青空文庫アーカイブ

幸福について
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)騰《あが》った

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(例)[#地付き]〔一九四六年五月〕
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 私たちが日頃、一番求めているのは、何かといえば、それは幸福であるとおもうのです。
 あなた方は、みんなお若い方たちでいらっしゃるし、毎日生きていらっしゃる限り希望というものを、どこかに追求していらっしゃる。家庭で食べもののこまかいことをいう時もございましょうけれども究極するところは、やっぱり幸福に生きて、幸福に働いて、そして一生を終りたいというお気持だろうとおもいます。私などもそういう気持は非常に一貫してもっているのであります。
 人間というものが、昔から、その幸福を求め、どんなにして生きて来たかということをおはなしして、それから今日私どもが幸福に生きるために、明日幸福に生きるために、どういうふうな問題がその前途にあるかということを、簡単におはなしして参りたいと思います。

 御承知の通り、社会というものは、今のような形ではじまっておったのではありません。極く野蛮な時代が、ずいぶん永い間あったわけですが、そうした野蛮な時代から、人間は、幸福について、考えていたのであります。只それが幸福という言葉によって、はっきり考えられてはいなかったのです。どういうふうにして生きていたかというと、出来るだけ便利な、出来るだけよく生きたいという、言葉にならないような希望から、人間は沢山の発明をし、そうして、だんだん社会が発達して来たのであります。
 ギリシャ神話の中にプロメシュースの神話というのがあります。これは、火の起源の話ですが、プロメシュースという若者が人間の生活に火が必要だと考え、天上の神様の火を盗んでまいりました。人間が火を得たということは人間の社会の発達のために、大きな歴史であったわけですが、それを、ギリシャ神話では、プロメシュースが火を盗んで来たという具合に話しているわけです。
 このプロメシュースの話は、私たちにとって興味もあるし、昔から沢山の芸術の材料になっております。
 しかし、これは、伝説でありまして、実際は、木の枝が風にこすられて、火が出るのを人間が発見し、その火を葉っぱに移して、だんだん自分の生活の中にいれて、それまでは、生で食べていた物をだんだん焼いたり、煮たりして食べることを知ったのであります。
 人間がまず幸福を求めはじめたとき、自然と闘って、自分たちの生活を、より棲みよく工夫してきたということ。その次の段階には、生活の様式が変化するにしたがって、いままでの権力の存在が邪魔なものとなり、その権力との闘いがさけがたく起って来ている、ということがわかるのであります。
 また、ギリシャ神話の中にこういう話があります。「希望の箱」これはきっとみなさまも御存知だろうと思いますが、パンドーラという人間の女性が、ジュースの神につくられて、神の世界より巨人ヴァルカンの妻として人間の世界におくられます。その時ジュースは一つの箱をパンドーラに与えて言います。「お前は人間界に行くのだけれど、この箱の中には、いろいろないいことが詰っている。もしうっかり開けると大変だから、どんなことがあっても決して開けてはいけない。」と申しました。けれどパンドーラは女でございますから、やはり好奇心が強かった。一体箱の中に何がはいっているのかしらと思い、とうとう、その箱を開けてしまった。そうしたら中から、いろいろなよろこびとか、笑いとか、それから遊びなどという人間のもっている楽しいものが、どんどん逃げてしまったので、パンドーラはびっくりして蓋を閉めてしまった。そしたら最後に箱の中に残ったのが、希望だったのでした。このようにパンドーラも希望だけは失わなかった。そして又、人間もあらゆるものを失っても、最後まで希望だけは失わないでのこしているという話です。それから、人間は、いろいろな不幸な目にあうようになったが、その源を考えて行くとパンドーラが箱の蓋を開けたとき、同時にたくさんの病気とか、たくさんの悲しみとかいうものが、箱から溢れ出たからだということが、パンドーラの話に云われているのです。
 それから、ずうっと社会が進んでまいりましてから、聖書の書かれた時代、あの時代になりますと、アダムとイヴの話があります。
