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人民戦線への一歩
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)葭簀《よしず》

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(例)[#地付き]〔一九四六年二月〕
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 うちを出て、もよりの省線の駅までゆく途中の焼跡にも、この頃はいろいろの露店が出はじめた。葭簀《よしず》ばりの屋台も、いくつかある。
 きのう、霜どけのぬかるみを歩いてその通りをゆくと、ちょうど八百やが露店を出していた。人参、葱、大根が並んでいる。鉢巻した売りてが、大きい一本の大根をぶら下げて、あっちからこっちへと積みかえながら、
「さア、この大根だと、一本十六円」
 そう呼んでいる。何人かの男女が、八百やの前に佇んでいた。が、誰も彼も黙然として野菜を見下し、その声をきいているのであった。
 少し行くと、魚やが出ていた。この辺に、こんなどっさり品数を並べた魚やは、珍しい。好奇心に誘われて、人垣の間から首をのぞけてみたらば、鮪百匁五十五円と書いた札が先ず目についた。そこでも、たかっている人のどっさりの中で、実際そのとき買っているという女も男も見当らなかった。やっぱり、口かず少く、百匁五十五円のマグロ、一山十五円のカキの皿を眺めおろしているのであった。
 そこ、ここにこうして市場まがいのものが出はじめた。そして、街頭は、人出が繁いのであるが、さて、今日地道な生活の人々はもう値段かまわぬ買物をして暮す気分ではなくなった。戦時利得税をいずれ払わなくてはならず、しかも、大財閥に対してのように、政府が様々の法式を考案して、とり上げた金をまた元に戻してよこしてくれる当もない。戦時成金ばかりが、昨今、使ってしまえという性質の金銭をちらしているのである。
 つい先頃、一月十日までの供出米は、予定の二割ばかりしかないという報道があった。殆ど時を同じくして、農林大臣は、米の専売案を語り、農林省の下級官吏たちは大会をもって、食糧の人民管理を主張した。この対照は、新聞をよんだすべての人々に、深い関心をよびさましたと思う。農林省につとめていれば、食糧関係のあらゆる行政の網が分っていたのは当然であろう。その道の専門家が揃って、人民管理をよしとするからには、疑いもなく農会、営団、その他の機構に、満足されない何かが存在しているからである。どんな長閑《のどか》なこころも、日本の現実の中で「横流し」という術語を知らないものはなくなっているのである。
 新聞などを見ても、食糧の人民管理への関心は高まって来ていて、一般の方向は、そちらに傾いているように見える。つい、二三日前、この気勢に一つの刺戟を与えるような実例があった。東京板橋の区民が、食糧管理委員会を組織し、板橋の造兵廠内に隠匿されてあった食糧を発見、それを区民に特別分配した。新聞は、群集した区民に向って、気前よく米、麦、大豆、乾パン類を分配している光景のスナップを掲載した。
 それはこの一月二十一日ごろのことであったと思うが、二十四日の新聞には、農林省で、米の強制供出案をもっていることと、警視庁が「板橋事件」重視しているということと、一層強くなっている食糧人民管理の潮先とが、並んで一枚の紙面を埋めているのである。宮城地方では、農民が「隠匿油罐を踏み台」にして政府の主食糧強制買上に反対の気勢を上げた。農民の、分厚い肩が重なって、話をきいている写真が、のっている。
 昨今の日本では、数日うちに、事態がどしどしと推移してゆく。私たちも、それに馴れて来ている。しかし、この板橋での出来ごとや強制買上げ案、警視庁の意見の公表の調子などの間には、私たち人民が、ふむ、こんな風か、と読みすごしてはならない、極めて微妙、深刻な、何かの底流が潜んでいるのではなかろうか。
