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あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)
宮本百合子

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《》:ルビ
(例)空白《ブランク》

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(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]
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 この集には「冬を越す蕾」につづいて一九三七年(昭和十二年)から一九四一年(昭和十六年)のはじめまでに執筆された文芸評論があつめられている。しかし、このまる三年間には、一ヵ年と四五ヵ月にわたる空白《ブランク》時代がはさまっている。一九三八年(昭和十三年)一月から翌る年のなかごろまで、作家では中野重治と宮本百合子が作品発表を禁じられたからであった。
 また一九四一年(昭和十六年)にはいってからは、ほんの断片的な執筆しかなくて、それも前半期以後は全く途絶えてしまっているのは、一九四一年の一月から太平洋戦争を準備していた権力によってはげしい言論抑圧が進行し、宮本百合子の書いたものは、批判的であり、非協力的であるとして発表することが禁止されたからであった。一九四一年一月からはじまった第二回の執筆禁止は、一九四五年八月十五日、日本の侵略的な天皇制の軍事権力が無条件降伏をするまで、五年の間つづいた。
 中断されたこの時期に、評論集としては、『昼夜随筆』(一九三七年)『明日への精神』(一九三九年)『文学の進路』(一九四〇年一月)などが出版されている。『文学の進路』のほかの二冊の評論集にも、文学についてのものがいくらかずつ収められていた。
 この選集第十一巻には、四十二篇の文芸評論があつめられているが、特徴とするところは、これらの四十二篇のうち、二十七篇が、はじめてここに単行本としてまとめられたということである。久しい間、新聞や雑誌からの切りぬきのまま紙ばさみの間に保存されていたものが、はじめて本として生れ出ることとなった。
 この評論集に書かれた内容、書かれざる内容をもたらしている八年の歳月は、プロレタリア文学運動が挫かれてのちの日本現代文学が、戦争の拡大と強行の政策に押しまくられて、爪先さがりにとめどもなく、ファシズムへの屈従に追いこまれて行った時代であった。歴史とともに前進する批判精神を失って沈滞した文化・文学の上に、さも何かの新しい発展的理論であるかのように精神総動員的な全体主義文化論が提唱されて来ていた。文学は、当時の軍人、官吏、実業家の中心問題をその中心課題とすべきだという「大人の文学論」(林房雄)。客観的には、批判の精神を否定して、「知らしむべからず、よらしむべし」の全体主義文化政策に知識人が屈従するための合理化となった「文化平衡論」(谷川徹三)。「文学の非力」(高見順)という悲しい諦めの心、或は、当時青野季吉によって鼓舞的に云われていた一つの理論「こんにちプロレタリア作家は、プロレタリア文学の根づよさに安んじて闊達自在の活動をする自信をもつべきである」という考えかたなどについて、作者は、ひとつ、ひとつ、そこにひそめられているファシズム文化政策への追随の危険をえぐり出そうとしている。
 日本民族文化の優位性を誇張し、妄想する超国家主義の考えかたから、真の民族生活の存在のありかたをはっきり区別しようとして、横光利一をはじめ、亀井勝一郎、保田与重郎、中河与一等の「日本的なもの」へのたたかいを行っている。
 一九三三年ナチスが政権をとってのち、フランスを中心としてヨーロッパ、アメリカには反ファシズム文化擁護の大運動がおこっていた。
 一九三四年八月十七日から半月の間モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]で「五十二の民族、五十二の言葉、五十二の文学」を一堂にあつめて第一回全ソヴェト同盟作家大会が行われた。そのとき、フランスからロマン・ロラン、バルビュス、マルローその他の作家が招待された。招待された作家たちの全部が出席することは出来なかったらしいけれども、この大会が与えた文化の守りについての深い感動と認識にたって、翌る年の一九三五年六月にパリで第一回文化擁護国際作家大会がひらかれた。この大会には、ドイツ、イタリア、日本をのぞいて、中国その他各国から代表的な進歩的作家が集った。そして「文化遺産」「社会における作家の役割」「個人」「ヒューマニズム」「民族と文化」「創作上の諸問題と思想の尊厳」「組織の問題」「文化の擁護」の諸課題について討論されたのであった。