 これによりますと、アダムとイヴの二人の人間が作られたことになっております。そして、この二人の人間は禁断のこのみを食べたため、神の怒りによって楽園から追払われました。
 それから人間は、何処かに楽園があるわけだと考えるようになりました。そこでは、人間はみんな平等であり、花は爛漫と咲きほこり、人情はあたたかくて生活しよく、大変美しく楽しい、そこがエデンの園であるということになって、これが、聖書の基本になっているのであります。その楽園を失ったものとして人間の幸福というものが、話されているのです。けれど、この天上の楽園というものが特に幸福のシムボルとして考えられるについては、いろいろな問題があります。なぜかと申しますと、楽園というものの根本条件は、人間の平等ということです。すべての人々が他人の利益のためにただ働きをしないでも、人間として人間らしく生きて行くことの出来るだけの必要条件がそなわったところとして楽園が考えられているのです。ですから楽園の話が出来ましたときには、もう人間の社会は大分進化しており、そのころには、世の中に奴隷の労働があったということがわかります。他人から労働を強制され、自分の喜びもなにもなく、暮さなければならないという人々の大きな層があって、その上に、ごく僅かな人たちが働かないで、怠惰に安楽に暮していました。それで、苦しみながら働いている人々が、自ら自分たちの人間らしい権利を求める気持を、楽園というものの第一条件として、神の下に人間は平等であるという観念によってあらわしているのであります。
 さらに、世の中が進みまして、中世の、騎士道の時代。騎士道と申しますのは、女の人に大変親切にする、強い者を挫き、弱い者をかばい助けるという精神によって貫かれたひとつの道徳でありますが、あなた方も、もし、そういうふうに、女の人に大変親切にやさしくやってくれたらと、憧れますでしょう。
 この騎士道に一つの面白い話があります。それもやっぱり伝説の中にあります。
 ある有名な、大変武勇の優れた騎士があった。そうしてあるときその騎士が森の中を歩いていると巨人があらわれて、騎士にむかって言うには「この世の中で、女が一番求めているものは何か」というのであります。
 騎士は、たくさんの人と戦い、わたりあい、恐ろしい武器ともむかいあったが、この難題だけは大変困った。女が一番この世の中で欲しているものはなんだ、と考えながら、森の中を歩いて行った。大変美しい姿をした夫であろうか。大変金持の夫なのであろうか。人情の清く美しい人であろうか。どうもわからない。一生懸命考えながら森の中を歩いておりますと、木の蔭から、真赤な着物を着た女の人が出て来た。そして「もしもし、あなたは日頃、勇気があって華やかでいらっしゃるのに、一体今日はどうしてそんなに、しょげていらっしゃるのです」と尋ねた。そこで、巨人の難題のために困っていることを申しますと、その女の人は「女が何を求めているかということは、ちょっと男の人にはわからないでしょう。しかし、あなたは大変正直だから私が教えてあげましょう。女がこの世の中で一番求めているのは独立です」と言った。期限が来て、巨人にこの答えを申しますと、巨人は非常に驚いて「人間の男にそういうことがわかろう筈がない。これは一番の根本問題で、人間の男に、女が求めているのが独立であるということがわかるはずがない。きっと誰かに教わっただろう」と言いました。騎士は正直な人間でございますから、赤い着物を着た女の人のことを申しました。これはこの巨人の妹であったのです。
 この話は、今日私たちが聞きましても面白いもので、これは十三世紀頃、いまから八百年も前に出来た話であります。
 賢明な男の人は、女が一番求めているのは、独立であって、しかも女自身では、表現することが出来ない、自分がいま求めているものは何であるか、ということを、自分の問題として、はっきり世の中に訴える力、実行して解決して行く力をもっていない、その気風を非常によく理解していたということがわかります。
 昔の男の人たちにも、洞察力の鋭い人があったということが、この物語でよくわかります。と同時に、今日、言論の自由とか、男女平等とか申しておりますが、日本のどこででも、やっぱりまだ巨人がいったように、女が本当に求めているのは、独立だ、ということを理解しない人が沢山あるように見受けます。
