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ブルジョア作家のファッショ化に就て
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)炬火《たいまつ》

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(例)文壇は壇ごと[#「ごと」に傍点]ジャーナリズムの中へ引越して
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          一

 正月の『中央公論』は、唯一篇も正しい立場に立つプロレタリア作家の小説を載せなかった。『中央公論』以外のブルジョア・ジャーナリズムも多くプロレタリア作家をボイコットした。然し、それだけで現実の状勢を判断することは出来ない。何故なら同じ正月号の『プロレタリア文学』(日本プロレタリア作家同盟機関誌)が店頭に出ると間もなく六千部か七千部を売り切った。
 これは『中央公論』が、たった一つのプロレタリア作家の小説もない新年号を敢て出したという事実に対して、階級的文化というものはどういうものか、対立はどんな比重にあるかということをハッキリ示した意味深い事実だ。
 それから文壇ファッシズムの擡頭ということをいう前に何故ブルジョア・ジャーナリズムというものに就いて、その御用振りを書いたかと云えば、中村武羅夫でもそこまでは理解した通り、もう何年か以前、所謂文壇は壇ごと[#「ごと」に傍点]ジャーナリズムの中へ引越してしまっている。もっとハッキリ云うと元来、文壇などと云う特別な文化の独立国は何時の時代にだってありはしなかった。夏目漱石は日本の優れた一人の作家であるが、ブルジョア・インテリゲンチャの一人であった。――と云う意味に於てどんな作家だって自分の臍の緒は必ずどの階級かに繋がっている。従って自分の臍の緒を繋ぐ階級が文化の宣伝具としてジャーナリズムを統制してゆけば、その統制に応じて執筆者、大小作家がその統制に服してくるのは当り前だ。ブルジョアジーがファッショ化すれば、ブルジョア作家はファッショ化する。この関係は切っても切れるものではない。然も、ブルジョア作家のファッショ化は決して簡単な形では現れていない。彼等の主人、ブルジョアジーの戦略戦術が千変万化であるように、ブルジョア作家の反動化は千変万化だ。
 ブルジョア大衆文学の才人直木三十五は、ついこの間「ファッシズム宣言」と云う啖呵文を読売紙上に発表して、三上於菟吉と共に民間ファッショの親玉として名乗りを揚げた。これは却々興味ある一つの出来事だ。直木三十五は持前のきかん[#「きかん」に傍点]気から中間層のインテリゲンチャが、ファッショ化と共に人道主義的驚愕を示し然も自身では右へも左へも、ハッキリした態度を示し得ないことに憤慨して、「俺は此の世に恐ろしいものはない。ファッシストにだってなって見せるぞ」と大見得を切ったのだ。ところで直木も俗学的な人生観を基礎とはしていても、才人だけあってファッシズムの暫定的な性質はボンヤリ理解し、抜目なく「向う一年間」と自身のファッショ化期限を決めている。この直木の態度と犬養健の態度との間には何処やら共通の一応の悧口さと基礎的な愚さとがある。
 犬養健も『白樺』へ小説を書いていた時は、人道主義的作家であった。ところが大人になるにつれて人道主義のヤワイ[#「ヤワイ」に傍点](柔い)ことが判って来た。中途半端な人道主義はイザと云う時、役に立たないと云うことを知ったところは犬養健の部分的な賢さだが、人道主義を清算して親父の秘書となって政友会に納まった所に、彼の決定的な階級性の暴露と見透しのきかないブルジョア・イデオロギーの具体化とがある。直木も似ている。右や左に気兼ねをして、然もどんな実践力も示さない未組織インテリの態度に歯かみ[#「かみ」に傍点]をした所まではいいが、ブルジョア才人は才に堕して、彼の「青春行状記」に現われた直木的科学万能論と共に、六方を踏みながらファッショの陣営へ乗り込んだ。
「俺は何んにでもなってやる」と云いながら決してコムミュニストにならずファッシストになったところに実に津々たる興味がある。何んにでもなれるのではない、ファッシストにしかなれないのだ。然も一種の世間師だから期限付のファッシストを宣言したところ思わず人を哄笑させる。

