。
 日本のラジオが、五月一日のメーデーを、こうして皆の祭り日として歌の指導まではじめた。これは、ほんとうに、ほんとうに日本の歴史はじまって以来のことである。
 今度の総選挙の結果は、やはり保守勢力がどんなにまだ強くのこっているかということが国際的に証明されたし、保守政党は失業と食糧問題のこれほどの切迫をよそに、政権争いをつづけ、私たちにあいそをつかさせている。けれども、日本の民主の夜明けが来ていることも事実である。その証拠には、初めてメーデーが公然と、働く人民の行進の日として認められるようになった。メーデーの行進が遮るものもなく日本の街々に溢れ、働くものの歌の声と跫足とが街々にとどろくということは、とりも直さず、これら行進する幾十万の勤労男女がそれをしんから希望し、理解し実行するなら、保守の力はしりぞけられ、日本もやがては働く人民の幸福ある国となる、その端緒は開かれたということではないだろうか。今度の第十七回メーデーはそれが只十一年ぶりの行事だという以上に、わたし達の心を高鳴らせるつよい理由があるのである。
 のびのびとラジオから流れるメーデーの歌のメロディーをきいていると、わたしの目の前には、十余年前のメーデーの日の光景がまざまざと浮んで来た。
 その年の五月一日は割合曇って、風の寒いような日であった。私たちは江戸橋のそばに佇んで、昭和通りを上野公園に向って行進して来るメーデーの行列を迎えた。行進して来る組合の人々は互にぎっちり腕を組み合って、組合旗を守り、元気よいというよりも気のたった大声をはりあげメーデーの歌をうたいつつ、ゆっくり進むかと思うと、腕を組み合ったまま急にかけだして、途切れそうになる行列をつないで、進んでゆく。前方を見ると、行列は顎紐をかけゲートルを巻いた警官の黒い群に雪崩《なだ》れこまれ、警官が列の中から検束しようとする同志を守ってかたまりとなり、大揉みに揉んでいる。がんばれーッ――ひっこぬかれるなッ! そういう怒声もきこえる。歩道の人々はおどろきと恐怖の表情で、そのさわぎを眺めているのであった。
 そのころのメーデーといえば、全く勤労大衆の行進か、警官の行進か、という風であった。険相な眼と口を帽子の顎紐でしめ上げた警官たちが、行列の両側について歩いて寸刻も離れないばかりか、集合地点には騎馬巡査がのり出した。歩道には、市内各署の特高のスパイが右往左往して日頃目星をつけている人物を監視したり今にもひっぱりそうな示威をしたりしている。おとなしく立っている女ばかり数人の私たちでさえ、いやな気がしてじっと一つところにはいられなかったほど、胡散《うさん》くさい背広の男たちにつきまとわれた。行進が上野の山へ集合した頃、私たちは群集におされながら、松坂屋の先の、時計屋の大きい飾窓の下におしつけられていた。見物の群集が、そんなにどっさりだったのは、組合の人々の行うメーデーの行進が全く一つのたたかいであって、なかなか簡単に参加ができなかったからであったし、もう一つには、そうやって、権力の乱暴な妨害に抵抗しながら、腕をくみ、進んでゆく労働者の姿に、人々は敬意も感じてその光景を見たがっていたのであった。
 苦しい、荒々しいメーデーであるから、婦人の参加は、割合少なかった。それでも、千を越す婦人労働者が加わっていた。やはり腕を組み合わせ、一生懸命な眉をあげて歌いつつ、それらの人々は時々警官と小ぜり合いしながら進んで行くのであった。

 今年は、どんなメーデーだろう。ラジオはメーデー歌を放送し、インターナショナルを歌い、新聞は、行進の順路を発表した。メーデー準備は、全勤労者の統一メーデーとして進められているのであった。

