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花のたより
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)悧※[#「りっしんべん+發」、読みは「はつ」、570-16]な
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 シルビア・シドニーが一人二役を見せどころとして主演した「三日姫君」という映画があった。外債募集のためアメリカへやって来た何とかいう世界地図にものっていないような弱小国の麗わしい姫が、ニューヨークへついて間もなくオタフク風にとりつかれてしまったので、その身代りを瓜二つな容姿をもった一人の貧乏で悧※[#「りっしんべん+發」、読みは「はつ」、570-16]な失業女優がつとめて、終りには目出度大新聞の若い社主と結婚するという筋であった。
 最近日本では、その筋書とは逆な侯爵令嬢の十七日女給ということが、現実の社会で行われた。その侯爵令嬢が、ほかならぬ故東郷元帥の孫娘であったことは、世間の視聴をそばだてしめた。
 良子嬢が、浅草のカフェー・ジェーエルで、味噌汁をかけた飯を立ち食いしつつも朗らかに附近のあんちゃん連にサービスし人気の焦点にあったという新聞記事をよんで、一般の人々はどんな感想を抱いたであろうか。
 所謂《いわゆる》名流家庭の親たちの中では駭然として或る恐怖を感じたひとびともあったであろう。好奇心に驚きの混った感情で、忽ち話題の中心とした令嬢らの夥しい数があったであろうことも、女子学習院という貴族の女学校に良子さんが籍をおいていた以上想像されることである。あの記事で、これはありつけるぞととりいそぎ紋付袴を一着に及んだ人相よからぬ職業的一団のあったことも時節柄明らかである。
 今月の雑誌は、引つづき世間の興味をうけついで何かの形で東郷侯令嬢の女給ぶりを記事にしているのである。或る読売雑誌には、かっちゃんと呼んで断髪兵児帯姿の良子嬢をはったあんちゃんの一人が、いかにも町の若者らしい情感をもってかっちゃんがそこいらの女給などは夢にも知らぬカメラの話、ヨットの話、華美な夏の鎌倉の遊楽生活を話したりするをきいて、映画的憧れ心を強く刺戟されたことを物語っている。この若い男の結論も、やっぱりどこかちがっていた、というので、醒めての今はボーとなった何かお伽噺めいた印象を読者の心に注いでいる。
 東郷侯爵家から警察を通じて、良子嬢をとりまいた五人の平民の若者にお礼として五十円ずつよこされ、狐につままれたような気持で固辞するのを強いても握らされて帰宅したという記事や又、当時そうとは知らずに勿体ないことをした、と洩した客の言葉などは、第三者の立場にあるものの目には、なかなか興味ある社会的な内容を含んで映るのである。何かのはずみに間違えて平民の社会に天降った侯爵令嬢良子が、つつがなく再び天上したからには、総てはあの時ぎりの白日夢とし、東郷侯爵家というもののまわりは又〔七字伏字〕閉ざされたかの如き感じを世間が持つよう、細心な努力が払われている。
 湯浅宮相が女子学習院の卒業式に出席して前例ない峻厳な華族の女の子たちの行紀粛正論をやったということが目立ったぐらいで、敢て道徳問題や親の不取締りとかいう点につき、問題化すものは少く日頃は根掘葉掘りの好きな新聞記者さえ、触れ得ぬ点のあることを言外に仄めかす程度に止っている。
 私は、先日計らずも或る写真屋で東郷侯一家の家族で撮った一枚の写真を見た。良子嬢の父というひと、母という夫人、弟妹たちをも眺めた。かっちゃんこと良子嬢のお守代として五十円ずつ出したということの内にあらわれている下様の者とは違ったものの考えかたが、自らその家族写真を見た時も心に甦り、私はゴーゴリの小説の一頁が、生きてそこに立ち現れて来ているように感じたのであった。