 最近の芝居で「人形の家」をやっておりますが、あの主人公のノラは、いままで夫に玩具にされていたということが不満であり、どうかして、玩具の生活から逃れたいといって、家出をする。あのノラの問題に残されているものは家を出てから、どんな生活を、ノラは樹てていったかということです。
 ところで、今日、あのノラの芝居を御覧になる方は、自分たちの問題として見ないで、ある時代にあった一つの例だという風に、女が解決して行きたい一つの与えられた問題だというように、歴史を振返えるものとして、御覧になったとおもうのです。
 ですから、ノラの芝居が――せんだって私も見にまいったのですが――上演されました意味は、未来に向って、課題を与えるというより、われわれが、今日いろいろの現実の問題を解決して行かなければならない幸福の鍵を――ノラは何も持たずに家を飛び出している。――私たちは飛び出すなら飛び出す、飛び出さないなら飛び出さないように――幸福というものを、本当のものにする鍵を持たなければならない。そういう感じをはっきりあれを見たことによって受けるのであります。そして、時代の違いのあるノラの問題だ、と理解なさっただろうと思います。決してわれわれの今日の問題であるというふうにはお感じにならなかっただろうと思います。
 ノラはああいうふうにした。しかし、私たちはこういうふうにもって行く。今日あれをみたとき、私たちの生活には、ノラの生活にはなかった自分たちを幸福にする鍵があるということをお考えになったと、おもうのであります。
 けれども、今日の私たちの生活は、なかなか、楽なものではないのであります。余程私たちは頭を使って、自分というものを考え、幸福になるように研究して、実現して行かなければならないのです。幸福というもののはっきりした観念と、その建設というものは、人間だけがもつ一つの力なのです。そういうことから考えていって、今日の私たちの生活をめぐる問題をよく見てみましょう。
 例えば、インフレーションというようなものは、戦争のお蔭で起った結果であります。軍事予算というものを、無法にどんどん出しましたから、それで、お金の値打ちが下って、物と金の釣合いがとれなくなって、物価は二十五倍に騰《あが》った。物価が騰ったから月給もあがったといって二十五倍になった月給を貰った人は一人もない。そのようにして、今度は、インフレーションからモラトリアムになった。ちょうど、瀕死の病人が、熱はだんだん低くなって来るし、脈の方は次第に数が殖えてきて、少々望みがなくなったので医者から親類に電報を打ちなさいと申し渡される。ちょうど今の日本の経済状態はそうなのです。財産税だけでは危くなって来て、なんとか処置をしなければならなくなって、そこで支払い停止のモラトリアムということをしまして、私たちは、小さな膏薬みたいなものを貰って、十円札に貼りつけて歩いております。あれだけの小さな証紙、あの悪い印刷の小さな膏薬みたいなような証紙を、なんともしようのない、病人であるいまの経済状態のところへ、ちょっと貼って、彌縫するように貼って持って歩いている。ところが、モラトリアムになってから、新聞の記事を御覧になってみなさんどうお考えになりましたか。最高五百円の月給、世帯主は一ヵ月生活費として三百円受取れ、あとは家族の頭数割で、一人百円ずつで、もし家族五人のところでしたら、一ヵ月の生活費として七百円、それに月給の五百円と合計月に千二百円取れるから今までの生活より余程いいということ、楽な生活が出来ると書いてありましたね。私、どうも迂闊なものですから、すっかりよろこんでしまったのです。そして後からよくよく考えてみたら、その七百円の生活費はどこから出てくるのかしらと思ったら、政府が呉れるのではなくて、みなさんの貯金から出すことなのですね。私、すっかり、糠よろこびしてしまいました。
 政府はこのモラトリアムをしなければ、日本の経済状態が潰れるとおもってやったのでしょうけれども、一般私たちの経済事情から申しますと、どなたのお家でも、相当にあった貯金なども使い果してしまっている。
 例えばいろいろな火災保険であるとか、戦時保険であるとか、また、退職手当というものも、大分使い果してしまっているのであります。別に私たちのところに、何万円もの金があって、それが自由になるなどという人は一般にはないわけです。
