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河上氏に答える
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四九年三月〕
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 河上氏の私に対する反ばくは一種独特な説諭調でなかなか高びしゃである、が、論点が混乱していて、多くの点が主観的すぎる。河上氏は私が「読者の声を拒絶し、封じ」「一切の批判をさしひかえ」させようとするかのように書いているが、全く事実に反する。この三年間、私は自分の仕事への数多くの批評に対して沈黙を守りすぎてきた。
 文学作品は作品そのものの力で人の心に生きるものであり、歴史が価値を証明する。長篇を書く途中での論争を欲しなかった私について、あらゆるいいたいことが自由にいわれている。現に河上氏がやっているとおりに。しかし私はこのごろだまりすぎていることの害を知った。特に党機関紙にどういう形式と方法をとおしてにしろ本質をゆがめて特徴づけようとする批難があらわれたとき、沈黙しているのは自他への無責任であることを確認した。
 さてこの投書は、前のとは少しちがってきて、一方では私の作品の真実が多数の人の心に生きる事実を認めはじめた。だがその一方で依然として「内容が一つ一つ逃げてゆく話」などという前の投書の言葉を、どうして素直にうけいれないのかと、河上氏は詰問している。だが、だれが考えたにしろ、私が話の内容まで明らかにして多数の反響と一致する一つの事実についても述べていることにはあえてふれず、自分の仕事の完成していないのがわかっているなら、いわれたままをうけいれろ、とつめよるのはいいがかりじみているし非常識である。
 もしめったにとりつけない内容であったり、一つ一つ逃げる内容だったりしたら、ひろく人の心に生きるどころか、文学作品として実在するにたえないものである。このような基本点での独断を強引に押しつけようとする非難に屈さないのは、むしろ当然ではあるまいか。誠意ある批評とか完成のための忠言とかいうものは、こういう本質のずれた議論の上になりたつものではない。
 革命的小市民というのは、社会の現状に一応の批判をもって、ある程度の変革に参加するけれども、労働者階級の勝利と社会主義、共産主義への見とおしに生きるには到っていない人々を意味する。私はそういう種類の作家ではない。進行中の長篇は起伏を通じて労働者階級の歴史的使命の展望にたって書かれている。どんなに見かけのいい形容詞に飾られようと、小市民作家として完成するために私は党の列伍に加ったのではない。
 投書に答えたことばじりをとらえて、私が文化反動との闘争をそらそうとでもしているかのようにこじつける河上氏の眼界はあんまり小さい。これまで文化反動に対して私がいろんな場面でどのようにたたかってきているか、また現在小説・評論などによってどんなにたたかいつつあるかということは、日本の民主化にまじめな関心をもって注視している人々ならば見おとしてはいないのである。最近『思想と科学』に発表された二百枚の論文は、文化反動との系統的なたたかいである。
 民主主義文学の「仲間ぼめ」とかそのための「同志的沈黙」という表現は、反動ジャーナリズムのこのむところだ。しかし民主的文学運動の実際をいくらかでも知っている人にとっては思いもそめないことである。作家がより高い達成のために謙そんであるということは、本質をゆがめた評価に屈伏することではない。[#地付き]〔一九四九年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「アカハタ」
   1949(昭和24)年3月30日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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