 第二回の文化擁護国際作家大会は、一九三七年十月、内乱のスペインに開かれた。この大会は、フランコのファシズム政権に反対してたたかっているスペインの共和政府の所在地バレンシアに第一日の集会をひらき、のちマドリッド、バルセロナと移って、十日間つづいた。
 国際ペンクラブは第十三回大会をバルセロナに(一九三五年五月)第十四回大会をブェノスアイレスに(一九三六年)第十五回大会をパリ(一九三七年)で開き、ますますはっきり世界の文学者がファシズムに反対して、ヒューマニズムと平和と文化の守りのためにたたかおうとする意志を明らかにして来ていた。
 ナチスから追われて国外に亡命したトーマス・マンの全家族、フォイヒトワンガー、ルドリヒ・レーン、エルンスト・トルラーなどは、それぞれ国外で反ファシズムと世界文化擁護のための活動をしていた。(「国際反ファシズム文化運動」フランス篇―新村猛、ドイツ篇―和田洋一)
 けれども日本の一九三七年はメーデーを正式に禁止し、蘆溝橋事件をきっかけに中国への侵略戦争が拡大されつつあった。日独伊防共協定が調印されて、国民精神総動員中央連盟が結成された。ブェノスアイレスの第十四回国際ペンクラブ大会へ出席した島崎藤村が、この大会の世界ファシズムに反対する決議や世界平和と文化を守る決議に当惑して、日本の文学者として何一つ責任ある発言をさけてかえってきたことは、当時の日本の状態をあからさまに語っている。こういう有様であったから小松清が、第一回文化擁護国際作家大会の議事録を翻訳紹介して日本にも平和と文化を守る広い人民戦線運動をおこそうとしても、なんのまとまった運動にもならず、舟橋聖一、豊田三郎などの人々によって「能動精神」とか「行動主義の文学」とかが提唱されたにとどまった。
 この時代、日本の反ファシズム運動が結実しなかったのには、根本的な理由があった。それは、一九三二年以後に日本のプロレタリア文学運動がひどい弾圧をこうむってから、当時の文化人・文学者の中には文学の階級的な本質――この基礎の上にこそ現実の反ファシズム運動と平和と文化の守りはたつのであるが――この社会的良心の土台石になるところを回避する傾向が一般的に強くあった。ファシズムそのものが全く帝国主義の政治的現象であるのだから、それに対する反ファシズムの動きは自然その犠牲とされることをこばむ、より多数の人民の意志として政治的な性質をおびないわけにはゆかない。権力は日本の「能動精神者」たちを政治性・階級性にふれればすなわち治安維持法でと巧みにおびやかしたし、同時に「能動精神者」たちは、当局のそのおどかしをなにかの楯として、自分たちと旧プロレタリア文学運動に属していた人々との間に越えがたい一線があるかのように行動した。この方法は誰のためにもならなかった。というのは、当時文学者として自分ぐらいの者になっているものはいいが、まだ人の世話になって小説の修業をしているような文学青年は、ペンをすてて戦場へ赴くべきだといった室生犀星をはじめとして、能動精神をとなえた作家のすべてをひっくるめて、文学は戦争宣伝の道具に化していったからである。

 こんにち日本の文学者はにがい過去の経験によって、権力によってだまされにくい現実的な智慧をもった人々として成長してきている。世界ファシズムがふたたび擡頭していること、日本の屈従的な政府は、自身の反歴史的な権力維持のためには、人民生活を犠牲にして大木のかげに依存していることなどについて明瞭に理解してきた。一九四八年のなか頃から、国内にたかまってきている民族自立と世界平和と、ファシズムに反対する文化擁護の機運は、決して一部の人の云っているようにジャーナリズムの上の玩具ではない。こんにち、平和を支持し、ファシズムに反対する作家たちの一人一人が、その創作の現実で、新しいより社会的な創作方法にまで歩み出しているとは云えないけれども、日本の現代文学が世界の文学として生存してゆくための意味深い本質的萌芽は、すでに日本のうちに流れるこれらの世界精神の潮流とともに動いている。
 そういう今日に立ってこの集にあつめられている一九三七年から四一年までの文芸評論をよむことは、決して無駄ではないと思う。なぜなら今日(一九五〇年)またふたたび「大人の文学」を放言して、パージにかかわらず事大主義の政治的発言にまで立ち至っている林房雄の考え方は、一九三七年彼が官吏・軍人・実業家の関心事、すなわち侵略と搾取への情熱を文学の中心課題とすべきであるといった本質と、なんらちがったものでないことを知ることができる。かつて青野季吉が「プロレタリア文学の根強さの上に安んじて云々」といったことは、佐多稲子の小説「虚偽」の中に痛切な連関をもってわたしたちを再び考えさせる。日本ロマン派の亀井勝一郎、保田与重郎などが、あの時代「抽象的な情熱」として万葉王朝時代の文化の讚美をおこなった。そのことは、こんにちの亀井勝一郎のジャーナリズムでの活躍の本質と決して無縁なものではない。日本の現代文学の中になにかの推進力として価値あるものをもたらした人々は、北村透谷、二葉亭四迷、石川啄木、小林多喜二など、誰一人として「抽象的な情熱」をもって語り、それを宣伝した人はなかった。これらの人々の情熱は彼らの生きた歴史のゆるすぎりぎりのところまで具体的であり、生活的である情熱であった。現在、わたしたちに必要なのは、饒舌的な抽象的な情熱ではない。