 一人の人間が、社会的に有名であるということは、場合によっては、その人の不幸であるばかりでなく、一家一族の不幸とさえなる場合がある。名家二代なし、といった古い言葉は、うがったところを持っている。碌々として、只事なからんことばかりを期し、親の財産の番でもして生涯を終る者ならばいざ知らず、一代で名をなす男女の生涯は、その人たちの属す社会層によって或る基本的な違いはあるが、それぞれの意味で、強烈な生活力の横溢である。時代と、時代によって動かされているその人の属す階級の歴史的な性質に発現の形は支配されているにしろ凡人以上の個性が日夜動いている。つよい電気の中心により弱いものが吸いつけられ、それに従属した形になるのは、家庭の生活の中では一層はっきりした事実である。偉い親父をもって、ひとに云うことも出来ぬ様々の苦痛を経験する息子や娘というものが、この社会にどの位いることであろう。まして封建性のつよい日本のように、高名な祖父、或は父が家庭内で支配権をおのずから握っているばかりでなく、世間へ出てまで二言目には先ずあれは誰それの息子、娘として批判の基準をおかれることは、いかばかり苦痛であろう。弱気な若いものが中途半端に萎縮し、すこし勝気な青年たちが、反抗から放蕩に陥ったりすることは理解される。自身にのしかかるそういう重荷の歴史性を、はっきり解剖し、根底から社会通念を人間が生きるに合理的な方面に導こうとする建設の道へ身を投じる者は、少数の、本当に強い心持の若者であろう。しかも、それらの勇敢な良心的な若い息子や娘等の努力をも、未だ打挫くだけ、暗い伝習の力はつよい。岩倉侯の娘が転向した後、自殺した。無限の語られざる訴えを、私は心に銘じて今日も忘れ得ないのである。
 東郷元帥というひとが、日本の資本主義の発展のために、欠くべからざるものであった過去の戦争において、巨大な功績をのこした人であり、人格的に卓越した将であったことは、近頃種々の刊行物にあらわれている日露戦争の思い出話のうちにも十分に窺える。智謀にも長《た》け、情に篤く、大胆な決断力をも蔵していたであろうが、例えばバルチック艦隊全滅の勝利にしろ戦争は独り角力でない以上、対手かたの条件との相対的な関係というものが大きい作用をしている。
 あの時分のロシアは、ヨーロッパの眠れる熊と呼ばれた。眠っている、然し吼えて立ち上ったらどのような力を振うかもしれぬというのが、広大な国土の潜勢力に対する列強の予想であった。
 それに対して日本は、今日と全く違った目安でヨーロッパ諸国からは見られていたのであったから、イギリスの力を勘定に入れてもこの取組は、世界の注目の的となるのは当然であったろう。
 ロシアの艦隊が、その実質にはツァーの政府の腐敗を反映して、どんなものであったかということは、ソヴェトの海洋文学の作者ノヴィコフ・プリボーイの近作「ツシマ」が、私達に雄弁な描写を与えている。
 アドミラル・トーゴーの勇名が世界に轟いたのは、それらの内的外的の特殊な時代的特徴の濃い諸要点の結合の結果であった。元帥ほどの人物が、そこを見落していなかったことは、彼の日常生活の簡素な心がけや、歴史の上に箇人的武勇を誇示することを嫌ったというところにあらわれていると見ることが出来る。
 ところが、元帥をかこむ社会関係においてその心持は、常に十分活かし得ないで、とかく偶然化されると同時に、自身も所謂矩を越え得ず、経済機構の逼迫につれ反動的な力が増すにつれ、いつしかそのために利用される存在とならざるを得なかった。
 お祖父様がお祖父様だから、というところから強制され、生じる無理は、家庭を支配する空気の中に二六時中何か否定的方面の作用を営んでいることは、誰にも推察される。良子嬢は、その総体の生活気分をひっくるめて「面白くない」という表現を与えている。