 私たち日本の人民は、やっとこのごろ、自分たち人民としての自信と主動性とを理解して来たような段階にある。漸く、永年強いられて来た欺瞞に盲従する習慣から脱して、少しずつ、人民の生存は人民の知慧、判断、行動で守り、平和と安定を日常にもたらそうとして動きはじめたところである。経済、政治、文化の全面にわたって人民としての要求を貫徹し、日本の民主化を徹底させるための人民戦線、民主戦線ということが、私たちの現実的で発展性ある方法として、身近いものとなりつつある。人民は、自分の全生活について自分たちで判断・配慮し、分別してゆくことが、とりも直さず民主の政治の実体であることを学びつつあるのである。
 この頃の毎日は、そういう意味で、日本の私たちにとって全く歴史的な日々となって来た。それだからこそ、一日一日のうちに起るいくつもの事象について、私たちは極めて注意ぶかくなくてはならない。聰明に現実的に、自分たちの新しき構想の完成に努力しなければならないのである。
 こういう心もちからいうと、どうしても、私たちは「板橋事件」強制供出その他一つらなりの食糧問題解決への場面で起った現象をももうすこし細かに観察し、学ぶべきことがあると感じる。
 第一、農林省は現に自分の懐の中に、官吏たちの団体行動をはらんでおり、それは食糧の人民管理を叫んでいるのに、本気で、農民に、強制手段で向う心算であろうか。
 健全な常識は、この疑問に対して「まさか」と答える。まさか、政府も強制して買上げたからといって、おいそれと出て来る今年の米でないことは十分わかっているだろう。もし、そうだとするならば、第二の問が生れて来る。出来にくい相談と分っているものを唯さえ、無策無策で信頼を失っている今日の政府が、念入りに何故、農民に向って新しく出しかけるのであろうか。
 わたしたちが、一人民として、大いに洞察しなければならない社会的なモメントはここの点にかかっている。一見、愚劣と思われ、誰しも反対すると思われる方策を、政府が強権によって発動させる、という、その技術上の意味を、わたしたち人民は見抜く必要があるのではなかろうか。
 宮城のみならず、おそらく、日本じゅうのあらゆる農村で、強制供出案は、うけいれられまい。このごろの農村で、農民組合その他農民の自主的な団体のないところは少かろう。
 この二つの条件は、日本じゅうの村々で、農民たちがこの問題を中心として集り、相談し、協議し、決定して、一つの一致した結論を導き出すだろうということを予想させる。一致した意見が、凡《およ》そ政府案支持でなかろうという点も見とおせる。
 米が、二割しか集っていない。各大都市の人口は配給米をもって命をつないでいる。その米のストックが乏しいところへ、農民が強制買上供出反対で、米俵をつんで東京、大阪その他の駅に入るべき貨車が、きょうも、明日もと空っぽであるとき、大都市の住民の不安はいかばかりであろうか。重大な事態をひき起すであろう。その重大事態の核心をなすものは何かといえば、食糧の非常手段による調達であろう。住民の非常手段による調達というとき、この間まで日本人の頭に浮ぶのは、往年の米騒動ばかりであった。しかし、今日では、人民の食糧管理という観念が加って来ており、そこに、板橋区の実例があった。すこし、実際的に心の働く人民なら、ここのところに新しい社会的なものの生じていることを理解するのは当然である。
 仮に、そういう切迫した事態に立ち至ったとき、或る区に食糧管理委員会が出来て、板橋でやったように、どこかに隠匿されている食糧を発見し、ああいう風に特配したとする。その場合、警視庁は、その方法を適当と認めていないのであるから、何かの形で取締ろうとするであろう。そんな場合の民衆が、単純に取締られるものでないことは、ひとも我も知っている。小競りあいも、空腹が先に立っておれば、荒々しくなりかねない。双方が力ずくになったと仮定して、そのごたごたはどういう法律上の行動として呼ばれるのだろうか。このことを、私たちは、十分の上にも十分、考えめぐらして見なければならない。
 市民が、食糧問題にからんで、ごたついたとき、当局が、それに対して名づける罪名に事欠いていようとは、決して決して思われない。
 法律だけで、現実の辛苦は解決しないから、その対象となった市民たちは、勿論承服しかねるのだが、そこに人間の心理の機微がある。承服しない市民の感情が、どこに向うだろう。真直《まっすぐ》、実際の責任者である政府、支配権力に向うだろうか。そこまで万遍なく明快であろうか。まだまだそこまでが一般水準とは言えない。どうも、百姓が米を出さないからじゃないか、というところへ流れよりそうである。