          二

 直木三十五の宣言を読んだ時、自分は一つの昔噺を想い出した。
 ある恐ろしい山道で一人の百姓が天狗に出遭った。天狗は既に烏天狗の域を脱して凄い赤鼻と、炬火《たいまつ》のような眼をもった大天狗だ。天狗は百姓を見て云った。
「ヤイ虫ケラ[#「ケラ」に傍点]。俺に遭ったのは百年目だ。サア喰ってやるから覚悟しろ」
 百姓は浅黄股引姿でブルブル震えながら云った。
「アアこれはこれは天狗様。話に聞いた天狗と云うのは、あなたのことでございましたか。昔から天狗に遭えば生身を八ツ裂にされて喰われるということは聞いておりました。この山中で逃れる術もありますまい。もう覚悟は決めました。然しこんな哀れな百姓にも一期の願いというものはございます。それを聞いては下さいますまいか」
 天狗は鷹揚に「なんだ、早く云え」と云った。
「話では、天狗は変通自在のものだと云います。私もどうせ喰われるからには、どうか一目あなたがほんとの大天狗かどうかを、見て死にたいと思います」
 天狗はカラカラと笑って「雑作もないことだ。註文を出せ。どんなものにでもなってやる」と云った。
 そこで百姓は腰をかがめて、願ったことは、
「この山のどの杉の木より大きな杉になって見せて下さい」
 天狗は忽ち数丈の杉の大木となって、百姓の前に聳え立った。百姓はその天狗の杉の幹を手で打ち叩き、打ち叩き感嘆した。
「ああ、なんと素晴らしいことじゃ。こんな見事な杉の木を見て死ねるというのは有難い」
 天狗の杉は満足気に云った。
「どうだ、もういいか」
 百姓は天狗に頼んで、その次にはとても、とても大きな石になって見せてもらった。
 最後に百姓は天狗に云った。「これで私も日頃から見たいと思っていた大きなものという大きなものはお蔭で見られました。せめてこの上のお願いは、あなたがどの位小さいものになれるかということです。一つ罌粟《けし》の実になって、私の掌に乗ってもらえたら思い残すところはありません」
 天狗は馬鹿にしきった顔で、
「ヨシ来た。俺は何んにでもなってやる」
と小ッちゃい罌粟粒になって百姓の掌に乗った。そこで百姓は自分が人間であったことを喜びながら、その罌粟粒を口に入れ、歯でよくよく噛んでこなして、翌日、糞にしてしまった。
 この話を直木三十五は、いつか聞いたことはなかったのだろうか。

          三

 そのほかにも、ブルジョア作家のファッショ化の一形式として、一見、自由主義的な、或は復古趣味的な作品を書くことになって、ハッキリとファッショへの途を辿っている一群の人々がある。例えば牧野信一の「ゼーロン」川端康成の或る作品などは表面個人主義的な現実からの逃避を示しながら、現在の火華の出るような階級対立の現実から自身、眼を外らし、同時に読者をも科学的な世界観から切り離してくる点において完全にファッシズムの一つの支柱としての役割を持っている。群司次郎正ははっきりと自身のペンが軍事御用ペンであることを昨今は証明しているし『文戦』の里村欣三が『改造』の特派員となって軍事記者を勤め「坂本少尉武勇伝」に就いて、どんな階級的批判をも加えず、書立てているのも社民・労農大衆党と等しく、民主主義者と云うものはブルジョアの使傭人であることをなによりも雄弁に示している。これ等の実例でも明かのように、文化芸術に於けるファッシズムは決して或る限界線の向う側にだけ一纏めに固まっていて、その線のこっち側は綺麗だというものではない。一冊の雑誌を取ってみても、一枚の新聞の中にも、或は喫茶店でされる会話の中にも、ファッシズムの浸透とそれに抗して打ち壊《くだ》こうとする大衆の意志は対立して盛り込まれている。
 芸術上、ファッシズムに対する闘争というのは、従って極めて日常的に、細部に亙ってされなければならぬものであり、その闘争はただプロレタリア文学の正当な発展によってだけ行われ得る。それは世界のプロレタリア・ジャーナリズムの確立ということだ。日本プロレタリア文化連盟の出版所はこの意味から重大な階級的任務を持っている。
 プロレタリア各文化団体は、銘々の独特な分野で、最もプロレタリア的な文化戦術を学び取ろうとしている。最も正しい意味での大衆的な文化活動を始めている。然し公平に見て、例えば作家同盟のファッシズムに対する闘争は、やや立遅れの気味だ。ファッシズムに対する芸術的闘争としての作品は今月、徳永が「ファッシズム」と云う題で小説を発表している以外目ぼしいものは今日まで現われなかった。ファシストはこの一部の現象を見て「フン、どんなものだ」と思っているかもしれない。
 然し昨今の作家同盟の活動が急速なテンポで闘争的な大衆の刻下の生活を反映する文化的要求をとりあげていることは、サークル活動、文学新聞の発刊などで明かだ。
 我々は、我々自身の立遅れや、戦術上の未熟を恐れるところなく承認しよう。何故なら我々の場合一つの不備な点を承認するということは既にその不備な点を克服しているということ以外ではない。
 ブルジョア経済機構が、何んとしても取り除けない矛盾を内部に持っているために、ブルジョア文化は螺旋状に低下する許りだ。
 誤謬を誤謬として認識し得ないブルジョア・イデオロギーに対してプロレタリアの世界観はブルジョア・イデオロギーに科学的な解剖と批判とを、厳密な自己批判と共になし得るところに、正しい弁証法的な基礎を持っている。
 ファッシズムに対し、如何に勝ち、プロレタリア文化を建設するかということが、我々に課せられた任務だ。[#地付き]〔一九三二年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「時事新報」
   1932(昭和7)年1月28〜30日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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