 うちがそういう事情で面白くない。面白そうなところと目されたのがカフェーであった。小市民階級の娘たちが、うちが面白くないので、飛び出して、例えば映画女優になりたいとか、ダンサーを志すとか、いうことは屡々《しばしば》あり、そこには客観的に見た当否は別とし、自身の才能についてのぼんやりした選択が認められる場合が多い。よほど質の低い、地方からポット出の十八九の娘ぐらいが、カフェー女給は面白いと単純に考える可能性をもっている。いくら職業をさがしてもないから、到頭食うために女給になったという若い女は数多く、それは現在の経済危機の増大につれ増加して来ている、別箇の問題であると思う。
 良子嬢が東郷元帥の孫としてのつまらない生活の反対物をカフェーに見出したところに、子供のうちから消費生活にだけ馴らされた娘の気分と、今日の貴族階級が生活感情の実質においては、赤化子弟に対する宗秩寮の硬化的態度に逆比例するデカダンスや低俗なエロティシズムに浸透されていることが分る。
 良子嬢によって実行された十七日女給の試みが、最も無邪気な貴族令嬢の映画好みのアバンチュールまたは、ナンセンスな茶目ぶりと解釈されるにしても、やはりそこには、良子嬢がああいう階級の一部の若い連中のひそかな興味の代弁人であったことだけは顕著なのである。
 日露戦争から今日まで僅か三十年経ったばかりである。その祝祭は、様々の戦勝追憶談として華々しく新聞雑誌に連載されている。けれども、この三十年間に、われわれの住んでいる階級、社会はどのように推移して来たことであろう! ごく小さい形をとってあらわれた例をとって見ても、一方に東郷良子の女給ぐらしがあり、他方に転向させられて自殺した岩倉の娘の人の胸を打った進歩への献身の実例がある。後の方の例を滅薙せんとする法規を改正し得ても、前者のような芽生の優生学上から見てのくされを如何ともなし難いところに、戦勝談からはもれている現実の力つよい示唆が潜んでいることを感じるのである。

 近頃婦人ばかりの名を連ねて結成された二つの会が、世間の注意をひいた。一つは娘の自殺によってひびだらけであった家庭生活が崩壊した元の桜内代議士夫人その他があつまってこしらえた「女ばかりの株式会社」であり、他の一つは、理学博士、医学博士というようなひとの夫人の一部によってこしらえられた「断種協会」である。
 女ばかりの株式会社は、要するに御亭主の支店のようなものであり、女の細心で儲けて見せますというたちのものである。大阪辺では女ばかりの株式会社も既に珍しくはないであろう。アサヒグラフか何かに、この女株式会社の女重役連の顔合わせの宴会の写真がのっていた。私はその写真を見て、立派な裾模様の上にのっている白粉の濃い女の顔の表情に、衣裳によって引立てられるほどの美も漂っていないのに或る感想を刺戟されたのであった。
 断種協会は、この社会の不幸である悪質の病気、アルコール中毒等の遺伝から子孫を防衛するために、そういう変質者、病人の断種を人道上の常識としようとする科学的立場によって、組織された会である。
 産児制限を、不道徳であると婦人科の女医師である吉岡彌生女史が数年前言明したことは、一般の人々を呆然とさせた。科学に従事する者の間にさえそういう迷蒙の残っている現代の理性の水準である。男の医者その他の人々の中に、優生学の見地にたっての断種にも、賛成しない考えがあるらしい。それに対して、断種協会は、女として母の立場からも、断種の社会的意味をひろく理解させようという意企のもとにつくられたと思われるのである。
 ごく最近、私の一人の従弟は、遺伝性の脳梅毒で発狂したピアニストの卵に危く殺されかかった実例がある。私の五つで死んだ妹は、やはり脳に異状が起っているのを心づかず治療をまかせた医師の手落ちで死亡した。
 私は、変質者、中毒患者、悪疾な病人等の断種は、実際から見て、この世の悲劇を減らす役に立つと信じる一人である。