 そうなったとき、農村ではどうかと想像してみる。農村とても、決して平穏に彼等の拒絶をしかねているであろう。当然、ごたつく。その結果、次の当然として、強制買上供出としての強権以外の強権が発動するだろう。あちらも、こちらも、大ごたつきに揉めて、つづまるところは、何かと云えば、それを、きっかけとして、農村では農民の自主的な組織や活動が圧殺され、都会では市民が所謂《いわゆる》鎮圧されてしまう。やっと全人民が一歩をふみ出した民主の試みは、二歩と歩まぬうちに、まことに見事に、旧勢力である反動政府のもくろみどおり、足を折り、手をもがれて、人民はまたもや、自分の声を失ってしまうのである。そういう不幸がおこったとき、最悪の点は、農村人と都会人との感情の疎隔である。この疎隔さえあれば、支配権力にとってこわいことはない。何故なら、人民の結集する能力は、最も根本で二つに裂かれてしまうのであるから。
 このような考えのめぐらしかたは、或人にとって、あまり裏まで穿ちすぎた辛辣さと思えるかもしれない。けれども、決して穿ちすぎではない。今日の現実の内包している諸事情を、真に人民としての洞察と無私にたって観察すれば、こういう幾本かの筋が、くっきりと混沌の中から浮んで来るのである。
 私たちは自分たち自身を過りにおとしいれ思わぬワナにはめないために、食糧管理委員会の運営の方法について正しい知識をもたなくてはならない。この、民主的な自主の委員会は各区、各市、各地方と全国のひろがりで、到るところにつくられてゆくものである。そして、現実の食糧管理に当るときには、食糧供出、配給、その他必要な機構に関係をもつ行政権を、この委員会として掌握しなければならない。板橋の場合、発見した隠匿物資は、配給所がごまかしていたものではなかったのだから、委員会は、先ず連合軍に申し出たらよかったろう。連合軍は或は政府に通告し、政府は営団に一旦渡せというかもしれぬ。そこが区民としては虫が好かない点だったろう。虫のすかないのは同感だが、虫がすかないからと云って私たちは、素朴な、口実を与える方法で自分たちの大局的自主性を失おうとは思うまい。そこが談判のしどころであろう。その場の必要な行政的権限を確保しつつ、前わたしとして渡せば、営団のちょろまかす範囲はいくらかへると考えられまいか。発見した物資を、その場で人民がわけて、その責任は人民管理委員会に負わされるという段どりは、この大事な発展的な人民のための、人民のつくる委員会として幼稚なやりかたであろう。
 ごたごたに誘い出される暴力についても、人民自主のためには十二分の理解がいる。ポツダム宣言受諾後、現在日本の政府は、表面上は人民に向って行使すべき武力を失っている。人民に対して行使する表向きの暴力はもっていないという建前になっている。連合国は、日本人民の平和裏の自主性を認めているのである。地方にも都会にも様々の形で各機構に入りこんでいる右翼くずれ、特高の変形は、人民の統一行動を攪乱するのが唯一の任務であるから、一見勇敢な闘士めいて、どういう挑発をしないものでもない。もし人民が、現在日本政府は武力をもっていないという公の建前を無視して動けば、政府は、連合国勢力に誇大的訴えとして、人民に自治自制する能力なし、と実証し、反動に一歩前進しようと試みるであろう。人民の力の表現である真に民主的な政党は、治安維持法こそないが、他の変通自在な便法によって圧殺され、日本人民は、自主の黎明において自分の道をはぐらかされまいものでもないのである。
 農村の自主化、都市労働者の生産管理による必要物資のより多量の生産、消費者の自主的な組織と政治的見識ある食糧委員会の活動、この三つが一つの線となって結び合い、倶に活動して、はじめて人民戦線活動の一翼としての食糧問題も動き出せる。人民戦線の実体は、決して利益にあつまる烏合の衆ではないのである。[#地付き]〔一九四六年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「サンデー毎日」
   1946(昭和21)年2月3日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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