 モラトリアムの決定によって、五人家族を標準に、五百円生活をしろということに規準が置かれたのですが、この五人家族というのは、なぜこんなふうに標準をたてたかと申しますと、日本の一軒の家の子供の統計は、年々殖えておりますが、多いところもあるでしょうし、少ないところもあるので、まあ三人ならいいだろうということで、家族全部で五人、五百円で暮せ、ということになったのだそうです。そして、あとはみんな封鎖されてしまったわけですが、しかし、おじいさん、おばあさんの二人がいらっしゃる家庭では、この二人はなんで生きて行くのでしょう。おじいさんたちの生活資金はありませんからね、などという人がありますでしょうか、しかし、この五百円生活だと、二人はみ出ていることになる。おじいさん、おばあさんは何で生きて行くのでしょう。政府が決めた、生きて行けという総計だと、ずいぶんおかしな話になるのです。
 また、モラトリアムに伴って、いろいろな制限が行われることになりまして、女の月給というものは、男子の三分の一、二百円の月給として、政府は発表しました。これだと、つまり、男の三分の一で生きて行け、ということになりますが、しかし女だけの物価というものはありません。省線の切符が三倍になりましたが、私は女ですからこれだけしか払いませんよ、といっても通用しないのであります。
 また、学生生活をなさっていらっしゃる方は、百五十円しか貰えない。百五十円では、外食するとしたら、学資が出ませんでしょう。学生の生活というものは、働いている人々の生活と、かけ離れたものであると、いままではおもわれておりましたが、いまでは、働いている人の生活問題と、学生の生活問題とは、がっちり結びついています。また、家庭の主婦の生活、台所の食糧の問題は、直接外で働く男の生活問題と結びついているのです。
 今日の社会の問題と申しますのは、私はこういう立場だから、こういうことは知らなくてもいい、私はなんとか楽にやって行けるから、そんなことはどうでもいい、ということは言えないのです。
 こんどの憲法草案を、そういう立場から考えますと、私たちにとって非常に重大な関係があることがわかってまいります。
 憲法というものは、決して、大理石に刻みつけて、何かの記念品のように、土の中に埋めてしまうものではないのです。生きている私たちの皮膚のうえに書かれる、そして、私たちと一緒に生きてゆくものなのです。ですから、憲法というものは、私たちの今日の、日常生活と照し合せて、私たちはそれを充分に理解し、それを日常化し、そこから、人間が生きて行くものとして、考えなければなりません。
 社会は人間が作ったもので、生きるためにあるものであります。人間が生きて行くのに、公平であることを――社会解放を願うのは人間の権利です。そうした見方から、あの憲法草案を見ますと、いままでの日本の憲法というものは御承知の通り、まことに不出来なものでありまして、あれは憲法ではない、ある一つの文章です。それで、はじめてこんど、憲法らしい形で、憲法が出来たわけでありますが、人は総て平等なり、国民は働く権利をもっている、などといわれております。
 人は平等なり、と申しますが、そのときに、みなさんは、きっとお思いになるでしょう。この頃いろいろなことで、女子が出ても、選挙の問題や婦人の問題ばかりでなく、刑法・民法のように、まだまだ差別のあることを御承知でしょうし、婦人は公民権をもっておりませんし、代議士になって、いろいろよい施策をやるとしても、いろいろな役割をするにしても、地方の町で実際に行って実現する、働いて行く能力というものは、認められてはいないのです。ですから、こんど男子のように代議士に女がなったとしても、それだけでは「男女は平等なり」ではないのです。平等、平等といっても、言葉のうえの遊びではないのであります。
 憲法のなかで、平等ということがいわれていますけれども、現実に、同じ仕事を、同じ量した労働者には、同じ賃金を支払わねば、ちっとも平等でないわけで、こうした、労働の第一の根本問題があれでは、はっきりされておりません。
 また、あそこには、人は働く権利をもっている、と、はっきり、明文化してございますけれども、そうしますと、女と男とが、同じ権利をもって、同じ条件で働かねばならない。しかし、女の人は、母親になるという特性をもっていますから、その母性は保護されなければなりません。また、働いていた人が年をとって、働けなくなった時に、社会がそれを保護してやらなければなりません。