 結構なことであると思ったのであったが、私の心にはこの事につれ、おのずから又別様の観察が湧いた。有名なイタリーの犯罪心理学者であったロンブロゾーは、人間の頭蓋骨の発達の型や、顔面の角度の関係やらを統計して今日でも適用されている所謂犯罪型という一タイプを規定した。更に彼はこれらの先天的に犯罪型の頭蓋をもって生れ、何か犯罪をやって現に拘禁されている者の両親は、大抵揃っていず女親だけで、その女親も売笑婦が高率を占め、又その女たちはアルコール中毒にかかっているか、さもなければひどい酒呑みが多いと結論している。ロンブロゾーは、そこまで社会の現象を探求したのであったがそこからは元へ戻って、だから犯罪型の人間は目下地道に暮していようと先天的な犯罪可能者であるという宿命論めいた断言を強めているのである。
 ロンブロゾーの現実の掴みかたは、現象主義で、目前にあらわれていることだけの統計によって自説をかためた。彼は、一歩進んで、それならば、犯罪型の頭蓋骨をもち、脳の発育の型をもった者の両親は、何故に片親となったか、何故女親は多く売笑婦になっているか、のんだくれであるかという、社会関係に迄つき入って、人間の生理を研究する力をもち合していなかったのである。
 ロンブロゾーは、警察官の先入観念に一つの犯罪型という骨相上の分類を加えてやったが、失業と夫婦生活の破壊との生々しい関係、失業と売笑との直接な関係、大多数者の慰安ない生活と低劣なままに繋ぎとめられている文化水準とアルコール中毒との具体的関係、ましてや戦争の後帰還兵によって伝播される花柳病の恐るべき問題などについては、科学者として一刀をも切りこんでいないのである。
 断種の科学性と人類を幸福にする効果とをひろく理解させようとする夫人達は、果してどの位深刻に、真に断種すべきものは男性の或る分泌腺ではなくて、一切の社会悪と疾病との根源である社会そのものの歪んだ非人間的構成であることを観察していられるであろうか。私が、心を捕えられた一点はそこにあるのであった。
 ソヴェト同盟を旅行していた間に、私はいろいろのことから意味ふかい印象を与えられたのであるが、肺病、梅毒、アルコール中毒等が、旧社会から民衆の上へ重荷としてのこされた社会病として、驚くべき大規模で掃蕩に着手されていたには目を瞠った。労働者のクラブには衛生陳列室があって、性病とその遺伝の害悪を模型や図解で示し、肺病、癲癇《てんかん》、アルコール中毒等についても若者たちの具体的、日常的要心を喚起している。
 竹内茂代女史は、日本女子の体格分類統計をもって医学博士になられた。彼女の博士論文から引出された論によると、女学生の体格は統計上背が高くすらりとしたタイプであり、女工たちの体はずんぐりで低く、四肢が短い。この統計によって見ても明かなように高級な智脳活動にはすらりとした背も高いタイプが適し、工場の労働、農業などにはずんぐりで手脚も太短い娘が適しているのである。云いかえれば、今の世の中で下積みの女は、下積みで生涯を過していいように生れているとそういう論である。
 私は、入沢達吉博士の随筆をまたないでも医学博士というものの実質に多大の疑問をもち、又愚劣さを感じた。
 現在のような社会で、女が弁護士となり、又医師になるのはその専門技術をとおして婦人大衆の大小様々の荷に喘いでいる肉体と精神とを少しでも幸福の方向に助け導くことにだけ社会的意義がある。更に鋭い科学者の観察で現実を見きわめる卓抜者は、やがて、婦人大衆の生存の苦楽は、男との相対関係にだけ規定されるものでなく、両性の関係をも支配するところの社会機構の本質の問題にかかっていることを観破せざるを得ないであろうと思う。
 私は、良人の学業を信頼し、科学性の常識化を翹望するよき数人の夫人達が、科学の科学性を十分発揮し得る社会とは、どのような社会であるかということについて、優しい心で真面目に一考されることを切望するのである。[#地付き]〔一九三五年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「社会評論」
   1935(昭和10)年5月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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