 作者はまた、当時文学とよばれる分野に入りこんできたいかがわしい出版物について注意を喚起している。たとえば、ある作家によって『文芸』にもちこまれ、発表された勝野金政の「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]」という小説[#「小説」に傍点]について。この筆者は警視庁の特高課から手記を出版されたパンフレットの執筆者で、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]から脱出[#「脱出」に傍点]してきた見聞記と称して「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]」を発表した。また、トロツキーの「裏切られた革命」を大綜合雑誌が別冊附録としたようなジャーナリズムの気風についても見のがしていない。文学とそれらの著述の本質が全くちがうものであることを、文学者としての良心と責任とにおいて明かにしようとしている。このような事実も、今日のわたしたちのように幾種類もの「脱出記」をよまされる者にとって、なにごとかを告げる主題である。また、一九三七年にどこからその基金がでたか分らない「新日本文化の会」というものが組織されて、それはもと警保局長松本学と林房雄、中河与一等によって組織された文芸懇話会の拡大されたものであったことも記録されている。これも注目されていい。かつて保護観察所長をしていた思想検事の長谷川劉が、現在最高裁判所のメムバーであって、さきごろ、柔道家であり、漫談家、作家である石黒敬七、富田常雄などと会談して、ペン・ワン・クラブというものをつくることを提案している。名目は、腕力のあるペン・マンによって、盛り場のゴロツキを征圧しようというのであったが、このことは、今日らしい戦後風景としては笑殺されなかった。すぐ新聞に、それに対する批判があらわれた。そしてそれは当然そうあるべきことであった。一九四六年、日本の民主化が良心的に課題とされたころ、軍国主義精神の日常化された姿であるとして、講道館は閉鎖された。こんにち講道館は大々的に復活し、プロ柔道とさえなっている。ジャーナリズムは、天皇もので企画の貧困をしのいだ。
 ここに集められているすべての文芸評論を通じて、一つのことが改めて感じられる。それは、文学はもとより理論ばかりの上に開花するものではないけれども、わたしたちが今日から明日へと生活の真実と文学の良心とを発展させてゆくためには、どんなに世界歴史の進行に即する正しい認識がなければならないかということである。すべてのファシズム文化理論、精神総動員的文学論の提唱は、どれ一つとしていわゆる文学論の形をとらずにあらわれたものはなかった。そして、もっとも注目すべきことは、ファシズムへの精神総動員文学論の、どれをとってみても、その議論のどこかには、当時の文学を客観した場合に見出される欠陥、市民としての判断にうつる文学者生活の弱体な点への批判がふくまれていたことである。だから、ひとつひとつ切りはなしていわれていることだけについてみれば、みんな何かの角度で当時の狭くるしくて、職人風な「文壇」の否定であった。せまくるしい文壇文学・私小説の枠をやぶって発展したいという文学者自身の要求にそくして云われているかのようにみえるところさえあった。そのことはまた、大衆の生活と全く遊離してしまっている「文士」の生活、「文学」の内容などにいつもあきたりないでいる大衆が、もっと生活に密着した文学を、と求める声に応じてその要求をとりあげるよりヒューマニスティックな文学論のようにさえうけとられたのであった。しかし、現実は反対であった。ファシズムの文化政策はその溝をとおって作家と知識人の批判精神をふみつぶし、よらしむべし、しらしむべからずの大衆性[#「大衆性」に傍点]へ追いこんで、大衆そのものの人間性さえ抹殺するたすけにした。
 今日、中間小説が一部の作家から現代文学の正統的な発展であるかのようにいわれている。だが、わたしたちが世界史のすすみゆく現実と、日本の人民の未来とを着実にみとおして、本当に日本の文学がより多数の日本の人々のヒューマニティを語るものとなるような創作の方向をみいだそうとするとき、現実と文学の関係において、作家の人間的・社会的責任をひきぬいた風俗描写一点ばりの中間小説なるものを果して歴史にたえる文学の創作方法として見ることが可能であろうか。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
※「宮本百合子選集 第十一巻」は発行されなかった。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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