 本当に、働く権利をもつということの内容には、こうしたいろいろな条件が備わって、はじめて、確立されるものであるにもかかわらず、あの憲法のなかには、一つも出ていないわけであります。ですから、文章の上でみますと、人は平等なり、で、たいそう進歩的にみえますけれども、まだまだ、あの憲法は、いたって不充分なものだということがわかります。ですから、もっと研究して、私たちの本当の代表者を議会に送り、もっとよく、もっと具体的な、実際の効力のある憲法につくりあげなければならないのであります。

 私は作家であるのに、政治の話をするのは、なんとなく変だとお思いになるかもしれませんが、作家だからといっても、政治は政治家のことだといって、傍観出来ません。みなさん方も、それぞれ専門をもっておられることでしょうが、配給の魚と、野菜と、お米が少くなっても、私の専門ではないからといって眼をそむけていらっしゃる方は一人もないはずです。
 私は作家でありますから、例えば紙の問題などは、実に痛切であります。私たちが本を作るということは、出来るだけ廉く、ためになる本を、美しいものにして、作りたいという念願をもって作るわけでありますが、今日、その紙はどういうふうになっているかというと、みんな配給になっております。けれども、ずいぶん紙を買溜めしておった人があるのです。最近巷にたくさん本が出ておりますが、一体そういう本屋は、どういう本屋かと申しますと、軍や何かに引掛りがあって、終戦のどさくさに、ちょろまかした紙を持っている人達なのであります。
 そうすると、公平にみまして、本が出せるということは、誰にでも出来ることではないのです。やっぱりモラトリアムになっても、困らない者は困らないというのと同じことであります。
 政治というと、何か議論めかして、各政党の立会演説をするのが政治のようにおもわれますが、そうではなく、私たちの毎日の生活のなかに問題があるのであって、その問題を解決してゆくのが、政治なのであります。
 私は社会のために、廉い本を作りたいとおもうのです。自分は儲けようなどとおもっていません。印刷する職工さんによくしなければならないし、いろいろの事情から紙がない。又公定賃金では製本もなかなか出来ない。どうしても作って行こうとすると、高い本しか出来ないようになっているのです。こういう文化的のことは、政治とはちょっと関係がないようなことであるけれど、はっきり、いまの社会の経済問題、政治の問題というものと結びついているのです。
 みなさんが、今日お集りになったのは、おそらく、このような政治の話を聴きに来たのではないでしょう。映画を見たい。それからすこしは文化的な話も聴きたい。そういうお気持でいらっしゃったのだとおもいます。私たちの文化的な希望というものは、今日のような破綻を来たしている社会のなかでは、みたされない。ですから、そういう問題をどう解決すればよいかといえば、私たちは、屋根から雨が漏ってまいりましたときには慌ててバケツを持って来て雨を受けます。そして、お天気になりましたら、自分たちの手で、屋根にトタンなどを当てます。こうして、自分自身の力で、切り拓いて行かねばならないわけです。
 もうすこし、働いて生きて行くということを、人間の値打を美しく、この世に咲かせるように、みんなで協力して、切り拓いて行かねばならないと、痛切に考えるのであります。

 私たちは女でございますけれども、男に脅かされるようにして生きてゆきたくはない。伸び伸びと何者も恐れることはなく、自分の力をもって生きて行かなければならないのであります。ですから、みなさんも、さきほどから、いろいろと纏らない話をお聴きになっていらっしゃいますけれども、幸福に生きたい、という希望があるならば、まだ咲かない幸福の希望という花の蕾があるならば、暖い日射しを当てて、美しく、立派に咲くように、非常に聰明に、実際的に、なんと申しますか、女のもっているしっかりした足取りで、日常生活と政治とをはっきり結びつけていらっしゃって、解決して行くように、そういうふうな生活態度というようなものが、本当の文化生活であるということを理解していただきたいとおもいます。[#地付き]〔一九四六年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人画報」
   1946(昭和21)年5月号
※「婦人画報」五百号記念大会(1946(昭和21)年3月14日、共立講堂)における、講演の速記。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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