 五月一日の朝があけてみると、東京は小雨がおちて、風も相当にある。うちでは、一人が前日から徹夜でメーデー準備をやって、六時すぎ帰って来た。その人を加えて三人の男たちが、行進の身仕度で、握り飯をもってでかけた。二人は八王子市のメーデーに行くのであった。
 残念なことに、体の工合がよくなくて私は行進に加わることはできない。けれども、時刻を見はからって、東京駅の横から日本橋へでる街角へ行った。
 ちょうど、もう行進がはじまっている。宮城前広場から、ここを通って上野へ行くのは、城東地区の組合である。隊伍堂々とプラカードをかかげて、パラパラおちる雨をものともせず歌いながら行進してくる。その隊伍を一目見て、私は思わず囁き、涙を抑えかねた。ああ巡査がいないメーデー! と。もとのメーデーを見ているものが今日感じるこのよろこびの深さは実にいいつくせないものがある。自由さえこうして与えられれば、私たちみんなは、何と立派に行進することを知っているのだろう。適当な間をおいて、赤十字のしるしのついた救護班のトラックをしたがえ、蜒々たる隊列は、標語板を林のようにゆるがせながら東京の焼け跡の街を押して来る。大手町の方を眺めると、歌声のとどろきと旗の波が刻々増大し、つきぬ流れは日本橋へ向っている。女のひとも、どっさり今日は行進している。目を据えてみていると、歌いながら、笑いながら、行進の中から、合図の手を振るひとたちがある。我を忘れて声をあげ、それに答えて手をふっているうちに、列はすぎて、食糧輸送組合の血気な人々が、自分から脚の生えた米俵になってやってくる。「石川島」と大旗を立て整然とした男女の大部隊がつづいてくる。とりわけ元気に、赤旗を先頭に立ててきた一団の中にあの顔、見なれた若い女の人たちがいて、互に行列の中と歩道から思わず声をかけて手をとり合い、わたしは、もうほんの少しで行進の中にさらいこまれそうになった。
 気がついてみると、きょうのメーデーに、往来で見物している人の数はいたって少ない。東京の人口が、もとからみると減っている。それもあるが、しっかりと職場についている勤労者は、みんな組合の行進に加わってしまっているからなのでもある。

 メーデーの日、モスクワの街々は、かえって深閑としている。あらゆる人群は、モスクワの中央部へ、赤い広場へと注ぎこまれて、すこし離れた街筋は、人気ない五月の空に、街頭ラジオが溢れだす音楽と大群集の歓呼の声をまいている。夕方、行進が解散になり、赤いプラカードの林が陽気な歌にゆれながらこの地区に戻って来る迄、モスクワ中の感動は、赤い広場という一つの心臓のぐるりに熱く燃えてあつめられているのである。

 益々元気旺盛な行進がつづいて、うれしい思いが募るにつれ、私は、もっと音楽をと願った。もっといろいろの歌を、と心に叫んだ。来年こそ、私たちは、もっともっと素晴らしい音楽を先頭に立てて行進するだろう。紙や布もたっぷり買って種々様々の意匠をこらし、そこの職場の飾物もこしらえるだろう。そういうよろこびは、すべて、私たち日本の働く人民が、来年五月を迎えるまでの一年の間に、どれだけ自分たちの団結の力、組織の力をつよめ、日本を働いて生きるものの幸福のための社会にしたかということを照りかえして見せる鏡となるのである。
 五月一日の日がくれかかるころ、うちへは、あちこちのメーデーの経験話がもちよられた。新宿駅前広場は、城北地区の解散場であったが、そちらの行進の先頭を切ったのは簡易保険局の女子職員で、この間モスクワのメーデーと写真に紹介されたとおり、奇麗な花束を一人一人が抱えて行進した。そして、新協劇団のトラックが劇場人のメーデーらしく、揃いのなりをした俳優たちを満載して来て、シュプレヒ・コールをうたい大喝采をうけた。青年共産同盟の若々しい合唱団もトラックにのって来ていて、新協とかわりがわり歌をうたい、よろこびの日の賑わいを添えた。
 今年のメーデーには、婦人、子供の参加がきわだって多かった、と翌日の新聞に伝えられたのであった。
 これは東京の中心ばかりでなく、八王子市を、三時間余もねり歩いた行進の中にも、若い働く婦人たちが、どっさり参加していたそうである。メーデーの共同のスローガンの中には、働く婦人の要求として、同一労働同一賃銀がかかげられたし、産前・産後の有給休暇の要求も示されていた。これらの当然な要求は、働く婦人の実力でこそ、実現されるものである。
 宮城前から首相官邸前にさしかかった行進は、隊伍の中から代表を官邸へ送りこみ、秩序正しく、前進しつづけた。そして、機会もあらば、と待ちかまえていた警官を失望させたことを、新聞はいくらかからかい気味に報じている。
 官邸に入った代表は、首相に面会して、今日の日本の生活が、これほど行づまり、危機にせまっているのに、具体的な方策は一つも建てないで、政権の奪い合いをしている不誠意について詰問したのであった。
 総選挙、その後の政府のやりかた、メーデーと、私たちは短い日数のうちに、実は少なからぬことを学んだ。真の民主日本を建設する者は、平和と勤労とを愛する正直な人民は、心からメーデーの歌がうたえる者でしかないことを感じなかった者は、一人もなかったと思う。[#地付き]〔一九四六年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「働く婦人」二号、日本民主主義文化連盟
   1946(昭和21)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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